2020/03/10

J.セイックラ、T.アーンキル(著)、斎藤環(監訳)(2019)『開かれた対話と未来』医学書院、Jaakko Seikklra & Tom Erik Arnkil (2014) "Open Dialogues and Anticipations: Respecting Otherness in the Present Moment." Helsinki, Finland: National Institute for Health and Welfare.



ここでは、以下の書から私が学んだことをまとめてみます。


翻訳書:
J.セイックラ、T.アーンキル(著)、斎藤環(監訳)(2019)
開かれた対話と未来』医学書院

原著:
Jaakko Seikkula & Tom Erik Arnkil (2014) 
Helsinki, Finland: National Institute for Health and Welfare.


翻訳書には丁寧な解説と訳注、そしてオープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン (ODNJP) による「オープンダイアローグ:対話実践のガイドライン」がついている良書です。今回、私は翻訳書を通読して、気になったところを原著でチェックしました。

なお、私は原著を以下のサイトから購入しました。


Open Dialogue UK


以下のまとめで使われている翻訳は基本的に拙訳です。信頼おける訳をお求めの方は翻訳書をご参照ください。(35, 5)といった数字は、最初が翻訳書の、次が原著のページ番号を示します。

観点は、対話性、多声性、権力と研究の3つです。



*****


■ 対話性

この本の主題が、対話性 (dialogicity) であることは序論の冒頭と最終章の要約から明らかです。

序論では、この本の目的は対話性を促進することだと明確に言いきった上で、対話性を「他人を変えてやろうといった作戦をもたない、開かれて、互いに応じ合う関係性」 (open, responsive relationships without strategic aims to change others) と定義します。(35, 5)

この対話性の重視は、専門家中心の従来のやり方との決別につながります。最終章で、彼らはこうまとめます。

この本で私たちは抜本的な転換を提案してきた。クライアント・患者・生徒・家族・共同体といった「対象となる人々やグループ」 ("targeted persons and groups") を変えることに専念した専門家中心の流れから、対話への転換である。対話では、他者は無条件に受け入れられ (the Other is accepted unconditionally) 、敬意に充ちた対話 (respectful dialogue) によって物事は進められる。対話においては、官僚組織の境界線と分業化によって決定された援助ではなく、個人的ネットワークと専門職ネットワークの間での対話を通じてつながれた社会的ネットワークのリソース (social network resources) によって途が開かれる。私たちが提案したのは、専門職システム (the professional system) が日常生活の要求に合わせる (adapt)実践文化 (a practice culture) である。日常生活の方が専門職システムに合わせるのではない。この文化は、専門家がクライアントの声に耳を傾け、クライアント・患者・生徒・家族それぞれの独自のやり方に、専門知を合わせる文化である。(324, 190)

つまり、開かれて、互いに応じ合う関係性である対話は、これまでの権力関係の抜本的な変更につながるわけです。


■ 多声性

オープンダイアローグなどにおける対話では、ファシリテーターが投げかける最初の問いは開かれたもの (open ended) であることが望ましいとされます。当事者と家族とそれ以外の関係者 (the rest of the social network) が、その瞬間にもっとも重要だと考えていること (the issues that are most relevant at that moment) から話し始めることができるようにするためです。ですから、専門家のチームは予めミーティングのテーマを計画しません。

ミーティングでは、誰もが望む時にコメントをする権利があります。しかしコメントが、そこで行われている対話をさえぎる (interrupt an ongoing dialogue) べきではありませんし、話そうとする人は自分のことばをそこでの対話に合わせるべきではあります。(117, 60)

このように誰もが対等に、互いを尊重しながら対話を紡ぎ出そうとする文化では、多数の声が聞こえてきますし、聞こえてこなければなりません。

バフチンの思想を背景に、著者は以下のようにまとめます。

いかなる社会的状況においてもさまざまな複数の声が存在する (a variety of different voices are present)。人々の出会いとはすべからく状況固有の出来事 (situation-specific incident) であり、話し手のメッセージは話し手の心の中で予め定まっており (ready-made in their mind) 、それが受け手に提示されるだけだといったことはない。そうではなく、メッセージは対話者 (interlocutors) の間の領域 (area) で構築されるのだ (will be constructed)。James Wertch (1991) が指摘するように、どの会話にも少なくとも2つの声が存在するのであり、声は複数形として使うのが適切なのだ。私たちは声の多数性 (a multiplicity of voices) の中に生きており、その多数性は、私たちが、何について・どこで・どのように・誰と共に話しているのかによって活性化し、多数の声が同時にそれぞれの役割を果たすのだ。社会的現実は常に多声的である (Social reality is always polyphonic)。(バフチンとヴォロシノフがその輪郭を描き出したように)、多声的な現実においては、社会的「役割」といった強固な社会構造はない。実際に誰が行為者 (actor) であるのかということを考慮せずに、ある場面から別の場面へと移送できるような構造は存在しないのだ。多声的な現実においては、どんな問題も会話が変わるたびに新たな意味を帯びる (each issue receives a new meaning in a new conversation)。新たな会話では、吟味している事柄に対して新らたなことばが構築される (a new language for the things under scrutiny is constructed)。どの人の社会的意味 (social meaning) も社会的アイデンティティも実際に行われる会話で創造される。社会的意味や社会的アイデンティティが異なる社会的状況においても同じであると考えるべきではない。(194, 107-108)


このように対話は多数の声に充ちており、それらの関係性から意味も社会的に定まっていきます。しかしこの多数性は、対話に参加している数だけあるという水平的多声性 (horizontal polyphony) だけに限りません。垂直的多声性 (vertical polyphony) も存在します。(198, 110)

垂直的多声性とは、対話に参加するそれぞれの人がそれぞれの心の中にもっている声です。たとえば「父」が話題になった時に、その話題についてさまざまな意見が出されるかもしれませんが(水平的多声性)、それと同時に表には出ていなくてもその話題についての多くの声が各人の心の中に存在しているわけです(垂直的多声性)。

このように、対話は、水平的多声性だけでなく垂直的多声性にも充ちた時空で生じるわけです。この多声性を対話において重視するオープンダイアローグは、多声性を一つの声に収斂させることを重視することはありません。オープンダイアローグと未来語りダイアローグ(Anticipation/Future Dialogue) の2つをまとめて著者は次のようにまとめます。

どちらの実践においても多声的な世界観が必要不可欠である (a polyphonic world-view is essential)。これらの実践は、行動計画の基盤として、問題理解を全員一致 (unanimous) のものにすることを目的としているわけではない。これらの実践が他の実践と異なるのは、それぞれが問題について自分自身の見解をもつということである。しかし、お互いがそれぞれの見解を理解しようとすることは重要である。そうやってできあがる新たな理解は、参加者の間の境界領域に生じる。どんな個人の見解も、唯一の正しい定義として優先されることはないからである。(169, 91)

ある問題を、ある特定の観点だけからとらえるのではなく、同時に複数の観点からとらえようとすること、しかも、対話が進むにつれ、さらに新たな観点が生じてくることも拒まないこと--これが対話の要諦と言えるでしょうか。

そういった対話は、ある手続きで1つの結論を必ず出す近代的な会議文化とも、合意に対する異論が少なくとも表にでないようにするまで延々と話し合いを続ける寄り合い的な文化とも異なる文化に属するものです。

対話における多声性とは、アレントの用語を借りるならなら「複数性」を大切にすることと言えるでしょうか。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/06/blog-post.html

あるいは、現実世界の複合性 (complexity) という観点から考えるなら、対話の多声性は、対話の意味をに多くの可能性を保たせたまま状況の変化に応じることによって、現実世界のさまざまな変化に対応しやすいようにしているとも解釈できるかもしれません。

関連記事
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/1990.html


実は、オープンダイアローグと親近性が高い当事者研究を言語教育の実践研究の1つとして考える論文を昨年書き、現在、それは印刷中です。

J-STAGE: JACET Journal
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jacetjournal/-char/en
(現時点では拙稿が掲載予定の2020, Volume 64は未掲載)

その論文 (The Distinct Epistemology of Practitioner Research: Complexity, Meaning, Plurality, and Empowerment) では、タイトルにあるように複合性・意味・複数性・エンパワメントといった観点から実践研究を捉えなおそうとしています。今、オープンダイアローグについてまとめていて、改めてこれらの観点の重要さを感じています。というより、これらの観点が(比較実験などの)現在主流の研究方法ではいかにないがしろにされているかについて考えているというべきでしょうか。

対話性や多声性という概念は、暇人の戯言ではなく、現実の権力構造を動かしうる概念でもありえます。それを次の項で考えてゆきましょう。


■ 権力と研究

「よい実践」(good practice) としての介入 (intervention) を定める研究として現在権力をもっている研究方法は、Evidence-Based Medicinceに代表されるような比較実験方法(ランダム化比較試験 (Randomized Controlled Trial: RCT)です。英語教育界では本格的なRCTはほとんど行われませんが、現在主流派を自称する研究者の多くは、RCTを頂点とするエビデンス獲得を目指しています。

関連論文:
柳瀬陽介 (2010)
「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」
『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 p. 11-20
https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11

そういった主流の研究法を、この本の著者は「どのレベルでも主体(知識の提供者)と対象(知識の受容者)を峻別」 (a clear-cut distinction between subjects (providers) and objects (receivers) at all the levels)とした上で、次の3点でまとめます。

・介入において、クライアントは介入を受ける対象である。介入の主体は専門家である。(clients are objects of intervention, professionals the subjects)
・介入の開発において、専門家は開発された介入を受容する対象である。開発の主体は研究者と開発者である。(professionals are objects of developmental activities, researchers and developers the subjects)
・介入を普及することにおいて、地方の関係者は普及先の対象である。普及の主体は、中央当局である。(local players are objects of dissemination, central authorities the subjects)  (313-4, 187)

私の拙い翻訳でわかりにくい日本語となってしまいましたが、要は、英語教育に当てはめていうなら、このようになるでしょう。

*「生徒はだまって教師の授業を受けろ。授業の主体は教師であり、生徒は授業の対象にすぎない」
*「教師はだまって研究者・開発者が作った授業方法を受け入れろ。授業方法開発の主体は研究者・開発者であり、教師は開発された授業方法を与えられる対象に過ぎない」
*「地方の教師や指導主事はだまって授業方法の普及を手伝え。授業方法を普及させる主体は文科省の関係者である」

となるでしょう。

これに対して、対話的なやり方だと、どのレベルでも主体の役割が大きいと著者は述べます。

・クライアントは、サービスを行いとその結果を享受する共同製作者である (clients are co-producers of the service and its effects)
・専門家は、実践の共同研究者であり共同開発者である。(professionals are co-researchers and co-developers of the practice)
・地方の関係者は、他の地方の関係者と対話を行い、中央当局はその対話を促進する(local players are in dialogue with players in other localities with central authorities as enabling partners) (314, 187)

英語教育に当てはめるならこうなります。

*「生徒は、教師とともに授業を作り、その結果を享受する」
*「教師は、授業方法を研究者や開発者と共に開発する」
*「地方の教師や指導主事は、他の地方の教師や指導主事と対話を重ねる。文科省の関係者はその対話を促進する」

こうなるとオープンダイアローグといった対話性・多声性を重視する実践は、現在主流の権力関係を根底からひっくり返してしまう実践であることがわかります。

しかし、対話性・多声性の重要性を訴える人々は、決して権力奪取のためにこれらを唱えているわけではありません。対話的・多声的である方が人間らしい実践ができ、人間らしい成果が得られるからです。その効果は、オープンダイアローグ(あるいは当事者研究)を行う人々が実感する通りです。

権力関係の根本的転換という点では、『学び合い』も同じかと思います。もちろん『学び合い』という授業スタイルを推進する人たちは別に権力闘争をしたいのではなく、より人間的な教育をしたいだけです。そしてそのすばらしい成果も関係者が知る通りです。


関連記事
福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post_7.html
西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/2016.html


木村泰子先生は、『学び合い』とは直接関係ありませんし、以下のビデオは、「独立行政法人教職員支援機構」(旧「独立行政法人教員研修センター」)が作成したものです。ですが、権力関係の改編を行ない対話性と多声性を重視しなければ、現在の困難を打破できないという点では共通していると思います。




関連記事
木村泰子(2015)『「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』小学館、他3冊の木村先生の著作
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異文化共生という21世紀的課題を考えても、対話性と多声性の重要性は疑いようがないかと思います。

しかし、オープンダイアローグといった精神医学にせよ、英語教育といった教育学・応用言語学にせよ、まだまだ研究の主流は比較実験法であることは上に述べた通りです。比較実験法では、ある教育方法を施したか施していないかという一点だけで異なる2群(実験群と対照群)を作り、かつその差を保ち続けてデータを取ります。

しかし、そのように2クラスの差をある要因(教育方法)の有無だけにとどめ、それ以外の差は生じさせないように授業方法を固定するというのは、実践感覚からすればおそろしく不自然なことです。同じ授業をやっているつもりでも、クラスで差が出てしまうことはよくあることです。その場合、経験豊かな教師は、それぞれのクラスの個性(および教師の個性)に合った工夫を行います。2つのクラスに対する授業が、ある1つの要因の有無以外にはまったくない状態を作り出しそれを保ち続けるというのは、考え方によっては教育者としての努力を怠る営みとすらいえるかもしれません。

さらに、そのような不自然な実験環境で得た結果を、現実世界に当てはめることには無理があると言わざるをえません。著者も言うように、このタイプの研究の外的妥当性 (external validity)は低いのです。(309, 184)

現在の学界の多くの領域に見られるのは、実践よりも研究デザインの方が優先される傾向です。その結果、実践は実験デザインの限界に合わせた形で行わなければ研究として認められません。研究の方が現実生活の状況に適合するのではなくなっているわけです。(297, 176)

量的研究ばかりではなく、質的研究も必要と言われてずいぶんになりますが、実践に対する認識にはまだまだ偏見が残っているようです。実践とは単純な要因だけで説明しきれるものではなく、もし強引に説明をしてしまったら、それは実践に対する認識を損ねてしまうのです。「単純明快な説明こそが学問だ」などと言っていたら、実践について学問をすればするほど実践について誤解するという「学問をした馬鹿」が生じるわけです。

著者はこうまとめています。

実践はつねに個別的であり、普遍的ではない。実践は固有の文脈で生じ、ある一定の瞬間にある一定の人々によって遂行される。したがって、物事をあたかも普遍(時間・空間・人間抜きの永遠の因果性)であるかのような報告をすることは、対話をないがしろにすることである。とはいえ、実践の成果は語り継がれなければならない。ここで私たちが行わなくてはならないのは、より説明的であろうとするのではなく、より記述的になろうとすることである。 (Practices are always particular, never universal; they take place in local contexts and are carried out at given moments by given people. Therefore reporting matters as if they were universals (eternal causations void of time, place and people) does not do justice to dialogues. Nevertheless, outcomes need to be communicated. The challenge is to be more descriptive instead of more explanatory.) (289, 170)

こうなりますと、私のまとめは、次のようになるでしょう。

より人間らしい社会を実現するには、対話性と多声性を重視しなければならない。
そのためには、現状の権力関係を改編する必要がある。
権力関係を変えるためには「真理の体制」(regime of truth)として権力を支える研究のあり方を変えなければならない。

オープンダイアローグからも、(英語)教育のあり方について学び続けてゆきたいと思います。



関連記事
オープンダイアローグについては旧ブログで多く記事を書きました。それらのリンクは以下の記事に集約されていますので、ご興味のある方はご参照ください。
野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html








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