2021/03/29

淺川和也・田地野彰・小田眞幸編 (2020) 『英語授業学の最前線』ひつじ書房

 

■ 本書について

昨年末に出版され、自分も執筆することができた『英語授業学の最前線』についてようやく紹介する時間が取れました(というか作りました(泣))ので、遅れ馳せながらこの本についてまとめます。

この本は、編者の1人である淺川和也先生もいうように「英語教育のみならず、教育に関わるあらゆるものに、内省し実践する指針を提供している」本かもしれません。 (p.155) 

もっとも関係者がそのように言うだけでは説得力がありませんが、たまたまアマゾンで見つけたレビューでも「本書を読み終わり、このような授業学に関するものをもっと前に読みたかったというのが最初の感想でした。授業学に関する大学英語教育学会活動のエッセンスがアレンジされていて、教育に関わるあらゆる者に、内省し実践する指針を示してくれています」というが見られます。著者の1人として、本書をこのように読んでくださるレビューアーの存在はありがたく思う限りです。


本書の主な構成は次のようになっています。(参考:ひつじ書房サイト


言語教育における実践者研究の再考 (pp. 1-23)

ジュディス・ハンクス(加藤由崇訳)

【講演1】 言語教育における研究と指導・学習の統合

【講演2】 実践を探究する共同探究者としての学習者と教師


当事者の現実を反映する研究のために 複合性・複数性・意味・権力拡充 (pp. 25-48)

柳瀬陽介


「二人称的アプローチ」による英語授業研究の試み (pp. 49-71)

吉田達弘


何に着目すれば良いのだろうか 英語授業改善の具体的な視点を探る (pp. 73-91)

竹内 理


明日の授業に向けてのシンポジウム

明日の授業にむけて―今、私たち英語教師にできること (pp. 93-122)

司会:淺川和也

パネリスト:柳瀬陽介・吉田達弘・竹内理


授業学研究会合同シンポジウム

これからの授業学研究

―大学英語教員に伝えるべきこと・学生に授業を通して伝えるべきこと (pp. 123-143)

司会:岡田伸夫

パネリスト:村上裕美・佐藤雄大・馬場千秋



このブログ記事では、まず我田引水的に私の章について触れた上で、次に上の目次順にそれぞれの章を紹介したく思います。



■ 柳瀬陽介:当事者の現実を反映する研究のために 複合性・複数性・意味・権力拡充


私の論については、この章の冒頭を示すことが、もっともよい紹介となるかもしれません。


「英語の教師と学習者のためになる研究をしたい」―これこそは英語教育学を行うほとんどの研究者が抱く初心でしょう。しかし研究経歴を重ね、査読論文の出版を次々に求められる中、いつしか自分の研究が、現場教師と学習者―これら2つを合わせて以後「当事者」と呼ぶことにします―の現実から離れ始めることも少なくありません。その結果が、研究誌には掲載されても、当事者に読まれない論文です。やがて初心は静かに忘れさられるか冷笑の対象になります。

たしかに研究と実践の乖離は永遠の課題なのかもしれません。しかし少しでも改善はできないでしょうか。この論文では、当事者のためになる研究を行うための提案をします。その骨子は、これまでの研究の前提を変えて、当事者が投げ込まれている現実に即したものにすることです。英語圏の応用言語学でも少しずつ自覚され始めている複合性・複数性・意味・権力拡充といった考え方を新たな研究の前提とすることにより、私たちは「英語授業学」という分野を開拓できるという主張をこの論文では展開します。(p. 25)


私としては、実践研究のあり方についてそれなりにまとめた文章だと思っておりますので、皆様のご一読とご批判を乞う次第です。



■ ジュディス・ハンクス(加藤由崇訳):言語教育における実践者研究の再考


Exploratory Practice(探究的実践)の第一人者の解説が日本語でも読めるようになったことは、実践研究を行う者にとってありがたいことではないでしょうか。

私としては、「なぜ私の学生は話したがらないのか」、「なぜ私の学生は技能統合型の授業を文法や語彙の授業だと考えるのか」、「なぜ私の学生はすぐにやる気を失ってしまうのか」、「なぜ、[私は]学生に質問されると緊張するのか」 (p. 6 いずれも太字強調は柳瀬)といった、一般的・普遍的な問いではない、文脈固有の「パズル」 (puzzle(s))、あるいは教師などが「疑問に思っていること」 (what puzzles them) がExploratory Practice(探究的実践)で取り上げられていることが非常に重要だと思っております。

さらに個人的な意見を述べますと、このようなpuzzleを自然科学のresearch questionとして取り上げないことが重要であり、そのことを理解するためには、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の89-133節の論考がとても参考になると思っています。


関連記事

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/89-133.html


このようにExploratory Practice(探究的実践)についてウィトゲンシュタイン哲学の観点から再検討することは、本来ならこの春休みにやりたかったのですが、とにかく次から次に仕事に追われ、その時間を取ることができませんでした。私としては今後の課題とします。



■ 吉田達弘:「二人称的アプローチ」による英語授業研究の試み


この章では、発達心理学者のヴァスデヴィ・レディ (Vasdevi Reddy)が提唱し、佐伯胖先生が高く評価している「二人称的アプローチ」 (Second-Person Approach) についての論考が展開されています。

二人称的アプローチは、私も以下の発表などで言及し、もっと勉強しなくてはと思っていながら、そのままになってしまいましたので、勉強になりました。


関連記事

「言語教師認知研究における物語様式と二人称的アプローチ」(11/17(土)14-16時 熊本大学教育学部棟2)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/111714-162.html


ちなみに吉田先生は、このテーマについて下の論文も公刊し、その考えを深めたそうです。


Yoshida, T. (2020). A Second-Person approach towards understanding English language lessons: A Sociocultural analysis of the post-lesson conversation.  The European Journal of Applied Linguistics and TEFL , 9,(2).  

http://www.linguabooks.biz/ejaltefl_9-2.html


私としては、その後、神田橋條治先生の論考に触れる中で、以下の記述の含意がよくわかるようになりました。勉強できる時間は少ないですが、継続だけはしてゆこうと思っています。

児童生徒とのかかわりの中で「驚き」、児童生徒の「よさ」に気付く「二人称的アプローチ」で授業研究を行うには、常に児童生徒の学びや情動の変化を感じ取りながら応答するという高い意識が必要となります。(p. 58)


感受性を失えば、二人称的アプローチをやっていると思っても、自分の思い込みを相手にそのまま投映してしまう一人称的アプローチや、傍観者的な記述にすぎない三人称的アプローチに変容してしまうというのが吉田先生の指摘です。


関連論文

優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―

https://www.jstage.jst.go.jp/article/casele/48/0/48_11/_article/-char/ja/


このように実践研究は、研究者のあり方の変容も伴います。こういった点についての理解を深めたいものです。


関連記事

『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html

神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2011.html


追記(2021/03/30)

吉田先生が関係する研究成果が、期間限定で公開されているのでお知らせします。


「VEOを活用したオンライン教員研修プログラム開発のための基礎研究」

公開期間:令和3年3月29日(月)午後1時〜4月2日(金)午後5時

https://veo.elt-hute.net/



■ 竹内理:何に着目すれば良いのだろうか 英語授業改善の具体的な視点を探る


竹内先生の論はいつものように明晰です。授業観察において、新人教師は表面的なところばかりに注目しがちです。しかし、ベテランは、授業のめあて・教え方・教科書の使い方・評価の間の整合性を確認しようとしたり、自分の経験を超えた「枠組み」をもつことを心がけたり、さらにはそれを基盤として変化に対応することを大切にしているということを竹内先生は調査から明らかにしています (p. 88)。指導の一貫性、判断の枠組み、未知の状況への対応力という3つの要素は、私も覚えておきたいと思います。



■ 淺川和也・柳瀬陽介・吉田達弘・竹内理:明日の授業にむけて―今、私たち英語教師にできること


司会の淺川先生はこのシンポジウムを、「創造的で感情もかき立てられたシンポジウム」と総括しました。手前味噌を重ねて恐縮ですが、私としても、この鼎談は話が噛み合い、非常に充実した時間を経験することができたものです。

私としては、対話という形式に促されて、(量的研究における統計的に一般化された結論ではなく)読者・利用者による一般化可能性、弱さの情報公開、当事者の主観の尊重といったことの重要性を手短に訴え (p. 96)、人文系の素養の復権の必要性を説き (p. 100) 、複数の認識論を理解し使い分けることが現代の教養の一部であること (p. 106) などを訴えることができたことを嬉しく思っております。(ただ一箇所、誤植があります。p. 115の最終行の英語は "Do no harm"です。)



■ 岡田伸夫・村上裕美・佐藤雄大・馬場千秋:これからの授業学研究


このシンポジウムでは、私は岡田先生のまとめにとても共感します。


科学というのは、複雑な事象を構成する要因を同定し、その中の1つ、あるいは少数の要因を選び出し、他の要因を捨象して研究をすすめます。少ない要因に絞って、仮説を立て、実験や調査を繰り返し、その成否を検証します。しかし、そのような科学的アプローチだけで、教員と学習者の全人的なかかわりの全体像を明らかにすることができるのか、という疑問が残ります。

私の専門は英文法研究の英語教育への応用ですが、英文法だけで英語教育はできません。(中略)

授業学というのは、そういう科学として専門化した研究の成果を、授業というクラスの中で「統合する」営みだと思います。 (p. 140)


ただし最後の「統合する」には、私なりに注釈を加えたく思います。

この「統合」とは、理論Aと理論B・・・理論Nの総和といった単純な足し算ではありません。観察対象を細かく限定して互いに視点(視座と注視点)も異にしている科学理論を単純に足すことはできません。そのような足し算は、視座(観察者の立地点)も認識法(観察方法)も異なる細かな注視点(観察対象)の記述を並べただけです。そのようなつぎはぎは、統一的なものの見方ではありません。その観察結果は小さな観察対象の恣意的な組み合わせであり、物事の全体像を捉えるものではありません。

私は、自然科学の1つの理論(あるいは複数の理論の集合)が実践を記述・説明する枠組みとはなりえないと考えます。複合的で多義的で複数の視点を必要とする現実を記述することに適した枠組みは、単一の視点を貫き厳密な記述・説明しかできない自然科学的な様式では不可能だと考えるからです。「現実」という簡単に捉えがたい対象は、多元的な視点と認識をもち、曖昧な解釈を促しながらも、全体としては一貫した流れを示す物語という様式で語り理解するべきです。


関連記事

柳瀬陽介 (2018) 「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―読者・利用者による一般化可能性」 『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32 

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018-16pp-12-32.html

真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より 

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/blog-post_24.html


自然科学の知見は、その物語の細部の一部を裏付ける役割を果たすべきであり、物語の枠組みそのものになろうとしてはいけません。逆に言いますと、物語は、その細部において自然科学を否定するものであってはなりません。

実践研究の枠組みは物語であり、自然科学はその細部の一部を補強する」というのが私の現在のまとめです。

物語についてもう少し詳しく述べれば、「物語としての実践研究は、それ自身が1つのまとまった文章としての整合性を保ちながら、実践にとって重要な人物や要因を複数の視座・認識方法・注視点でもって描き、一人ひとりの読者に自分の実践との関連性を考えさせる報告である」となります。

自然科学について補っておくと、「実践研究を、特定の自然科学理論から演繹する形で構成すれば、それは実践のごく一部だけを強調し、他の数多の視座・認識方法・注視点を無視してしまう、偏った現実認識を生み出してしまう」とも言えます。


私は下の記事でも、自然科学的な量的研究に対して批判的な立場を表明しました。しかし私はそういった研究を言語教育研究において全面的に否定しているのではありません。私が否定したいのは、自然科学的な量的研究が、1つの(というより唯一の)正しい認識として、多面的であるべき現実理解を乗っ取ってしまうことです


関連記事

草薙邦広・鬼田崇作・ 亘理陽一 (2021) 「外国語教育研究の再現可能性 : 素朴な認識の拒絶と追求姿勢の擁護」 『広島外国語教育研究』

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2021_26.html


自然科学が示す結果(立証する命題)は、Yes/Noで示される単純な命題ですから、一般人にも高い訴求力をもちます(例えば「○○のやり方で教えれば、英語力は向上する」など)。しかし、そのような一面的な単純化は、教授法以外の要因を存在しないものとしてしまいます。その学校が置かれた状況、担当教師の力量や性格、個々の学習者の様子、そのクラスの集団的特性、使われる教材のレベル、その他諸々の要因が流動的に相互に影響を与えているのが現実です。


関連記事

教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/08/blog-post_7.html


しかし、単純化され法則扱いされた結論は、その自然科学的装いにより、妙な権威を帯びて、教育の営みを歪めてしまうのです。そのような(権威的・権力的な)現実の歪曲化こそは私が批判したいものです。


比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える-- 

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/08/blog-post.html



私としては岡田先生の総括がきっかけとなって、自分の考えを以上のようにまとめなおすことができました。



総じて言うなら、皆さんも本書の読解を通じて、研究と実践についていろいろと考えることができると思います。その考えを、もっとオープンに語り合うことにより、英語教育研究は本来あるべき方向に発展すると私は考えます。

ご興味のある皆様にご一読をお願いする次第です。








追記(2021/04/28)

医師に対する人文学教育の必要性を訴えた次の記事をたまたま読みました。

A Once-in-a-Century Crisis Can Help Educate Doctors
By Molly Worthen

その中にあった次の一節が、私が上で言いたかったことを簡潔に表現してくれていました。

medicine is not a science but an art that uses science as one of many tools

同じように、教育も科学ではありません。教育は、科学を数ある道具の1つとして利用する独自の技芸 (an art) です。 


4/24(土)Zoomで開催: 『英語の学びを科学する ー理論と実践ー』(企画・運営:慶應義塾大学・今井むつみ研究室)で実践報告をいたします。

 

岩波新書の『英語独習法』でもおなじみの慶應義塾大学の今井むつみ先生の研究室が企画・運営する研究会で、私も実践報告をさせていただくことになりました。

詳しい情報ならびに申込み(定員200名)については下のサイトをご覧ください。



ABLE ONLINE #04  『英語の学びを科学する ー理論と実践ー』

https://ableonline.studio.site/ableonline04



以下には、その概要を転載しております。


■ 日時:

2021年4月24日(土)9:30 - 12:30

 

■ 場所:

ZOOMミーティングにて開催

 

■ スピーカー

慶應義塾大学 今井むつみ教授

慶應義塾大学環境情報学部教授。Ph. D. (ノースウェスタン大学,1994年)。ABLE主宰者。専門分野は認知科学,特に認知心理学,発達心理学,言語心理学。代表的な著書に,『英語独習法』(2020年,岩波新書),『学びとは何か―<探究人>になるために』(2016年,岩波新書),『言葉をおぼえるしくみ―母語から外国語まで』(2014年,ちくま学芸文庫,共著),『ことばの発達の謎を解く』(2013年,ちくまプリマ―新書),『ことばと思考』(2010年,岩波新書)など多数。小学校や高校の複数の国語教科書に文章が掲載されている。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会「言語能力の向上に関する特別チーム」(平成27年~28年)の委員を務めた。2018年には、Cognitive Science Society (国際認知科学学会)のFellow(特別会員)にアジアで初めて選出された。

https://cogpsy.sfc.keio.ac.jp/imailab/



京都大学 柳瀬陽介教授

1963年生まれ。広島大学教育学部・大学院教育学研究科で英語教育について学ぶ。修士課程では心理言語学的アプローチを取るものの、博士課程でウィトゲンシュタイン哲学に惹かれ始め、英語教育といった多面的で複合的な現象は、自然科学的方法論で厳密に細分化するのではなく、哲学的探究で包括的かつ整合的に捉えるべきと考えるようになる。その後、広島修道大学で一般教養の英語科目を担当した後、母校の教壇に立つ。そこで20年間教師教育に携わる中で、多くの優れた現職教師に接し、実践知に対する畏敬の念が強くなる。2019年4月より、職業生活最後の10年間は、英語教育の評論家ではなく実践家でありたいと願い、現在の職場である京都大学の教養・共通教育を担当する国際高等教育院に異動し、英語科目を担当するようになる。現在はその部局の附属国際学術言語教育センターの英語教育部門長も務める。教育や研究に関する情報はできるだけブログに掲載するようにしている。

https://yanase-yosuke.blogspot.com/



■ トークの概要


認知科学から考える合理的な英語学習

(慶應義塾大学 今井むつみ教授)

 単語をたくさん覚えても、TOEFLで高得点をとれても、英語を話したり書いたりすることが苦手で、母語話者からみるといたって不自然な英文になってしまうのはなぜだろうか。英語を自然に運用するための「英語スキーマ」を持たないからである。「スキーマ」といわば抽象化された枠組み知識で、外界の情報(英語でいうならインプット)の情報を無意識に選択する。母語話者は、構文のスキーマ、単語レベルのスキーマ、語彙化のパターンのスキーマ、談話構造のスキーマなど、言語の様々な階層でスキーマをもち、無意識に運用している。

 日本人英語学習者の多くが、英語スキーマをもたず、英語とは大きくズレた日本語のスキーマを無意識に適用しているため、英語学習に困難を覚え、不自然な英文をつくってしまうのである。今井のトークでは、日本語と英語のスキーマのズレについて解説し、英語スキーマを構築していくための、認知科学から考えた合理的な学習法のしかたを提案する。



実践報告:大学生はライティング授業を通じていかに「英語スキーマ」を学ぶか

(京都大学 柳瀬陽介教授)

 今井むつみ (2020) 『英語独習法』(岩波書店)は、学習者が外国語の理解やアウトプットにも母語スキーマを知らず知らずに当てはめてしまうことを指摘しています。母語スキーマの影響力は強く、外国語を習得するためには、学習者はその力と戦いながら新しい外国語スキーマを形成しなければなりません。外国語習得とは、外国語の認知枠組で考え・感じる身体を獲得することです。今井は、そのような根本的な心と身体の再形成はライティングの訓練を通じて行われうるとも説きます。

 日頃、大学の教養・共通教育課程で英語ライティングを指導している英語教師として、これらの指摘はきわめて納得がゆくものです。本発表では、日本人英語学習者が苦手としがちな、冠詞と可算・不可算名詞、受動態、主題と行為主などの点に関して、大学生がいかに「英語スキーマ」の学びを深めてゆくかについて報告します。大学生のライティングの文例から、英語スキーマの形成について考察します。


ご興味のある方は、どうぞABLE ONLINE #4のサイトでお申し込みをお済ませください。


2021/03/26

草薙邦広・鬼田崇作・ 亘理陽一 (2021) 「外国語教育研究の再現可能性 : 素朴な認識の拒絶と追求姿勢の擁護」 『広島外国語教育研究』

 

先日、たまたま以下の論文のことを知りました。


草薙邦広・鬼田崇作・ 亘理陽一 (2021) 

「外国語教育研究の再現可能性 : 素朴な認識の拒絶と追求姿勢の擁護」 

『広島外国語教育研究』24号 pp.179-195

http://doi.org/10.15027/50455


珍しいことに、私の論文(下記参照)が引用されていたので(苦笑)読んでみました。


柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93. 

https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83

柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 pp.11-20.

 https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11 


ここでは簡単にその感想を書きます。

この論文の主旨は、自然科学の再現可能性の規範が外国語教育研究でも同等に通用するという素朴な認識を拒絶すること、しかしながら同時に、再現可能性を追求することには一定の機能的価値があると、再現可能性規範の擁護をはかることです。

前半の素朴な認識の批判については、私も上記の論文などで述べていますし、この論文の主張に全面的に賛成します。ですから、ここでこの論点について改めて述べることはしません。

しかし外国語教育研究でも再現可能性規範を擁護するという議論に対してはそれほど説得力を感じませんでした。「擁護など、まったくのナンセンス」とは言いませんが、「それよりももっと優先してやるべきことがあるのでは?」と私は思ってしまいました(もっともこれは私が数量的な研究を基盤にしていないからなのかもしれませんが)。


本論は、擁護のための論点として8つを上げていますが、そのうち、次の2つには私はある程度の説得力を認めます。


柳瀬が同意する論点

(5) 再現可能性の追求は観察の質を上げる。

(8) 再現可能性の追求は可謬主義的姿勢を強化する。


要は、次々にいい加減な実験を新たに行うのではなく、それなりに見込みのある実験の再現可能性を追求して追試を行うことにより、「未知パラミタ、または潜在的パラミタ」 (p. 187) を探索するようになり(5)、実験結果を問い直す批判的な文化が活性化する (8) ということだと私は理解しました。


しかし他の6つの論点については、研究者寄りの問題意識から生じているものであり、「外国語教育研究の最終的な目的」 の観点からは優先順位が低いものだと私は考えています。

 「外国語教育研究の最終的な目的」についてこの論文は次のように述べています。


外国語教育研究の最終的な目的は、メカニズムの解明や科学的命題の判定自体ではなく、よりよい教育実践や教育政策を実現し、個人および社会の効用を最大化させることであると考える。 (p. 186) 


しかし以下の6つの論点は、私が太字化した箇所や【  】で補った箇所に示されているように、研究者同士の業界の利益ばかりを優先しているように思えます。(後に述べますように、私は外国語教育研究などの臨床的な分野の研究者は、もっと実践を観察し実践者のことばを拾い上げそれを整理するべきだと考えています)。


関連記事

石井英真(編著) (2021) 『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2021.html


柳瀬があまり説得力を認めない論点

(1) 再現性可能性の追求は研究者間の綿密なコミュニケーションを要求する【だがそのコミュニケーションは、実践者を遠ざけるかもしれない】

(2) 再現性可能性の追求は【関係者しか読もうとしない】研究をより【他の研究者にとって】オープンなものに変える【だがそれでも現場教師は研究論文を読もうとはしない】

(3) 再現可能性の追求は専門用語の精選を加速させる【だがその専門用語を実践者が使うことはない】

(4) 再現可能性の追求は【実験・調査の】手続きの規格化・標準化をうながす【だがそのような実験・調査は、実践者が現場で行う探究とますます異なってくる】

(6) 【学位論文に追試研究を認めることによる】再現性可能性の追求は【論文生産者としての研究者の】人材育成を効率化する【だが研究者と実践者の間の溝はますます広がり深まる】

(7) 再現性可能性の追求は構成概念の時間内変化を防ぐ【だが、自然科学概念と異なり、社会的な構成概念は社会の変化とともに変わってゆくものである】


私は最近、精神科医の神田橋條治先生の実践論に非常に説得力を感じていますから、ここでも神田橋先生の論を借ります。神田橋先生によりますと実践的分野の関係者がもちいることばには次の3つがあります。(上の石井先生の著作についての記事でも私は同じような議論をしています)


実践分野での3種類のことば

(a) 教師が学習者の学びを支援するするために使うことば

(b) 教師が自らの指導方針を策定するために自己省察の中で使うことば

(c) 研究者が、研究者間の相互理解を厳密にするために使う(業界での)共通用語


関連記事

『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html

神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2011.html


ここで本論の上記の6つの論点が述べているのは、 (c) の業界内での共通用語のみであることは誰もお気づきになられると思います。

ですが私や、上記ブログ記事での石井先生などは、むしろ (a) や (b) の現場教師のことばに注目すべきだと考えています。それらのことばは実際に授業の成立や学習者の成長という現実を構成する力となっているからです。

ですから、私などは上の6つの論点などを見ても、「そんな研究者の業界だけの利益を考えるよりも、研究者はもっと現場の教師や子どもをよく知るべきではないのか」と思うわけです。あるいは、学校訪問があまりできない環境にある研究者は、自分で教えている(英語の)授業をよく自己観察し、自己省察をするべきではないかと考えるわけです。

しかし、英語教育研究の業界では、英語圏で流行の用語や心理学などの「親学問」(としばしば呼ばれる領域)の専門用語をもっぱら一方的に借用し、それを業界内で流用させます。

私の知る限り、それを上の (b) ましてや (a) に翻訳させようとする動き、あるいは (a) や (b) のことばとそれらの専門用語の間の接点を見出そうとす動きはほとんどありません。そういった専門用語はそれこそ「精選」させて、業界内では使いやすくしても、そういったことばばかり使うなら、研究者は、現場の教師や学習者とのコミュニケーションがますますできなくなるかと思います。

本論も言うように「量的研究や実証研究と呼ばれる種の研究」が「事実上の多数派」 (p. 180) となっている英語教育研究の業界で、私がそのような研究の限界を指摘し続けることは、友人や仲間を失うばかりなのですが(苦笑)、私は一応大学人の端くれである限りは、自分が正しいと考えることを主張し続けます(そしてその自分の確信を疑う目を失わないよう努めます)。

英語教育業界に対する私の率直な意見は、この業界の多数派がもっと教育の現場に注目し、そこを研究の基盤とすることです。

もちろん、たとえば心理学的手法を使う英語教育研究者が、だんだんと研究手法を洗練させて、もっぱら心理学者の業界ばかりで活躍するようになり、自他ともに認める心理学者になるといったキャリア設計も、もちろん私は認めます。

ですが、私としては多くの英語教育の研究者が、もっと素直に学びの現場に向かうことを自分の基盤とすることを願っています。それが他人の学びの現場であれ、自分の教える現場であれ。







追記(2021/03/29)
表現の一部を微修正しました。


2021/03/25

石井英真(編著) (2021) 『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社


石井英真(編著)『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社を拾い読みではありますが、ようやく読む機会を得ました。従来の「教育学者」的な硬い文章のイメージから自由に、それぞれの著者が、率直に自らの学問の状況と教育の現実を比較して考察した本だと感じました。本の体裁やフォントの使い方などからも著者の意欲を感じることができます。


■ 英語教育における「コミュニケーション」

亘理陽一先生の「外国語コミュニケーション」 (pp. 178-198) の主張は明解です。「コミュニケーション能力(の伸長)をスタンダード化しようとすればするほど、コミュニケーションがもつべき最も重要な特性が失われる」 (p.189) というものです。なぜなら、コミュニケーションは自分とは異なる他者(相手)があってはじめて成立するものであり、それゆえコミュニケーションの多くの部分は偶発的 (contingent) な性格をもつからです。 (pp.188-189)

この論点は、榎本剛士先生などのコミュニケーション論に重なってきます。

関連記事:

仲潔 (2021) 「英語教授法をめぐる言説に内在する権力性」、榎本剛士 (2021) 「対抗するための言葉としての「コミュニケーション」」

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/01/2021-2021.html

私としては、これまで手放しで礼賛されるか、英語教育の軽薄化の象徴として嘲笑されるか、のどちらかに偏りがちだった「コミュニケーション」という概念に、このように光が当たり始めたことをとても嬉しく思っています。

亘理先生は、実際のコミュニケーションとは似つかない各種の外国語活動について、次のようにまとめます。 

「誤りなく、成功しかない、予定調和的コミュニケーション」から離れられたときにはじめて、学校教育の一環としての外国語教育は、もっと言えば授業におけるコミュニケーションは、それに必要な能力の探究を次の段階へと進められる。 (p.195)

学校現場で「コミュニケーション」とされている出来事が、実は予定調和的で必ず成功に終わるようになっている出来事であるということ、非常に厳しい言い方をすれば儀式であり茶番であるということは、 もっと教育関係者の間で自覚されるべきでしょう(注)


■ 教師による「研究」

亘理先生が批判する「コミュニケーション」の対象は、英語授業の中の各種の「コミュニケーション活動」ですが、批判すべき「コミュニケーション」の対象を、教師が授業改善のためにおこなう授業研究にも向けてみれば、渡辺貴裕先生の「教師による「研究」」 (pp.147-171) の論考につながります。

現職教師が行う研究のほとんどは、「○○すれば、○○になるだろう」という仮説を、授業などを通じて検証するという形(「仮説-検証」図式)になっています。(p.149)   しかしその仮説の定義は非常に曖昧で、その仮説を誰か他の人が試すことは想定されていないようですし、その仮説が研究で否定されることもまずありません。(pp. 152-154) 

そんな「コミュニケーション」も、見るべき人が見れば滑稽なだけですが、問題は、多くの真面目な教師や指導主事が、そういった図式を採択しなければ、研究とならないと強く思い込んでいることです。(p.155)

もちろん「仮説-検証」という枠組み自体が間違っているわけではありません。むしろ、有能な現場教師は、日々の授業の中で、非常に細かな仮説を立てそれを検証するという営みを繰り返しています。ですが、その仮説は文脈に即した具体的なものであり、教師はその一般化には慎重です。優れた実践者は、そういった数多くの細かな実験から自分のレパートリーを増やしてゆきます。


関連記事:

「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The Reflective Practitioner" の第2章のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner-2.html

「専門職および専門職の社会における位置に関する発展的考察」 "The Reflective Practitioner"の第10章のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner10.html


ですが、現代日本で多く行われている授業研究は、そういった実践の中での小さな仮説-検証とは異なります。大きく曖昧すぎる仮説を、成立するかしないかを本気で確かめようとも今後活用しようともせずに、ただ研究会などのために行うものであることがほとんどです。

これは大きな時間と労力の無駄です。

私としては例えば次のような提案をして、現職教員の方々には、もっと実質的な研究をしていただきたいと思っています。現場で鍛えられている教師は、良心的で誠実で、(大学院的な研究法には親しんでいないとはいえ)現実対応能力においては極めて高い知性を有しているからです。


樫葉みつ子・柳瀬陽介 (2020) 「当事者研究から考える校内授業研究のあり方」

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2020.html


そういった意味で、この章は私の関心を引きました。


■ 「エビデンス」について

また杉田浩崇先生の「エビデンスに基づく教育」 (pp.231-256) という章もあります。私は以下のような論文を書いていますので、エビデンスに対しては全面賛成とは言えない態度をとっています。

柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93. https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83

柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 pp.11-20. https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11 

 

また先日たまたま読んだ、東京大学理学部・理学研究科で物理学を学びそこで博士号も取った文部科学省官僚の方によるエッセイでは、エビデンスについてこれも両手を上げての賛成とは取れないような記述がありました。

近年はその中で、客観的に見て最適であり、より多くの人に納得してもらえるような政策立案を実現するために、Evidence-Based Policy Making(EBPM)が重要である、とさまざまな政策領域で主張されていますが、行政官がEBPMを実践するにあたっての確固たる根拠を得るには、まだまだ高いハードルがある、というのが現状だと思います。

「政策で科学を加速し、科学で政策を加速する〈アカデミアを離れてみたら〉」

https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/4646?fbclid=IwAR1sastfQCAVYy7MFsxduynuAU5RBnC5TtM6gGM5pNPMl7lgSTSF6etSlOQ



■ 現場からのことばを大切にする

現場の知恵をもっと活かすという意味では、「座談会:いま一度、立ち止まり、語り合っておきたいこと」 (pp. 281-326) でのさまざまな発言は面白いものでした。私は特に石井英真先生の発言に共感しました。

石井先生は、そもそも「教育の世界で "ベストな制度がある" "明確な成功があるという前提自体を疑う必要がある」と語ります。 (p.285) 成果や成功の意味は、それぞれの子どもにとって・教師にとって・学校にとって異なりえますから、定義困難だからです。ですが、その不確実性の中で、教師には目の前の子どもの多様性に対応しながら、自分なりの追求を行う余地(=自律性)があります。(p. 295)                              

そういった日本の教師の自律性の核心には、「自分たちの実践を、教師自身の肌感覚に合った言葉を用いて語る」ことがあったとも石井先生は述べます。 「実践とそれを語る言葉はセットで、だからこそ、その語りは借り物でない真実性や説得力をもちえた」とも説きます。(p.305)

ことばは、学ぶ者の人格をかけて身体化されるものだというポラニーの論に説得力を感じる私としては、こういった指摘に共感します。


Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html


だからこそいたずらに流行を追い続けるのでもなく、反動的な復古主義に陥るのでもなく、「私たちの足元で起きているところに希望を見いだして、言葉を立ち上げていくことこそ重要」 (p.306) という石井先生の主張には私も全面的に賛成です。

ちなみに精神科医の神田橋條治先生は、臨床医・精神科医のことばを3つに分けています。 (1) 患者に治療について説明するためのことば、(2) 臨床医としての自分自身が治療方針を定めるために使うことば、(3) 精神科医が業界で情報共有するための共通言語、です。


『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html

神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2011.html


これらの表現の「患者」を「学習者」に、「臨床医・精神科医」を「教師・教育学者」に置き換えることは可能だと私は考えています。

その翻訳を使って、私なりに英語教育界について語れば、次のようになります。--すぐれた現場教師は、学習者に語りかけることばを豊かにもっている。だが、そういったことばは、その人やその人が置かれた文脈に依存していることが多いので、なかなか他の文脈では伝わらなない。また、そういった優れた実践者の優先事項は実践であり、実践についての整理ではない。だから、自分自身で思考をまとめるためのことばは、ひょっとしたら子どもへのことばほど豊かではないかもしれない。他方、「英語教育学者」業界内の符丁(隠語)として使う専門用語は、それなりに多く、しかもきちんとした反省や総括なしに5-10年おきの流行の波で刷新されるから、数だけはある。だが、それらの専門用語が教師や学習者に実感を伴って理解されることはあまり多くない。--

教育学者はもっと現場のことばを大切にして、それを整理するべきではないでしょうか。業界用語を振り回して、それを使うことを現場教師に強要することはあまり効果がないようにも思えるからです。また、妙に真面目な教師が、一知半解で学術用語を誤用し、かつ、自らがもっているはずの実感の込もったことばを忘れてゆくのを見るのは辛いものです。

 

こうしてみると、現場教師の知恵をさらに活かすために、研究者がやるべきことはたくさんあるように思えます。現場で出てきたことばを、基礎科学的な知見で限定的に補強しながら、少しずつ整理してゆくことが、実践研究の1つのあり方ではないでしょうか。(参考: 『英語授業学の最前線』) 


(注)

教育関係者の間でもっと共有すべき認識の1つは、現在の「評価」が、「全てを個体の能力に帰属させる能力観」に基づいていることです。 (p.191)

私は亘理先生が参考文献で示した以下の2つの文献をまだ読んでいません。

石黒広昭 (1998) 「心理学を実践から遠ざけるもの:個体能力主義の興隆と破綻」 佐伯胖・佐藤学・宮崎清孝・石黒広昭(編)『心理学と教育実践の間で』 (103-156ページ)東京大学出版会

山口毅 (2014) 「第3報告・教育に期待してはいけない」廣田照幸・宮寺晃夫(編)『教育システムと社会:その理論的検討』 (46-60ページ)世識書房

ですが、こういった個人への能力帰属は、下に掲げた研究などでも批判されていることですから、今後も勉強を続けてゆきたいと思います。


國分功一郎・熊谷晋一郎 (2019) 『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』(新曜社)を読んで:「英語が話せる」ことや「やる気が出ない」ことなどについて

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2019.html

國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html




続報:字幕自動生成機能付きのChromeブラウザーを英語学習のために使う


前の記事(リスニング学習の革命? Chromeブラウザで英語を聞くと、音声を自動的に文字起こししてくれる)でも書きましたように、少なくとも私はChromeブラウザーが英語字幕自動生成機能を搭載したことは、英語学習にとって画期的であると思っています。

この記事では、主に若い英語学習者を念頭におきながら、Chromeブラウザーの効用について説明します。


■ Chromeが自動的に生成する字幕は完璧ではない。しかし人間のリスニングの初期段階もそうなのかもしれない。

私は最近、ナシーム・ニコラス・タレブ (Nassim Nicholas Taleb) という知の巨人にハマっていますので、彼のYouTube動画をChromeブラウザを聞いて視聴しました。


Nassim Nicholas Taleb: How to Live in a World we Don't Understand

https://youtu.be/iEnmjMgP_Jo


彼はモゴモゴ話しますから、恥ずかしながら私のリスニング力では相当集中しなければ聞き取ることができません。また、正直、一部は聞き取れないままです。だから、脳内で補正しなければならず、それなりに疲れます。

しかし字幕機能を使うと、自分が聞いた直後に、AIが認識した英語が文字化されますから、うまく聞き取れないストレスはかなり解消されます。これならば長時間の講義も楽に聞けます。

とはいえ、タレブの話には知的な専門用語や固有名詞が多く出てきます。それらは一般には頻出表現ではありませんから、ビッグデータに依拠するAIは必ずしもうまく対応できず、文字化に失敗することも少なくありません。それでも私は日本語翻訳で彼の本をある程度読んでいますから、そのAIの失敗を自分なりに補正することができます。英語が音声というすぐに消え去る媒体ではなく、文字という短時間とはいえ安定的に知覚できる媒体で提供されていることも大きく役立っています。

この字幕生成が完璧ではないということから、「まだまだAIは駄目だ」と結論することは容易です。しかし、私はそれよりも「人間のリスニングも案外、そんなものかもしれない」と考えるべきかと思っています。

どこで読んだか忘れてしまったので引用できませんが、通常の人間の発声は理想的な発声とはほど遠いもので、そのままの音声で忠実に話者の意図通りの単語・文を再現することはかなり容易ではないそうです。つまり、人間は日常会話でも、かなり自分で補正しながら音声を聞き取っているわけです。聞き手は、話し手が意図しているだろう単語・文を自ら構成しながら認識しているというわけです。そもそも人間の脳は "predicting machine" であり、予測する能力でもって人間はこの複雑な世界に対応することができるというのも認知科学・神経科学ではよく聞かれる話です。

そうなると完璧ではないChrome (AI) の文字起こしも、実は私たちの脳が音声理解をしている最初の音声認識の段階に近いのではないかと思えてきます。

そこからさらに飛躍させますなら、その誤りや不足を含むChromeの字幕を、自分がもつ背景知識などを基にして修正することも、リスニング学習の一部ではないかと思えてきました。(少なくとも英語学習一般の一部とは言えないでしょうか)。

ですから、英語学習者がChromeの字幕機能を試してみて、それが完全ではないことを知るや否や、「これは使えない」と諦めるのは早計だと思います。私の予感は、瞬間ごとに自動的に生成される字幕で自分のリスニングを確認する経験は、リスニング力(ひいては英語力一般)の向上にかなり貢献するというものです。私もしばらく自分を実験台にしてChromeでの英語リスニング・リーディング経験を重ねてゆきたいと思います。

Chrome上での経験を私は上で「リスニング・リーディング経験」と表現しました。「自力での英語音声認識+その認識に対する直後のAIフィードバック+字幕の速読+AIフィードバックの自力修正」という過程を簡潔に表現したかったからです。

しかしもう少し丁寧に説明した方がいいのかもしれません。そこで下に「英語リスニング力を向上させるために必要な要因」、「字幕機能付きのChromeブラウザーで可能になったこと」、「Chromeブラウザーでリスニング力を向上させることができる理由」という項目を立てて説明を加えます。



■ 英語リスニング力を向上させるために必要な要因

今回の経験を通じて改めて考えてみますと、英語リスニング力を向上させるためには、少なくとも下の6つの要因が必要だと思われます。(注)

(1) 音声(単語)をできるだけ正しく認識できる力

(2) 認識した単語を瞬時に文法的に統合して文の意味を把握できる力

(3) 背景知識を使って、単語認識や文意把握の不足や誤りを修正できる力

(4) 上の3つの力を融合的に発達させるための十分な量のリスニング経験

(5) 十分な量のリスニング経験を可能にするための知的好奇心

(6) 個々人によって異なる知的好奇心を満たすために、教材に多くの選択肢があること

(注)(2) について詳しく言えば、意味理解は文レベルだけでなく段落や文章全体のレベルでも行います。後者の理解は抽象度が高く、また聞き手の背景知識や意図などにも左右されますから、前者の理解とは区別するべきです。さらに、(2) の瞬時的な文意把握をも、1-2文ではできても、いくつもの文が連続して到来するとワーキングメモリーがパンクするような状態になって処理できなくなる人もいます。ですから、(2) から、「文意把握を連続して高速に行える力」といった概念を派生させて、それは別個の能力として扱うべきなのかもしれません。しかし、ここでは話を単純にするため、とりあえず上の6つの要因で考えます。


■ 字幕機能付きのChromeブラウザーで可能になったこと

他方、Chromeが可能にしてくれたことは以下のようなことでしょう。

(a) ウェブにある英語の中で自分がもっとも聞きたい英語を選んで聞けること

(b) 自分で英語を聞いた直後に、Choromeが提示するそれなりに正しい英語字幕を見て、自分の聞き取りの是非について確認すること

(c) 音声よりも安定的に知覚できる文字(英語字幕)を読んで、文の意味理解をより確実しながら、字幕を速読し続けること


■ Chromeブラウザーでリスニング力を向上させることができる理由

これら (a) - (c) の観点から、リスニング力向上のために必要な (1) - (6) について考えましょう。

(a)(ウェブ上の莫大な情報量)により、 (4)(十分な量のリスニング経験)と (6) (教材の選択肢の多さ)を満たすことが容易になります。

(b)(音声聴取直後の字幕提示)は、(1) (自分の音声認識のチェック)をかなり鍛えてくれます(もっとも別途、分析的に英語音声の特徴を学んだ方がより有効的かもしれませんが)

(c) (一定時間の文字提示)で (2) (文法的処理力)と (3)(初期段階の認識・把握の修正力)が育まれます。

足りないのは (5)(知的好奇心) です。知的好奇心があることは学習の当然の前提であり、問題ないと思われるかもしれませんが、私はそう楽観できないと思っています。

といいますのも、一般に「よく勉強する」と言われる人は、単純に分けると2種類に分類できるからです。

1つは、テストで高得点を取るために勉強する秀才タイプです。もう1つは自分が楽しいから学ぶ気まぐれタイプです。

秀才タイプは、他人が設定したゴールやルールに合わせて、頑張って勉強することを得意とします。自分が嫌いなことでもそれを我慢して勉強することが大切だと信じています。秀才タイプは、ほとんど外発的に動機づけられています。

気まぐれタイプは、とにかく楽しいから学び続けます。だから先生から勉強を命じられても、面白くないと思えば勉強しません。そもそも気まぐれタイプにとって、学ぶことは「勉めることを強いられる」ようなものではありません。学びとは自然と湧き上がってくる内発的な動機(やる気)から、思わずやってしまうもののです。(関連記事:國分功一郎・熊谷晋一郎 (2019) 『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』(新曜社)を読んで:「英語が話せる」ことや「やる気が出ない」ことなどについて動機づけに関するDan Pinkの動画) 

最近、世の中には私の予想以上に秀才タイプが多いように思えてきました。秀才タイプには上の(5)(知的好奇心)の欠如は結構深刻な問題かもしれません。

そうはいっても、秀才タイプは、他人から指示されたゴールやルールを自分に強制的に適用するのは得意なわけです。ですから、例えばとりあえずTED動画などを英語字幕自動生成機能付きのChromeブラウザーで毎日視聴することを自分に強制すればどうでしょうか。そのうちに、本来もっていた自然な好奇心が活性化してくると思います。


■ 教師という他人に、自分の学びを完全に支配させるべき理由などない

以上のように、私は、Chrome字幕を使った英語視聴は英語リスニング力ひいては英語力一般を向上させるために、非常に有効な手段だと考えています。

ですが、このような画期的な機能の登場を受けても、学校の授業が変わるのには少なくとも数年はかかるでしょう(きわめて残念ながら日本の組織は急速な適応を得意としていません)。しかし、数年という時間は若い学習者にとっては大切な時間です。その数年のうちに卒業し、忙しい社会生活に入るかもしれないからです。

学習者は、自らの学びの主人公 (agent) であり所有者 (owner) です。若い学習者のみなさんは、自分の学びを、教師という他人に支配・管理されるのを待たずに、どうぞどんどん自分で行動を開始してください。秀才タイプのみなさんも、気まぐれタイプの学び方を少しは身につけてはどうでしょうか。

自分の知的好奇心を満たしてくれる世界が、日本語世界だけでなく、英語世界にも拡張すると、楽しいですよ!


追記1

この記事を書いた直後に、私がTwitterでフォローしている方から、「日本語字幕がない映画の視聴にもこの字幕機能は有効だ。『ゴッドファーザー』での字幕の出来栄えは素晴らしかった」との情報をいただきました(情報提供に感謝します)。

なるほど、映画などもChromeブラウザー上で見さえすれば、自動的に英語字幕が付くわけですね。さらには歌でもカーペンターズのような、標準的な発声でしたら、きちんと文字起こししてくれるようです。学びの選択肢は私の予想以上に多くありそうです。


追記2

誤解のないように付け加えておきますと、上のタレブの講演は、現時点でのAIにとっては認識が難しいグループに入るものかと思います。CNNニュースなどの丁寧な発声での字幕生成はほぼ問題がありません。Chromeブラウザーを主にリスニング学習のために使うのなら、いわゆる「標準的な」あるいは「規範化された」語り方をしているサイトを選んだほうがいいかもしれません。


関連記事:
知的な英語を使いこなせるようになりたい大学生のために


2021/03/23

リスニング学習の革命? Chromeブラウザで英語を聞くと、音声を自動的に文字起こししてくれる

 

■ Chromeブラウザで動画・音声を視聴すると、自動的に英語字幕が出てくる。


既にご存知の方も多いかと思いますが、Chromeブラウザ上で、英語の動画や音声を視聴すると、その英語音声が自動的に英語文字に変換されて示されるようになりました。

私も先ほどインストールしたばかりですが、画面上に2行ほど表示される小さな枠が出てきて、そこに文字起こしされた英語が、音声から一瞬遅れたタイミングで表示されます。

その遅れは決して不愉快なものでなく、むしろ自分で聞いた英語音声を文字で確認できるのでリスニングの学習に好都合です。

正確度については、私がThe New York TimesのArgumentという対話ポッドキャストで短い時間で試しましたら、会話で、"Sara"という呼びかけが表示されなかったり、"COVID"を他の単語として認識したりしたぐらいの小さな問題はありましたが、実用上はまず問題ありませんでした。

YouTubeで適当なサイト(JBLスピーカーのレビュー)で試してみました。これはプロのアナウンサーがしゃべっているのではなく、米国人のオーディオファンが自宅で録画・録音しているだけのものです。これも、私が短い時間で試しただけですが、一箇所ほど「あれ、それでいいのかな?」という文字起こしがありましたが、ほとんどすべての文字化は正確でした(というより、恥を忍んで言えば、「あ、そうか、確かにその英語の方が文脈に合っている」と私の聞き間違いを正してくれる箇所が何箇所かありました。)


■ リスニング学習の革命?

これらの自動文字起こし機能は、米国では本来、聴覚障害者のために作成されているようですが、私は職業柄、どうしてもリスニング教材として捉えます。

楽観的な見方をすれば、英語学習者は、問題集などの味気ない英文をいやいや聞くのではなく、自分が好きなトピックに関しての動画を、この自動文字起こし機能を付けたままずっと読み続ければ、リスニング力が確実にアップすると思います。

論語が言うように、「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」  だからです。いやいや勉強するよりも、英語で学べることの喜びを身体で感じながら英語を長時間聞き続けることの方が、結果的には高いリスニング力がつくと思います。

もちろん、英語力が不十分な学習者は、流れ行く英語字幕を読むだけで大変かもしれません。単語力がほとんどなければ、少々英語がゆっくりだとしてもまともに字幕の英語を理解できないでしょう。反面、英語音声の特徴を分析的に学んでおくこと(例えば、深沢俊昭著(2015)『 改訂版 英語の発音パーフェクト学習事典』アルクなど) の有用性は変わらないでしょう。

また、上の私の感想は、それなりに英語を習得している者としてのものですから、さまざまな英語力の人がこの自動文字化機能を使ってみたら、それぞれに異なった感想を持つかもしれません。

しかし、英語リスニングを学ぶための教材が、教科書会社が発行するものだけにとどまらなくなったことは革命的なことだと私は考えます。

学習者は、自分が好きなトピックについて、ウェブ上で無料公開されている動画・音声を視聴し続ければいいわけです。そこで、音声を聞き続けながら英語字幕を読み続けること、いわばリスニングと速読を長時間行うことで、従来よりもはるかに楽しめながら、英語力をつけることができるのではないでしょうか。

一日の決まった時間に、パソコンの前でお気に入りの英語動画を見ることでしたら、習慣化もそれほど困難ではないでしょう。


■ 設定の仕方

私の場合は、Windows 10マシンの上のChromeブラウザを使いました。OSとChromeが最新版であれば、設定は驚くほど簡単です。


(1) Chromeブラウザの右上にある縦3つのドットのアイコンをクリック。

(2) 現れるメニューの中から「設定」をクリック

(3) 左のコラムの「詳細設定」の▼をクリック

(4) 「ユーザー補助機能」をクリック

(5) 「自動字幕起こし 」をオンにする


Googleは私たちの個人データを入手することで莫大なグローバル・ビジネスを展開していますので、厳密に言えばこの自動字幕起こしサービスは無料とは言えません。

しかし表面上は一切お金を払うことなく、このサービスが受けられることは、私からすれば驚くべきことです。


■ Evolution in Technological Innovations

私は、現在勤務している国際高等教育院・附属国際学術言語教育センター (i-ARRC) の英語教育部門長として、以下の3つのVisionsを構想しています。


Autonomy

Beyond the Classroom

Evolution in Technological Innovations


こういった機能の登場を受けて、大学英語教育も進化させ、再編成・再創造してゆかねばということを痛感させられました。

英語の学びは、教師に管理されて行うものであり続けるべきではないでしょう。

ある程度の英語の基礎を学んだ者にとって、英語は、教室の外、つまりはそれぞれの暮らしの中で、それぞれが自律的に目標やペースを決定して行うものとなるべきだと私は考えます。

大学での英語教育は、そういった自律的な学びを支援し、それだけでは偏りがち・充分でない側面を体系的に教えるようになるべきだと私は思っています。



今後、このサービスにもさまざまな問題が現れてくるかもしれませんが、今のところ私としてはお勧めです。

このサービスを多くの英語学習者がインストールし、英語教育関係者に、英語教育を変化させざるを得ない圧が自然にかかり、英語教育が進化することを私は願っています。




追記 (2021/03/24)

この英語字幕自動生成機能をTED動画で試した時、私はTEDのたいていの動画には英語字幕がボランティアの手によって作成されているから、TEDにこのChorome機能を使っても意味がないかと思っていました。

しかし、TEDが提供する字幕は2行程度が一気に出るものであり、Chromeが生成する字幕は英語音声に一瞬遅れて次々に出てくるものであるという違いは存外に大きいのではないかと思い始めました。

私の経験ではTED字幕ではどうしても提示された2行程度の英文を読んでしまいます。音声が出されるタイミングとは異なるペースで読んでしまい、その結果、どうしても音声に対する注意が薄れてしまいます。

他方、Chromeの逐次文字化では、まず私は英語を自力で聞かなければなりません。その一瞬後に英語字幕が出てきますから、それで自分のリスニングが正しかったかどうかを確かめます。正しくなければ、「あぁ、そう言われていたのか。確かにそうだ」とそこで自分の耳の矯正(=リスニング学習)ができます。リスニング力向上のためには、サイトが予め作成していた字幕の提示よりも、AIがその瞬間ごとに字幕を生成するChromeの文字起こしの方がよいのではないかと私は考え始めました。

ただ、英語力が充分でない人は、字幕を読み続けることを困難に思うかもしれません。

私は常日頃、「リーディングは、目で行うリスニングだ」と言い、遅い訳読ではない通常の英語リーディングでは、目に入る活字を即時に感情のこもった意味ある声に変換することが大切だと説いてきました。

今回、Chromeの自動字幕生成機能を使って、「リスニングは、耳で行うリーディングでもある」と思え始めました。リスニングは個々の単語・句を認識するだけでなく、英語を意味のある文・文章として高速処理する知的作業でもあるからです。「リスニングができない」という場合、個々の部分の音声認識ができないのか、それとも全体の意味理解が高速でできないのか(それともそもそも意味理解ができないのか)について、自己判断することが必要だと思います。(もっとも多くの場合は、両方共に不十分なのでしょうが)。

昨日から少しずつChrome英語字幕機能を使って、やはりAIでは常に完全に正確な音声認識ができるわけではないことはわかりました(英語の種類 (variety) や話者の話し方なども当然影響します)。また、AIが一度文字化した後に、その字幕を変更する様子を見るのは、私たちに余計な処理を強います。それでも、このChromeの機能が、リスニング学習に不可逆的な変化をもたらすことは確実だと考えます。

学校英語教育がこういった技術革新に対応するには少し(あるいはかなり!)時間がかかるかもしれません。学習者の皆さんとしては、それを待つのではなく、どんどん自分でこのChromeの機能を使って英語を楽しむことをお勧めします。

一日のうちのある時間帯(たとえば昼食時)に、必ず1つの英語動画をこのAIが自動的に生成する英語字幕(もしくはサイトが用意している英語字幕) を見ることは、それほど難しいことではないかとも思いますが、いかがでしょう。

これだけAIによる自動言語処理が普及している現代でも、自分の生身に英語を身につけることの価値はまったく変わりません。いや、これらのAI/ICT機能の普及で、世界的な英語使用者人口が一層増えるとすれば、生の英語を使えることの価値はさらに高まるとも考えられます。メディアの利用価値は、ユーザーが増えれば増えるほど急激に高まるからでです。

英語を学ぼうとしている方々は、どうぞ今、行動を始めてください。

あなたの学びの主人はあなた自身であり、学校の先生ではありません。

もう一度、私が英語教育について今もっているVisionsを掲載します。

Autonomy

Beyond the Classroom

Evolution in Technological Innovations


もしあなたの英語教師が十分な行動を起こさないのなら、自分が自分の教師になって、自律的に、教室以外の時空で、技術革新の中で自分の学びを進化させてください。



関連記事:
知的な英語を使いこなせるようになりたい大学生のために

続報:英語字幕自動生成機能付きのChromeブラウザーを使ってみて




2021/03/12

神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店

  

以下は、神田橋條治 (2011) 技を育む』 中山書店を読んで、私なりに印象に残ったところを再構成し文章化したものです。本書の記述を参照したところは、ページ番号で示しました。しかし、正確な引用になっていないところも多いですし、私の意見もけっこう入れています。ですから、神田橋先生の論考に興味をもった方は必ず原著を参照するようにお願いします。

 

ちなみに最近私が神田橋先生についてつくった「お勉強ノート」には以下のものがあります。

 

 

関連記事

『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html

 

 

以下の文章は、「技」、「出会い」、「専門的支援」という3つのテーマを柱として、それぞれに小項目をつける形でまとめています。

 

 

 

*****

 

 

「技」とは

 

■ 「技」は人格的に身体化されている

 

 実践者が優れた行いをした場合、私たちはその「技」を讃えますが、その技とは、Lisa Feldman Barrettが言うように、その実践者の多種多様の経験に裏づけられた数々の予測に基づく身体化されたものです。その技は、その実践者の経験の宝庫としての身体に基づくものであり、その身体が常に生起させている情動と感情に伴って生じるものです。

 

関連記事

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/09/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/2019-1-7.html

7章「社会的実在性を有する情動」(Emotions as Social Reality) のまとめ: "How Emotions Are Made"より

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/7emotions-as-social-reality-how.html

身体と心と社会は不可分である:Barrett"How Emotions Are Made"の後半部分から

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/barretthow-emotions-are-made.html

 

 

情動や感情といっても、激しいものである必要ではありませんが、技は身体の中のざわめきから自ずと生じてくるものです。ある技の外面だけを真似しても、その技の根本にある情動や感情、理論的に言い換えるなら、これまでの経験に基づくさまざまな価値判断から生じる行動仮説が伴っていなかったら、その技は場違いなものであり、技の効果が適切に発揮することはないでしょう。

 

さらに身体は、個々人固有の歴史によって形成されたものなので、Michael Polanyiに倣ってそれは人格的 (personal) なものとも言えるでしょう。

 

関連記事

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html

 

技は状況に適しているだけでなく、その場にいる実践者にとっても適しているものでなければ有効なものにはなりません。技は身体化されているだけでなく、人格化もされているのです。技は個人固有の歴史あってのものです。

 

さらに言うなら、ひょっとしたら技は個人が歴史を作る前から、その個々人に根ざしているとも言えるかもしれません。多くの優れた技能者が技の修練を目指す起点や動因は、自己実現つまり自己の潜在的可能性を発揮させようとすることだからです。それらの動機には才能の開花だけではなく、生来不得意なことを克服しようとすることも含まれています。 (p. 4) 

 

英語教育でも学習者を深い学びに導くさまざまな技がありますが、その技はその実践者の生き方を反映したものでもあります。もちろんその実践者が好き勝手に自己実現をはかっているのではありません。技の究極の目標は、目の前の人のために望ましい事態をもたらすことです。技は、その受益者と状況と目指す事態に即していなければなりません。しかしそれらに即する技は一つだけではありません。しばしば言われるように「同じ頂上に到達するにも複数の経路がある」わけです。それらのうち、どの経路を選ぶかは、実践者に依拠しています。この意味で、実践は普遍的な真理が一様に適用される科学ではなく、さまざまな個性がいろいろな偶発性の中で多様に展開するアートです。

 

このように技は次々に生まれ次々に姿を消しますが、姿を消した技も実践者の無意識の中に残っています。それは次に適した機会が生じたとき再び(ほとんどの場合は少し形を変えて)現れます。そのような無意識の財産が多くなると、実践者の意識は常に「空」のようになり、次々に状況に応じた技が新たに生まれるような感覚になります。 (p. 149) つまり、実践者は「次に何をするべきか」などと自分の心の内部に意識を向けることなく、状況の変化に注目しているうちに、その場に適した技が自然と出てくるわけです。その技は、その実践者のこれまでの経験に根ざしたものですが、それはその時々の状況に最適化されているため、新たなもののように感じられます。

 

このように技は、個々人の心身全体と溶け合っています。ですから、ある人の技を他人が同じようにやっているとイメージしていても、その成果は異なることはあります。(iii) 昔から「技は一代かぎり」と言いますが、たしかに他の人がある人の技を都合よく習得できるものではありません。

 

 

 

■ 「技」は固定的・永続的な存在物ではなく、状況的・瞬間的な出来事である。

 

これまで技を、ある人が自在に再現することができる個人の所有物のように語ってきました。しかし、私たちが「あの人の技はすごい」などと述べるときでも、その実践者は常に同じ技(同じ心身の状態から生じる同じ外的な動き)を出しているわけではありません。

 

技は、さまざまな関係性の中で生じるものですから、その時々の状況に適ったものであり、千変万化します。 (p. 7) ある英語教師がある英単語をうまく解説し例示する「技」にしても、その際の説明の言語・言い方・表情や身振り・例文・エピソード・まとめ方等などは、学習者のこれまでの学習履歴あるいはその時の理解度や集中度や反応等などによってさまざまに変化します。

 

しかしそのように細かな差異があるにせよ、実践者の技は似たような状況の中で繰り返し観察されると、「型」として抽象的に認識されます。ですから、私たちが通常「技」と呼んでいるのは、実は「型」のことです。 (p. 7) この「型」は「パターン」と呼び替えることもできるかもしれません。

 

ですから、ある実践を一度見ただけで、その「技」の本質を掴むためには、観察者に相当の力量が必要です。法隆寺を見て古の匠の技の凄さを見取るには、同等の技の力量が必要 (iii) なわけです。普通の人は、ある熟練者の「技」を何度も見ないと、そこに「型」(パターン)を見い出せません。いや、「型」を抽象化できない人も多いでしょう。

 

概念化された「型」は、同じような状況での数々の微妙に異なる技が繰り返し観察される中から形成された概念あるいはイメージです。それは口伝の対象となりますが、口頭で伝えられるのは抽象的な概念である以上、その伝承だけで技ができるようになるわけではないのは上掲のMichael Polanyiも言う通りです。

 

技は固定的・永続的な存在物ではなく、状況的・瞬間的な出来事である以上、それを定義してその定義だけからその技を再現することはできません。私たちができることは技を型として抽象的に理解し、その意味を個々人の心身で探究することだけです。その探究者の心身すなわち過去の経験記憶が、その技を行う実践者の心身と近ければ近いほど、その技(あるいは型)の伝承可能性は高くなるでしょう。これが、徒弟制が現代においても重要な理由です。

 

しかし技や型を墨守することが徒弟制の目的ではありません。芭蕉は「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と諭したそうです。(p. 195) これを、言い換えるなら、「先達の一つの技を追求しようとするのではなく、先達がその技を一例とするような型、あるいはその型で実現しようとしていた境地を探求せよ」となるのかもしれません。

 

 

 

 

「出会い」とは

 

■ ある対面が「出会い」となるとき

 

人と人が対面することは日常的な出来事ですが、それが「出会い」と呼びたくなるほどの事態になるには、ある種のきっかけが必要となります。神田橋先生はその豊かな臨床経験から、「出会い」はある者の未分化の感情と他の者の未整理の感情が即応した際に生じやすいと考えています。具体的に言うと、神田橋先生が患者に波長を合わせて対応していると、患者の生の感情がぶつけられ、考える暇もなしに即座に応えなければならず、自分の生身の感情が出ることがあるそうです。そうやって自分の心底が開かれた時に、患者との出会いが生じ、治療が進展することが多いと神田橋先生は自分の医療を総括しています。 (p. 57)

 

 

■ 発話の中で明晰に言語化できない部分を大切にする

 

「出会い」と呼べる事態はそうそう生じるものではないかもしれませんが、それでもより深い相互理解は求めたいものでしょう。そのために重要なことは、自分が語る時も他人の話を聞く時も、発話の中の、言い回しやイントネーションや間(ま)や方言の挿入といった非言語的部分に注意することです。書き言葉においても、漢字・カタカナ・ひらがなの使い分けや「て・に・を・は」、句読点、文末表現などに注意するべきです。そうすることで、さまざまな関係性がよくわかるようになります。だが、発話の非言語的な側面の中でももっとも大切なのは声の質です。 (pp. 61-62) 

 

ちなみに私はこの箇所を読んで田尻悟郎先生のことを思い出しました(もっとも神田橋先生の著作を読んでいると、しょっちゅう田尻先生のさまざまなエピソードが私の中に蘇ってくるのですが)。私にとって、田尻先生を始めとした多くの優れた現場教師の授業を見せていただき、話を聞くことができたのは、職業生活最大の幸福の一つです。私が「教育」ということばに誇りと信頼を保てているのは、このような出会いがあったからです。

 

関連記事

田尻悟郎先生の多声性について

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/04/blog-post.html

田尻先生の「進化」、言語感覚、コミュニケーション観、学習観

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_14.html

田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察

https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#050306

 

 

■ 声を意識することで自他の身体のあり方に敏感になる

 

情動・感情レベルでの相互理解を求めて自ら発声の工夫を続けていると、相手の声の変化に対する感受性が高まります。そうなると、声を聞いただけで相手の体調を感知したり背後状況を推測したりする能力が高まります。 (p. 65)

 

ちなみに、音声はからだの一部であり固有の声はその人の身体を離れることができませんが、文字(特に活字)にはそのような身体的制約がありません。ですから、文字・活字は人の身体を離れて自在に拡散します。拡散された文字・活字が暴走し、それがある人のからだの中で、再び音声のようにしてこだまするようになると、その人はしばしば病んでしまいます。 (p. 89)

 

私たちはもっと音声に対する感性を高めて、それがある人の心底からくる肉声かどうかを一瞬で見極める技能を高めるべきでしょう。あることばが、いくらある人の口から音声化され、それが記録されて文字化・活字化されたとしても、そのことばがもともと真正のことばでなければ、そのことばの意味は十全なものと考えるべきではありません。論理実証主義者なら卒倒しそうなぐらいに主観性を伴う人格的な判断です。しかし、活字の世界だけで生きているような論文生産者や官僚主義者でもなければ、そのような判断は人間が古今東西行ってきていることです。そんな「当たり前」の知恵を正当に再評価しなければ、言語教育が培うことばの力も暴走してしまいかねません。自他の情動・感情の動きに蓋をして、非人格的に仕事を進めるばかりの論文生産者や官僚主義者が書く文書に、言語教育のあり方を委ねてしまうことは危険です。私たちは、もっと現場で出てくる「生の声」に耳を傾ける文化を取り戻すべきです。

 

 

 

 

「専門的支援」とは

 

■ 専門知は素朴な知恵を払拭できる完全な知ではない

 

医療従事者にせよ学校教諭にせよ支援者は、学校でそれぞれの専門知を学び現場に立ちます。しかし、自分が学んだ専門知が、人間としての素朴な知恵の完全な代わりとなるような知であるなどと誤解してはいけません。支援者は、特に初心者のうちは、まずは素の人間として共感し助言するべきです。そこで限界を感じた時に、専門知識を参照しはじめるぐらいでいいのではないでしょうか。 (p. 76)

 

専門知は完全なものではないということから、神田橋先生は、相反する考えを保ち続け相互干渉させる葛藤こそが理想的なこころのありようだと考えるようになりました。「正・反・合」 の合を終点とせずに、それを新たな正としてそれに対する反を求めるようになりました。また、反とまではいわないものの、よく似ているがわずかに異なる表現を加えることで、合/正に膠着しないようにもしているそうです。 (p. 69)

 

今さら言うまでもないことですが、複数の人々が絡み、複合的な事象については、多様な見解を大切にし、多くの人の声を聞くべきです。たとえ当座、一つの結論を得てそれを行動指針にするにせよ、その結論とは微妙にあるいはかなり異なる複数の意見を常に頭の片隅に置いておき、状況に柔軟に対応できるようにするべきです。それが民主主義的文化の利点の一つでしょう。ちなみに、私は最近、民主主義を教条・政治原理というよりは歴史を通じて人類が得てきた素朴な知恵として捉えるようになっています。

 

 

 実践者の物語の中に部分的な科学知を取り込む

 

優れた実践者は、学校で学ぶ専門知の体系に忠実に思考し行動を決定しているわけではありません。そのような思考・行動をすれば、早晩、現場はひどいことになるでしょう。もっともそのような理論崇拝者の中には、「正しい措置をしたのにうまく行かないこの現場は、ひどいものだ」と責任を現場に押し付ける者もいますが・・・。

 

実践者は、理論体系ではなく、自分で納得できる物語に支えられています。この場合の物語とは、さまざまな出来事を関連付け、それがどのように動いてゆくかについての全体的な見通しを与える語りのことだとここでは私なりに説明しておきます。物語は意識に上らないこともありますが、実践者はその物語に即して次の行動を選んでいることが多いわけです。 (p. 83)

 

科学としての医学と現場実践としての医療の2つについて対比的に考えてみましょう。自然科学が発展する前の医学の知は医療の現場から得られたものだったのでしょう。しかし、今では医学の知は医療の現場に下ろして適用するべきものとなり、医学と医療の間の方向性が変わってしまっています。ですが、医学の知は医療の現場では必ずしもそのままの形で常に役立つわけではありません。なぜなら正確さを求め、単純化した条件得られる医学研究の知は、複雑系・複合系の極みである人間の治療につなぐことが難しいからです。 (p. 111)

 

 

■ 「治療学」や「授業学」は理論ではなく物語の形を取るだろう

 

それでは医学に代わる医療学あるいは治療学を新たに作ったとしても、医学研究のような形での論文は書けないはずです。治療学でまとめられる知見は複雑・複合的な場に関する知なので、原理・原則(あるいは主義・主張)の域を超えることはないでしょう。 (p. 112)

 

同じように、複数の異なる人間が多くの流動的な要因から構成される複合的な世界で相互作用をする授業について「授業学」という学問を作ったとしても、それを古典的な論理実証主義の様式で発展させようとすれば、そこには必ず嘘が入り、また新たな虚学の体系ができるだけでしょう。もし「授業学」を作るとしたら、それは理論の完成や結果の普遍性を求めるようなものではなく、ある事象の具体的な検討から始まり、そこから少しずつ実践のための指針(原理・原則)を求めるものとなるべきでしょう。

 

ちなみに私は『英語授業学の最前線』という本に、「当事者の現実を反映する研究のために

―複合性・複数性・意味・力の獲得―」という論文を書かせてもらったことは、自分の研究生活において非常に重要なことの一つだと思い感謝しています。しかし、「授業学」という表現はあまり好きでないので、この本以外の媒体ではこの用語はほとんど使っていません。

 

実践のための原理・原則といっても、それがむやみやたらと並列されているだけでは、実践者も戸惑うばかりでしょう。実践の見通しを得るためには、典型的な事例ごとの全体像、つまりは物語・ストーリーが必要です。神田橋先生は、医学における EBM (Evidence-Based Medicine) は、細切れの知識を提示することで、従来の医療の物語を破壊してしまったが、批判されるべきはEBMの医学というよりは、現場の医療者の知的衰退かもしれないと述べています。「実践者は、医学の知を取り込んで、医療の物語を更新・改良するべきだ。それが現場の知というものだ」というのが神田橋先生の考え方です。 (p. 112)

 

英語教育研究においても私は、ある教授法の普遍的な有用性を立証するような実験研究ひいてはそれらの知見で「英語教育学」の体系を構築しようとする動きには興味がありません。私としては、下のような論考で、認知科学・言語学・哲学等などの基礎学問の知見をうまく統合できる物語、あるいは緩い意味での理論を作っているつもりです。

 

 

関連記事

学校英語教育は言語教育たりえているのか 意味の身体性と社会性からの考察

近刊

当事者の現実を反映する研究のために 複合性・複数性・意味・力の獲得

英語授業学の最前線』所収

なぜ物語は実践研究にとって重要なのか 読者・利用者による一般化可能性

https://doi.org/10.14960/gbkkg.16.12

意識の統合情報理論からの基礎的意味理論英語教育における意味の矮小化に抗して

https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53

英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて

https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83

人間と言語の全体性を回復するための実践研究

https://doi.org/10.14960/gbkkg.12.14

意味、複合性、そして応用言語学

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/08/no19-pp7-17.html

英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMNBMからの考察

https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11

 





2021/03/11

樋口聡先生(広島大学)の定年でのご退職をお慶び申し上げます


私の古巣である広島大学教育学研究科(現在は人間社会科学研究科)の教授の樋口聡先生がこの3月末に定年退職をなさるということを知りました。

私は若い時にあるシンポジウムで樋口先生と一緒に登壇させていただく機会を得て、その際に「すごい研究者というのはこういう方なのか」と感服しました。

その後、私は、広島大学教育学研究科で、講座こそ違え、樋口先生と同僚になる幸運を得ることができました。

今から思えば、もっともっと研究の話をしたかったのですが、お互いに行政仕事に追われ、なかなかそういった時間を見出すことができませんた。

それでも一度は樋口先生のご自宅に招いていただき、書斎などを見せていただいたことは本当にありがたいことでした。

また私が京都に移ってからも、一度、京都駅近くで食事をする機会を得られたことも嬉しいことでした。

樋口先生は非常に旺盛な研究活動をなさっているのですが、それでも常に温厚な笑顔を絶やさないことが私にとってはまた尊敬の対象となるところです。

樋口先生は、スポーツについての哲学的・美学的研究から「身心文化論」あるいは「美学と教育学」へと研究分野を開拓されてきました。それの研究活動は日本だけでなく、海外でも注目され、近刊としてもSomaesthetics and the Philosophy of Culture: Projects in JapanがRoutledgeから刊行されるそうです。


樋口先生についての個人的なことをあまりここで私が勝手に書くべきではありませんが、樋口先生をご存知の方は誰でも知っているように、樋口先生は現在難病と闘っています。

樋口先生が病に倒れた時は私も含めて、誰もがことばを失いました。

そんな中でのこのご努力に私は頭を下げるしかありません。

そしてご定年までお勤めをお続けになったことをお慶び申し上げます。


そういう樋口先生という研究者そして人格に接することができたのは、私の人生にとって本当に大きな意味をもっています。

とはいえ私はご無沙汰ばかりしており、まったくの恩知らずと言われても仕方ありません。

しかし、さきほど樋口先生のご退職の報を聞きましたので、この文章を記しました。


樋口聡先生のこれからのご健勝とご多幸を心よりお祈りいたします。



追記

樋口先生からの許可をいただいたので、先生の著作一覧のPDFをここに掲載します。





2021/03/10

古田徹也 (2020) 『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHK出版)


この本の著者は、ウィトゲンシュタインの哲学を「この世界についての展望を開くための哲学だ」と総括しているが (p. 20)、本書は、まさにそんなウィトゲンシュタイン哲学についての展望を示している。著者はウィトゲンシュタインの哲学を実践している。


言い換えるなら、この本は、前期から後期に至るウィトゲンシュタインの哲学が一本の糸でつながっていることを示している。

前期の『論理哲学論考』と後期の『哲学探究』、すべての哲学的問題は解決したと考え小学校教師に転身したウィトゲンシュタインと哲学を再開するウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』を博士論文として提出し審査員のラッセルとムーアに「心配しなくてもいい、これをあなた方が理解できないのはわかっている」と述べたウィトゲンシュタインと講義中に思考を重ねことばにつまりながら自分の哲学的能力に絶望するウィトゲンシュタイン、熱心な教師としてのウィトゲンシュタインと生徒や保護者と衝突を繰り返す教師としてのウィトゲンシュタイン -- 

これらの哲学とウィトゲンシュタイン像はすべて一本の糸でつながっている。彼は(哲学学者としてではなく)哲学者として生きた。ゆえに彼の哲学と人生はつながっている。そして下手をするとバラバラに見える彼のさまざまな哲学的な主張も実はつながっている。


もちろん、このつながっている一本の糸は、単純でまっすぐなものではない。時に曲がり、からみ、もつれ、細くなり、太くなる。また、ウィトゲンシュタイン自身も言うように、長い一本の糸にはその端から端までを貫く繊維があるわけではない。糸はさまざまな繊維が重なり合い連なり合うことで長い一本の糸となる(『哲学探究』第67節)。ウィトゲンシュタイン哲学を貫く糸も多種多様な繊維のさまざまな重なりと連なりから構成されている。この本は、そんな糸のあり方を具体的に解説し、ウィトゲンシュタイン哲学への展望を与えている。


一本の糸のつながりを示すことで展望を与えると述べたが、しかし展望の与え方は一つだけとは限らないこともウィトゲンシュタイン哲学は示している。 (p. 209) だから言うまでもないことだが、本書で示されるウィトゲンシュタイン哲学理解(一本の糸)だけが唯一真正の理解であるわけではない。


だが本書は本書なりに、一見したところまったくの別物のようにさえ思えるウィトゲンシュタインの哲学的主張の間にさまざまな「連結項」を見出し、それらの間のつながりを明らかにしている。


さらに連結項は見いだされるだけではなく、時に発明されるものでもある。社会科学でもある構成概念を理念的に作り上げることによって、その対比で現状を理解することはしばしば見られることだ。 (p. 219)


こうして私たちは「連関を見て、展望を得る」。しかしそれは(上でも示唆したように)一度きりのことではなく、「そのつどの文脈、自分の立ち位置、自分の関心に応じて、試み続けるもの」である。 (p. 225)


したがってウィトゲンシュタインの哲学は、単に「ひとつの理論だけで多様な物事をまとめ上げようとする硬直化した思考」を解体するだけのものではない。彼の哲学は、「物事に様々な角度から光を当て、そのつど浮かび上がる様々なアスペクト同士を比較することではじめて見えてくるもの」 (p. 225) の価値を認める哲学である。


ちなみにこのウィトゲンシュタイン哲学の動態性という観点は、私にとっての本書からの最大の収穫の一つであった。 ウィトゲンシュタインはひとつの物事の捉え方をただ相対化したのではない。彼は、ある人間がその生きる文脈の中でさまざまに視点を変え、多様な「アスペクトの閃き」を経験することによって得られる理解の重要性、そしてその理解をさらに更新し続けることの意義を説いたのだ。したがって彼の哲学とは、哲学的に生きることである。ある1編の論文1冊の本などで集結するものではない。哲学的に生き続けること、そしてそのことによってよりよき人生を創造し続けることが彼の哲学だと私は理解した。


本書は、ウィトゲンシュタインの哲学と人生の関係について次のようにまとめている。


前期の仕事がまさにそうであったように、彼自身が、ひとつの像に囚われて安易な一般化へと向かう傾向を強くもっていた。我々の大半と同様に、偏見に流され、ステレオタイプで人や物事を見ることがしばしばだった。彼はそのような自分を変えたいと願った。それゆえに、彼は新しい哲学の方法を必要とし、それを作り上げたのだ。 (p. 297)


そんなウィトゲンシュタインの哲学を私たちが読むということは、彼の文章を通じて、私たちが考え、さまざまな連結項を発見あるいは発明し、今まで見えなかった連関を見て新たな展望を得ることだ。そして時や状況が変わった上でウィトゲンシュタイン哲学を読み直すということは、新たな連関や展望を得ることが必要であることを私たちが直観し、再読・再思考により、新たなつながりを見出し自らの理解を更新するということだ。そして古い理解と新しい理解を比較し、その比較ではじめてわかることを新たな洞察とし、再び自らの実践的世界に戻ることだ。この意味でウィトゲンシュタインについて私たちは、「哲学学」の一部として知識を得るのではなく、「哲学」として読者自身の生き方と融合すべきなのだ。


『はじめてのウィトゲンシュタイン』という題名をもつ本書ではあるが、教育学部・教育学研究科の学生として哲学をかじりはじめた経歴をもつ私としては、この本が、これまで哲学の本をほとんど読んだことがない初心者にとってわかりやすいものかどうかについては断言できない。だが本書がウィトゲンシュタインという哲学者のさまざまなつながりを見事に解明し、さらには読者自身が発展的に考察することを促す書であることは間違いない。ウィトゲンシュタインについてある程度を知る人は、確実に本書の価値を認めるだろう。





2021/03/08

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈

  

以下の記事は、前の記事と同様の方針で作成された、私なりの覚書です。個人的な解釈や書き換えがずいぶん入った概略です。決して『哲学探究』の忠実な抜粋や要約ではありませんのでご注意ください。

 

また、この第89-133節の重要性については鬼界彰夫先生の『『哲学探究』とはいかなる書物か: 理想と哲学』に教えられました。この鬼界先生の本は、ウィトゲンシュタインについて学ぼうとしている私にとって野矢茂樹先生の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』と並んで、決定的に重要な本でした。

 

関連記事

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

 

その鬼界先生の本を読みながら、下のような理解しかできないというのは、私の哲学的力量のなさを示しています。ですから、この記事の読者の方は、言語教育を理解するために哲学を利用しようとする者がウィトゲンシュタインをこう誤解したとお読みくださっても結構です(もちろんあまりにひどい間違いがあれば、どうぞご指摘ください)。

 

 

■ 科学的な問いと、哲学的な問い(第89節)

 

概略:「水素の比重はいくつか」という問いと、「時間とは何か」という問いは、別種の問いと考えた方がよいのではないか。前者の問いは自然科学で答えが出るが、後者の問いについては答えが出にくい。というよりアウグスティヌスも言うように、時間といった概念は、誰にも尋ねられていないなら知っているとして何の不安もないのだが、いざ説明しなければならなくなると知っているとは言い難くなる概念である。

 

=> 時間といった概念についての問いは、哲学的問いといえるかもしれない。なぜなら、そのような概念については自然科学的な調査をするよりも、私たちがその概念をどのように使っているかを心に呼び起こすことの方が有用だからだ。さらには、ある理由により、そのような想起が難しくなっているからだ。その理由を解明し、私たちが自由にその概念について思い起こせるようにすること、そして、その問いを自然科学的に答えなければならないという執着から私たちを解放することが哲学の効用といえるだろう。哲学的問いとは、哲学によって私たちの思考の癖を理解することにより、哲学的問いが解答不可能な難問ではないことに気づかせることである。哲学的問いは、私たちが思い起こせる事例を記述することにより、いつか、その問いに答えなければならないという焦燥感から解放されるものである。同語反復的な言い方になるが、科学的問いが科学によって解決されるべき問いであるのに対して、哲学的問いは、哲学によって解消されるべき問いであるとも言えよう。

 

 

■ 哲学的な問いについて、私たちは十分に現象を観察しないままに、あらゆる可能性について考えようとする。(第90節)

 

概略:哲学的な問いについては、私たちは現象を見通して、すべての可能性について答えなければならないと考えてしまう。

 

=> かくして私たちは哲学的な問いが示す実に様々な可能性について考えるが、それらの可能性を1つの本質にまとめあげなければならないと思い込んでしまうと、可能性の多様さが仇となって、困惑してしまう。

 

 

■ 哲学的な問いでは、ついつい「本質は隠されている」と考えてしまう。(第92節)

 

概略:言語や思考の本質を問うのも哲学的な問いの例だが、私たちは思考の癖によりこれらの問いにおいて、表面の下に存在する本質を探そうとする。ついつい「本質は私たちから隠されている」 (Das Wesen ist uns verborgen / The essence is hidden from us)、「答えは、一挙に、未来のどんな経験とも独立に与えられなければならない」 (Und die Antwort auf diese Fragen ist ein für allemal zu geben; und unabhängig von jeder künftigen Erfahrung. / And the answer to these questions is to be given once for all, and independently of any future experience.) と考えてしまう。しかし、この問いから私たちが行うべきことは、すでに誰の目にも明るみに出ていていることをうまく順序立てることにより見渡すことができるもの (was schon often zutage liegt und was durch Ordnen übersichtlich wird. / something that already lies open to view, and that becomes surveyable through a process of ordering.) として探究することである。

 

=> 厳密だが、それゆえにきわめて限定的な範囲でしか答えることができない自然科学の方法論では答えられない問いに対して、私たちは哲学的に答えるべきである。だが、哲学的な素養がないままに無闇に考えると、ついつい「私たちは表面には見えない隠された本質を、一気に見つけ出したい。それを答えとして、将来二度とこの問いを問わずに済むようにしたい」と考えてしまう。だがそれは哲学の誤用であり、そのように考えると多くの哲学者のように徒に頭を悩ませてしまうだけである。

 

哲学が本来なすべきことは、なぜ私たちがついついそのように考えてしまうのかを明らかにして、その思考の癖から自由になって、思い起こすべき事例を思い起こすことである。さらに、それらの事例をうまく整理して並べることにより、物事の見通しを得ることである。見通しが得られたなら、かつて解決不可能という焦燥感がいつか解消する。哲学的問いは、さまざまな事例を思い起こさせ、哲学的問いを生み出していた困惑を消すきっかけとなっていたことに気づく。だがこの解消によってこの哲学的問いが永遠に消え去るわけではない。状況が変わり、新しい戸惑いが生じたら、この種の問いは再び生じてくるかもしれない。だが、その時になすべきことは、誤った哲学的行き詰まりに向かわず、正しく哲学的に考え、物事をうまく見渡すことである。

 

 

■ 『論理哲学論考』の批判(第97節)

 

概略:『論理哲学論考』では、思考の本質は論理であり、それは世界のアプリオリな秩序であり、最高度に単純で、すべての経験に先立ちかつすべての経験を貫く、確実なものであると考えられていた。しかし、思考・言語・経験・世界といったことばは、机・ランプ・ドアといったことばと同じように控えめに使われなければならない。

 

=> 『哲学探究』によれば、『論理哲学論考』のような思い込みこそが、哲学的問いを不必要に難問にしてしまう。論理という理想を現実と混同せずに、現実を現実として観察し、自分の当面の不全感を解消できるように現実の見通しを得ることが『哲学探究』における哲学の役割である。思考・言語・経験・世界といったことばに過剰な思い入れを投入してはならない。

 

 

■ 思い込みが思い込みであるということがわからない(第103節)

 

概略:論理という理想が、眼鏡のように人々の鼻の上に乗っているので、人々は見るものすべてを理想化して認識しようとする。哲学を極めない人々は、その眼鏡を外すという考えに思い至らない。

 

=> 眼鏡の比喩を拡張させるなら、大学や大学院などで下手に学問を学んで「学者さん」になってしまうと、上の眼鏡をかけることこそが知的な態度であると信じ込み、その眼鏡を決して離そうとしない。それどころか、学者さんは、眼鏡をかけていない人を馬鹿にするようになる。だが実践家は、その眼鏡をかけた学者さんの言うことが現実離れしていることを痛感している。実践家は学者さんにめったに進言しないが、勇気をふりしぼって進言しても、学者さんは逆に「あなたも眼鏡をかけると、私のようにきちんと物事を考えることができますよ」と諭したりする。実践家は困惑し、学者さんたちとの交流をさらにやめようとする。

 

 

■ 哲学とは、言語によって私たちの知性にかけられた魔法との戦い。(第109節)

 

概略:哲学的問いに対して、科学的問いに対するように予め立てた理論や仮説による説明を試みてはならない。哲学的問いには、私たちが思い起こす事例の記述を答えとする。そして、その記述は、その哲学的問いがあったからこそ目的を得て、そこに存在するようになったのだ。哲学的問いは、新たな経験によって答えられる問題ではなく、私たちがずっと以前からよく知っていることを組み合わせることによって解かれる問題である。だが哲学的問いに正しく対処するには、私たちは哲学的問いを、論理の理想によって誤解しようとする衝動に対抗しながら言語の働きを正しく認識しなければならない。哲学とは、論理の理想を押し付けてしまう言語の働きによって私たちの知性にかけられた魔法と戦うことである。

 

=> ここで「知性」としているのは、 “Verstand / understanding” の訳語。カントによるなら、理性 (Vernunft / reason) が扱うべき抽象的な理念 (Idee / idea) を、悟性 (Verstand / understanding) が実証的に知ることができる概念 (Begriff / concept) と思い込んでしまうのが私たちの根本的な錯誤の1つ。ここでウィトゲンシュタインの批判的思考とカント(そしてカントの影響を受けたアレント)の批判的思考は重なっている。

 

関連記事

「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/blog-post_5.html

1 Introduction and Key terms

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/introduction-and-key-terms-summary-of.html

2 Transcendental ideas

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/transcendental-ideas-summary-of-kants.html

3 'I' as the transcendental subject of thoughts = X

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/i-as-transcendental-subject-of-thoughts.html

4 Freedom

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/freedom-summary-of-kants-critique-of.html

5 Principle of Pure Reason

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/principle-of-pure-reason-summary-of.html

 

ちなみに「知性」は、鬼界先生の訳では伝統的な哲学的用語である「悟性」と訳されています。しかし、私は中山元先生の訳にしたがって「知性」という訳語を好んで使っています。(詳しくは上の関連記事の最初の日本語記事をお読みください)。

 

補記:この箇所は重要なので原文と英訳を掲載しておきます。

Alle Erklärung muß fort, und nur Beshreibung an ihre Stelle treten. Und diese Beshreibung empfängt ihr Licht, d. i. ihren Zweck, von den philosophischen Problemen. Einsicht in das Arbeiten unserer Sprach gelöst, und zwar so, daß dieses erkant wird: entgegen einem Trieb, es mißzuverstehen. Die Probleme warden gelöst, nicht durch Bebringen neuer Erfahrung, sondern durch Zusammenstellung des längst Bekannten. Die Philosophie ist ein Kamp gegen dier Verhexung unseres Verstandes durch die Mittel unserer Sprach. 

All explanation must disappear, and description alone must take its place. And this description gets its light -- that is to say, its purpose -- from the philosophical problems. These are, of course, not empirical problems; but they are solved through an insight into the workings of our language, and that in such a way that these workings are recognized -- despite an urge to misunderstand them. The problems are solved, not by coming up with new discoveries, but by assembling what we have long been familiar with. Philosophy is a struggle against the bewitchment of our understanding by the resources of our language.

 

 

■ 幻想を幻想として見極めることにより、哲学は再出発できる(第118節)

 

概略:この『哲学探究』の哲学は、これまでの哲学的問いを的外れなものとして、破壊しているだけのように思える。しかし破壊しているのは空中楼閣であり、『哲学探究』は、その破片を取り除き、その下にある言語の土台を明らかにしているのだ。

 

=> これまでの哲学的問いは、人々を困惑し続ける形で答えられてきた。そしてそれはそれなりに、偉大なる哲学の営みと思われている。だがウィトゲンシュタインによれば、そのような過去の遺産は幻想である。私たちは幻想を幻想として、哲学的問いにより触発されながら現実を思い起こし、それを整理する営みを始めるべきである。

 

 

■ 全体を見渡そうとする理解(第122節)

 

概略:理解とは関係を見ることであり、全体を見渡せるような描写によって理解は促進される。全体を見渡すとは、私たちの物事をどう見るかに関わる。(これを世界観といってもいいのだろうか?)

 

=> 特定の細部を見つめるのではなく、全体を見渡すというのは、当事者研究の「『見つめる』から『眺める』へ」という原則にもつながる。ウィトゲンシュタイン同様、これを世界観の変化と呼んでいいのかどうかわからないが、認識方法の大きな転換であることは間違いない。英語教育界の多くの研究者は、このような認識の転換を行うことは、学者としての自殺のように考えているのかもしれない(そして、実際、誤った方法で哲学をやってしまうと、それは確かに自殺となるだろう)。

 

関連記事

英語教師の当事者研究

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

 

補記:この箇所も重要なので原文と英訳を掲載しておきます。

Es ist eine Haputquelle unseres Unverständnisses, daß wir den Gebrauch unserer Wörter nicht übersehen. -- Unserer Grammatik fehlt es an Übersichtlichkeit. -- Die übersichtliche Darstellung vermittelt das Verständnis, welches eben darin besteht, daß wir die ‘Zusammenhänge sehen’. Daher die Wichtigkeit des Findens und des Erfindens von Zwishengliedern.

   Der Begriff der übersichtlichen Darstellung ist für uns von grundlegender Bedeutung. Er bezeichnet unsere Darstellungsform, die Art, wie wir die Dinge sehen. (Ist dies eine ‘Weltanschauung’?)

A main source of our failure to understand is that we don’t have an overview of the use of our words. -- Our grammar is deficient in surveyability. A surveyable representation produces precisely that kind of understanding which consists in ‘seeing connections’. Hence the importance of finding and inventing intermediate links.

   The concept of a surveyable representation is of fundamental significance for us. It characterizes the way we represent things, how we look at matters. (Is this a ‘Weltanschauung’?)

 

 

■ 哲学者の仕事とは、言語の濫用を避け、ある実践的な目的のために様々な記憶を運び集めることである。(第127節)

 

概略:哲学者の仕事とは、ある特定の目的のために様々な記憶を整理すること (ein Zusammentragen von Erinnerungen zu einem bestmmten Zweck / marshalling recollections for a particular purpose) である。

 

=> 哲学者は何ら新しい発見をせず、私たちが知っていたが、誤った哲学的衝動に駆られて理想化された答えを求めるあまり、見ようとしなかった事柄に私たちの目を向けさせる。ある哲学的問いが出るのは、それなりの実践的な困惑があってのことだろうから、その困惑を解消するために、さまざまな事例を思い起こさせるのが哲学者の仕事である。哲学者は、知性の幻想から私たちを守り、私たちを現実世界にとどめてくれる。

 

 

■ モデルと現実を混同しない。(第131節)

 

概略:私たちが何らかのモデルを使うにせよ、それを現実の姿、あるいは現実がかくあるべき姿として錯誤することなく、あくまでも比較の対象として、いわば物差しとして扱うべきである。

 

=> 私たちはセンチ・ミリで目盛りが入った直線の物差しを使っても、現実の対象が、センチ・ミリの単位にちょうど合う長さをもっていなければならないとか、直線でなければならないとかは考えない。同じように、モデルは現実を観察する際の「比較の対象」にすぎないのであり、現実をモデルに合わせるように歪めて認識してはならない。

 

関連論文

Yanase, Y. (2002) Two Approaches to Language Use: Applied Linguistics as Philosophy.

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/en/00033453

 

ちなみに臨床の名医の神田橋條治先生も、理論の方に患者を当てはめてしまう頭でっかちの医者の批判をしている。

 

関連記事

『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html

 

 

■ 当面有用な1つの見通しを得るために用語の整理をすることもある。(第132節)

 

概略:哲学的問いに直面する私たちが求めていることは、その問いで問われたことばの使用についての私たちの知識に何らかの秩序(あるいは見通し)を生み出すことである。それは、当面の哲学的問いを生み出した状況からの打開を図るという特定の目的のために、可能な多くの秩序の中の1つを生み出すことである(それ以外ない唯一無二の秩序を生み出すことではない)。この見通しを得るために、哲学は日頃見落としがちな区別を強調するため用語を改善したりする。そのため、哲学は言語の改良を行っていると思う人も出てくるかもしれない。だが、そういった言語への介入は、言語が空転している時に限った必要最小限のものである。

 

=> 思い起こした事例を整理して、全体の見通しを明らかにする際に、新たな用語を提示することもあるかもしれない。だがそのような言語への介入は控えめに行うべき。そうやって得られる見通しは、当面の目的を満たすために得られた見通しであり、未来永劫有用な普遍的なものではない。さまざまな要因が交錯している哲学的問いにおいて、対象と要因と方法論を厳密に限定した科学的問いで得られる普遍性を求めるのは間違いである。

 


 

関連記事

 ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈(この記事)

 https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/89-133.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節の個人的解釈

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/1-88.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード

https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html


 

 


「英語教育の希望としての田尻実践」のスライドと準備録画の公開、および若干の感想

3/23(土)の「 人を育てる英語教育:田尻悟郎の授業は大学生の人生にどう影響を与えているのか FINAL! 」は、会場がほぼ満員で終始いい雰囲気の中で終わりました。激しい雨の中お越しいただいた皆様、煩瑣な裏方作業を引き受けてくださいました凡人社の皆様に厚く御礼申し上げます。 下...