2020/03/11

宮坂道夫 (2020) 『対話と承認のケア--ナラティヴが生み出す世界』医学書院



生命倫理や医療倫理などを専門とする宮坂道夫先生(新潟大学大学院保健学研究科教授)によるこの著は、「ナラティブ・セラピー」として代表的なものから周縁的なものまでを独自の視点でまとめたものです。教育現場でのナラティブや対話に興味をもっている私にとっても非常に勉強になる本でした。

以下では1から4の論点で、私なりに勉強になった点をまとめました。まとめはきわめて選択的・恣意的なものなので、この本に興味をもった方は必ずご自身でご一読ください。

まとめの後には、=>印の後に、私なりの考え(というより蛇足)を付け加えています。



*****


1 実在論的ヘルスケアと構築論的ヘルスケア
ヘルスケア(注1)は、実在論的ヘルスケアと構築論的ヘルスケア(注2)の2つに大きく分けることができる。

1.1 実在論的ヘルスケア
実在論的ヘルスケアは、医学的に定義づけられた「疾病 disease」(p. 61) を対象とし、標準化されたケアを提供することを行動規範とする。基盤となる倫理原則は公平性である。現在のEBMはこの考え方に基づく。(p. 98)

関連記事
英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察
https://www.jstage.jst.go.jp/article/casele/40/0/40_KJ00008918284/_article/-char/ja/

1.2 構築論的ヘルスケア
構築論的ヘルスケアは、患者が経験している「病い illness」 (p. 61) を対象とし、個別化されたケアを提供することを行動規範とする。その倫理原則は公正性である。(p. 100) 本書ではこの構築論的ヘルスケアを「ナラティブ・アプローチ」と呼ぶが、 (p. 99) 医療現場ではこの種のヘルスケアに対してほとんど具体的な名前も与えられず、専門的で公式な教育もなされていない。 (p. 101)

=> いろいろな分野での研究や実践を少しずつ知るにつれ、この実在論と構築論(構成主義・構築主義)の対立が、研究者間での根本的な溝になっているように思えます。言うまでもなく自然科学は実在論を原則としますが、それをそのまま人間を人間として研究する分野に適用するかどうかが争点です。
生理学でしたら、人間を客体として扱い、ある特定の観点から研究するだけですから、実在論の前提はそのまま適用できます。しかし、人間が自らの認識と行動で現実に対応する主体であり、さらには仲間や相手の認識と行動によって自らの認識と行動を変容させる社会的存在であるとしたら、人間が個人的・社会的にどのように現実を構築・構成するかという側面を無視するわけにはいかないでしょう。
ですが、権威ある自然科学の影響は強く、人間を人間として研究する学問においても、実在論への信奉は強いものです。構築論はせいぜい二番手としてしか認められていないことも珍しくありません。特に医学研究は、その王道が自然科学的研究ですから、周りが思う以上にナラティブ・アプローチなどの構築論には制度的な裏付けが乏しいということをこの本から学びました。
英語教育というケアにしても、実在論的ケアと構築論的ケアを分けられるかもしれません。実在論的ケアでは、大規模標準試験などで定義づけられた英語力に基づき、標準化された指導を公平 (equal) に実施することが規範となります。
他方、構築論的ケアでは、学習者それぞれが感じているニーズや目標にできるだけ寄り添った形で、可能な限り個別的な指導を提供することが公正 (fair) なこととなります。教師の間で英語授業のあり方を語り合っていても、どこか決定的に話が噛み合わない場合は、このレベルでの対立を疑うべきでしょう。
私は構築論(構成主義・構築主義)の方が主体的で社会的な存在である人間を研究するには効果的である(=研究の妥当性が増す)と考えています。また、実践者としても構築論的ケアの方が有効である(=ケアされる方もケアする方も幸福度が増す)と考えています。もちろん教条的に実在論的ケアを否定することはしません(例えば教室の温度や湿度が一定のレベルを超えれば学習の成果は確実に下るでしょう)。ですが、人間の研究についても自然科学的な実在論だけしか認めようとしない研究者にも、構築論の意義を認めてもらえるようにはしなければと考えています(このブログを運営する目的の1つもそういったものです)。


2 ケアとしてのナラティブ
対話や承認といったナラティブ(注3)はそれ自体がケアとなる。(p. 2)

=> この命題がこの本を貫いているわけですが、この考え方は、経験豊かな実践者ならすぐに頷いてくれるでしょう。早い話が、教師が、学習者と何気ない話ができるようになったら--言い換えるなら、学習者と共にただ「いる」ことができるようになったら(東畑 2019)--、それだけでよい授業が成立する可能性が高くなります。

関連記事
東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/2019.html

もちろんその関係性にあぐらをかいて、授業内容についての研修を怠れば、その教師は「ぬるい授業」しかできなくなります。教育内容についての研究は車の両輪の1つですが、もう1つの輪である学習者との関係性--ただ一緒にいて語らえる関係性--の重要性も忘れてはいけません。教師が相手にしているのはアメとムチで管理された動物ではなく、主体性と社会性を兼ね備えた人間なのですから。



3 ケア者の役割
ケアとしてのナラティブを考える際には、ケアされる人のナラティブだけでなくケアする人のナラティブのことも考えなければならない。(p. 3)

3.1 解釈的ナラティブ・アプローチ
ケアをする人が、患者という<他者>を読み解こうとするナラティブを行う場合、それを解釈的 (hermeneutical) なナラティブ・アプローチと呼ぶことができる。(p. 18)

3.2 調停的ナラティブ・アプローチ
ケアをする人が、複数の他者に同時に向き合いながら不一致や対立を調停する場合、それを調停的 (mediational) なナラティブ・アプローチと称することができる。(p. 19)

3.3 介入的ナラティブ・アプローチ
ケアをする人が、解釈や調停といった職業的・限定的なナラティブを超えて、他者のナラティブに対する自分の見解を伝える(時には再考や修正を促したりする)場合、それを介入的 (interventional) なナラティブ・アプローチと呼ぶことができる。 (p. 19)

=> この3分類は著者独自のものですが、1つの有効な整理法だと思います(ナラティブ関係の研究や実践は多岐にわたりますから、何らかの形で分類・整理することが時に必要です)。
ただ、介入的なナラティブ・アプローチは、職業的ではなく実存的になされるものだと私は理解しました。医師や看護師あるいは教師といった職業的立場を超えて、1人の人間として相手(ケアされる者)と語り始めた関係と言えるでしょうか。
これは場合によっては、職業の範囲から逸脱したコミュニケーションとなりますから、官僚的な管理者からすれば一般的に禁止するべきものでしょう。しかし、あえてこういったコミュニケーションがなされ、かつ(ここはとても大切ですが)成功した時、関係者は記憶に残る存在となります。いわば諸刃の剣のようなこのアプローチについても、ケアを行う者は適切な理解をもつべきでしょう。



4 ナラティブがケアになる理由
ナラティブ・アプローチがケアになる理由を想定することができる。

4.1 解釈的ナラティブ・アプローチの理由
解釈的ナラティブ・アプローチがケアになるのは、「<ナラティブが個々バラバラの経験を「統一された、理解可能な全体」に結びつけて意味を与える>」 (p. 246) という理由で概ね理解することができる。

4.2 調停的ナラティブ・アプローチの理由
調停的ナラティブ・アプローチがケアになるのは、「<ケア者のみが正解を知っているという前提を放棄して、ケア者と被ケア者とが自由に発言できる対話空間>」 (p. 247) をケア者が作り出すからという理由で説明することができる。

4.3 ナラティブ・アプローチ一般の理由
解釈的であれ、調停的であれ、介入的であれ、ナラティブ・アプローチがケアになる理由は、「ケアする側とされる側とが、これから行おうとする対話実践を信頼して、それに取り組むという協働の姿勢」 (p. 248) とまとめられるかもしれない。

=>4.1は物語論でよく言われることであり、4.2はオープンダイアローグや当事者研究で強調されることですが、4.3の一般化は私には新鮮に聞こえました。
しかし、社会性とそれに基づく文化性が人間の繁栄の大きな要因であるとしたら、他者と連帯できるという可能性が得られただけで、人間が力を感じることができるというのは、ありそうな話だと私は考えます(←十分な科学的証拠のない推論(笑))。

関連記事
ジョセフ・ヘンリック著、今西康子訳 (2019) 『文化がヒトを進化させた』白楊社、Joseph Henrich (2016) The secret of our success. New Jersey: Princeton University Press
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/2019-joseph-henrich-2016-secret-of-our.html
中川 篤,柳瀬 陽介,樫葉 みつ子 (2019) 「弱さを力に変えるコミュニケーション―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究」『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/2019-17pp-110-125.html

人間が現実世界で出会う問題の多くが、技術的に完全解決できるものでないとしたら、時には、協働の姿勢を共有できることの方が、問題解決の手段を考えることより大切になるのかもしれません。少なくとも、次にどんな問題が生じるか予測し難い現実世界の複合性を考えるなら--現在のコロナ騒動はまさにその一例です--、常に連携と連帯の関係を優先させることは、1つの知恵ではあるでしょう。職場でも家庭でもそのような関係性を大切にしてゆきたいと個人的には思っています。

(注1)
この本の「ヘルスケア」とは、医学およびその周辺だけでなく、介護、教育、職場、家庭などで行われる人と人のあいだの健康と病いをめぐる「ケア」のすべて (pp. 33-34) を指す用語です。

(注2)
「構築論」は、"constructionism"の訳語です。しばしばこの用語は「構築主義」(あるいは「構成主義」)と訳されますが、著者は「実在論」 (realism) と対置させるため「構築論」という訳語を使っています。(p. 50)


(注3)
本書では「ナラティヴ」という表記になっていますが、この記事では之まで通り「ナラティブ」と表記します。
また、この本では、「ナラティブ」と「ストーリー」の違いについても明確に説明しています。
「ナラティブ」は、ラテン語のnarrare(「述べる、説明する、物語る」といった行為を表す動詞)に由来します。
それに対して「ストーリー」はラテン語の historia/storia(「物語、歴史、説明」などを意味する名詞)に由来します。現代英語(story)も基本的には名詞として使われ、narrateに相当するような動詞形をもちません。(p. 31)
この本では「ナラティブ」という用語が多用されますが、これはこの用語が、「語る」という行為の主体の意味と、「語られた もの」という客体としての意味を含む両義性をもつからです。(p. 221)



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2020/03/10

J.セイックラ、T.アーンキル(著)、斎藤環(監訳)(2019)『開かれた対話と未来』医学書院、Jaakko Seikklra & Tom Erik Arnkil (2014) "Open Dialogues and Anticipations: Respecting Otherness in the Present Moment." Helsinki, Finland: National Institute for Health and Welfare.



ここでは、以下の書から私が学んだことをまとめてみます。


翻訳書:
J.セイックラ、T.アーンキル(著)、斎藤環(監訳)(2019)
開かれた対話と未来』医学書院

原著:
Jaakko Seikkula & Tom Erik Arnkil (2014) 
Helsinki, Finland: National Institute for Health and Welfare.


翻訳書には丁寧な解説と訳注、そしてオープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン (ODNJP) による「オープンダイアローグ:対話実践のガイドライン」がついている良書です。今回、私は翻訳書を通読して、気になったところを原著でチェックしました。

なお、私は原著を以下のサイトから購入しました。


Open Dialogue UK


以下のまとめで使われている翻訳は基本的に拙訳です。信頼おける訳をお求めの方は翻訳書をご参照ください。(35, 5)といった数字は、最初が翻訳書の、次が原著のページ番号を示します。

観点は、対話性、多声性、権力と研究の3つです。



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■ 対話性

この本の主題が、対話性 (dialogicity) であることは序論の冒頭と最終章の要約から明らかです。

序論では、この本の目的は対話性を促進することだと明確に言いきった上で、対話性を「他人を変えてやろうといった作戦をもたない、開かれて、互いに応じ合う関係性」 (open, responsive relationships without strategic aims to change others) と定義します。(35, 5)

この対話性の重視は、専門家中心の従来のやり方との決別につながります。最終章で、彼らはこうまとめます。

この本で私たちは抜本的な転換を提案してきた。クライアント・患者・生徒・家族・共同体といった「対象となる人々やグループ」 ("targeted persons and groups") を変えることに専念した専門家中心の流れから、対話への転換である。対話では、他者は無条件に受け入れられ (the Other is accepted unconditionally) 、敬意に充ちた対話 (respectful dialogue) によって物事は進められる。対話においては、官僚組織の境界線と分業化によって決定された援助ではなく、個人的ネットワークと専門職ネットワークの間での対話を通じてつながれた社会的ネットワークのリソース (social network resources) によって途が開かれる。私たちが提案したのは、専門職システム (the professional system) が日常生活の要求に合わせる (adapt)実践文化 (a practice culture) である。日常生活の方が専門職システムに合わせるのではない。この文化は、専門家がクライアントの声に耳を傾け、クライアント・患者・生徒・家族それぞれの独自のやり方に、専門知を合わせる文化である。(324, 190)

つまり、開かれて、互いに応じ合う関係性である対話は、これまでの権力関係の抜本的な変更につながるわけです。


■ 多声性

オープンダイアローグなどにおける対話では、ファシリテーターが投げかける最初の問いは開かれたもの (open ended) であることが望ましいとされます。当事者と家族とそれ以外の関係者 (the rest of the social network) が、その瞬間にもっとも重要だと考えていること (the issues that are most relevant at that moment) から話し始めることができるようにするためです。ですから、専門家のチームは予めミーティングのテーマを計画しません。

ミーティングでは、誰もが望む時にコメントをする権利があります。しかしコメントが、そこで行われている対話をさえぎる (interrupt an ongoing dialogue) べきではありませんし、話そうとする人は自分のことばをそこでの対話に合わせるべきではあります。(117, 60)

このように誰もが対等に、互いを尊重しながら対話を紡ぎ出そうとする文化では、多数の声が聞こえてきますし、聞こえてこなければなりません。

バフチンの思想を背景に、著者は以下のようにまとめます。

いかなる社会的状況においてもさまざまな複数の声が存在する (a variety of different voices are present)。人々の出会いとはすべからく状況固有の出来事 (situation-specific incident) であり、話し手のメッセージは話し手の心の中で予め定まっており (ready-made in their mind) 、それが受け手に提示されるだけだといったことはない。そうではなく、メッセージは対話者 (interlocutors) の間の領域 (area) で構築されるのだ (will be constructed)。James Wertch (1991) が指摘するように、どの会話にも少なくとも2つの声が存在するのであり、声は複数形として使うのが適切なのだ。私たちは声の多数性 (a multiplicity of voices) の中に生きており、その多数性は、私たちが、何について・どこで・どのように・誰と共に話しているのかによって活性化し、多数の声が同時にそれぞれの役割を果たすのだ。社会的現実は常に多声的である (Social reality is always polyphonic)。(バフチンとヴォロシノフがその輪郭を描き出したように)、多声的な現実においては、社会的「役割」といった強固な社会構造はない。実際に誰が行為者 (actor) であるのかということを考慮せずに、ある場面から別の場面へと移送できるような構造は存在しないのだ。多声的な現実においては、どんな問題も会話が変わるたびに新たな意味を帯びる (each issue receives a new meaning in a new conversation)。新たな会話では、吟味している事柄に対して新らたなことばが構築される (a new language for the things under scrutiny is constructed)。どの人の社会的意味 (social meaning) も社会的アイデンティティも実際に行われる会話で創造される。社会的意味や社会的アイデンティティが異なる社会的状況においても同じであると考えるべきではない。(194, 107-108)


このように対話は多数の声に充ちており、それらの関係性から意味も社会的に定まっていきます。しかしこの多数性は、対話に参加している数だけあるという水平的多声性 (horizontal polyphony) だけに限りません。垂直的多声性 (vertical polyphony) も存在します。(198, 110)

垂直的多声性とは、対話に参加するそれぞれの人がそれぞれの心の中にもっている声です。たとえば「父」が話題になった時に、その話題についてさまざまな意見が出されるかもしれませんが(水平的多声性)、それと同時に表には出ていなくてもその話題についての多くの声が各人の心の中に存在しているわけです(垂直的多声性)。

このように、対話は、水平的多声性だけでなく垂直的多声性にも充ちた時空で生じるわけです。この多声性を対話において重視するオープンダイアローグは、多声性を一つの声に収斂させることを重視することはありません。オープンダイアローグと未来語りダイアローグ(Anticipation/Future Dialogue) の2つをまとめて著者は次のようにまとめます。

どちらの実践においても多声的な世界観が必要不可欠である (a polyphonic world-view is essential)。これらの実践は、行動計画の基盤として、問題理解を全員一致 (unanimous) のものにすることを目的としているわけではない。これらの実践が他の実践と異なるのは、それぞれが問題について自分自身の見解をもつということである。しかし、お互いがそれぞれの見解を理解しようとすることは重要である。そうやってできあがる新たな理解は、参加者の間の境界領域に生じる。どんな個人の見解も、唯一の正しい定義として優先されることはないからである。(169, 91)

ある問題を、ある特定の観点だけからとらえるのではなく、同時に複数の観点からとらえようとすること、しかも、対話が進むにつれ、さらに新たな観点が生じてくることも拒まないこと--これが対話の要諦と言えるでしょうか。

そういった対話は、ある手続きで1つの結論を必ず出す近代的な会議文化とも、合意に対する異論が少なくとも表にでないようにするまで延々と話し合いを続ける寄り合い的な文化とも異なる文化に属するものです。

対話における多声性とは、アレントの用語を借りるならなら「複数性」を大切にすることと言えるでしょうか。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/06/blog-post.html

あるいは、現実世界の複合性 (complexity) という観点から考えるなら、対話の多声性は、対話の意味をに多くの可能性を保たせたまま状況の変化に応じることによって、現実世界のさまざまな変化に対応しやすいようにしているとも解釈できるかもしれません。

関連記事
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/1990.html


実は、オープンダイアローグと親近性が高い当事者研究を言語教育の実践研究の1つとして考える論文を昨年書き、現在、それは印刷中です。

J-STAGE: JACET Journal
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jacetjournal/-char/en
(現時点では拙稿が掲載予定の2020, Volume 64は未掲載)

その論文 (The Distinct Epistemology of Practitioner Research: Complexity, Meaning, Plurality, and Empowerment) では、タイトルにあるように複合性・意味・複数性・エンパワメントといった観点から実践研究を捉えなおそうとしています。今、オープンダイアローグについてまとめていて、改めてこれらの観点の重要さを感じています。というより、これらの観点が(比較実験などの)現在主流の研究方法ではいかにないがしろにされているかについて考えているというべきでしょうか。

対話性や多声性という概念は、暇人の戯言ではなく、現実の権力構造を動かしうる概念でもありえます。それを次の項で考えてゆきましょう。


■ 権力と研究

「よい実践」(good practice) としての介入 (intervention) を定める研究として現在権力をもっている研究方法は、Evidence-Based Medicinceに代表されるような比較実験方法(ランダム化比較試験 (Randomized Controlled Trial: RCT)です。英語教育界では本格的なRCTはほとんど行われませんが、現在主流派を自称する研究者の多くは、RCTを頂点とするエビデンス獲得を目指しています。

関連論文:
柳瀬陽介 (2010)
「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」
『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 p. 11-20
https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11

そういった主流の研究法を、この本の著者は「どのレベルでも主体(知識の提供者)と対象(知識の受容者)を峻別」 (a clear-cut distinction between subjects (providers) and objects (receivers) at all the levels)とした上で、次の3点でまとめます。

・介入において、クライアントは介入を受ける対象である。介入の主体は専門家である。(clients are objects of intervention, professionals the subjects)
・介入の開発において、専門家は開発された介入を受容する対象である。開発の主体は研究者と開発者である。(professionals are objects of developmental activities, researchers and developers the subjects)
・介入を普及することにおいて、地方の関係者は普及先の対象である。普及の主体は、中央当局である。(local players are objects of dissemination, central authorities the subjects)  (313-4, 187)

私の拙い翻訳でわかりにくい日本語となってしまいましたが、要は、英語教育に当てはめていうなら、このようになるでしょう。

*「生徒はだまって教師の授業を受けろ。授業の主体は教師であり、生徒は授業の対象にすぎない」
*「教師はだまって研究者・開発者が作った授業方法を受け入れろ。授業方法開発の主体は研究者・開発者であり、教師は開発された授業方法を与えられる対象に過ぎない」
*「地方の教師や指導主事はだまって授業方法の普及を手伝え。授業方法を普及させる主体は文科省の関係者である」

となるでしょう。

これに対して、対話的なやり方だと、どのレベルでも主体の役割が大きいと著者は述べます。

・クライアントは、サービスを行いとその結果を享受する共同製作者である (clients are co-producers of the service and its effects)
・専門家は、実践の共同研究者であり共同開発者である。(professionals are co-researchers and co-developers of the practice)
・地方の関係者は、他の地方の関係者と対話を行い、中央当局はその対話を促進する(local players are in dialogue with players in other localities with central authorities as enabling partners) (314, 187)

英語教育に当てはめるならこうなります。

*「生徒は、教師とともに授業を作り、その結果を享受する」
*「教師は、授業方法を研究者や開発者と共に開発する」
*「地方の教師や指導主事は、他の地方の教師や指導主事と対話を重ねる。文科省の関係者はその対話を促進する」

こうなるとオープンダイアローグといった対話性・多声性を重視する実践は、現在主流の権力関係を根底からひっくり返してしまう実践であることがわかります。

しかし、対話性・多声性の重要性を訴える人々は、決して権力奪取のためにこれらを唱えているわけではありません。対話的・多声的である方が人間らしい実践ができ、人間らしい成果が得られるからです。その効果は、オープンダイアローグ(あるいは当事者研究)を行う人々が実感する通りです。

権力関係の根本的転換という点では、『学び合い』も同じかと思います。もちろん『学び合い』という授業スタイルを推進する人たちは別に権力闘争をしたいのではなく、より人間的な教育をしたいだけです。そしてそのすばらしい成果も関係者が知る通りです。


関連記事
福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post_7.html
西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/2016.html


木村泰子先生は、『学び合い』とは直接関係ありませんし、以下のビデオは、「独立行政法人教職員支援機構」(旧「独立行政法人教員研修センター」)が作成したものです。ですが、権力関係の改編を行ない対話性と多声性を重視しなければ、現在の困難を打破できないという点では共通していると思います。




関連記事
木村泰子(2015)『「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』小学館、他3冊の木村先生の著作
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/201532903.html


異文化共生という21世紀的課題を考えても、対話性と多声性の重要性は疑いようがないかと思います。

しかし、オープンダイアローグといった精神医学にせよ、英語教育といった教育学・応用言語学にせよ、まだまだ研究の主流は比較実験法であることは上に述べた通りです。比較実験法では、ある教育方法を施したか施していないかという一点だけで異なる2群(実験群と対照群)を作り、かつその差を保ち続けてデータを取ります。

しかし、そのように2クラスの差をある要因(教育方法)の有無だけにとどめ、それ以外の差は生じさせないように授業方法を固定するというのは、実践感覚からすればおそろしく不自然なことです。同じ授業をやっているつもりでも、クラスで差が出てしまうことはよくあることです。その場合、経験豊かな教師は、それぞれのクラスの個性(および教師の個性)に合った工夫を行います。2つのクラスに対する授業が、ある1つの要因の有無以外にはまったくない状態を作り出しそれを保ち続けるというのは、考え方によっては教育者としての努力を怠る営みとすらいえるかもしれません。

さらに、そのような不自然な実験環境で得た結果を、現実世界に当てはめることには無理があると言わざるをえません。著者も言うように、このタイプの研究の外的妥当性 (external validity)は低いのです。(309, 184)

現在の学界の多くの領域に見られるのは、実践よりも研究デザインの方が優先される傾向です。その結果、実践は実験デザインの限界に合わせた形で行わなければ研究として認められません。研究の方が現実生活の状況に適合するのではなくなっているわけです。(297, 176)

量的研究ばかりではなく、質的研究も必要と言われてずいぶんになりますが、実践に対する認識にはまだまだ偏見が残っているようです。実践とは単純な要因だけで説明しきれるものではなく、もし強引に説明をしてしまったら、それは実践に対する認識を損ねてしまうのです。「単純明快な説明こそが学問だ」などと言っていたら、実践について学問をすればするほど実践について誤解するという「学問をした馬鹿」が生じるわけです。

著者はこうまとめています。

実践はつねに個別的であり、普遍的ではない。実践は固有の文脈で生じ、ある一定の瞬間にある一定の人々によって遂行される。したがって、物事をあたかも普遍(時間・空間・人間抜きの永遠の因果性)であるかのような報告をすることは、対話をないがしろにすることである。とはいえ、実践の成果は語り継がれなければならない。ここで私たちが行わなくてはならないのは、より説明的であろうとするのではなく、より記述的になろうとすることである。 (Practices are always particular, never universal; they take place in local contexts and are carried out at given moments by given people. Therefore reporting matters as if they were universals (eternal causations void of time, place and people) does not do justice to dialogues. Nevertheless, outcomes need to be communicated. The challenge is to be more descriptive instead of more explanatory.) (289, 170)

こうなりますと、私のまとめは、次のようになるでしょう。

より人間らしい社会を実現するには、対話性と多声性を重視しなければならない。
そのためには、現状の権力関係を改編する必要がある。
権力関係を変えるためには「真理の体制」(regime of truth)として権力を支える研究のあり方を変えなければならない。

オープンダイアローグからも、(英語)教育のあり方について学び続けてゆきたいと思います。



関連記事
オープンダイアローグについては旧ブログで多く記事を書きました。それらのリンクは以下の記事に集約されていますので、ご興味のある方はご参照ください。
野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html








2020/03/09

熊谷晋一郎(編) (2019) 『当事者研究をはじめよう』金剛出版



以下は、『当事者研究をはじめよう』から私なりに学んだことをまとめたお勉強ノートです。まとめは「当事者研究」、「社会的関係性」、「身体」の3点についてです。

とはいえ、まとめはとても恣意的なものですから、この本にご興味をもたれた方はぜひご自身で本書を手にとってください。なお、以下は敬称略となっていることをお許しください。


A 当事者研究について

A1 グループ当事者研究・2人当事者研究・1人当事者研究

当事者研究の「当事者」とは単数形なのか複数形なのかというのは以前私が抱いていた疑問でした。向谷地生良先生に直接お会いする機会があった時にそれをお尋ねしたところ「複数形です」との即答をいただきました。

ある問題を抱えている当事者は狭い意味での当事者で、これは1人であることがほとんどでしょう。しかし、「当事者」には広い意味もあり、それは狭い意味での当事者と共に当事者研究を行う人々も含まれます。ですから当事者は複数というわけです。(私は、二義性を避けるため、狭い意味での当事者を「第1当事者」、広い意味での当事者を「研究当事者」と呼ぶことも可能ではないかと思っています)。

伊藤知之(「当事者研究の公開」(123-127ページ))は、グループ当事者研究・2人当事者研究・1人当事者研究という用語を導入しています。

当事者研究の典型例は、グループで行う「グループ当事者研究」でしょうが、それを2人で対話的に行う「2人当事者研究」もあります。これらの複数人での当事者研究で学んだことをもとに第1当事者が、日頃から気づいたことをノートなどに書くことは「1人当事者研究」となります(123-124ページ)。

「グループ当事者研究」、「2人当事者研究」、「1人当事者研究」(および「第1当事者」、「研究当事者」)という名称は便利な区分なので私も今後使ってゆきたいと思います。


A2 当事者研究ワークシート

綾屋紗月が「当事者研究を体験しよう!」(88-105ページ)と「付録」(196-203ページ)で示しているのが、特に2人当事者研究で有効に思える「当事者研究ワークシート」です(注)。ここに示されているのは2019年度版であり、決定版というわけではありません。当事者研究を行うものがそれぞれに変更することも認められています。

2人当事者研究では、まず第1当事者と研究当事者の2人がそれぞれにワークシートを記入し、次にそれを交換して互いの話を聞き取り合います。(93ページ)

私見ですが、これは2人の当事者の間に、権威や権力の大きな差がある時に効果的であるように思えます。専門家といった権威・権力を抱いた人は、どうしても上から目線で一方的に助言をしてしまうからです。

専門家もワークシートで自分を(簡単に)当事者研究し、自分の弱さや問題を認め、そしてそれを第1当事者に示すことによって、専門家も少しは第1当事者の語りを謙虚に聞くことができるのではないかと思います。また第1当事者も、研究当事者(専門家)も弱さや問題を抱えた人間であり、傷つきやすく完璧でないという意味でお互い対等であるということを認識できるのは重要ではないでしょうか。

ワークシートはもちろん2人当事者研究以外でも使えます。たとえばメンバーが4人いれば4人一組でワークシートを交換することもできます。特に権威・権力の点で問題がないなら、第1当事者だけがワークシートを記入した後、それをグループ全体で共有することもできるでしょう。(93ページ)

これまた私的見解ですが、このワークシートは、自己観察と二次観察を促進する工夫だと解釈できます。

自らが経験したことを改めて書いて表現することにより、当事者は、自分を、「経験した自分」、「経験を記述する自分」、「経験記述を読む自分」の3つに分化できると考えられるからです。

経験を書き出さないと当事者は「経験した自分」の中に囚われてしまい、何がなんだか整理できない状態に留まるかもしれません。そこに「経験を記述する自分」を導入することにより、自己観察が始まります。記述した後は、「経験記述を読む自分」により改めて落ち着いて自分の経験と記述を観察すること(つまりは二次観察)することができます。

以下は、教師の省察について以前に書いた拙論の一部ですが、ここでは「経験した自分」、「経験を記述する自分」、「経験記述を読む自分」を、それぞれ「実践者」、「記述者」、「読者」として表現しています。

また、書くことは「対話」である、というメタファーを四人とも使ったことは興味深い。 (中略)
もちろん書くことは一人で行う行為であるから、この「対話」は、分化された複数の自己の間での対話である。自らの実践を書く場合、教師は、選択的な想起を行う中で、教室の中で実践していた「実践者」を自己から分出する。その分出は同時に、その実践を文章化するという「記述者」という自己も分出する。さらに、文章化は時間のかかる行為であり、教師は書く最中から自らの文章を読み始め、書きながらも文章を修正・編集し、時を置いて読み返すので、この過程で自己からさらに「読者」が分出する。つまり、実践の文章化で、教師は、「実践者」、「記述者」、「読者」の三者を分出し、自己は三つに分化する。(100ページ)

引用文献
樫葉 みつ子, 大塚 謙二, 坂本 南美, 柳瀬 陽介
「英語教師が自らの実践を書くということ (2) : 中高英語教師が自らの実践を公刊することについて」
『中国地区英語教育学会研究紀要』(2014年44巻 p.97-106)
https://doi.org/10.18983/casele.44.0_97
関連論文
柳瀬陽介
「言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述」
『中国地区英語教育学会研究紀要』(2012年42巻 p.51-60)
 https://doi.org/10.18983/casele.42.0_51

自分の経験を書き出すことは必ずしも容易なことではありませんが、ワークシートの枠組みによって、当事者は、自己観察とその二次観察をうまく進められるのではないかと思います。

(注)
当事者研究ワークシートの主な項目は
1 研究テーマ
2 苦労のエピソード
3 苦労のパターン
4 苦労の年表
5 個人的要因/社会的要因
6 仲間のコメント
7 実験計画
8 実験報告
となっています。



B 社会的関係性

B1 対等性・安心感・平場感

当事者研究では、支配関係や上下関係を作らないことが決定的に大切であることを複数の論者が述べています。

上岡陽江+ゆき(「ダルク女性ハウスの当事者研究」(14-26ページ))は、「役割分担で大切なのは、絶対にメンバー間に上下関係をつくらないこと。支配関係と上下関係のあるところに回復なんてありえない」(21ページ)と、当事者研究における対等な関係性の重要性を説きます。

綾屋紗月(「当事者研究を体験しよう!」(88-105ページ))は、研究当事者のコメントが、どうしても上から目線のアドバイスになりがちであり、第1当事者は「攻撃された」と思ってしまうことを指摘しています。綾屋の助言は、研究当事者が「アドバイスではなく、自分個人の経験を書く」ことですが、大切なのは当事者研究では皆が「安心感」を得ることとまとめることができるでしょう。(99ページ)

綾屋紗月・熊谷晋一郎・上岡陽江(「当事者研究ワークシート実践報告①」(106-116ページ)でも、「安全な場づくり」が強調されます。その関連で、ファシリテーターが自分の不安や緊張を言語化するにせよ、それはその言語化が場の安全性や参加者のためになるかを精査したうえでなければならないとも述べています。(111ページ)。

さらに綾屋・熊谷・上岡は、「先輩と後輩、当事者スタッフと利用者など、自助グループ内でも発生することがある固定化された上下関係を、対等に戻す効果」として「平場感」(112ページ)という用語も使っています。

支配関係や上下関係から逃れるために、対等性・安心感・平場感が重要だというのがこれらの報告者が力説しているところです。


B2 「主体性」の問い直し

油田優衣(「強迫的・排他的な理想としての<強い障害者像>」(27-40ページ)は、脊髄性筋萎縮症の当事者として、日常生活の多くの側面で介助者を必要としています。現在は10人以上の介助者と接しています。彼女は、介助者が変わることにより自分の欲求が変わることに戸惑いを覚えます。

介助者がAさんであったはずのところ、急にBさんが来たなら、それまで覚えていなかった欲求が湧いてくることを彼女は経験します。そのことにより彼女は、それまでの信念を揺さぶられます。彼女のこれまでの「当然」は、「「自分」というものが「確固たる個」として存在し、「自分のやりたいこと」は、自分の純粋な欲望として自分の中に存在する」、というものでした。この背景には「障害者の自立生活というものは、障害者の主体性の下に行われるべきものであって、介助者に影響されてはならない」という信条がありました(32ページ)。

関連記事
B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) “Reassembling the social” OUP
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/b-2019bruno-latour-2005-reassembling.html
國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html


こういった戸惑いを経た油田は、当事者研究を「<強い主体>というイメージに支えられた近代的主体の脱構築の実践」ととしてとらえます。浦河の当事者研究では、当事者を「自分のことは、自分が"わかりにくい"ことを知っている人」として、「自分のことは自分だけで決めない」ことを当事者性の原則としているからです。(35ページ)

「主体性」を、社会的関係から孤立した(虚構的な)「個人」に帰属させることについては注意が必要です。もちろんこれは「コミュニケーション能力」といった概念についても当てはまることです。



C 身体

C1 身体感覚の確認

過酷な問題に苦しむ当事者は、しばしば自分の感情や身体に対する感覚を閉ざすことで自分を守ります。ゆき(上岡陽江+ゆき「ダルク女性ハウスの当事者研究」(14-26ページ))は、母親の自殺を知った時の自分を「そもそも自分の感情というものがよくわかっていなかったし、身体にチェックインできていなくて、どこか別次元にいるようだった」と述懐しています。(14ページ)

上のようは事態はかなり深刻なものですが、通常の当事者研究でも「身体感覚の確認」や「疲労の確認」は重要だと綾屋は報告します(綾屋紗月「当事者研究を体験しよう!」(88-105ページ))。抑圧された状態に慣れきった人は、身体からのメッセージを無視して、社会的に無難な発言・無難な発言だけをしがちです。しかしそれは問題を回避するだけのことですから、当事者研究では、「身体感覚の確認」や「疲労の確認」を重視します。

身体からのメッセージは、従来、話題としては積極的には取り上げない雰囲気も時にあります。しかし例えば英語話者が日常的に使う "How are you?" にしても、そういった問いは、「あなたの身体、つまりはあなたの感情と思考と記憶を生み出す根源は、今、どのような状態であるのか?」という問いとして重視されるべきでしょう。身体の異和感こそは、何かがおかしいことを原初的な形で私たちの意識に伝えているからです。


C2 異和感の対自

記憶を飛ばしでもしないとやっていけないような辛い経験をした当事者が自己分析を進めることは容易なことではありません。そのような人が自己分析を始める際にきっかけとなるのが、「感情と身体感覚が入り混じって、なぜそのようなものが押し寄せているのかさえわからない「異和感」に注目」(134ページ)することです。(上岡陽江・宮本眞巳・熊谷晋一郎「専門家からアドバイスを受ける「正しい」方法」(130-136ページ)。

上岡・宮本・熊谷は、対人関係場面で相手の言動がきっかけとなり生じた異和感について振り返ることを「異和感の対自化」と呼んでいます。

その第1段階は「異和感の察知、注目、識別」で、感覚に気づきそれを感情語で描写することです。第2段階は「異和感の理解」で、異和感が生じた理由などの理解を深めます。第3段階は「異和感の対自化がもたらした影響の確認」で、気づきと理解により、異和感がどのように変化したかを検証することです。この気づき・理解・検証を自覚的に行うことで、自己分析が多少は可能になるのではないかというのが3人の見解です。(上岡・宮本・熊谷 136ページ)



以上、この本を、

A 当事者研究について
 A1 グループ当事者研究・2人当事者研究・1人当事者研究
 A2 当事者研究ワークシート
B 社会的関係性
 B1 対等性・安心感・平場感
 B2 「主体性」の問い直し
C 身体
 C1 身体感覚の確認
 C2 異和感の対自化

という3観点6項目でまとめてみました。

ですが、もちろん、この本には他にもたくさん重要なことが書かれています。気になる方はぜひご自身でご一読ください。







2020/03/06

中川 篤,柳瀬 陽介,樫葉 みつ子 (2019) 「弱さを力に変えるコミュニケーション―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究」『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125

この度、『言語文化教育研究』第17巻に共著論文を掲載していただくことができました。改めまして査読者を始めとした編集委員会の皆様に厚く御礼申し上げます。

この論文の概要は以下の通りです。

社会学者のバウマンが指摘する「個人化」の潮流は本来協働的な営みであるはずのコミュニケーションを個人化して考える傾向と連動しているように思われる。しかし,ますます複合的になり,個人で解決困難な問題が増加していく社会においては,多くの人間が協働的に問題への対処を目指すコミュニケーションこそが重要となる。そこで本研究では共同体による問題対処のコミュニケーションについて,精神保健福祉の分野で目覚ましい成果を挙げる当事者研究を題材にして再考した。その際の理論的枠組みは,個人の特性ではなく関係性の特性に注目する関係性文化理論である。再考の結果,当事者研究のコミュニケーションは,特定の関係性を文化として定着させた上でのコミュニケーションであり,その関係性の文化においてコミュニケーションは弱さを力に変えることができることがわかった。


この学会誌はWeb上で全文を読むことができますので、以下にURLを示します。



『言語文化教育研究』第17巻


中川 篤,柳瀬 陽介,樫葉 みつ子 (2019) 
「弱さを力に変えるコミュニケーション
―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究―」
『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125



ご興味のある方にお読みいただけたら幸いです。




2020/03/05

研究社『英語年鑑2020』の書評「英語教育の研究」(pp.83-86)で取り上げた24冊


先日(といってもかなり前になりますが)発刊された『英語年鑑2020』、今回も光栄なことに書評(英語教育の研究)を書かせていただくことができました。

原稿を書き上げた2019年の11月初旬は、ちょうど、2020年度から予定していた大学入試での英語の民間試験の活用が延期になったことが全国メディアを騒がせていたころでした。

今回、その時点で選んだのは以下の24冊でした。(注)


***


酒井英樹・廣森友人・吉田達弘(編著)『「学ぶ・教える・考える」ための実践的英語科教育法』(大修館書店 2018.12)
酒井志延(編著)『先生のための小学校英語の知恵袋』(くろしお出版 2018.7)
上山晋平(著)『はじめてでもすぐ実践できる! 中学・ 高校英語スピーキング指導』(学陽書房 2018.7)
胡子美由紀(著)『中学英語 生徒がどんどん話せるようになる! 即興スピーキング活動』(学陽書房 2018.7)
内山工『英語絵本を使った授業つくり―CLIL的アプローチ指導案12か月』(郁朋社 2018.6)
村端五郎『英語教育のパラダイムシフト 小学校英語の充実に向けて』(松柏社 2018.5)
佐藤響子・Carl McGary・加藤千博(編著)『大学英語教育の質的転換―「学ぶ」場から「使う」場へ』(春風社 2019.1)
大沢真也・市川薫(編著)『地方私立大学の英語教育への挑戦』(ひつじ書房 2019.2)
根岸恒雄(著)『英語授業・全校での協同学習のすすめ』(高文研 2019. 3)
水落芳明・阿部隆幸『これで、小学校外国語の『学び合い』は成功する!』(学事出版 2018. 11)
デイジー・クリストドゥールー(著)『7つの神話との決別』(東海大学出版局 2019. 5)
片見彰夫・川端朋広・山本史歩子(編著)『英語教師のための英語史』(開拓社 2018. 6)
池内正幸・窪園晴夫・小菅和也(編著)『英語学を英語授業に活かす』(開拓社 2018. 9)
手島良『これからの英語の文字指導』(研究社 2019. 2)
アレン玉井光江『小学校英語の文字指導』(東京書籍 2019. 3)
福田純也『外国語学習に潜む意識と無意識』(開拓社 2018. 10)
八島智子『外国語学習とコミュニケーションの心理』(関西大学出版部 2019.3)
小柳かおる・向山陽子『第二言語習得の普遍性と個別性』(くろしお出版 2018.3)
石川有香(編著)『ESP語彙研究の地平』(金星堂 2018. 3)
久保田竜子『英語教育幻想』(ちくま新書 2018.8)
中森誉之『技能を統合した英語学習のすすめ』(ひつじ書房 2018. 9)
小泉利恵(著)『英語 4 技能テストの選び方と使い方』(アルク 2018. 4)
南風原朝和(編著)『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』(岩波書店 2018.6)
江利川春雄『日本の外国語教育政策史』(ひつじ書房 2018. 8)

***

これらの中で、社会的影響という点では、『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』の出版の意義は誰しも認めるところです。阿部公彦『史上最悪の英語政策—ウソだらけの「4技能」看板』(ひつじ書房 2017. 12)とこの書という2冊のブックレット―即動性の高い出版物―は、まさに英語教育の歴史を変えたと言えるでしょう。





個人的には、自分の仕事内容が全学的な英語教育の管理運営に移ってきたこともあり、横浜市立大学の英語教育改革を報告した『大学英語教育の質的転換―「学ぶ」場から「使う」場へ』を面白く読みました。









ちなみに昨年度の書評は、以下の研究社のサイトからダウンロードできます。「イギリス小説と批評の研究」から「英語教育の研究」にいたるまでの14項目におよぶ書評のすべてです。

研究社:英語年鑑2019 回顧と展望


一見非常に地味な取り組みといったら関係者に怒られるかもしれませんが、しかしこういった記述の積み重ねが、将来歴史を考える糧となるかと思います。及ばずながら私も「後世の人はこの原稿をどう読むだろうか」という視点を忘れずに原稿を書いたつもりです。『英語年鑑』の長年の蓄積に心からの敬意を表します。




(注)
この記事を掲載した当初、この記事の冒頭にある時事問題についての私見を書いておきましたが、その私見の判断の根拠となっていた情報が間違っていましたので、その見解は削除しました。判断をする際には、きちんとその根拠を検討しなければならないと反省しています。(2020/03/17)



"AI is an empowerment tool to actualize the user's potential."

  本日、「 AIはユーザーの潜在的能力を現実化するツールである。AIはユーザーの力を拡充するだけであり、AIがユーザーに取って代わることはない 」ということを再認識しました。 私は、これまで 1) 学生がAIなしで英文を書く、2) 学生にAIフィードバックを与える、3) 学生が...