2025/05/29

「AI活用により英語学習者を自律的ユーザーに育てる --京都大学の学術英語ライティング授業についての省察的報告--」(英語翻訳の二次出版付き)

 この度、私の実践報告が公開されましたのでお知らせします。


柳瀬陽介 (2025) 

「AI活用により英語学習者を自律的ユーザーに育てる 

--京都大学の学術英語ライティング授業についての省察的報告--」

『京都大学国際高等教育院紀要』8, 1-27

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/294306




抄録

この実践報告は、京都大学教養・共通教育課程の「英語ライティング- リスニングA/B」の2023 年度前後期および2024 年度前期において筆者が独自に行った生成AI(ChatGPT)の活用について分析的に報告する。本実践は、AI を使わない英語力(身体化された能力)を、AI を使った能力(AI 拡張的能力)で伸ばし、両者を相互補完する統合的能力を育てて、学習者を自律的な英語ユーザーとすることを目指した。本実践の学生はAI を利用しないライティング課題とAI からのフィードバックを得て自らの英文を改訂する課題の連動で学びを段階的に深めた。学生は、授業満足度、学習成果、授業進捗速度においてかなりの肯定的評価をアンケートで回答した。今後も、教師による英語の語法と文体の指導などと学生によるAI フィードバックからの学びを充実させれば、学習者を現実世界でAI を使いこなしながら英語を執筆する自律的ユーザーとして育てることが期待できる。同時にさらにAI が発展する将来においては、英語ライティング授業も、学習者の知の探求と他者との対話への意欲という、AI が代行し得ない欲求をこれまで以上に育てる必要があるだろう。


なお、この実践報告には二次出版として英語翻訳版も付けています。


Yosuke Yanase (2025) 

Empowering English Learners to Become Autonomous Users through the Use of AI: 

A Reflective Practical Report on Academic English Writing Courses at Kyoto University

The Institute for Liberal Arts and Sciences Bulletin, Kyoto University 8, 29-57

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/294306




Abstract

This practical report provides a reflective analysis of how the author used generative AI (ChatGPT) in the English Writing-Listening A/B courses at Kyoto University during the first and second semesters of the 2023 academic year and the first semester of 2024. The special goal of the courses was to improve students’ integrated ability of English proficiency by combining their embodied ability with AI-augmented ability, aiming to empower students to become autonomous language users. Through the combined assignments of writing without using AI and then revising that writing based on AI feedback, students deepened their learning in a step-by-step manner. Survey responses indicated notably positive evaluations of course satisfaction, learning outcomes, and lesson pace. By strengthening teacher-led instruction in English usage and style, as well as the ways students engage with AI feedback, educators can foster autonomous learners who skillfully apply AI when composing English texts for real-world settings. However, as AI continues to evolve, English writing courses will need to place even greater emphasis on nurturing students’ motivation for intellectual exploration and dialogue with others--needs that AI cannot fulfill.



***


 この報告は昨年の9月末締切で書いて11月末ぐらいに査読コメントに応えた完成原稿を出したものです。今年度の授業はこの報告で述べた形と大きく変わりませんが、私自身の英語ライティング環境は大きく変わりました。これからもAIの進化と普及とともに英語授業のあり方は大きく変わるでしょう--というより、変わらざるをえません。



2025/05/28

「多様性だけが人類を救うことに、賭けている」ということばで思い出した拙稿(指定討論者発表予稿)

 

私のような人間にとって知識人に出会えることほどの喜びは他にほとんどありません。ましてその人と、たとえオンラインであっても会話をすることができるのは、かけがえのない経験です。

その意味で、私がガメ・オベールさんを知ることができたのは本当にありがたい。ガメさんは私より約20歳若く、日本語を第二言語として使っていますが、私などより、はるかにはるかに広く深く読書をしています。ガメさんの日本語表現力に驚いたことは数え切れません。また博学多識で、ヨット操舵やら飛行機操縦などで自然を経験しているので教えられることばかりです。

そのガメさんは、現在、表現活動の主力を有料版のSubstackに移しています。私は毎日のように届くガメさんの記事で、思考をいろいろ刺激してもらっています。


今朝の記事(「民主制の終焉 1」)では、以下の指摘が目につきました。


いまの自由社会が終焉に瀕しているという事態を解決するための鍵は、思考の足場や、俯瞰の角度、あるいは見過ごしていた細部にあることに気づいた、というよりも、そこに鍵がなければ、もう未来へのドアは永遠に開かないことに気づいている。

多様性だけが人類を救うことに、賭けている。


その記事で、ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)、ジャック・ランシエール(Jacques Ranciere)、ラルフ・ダーレンドルフ(Ralf Dahrendorf)という名前が出てきました。私はアガンベンは少し読んだものの、後の2名の書籍は未読です。ただ、 ジャック・ランシエールは私が指定討論者として参加したシンポジウムで言及されていたので、2冊ほど本だけ買って、恥ずかしながら積読状態になっていることを思い出しました。


そのシンポジウム(国際研究集会2025 教育における他者性 2025年2月8-9日)では、京都大学の倉石一郎先生が「日本の教育論議における〈包摂〉概念の歪みとジャック・ランシエール哲学の可能性の中心」というタイトルで講演し、2006年に全国で初めて高等学校として知的障害者を正規生として受け入れた、大阪府立松原高校の軌跡を取り上げました。

ニューカレドニア大学のファブリス・ワカリー先生は、「オセアニアの教育学におけるイシリネクン、あるいは他者性のベクトルとしての関係性」と題した講演をなさいました。フランスの学校が持つ、専門的かつ分割されたアプローチは、自然環境と人間の環境との間につながりを構築することで意味を見出すことに慣れたカナックやオセアニアの生徒にとっては、障害となることを含めて、その解決の糸口としてドレウ語で「イシリネクン」と呼ばれる「関係の教育法」をご紹介なさいました。豊橋技術科学大学の岩内章太郎先生は、「普遍性の外部に出現する絶対他者」という講演をなさいました。

以下にコピーしたのは、その時の私の指定討論者としての発言です(日仏同時通訳のある学会だったので予稿を提出していました)。まだトランプ関税や民主主義の危機などが大騒ぎになる前でしたが、それでもアメリカをはじめとした「国民国家」はこれからどうなるのだろう、国民国家と資本主義(新自由主義)の合体権力が、新帝国主義に傾斜するなら、その時個々人はその体制にヒビを入れるために何ができるのだろうと予稿を書きながら考えていた時の空気感はなぜか今でも覚えています。

タイトルもつけていない指定討論者発言予稿ですが、ここに掲載しておきます。



***


 私が今回の3名の発表を通して考えさせられたのは、「19世紀・20世紀の西洋近代化を経た21世紀の国民国家は、これからどうなるのか」という問いである。

 国民国家は国境や国籍、言語、文化、歴史、価値などを明確に設定しようとする。その領域内で国民国家が有する法的権力は強力である。19世紀に台頭した諸国民国家は、20世紀にその力をさらに強化してきた。しかし冷戦の終結で「歴史の終わり」を見たと思うまもなく、「歴史の再開」を私たちは目にしている。今日、新自由主義と新帝国主義が世界を再編する状況を、日々肌で感じている。

 グローバリゼーションは国境をまたぐ経済活動だけでなく、人や文化の流れをも加速させている。しかし全世界的に格差も拡大し、多文化主義やリベラリズムが退潮傾向を示している。同時に、金融資本とテクノロジー資本が融合する巨大な力が、新自由主義に憤りを抱く人々(たとえばトランプ支持層)の思いと奇妙に結びつき、例えばアメリカという国民国家が今後どのように動くかも予想がつきがたい。

 こうした状況の中で、21世紀の諸国民国家はいかに生き残り、法的権力をどのように行使していくのか。その中で教育はどのように位置づけられ、どのように機能しうるのか。今回はこの問題意識を共有しながら、3名の先生方の発表に対して、以下のような問いを立てたい。


【倉石先生への質問】

 倉石先生の発表を聞き、包摂と排除という概念について、「誰が・何が、包摂・排除を決めるのか」という点を考えた。包摂・排除「される」側の問題だけでなく、包摂・排除を「行う」主体に目を向けることが重要ではないか。その視点からは、少なくとも二種類の包摂・排除が想定されるように思う。

1. 法による包摂・排除

 たとえば国民国家を典型とするように、明確な境界(国境や国籍)と立法・行政制度をもつ組織が制定する法によって生じる包摂・排除である。移民政策などが典型例として挙げられるだろう。

2. コミュニケーションによる包摂・排除

 もう一つは、ルーマンの議論を念頭に置きつつ、社会をコミュニケーションの総体としてとらえたときに生じる包摂・排除である。社会は究極的には「世界社会」すなわちグローバル社会しかないとされながらも、多様に分化していくなかで、社会の一部における差別やいじめなど、コミュニケーションの作用によって生起する包摂・排除が考えられる。

 倉石先生が示した「政治」の定義──「話す存在として数え上げられる権利をもたない人々が、その権利をもつ人々の中に入り込み、新たな共同体を作ること」──には深く共感する。

そこで質問である。松原高校での実践は、コミュニケーション(あるいは社会)を通じて国民国家の法秩序を撹乱し、同時に再生させる積極的な事例とみなしてよいか。また、コミュニケーションには非言語なものもある限り、包摂と排除の境界線はこれからも更に更新され続けると考えて差し支えないか。私は松原高校の例に希望を見ているのでこのような問いを立てた。


【ワカリー先生への質問】

 ワカリー先生は、「関係性の文化」と呼ばれるものが、国民国家的な管理・中央集権化とは大きく異なる価値観や文化を育む可能性について論じたと理解している。そこでは、個人や集団間の協力の原則、非公式な方略、個人と集団の団結という道徳的価値、網状空間(ネットワーク)におけるつながり、そして個人を一つのエコシステムとして考えるなど、多様な要素が組み合わさった文化が形成されると考えられる。

 さらに、ワカリー先生が提起した「学び」は、生活環境・学習者・芸術が渾然一体となり、創造につながるものだと理解した。これは、標準化され厳密に測定化されるような中央集権型の教育とは対照的なアプローチであると感じる。私自身も実践者として、こうした学びのあり方に深く共感する。

 そこで質問する。ワカリー先生がいう関係性の文化に基づく教育は、現在の新自由主義や新帝国主義が席巻する「世界帝国の中心部」に対して、どのような影響を与えうると考えるか。周縁に位置するとみなされがちな地域や文化から、中心に変化をもたらすことは可能なのだろうか。


【岩内先生への質問】

 最後に岩内先生にうかがいたいのは、レヴィナスが「他者」を語る際に使用する「無限」という用語に関してである。岩内先生の発表では、プラトンのイデア論と比較したうえでフッサールの考え方の優位性が示され、私自身それに大いに納得した。しかし、レヴィナスの「無限」という言葉には個人的にやや違和感がある。また、先生自身が使用する「絶対他者」という表現に含まれる「絶対」という語にも、同様の感覚を覚えている。

 もちろん、レヴィナスがホロコーストの惨禍を念頭に置いていた可能性を考えれば、「無限」が出てくる背景として、究極的な経験が想定されているのかもしれない。しかし私たちは、レヴィナスの内面については推測するしかない立場にある。そこでより重要になるのは、岩内先生自身がどのような経験を想定して「絶対他者」という言葉を使うのかという点である。私には、「無限」や「絶対」といったことばは、ホロコーストのような極限体験が前提となってこそ、初めて切実に発せられる表現のようにも思われる。

 教育の文脈でレヴィナスの「無限」や「絶対他者」といった概念を用いることは有益だろうか。もし有益だとすれば、具体的にはどのような事例において「無限」や「絶対他者」という言葉が相応しいのか、ご意見をうかがいたい。


2025/05/18

国立情報学研究所・教育機関DXシンポの第2回目の登壇の動画とスライド、およびその後の社会の変化を踏まえての長期的視野の必要性

 2024年10月3日(水)に国立情報学研究所の教育機関DXシンポジウムに2回目の登壇をさせていただきました(ここ半年あまり本当に忙しくてブログの整理もままなりませんでした)。


AIの言語生成と人間の言語使用の違いを重視するAI活用:

大学英語ライティング授業の教育学的考察


概要ページ

https://edx.nii.ac.jp/lecture/20241003-03

資料ダウンロードページ

https://www.nii.ac.jp/event/upload/202401003-3_yanase.pdf

発表動画





この発表では、1回目の登壇 以降の実践を受け、「AIを英文完成のためでなく、英語を使いこなす人間の育成のために使う」方向性を示しました。

今、AIの普及を受け、多くの生徒や教師が英語ライティングを学ぶ・教える意義を失いかけています。「AIに任せればいいじゃない」というのがその理由です。こういった状況で、必要なのは、そもそもライティングとはどのような営みであり、それはAIを活用することによりどのように発展するべきかを定めることかと思います。

私の上での主張は、英語ライティングはその作品を完成した時から活動が始まるということです。自分が書いた内容について、さまざまに語りえるからこそ、英語で書く意味も出てくるということです。そういった力を育てるには、英語ライティング教育の枠組みは変わらなければならないと考えています(自らの実践では定められた標準シラバスのため思うように実行できないのがはがゆいところですが)。

先日たまたま目にしたX/Twitterの投稿は、東京大学大学院工学研究科の教員の方が同研究科の授業のほとんどすべてが英語で行われる方針について、自らの思いを書いたものでした。

その中で次のような箇所が目を引きました。

海外に出て専門性の必要な生活をしてみるとわかりますが、語学と言うのは単純に自動翻訳ができれば済むものでは決してなく、人と人とのマルチモーダルなコミュニケーションの総体なので、いろいろな場面で即応できる総合的な能力及び感覚を持っていないと、国際社会で相手にすらされなくなってしまいます。

英語ライティング教育は、他の技能教育と統合されるべきでしょう。ですが、私としても定められた標準シラバスもあり、その方向になかなか動けないのが悔しいところです。


また、上の東大の方針については、「明治以来せっかく日本語で工学を始めとした諸学を学べるようになったのに、その財産を捨てるとは何事だ」といった反応が来るでしょう。上の先生も、そういった議論を十分に自覚しています。

これ[=大学院の授業を英語にする方針]に関しては、僕が決定に関わっているわけではないので何も言う立場にはありませんが、もちろん日本語話者の学生に不利になる可能性や、そもそも国の財源で運営される大学が他国語で授業をやるのはいかがなものかといった疑義に対しても十分に議論をされた結果の強い判断なのだと思いますし、僕自身、国際的なアカデミアや実務・開発の環境に身を置く中で、今後日本語に閉じた授業や研究環境にこもっていては、大学としても、卒業生の価値としても、引いては日本の産業競争力や国力としても、確実にジリ貧になるのは目に見えている(というかもう既になっている)中で、必要不可欠な、もしくは少し遅しすぎるくらいの動きなんだと思います。

私自身も、日本語への翻訳の重要性を認めます。それは国家レベルではとても重要なことです。しかし、多くの科学者やビジネスパーソンあるいは政治家・行政官が、英語をマルチモーダルに使いこなせなければ、日本の国力が危ういとも思っています。この論点については、下の発表では、AIを使って、日本語人の日本語力と英語力をいわば「共進化」させる道筋を描きました。

第15回産業日本語研究会・シンポジウム(テーマ:生成AIの普及で日本語のコミュニケーションがどうかわるのか)の予行演習動画と使用したスライドの公開


先日(2025年5月12日)、東京都は都立学校(小中高)の14万人に生成AIを使わせる方針を発表しました。これだけの大量の若い人たちが、学習にAIを頻繁に使い始めれば、学校教育の姿は変わらざるをえないでしょう。英語においては特にライティングとスピーキング指導の変革は必至です。

そんな大変動の中で、長期的な視野をもって賢明な教育方針を打ち立てることが今の教育関係者の課題だと思います。

2025/05/15

書評『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』(大修館書店『英語教育』2024年9月号掲載原稿)の公開


以下の書評は、大修館書店の『英語教育』2024年9月号74ページに掲載させていただいた原稿です。ガート・ビースタ(著)、 亘理陽一、神吉宇一、川村 拓也、 南浦涼介(訳) (2024) 『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』 (明石書店)を、英語教育界がどう読み解けるかという視点から書きました。

編集部の許可を得てここに公開します(このブログでは、その雑誌には掲載しなかった原稿を以前公開しておりました。下記参照)。 

この本が出版してしばらく経ちますが、出版当時の衝撃が薄れ、英語教育界がまた何もなかったかのように、この本などが提起している問題をうやむやにしていることを私は恐れます。



英語教育研究の再生のための必読書


 教育学は英語教育学にとっての最重要隣接分野の1つである。だが、その理解は乏しい。そんな教育学の世界的研究者の入門書的な著書が翻訳出版された。本書は、研究者と実践者が共に学び合える教育研究の可能性を示している。そんな本書を英語教育界はどう読み解くのだろうか。

 日本の英語教育研究者の多くは、世界的流行の影響を受けている―研究者は方法論の厳密さとエビデンス獲得を目指す。自然科学こそが研究の究極のあり方であり、厳密な測定を最重要視する。主観や価値は排除する。研究者の力量は国際的学術誌論文掲載で決まる。教育行政と教室実践を正当化する権威と権力をもつのは論文である―

 だがそのような潮流の中でいくつかの問いが忘れ去られる。「私たちは私たちが大切だとしているものを測っているのか、それとも測っているものを大切にしているのか」。「因果関係で説明できるのは、教育実践のわずか一部にすぎないのではないのか」。「そもそも現在の論文の多くは、研究のための研究ではないのか」。

 日本の英語教育学界は本書を熟読し研究の再生を図れるのか。それともこの教育学的見識を「それってあなたの感想ですよね」とばかりに軽視するのか。英語教育学者と日本語教育学者(そして言語教育に造詣の深い編集者)の共同作業で、高品質の翻訳書として刊行された本書は、この国でどう受容されるのだろうか。



関連記事

柳瀬陽介 (2025) 「実践者論文の意義と原則 ―RCTに基づく科学論文との対比から― 」『KELESジャーナル』第10号 pp. 29-32

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「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」のスライドと予行演習動画の公開

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/09/blog-post.html

ガート・ビースタ(著)、田中智志・小玉重夫(監訳) (2021)『教育の美しい危うさ』東京大学出版会 /Gert Biesta (2013) The Beautiful Risk of Education. Routledge

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/08/2021-gert-biesta-2013-beautiful-risk-of.html

ガート・ビースタ(著)、 亘理陽一、神吉宇一、川村 拓也、 南浦涼介(訳) (2024) 『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』 明石書店

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/08/2024.html

言語学習についての安直な学問化・科学化と在野の知恵について

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柳瀬陽介「教育実践を科学的に再現可能な操作と認識することは,実践と科学の両方を損なう」(シンポジウム:外国語教育研究の再現可能性2021)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/09/2021_11.html





2025/05/14

「英学2.0を支援する英語教育研究」の発表予行演習動画とスライド

 

2025年3月15日に「英語コーパス学会ESP研究会」で、「英学2.0を支援する英語教育研究--英語とAIの相乗効果的覇権の時代における考察」という講演をしました。ここではその予行演習動画と当日に配布したスライド資料を公開します。





この講演では日本の近代史を簡単に振り返りながら、AI時代の英語教育について考察しています。近代史からの考察は、第55回中国地区英語教育学会・島根研究大会・特別講演(2024年6月22日)と第60回片平会夏期研究会・特別講演(2024年8月24日)でも行いました(いずれもブログでは未公開)。本日公開する資料はこれら2つの講演資料と重なる部分を多く含んでいます。

本講演の要旨は以下の通りです。
  • 19世紀後半の帝国主義的拡張期に、日本は西洋学問・技術を導入する手段として「英学」を採択し、近代国家としての基盤を形成した。
  • その後、英学は「英語教育」へと名実ともに移行した。
  • だが、21世紀の新帝国主義・新自由主義・AIと英語の相乗効果的覇権を受けて、英語を通じての知的活動(「英学2.0」)の重要性が高まっている。
  • 本講演では、これらの背景をふまえて英語教育研究のあり方について考察する。

近代史を振り返ったと言ったものの、私は歴史については理解が浅いので識者からのご批判を歓迎します。



追記
信頼おける英語教育学史叙述については以下の論文をご参照ください。

江利川春雄 (2022)
「日本における英語教育学と英語教育研究組織の発展史」
『中部地区英語教育学会紀要』51 巻 p. 258-263

2025/05/08

柳瀬陽介 (2025) 「実践者論文の意義と原則 ―RCTに基づく科学論文との対比から― 」『KELESジャーナル』第10号 pp. 29-32

 

この度、以下の論文を『KELESジャーナル』に掲載していただきました。同誌が一般公開されましたので、ここでもお知らせいたします。


実践者論文の意義と原則

―RCTに基づく科学論文との対比から―

柳瀬 陽介

『KELESジャーナル』

2025 年 10 巻 p. 29-32

https://doi.org/10.18989/keles.10.0_29


これは、2024年11月3日の第61回KELESセミナー(「現場教師の実践知を生かすために学会ができること―改めて問い直す実践研究―」)での発表に基づくものです。私は指定討論者として、藤田卓郎先生(福井工業高等専門学校)と吉田達弘先生(兵庫教育大学)と討論しました。

そのシンポジウムの様子は、関西英語教育学会ニューズレター(2025年1月)に丁寧に報告されています(報告者の先生方に感謝します)。

少なくとも登壇者としてはシンポジウム開催の意義を感じましたので、『KELESジャーナル』にも文章を掲載させてくださいとお願いしました。ご承諾くださった学会の皆様、ジャーナル編集に多大な労力を割いていただいた編集委員会の皆様に厚く御礼を申し上げます。


同誌にはたくさんの興味深い論考が掲載されています。私が恣意的に選ぶとしたら、以下のような観点でこれらの記事を連続して読んでみると面白いかもしれません。


■ 時代背景を理解するために

グローバル人材育成策を問い直し、協同と共生の英語教育へ

江利川 春雄   https://doi.org/10.18989/keles.10.0_4


■ 多くの教師が素朴に願っていることを言語化するために

外国語(英語)教育と人格の形成

加賀田 哲也    https://doi.org/10.18989/keles.10.0_37


■ 英語圏・日本語圏での英語教育の実践研究の実績を知るために 

教師の実践研究を支える協働の可能性

藤田 卓郎  https://doi.org/10.18989/keles.10.0_21


■ 英語教育の実践研究がさらに一歩進むために 

KELESはPractitioner Researchをどう位置づける?

~紀要編集の経験から~

吉田 達弘   https://doi.org/10.18989/keles.10.0_25


■ 実践研究の特徴と規範を理解するために 

実践者論文の意義と原則

―RCTに基づく科学論文との対比から―

柳瀬 陽介 https://doi.org/10.18989/keles.10.0_29



ご興味があればぜひ同誌をお読みください。

ChatGPT登場半年後に私が考えていたこと:2023年『英語教育増刊号』(大修館書店)の原稿を転載

以下の原稿は、私が2023年の5月に執筆し、その年の夏の『英語教育増刊号』(大修館書店)に掲載していただいた「ChatGPTは孫悟空」という記事です。編集部の許可を得て、ここに転載します(ただし脚注は省略)。 記事の意図は、ChatGPTが登場して日が浅い頃でしたので、まずは比喩...