2024/09/02

「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」のスライドと予行演習動画の公開

 

8/30(金)の19:30-21:30にSomatics and SEL研究会主催の公開オンライン研究会で50分の講演をしました。その後の約1時間はすべて質疑応答に使うという贅沢な会でした。事務局と参加者の皆様に改めて感謝いたします。

私の講演タイトルは「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」でした。一般の方々はしばしば「外国語なんて、現地で暮らせばだれでも身につけることができるよ」と言います。それを聞いた言語教育関係者は、自分の存在意義を疑われたと怖れて動揺しながら「そうはいっても、教室と現地は違いますから」と言います。その弁明は正しいのですが、言語教育関係者の多くが行うことは、教室の学習ひいては評価の体系化であり「科学化」です。

しかし「言語学習についての安直な学問化・科学化と在野の知恵について」の記事 (https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/05/blog-post.html) でも触れたように、私は過剰な体系化や浅薄な「科学化」の方向性には賛成しません。それよりも、上の一般人の述懐の含意を丁寧に考えてゆくべきだと私は考えます。


今回の講演では、上の「現地で暮らす」こと、つまり現実世界で言語を使うことの重要な側面として、使用する言語のリスクと責任を取ることを取り上げて考察しました。その考察から、安直な科学化を施した研究が謙虚さを失った結果をかなり批判しました。この批判は、下の考察からの流れに基づいています。



「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」 (https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11)


「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」 (https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83


「柳瀬陽介「教育実践を科学的に再現可能な操作と認識することは,実践と科学の両方を損なう」(シンポジウム:外国語教育研究の再現可能性2021)(https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/09/2021_11.html)



今回の講演のスライドはここからダウンロードすることができます。(https://app.box.com/s/jvyka8gsznljxo0vbourf9murfhje2o7)。講演の予行演習動画は下から見ることができます。ご興味のある方は御覧ください。






質疑応答の中で特に私にとって勉強になったのは、「実践者の報告の中にも硬直したことば遣いで、相互理解を拒むものもあるのではないか」と「PPPのような機械的な言語操作練習にも一定の意義があるのではないか」というものです。これら2つはもっともなご指摘で、私の説明不足を補ってもらうものでした。

実践者の中にも頑なな態度で、他の実践者から学ぼうとしない人がいるというのは、残念ながら事実だと思います。そういった方は時折「◯◯さえすればよいのだ!」とご自身の実践を過剰に一般化した主張をされます。もしそういった方の実践にみるべきところがあれば、周りの人たちはその方の教条化した表現を、他の人にもわかるように具体的に言い換えて、その方の実践の価値と限界を明確にすることができるでしょう。私たちは言語教師なのですから、研究を語る際も、できるだけ丁寧にことばを使うべきです。

後者の指摘の、機械的な言語操作練習にも一定の効用があるというのも、まったくその通りです。この点は講演でもっと強調しておくべきでした。楽器の演奏やスポーツのパフォーマンスと同様、自由に "play" するためにはある程度の定型的な練習は不可欠です。

しかし、多くの授業が機械的な練習だけで終わっています。何のために機械的な繰り返しを行うのかをはっきりさせていません。ですから、一部の授業は、機械的な練習を過剰に行いそれを厳密に評価することばかりに力を注いでいます。まさに手段が目的になってしまっています。

そうではなくて、自由に、そして自分のために言語を使うために、機械的な作業を必要最小限に留めるべきと私は考えます。そして定型的作業設定に比べてはるかに困難な自由度の高い課題を適切に設定することが、そしてその課題達成のための学習者の意欲を高めることが、言語教師として大切ではないでしょうか。


ともあれ、講演の最後の方で私は「リスクと責任を取っている実践者(現場教師)の声に真剣に耳を傾けよ--たとえその意見が、学会で「正統」だとされている合理化主義者 (rationalizer) の知的枠組みに収まらなくても--」と主張しました。私としては、せっかくの学会という組織が、もっと実践者の日々の葛藤を丁寧に拾い上げることを願っています。