2025/05/28

「多様性だけが人類を救うことに、賭けている」ということばで思い出した拙稿(指定討論者発表予稿)

 

私のような人間にとって知識人に出会えることほどの喜びは他にほとんどありません。ましてその人と、たとえオンラインであっても会話をすることができるのは、かけがえのない経験です。

その意味で、私がガメ・オベールさんを知ることができたのは本当にありがたい。ガメさんは私より約20歳若く、日本語を第二言語として使っていますが、私などより、はるかにはるかに広く深く読書をしています。ガメさんの日本語表現力に驚いたことは数え切れません。また博学多識で、ヨット操舵やら飛行機操縦などで自然を経験しているので教えられることばかりです。

そのガメさんは、現在、表現活動の主力を有料版のSubstackに移しています。私は毎日のように届くガメさんの記事で、思考をいろいろ刺激してもらっています。


今朝の記事(「民主制の終焉 1」)では、以下の指摘が目につきました。


いまの自由社会が終焉に瀕しているという事態を解決するための鍵は、思考の足場や、俯瞰の角度、あるいは見過ごしていた細部にあることに気づいた、というよりも、そこに鍵がなければ、もう未来へのドアは永遠に開かないことに気づいている。

多様性だけが人類を救うことに、賭けている。


その記事で、ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)、ジャック・ランシエール(Jacques Ranciere)、ラルフ・ダーレンドルフ(Ralf Dahrendorf)という名前が出てきました。私はアガンベンは少し読んだものの、後の2名の書籍は未読です。ただ、 ジャック・ランシエールは私が指定討論者として参加したシンポジウムで言及されていたので、2冊ほど本だけ買って、恥ずかしながら積読状態になっていることを思い出しました。


そのシンポジウム(国際研究集会2025 教育における他者性 2025年2月8-9日)では、京都大学の倉石一郎先生が「日本の教育論議における〈包摂〉概念の歪みとジャック・ランシエール哲学の可能性の中心」というタイトルで講演し、2006年に全国で初めて高等学校として知的障害者を正規生として受け入れた、大阪府立松原高校の軌跡を取り上げました。

ニューカレドニア大学のファブリス・ワカリー先生は、「オセアニアの教育学におけるイシリネクン、あるいは他者性のベクトルとしての関係性」と題した講演をなさいました。フランスの学校が持つ、専門的かつ分割されたアプローチは、自然環境と人間の環境との間につながりを構築することで意味を見出すことに慣れたカナックやオセアニアの生徒にとっては、障害となることを含めて、その解決の糸口としてドレウ語で「イシリネクン」と呼ばれる「関係の教育法」をご紹介なさいました。豊橋技術科学大学の岩内章太郎先生は、「普遍性の外部に出現する絶対他者」という講演をなさいました。

以下にコピーしたのは、その時の私の指定討論者としての発言です(日仏同時通訳のある学会だったので予稿を提出していました)。まだトランプ関税や民主主義の危機などが大騒ぎになる前でしたが、それでもアメリカをはじめとした「国民国家」はこれからどうなるのだろう、国民国家と資本主義(新自由主義)の合体権力が、新帝国主義に傾斜するなら、その時個々人はその体制にヒビを入れるために何ができるのだろうと予稿を書きながら考えていた時の空気感はなぜか今でも覚えています。

タイトルもつけていない指定討論者発言予稿ですが、ここに掲載しておきます。



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 私が今回の3名の発表を通して考えさせられたのは、「19世紀・20世紀の西洋近代化を経た21世紀の国民国家は、これからどうなるのか」という問いである。

 国民国家は国境や国籍、言語、文化、歴史、価値などを明確に設定しようとする。その領域内で国民国家が有する法的権力は強力である。19世紀に台頭した諸国民国家は、20世紀にその力をさらに強化してきた。しかし冷戦の終結で「歴史の終わり」を見たと思うまもなく、「歴史の再開」を私たちは目にしている。今日、新自由主義と新帝国主義が世界を再編する状況を、日々肌で感じている。

 グローバリゼーションは国境をまたぐ経済活動だけでなく、人や文化の流れをも加速させている。しかし全世界的に格差も拡大し、多文化主義やリベラリズムが退潮傾向を示している。同時に、金融資本とテクノロジー資本が融合する巨大な力が、新自由主義に憤りを抱く人々(たとえばトランプ支持層)の思いと奇妙に結びつき、例えばアメリカという国民国家が今後どのように動くかも予想がつきがたい。

 こうした状況の中で、21世紀の諸国民国家はいかに生き残り、法的権力をどのように行使していくのか。その中で教育はどのように位置づけられ、どのように機能しうるのか。今回はこの問題意識を共有しながら、3名の先生方の発表に対して、以下のような問いを立てたい。


【倉石先生への質問】

 倉石先生の発表を聞き、包摂と排除という概念について、「誰が・何が、包摂・排除を決めるのか」という点を考えた。包摂・排除「される」側の問題だけでなく、包摂・排除を「行う」主体に目を向けることが重要ではないか。その視点からは、少なくとも二種類の包摂・排除が想定されるように思う。

1. 法による包摂・排除

 たとえば国民国家を典型とするように、明確な境界(国境や国籍)と立法・行政制度をもつ組織が制定する法によって生じる包摂・排除である。移民政策などが典型例として挙げられるだろう。

2. コミュニケーションによる包摂・排除

 もう一つは、ルーマンの議論を念頭に置きつつ、社会をコミュニケーションの総体としてとらえたときに生じる包摂・排除である。社会は究極的には「世界社会」すなわちグローバル社会しかないとされながらも、多様に分化していくなかで、社会の一部における差別やいじめなど、コミュニケーションの作用によって生起する包摂・排除が考えられる。

 倉石先生が示した「政治」の定義──「話す存在として数え上げられる権利をもたない人々が、その権利をもつ人々の中に入り込み、新たな共同体を作ること」──には深く共感する。

そこで質問である。松原高校での実践は、コミュニケーション(あるいは社会)を通じて国民国家の法秩序を撹乱し、同時に再生させる積極的な事例とみなしてよいか。また、コミュニケーションには非言語なものもある限り、包摂と排除の境界線はこれからも更に更新され続けると考えて差し支えないか。私は松原高校の例に希望を見ているのでこのような問いを立てた。


【ワカリー先生への質問】

 ワカリー先生は、「関係性の文化」と呼ばれるものが、国民国家的な管理・中央集権化とは大きく異なる価値観や文化を育む可能性について論じたと理解している。そこでは、個人や集団間の協力の原則、非公式な方略、個人と集団の団結という道徳的価値、網状空間(ネットワーク)におけるつながり、そして個人を一つのエコシステムとして考えるなど、多様な要素が組み合わさった文化が形成されると考えられる。

 さらに、ワカリー先生が提起した「学び」は、生活環境・学習者・芸術が渾然一体となり、創造につながるものだと理解した。これは、標準化され厳密に測定化されるような中央集権型の教育とは対照的なアプローチであると感じる。私自身も実践者として、こうした学びのあり方に深く共感する。

 そこで質問する。ワカリー先生がいう関係性の文化に基づく教育は、現在の新自由主義や新帝国主義が席巻する「世界帝国の中心部」に対して、どのような影響を与えうると考えるか。周縁に位置するとみなされがちな地域や文化から、中心に変化をもたらすことは可能なのだろうか。


【岩内先生への質問】

 最後に岩内先生にうかがいたいのは、レヴィナスが「他者」を語る際に使用する「無限」という用語に関してである。岩内先生の発表では、プラトンのイデア論と比較したうえでフッサールの考え方の優位性が示され、私自身それに大いに納得した。しかし、レヴィナスの「無限」という言葉には個人的にやや違和感がある。また、先生自身が使用する「絶対他者」という表現に含まれる「絶対」という語にも、同様の感覚を覚えている。

 もちろん、レヴィナスがホロコーストの惨禍を念頭に置いていた可能性を考えれば、「無限」が出てくる背景として、究極的な経験が想定されているのかもしれない。しかし私たちは、レヴィナスの内面については推測するしかない立場にある。そこでより重要になるのは、岩内先生自身がどのような経験を想定して「絶対他者」という言葉を使うのかという点である。私には、「無限」や「絶対」といったことばは、ホロコーストのような極限体験が前提となってこそ、初めて切実に発せられる表現のようにも思われる。

 教育の文脈でレヴィナスの「無限」や「絶対他者」といった概念を用いることは有益だろうか。もし有益だとすれば、具体的にはどのような事例において「無限」や「絶対他者」という言葉が相応しいのか、ご意見をうかがいたい。


ChatGPT登場半年後に私が考えていたこと:2023年『英語教育増刊号』(大修館書店)の原稿を転載

以下の原稿は、私が2023年の5月に執筆し、その年の夏の『英語教育増刊号』(大修館書店)に掲載していただいた「ChatGPTは孫悟空」という記事です。編集部の許可を得て、ここに転載します(ただし脚注は省略)。 記事の意図は、ChatGPTが登場して日が浅い頃でしたので、まずは比喩...