2024/05/23

言語学習についての安直な学問化・科学化と在野の知恵について

 

私は数ヶ月前に、James F. ガメ・オベールさんのX(旧Twitter) (@gamayauber01) を知って、日々いろいろ教えられている。ガメさんのことについては、この記事の末尾の追記を読んでほしいが、先日のこのツイートにもいろいろ思考を触発された。





このツイートを読んで私のXとFacebookに書いたのが以下の文章。備忘録としてこのブログにも掲載しておきます。

新しい言語を学ぶことも、無数の要因が複雑に絡み合っている。だから言語獲得は、無意識をうまく使いながら自分の心身で習熟するしかない。そもそも言語を学ぶ環境・動機・目的・資質なども個々人で異なる。それなのに、学びの無意識的・個性的な一人称的経験を排除して、三人称的視点から簡単に計測できる少数の変数だけを取り上げて「学問化・科学化」しようとしているのが、日本の「英語教育学」の主流。

私は学界では異端だけど(苦笑)、本来なら学界の主流が浅薄な「学問化・科学化」の呪縛から解放されてほしいと願っている。でも職業生活のほとんどを、その呪縛を自らの行動規範とすることに費やしてきた研究者が呪縛から解放されるのは困難。ゆるやかな世代交代しかないとも思うが、研究者はしばしば学生を自分の型にはめようとするから、世代交代についても楽観はできない。

新しい言語を学ぶことを促進しようとするなら、「学問化・科学化」よりも、社会的環境を整備することの方が大切。だからその前準備として私は英語ユーザー・学習者にインタビューをしている(https://www.i-arrc.k.kyoto-u.ac.jp/english/interviews_jp)。職業生活があと5年以下になった私としては研究業績扱いされないインタビューや、実際の言語使用環境整備や、学界では小馬鹿にされる実践報告の方に力を注ぎたい。

あるいは学習者や教師者が当事者として自分たちの試みを振り返り、それをできるだけ言語化する「当事者研究」も推進するべきだと考えている (
https://doi.org/10.15027/50180
。だが、この場合の「言語化」は「数値化」よりも困難だろう。独りよがりでないことばで、自らの複合的な経験を表現するには、自由な精神と自分と言語に対する鋭敏な感性が必要。


追記1 James F. ガメ・オベールさんについて

James F. ガメ・オベールさんについてまず驚いたのが、なぜ日本語が外国語なのにこれだけ豊かな日本語表現ができるのかということ。まもなくわかったことは、ガメさんは私なんかよりはるかに日本語の古典作品を読んでいること。もうこの時点で言語教師としての私は圧倒される。さらにガメさん(母語は英語)は数カ国語の言語圏でコミュニケーションをしているから視野が多角的。特に歴史や社会に対する洞察は深い。日本語とわずかばかりの英語の視野しかない私はここでも謙虚にひざまずくしかない。さらに医学・数学なども学んだそうで、その素養から出ることばには私は自らの蒙を啓かれる思い。

そんなガメさんが日本語でいろいろな文章を紡いでくれるのは、日本語圏の住人として本当にありがたい。(別の言い方をするなら、ガメさんのような人が外国語圏からどんどん参入してくる英語圏の力は強力だと思わざるをえない。)


X:James F. ガメ・オベール (@gamayauber01)

ブログ:James F. の日本語ノート



ガメさんは長い間、日本語で執筆しているが、最近、私のような新しいファンが増えたそう。以下はガメさんが少し前にそんな新しい読者のために選んでくれたブログ記事一覧。ご興味のある方はぜひお読みください。


日本人と民主主義 その4

https://james1983.com/2023/05/24/j-democracy4/

移動性高気圧

https://james1983.com/2021/03/26/rieti/

Sienaの禿げ頭

https://james1983.com/2021/03/27/siena/

狂泉

https://james1983.com/2023/08/18/happy-together/

日本男児の考察

https://james1983.com/2021/04/08/japanese-men/

勇者大庭亀夫はかく語りき

https://james1983.com/2021/08/19/gameover/

Haters

https://james1983.com/2021/03/15/haters/

メリークリスマス! あるいは、微小な光について

https://james1983.com/2022/12/22/christmas/

カレーライス

https://james1983.com/2023/07/21/curry/

彗星_ある艦爆パイロットの戦い

https://james1983.com/2021/03/01/judy/

「日本のいちばん長い日」を観た



追記 2 ナシーム・タレブ氏および在野の知恵について


言語は、自らの身を捧げて学んでみて初めて身につくが、そのことは、言語習得に限らず、投資も同じ。

その点、 ナシーム・タレブ(Nassim Taleb) が述べることは、言語教育や言語教育研究について本質的に考えることを助けてくれる。


『身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』

Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Life


上の本についても「お勉強ノート」を作ろうと思いながら、毎日の仕事に追われてそれができていない。


それでも、タレブ氏の下の本で得られる知恵の一部は、柳瀬陽介 (2020) 「逆境を活かす新生力( 創造的レジリエンス) は授業 で培える ― 身体表現 からの 偶発的 コミュニケーション―」で多少は扱うことができた。でもタレブ氏についてはもっときちんと勉強したい。


『反脆弱性[上]――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』

『反脆弱性[下]――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』

Antifragile: Things that Gain from Disorder


正直に言うと、私は学会言説よりも、ガメ氏やタレブ氏などの在野の知識人のことばに学ぶことの方が多い。

言語教育なんて、厳密な科学化は無理だと私は考える。

私は科学という営みに敬意を払うがゆえに、科学的な装いを安直に纏うような論考には共感できない。

言語教育界は、もっと自他の経験と健全な常識に基づく、地に足のついたことばで論考を進めていくべきだと私は考える。

表面的な数字ばかりを尊ぶ言語教育研究者は、自ら言語の潜在的な力を信じていないのではないか。



 追記3 補筆

私は自らは数学も自然科学もできませんが、大学生の時にリチャード・ファインマンの自伝を読んで以来、数学と自然科学への敬意は失ったことがありません。あの本を読んで、数学と理科の勉強を早々と諦めた高校時代の自分を悔やみました。現在の大学に勤務してからは、実際の自然科学研究者や大学院生に会うことが増えたので、私の敬意はますます深まっています。

私が批判しているのは、科学の装いを取ろうとしているだけにしか見えない安直な実験研究などです(特に教授法比較実験)。それらの研究は、やっていることは表層的で非常に限定的--というより恣意的--なのですが、やたらと手続きばかりにこだわります。その手法へのこだわりによって自らの知見を不当に普遍化し権威と権力をもたせようとしているように私には見えます(そんなこだわりもない、いいかげんな研究も多くありますが)。

もちろん、人があまりにも独りよがりにならないために、科学の基本的な作法を学ぶことは重要です。しかし独善を避けるための作法は人文系にもあります。私は言語教育界はもっと人文知の力を再評価し実践すべきだと考えています。

もっとも私が批判するような「主流」の研究は、もはや言語教育界でも少しずつ力を失いつつあるのかもしれません。私は先日、ある学会誌を久しぶりに見たら、その傾向が大きく変わっていたのでびっくりしました。

しかし、傾向が変わるにせよ、なぜ変わらざるを得ないのかを冷静に吟味しておく必要があります。さもないと次に権力を取る主流派もすぐに堕落するでしょう。

この問題については、実は以下のシンポジウムでかなり語りました。レジメも動画も掲載しているので、もしご興味があれば御覧ください。


柳瀬陽介「教育実践を科学的に再現可能な操作と認識することは,実践と科学の両方を損なう」(シンポジウム:外国語教育研究の再現可能性2021)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/09/2021_11.html



 

「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」のスライドと予行演習動画の公開

  8/30(金)の19:30-21:30にSomatics and SEL研究会主催の公開オンライン研究会で50分の講演をしました。その後の約1時間はすべて質疑応答に使うという贅沢な会でした。事務局と参加者の皆様に改めて感謝いたします。 私の講演タイトルは「言語使用におけるリス...