2024/08/01

ガート・ビースタ(著)、田中智志・小玉重夫(監訳) (2021)『教育の美しい危うさ』東京大学出版会 /Gert Biesta (2013) The Beautiful Risk of Education. Routledge


 以下は、ガート・ビースタ(著)、田中智志・小玉重夫(監訳) (2021)『教育の美しい危うさ』東京大学出版会 /Gert Biesta (2013) The Beautiful Risk of Education. Routledgeを読んで作成した私のお勉強ノートです。ノートの作成方法は、(1) 翻訳書を先に読む、(2) 翻訳書に下線を引いた箇所のみ原著を読む、(3) 原著のそれらの箇所から私なりにまとめを作成する、という方法です。はい、安直な読み方です。ごめんなさい。

 翻訳書の日本語はよく考え抜かれた明瞭なものですが、以下のまとめでは私なりの翻訳をかなり入れています。信頼できる理解を得たい場合は、訳書原著の両方をご参照ください。まとめに続く「=>」からの文章は、私の感想です。



第1章:創造性 (Creativity)


■ 教育とリスク

 教育は常にリスクを伴う (education always involves a risk) 。だが現代においては、教師は教育からリスクを取り除くことを求められている。(xii, 1ページ) 統計やデータを通じて教育を遠くから抽象的にしか捕らえない政策決定者や政治家が、リスク回避 (risk aversion) を好むからだ。

 しかし、生身の人間を扱う教師は、教育は「固定化」 (fixed) できるものではないことを痛感している--あるいは「固定化」するなら高い代償を払わなければならないこと知っているというべきだろうか。。

 教育を強く、安全で、予測可能で、リスクのない (strong, secure, predictable, and risk-free) にしようとすることは、この[教育の]現実を否定しようとすることでもある。 (p.2, 2頁)

=> 教授法の比較実験は、「エビデンス」を示すことで、教育のリスクを減らそうとしている。統計的な有意が示された教授法を行えば、いつでも・どこでも・誰でも教育が成功するといわんばかりである。しかし現場で鍛えられた教師は、教育の本質は一つ一つのクラス・一人ひとりの児童・生徒・学生の反応に応えてその時々で最適と思われる行動を起こしてゆくことだということを知っている。そういった教師は、いつでも同じ授業しかしないなら、児童・生徒・学生の学びの意欲を伸ばせないことを知っている。

 他方、管理主義的・支配的な教師は、同じ授業を粛々と行い、それで学力が伸びないなら、それは児童・生徒・学生の自己責任であると片付ける。そのような教師は、授業やカリキュラムを変えようとする動きに対しては、「その改革が成功するというエビデンスはあるのですか?エビデンスのない改革を行うわけにはいきません」としばしば述べる。


■ 強い創造と弱い創造

 キリスト教でも世俗社会でも、原因と結果という強い形而上学的用語を使って (in strong metaphysical terms -- in terms of causes and effects) 創造を考えることが多い。だが出会いと出来事という弱い実存的な用語 (in weak existential terms -- in terms of encounters and events) で創造について考えることもできる。 (p. 12, 14頁) 教育を創造と考えるなら、この2つの創造観について自覚的であるべきだ。

=> 政策決定者や「エビデンス」を作り出す研究者は、ある教授法という原因をもたらせたならば、テストの点数の上昇などといった結果が生じると信じている。これに対して児童・生徒・学生と正面から向き合う教師は、教育とは出会いであり、刻々と変化していく出来事であると考える。「原因→結果」という単純で固定的な枠組みだけで教育を捉えようなどとは決して考えない。


■ 神の創造についての2つの解釈

 聖書の詩篇に端を発しプラトンとアリストテレスの形而上学を経由した創世記の神は、無からすべてを創造する神である。だが、別の解釈では、神は大地や水や風を作り出したのではない。それらの存在は既に神と共にあり、神はそれらの存在を善きものと呼んだ (called good)というのがその解釈である。この2つ目の意味での創造は、無が存在に変わることではなく、存在が善に変わることである (not a movement from non-being to being, but from being to the good)。(p.13, 17頁)

=> 中高一貫校で宗教を教えている私の配偶者(神学部出身)によると、創世記は2つの系統の文書から構成されているということは、キリスト教神学の常識らしい。私はまったく知らなかった。


■ ヤハウエとエロヒムの違い

 創世記で神はヤハウエともエロヒムとも称されるが、これらには違いがある。ヤハウエはエデンの園での行いによって示されているように、アダムとイブに生命を与えたというよりも、生命の試練を与えている (Yahweh does not so much give Adam and Eve life as he gives them a test of life)。ヤハウエは自らが創造したアダムとイブを信頼しておらず、最終的には二人をエデンの園から追放するという形で、創造主として自分が取るリスクを最小化した。ある意味で、ヤハウエはアダムとイブを「永遠の子ども」のように扱っている。

 これに対してエロヒムは、リスクを取ることを厭わない。本当の信頼とは常に根拠なしの信頼であり (always without ground)、「見返り」 ("return") がないことを知っている。この意味で、信頼とは無条件である。エロヒムにとって生命とは無条件に贈与するもの (unconditional gift) である。(p.14, 17頁)

=> 思い切って俗っぽい言い方をするなら、ヤハウエ的な教師は、学生に課題を与えて「この課題を行えば単位をあげます。課題ができなかったら、それはあなたの責任ですから、私は知りません」と言う。課題ができない学生や課題に反抗する学生がいても「課題ができなければ単位をあげません」と繰り返すだけである。

 他方、エロヒム的な教師は、課題に苦しんだり課題を面白くないと決めつける学生に対しても、「この学生もいつかは、課題の意義がわかり、課題ができるようになるはず」という信念を、根拠やエビデンスなしに抱き続ける。そして、その時々に応じた対応をする(時には敢えて何もしないという対応を取る)。それらの対応が報われず、学生が教師に感謝の意を示さないとしても、「教師というものはそんなものだ」と思いを新たにし、次の授業においても学生を信じる。


■ エロヒム的な創造

 エロヒム的な創造とは、そこにある存在を肯定する行為 (the act of affirmation) である。その肯定により、存在に意義と意味 (significance and meaning) が与えられる。エロヒム的な創造は、原因という形而上学的説明を授けるものではない。 

 エロヒム的な創造は、教育者も創造がリスクを伴う営み (a risky business) であること、というよりも、リスクを取らなければ主体性という出来事 (the event of subjectivity) は生じないことを教えてくれる。(p.23, 30頁)

=> エロヒム的な教師は、学生ができるようになるのは、学生の内にある力が外からの働きかけをきっかけにして開花したからと考える。そしてその成長をすばらしいと認める。教師としての自分の働きかけも、無駄に終わるかもしれないことを自覚しながら、少しでも事態が改善する方向にもってゆくための試行錯誤を繰り返す。

 これに対してヤハウエ的な教師は、学生が何かできるようになったら、それは自分の授業のおかげだと考える。そういった教師の授業は、「エビデンス」やシラバスといった権威にひたすら忠実なものであり、そこからの逸脱を嫌う。学生が課題を達成できなかったら、それは正しい授業にもかかわらずできなかった学生のせいであると考える。ヤハウエ的な教師は、エビデンスがなく失敗するかもしれない新たな働きかけをするといったリスクは取らない。


■ 子育てから考える神の態度

 善い親は、自らの子どもはいつかは成長してわかってくれるだろうと望みながら、子どもが予測不可能で見通しが立たず、愚かで、ひいては破壊的ですらあることと折り合いをつけなければならない (must learn to deal with the unpredictability and the unforseeablity, the foolishness, and even the destructiveness of his children, in the hope that they will grow up and eventually come around)。(p. 15, 19頁) エロヒムの態度は、善き親の態度に似ている。

=> 以上のビースタの神学的な議論は、Caputo (2006) The Weakness of God: A theology of the events. Indiana University Pressに基づいています。このCaputoの本はいつか私も読みたいと思っています。


■ 教育における主体化

 ビースタは、教育の過程と実践は、有能化 (qualification)、社会化 (socialization)、主体化 (subjectification) という3つの領域が重なり合うところで営まれていると考えている。

 ここでの主体化とは、教育される者が客体・対象物 (object) としではなく独自の主体 (subject) --行為し責任を取ることができる主体--であると考えることである。主体化を尊重するならば、教育の過程と実践が、人間的主体性 (human subjectivity) の創発 (emergence) に貢献することを願う。

 主体化は社会化とは異なる。社会化は、教育を通じて個々人が既存の秩序と伝統の一部となることである。だが主体化は、人間の存在はそれらの既存のものでは完全には決定できないことを示している。 (p. 17, 22頁)

=> ビースタのいう教育は、下のベン図の3つの円が重なる領域であると考えられる。ある知識・技能で有能になっても、既存の社会に溶け込めなければそれは適切な教育とはいえない。社会には適応できても、知識・技能が足りなければ教育として不適格である。だが、有能で社会に適応していても、その人が一人の人間として独自の行為を選んで責任を取ることができなければ--つまりその人の主体性がなければ--、その教育は失敗である。

 もっとも一部の政治家や資本家は、優秀で従順でありながら、決して自分の意思をもたず、自分たちの指示にひたすら従う主体性のない「人材」を作りだすことを教育の使命と考えているかもしれない。





第2章 コミュニケーション (Communication) 


■ 開かれて不確定だからこそ生成的かつ創造的なコミュニケーション

 教育のほとんどの部分はコミュニケーションであるが、コミュニケーションを理解するには強いコミュニケーションではなく弱いコミュニケーションについて考えるべきである。以下、本書の一部を翻訳する。

 「デューイはコミュニケーションの弱い理解を提供してくれる。つまり、コミュニケーションは、根底的に開かれ不確定というだけでなく、生成的で創造的な過程である。デューイにとってコミュニケーションとは、意味が創られ共有される過程である。ある情報をある場所から別の場所に「安全に」に伝達するための機械的な「仲介」ではない。デューイによれば、コミュニケーションは主体の間の出会いとして生じるものであり、客体の間の交換ではない。したがってコミュニケーションは、そのような出会いに賭けられているすべてのリスクと予測不可能性と共に生じるのである。(Dewey provides us with a weak understanding of communication, that is, of communication as a process that is not only radically open and undetermined but also generative and creative. For Dewey communication is a process in which meaning is made and shared, not a mechanical “go-between” for the “safe” transportation of bits of information from one location to another. With Dewey communication thus emerges as an encounter between subjects, not an exchange between objects so that it comes with all the risk and unpredictability that is at stake in such encounters.) (p. 35,46頁)

=> ビースタは、博士号をデューイの研究で獲得したそうです。私は前任校の広島大学の大学院で、数年間、デューイのDemocracy and Educationを教科書にして授業をしていましたから、このあたりのビースタの議論はよくわかります。

 

John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html

 

私の偏見は、学部生や修士課程の時代に最先端の研究論文ばかり読ませると、若き研究者の促成栽培には成功するかもしれないが、それらの学生さんの潜在的能力を活かせないかもしれないということです。時の試練を経て読みつがれている古典を、現代的視点から批判的に読む教育は重要だと考えます。さもないと研究者は、狭い分野を追い続けるという能力に特化した専門家ばかりになってしまいます。もっとも分業体制がしっかりした科学分野ではそれでもよいのかもしれませんが、英語教育といった総合的というか臨床的というか実践的な分野では、視野狭窄の専門家があまり権威と権力をもつべきではないと私は考えます(こうやって私は業界にますます敵を増やしています(笑))。




第3章 教えること (Teaching) 


■ 人によって教えられることと、人から情報を得ることは異なる

 教師 (teacher) は、単なる情報のリソース (resource) とは異なる。誰かが教師を情報のリソースとして使うなら、その人は教師と教師の言動すべてを自分の理解の範囲の中にとどめてしまう。そうなるとその人は既存の自分のままにいることになり、根本的な変容を経験できない。

 誰かから学習するという経験は、誰かに教えてもらうという経験とは根本的に異なる (to learn from someone is a radically different experience from the experience of being taught by someone.) (p. 52, 71頁)

=> ビースタは、「教えること」は「(一人で)学ぶこと」とは異なることを強調しています。論証の中ではレヴィナスの論も使っています。教師は「教える」中で、学習者がその時点では理解できないことを教えようとしているのだということは、同じくレヴィナスに基づく内田樹先生の次の本がわかりやすいです(「内田樹なんていう評論家風情について言及するなんて・・・」とお怒りのエビデンス派の皆様、申し訳ございません(笑))


内田樹『先生はえらい』(2005)ちくまプリマー新書





第7章 わざ (Virtuosity) 


■ 教師の主な仕事は状況的な判断

 教育は、有能化・社会化・主体化というそれぞれ異なる次元の課題を統合させることであるので、教師はこれら3つの次元を同時に考えながら何が教育的に望ましいのかを状況に応じて判断しなければならない (situated judgments about what is educationally desirable in relation to these three dimensions)。ゆえに、教師の主な仕事は、単に目標を決めて計画を実行することではない。教育は多次元であり、教師は3つの次元のバランスについて常に判断を行わなければならない。どれかの次元を優先させることもあるだろうが、その優先は一般的で固定的なものではなく、具体的な状況と個々の生徒との関係で判断されるものである。そこには緊張や葛藤が生じるかもしれないが、それをプラスの相乗効果に転じることが望ましい。 (p. 129, 170頁)

=>だから教師はしばしば判断に悩む。悩みながら得た知恵は次の機会に活かされるが、次の機会はまた異なる状況なのだから、教師が判断から免れることはない。


■ 教えることは科学ではなく技芸

 William Jamesは、教えること (teaching) は、科学であるべきではないし、そもそも科学ではありえないことを述べた。しかし、彼は教えることが技芸 (art) であることについて述べなかった。よってアリストテレスの議論が重要になってくる。(p. 132, 173頁)

=> 上では偉そうに古典の重要性を述べながら、私はここで言及されている以下の2つの古典を未読です。明らかな勉強不足です。お恥ずかしい。

Talks to Teachers on Psychology and to Students on Some of Life’s Ideals

ニコマコス倫理学


■ 変化する世界におけるポイエーシスとプラクシス

 実践的な生活 (practical life) は、変化する世界 (the world of change) であり変動する ("variable") ものである。この変化する世界においては、ポイエーシス (poiesis) とプラクシス (praxis) という2つの行動の様態がある。(p. 133, 174頁)

=> 実践的な生活に対比されているのは、必然的なるものと永遠なるものについての観照的生活 (theoretical life) 。観照的生活で得られるのはエピステーメー (episteme)。ちなみに、この実践的な生活と観照的な生活の対比は、アレントも使っていた。


■ ポイエーシス(生産)とテクネー(生産技術)

 ポイエーシスとは例えば鞍や船といった物の生産 (production) である。これまでなかったものを作り出すことであり、そのためにはテクネー (techne) が必要である。Techneは、英語ではしばしば "art" と翻訳されるが、ここは以下これを「生産技術」と訳すことにする。

 ポイエーシス--以下「生産」とする--は、それ自身が目的 (end) ではなく、それ以外の目的のために行われるものである。したがって生産技術は、その目的に適う物を生産するための手段である。(p. 133, 175頁)

=> しかし、この生産と生産技術は変化する世界の中の出来事であることに注意。生産技術は、エピステーメーのような必然的で永遠の真理ではない。


■ プラクシス(倫理的実践)とフロネーシス(実践的賢慮)

 変化する世界は、物の世界であると同時に、社会的世界--人間の行為と相互行為-- (the social world -- the world of human action and interaction) でもある。社会的世界ではプラクシス (praxis) が行われる。プラクシスは、人間の世界に「善さ」 ("goodness") をもたらすことであり、善き行為 (good action) である。つまりそれ自身が目的であり、何か他のことのための手段ではない--この意味で、ここでは以下、"praxis" を「倫理的実践」と呼ぶこととする。

 倫理的実践で必要な判断は、どのようにして事をなすべきか (how things should be done) はなく、何がなされるべきか (what is to be done)である。この判断はフロネーシスと呼ばれる。"Phronesis"は英語ではしばしばpractical wisdom(実践的知恵)と訳されるが、ここでは「倫理的実践」とのつながりを少しでも示すため「実践的賢慮」と訳すことにする)。(p. 133, 175頁)

=> 私は昔から "practice" と "praxis" をどう訳し分けたらよいか悩んできたが、ここでは「実践」と「倫理的実践」という翻訳で区別することにした。

=> P.133には実践的賢慮とは"a reasoned and true state of capacity to act with regard to human goods"という表現が見られるが、私はここでなぜ "goodness"ではなく "goods"が使われているのかわかりません。


■ 教育は生産(ポイエーシス)以上のものであり、教育を生産にしてしまってはならない

 教育は人材の生産であるなどと考えてはならない。教育とは社会的な技芸 (a social art) である。教育は生産以上ののものである。いやむしろ、生産以外のものといった方がよいかもしれない。教育は倫理的実践(プラクシス)である以上、自由の中で自由のために (in freedom and for freedom) 行われなければならない。この発想は生産の論理からは出てこない。(p. 133, 175頁)

=> よく言われるように、ある者にあることができるようにするもっとも確実で迅速な方法は、拷問かもしれない。しかしそのような恐怖による支配を私たちは決して教育とは呼ばない。ビースタの用語を借りるなら、そのような強制は、有能化には成功しても、適切な社会化は行えていない。行えているのは、特定の権力集団へ服従させているだけである。ということは、主体化もまったくなされていない(というより没主体化に成功している)。

 そういえば私は昔、このようなウェブ記事も書いていた。


教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_4057.html



■ 実践的賢慮(フロネーシス)は人格的特性である

 実践的賢慮(実践的知恵・フロネーシス)は、人に付け加えられる技術・傾向性・能力 (a set of skills or dispositions or a set of competences) ではない。実践的賢慮は、その人自身のある種の性質や卓越性 (a certain quality or excellence of the person) として理解するべきである。古代ギリシャはこのような人格的特性をアテレーと呼んでいた。アテレーの英訳は "virtue" であり、翻訳書ではこれを「ヴァーチュ」と表記している。だが、ここでは「人格」と訳すことにする。「徳」という用語も考えたが、後の "virtuosity" との関連で「人格」とする。

 そうなると実践的賢慮は、どうすれば学習できるかと問うのではなく、どうすれば実践的賢慮に充ちた教育的に思慮深い人 (educationally wise person) になれるかと問うべきである。(p. 134, 176頁)

=> 人格や徳などというと、エビデンス派の人たちなどは冷笑するだけだろう。しかし古代ギリシャや古代中国の昔から言い継がれているこれらの特質について、近代人はもう少し注意を払うべきではないか。

私は以下の本を長年読めないでいるが、いつか時間を見つけて読み通したい。


Trying Not to Try: Ancient China, Modern Science, and the Power of Spontaneity



■ 教師は、教育的に思慮深い判断に基づく人格的な技芸を求める

 教育関係者は、教育実習生 (teacher students) が、人格的な専門職 (virtuous professionals) になることを求めている。それよりも適切な言い方は、教師教育が求めているのは、教育的に思慮深い判断を行う人格的な技芸であるというものだろう (what we should be after in teacher education is a kind of virtuosity in making wise educational judgments)。 (p. 135, 178頁)

=> 教育が人を育てるものなら、教師教育も人を育てるものでなければならない。ただ、最近は物を生産するような教育そして教師教育が多くないか。教師も一人の人間である以上、多くの欠陥をもつ。だが、それだからこそ人を育てるという教育の営みに自らの身を呈しなければならない。そうやって教師が真剣に生きようとする時、学生も始めて学びに本気で向かい始めるのではないか。





エピローグ 出来事の教育学のために (For a Pedagogy of the Event) 


■ 教育が教育であるためにはリスクを取ることが不可欠である

  リスクがなければ教育そのものがなくなり、社会的再生産がそれに取って代わり、人の存在・行動・思考を既存の秩序の中に組み込んでしまう。(p. 140, 181頁)

=>しかし、今、教育改善といった名前で推進されているのは、まさにここで批判されている社会的再生産--強くて確実で予測可能でリスクのない生産--ではないのか。


■ 教育の弱さ、敢えて言うなら教育の崇高なリスクを引き受ける出来事の教育学が必要である

 私たちは原因と結果の教育学、つまり、予め特定された「学習目標」だけを生み出すだけを狙う教育学を必要としていない。私たちが必要としているのは、出来事の教育学 (a pedagogy of the event) である。つまり、教育の弱さ (weakness of education) を肯定することを志向する教育学である。この教育学は、教育の崇高なリスク (the beautiful risk of education) を喜んで取る教育学である。(p. 140, 182頁)

=> 「出来事」を私は、「固定的でも永続的でもない動態的で次々に変化する対象、いつか始まりいつか終わる現象」ぐらいに捉えています。教育はある数値目標といった固定的で永続的な目標を達成する営みではなく、教師が自らの弱みを認めながら、児童・生徒・学生の「善さ」を肯定するために彼ら・彼女らとかかわり続ける営みです。教育はリスクを伴う営みですが、そのリスクを教師は--敢えて意訳するなら--崇高 (beautiful) なリスクと考えるべきです。





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