以前読んだ國分功一郎先生による『中動態の世界』は圧倒的に面白い本であった。
國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html
本書『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』は、國分先生に深い影響を与えている熊谷晋一郎先生との対談本です。発刊されてすぐに購入したのですが、長い間読むことができませんでした。最近、ようやく読了することができましたので、以下に、本書を引用しながら私なりのエッセイを書くことで、この本を紹介いたします。
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■ 「英語が話せる」と「私は英語を話す」の違い
「英語が話せる」ようになりたいという学習者は多い。だが、英語教師はしばしば自覚抜きにこの表現を、「学習者が、「私は(が)英語を話す」
という事態を欲している」と翻訳してしまう。中核部分である「私は(が)英語を話す」だけを抜き出せば、<学習者という主体が、英語という客体を、話すという行為で使う>という図式で理解する。英語で表現するなら、"I speak English" という <Subject + Action +
Object> の枠組みで考えるわけだ。
と言われても何のことかわからない方も多いかもしれない。しかし、中動態 (middle voice) という文法の考え方を導入すればこれらの違いが少しはわかるようになる。とりあえずは、「英語が話せる」という表現が表している事態と、「私は(が)英語を話す」が表している事態の違いについて考えてみよう。
前者の「(私は)英語が話せる」という表現は、<「私」という場所において、「英語が話せる」という出来事が生じる>ことを表していると解釈できる。「私」とはその出来事の過程が展開する場である。この表現は以下の中動態の定義に当てはまると考えられる。
「中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」 (エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』(岸本通夫訳、みすず書房、1983年、169頁:本書p
97からの孫引き)
安直にWikipediaを見ると(自分の不勉強ぶりに嘆息)、Zúñiga, F., &
Kittilä, S. (2019). Grammatical voice. Cambridge: Cambridge
University Press.を参考文献として掲げた上で、次のような中動態の特徴が掲載されている。
The subject of such
middle voice is like the subject of active voice as well as the subject of
passive voice, in that it performs an action, and is also affected by that
action
https://en.wikipedia.org/wiki/Voice_(grammar)#Middle_voice
拙訳:中動態の主語は、能動態の主語とも受動態の主語とも似ている。なぜなら中動態の主語は、行為を遂行しながらも行為によって影響を受けるからである。
この定義からも、「(私は)英語が話せる」という表現は、中動態的な事態を表現していると考えることができる。以下の解釈が可能だろう。
<私という場所において、私が英語を話すという事態が生じる>
だが上の表現では丸括弧付きで「私は」を補ったが、そもそも堅苦しく「私は」を入れる必要はないのかもしれない。日本語の口語表現ならば、「英語が話せる」の方が、「私は英語が話せる」よりも自然かもしれない。
後者は、「他の人とは違って、私は・・・」という「取り立て助詞」として「私は」が使われていると考えた方がいいだろう (益岡隆志・田窪行則 (1992) 『基礎日本語文法 改訂版』 くろしお出版 p. 50)。
日本語ではしばしば主語が省略される。というより、日本語文法ではそもそも「主語」という概念を設定しない方が、説明が合理的になる(三上章 (1960) 『象は鼻が長い』くろしお出版)。
「は」は、(主語ではなく)主題を提示する提題助詞であると三上文法、およびそれに影響を受けている益岡・田窪の文法は考える。(関連記事:文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―) 聞くところによると外国人に日本語を教える現場では、この日本語の「は」は主題提示であるという教え方が好まれているともいう。
ともあれ、日本語では、英語のような主語がない「英語が話せる」ようになりたいという願望表現は極めて自然だということには異論はないだろう。
だがこの願望は、「私は(が)英語を話す」 (I speak English) ことに関する希望に翻訳することができる。この表現は、中動態的事態を能動態的に表現したものだ。
能動態の説明など今さらと思うかもしれないが、能動態を中動態と対立させて定義するなら次のようになる。
「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。 (エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』(岸本通夫訳、みすず書房、1983年、169頁:本書p
97からの孫引き)
現代の英語などでは、能動態と中動態の対立ではなく、能動態と受動態の対立で言語の働きが成立している。したがって、この上の定義を現代英語に当てはめるのは正当ではないのかもしれない。だが、あえてこの中動態との対比で定義される能動態の枠組みで解釈するなら、「私は(が)英語を話す」
(I speak English) は次のような事態を表現していると解釈することができる。
<私という主体は、「英語を話す」という行為を、私の外で行う>
この解釈での「私」は、英語を話している自分とは別の場所に定位される。デカルトの心身二元論よろしく、次の解釈が導かれる。
<非身体的な「私」という主体が、「私の身体」という客体を使用して、「その身体が英語を話す」という事態をもたらす>
ここでは、「私」と「私の身体」が分離している。「私」は「私の身体」の一部ではない。「私の身体」とは、「私」によって使用される客体(対象)なのだ。また、「英語」も「その身体」の外部にある。「英語」と「身体」も分離している。
この分離的な認識は、多くの現代人に共有されている。私が身体論を説くと、多くの人がやってきて「ご意見に賛成です。正確な練習を繰り返して、自分の身体(口舌などの発声機関)を正確にコントロールできるようにならないと駄目ですよね」と語りかけてくる。
もちろん私もそのような見解がまったく間違っているとは思わない。現実的には、技能獲得訓練の一部には「機械的」と称されても仕方がないような反復練習もある。だが、その際でも、「私」と「私の身体」は、支配者と被支配者あるいは制御者と物体のような一方的支配関係にはない。仮に最初はそのようにしか思えなかったとしても、「私」と「私の身体」を融合して一つにするのが反復訓練だと私は認識している。
私からすれば音楽演奏やスポーツを学んだ経験がある人なら、このような認識はすぐにわかってもらえるはずだと思っている。だが、現在、一般人で運動を行っている人の中の多くは、筋肉トレーニング(筋トレ)ばかりを行っているので、<「私」が「私の身体(筋肉)」を支配的に使用する>という発想からなかなか抜け出すことができない。
そこで本書を引用しながら、今一度、使用とは何かについて考え直してみよう。
■ 使用論:「何かを使用する」とはどういう事態なのか?
この本では、ジョルジュ・アガンペンの『身体の使用』が随所で引用され、論説を補強している。私はこの本を未読だし、原著はイタリア語なので、読んだとしても翻訳の日本語しか頼ることはできないので甚だ心もとないのだが、それよりも恥ずかしい孫引きを以下に行う。
「主体は動作を支配するのではなく、みずからが動作の起こる場所なのである」(ジョルジュ・アガンペン著、上村忠男訳 (2016) 『身体の使用』 https://amzn.to/2NFXOkb (p. 59)
みすず書房からの孫引き) (p. 353)
補記:上の翻訳の「みずからが」の「が」の意味が今ひとつはっきりとはわからない。翻訳書からの引用ミスなのか、それとも翻訳書ではこの通りになっているのかがわからない。もし後者だとしたら、原著を見ればよいのだが、私はイタリア語がまったくできないので、原著参照も無意味である。後日、日本語訳を読んで面白かったら、英訳も参照してみよう。原著を読むことができないにせよ、2種類の翻訳を比べてみれば何か少しはわかるかもしれない。
この見解は、日本語で考えれば非常によくわかる。上でも述べたように、例えば日本語の「私は」は、主語ではなく主題 (topic) を表す表現である。 “Topic” の語源は “topo(s)” であるから、「主題 (topic)」
を「場所」と訳すことは牽強付会ではない。となると、上の引用文は次のように解釈できる。
「私」は、動作を支配する動作主 (agent) ではなく、動作が起こる場所である。日本語の「私は」は、文法上の主語 (subject) と認識されることも多いが、実は、文が語る話題が展開される場所 (topic) と考えるべきである。「私」とは、「私の動作」 (action) という客体 (object) を引き起こす動作主 (agent) ではない。「私」とは「私の動作」が生じる場所であり、そこにおいて「私」と「私の動作」は分離し難い。
この解釈は極めて日本語的でありながら、中動態的でもある。動作が生じる過程は、私という場所で展開する。私は、その過程の中にある。少なくも「私」と「私の動作」は分離していない。「私」は、「私の動作」を遂行している主体のようであるが、「私の動作」によって影響も受けている。
この発想法は、現代英語では珍しいかもしれない。現代英語では、文法上の主語 (subject) が、動作を表す述語・動詞の動作手 (agent) であり、文の話題 (topic) でもあることが好まれることが数々の文体指南書が示すことだからである。(日本語での文献なら、たとえば遠田和子 (2018) 『究極の英語ライティング』がわかりやすい)。
日本語話者は、本来は中動態的発想に慣れ親しんでいるはずなのだが、英語の発想に影響を受けた英語教師などは、中動態発想を忘れ、能動態的な認識ばかりをするようになっているのではないだろうか(根拠のない我田引水的な憶測)。そして、「英語が話せる」ようになりたいという学習者の希望を、<学習者という主体が、「英語を話す」という行為を、学習者の外で遂行する>、ひいては<非身体的な学習者という主体が、「その学習者の身体」という客体を使用して、「その身体が英語を話す」という事態をもたらす>という図式で捉えているのではないか。
その結果、学習者が英語や自分の身体をよそよそしいものとみなしてもそれは当然だと思っているのではないか(「この単語をいやでも20回書く!」、「理屈はいいからとにかく音読!」などなど)。自らが学ぶ内容や自らの身体が、自らを疎外することを気にせず、むしろその苦痛に耐えることこそが勉強だと学習者に思わせているのではないか。
そもそもそんな英語教師は、自らの英語学習も、自ら学ぶ内容と自らの身体が生み出してくる疎外感との戦いであり、その苦痛に打ち勝ったからこそ、自分は英語試験で高得点を取れた(だが、不思議なことに、英語はそれほど身についていない)と思っているのではないか。
私はかつて『英語教師は楽しい』という本の「学習者と教師が主体性を取り戻すために」という章で、マルクスが『経済学・哲学草稿』で「疎外」について書いた箇所の「労働」という表現をすべて「学習」に変えた次の文章を掲載した(翻訳は、マルクス著、長谷川宏訳(2010)『経済学・哲学草稿』光文社古典新訳文庫を利用)
「第一に、学習が学習者にとって外的なもの、彼の本質とは別のものという形を取る。となると、彼は学習のなかで自分を肯定するのではなく否定し、心地よく感じるのではなく不仕合わせに感じ、肉体的・精神的エネルギーをのびのびと外に開くのではなく、肉体をすりへらし、精神を荒廃させる。だから、学習者は学習の外で初めて自分を取りもどし、学習のなかでは自分を亡くしている。学習していないときに安らぎの境地にあり、学習しているときは安らげない。彼の学習は自由意志にもとづくものではなく、他から強制された強制学習だ。欲求を満足させるものではなく、自分の外にある欲求を満足させる手段にすぎない。肉体的強制その他が存在しないと、学習がペストのように忌み嫌われ遠ざけられるところに、学習のよそよそしさがはっきりと示されている。外からやってきて人間を外化する学習は、自己犠牲の学習であり、辛苦の学習なのだ。最後に、学習が学習者にとって外的なものだということは、学習が彼自身のものではなく他人のものであり、他人に属すること、学習のなかで彼が自分ではなく他人に帰属していることのうちに見てとれる。」
ひょっとしたら、多くの人が英語の学習や技能獲得の過程で感じる疎外感の一部は、中動態的発想を抑圧した能動態的発想(主体と客体の分離と前者の優位性)から生じているのかもしれない。
話が疎外の方に行ってしまったが、本書の論旨に戻る。
著者の一人の熊谷晋一郎氏は、脳性麻痺をもっているが、自らの身体を使用することについて次のように述べている。
「支配しようとしたりコントロールしたりしようとするとうまくいかないのです。むしろ、身体が今どのような状態なのかということに聞き耳を立てるように、いわば沸き起こってくる動きをすくい上げていくような感覚がないといけない」 (p. 378)
身体から「沸き起こってくる動き」とは、「協応構造」とも言い変えられる。(この表現は、熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』
(医学書院)でも説明されている)。人間の身体は、多種多様の骨と筋肉と関節が連動して動くものであるから、それらが協応するパターン(構造)が数多く存在する。そのパターンに即した動きをすると身体は苦もなく動き、私たちは「身体を思い通りに動かした」といった感覚を得る。
この「身体を思い通りに動かす」という事態は、意志が身体を客体として支配的に動かすとことで生じるのではない。それは、自らの意志をまさに「身に委ねる」ことによって生じるのである。 (p. 374) 「私」と「私の身体」に、「主体」対「客体」の分離的支配関係を構築せずに両者を融合し、「私」と「私の身体」を分けてしまうことがむしろ困難に思えるような事態を生じさせることが「身体を使いこなす」すなわち「身体を使用する」ことではないのか。
「私」と「私の身体」の使用の関係は、「私」と「私の道具」の関係に拡張することができる。本書では、自転車に乗る例がでてくる。自転車に乗る人は自転車を支配しているというよりは、自転車と一体となり、自転車乗りとして自らを再構成している。私たちは道具を支配するというより、道具と一つになって使用を実現している。 (p. 356)
「英語が話せる」とは、「私が英語を話す」のように「私」と「英語」を分離させてしまい、前者が後者を支配的にコントロールしようとするのではない。「私」という場所において、「私」が「私の英語」を使おうとしながら、逆に、「私の英語」の言い分(「私の英語」がその構造から示してくる可能性)にも従い、どこからどこまでが「私」で「私の英語」なのかわからないような境地で、英語を生み出すことである。
別の言い方をするなら、「私」という心の中で設計図を作ってしまってから、その設計図に忠実に私の身体に英語を発話するように命令するのではない。「考えてから話す」のではなく、「話しながら考える」のだ。自分がとりあえず発話した英語に導かれ(=英語の「協応構造」に従い)、次の語彙や文法構造を選択して英語を紡ぎ出してゆくのだ。それが英語を話すということだろう。しかし日本の英語優等生には、存外、このように即興的に話せる人間が少ない。
そうなると、私たち英語教育関係者も、まさに「使用を支配に回収しない発想法を身につける必要がある」 (p. 405) と言えよう。
■ 「私はやる気を出さない」のか、それとも「私にはやる気が出てこない」のか
この本は題名が示すとおり「責任」概念について問い直す本である。その問い直しの出発点として、この本は中動態を使っている。古代では「能動態か中動態か」であった文法的対立は、やがて「能動態か受動態か」という対立になった。この新しい対立では、ある行為は「自分の意志でやったのか、そうではないのか?」という区別が明確になる(これを「尋問の言語」と呼ぶこともできる)。中動態の衰退と意志概念の勃興には平行性があるともいえるかもしれないと著者は考える。 (p. 104)
(英語)教育に即して考えるために、「やる気」を例にしてみよう。ある学習者は勉強をしない。それは「その学習者がやる気を出さない」からだろうか、それとも「その学習者にはやる気が出ない」からだろうか。前者の表現を多用する教師からは非難のことばが出てきそうだ(「どうして、君はやる気を出さないのだ!」)。他方、後者の表現を愛用する教師からは、共に事態を解明して改善しようとすることばが出てくるかもしれない(「どうしてなかなかやる気が出てこないのだろうね。一緒に考えてみようか」)。
「その学習者がやる気を出さない」とは能動態的発想である。「その学習者は主体として、『やる気』という客体をコントロール必要がある。それなのにコントロールできていない」といった含意をもつ。他方、「その学習者にはやる気が出ない」は中動態的発想である。「その学習者という場に、その学習者に学びをもたらすやる気という事態が生じていない」と解釈できるであろう。
能動的発想で「やる気を出さない学習者」と認識された学習者に、教師は平気で(「善意で」と言いながら怒気を含んで)責任を問いただす(「どうしてやる気を出さないんだ。落第しても君の責任だぞ!」)。他方、中動態的発想で「やる気が出ない学習者」と学習者に対して、教師はその個人だけに責任を求める問いただし方はしない。「どうしてやる気が出てこないかなぁ」と問いかけるうちに、学習者は自分の劣等感や焦燥感あるいは家庭内でのトラブルなどを語り始めるかもしれない。そのうちにその学習者が「でも、やれることはやらなければなりませんよね」と反省を示すこともある。
どちらの方に教育的効果があるかと問われれば、私は中動態的発想に基づくアプローチだと答える。だが、実際には能動態的発想に基づき、学習者の個人を問いただし説教をする教師が多いことに驚いている。そんな教師の中には、自分が正しいことをしていると信じ切っているから恐ろしい。百歩譲って説教で学習者がよい方向に変化すれば学習者個人だけに責任をなすりつけるやり方にも効用があると認めることができる。だが、説教で事態が改善しないことは周知の通りだ。
時間があれば「やる気」だけではなく、「動機(づけ)」や、 “motivate /
motivation” の用例についても考えたい。だが、今はその余裕がないので、次には、本書に即して、責任とは何かについて考え直してみよう。
■ 責任論:「責任をとる」とはどのような事態なのか?
著者は、責任 (responsibility) とは、応答 (response) に関わるものであるが、その応答とは、自分なりのものでなければ、それは単なる反応になってしまい、本当に責任を感じているとは思えなくなることを指摘する。 (pp. 4-5) 「何か怒られたら、とりあえず謝っておけ!」という態度が責任ある態度とはみなされないことには誰も異論はないだろう。
ここで中動態的発想を取っていると解釈できる当事者研究が注目に値する。当事者研究では、ある当事者が精神疾患の発作などの影響で「放火した」と言えば、モデレーターが「ああ、放火現象が起こったんですね」と言い換える。(p. 180) 行為を外在化して、「人」と「こと」を分けて、あたかもその「こと」が自然現象のように生じたととらえるわけである。そうやってその「人」を免責すると、多くの場合において「こと」が生じるメカニズムが明らかになる(それが当事者研究である)。そうなると、逆にその「人」は自分がした「こと」の責任を感じはじめ、被害を受けた人に対する謝罪などが素直にできるようになる。いわば個人を一度免責することで、その個人は最終的に引責できることになるのだ。 (p. 43)
当事者研究ではなく、中動態に関するあるシンポジウムに参加していた人は、こう発言したという。その人は、ある犯罪加害者だったのだが、それまでずっと罪の意識を持たねばと思いながらもそれができなかった。しかし行為の責任を行為者だけに求めるのではない中動態の話を聞いて、はじめて罪の意識を感じ始めたという。(p. 46)
心理的解釈をすれば、「現在」が安心できるものになってはじめて、現在・過去・未来という時間軸が安定し、落ち着いて過去を振り返ることができるともいえるのかもしれない。(p. 182)
ともあれ、中動態的発想がなければ、とても責任を引き受けるに至ることができないのではないかというのが本書の主張である。 (p. 401)
それにもかかわらず、私たちが行為の責任(あるいは原因)を特定個人の内にのみ求めがちなのかといえば、著者は、そこには「意志」という概念が絡んでいるという。最後に、これまた本書に即しながら、かんたんに「意志」について考えてみよう。
■ 意志論:意志とは何なのか?
意志概念に関する歴史的考察は、本書や『中動態の世界 意志と責任の考古学』に詳しいが、ここではその要約は割愛する。
ただ本書の重要な論点の一つは、「ある行為が行為者の意志によってのみ開始されたという考え方は、どんな人間も過去からの影響を受け外部からの刺激を受けている以上、現実的ではない」ということである。それにもかかわらず近代人が意志を行為の(唯一のあるいは重要な)原因として見ているのは、もはや信仰としかいいようがない (pp. 111-112) と著者は訴える。
信仰といっても、近代人にはその自覚はない。行為の原因としての意志を前提とした社会制度(特に法制度)が普及してしまったので、意志概念を使い続けているといった方がいいのかもしれない。
それでは意志を前提とするとどのような社会になるのか。まずは、行為の原因をもっぱら意志のみに求めることで、その行為はその人が個人的に所有しているもの(=私有財産)であるとみなせる。 (p. 114) ある意味、「近代」を構築した言説の有力な部分は、私有財産の保護そして権利を求めるものであったから、ある行為を、その行為を引き起こしたとされる意志を有している者の専有的所有物とする考え方も、容易に普及したのかもしれない。
かくして、ある行為の責任をある特定の個人に帰することが「当たり前」になってきた。 (p. 193) さらには、ある諍いが起こった時でも、中動態的発想なら、「私たちという場において、諍いという出来事が生じ、私たちを苦しめている」となるが、個人主義文化での能動態的発想なら「ある特定の人間がある特定の意志によって、諍いという出来事を引き起こした」となる。そうなると「悪いのは誰だ!」という犯人探しが始まる。
その犯人探しのゲームで、誰か他人に責任を帰属させることができれば、諍いの渦中にあった自分は、その諍いの責任から完全に免責される。その免責を求めて私たちは「悪いのは誰だ」という尋問の言語ゲームにしばしば従事するのかもしれない。何しろ2人の間で起こったトラブルでも、自分に責任が問われる確率は50%であり、関係者がそれ以上になればその確率はもっと下がるわけである。確率論的に考えれば、この犯人探しのゲームはそれなりに合理的である。
しかし、意志を行為の原因としてしまうと、その意志以前の歴史的要因やその意志以外の同時代的要因は、ほとんど考慮されなくなる。意志概念は、その意志をもつとされる者と、その者を囲む文脈を切断してしまうのだ。(p. 113) そうなると、その「意志」によって責任を担わされた者は、その意志以前の事情や意志以外の外的要因を持ち出すことができなくなる。「悪いのはすべて自分」なのである。
しかし近代的な能動態語法によってそのように追い込まれた者も、内心では、自分だけに責任があるのではないという気持ちを払拭できない(そしてそれは正当なことである)。だからこそ、そうやって追い詰められた人は、反省することができなくなり、世間で「謝罪」とされている文言を型どおりに述べるだけとなる。これはその人なりの応答 (response) とはいえず、その人は責任 (responsibility) を果たしているとは思えなくなる。 (p. 428)
かといって、個人に責任を帰する社会制度・法制度をすべて解体することは非現実的だ(考えてみれば、教育評価も、能力やパフォーマンスを個人に帰属させることを大前提としている。これについても考えたいのだがここではその余裕はない)。せめてできることは、能動態的発想(より正確に言えば、事態をもっぱら能動態的発想か受動態的発想で捉えて、「誰かがやった」のか「誰かにやられた」の二者択一でしか考えない発想)を少し批判的に捉えて、中動態的発想(自分の中に何かが生じて、それによって自分も影響を受けてしまうこともあるという発想)を適用させるべき文脈はないかと考え始めることであろう。
その試みとして、このエッセイでは、「やる気」について考えたし、身体や英語を使うことについても考えた。中動態については、ラトゥールの行為論とも重ねて考えることも可能だろう。また、英語以外の言語、特に日本語について分析すればもっと面白いだろう。どこかのブログ記事でも書いたが、スペイン語には中動態的な表現が少なからずあることは、スペイン語の先生に聞いても確認できた(スペイン語の知識がないので、きちんと理解はできていないのだが)。中動態については、これからも考え続けてゆきたい。
付記
実は、このエッセイを書き始めていた時は、このエッセイの着陸点がわからず、「こんな文章をまとめても、何の役に立つのかわからないけれど、まあ、何か気になるからまとめておこう」とぐらいにしか思ってなかった。しかし数時間かけてこの文章を書き終えてみると、自分の思考が、自分が引用したり書き直したり紡ぎ出したりすることばに導かれるようにして形成された。私が言語使用において、「私」と「ことば」を切り離して考えることはできず、やはり両者は表裏一体であるように思える。これが言語を使用するということだと改めて実感している。
追記
本書の著者の一人である國分功一郎先生による『はじめてのスピノザ』は、『中動態の世界』と本書の間に刊行された本です。NHKの「100分de名著」の書き下ろし原稿をもとにした書籍ということもあり、非常にわかりやすく、また中動態についても理解を深めることができるのでありがたい限りです。