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2025/09/11

人間は出現頻度以外の言語の価値を復権できるのか?

 

私がガメ・オベールさんの活動に注目し始めたのは2023年から2024年にかけてぐらいだとぼんやり記憶しているが(参考:言語学習についての安直な学問化・科学化と在野の知恵について)、ガメさんは数ヶ月前から主な発表媒体をSubstack に変えて以来、毎日、文章を掲載している。これだけ創造性の高い人を私は他に知らない。私は毎朝ガメさんの文章で思考に刺激を得ている。9月8日に発表された次の記事は、ことさらにすごかった。


ガメ・オベール

「雑な日本語日記18 いま何をなすべきか」

https://gamayauber007.substack.com/p/18


文章を読んで私も何か書かねばならないと思い、昼休みに書いたのが下の文章です。思い入れの激しい文章なのでSubstackに掲載するだけのつもりでしたが、その後、ガメさんにX(旧Twitter)でも紹介していただいたし、それ以上に、何だかうまく表現はできていないけれど、自分にとっては大切な論点が含まれているように思える文章なので、記録のためここに掲載しておきます。AIが世の中に浸透する時代の言語使用について考え続けたいという願いから、題名を「人間は出現頻度以外の言語の価値を復権できるのか?」としました。



人間は出現頻度以外の言語の価値を復権できるのか?



私は神についてきわめて粗い理解しかもっていないが、もし神を「人間には理解不能な真善美の存在を示唆し、人間の認識の跳躍的向上をもたらす存在」とするならば、人は、常に神を讃えることによって、慣習的な思考ではとても思いつけない発想に至ることができると理解できる。


また、人心が荒廃し、社会に憎悪と冷笑のことばしか見出せなくなったとしても、神を忘れない義人がいれば、希望のことばと建設的な発想を人の世に提示することができる。

人間の理解を超え続ける真善美の導き手としての「神」を仮定し、かつ--これが大事なことなのだが--、それを見ることも十分に理解することもできないにもかかわらず信じることができる知性があれば、人の世には望みがある。


だがそういった真善美を希求する跳躍的な知性をもたないLLMは、ビッグデータに基づく確率計算だけで言語を生成する。ビッグデータでの確率計算では、上の記事でガメさんが説明したように、出現頻度が低い言語パターンは生成されにくいし、生成されたとしても信頼性の低いものしか出力されない。


人の世から神--あるいはそれに類する超越概念--を希求する言語使用が減って、せいぜい残ったとしてもそれがAIにデータ化されない親密な言語圏での使用に限られたら、AIは神が不在の言語使用だけを再生産し続ける。


さらに人間が、AIの表層的な言語生成能力に魅了され、AIが出力した言語を自分自身のことばとして公開し、後続の者はそのAI出力を言語の規範として学び続けるとしよう。

そういった、言語使用から神などの超越概念を失った人々のことば遣いが、ある臨界点を超えて醜悪な方向に振り切ったら、人類にとっての最大の認識・表現装置である言語は取り戻しの効かないほどに凶暴になってしまう。


私も「陰極まりて陽生ず」になると思いたいが、生態系の復元力はある一定のレベルを超えると失われる。AIはその限界レベルへの到達を早める可能性が高い。

出現頻度とは異なる言語使用の価値基準を失ってしまえば、AI言語によって私たちは人間としての死を迎えるのかもしれない。


これから人間は、LLMとは異なる種類のAIを作り出し、そのAIとLLM-AIを共存させて知性を発揮できるのか。

あるいはAIの限界を深く理解し、人間らしい言語使用を復権し発展させることができるのか。


私もこういった問題を考える前に一言「神よ・・・」と付け加えるべきなのだろうか。


2025/09/08

柳瀬陽介 (2025) 「英語教育はどこへ向かうのか」『英語教育学の今 ―実践と理論の統合―』 (pp. 20-25)

 

全国英語教育学会が、学会第50回大会記念特別号『英語教育学の今-実践と理論の統合-』を全文公開しました。 15の章に分かれた、447ページの大作です。

これだけの大部を編集し刊行した上で、公益を考え全文公開をされた編集委員会の皆様に心からの敬意をお捧げします。

私はこの冊子の第1章第2節 (pp.20-25) を書くことができました。上で冊子全体が公開されておりますので、ここでは拙稿の部分だけを掲載させていただきます。ただし参考文献は削除しておりますので、その部分も含めた完全版をご覧になりたい方は上の青い部分をクリックしてください。



*****



英語教育はどこへ向かうのか



1 はじめに

 未来について考える最良の方法の1つは歴史を振り返ることだ。この節では,日本の英語教育の歴史を,近現代の特に外交史と経済史の文脈の中で総括し,英語教育がやり残した課題を明らかにする。筆者のまとめは,幕末・明治以来の150年あまりを2回の上昇・下降として捉えることである。


2 「坂の上の雲」から原爆雲まで

 明治から第二次世界大戦降伏までの時代は,希望を象徴する「坂の上の雲」―司馬遼太郎の同名の小説タイトルで使われた比喩―を追った前半の上昇と,無謀な戦いを続け原爆雲を見るにいたった後半の下降に分けることができる。

(1) 不平等条約締結から日露戦争と第1次世界大戦の「勝利」まで

 幕末の開国は,関税自主権と領事裁判権がない点などでの不平等条約に基づいていた。西洋諸国の帝国主義政策が進行する中,日本にとっての一大課題は近代国家としての形を整えて,不平等条約を撤廃し,自国の植民地化を防ぐことであった。日本は,学制の整備・日本銀行設立・大日本帝国憲法発布・帝国議会開催などの急速な近代化を敢行した上で日露戦争にも辛勝する。そういったこともあり,1911(M44)年には日米修好通商条約の改正に成功し,その後の諸国との不平等条約の解消にいたった。さらに第1次世界大戦で日本は戦勝国側に属したため,1920 (T9) 年に設立された国際連盟の常任理事国となった。

 だが日本の近代化は軍事国家化でもあった。特に日清戦争・日露戦争・第1次世界大戦など10年に一度は大きな出兵を行うことなどは,経済力・工業力だけでなく,教育勅語などによる超国家主義的な精神形成がなければ不可能だったはずだ。保阪 (2024) は,政治や商業を取り込んだ軍事国家を牽制すべき人権意識が不十分であったことを,その後の軍事的暴走の原因の1つとしている。

(2) 国際連盟の脱退と第2次世界大戦敗戦まで

 日本は満州事変を起こし,1933 (S3) 年に国際連盟を脱退する。さらにノモンハン事件・支那事変・太平洋戦争と,軍事的にも勝算のきわめて薄い戦いをしかけた結果,主要都市にナパーム弾での空襲を受け,沖縄地上戦で火炎放射器攻撃を浴び,広島と長崎に2発の原爆を落とされるまでになる。

 この完敗にいたる国の暴走を軍部だけのせいにするのも一面的かもしれない。五・一五事件などの軍事クーデターは少なからずの国民の共感を呼んだ。その背後には国民の経済的苦境があったが,進みゆく国レベルでの思想教育もあった。顕著なのが,文部省が出した『國體の本義』(1937/S12年)と『臣民の道』(1941/S16年)である。たとえば『國體の本義』は,西洋の個人主義が「民主主義・社會主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり,最近に至ってはファッシズム等の輸入」(p. 5) につながったと総括する。同書は,「我等臣民は,西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる」 (p. 33)  のであり,臣民としての「没我歸一の精神」は「主語が縷縷表面に現れず敬語がよく發達してゐる特色」 (p. 98) をもつ国語にもよく現れていると説明する。『臣民の道』は,「我等が私生活と呼ぶものも,畢竟これ臣民の道の實踐であり」「私生活の間にも天皇に歸一し國家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」 (p. 71) と説く。

(3) 英学・英語教育の貢献と限界

 日本の英学・英語教育はこのような文脈の中で発展した。日本の急速な近代化の背後に,西洋諸学を旺盛に翻訳しその過程で多くの近代語を創成した英学があったことは言うまでもない。さらに岡倉由三郎 (1911) の記念碑的な書籍『英語教育』が端的に示すように,英語学習には実用的価値 (Practical Value) だけでなく教育的価値 (Educational Value) もあるとされた。教育的価値の1つは「外國に對する偏見を撤すると共に,自國に對する誇大の迷想を除」くことであり,もう1つは「母國語の外に更に思想發表の一形式を知り得て精神作用を敏活彊大ならしむる」 (p. 39) ことだと岡倉は説いた。夏目漱石 (1914) も個人主義を,「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」,「党派心はなくって理非がある主義」だと説明し,個人主義は国家主義とも世界主義とも併存しうると説いた。 (pp. 29-30) このように英語教育や英語学習を代表する識者は,日本の暴走を防ぎうる思想を語っていた。だがその思想を広い層に浸透させることができなかったのが当時の日本の英語教育の限界だった。


3 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から「失われた30年間」まで

 第2次世界大戦降伏から現代に至るまでの時代を,ここでは焼け野原から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と驕りバブル景気に至った上昇と,その後の「失われた30年」の下降に分けて総括する。

(1) 占領統治からプラザ合意そしてバブル景気まで

 占領軍の中核を担った米国の当初の日本占領政策は,日本を二度と戦争ができない国にすることであった。米国は,日本の精神文化を変え,兵器開発につながる工業力を落とすことを目指した。

 だが1950 (S25) 年の朝鮮戦争あたりから米国の対日政策は大きく転換する。共産主義国家の台頭を阻むことが優先事項となり,日本にある程度の工業力と経済力をつけて自由主義陣営の支援をさせるようになった。そして1951 (S26) 年のサンフランシスコ平和条約で日本国の再びの独立が認められた。敗戦直後に戦争に関連したとして公職から追放されていた20万人以上のほぼ全員が公職に復帰可能になった。(山崎, 2022)少し前まで『國體の本義』や『臣民の道』に共感した者も国家運営に戻れるようになったわけである。

 だが米国も日本への手綱を完全に外したわけではない。サンフランシスコ平和条約締結の後に日米安保条約が結ばれ,日米両国の間に行政協定ができたが,元外務省国際情報局長・防衛大学校教授の孫崎 (2012) によれば,米国の優先順位は逆であった。行政協定を可能にするための安保条約であり,安保条約を成立させるための平和条約であった。日本は,行政協定第2条で米国に対し必要な施設および区域の使用を許すことに合意し,第17条で米国軍人・軍属・その家族についての専属的裁判権を米国側に認めている。これは事実上の不平等条約といっても過言ではないが,こういった取り決めを国会での審議や批准を経ずに決めたのが行政協定であった。無論,行政的な取り決めのためには,国家レベルでの大枠の合意が必要である。そのために調印されたのが安保条約であった。しかし,安保条約は独立国家間での条約である。それを可能にするために結ばれたのが日本の独立を認める平和条約であった。

 孫崎 (2012) の分析をさらに続ければ,これらの米国の政策転換により,戦後の日本政治は,米国への協調を最優先とする米国追従路線と,米国との間に多少波風を立てても日本の国益を守るための主張をする自主路線との間での相克となった。他方,経済においては,占領軍による公職追放の対象となった大蔵官僚の数はわずか数名であったことに端的に示されているように,日本の経済官僚はうまく立ち回り,戦時期の国家総動員体制―「1940年体制」―をうまく温存して再編して石炭や鉄鉱などの基幹産業を再建した。(野口, 2019)

 日本は急速に工業力と経済力を高めたが,その一方で米国は戦争直後の覇権を徐々に失っていった。1970年代に米国は,基軸通貨の象徴である金本位制度を放棄し,日本に対しても日米繊維協定を結び,日本からの輸出攻勢に苦しむ姿をあらわにした。その後も1981 (S56) 年の日本車対米自主規制,1986 (S61) 年の日米半導体協定や通商301条など,米国は日本の工業的・経済的発展にいらだちを隠せない。そんな中で日米を含む先進5か国の蔵相と中央銀行総裁で電撃的に結ばれたのが1985 (S60) 年のプラザ合意であった。これにより米国は日本の輸出競争力を落とすことを狙った。だが詳述は割愛せざるを得ないがプラザ合意に伴う金融緩和も手伝って日本はバブル景気を享受するにいたった。

 日本の台頭について警告していたのが,ハーバード大学で東アジアを研究していたエズラ・ヴォーゲルの著書 Japan as No.1 (1979) であった(翻訳書も同年に刊行)。だが同時に彼は日本の国力が,自由主義諸国では見られない独自の組織力・政策・計画―野口の用語なら「1940年体制」―によるものであることを見抜いていた。ヴォーゲルは2004年の翻訳書復刻版で,同じくハーバード大学教授で駐日米国大使も長く務めたエド・ライシャワーが,同書を米国人には必携の書だが日本では禁書にすべきだと述べたことを明らかにしている。ライシャワーはこの本が日本人を傲慢にすることを恐れていた。だがその復刻版の帯で京セラ名誉会長の稲盛和夫は,「日本社会の卓越性と底力をつとに指摘した本書は,わが民族に希望と勇気を与える永遠のバイブルである」と語っている。このような認識に日本のうぬぼれを見ないわけにはいかない。

(2) 冷戦後の新自由主義・新帝国主義体制での国民の疲弊

 冷戦終了も米国は,ソ連に代わる軍事的脅威としてイラク・イラン・北朝鮮を「ならず者国家」として糾弾し,軍事力を維持した。同時に日本を米国の軍事戦略に組み込んで軍事負担を増やし,日本の経済発展を抑えようとした。(孫崎, 2012)2005年には日本の外務大臣・防衛庁長官と米国の国務長官・国防長官が「日米同盟:未来のための変革と再編」に署名した。これにより可能な軍事行動の対象は極東から世界に拡大し,その軍事行動の理念が国際連合重視から日米共通の戦略に変わった。だがこの変更は大きく報道されず,日本が政府レベルで米国に約束したことと国民の間に大きなギャップが生じ始めた。(孫崎, 2009)

 その間,世界レベルでは新自由主義による新たな経済競争が激化し,様相は新帝国主義的色彩を帯び始めた。(柄谷, 2023)経済的にも軍事的にも緊張が高まる中,発生したのが新保守主義である。新保守主義は,経済的自由以外の自由を批判する。さらには,国内外の危機を重視し,道徳と国家への忠誠を強調する。(ハーヴェイ, 2007) 

 その間の日本は,国民の実質賃金は低いままで,諸外国の賃金上昇と大きな違いを見せている。(内閣府, 2022)実質実効為替レートによるならば,日本円は1972年の変動相場制開始時よりも通貨価値が低い。(日本銀行, ND)バブル後の流行語となった「失われた10年」は,いまや「失われた30年」となった。寓話「ゆでガエル」のように国民の多くは少しずつ疲弊を重ねている。

 この経済的停滞の背後には,「1940年体制」の精神文化を超克できない日本があると野口 (2019) は分析する。彼は,バブル時期においても近年の円安容認政策時期においても共通しているのが,国の関与を強める1940年体制的発想だとしている。企業や社会の一人ひとりが個人として動き,その相互作用の中から新しい流れを生み出す文化が日本にはまだ不十分であるように思える。

 新自由主義と新帝国主義を補完するイデオロギーとして権力側に重宝される新保守主義も,日本に蔓延しているようだ。国や企業のために人が粗末にされることが当たり前になり,日本のあり方(=國體)に特別な意味をもたせようとする「戦前回帰」の傾向すら見られ始めた(山崎, 2018)

(3) 英語教育の変容と限界

 英語教育は,戦後直後は強い米国の影響下での民主化の時期を経験した。続いて,日本国独立後の文部省は,学習指導要領に「法的拘束力」があると主張して英語教育体制を維持した。だが1980年代に米国の対日圧力が高まると,中曽根総理直属の諮問機関としての臨時教育審議会が力をもち始め「官邸主導」の英語教育体制が始まった。JET(後のALT)プログラムも中曽根首相とレーガン大統領との会談で合意された。2000 (H12) 年に小渕首相の諮問機関「21世紀日本の構想」は,「長期的には英語を第2公用語とすることも視野に入ってくる」と大胆な提言をした。第2次安倍内閣の諮問機関「教育再生実行会議」はさらに権力を行使し,十分な議論も準備もなかった小学校英語教育の抜本的拡充や中学校での英語授業の実施を閣議決定で突如決めた。

 その流れで文部科学省は2017 (H29) 年に大学入学共通テストの英語に民間試験を活用することを決定した。だがテスト実施には数々の現実的問題があり,かつ,国民間の格差を助長するものであった。反対する市民の声は高まり,2年後に文部科学省は,事実上の断念をした。だがその後,東京都は数々の批判にもかかわらず高校入試に民間スピーキングテストを導入している。日本の英語教育に市民の声によるダイナミズムがもたらされたと楽観はできない。

 ますます官邸主導で改革された英語教育だが,現在の日本の若者は諸外国の中でもとりわけ留学への意欲に乏しく,留学者数も韓国以下である。(内閣府, 2022)国力の不足を痛感した明治の日本が取った方針は,謙虚に外国から学ぶことであったが,そのような気運を現代日本に感じることは難しい。


4 これからの日本の英語教育

 明治からの日本は,西洋諸国の帝国主義政策に対抗して自ら帝国となり,軍事的に暴走した。英語教育は,外国に対する偏見と自国に対する誇大妄想を排することができるはずだった。主語を明示し,身分関係を問わず相手を "you" と呼ぶ英語に習熟することは,自他を尊重する個人主義の普及にいたっても不思議ではなかった。

 戦後の日本は,自主路線の動きは時折あったにせよ,ほぼ米国追従の歴史であった。プラザ合意まで米国に許容された日本の経済的・工業的発展は,その後,米国主導の新自由主義・新帝国主義体制の中で力を失った。一部の大企業や富裕層を除いて「失われた30年」の疲弊を感じているのが現代である。その間,官邸主導の英語教育改革は繰り返されたが,それでも日本文化から「臣民」思想は払拭されず,人権は未だに十分に尊重されていないように思える。テストによる学習管理はますます進行中だが,その反面,明治初期のように積極的に外国から学ぼうとする気運はむしろ衰退している。

 英語教師はしばしば少数の優秀な学習者の英語力に目を細める。だが,国を造るのは国民一人ひとりである。すべての学習者に英語教育の成果が感じられてこそ公教育は成功する。これからの日本の英語教育は,すべての学習者に日本語以外の思考と表現の形式を経験させて心の働きを豊かにし,自由主義社会の共通基盤である個々の人間を大切にする人権思想を浸透させることができるだろうか。昨今登場し世間を動揺させているAIはその方向で活用されるのだろうか。それともAIは,新自由主義・新帝国主義の時代の新たな臣民づくりの強力な道具となるのだろうか。決めるのは私たちだ。    



2023/11/25

大津由紀雄・南風原朝和(編) (2023) 『高校入試に英語スピーキングテスト? 東京都の先行事例を徹底検証』岩波ブックレット

 

東京都は2022年11月27日に、2023年度の都立高校入学者選抜の一環として、ESAT-J (English Speaking Achievement Test for Jujior High School Students) と呼ばれる英語スピーキングを実施した。これがいかにずさんなテストであったかについて、本書は的確にまとめている。本書は、このテストの今後の見直しを求めること、および同種の大規模スピーキングテストの導入を考えている道府県に対して慎重な判断を要請することの2つの目的で緊急出版された。


ESAT-Jが入試としても、また英語教育改善の手段としても不適格であったことは最初の3つの章で明確に述べられている。第1章の沖浜真治氏(新英語教育研究会東京支部代表)は、教育現場の視点から、ESAT-Jのずさんな実態を報告する。第2章の南風原朝和氏(東京大学名誉教授)は、心理統計学の専門家として、ESAT-Jの採点措置が入学者選抜としては不公正であることを立証する。第3章の羽藤由美氏(京都工芸繊維大学名誉教授)は、理論と実施の両面においてスピーキングテストについて深い知識をもつ専門家として、ESAT-Jが8万人もの大規模で公平に行えるものではないことを示す。どの章の記述も具体的で、説得力をもつ。


これらの3つの章を受けて、第4章では大津由紀雄氏(慶應義塾大学名誉教授)と久保野雅史氏(神奈川大学教授)が、なぜ東京都はこれだけ不備が明らかになったESAT-Jの実施と続行にこだわるかを説明する。両者は、こだわりの理由は、ESAT-Jが近年の国レベルの英語教育政策の一端として位置づけられているからだと説く。第4章のさまざまな引用は、論説の確かさを強めている。


コラムで取り上げられた2名の教師と2名の保護者の声も現場の様子をよく知らせている。最後に付けられた年表も問題の整理に有用である。


ESAT-Jの問題性は、すでに多くの英語教員が知るところであるが、それを具体的な記述で論じた本書はきわめて資料的価値が高い。本書が廉価で手に入るブックレットの形で、緊急出版された意義はきわめて大きい。



その上で私の蛇足を加える。第4章の「なぜ東京都はESAT-Jの実施にこだわるのか」という問いとその答え--国の教育政策を否定しないため--をさらに一歩進める。「なぜ国は、実施において問題だらけのこのような教育政策(特に大規模スピーキングテストを進めるのか)という問いを立てる。だがその答えは、本書のように実証的なものではなく、きわめて思弁的なものである。とはいえ、思弁的だからこそ、思い切った仮説的な答えを出してみることにする。


私の答えは、「権力者にとっては、大規模スピーキングテストによって一部の者が不公平な措置を受けることは、大したことではないから」である。ここで私は、きわめて性悪説的で独善的な推論--いわば邪推--をしているので、読者諸氏においては十分批判的に以下を読まれたい。


近現代の政治的権力者は、経済的権力者と結託している必要がある。柄谷行人は、「国民国家」 (nation-state) の実態は、「資本=ネーション=ステート」であると説く。資本主義経済の過酷な現実を、想像の共同体(ネーション)としての一体感に訴えて緩和する形でしか、現在の国家(ステート)は成立しないと分析するからである。


よって政治的権力者は、世論が国民レベルで炎上しない限り、少々の不公平には目をつぶる。同時に、日本では特に安倍内閣以来、国家が世論の立ち上がりに対して過剰なほどの介入をしてきたことも周知のことであると私は考える。


そうなると国策の基本は、経済的権力者--いわゆる財界人や資本家--の利益の確保と拡大のために決められる。教育について、経済的権力者がもっとも求めるのは選抜である。一部の知的に優秀な人材を次世代の経済的権力者として選抜し、残りの大多数の人々を、安い労働力で従順に働き、ローン(借金)もいとわない消費者にしてしまえば、基本的に経済は回る。


未来の経済的権力者は国民のごく一部であればよいので、その選抜は多少ずさんでもよい。テストは知的能力の大小についての推論であるが、推論には「慌て者の間違い」(アルファ・エラー)と「ぼんやり者の間違い」(ベータ・エラー)がある。前者の間違いは、慌ててしまって、本当は知的に優秀でない者を優秀だと判定してしまう。後者の間違いは、ぼんやりしていて、本当は優秀な者を見逃してしまう。


大人数の中からごく少人数の優秀な者を選ぶには、「慌て者の間違い」を避け、「エリート」の中に知的に劣る者が入らないようにすることが大切である。逆に言うなら、「ぼんやり者の間違い」で少々、本当に優秀な者を見逃しても問題はない。なにせ母集団は大きく、選ばなければならないエリートは少数でよいからだ。


テストの理想は、これら両方のエラーを同時に少なくすることである。だが、現実的には、どちらかのエラーを深刻だと捉え、もう一つのエラーを許容するのがほとんどである。そうなると、経済的権力者が未来のエリートを選抜するためのテストは、少々の優秀者を見落とすことがあっても、選んだエリートの中にまがい者が入っていないことを是とする。


私自身が地方出身の貧乏人であったから、粗暴な表現を許してほしい。経済的権力者にとって、ESAT-Jテストなどで、不便な地域に住む者や経済的に恵まれない者、あるいはさまざまな意味で例外的な者が少々不公平な目にあっても、たいした問題ではない。そのような少数者を見落としてもかまわない。それよりも、確実にエリートを選抜すること、まおよびその選抜手段(テスト)の強制力で、未来のエリートに知的訓練を課すことの方がはるかに重要である。そもそも、ほぼすべての経済的権力者は都会に住む超高額所得者である。地方の貧乏人の事情など、彼ら・彼女らは日頃ほとんど考えてもいない。


もちろんこのような選抜を続けることは、長期的には愚策である。テストが育てるべき力を測るものでないなら、試験対策に時間とお金をかけた者ばかりがエリートとなってしまう。一知半解の事を述べるのは危険だが、科挙もそうして中国の国力を損ねてきたのではないか。また国難においては、狭い範囲から人材を取るだけでは対応できない。これは、江戸末期の黒船襲来によって徳川幕府が人材登用制度を大きく変えたことでも明らかだ。


とはいえ人間は惰性の動物だ。これまで入試でエリートを決めてきたのだから、入試にスピーキングテストを入れればよいだろうと多くの経済的権力者は想定する。そもそも経済的権力者のほとんどは、多くの政治権力者と同様、教育やテストの実情を知らない。「日本人エリートは、英語力がまだまだだから、高校や大学の入試で一斉にスピーキングテストを導入すればいいんでないの?」ぐらいの思考で教育方針を決めかねない。それを政治権力者が断固実行するのが現状だと私は考えている。


この「資本=ステート」の結託を是正する方法の一つは、「ネーション」(=「私たち」や「国民」といった想像上の共同体)の力を高めることである。大学共通テストへの民間英語試験導入は、ある政治家の「身の丈にあった」といった発言がきっかけとなり、国民感情が高まり、導入の延期(事実上の中止?)につながった。


だが今回の東京都のESAT-J導入の場合、一般市民の既視感や厭世感が強いのか、あるいはマスコミの「ニュースバリュー」認識が低いからか、ESAT-J中止までには至っていない。だからこそ本書のような出版が大切になる。


日本のマスコミのジャーナリズム精神の貧困はすでに長年指摘され続けている。マスコミも経済的権力者になびき、広告で大多数の国民の消費を促せば、今しばらく存命できる。だが、そんなやり方を良心的だと思っている者はいないだろう(口を歪めて開き直る者はいるにせよ)。マスコミもESAT-Jの問題を、一部の誠実なジャーナリストにならって、取り上げてほしい。


また日本にも、まだまだ「ネーション」を重視して「ステート」を運営しようとする政治家 (statesman) --性差別表現だったらごめんなさい--がいるはずだ。政治に関わる者すべてが、悪い意味での「政治屋」 (politician) ではないだろう--と信じたい。


いや「してほしい」や「信じたい」などといった他力本願の言い方はよくない。英語教育者の一人ひとりは、東京都のESAT-Jについて何かの行動を起こすべきだろう。日頃この問題について何の行動も起こしていない私も、その行動の一環としてこのような駄文を綴った。


英語教育関係者が本書を読み、知識を確実にした上で、この問題についてそれぞれのやり方で行動を起こすことが重要だと私は考える。






2023/10/29

英語教師はWHYを語れ

 以下の記事は、私が自分のX(旧Twitter) に投稿していた文章を再掲したものです。


*****


日経トレンディ 2023年11月号』の特集1「ずるいChatGPT式英語&エクセル」は充実していました。『日経トレンディ』といった雑誌がこのような特集をすることにより、AI活用法はビジネスパーソンへ一層普及するでしょう。同様の現象はやがて、英語教師・難関大学受験生・英語が苦手な中高生などのさまざまな層でも起こるでしょう。英語教師が好むと好まざるにかかわらず、社会の方から英語学習のあり方が変わると私は予想します


AI活用に反対する英語教師の多くは、「学生・生徒がAIだけで課題を済ませてしまう」ことを反対理由として挙げます。しかし、厳しい言い方をするなら、そういった教師は日頃から学習者に学びの意義 (WHY) を語っていないのではないでしょうか。だから学習者が英語学習に意味を見出していないと私は推測します。


残念ながら多くの英語教師は、学習内容 (WHAT) だけ提示して、それに少し解説を加えるだけのような授業をします。最近の英語教師は、英語の練習方法 (HOW) に熱心で、学習者の技能習得向上を目指しています。(HOWに熱心になるあまり、WHATを忘れる教師もいますが、それについてはここではこれ以上述べません)。しかし教師は、WHATとHOWを扱うだけでは不十分です。WHYを伝えなければなりません


なぜ学ぶ必要があるのかというWHYを、説得力ある形で眼の前の学習者のために伝えなければなりません。WHYは、「グローバル社会だから」といった建前や「単位がないと卒業できないから」といった脅しでは、説得力をもちません。学習者に、「なるほど、この先生は、まさに私たちのために意義を語ってくれている。この人の態度や物腰からすれば、この人は間違ったことはおそらく言っていないだろう」と思ってもらえるような言動を日頃からすることによって、教師はWHYを伝えるべきです。


WHYを伝えられない学校英語教師の教室は、これからますます空々しくなるのではないでしょうか。そのためには学校英語教師も、日頃から私生活で英語を使い、英語を学ぶことの意味を実感しておく必要があります。英語使用は、英語報道に接することでも、読書をすることでも、映画を見ることでも、英語話者の友人と話をすることでも、海外旅行をするでも、何でもいいと思います。


大切なことは英語教師が我が身で英語を使い、そのことによって英語を学ぶ喜び(および苦しさ)を感じることです。そうやって英語を学ぶ際に、英語教師もAIが本当に役立つことを発見するでしょう。


そして教師は、英語の学びの喜び(と苦しさ)を整理して、自分が担当する学習者のために翻案して伝える必要があります。(もっともそのためには時間的余裕が必要ですから、教師の待遇改善についてはこれからも声をあげてゆくことが必要です。ですが、それはまた別の話とします)。


AIが普及する時代に、英語の学びのWHYを語れない学校教師は、虚しい職業生活を送ることになるでしょう


これまた偉そうな言い方になりますが、英語教師は、AIを使わない理由をひねり出す暇があったら、とりあえずAIを使ってみるべきです。そしてAIがどれだけ英語学習や授業準備に役立つかを実感すべきでしょう。



2023/03/31

YouTube動画「英語教育とAI ~英語教育の未来~」金谷憲先生(東京学芸大学名誉教授)と柳瀬の対談

 


この度、東京学芸大学名誉教授・金谷憲との対談を出版社アルクのYouTube動画に掲載していただきました。話題は英語教育とAIです。動画は2回に渡って掲載されています。

第1回は、金谷先生がうまく話を誘導してくださり、AIについてあまり知らず「ChatGPTって何?」と思うよう人でもわかるような話になりました(それでも時折、深い話も短く導入したりしましたが)。


【Sherpa Channel】#133 英語教育とAI① ~英語教育の未来~



第2回で私は、結構ガチに2023年3月14日の時点での考えを話しています。

なお、その日はChatGPT4が発表される1日前でした。動画の中で私はGPT4が静止画像だけでなく動画も処理できると言ってしまいましたが、もちろんこれは私の間違いです。


【Sherpa Channel】#134 英語教育とAI② ~英語教育の未来~



第2回目の私の論点の1つは、後日作った下の図で説明することができます。





ポイントは、AIはデジタル信号の処理変換 (Digital Signal Processing: Digital-to-Digital Conversion: DDC) で劇的な進展を示しているが、AIと人間ユーザーというアナログな心をもつ存在の間での処理変換 (Analogue-to-Digital Conversion: ADC と Digital-to-Analogue Conversion: DAC) は、DDCほどの高速大量処理はできないということです。

もちろん、人間と人間の間でのコミュニケーションというアナログ信号の処理変換は、AIが介在し難い人間固有の領域として残り続けます。

図では、ADCを「自らの思考の明確化」(articulation of thoughts)、DACを「意味生成」(sense-making) と表現しています。AIは莫大な量のデジタル信号を超高速で処理し、人間の知性に近いアウトプットを示します。

しかし、ユーザーが自分の想いを適切な形式(ChatGPTなら自然言語)でAIに伝えられなければAIは宝の持ち腐れになります。また、AIが有益な情報を提供したとしても、ユーザーがその情報の意味を読み解けなければ、情報も有効活用できません。

仮にユーザーが情報の意味のすばらしい可能性を見出したとしても、それはコミュニケーションを通じて他の人間に伝えられなければ活用されません。そのコミュニケーションを円滑に進めるためにAIを使うとしても、自らの思考の明確化ができなければならないと、話はADCの困難性に戻ります。

AI時代には、自分の想いを明確な形で表現できること、大量の情報から意味を見出すこと、そして人間相手にコミュニケーションを行うことが重要になるというのが私の論点です。

もしご興味があれば上の動画を御覧ください。


付記:第2回目の動画では、時折私が異様にカメラに近づいてしまったり、乱雑な私の机の上が写ったりしています。さらに、私の歯の色は小さい頃の薬害で黒っぽいので、見ていてご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。ご寛容をお願いします。






柳瀬陽介 (2022) 「人間を育てる英語教育とは何か--英語教師に必要な哲学」『新英語教育』2022年3月号 pp.7-9

 

この原稿は、新英語教育研究会編集/高文研『新英語教育』2022年3月号のpp.7-9に掲載していただいたものです。編集部からの許可を得ていますので、ここに全文を掲載します。


この12月から3月にかけてはAIが急激に発展し、私自身も新年度の授業をどうするか、今でも迷い続けているぐらいです。


しかし、そういった時にこそ、心を澄ませて、日々の暮らしの中で「よく見てよく考える」ことが重要なのかとも思います。





1 「人間を育てる」と「英語教育」の狭間で  


忙しさに追われる中で、私たちはいつしか思考を停止してしまう。「この仕事の意味は何か」と思案する暇があったら目の前にある作業を片付けてしまいたい。仕事の改善を検討する時間よりも睡眠時間が欲しい。「一度、私たちの仕事について根本的に考え直してみましょう」と提言してくる者がいれば睨み倒してしまうかもしれない。だが人々がそうして余裕をなくしてしまった時、社会は正気を失う。この記事ではしばし「人間を育てる英語教育とは何か」というテーマについて考えたい。  


だがこれはいかにも大きなテーマである。「大きなテーマは分割せよ」というデカルト以来の原則に従おう。このテーマは「人間」と「人間を育てる」、および「英語」と「英語教育」に分解できる。  


最初の「人間とは何か」という問いは別に閑人の知的遊戯ではない。 “Black Lives Matter” や “#MeToo” の叫びは、今なお人間の平等性が建前にとどまっていることを明らかにしている。日本でもブラック労働や外国人技能実習生の実態は、日本社会の人間観を如実に示している。さらには人工知能 (AI) がさまざまな知的課題を超高速でこなすようになる中で、多くの人が失職の恐れをいだきながら「人間」とは何だろうと問い直している。  


「人間を育てる」にしても、その一翼を担う学校観も問い直されている。19世紀以来の学校観は「国家が子どもを工場での労働や管理を典型職とする近代的な生産システムに適応できるようにするための組織」とも総括できる。そこでは効率化が重視され、一斉授業・一斉テストが当然の前提となった。近代的生産システムが継続している以上、そういった学校観の意義がすべて消えたわけではない。だが、フリースクールの社会的認知が進んでいる現状は、人間を育てるやり方として、これまでの学校観だけでは対応できないことを示唆している。  


「英語」にしても、第二次世界大戦以前の大英帝国文化の精華といった扱いは、戦争直後ではアメリカ民主主義文化の象徴といった認識に変化した。さらに、昭和30年代からは「役に立つ英語」としてのいわゆる「実用性」が重視され始めた。その後の英語の世界的普及を受け、英語は特定の地域や文化を越えた世界共通語的な扱いを受け始めた。  


「英語教育」もグローバル化の進展により、口語英語の能力育成がますます強調されている。同時に、あらゆることの数値化を求める近年の傾向と共に、英語力は標準化された客観試験により測定されるべしという価値観が強くなった。大学入試にも4技能型民間試験が入ろうとした最近の動きは記憶に新しい。さらには翻訳、校閲、音声認識などでAIの能力がますます向上し、英語教育も変わらざるを得ないと考える者も多い。  


こうしてまとめてみると「人間を育てる英語教育」は時代を超越した実践ではなく、それぞれの時代が創造すべき営みであることがわかる。現代においては、「人間」と「人間を育てる」については身近な実感からの疑義申し立てが目立つ。他方、「英語」と「英語教育」はますます抽象化されシステム化されているように思える。現代における「人間を育てる英語教育とは何か」とは、毎日の中で私たちが抱く不全感と抽象化されたシステムの要求との狭間で考察され実践されるべき問いだ。


今、多くの学習者は、人間らしい暮らしについての明るい希望を得にくいのではないか。他方、多くの英語教師は、近代的生産システムの論理の中で成果を数値化せよという圧力を感じているのではあるまいか。これらの「人間・人間を育てる」ことについての実感と「英語・英語教育」のシステムの要求の間の混迷の中で、英語教師はどのように日々の授業を実践してゆけばよいのだろう。



 2 指導原理としての哲学?  


混迷する現代には「英語教師にも哲学が必要だ」と人は考え始める。「世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問」(『日本国語大辞典』)としての哲学である。実際、前節の粗雑なまとめにすら、若干の学問的知見が背景にある。文字から得られる知見は、日常生活の中では見えにくい事柄を可視化・言語化してくれる。英語教師にも、他のいかなる職業人と同じように、哲学をもつための学問的教養は必要だ。学問に裏付けられ、哲学として結実したことばは、明確な表現となる。やがては他人に影響を与える力をもち始めるだろう。  


だが筆者は、哲学をこのように推進することに実は若干の違和感を覚えている。「英語教育の哲学的探究」というウェブサイトで20年以上執筆を続けているにもかかわらず、いやむしろそうだからこそ、筆者は、特定の哲学が一種の指導原理として多くの人に受け入れられることに警戒心をもってしまう。哲学が不要だというのではない。哲学が暴走することが怖いのだ。以下、その理由を説明したい。  


例えばマルクスの経済学的な哲学である。筆者は『資本論』やその他の書籍のほんの一部を読んだにすぎないが、マルクスが筆者の人生の中でもっとも影響を与えた思想家の一人だと思っている。マルクスの経済学的分析は近代社会を考える上で必須の教養の1つだとも考えている。自分でもマルクスの商品論・貨幣論・疎外論の枠組みを用いて「英語教師は今どのような時代にいるのか?学習者と教師が主体性を取り戻すために」という論考を上梓したこともある(柳瀬 2014)。最近では斎藤 (2020) の『人新世の「資本論」』がベストセラーになったが、マルクスの分析は近代における古典として何度も読み返され、そこから現代的な解釈が生み出されるべき母体だと思っている。「哲学者は世界をさまざまに解釈してきたにすぎないが、大切なことは世界を変革することである」というマルクスのことばも、自戒のことばの1つにもしている。  


だが他方、20世紀とは、マルクスの考察がマルクス主義として硬直化し、各種の社会的実験が壮大な失敗に終わった時代だったとも考えている。マルクス自身は「私はマルクス主義者ではない」と述べたとも伝えられているが、多くの人はマルクスの言説を教義化し、それを自らの指導原理とすることを望んだ。そして一部の人々は神官のように特権化された存在として「正しいマルクスの教え」を伝えるようになった。 


これはマルクス主義に限った話ではない。混乱期に人々は強い指導原理を求める。「それさえ唱えていれば自分は正しい」と思える教義を欲しがる。やがてはその教義を連呼する特定個人を強い指導者として崇め始める。その危険性を私は20世紀の教訓として銘記しておきたい。  


だから筆者は「英語教育の哲学」の重要性を認めながらも、特定の哲学がすべての人が従うべき指導原理として教条化されることを恐れる。いや、本誌のこの特集を否定しようというのではない。寄稿者が、それぞれの立場から、「人間を育てる英語教育―英語教師に哲学を」という特集テーマの観点から論ずることは重要だ。しかしそれらの文章は最終的な「答え」として捉えられるべきではない。 


もちろんある論考が、混迷の中で見晴らしを与えることはある。それは一時的には「答え」のように思えるかもしれない。しかし世界や歴史は、ある特定の見解が唯一の最終解となるほど単純ではない。そもそも時代も状況も変わる(そして私たち自身も)。一時は答えに思えた見解が、後にその限界や矛盾を見せたりすることはむしろ当然である。その際に、問題点を隠そうとすることが教条化であり神格化である。かつての答えが今の答えに思えなくなった時には、再び問い直す―これが哲学である。 


哲学とは結果ではなく、絶えることがない過程だ。哲学が生み出すのは答えというよりは、提案であり新たな問いかけである。時代や状況の変化あるいは自分自身の変容に応じて誠実に考え続け、真理ではなく仮説としてその分析を言語化すること―それが哲学という営みだ。 英語教師に哲学は必要だ。だがその哲学は、誰かから一挙に与えられるべきものではない。私たちの正しさを常に保証するような答えでもない。「人間を育てる英語教育とは何か」という哲学的な問いは、私たち一人ひとりに思考の整理を求める問いだ。 


哲学を哲学した(=哲学という営み自身について反省的考察を行った)ウィトゲンシュタインも言うように、哲学的問いの効用は、私たちがずっと以前からよく知っていたこと、あるいは常日頃目にしながら十分に自覚できていないことを思い起こし、それらを整理して物事の見通しを得ることを促すことだ。(鬼界 2018) 「英語教師に哲学を」という呼びかけは、英語教師が実践の中で観察している数々の出来事を思い起こし、それらを現代という歴史的・社会的・経済的・文化的状況の中で解釈し、それらの意味を理解しようと試みることだ。 


「英語教師の哲学」とは、忙しい英語教師が考えないで済むように誰かから与えられる指導原理ではない。「英語教師に哲学を」とは、一人ひとりの英語教師がそれぞれに「よく見て、よく考える」ことを求める呼びかけである。そうやってそれぞれが観察と思考を重ね、そこからことばを紡ぎ出すとき、「人間を育てる英語教育」という理念も少しずつ姿を表してくるだろう。 



3 日常に根ざした哲学的探究  


それでは私たち一人ひとりはどのように自分なりの哲学を育てたらいいのだろうか。「よく見て、考える」ことは、感性のレベルから始まる。カントは人間の認識を、感性・知性(悟性)・理性の3段階に分けたが、本誌でのかつての拙稿(柳瀬 2015)と同じように、ここでもその3つに即して考えよう。 


感性レベルで生じることは、言語による分析抜きに直接に心と身体に生じる直感である。「これはおかしい」と直覚しながらも自分でもその理由をうまくことばにできない直感もあるだろう。まずはその直感を大切にしたい。教室や職場の中で当たり前のように行われている営みの中で生じる違和感をよく覚えておこう。そういった感性の働きを重視することから、硬直した教義ではない、生きた哲学は始まる。 


感性レベルの直感の次は、知性レベルの概念が重要になる。思い起こした数々の違和感をなんとか言語化しようとする。だがこれは容易ではない。ここで有用なのは学術的知見であり文学的表現だ。学問の抽象概念や文学の斬新なことば遣いは、私たちが漠然と感知していたさまざまな直感を1つの言語表現に集約してくれる。そのことばが、自分の語彙体系(つまりはこれまでの人生経験の表現集)の中にうまく適するか、ことばに自覚的になりながら考えよう。直感を概念としてまとめ、その概念と他の概念の整合性を確かめる。日々感じていた違和感をことばで語り直す。これが本格的な哲学の始まりだ。 


だが、そうやって概念で知性的に語り始めると、どこかで語り尽くせないレベルに達する。理性のレベルだ。例えば、毎回の単語テストについての違和感を、意味理論の概念を通じて整理したとする(柳瀬 2021)。知性のレベルとしてはそれで満足かもしれない。それでもさらに「私たちが若い世代に対して行っている英語教育の意味とは何か」といった問いが出てくるだろう。いくつかの知的概念を適用するだけでは答えられない理性レベルの問いである。


「人間を育てる英語教育とは何か」という問いもその理性レベルの問いの1つだ。 哲学とは、どこかの権威筋のことばを教義として崇めることではない。哲学は、日常生活の感性を働かせ、直感を知性的に概念分析することから始まる。その上で、理性レベルの問いに臨む。そしてその問いに対して私たちは語り尽くせないことを知り、再び感性の世界に戻る。実践の中で、よく見てよく考える。それを愚直に繰り返す。―これが英語教師に必要な哲学ではないだろうか。 



参考文献


鬼界彰夫 (2018) 『「哲学探究」とはいかなる書物か:理想と哲学』勁草書房

斎藤幸平 (2020) 『人新世の「資本論」』集英社

柳瀬陽介 (2009) 「現代社会における英語教育の人間形成について : 社会哲学的考察」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 (39), 89-98. https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033702 所収 

柳瀬陽介、他 (2014) 『英語教師は楽しい』ひつじ書房

柳瀬陽介(2015)「リスト化・数値化の危険性」『新英語教育』7月号, p. 19.

柳瀬陽介 (2021) 「学校英語教育は言語教育たりえているのか:意味の身体性と社会性からの考察」 KELESジャーナル (6), p. 23 https://doi.org/10.18989/keles.6.0_6 所収



2022/03/24

「人が他人の心を知ることができるのか」という難問、および再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い

 


[この記事は前の記事の続きです]


質的言語教育研究を考えよう』をめぐるZoom読書会ではブレイクアウトルームの時間が潤沢に設けられました。会の主宰者のご配慮に感謝します。



■ 「人が他人の心を知ることができるのか」という難問について


私のグループでは、なぜか「なぜ研究者は、調査協力者という他人の心をあたかも認識できたかのように語ることができるのか」というド直球の哲学的難問が出てきました(決して私の発案ではありません 苦笑)。


それに対してグループの4人で対話しながら、以下の結論らしきものにたどり着きました(以下には、このブログ記事を書くにあたって、私なりのことばをかなり書き足しています)。


研究者が他人の心を理解できると主張することについて


(ア) たしかに人間は自分のフィルターを通してからしか理解できないものだ。したがって下手をすれば、研究者は自分の主張を再生産し続けるような「研究」しかできない可能性がある。

(イ) だから研究者は、自己理解を深め、自分の認識枠組をまずは知る必要がある。

(ウ) 同時に読書などを通じて、自分のものとは異なる認識枠組も知る必要がある。

(エ) さらに重要なのは、実際のコミュニケーションを通じて、自らとは異なる認識枠組の持ち主と対話することだ。

(オ) そのようにして異なる認識枠組を知り体験することによって、研究者も少しずつ自分の認識枠組を相対化し、さらに他の認識枠組も理解できるようになる。

(カ) 研究者は、そのような自己の理解と変容を日々の訓練として行う必要がある。その訓練を自らに課した上で、研究者は研究協力者に対する理解について、研究協力者自身や他の研究者と対話して、その理解を少しでもまともなものにするべきだ。

(キ) そもそも質的研究は、普遍的真理を獲得しようとするものではないことを理解する必要がある。質的研究は、ある個人・時点・場所からのある対象の見え方を生み出すことである。そのような叙述が集まれば、その知見は「家族的類似性」(ウィトゲンシュタイン)をもったまとまりという形を現すであろう。それぞれの知見の基になっている視点・認識などを互いに自覚した上で、複数の知見の類似点や相違点を明らかにしようとすれば、私たちの洞察も深まるだろう。その洞察の深まりは、いろいろな国・地域のさまざまな時代に関する数多の歴史家の叙述を読み続ければ、人間についての洞察が深まることと似ている。すべての叙述に共通する特徴はない--「人は必ず死ぬ」といった当然すぎる共通性は別にして--。だが叙述からさまざまな類似性や相違点を見出す経験は、新たな対象を理解する際にも必ず役立つであろう。

(ク) さらには、「他人の心を理解できるのか?」という問いが発せられる時にあると思われる「自分の心は確実に理解できる」という前提についても疑う必要がある。「自分の心」も、意識の流動性や無意識の存在を考えると、確定的に把握できるものではない。自己理解を行う自己についても私たちは理解を深めなければならない。




■ 再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い


上で、研究者の自己理解が出てきましたが、これは八木真奈美先生・中山亜紀子先生による第3章(リフレクシビティ)につながります。


両先生は、リフレクシビティ (reflexivity) の訳語としては、「省察性」「再帰性」「反省性」などいろいろあるので、敢えて「リフレクシビティ」というカタカナ語を使うと説明されています(29頁)。


しかし両先生は、それなりに訳語を使い分けています。"Turning back on oneself" という表現を引用した説明では「再帰性」という訳語を使っています(30頁)。他方、"awareness"だけでなく "critical reflection" を必要とする「リフレクシビティ」には「省察性」という訳語を使っています(33頁)。Reflexivityには2つの段階を区別することができると言えるでしょう。


ここで私は、上の違いをreflexivityとreflectionという2つの用語を使って区別したいと思います。Reflexivity (Reflexivität)とreflection (Reflexion) の区別は、ルーマンに基づきます。しかし、彼の理論構成は非常に抽象的かつ難解なので、ここでは彼の区別についての私の解釈でこれら2つの概念を区別します。彼の論考のまとめは、この記事の最下部に「付録」としてまとめるにとどめます。Reflexivityとreflectionは、それぞれ「再帰性」と「省察」と訳すことにします。

再帰性 (reflexivity) とは、自分がある行為を続ける中で、その行為の対象が自分以外のものからやがて自分自身へと移っていくことです。例えば研究者がある観察対象(研究協力者)の様子を観察します。その研究者が観察を続けるなかで、やがて観察対象が自分自身になれば、そこに再帰性が見られることになります。

これはそれほど当たり前のことではありません。たとえばある研究者 (A) は、ある観察対象(研究協力者)を観察した後、次々に別の観察対象を観察し続けます(観察対象の数を増やすことが研究にとって何より重要だとAは思っているのかしれません)。別の研究者 (B) は、ある観察対象(研究協力者)を観察した後、たまたま他の研究者 (C) が同じ観察対象を観察した記録を見る機会を得るかもしれません。BはCによる観察記録をじっくりと観察し、次にCという観察者(研究者)を観察するかもしれません。Cがなぜ自分とは異なる観察をしたのかに興味をいだいたわけです。しかしBは、ついぞB自身に目を向けることはないかもしれません。(Bにとって、自分の観察方法は、自分では意識できないぐらい正しいものなのかもしれません)。観察者がやがて観察の対象を自分自身に向けるという再帰性はそれほど当たり前のことではありません。だからこそ研究においては再帰性が大切だと説かれるのでしょう。

しかし再帰性だけでは十分ではありません。再帰性では、自分自身に目が向けられただけで、自分自身を批判的に理解していないからです。研究者には、再帰性に加えて省察が必要です。

省察 (reflection) とは、自分自身の観察を省みて、そこにある特徴とない特徴を知ることです。「過去の自分自身は、○○の観点からの認識をもっぱら行っていたが、××の観点からの認識をしておらず、結果、云々のことが見えていなかったし、また、見えていなかったことも見えていなかった」などと気づくことです。自分自身という認識システムを省みて、そのシステムの性質を理解するわけです。このように過去の自分自身の認識を対象化したうえで、その特徴と限界を知ることがここでいう省察です。(注)

(注)私の解釈では、ここでの省察は、「自分自身の観察を観察すること、すなわち自分自身で行う二次観察」と言い換えることができると思います。二次観察については以下の記事をお読みください。

関連記事
ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ

研究者--とりわけ自らの方法論に自覚的である必要がある質的研究者--が、自分自身に目を向けるという再帰性は、研究者として必要な資質ですが、それだけでは研究者としての力量を発揮しているとはいえません。研究者としての批判的な分析力は、省察をどのように行うかで示されます。自分自身の認識をいかに対象・客体 (object) として「客観的」 (objective) に分析するかというのが省察の能力です。

省察することを知らずに再帰性を発揮するだけだったら、特に質的研究者は、自己愛的な自分語りを過剰に行ってしまうかもしれません。「この報告を行う研究者は、○○の経歴をもち・・・・」などと際限なく自分自身について語ることは研究にとって不必要です。研究者自身が自分自身について語ることの際限を決めるのは、「研究報告に必要な省察を行うための情報を出すこと」という基準でしょう。自らの認識の特徴と限界(長所と短所)を示すための必要最小限の自己開示が研究者に求められると私は理解しています。

再帰性は必要だが、それを踏まえて省察を行うことこそ研究者の力量だと言うのが私の理解であり、それだからこそ私は再帰性と省察を区別するべきだと考えます。




*****


付録:ルーマンによる3種類の自己参照の区別

ここで私は虎の威を借る狐としてルーマンの理論的区分に依拠します。『社会システム』第11章第III節以降で展開している3種類の自己参照についての論考です。とはいえ、私のルーマン理解は怪しいものです。かつ、自分なりの訳語を使っているので誤読を招くかもしれません。加えて、この箇所はとりわけ抽象性の高いところなので、以下に示す私の拡張的解釈に混入している誤りを怖れます。また抽象的な議論を少しでもわかりやすくするために、私なりに具体例を補いましたが、それがそもそも間違っているかもしれません。もしルーマンに詳しい方がいらしましたら、間違いをご指摘くだされば幸いです。「(○頁, p. △, p. □)という表記の数字は、それぞれ日本語訳、英語訳、ドイツ語原著のページ番号を指します)。



3種類の自己参照 (self-reference, Selbstreferenz)

(1) 基底的自己参照

(1a) 理解
1つ目の自己参照である基底的自己参照 (basal self-reference, basale Selbstreferenz)で参照される自己は、自己の要素にすぎずない。基底的自己参照は、最小限の自己参照である。基底的自己参照なしに、これ以降の自己参照(再帰性、省察)は不可能だが、基底的自己参照だけで再帰性や省察が成立するわけではない(232頁、p. 443, p. 600)

(1b) 拡張的解釈
間違いを怖れながら私なりの例を補う。<「私は昨日カレーライスを食べた」と私が今言っていること>において、現在の私は、昨日の私という自分自身を参照しているが、これらの<食べた私>と<語る私>2つの私にの間に言及関係以外の特別な関係はない(次に示す自己参照においては、<語った私>と<その語った私について語る私>というように、2つの私が同じ語るという行為においてつながっているという特別な関係をもっている)。<「私は昨日カレーライスを食べた」と私が今言っていること>では、<昨日の私>は<今の私>が、私自身の要素として言及しているだけである。


(2) 再帰性(過程的自己参照)

(2a) 理解

2つ目の自己参照である再帰性(過程的自己参照)(Reflexivität/prozessuale Selbstreferenz, reflexivity/processual self-reference) とは、あることの過程にある自己がその過程の以前の段階にあった自己について参照することである。再帰性(過程的自己参照)において、その参照<以前/以降>という区別が生じる。その「以降」の自己が、それ「以前」の自己をその過程の中で自己参照するのが再帰性である。(232頁、p. 443, p. 601)


(2b) 拡張的解釈
<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、今は少し意見を異にしている」と語ったこと>において、現在の<語る私>は、過去の<語った私>について語っている。その2つの<私>は語るという過程おいてつながっており、かつ一方が他方を言及するという特別な関係にある。ここにおける<私>は、語るという過程において構成されている。<私>とは<語った私>でも<語る私>でもある。同時にこの<私>は、今の語り(過程的自己参照)により<以前/以後>に区分されている。現在の<私>は、過去とは少し異なる見解をもっているという語りにより、以前の<私>と区別されている。現在の私は過去の私に「再」び「帰」って語っている。

だが、後述するように、再帰性(過程的自己参照)ではある自分が以前の自分を参照しているだけである。「以前の私がシステムとしてどのような区別をしていたのか/いなかったのか」といった省察(3つ目の自己参照)はまだ見られない。


(3) 省察

(3a) 理解
3つ目の自己参照である省察 (reflection, Reflexion) は、自分というシステムが自分自身で認識できることと、自分自身では認識できないこと(=環境)を区分することである。(232頁、p. 444, p. 601)

(3b) 拡張的解釈
再帰性(過程的自己参照)の例は<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、今は少し意見を異にしている」と語ったこと>であったが、省察の例はは<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、その時の私はXの観点からしか考えておらず、Yや他の観点からは検討出来ていないことがわかった」と語ったこと>になるだろう。省察は、自らの(一次)観察を自らが二次観察することと私は解釈している。


参照文献
ニクラス・ルーマン 馬場靖雄訳 (2020) 『社会システム(下)』勁草書房
Niklas Luhmann (Translated by Jon Bednarz, Jr. and Dirk Baecker) (1995) Social Systems. Stanford University Press.
Niklas Lhumann (1984) Soziale Systeme. Suhrkamp.

2021/04/21

語彙学習の3段階と言語習得の社会性について:今井むつみ・佐治伸郎(編著) (2014) 『言語と身体性』(岩波書店)を読んで考えたこと


4/24(土)の研究会(『英語の学びを科学する 〜理論と実践〜』)のために、泥縄式で慌てて今井むつみ・佐治伸郎(編著) (2014) 『言語と身体性』(岩波書店)を読みました(我ながら日頃の不勉強ぶりが恥ずかしい)。

ここでは、その本を読んで考えたことを備忘録的に書いておきます。


■ 記号接地問題

この本に流れる通奏低音のようなテーマは記号接地問題 (symbol grounding problem) です。もともとは人工知能研究で提示されたこの概念を、本書は言語習得の中で考えようとしています。これについては2ページに詳しい定義が掲載されていますが、私としては33ページに書かれたより簡単な説明の方がわかりやすく思えました。


記号接地とは抽象的な記号である言語を人間が身体に接地させ、言語の習得とともに文化を身体の一部にしていく過程、そして、文化の文脈のなかで記号を接地させ、社会として新たな記号を作り出していく過程である。 (p. 33)


私としては、最初の「接地」は「身体化」、2番目の「接地」は「言語体系化」と言い換えられるかとも思いました。また、最後の部分に書かれている「記号を作り出」すことは、言語の理解と使用を社会で更新し言語使用を進化させることと言い換えることができると私は理解しました。(「社会に接地させること」というのは言い過ぎでしょうか)。



■ 語彙学習の3段階:便宜的学習、意味理解(身体化と体系化)、意味理解の更新

この本を読んでいるうちに、典型的な日本人の英語学習のような外国語の語彙の学びは、 便宜的学習、意味理解(身体化と体系化)、意味理解の更新の3段階に大きく分けることができるのではないかと考えました。

このような整理を行うのは、自ら行っている語彙指導の方針についてより明確に理解し、それを改善するためです。勤務校で私が担当している科目(「ライティング-リスニング」では、所定の語彙集を使った語彙学習をすることが必須化されています。私としては、その学習が意味深く効果的なものになるように工夫を重ねているところです。


関連記事:

<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して--

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/11/blog-post.html


以下に、今回私なりに考えた3段階を示します。ちなみに第2段階には2つの下位段階があります。


(1) 便宜的学習

定義:とりあえず語形(綴りと発音)と語のだいたいの意味を知ること。つまり、当該L2語の綴りと発音という形式を学び、かつ、その語に相当すると思われるL1語(対応L1語)と結びつける学習。

実行:外国語の語彙とそれに対応すると思われる母国語語彙を1対1で並べただけの単語集で可能

補記:対応L1語の形と意味は明確なので、対連合学習はしやすい。だが、下に説明するように、L2とL1の語彙体系は異なる。ソシュールも言うように、語の意味は、その言語の他の語との差異によって大きく規定されるので、対応L1語の意味を当該L2語の意味とみなすことはできない。また対応L1語を丸暗記するだけでは、意味の源泉である情動は喚起されないので、この点でもこの便宜的学習は好ましくない。

 だが、この便宜的学習は小テストに便利なので、学習を管理したい教師などは実質的にこの種の学習ばかりを学習者にさせている。その結果、学習者が覚えた単語を文脈に即して理解したり使用したりできるようになっているかは正直疑わしい。また、丸暗記を嫌う学習者がこれを契機に英語嫌いになることも決して珍しくはないだろう。


(2) 意味理解(身体化と体系化)

定義:学習者は、当該L2語の意味を自分の身体の中および当該言語の体系の中で理解する。

(2a) 当該L2語の身体化

定義:当該L2語の意味を身体で感じる、つまり、当該L2語の使用を、自分の情動の変化と連動させる身体的な学習

実行:少なくとも、学習者にとって意味深い例文を提示(さらには解説)することが必要

(2b)  当該L2語の体系化

定義:当該L2語の意味を他のL2語との関係性の中で理解すること。つまり、当該L2語を、L2の言語的体系の中に位置づける学習。

実行:典型的には、英英辞典の定義と例文のように、当該L2語をそれと同じ言語で説明した文と、その当該語が使われた文が必要

補記:当該L2語と他のL2語の関係性には、統語的・連語的(collocational, syntagmatic) なものと、語彙的・類語的 (lexical, paradigmatic) なものがある。前者は例えば動詞なら何を主語や目的語にとるかといった関係性で、後者はその語の位置に他のどんな語を入れることができるかといった関係性。こういった語彙体系の関係性を学ぶことは、諸概念の関係性を学ぶことでもあり、当該語の文化を学ぶことにつながる。


(3) 意味理解の更新

定義:自然言語のほとんどは多義的であるから、(2) の学習を一回行っただけで、当該L2言語が充分に理解し活用できるとは思えない。したがって、別の文脈での当該L2語使用を経験し、それまでとは少し異なる身体化と体系化を行い、当該L2語の意味理解を更新(=意味理解の拡張や修正)をする 。

実行:現実的には、実際のコミュニケーションの中で、当該L2語の使用の成否に身を委ねながら、言語使用の経験を重ねることで実現する。この意味で語彙学習は歴史的である。

補記:コミュニケーションにおいては、コミュニケーションの相手が当該語の使用を促し、その是非の判断を現実的な反応で示す(「もう少し説明してくれる?」「なるほど、そういうことか」「えっ、それは言いすぎだろう」、「何を言いたいのかわからなくなってきた」といった反応)。この意味で語彙学習は社会的でもある。

 もちろん、現実世界で誰かと共にコミュニケーションをしなくとも、例えば複数の英英辞書の定義を読み、コーパスで大量の例文を読めば、ある程度の意味理解更新はできるだろう。だが、定義や例文を理解するだけでは、可能な意味理解の幅を広げることはできても、どのような意味理解が不可能・不適切かということは学習しにくい。したがって、やはり学習者に当該語を使用させることは重要である。


関連記事

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html



以上の整理を受けて一般論を述べるようなら次のようになります。


■ 語彙学習のあり方について

日本の多くの学習者は語彙学習は(1)しか行っていません。教師が学習者を手軽に管理するため、あるいは学習者が大量の語彙を覚えるためには、 (1) は便利で唯一の選択肢のように思えるかもしれません。ですが、私はこの (1) については批判的です。

語彙習得ということから考えれば、学習者の生活にとって必須のコミュニケーションで語彙を理解し活用し続ければ、改めて (1) や (2) のような学習は不要なのかもしれません。しかし、学習者がなかなか意義を見いだし難いし、学習量も確保し難い外国語教育については、(2) を重視することが必要でしょう。コミュニケーションにおける偶発的な学習だけでは、体系的・効率的に語彙学習をすることは困難です。


■ 私の語彙指導実践

ちなみに私は、昨年度は、所定の語彙集の指定された範囲から何語か選ばせて、その語を使った自由作文をさせそれを提出させ、それにフィードバックを与えていました。

しかし語彙集の簡単な説明だけを見て自由作文をした場合は、根本的な勘違いも珍しくありません。また、そもそも学生が英英辞典をほとんど使いこなせていないことも明らかになりました。

したがって今年度は、最初の7週間で7種類の無料オンライン英英辞典(ただしSkellも含む)を使わせることにしました。学生は指定範囲から自分が使えるようになりたい単語を選び、その定義と例文をコピーした上で、そこから学んだことを自分のことばでまとめることが毎週の課題となっています。まだ2回しかこの課題をさせていませんが、学生の分析的なまとめには面白いものが多いです。

さらにこのまとめの中の優れたものは共有ファイルにまとめて、次の授業で全員に読ませています。学生としては自分以外の学生の分析も読むわけです。

以前はその共有ファイルの解説は私がやっていましたが、今年は学生に好きに読ませて、読んだ中で2つか3つ面白いと思った分析を後でグループ内で発表してくださいと指導しています。さらにグループ内の中の気づきも後で教室全体で共有するようにしています。

こうなると、学生は語彙の学習教材を自分たちで作り、自分たちでその価値を認めあっていることになります。先日気がついたのですが、私の授業方針は、"Less control, more support" ともまとめられます。今後も、学生を自主性を信頼してゆきたく思います。(信頼することにはさまざまなリスクが伴いますが、教師がリスクを負わねば、学習者もなかなか本気にならないのではないかと私は思っています)。




■ 言語習得の社会性について

『言語と身体性』の話に戻れば、この本を読んで考えたことのもう一つの論点は、言語習得は社会的なものであるということです。

人間は、共同注意 (joint attention) や心の理論 (Theory of Mind) などの個体を超えたレベルでの能力が他の動物に比べて優れています。

「なぜこれだけ少ない言語入力からこれだけ莫大な言語の知識を得られるのか」というプラトンの問題に、チョムスキーは生得的知識(普遍文法)をもって答えようとしました。ですが、後天的な社会的支援もその答えの中に含まれるべきでしょう(生得的な知識あるいは能力には普遍文法以外のものもあり、それらは本書の第2章などで集中的に扱われていますが、ここでは割愛します)。言語を獲得しようとする者のことを気遣い、さまざまな対象を共同注視しながらコミュニケーションを重ねる他者は、言語習得において決定的に重要でしょう。

私はこれまで "Language is embodied in flesh and embedded in a context."などとまとめてきましたが、考えてみれば、このモデルには学習者1人しか出てきません。文脈を共有する他者--第1言語習得なら養育者、第2言語学習なら教師--の働きかけを軽視してはいけません。図ではバカみたいに簡単な追加でしかありませんが、私はこれまでよく使っていたまとめの図に、「重要な他者」と「共同注視の対象」を加えました(それに伴い4/24の研究会投映スライドもVer.2に差し替えました)。





ちなみに、コミュニケーションが社会的な協働であるという(常識人からすれば当たり前の)論点を、少しだけ理論的に述べたのが下の文章です。上でも言及した<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して--  は全文がレポジトリで公開されていますし、そもそも私自身の文章ですから、ここに再掲します。


4 コミュニケーション

理論的整理:心的システムは閉鎖された自己生成システムであり、ある心的システムが別の心的システムと直接に接続し、情報や知識がそのままの形で移送されたりコピーされたりすることはないことは上で確認した通りである。このことをふまえて、ルーマン (Luhmann, 2002, 2008) のコミュニケーション理論を心的システムの観点から語り直すなら、コミュニケーションとは、このように相互に閉ざされた心的システムが、その閉鎖性にもかかわらず自他を協働的に連動させようと試み続けることで生じる社会的な出来事である、となる。

コミュニケーションが社会的な出来事であるということは、コミュニケーションが心的システムを越えたレベルで生じているということである。複数の心的システムの間で行われているコミュニケーションにおいて、どの特定の心的システムもコミュニケーションを完全にコントロールしているわけではない。またそれら複数の心的システムが合体して1つになった心的システム(意識)が新たに生じるわけでもない (Luhmann, 2002)。たしかにたとえば乳幼児とその親のように、コミュニケーションをする2人が互いの動きと連動している統一体のように第三者には見えることはあるかもしれないが、その2人の意識が同一であるわけではない。コミュニケーションは複数の心的システムが、各自で閉ざされた意識を越えた社会的なレベルで協働することによって生じる。

社会的な協働とは、互いがそれぞれの心を原理的には不可知としながらも、観察と推測によって相手にとって関連性 (relevance) の高いと思われる発話を産出する試みを継続することである。ここでの関連性とは、現在でももっとも強力な語用論理論の1つとされる関連性理論 (Sperber & Wilson, 1996) で使われている概念であり、聞き手が有する情報・知識と統合されることによりそれまでになかった有益な情報・知識が聞き手の中に生じてくるような発話が関連性の高い発話であるとされる。

関連性理論では、「関連性がある」 (relevant) ことを次のようにまとめている(このまとめは、話し手が示した新しい情報が聞き手の既知の情報と結びつき、その結果聞き手に新しい情報が生まれるエピソードを紹介した後のものである)。


[前述のエピソードでの]これらの相互に結びついた新しい情報の項目と古い情報の項目が、共に推論過程の前提として使われたとき、さらに新しい情報が派生しうる。その情報とはこれらの新旧の情報が前提として結合しなければ推測できなかった情報である。新しい情報の処理がこのような増殖効果を生じさせるとき、私たちはそれを関連性があると呼ぶ。増殖効果が大きければ大きいほど、関連性は大きい。(Sperber and Wilson, 1995, p. 48)


このように関連性の高い情報を聞き手の中に生じさせるためには、話し手は何らかの働きかけをしなければならないが、その働きかけは話し手が聞き手に認識してほしいという意図をもっていることが明らかにわかる顕示的 (ostensive) なものでなければならない。逆に言うなら、顕示的な働きかけをしながらも、そこから聞き手が何の関連性も見いだせないことが続けば、聞き手にはその話し手とのコミュニケーションを取ることの意義が失われる。聞き手は、その話し手とのそれ以上のコミュニケーション関係を拒むかもしれない。コミュニケーションを行う関係性を保つということは、どの顕示的行為にも相手にとって関連性の高い結果が伴うように努力することが前提とされていなければならない。かくして「顕示は関連性を暗黙のうちに保証する」 (ostension comes with a tacit guarantee of relevance) (ibid. p. 49) と関連性理論は説く。

この関連性と顕示の規定からするなら、通常のコミュニケーション的な関係性が期待されている間柄においてコミュニケーションが行われれば、そこでは話し手においては、聞き手にそれまでになかった有益な情報・知識を生じさせることが前提的に意図されていることになる。もちろん実際には、うまく関連性の高い情報・知識が聞き手に生じない場合もあるだろう。だが、そういった場合には私たちは、言い換えたり、問い直したりする。そうするのも、社会的動物である私たちにとって互恵的なコミュニケーションの関係を保つことは生存のための重要課題であるからだ。コミュニケーション関係を保つためには、相手にとっての発話をできるだけ関連性の高いものにすること、および、相手からの発話をできるだけ関連性の高いものとして解釈することを私たちは前提としなければならない。これがコミュニケーションの基盤である 。

このコミュニケーションの試みが連続する過程で、双方はそれぞれに相手に対する観察と推測に次第に熟達し、齟齬が少なくなり、相手にとってより有益な発話がより頻繁にできるようになる。これがコミュニケーションのメカニズムである。

コミュニケーションの蓄積によって自分との関連が高まった他者との間には「私たち」の感覚が生じてくる。他者が原理的に不可知であることは変わらないのだが、相互の社会的協働が洗練されるにつれ、2人は他人でありながら双方の思考や行動に影響を与え続ける「私たち」として認識されるようになる。「私たち」は2人のどちらにも還元できないし、ただ2人を物理的に合計したものでもない。「私たち」は、社会的な相互作用の継続によって構成されている。もちろんその「私たち」という感覚・認識は、2人において共通ではなく、それぞれがそれぞれにもつものであることはこれまで何度も述べた通りである。コミュニケーションは、複数の心的システムが、それぞれの心的領域を越えた社会的な次元での協働の試みを継続させることによって成立する。そのコミュニケーションの蓄積が「私たち」、やがては社会秩序や文化を形成してゆく。

このコミュニケーション概念の再検討から、『学び合い』とは興味・関心や知識・認識などで互いに異なる学習者が、社会的に協働することで、それぞれの閉ざされた枠組み(心的システム)を撹乱し、それぞれに自己生成を重ねてゆく教育方法であることがわかる。ここでの社会的協働とはコミュニケーションであり、参加者が相手の心をすべて知りえることはないことを自覚した上で、相手にとってもっとも関連性が高い、すなわちもっとも相手の中に情報・知識を生み出しやすいと考える発話を連ねることであった。このような発話はもちろん話し手の負担となるものであるが、互いがコミュニケーションを重ね合う互恵的な「私たち」の関係であるという認識が共有されるにつれ、参加者はより相手にとって有益な発話を志向するようになる。『学び合い』ではしばしば、「一人も見捨てない」ことこそがもっとも重要であるとも言われているが、それは一人も見捨てないことによって、コミュニケーションという互恵的な相互探究の関係構築がより強固になるからとも解釈できるだろう。『学び合い』の実践においては、学習者間の話し合いを、単なる答え合わせといった情報伝達として考えてはならず、社会的関係を維持・発展させることにより、個々の可能性と、その個々が集った社会的集団の可能性を広げるコミュニケーションと考えることが重要となる。



以上、備忘録まで。4/24の研究会(Zoom) ではできるだけよい発表をして、今井むつみ先生ともコーディーネターの方とも聴衆の方々ともできるだけよい対話ができればと願っています。ご興味のある方はぜひこちらからお申し込みの上ご参加ください。


2020/12/03

西洋の近代的構成感を直感的に理解するためのベートーベン交響曲第5番?

 

今年度、私は毎週の授業課題締切日に受講学生にメールを出して、出し忘れがないように催促をしています。ただの催促では味気ないので、毎週「気になる英語」というコラムで、The New York Timesなどで目にした英語に日本語の小見出しをつけて、学生さんの知的関心を広げようとしています。

以下の文章は、今週のメールに掲載したものです。通常は>>>から<<<までの部分だけなのですが、今週の話題は私の趣味性が強いものなので、それ以降に文章を付け加えました(また、忙しい学生さんの邪魔にならないように、このコラムはいつものようにメール冒頭にもってくるのではなく、末尾に掲載しました)。

ただ、「西洋の近代的構成感を直感的に理解する一つの方法は、ベートーベンの交響曲第5番を聞くことだ」というのは私の長年の持論なので(苦笑)、文章をまとめ、それを(厚顔無恥にも)このブログに掲載する次第です。


***


>>>気になる英語

ベートーベンは伝統的な形式が解体するまでそれを極めた

Beethoven was one of music’s most passionate and disruptive forces. He simultaneously glorified the traditional forms -- symphony, sonata, quartet -- and pushed them to the breaking point.

By Armando Iannucci

https://www.nytimes.com/2020/12/02/arts/music/five-minutes-classical-music-beethoven.html

<<<


今から250年前の今月(12月)にベートーベンは生まれました。生誕250年を祝していろいろなイベントが行われていますが、The New York Timesは、人気の「5分シリーズ」でベートーベンの音楽の素晴らしさを紹介しています。


5 Minutes That Will Make You Love Beethoven

https://www.nytimes.com/2020/12/02/arts/music/five-minutes-classical-music-beethoven.html


今年は奇しくもビートルズ結成50周年でもあります。数十年前のビートルズの曲を私も含めたファンは今だに新鮮な感動と共に聞き続けています。おそらく彼らの曲の中には、今後も末永く残り続ける曲も出てくるでしょう。

そうやって200年以上も残り続けているのがベートーベンの曲です。

上の引用は、NYT記事の執筆者の1人のことばです。その人はこの文章と共にピアノ協奏曲第4番を推薦していますが、私がこの文章を読んで真っ先に思ったのは、彼の最後のピアノソナタ(第32番)です。その最終楽章はもはやジャズです。ベートーベンの創造性と音楽の力には本当に驚かされます(そしてその驚きを伝えてくれるのが、ポピュラー音楽でいうところの「カバー」を行う現代のクラシック音楽演奏家です)。

この記事には、推薦曲を連続して聞くことができるSpotifyのPlay Listもありますから、アプリをお持ちの方はぜひ一度、聞いてみてください。選曲のセンスは非常にいいと思います。




ついでながら書きますと(すみません、今週は好きな音楽の話題なので非常に長くなっています)、私はかねがね、ベートーベンの交響曲第5番は、西洋の(特に啓蒙の時代の)近代的知性を象徴するともいえる作品だとも思っています。

アカデミック・ライティングでも、テーマの統一性 (unity) やテーマのつながりのよさ (coherence) の重要性を説きますが、この曲でも最初の有名な「ジャジャジャジャーン」のテーマが、曲全体を知らせるいわば "topic sentence" になっています(と同時に、聴衆の心を鷲掴みにする "hook"ともなっています)。

そのテーマは統一感を保ったままどんどんと発展してゆきます。ライティングの "story telling" でも読者の心の動きを重視しますが、この交響曲も聞き手の心を掴んでそれを最後まで動かし続けます。その心への働きかけを可能にしている音楽の展開とつながりは見事です。圧巻は、第3楽章から第4楽章への移行です。ここには楽章間には通常ある休止がなく、連続して演奏されますが、聞き手はそこで楽章が変わったことを明らかに実感することができます("discourse marker"や改行といった通常の工夫を一切しないのに、段落が変わったことがわかる達意の文章と喩えることも可能でしょう)。このつながりは見事で、このイメージを覚えておくことは人生の宝の一つとなるといっても過言ではないでしょう。

日本的な感性でしたら、たとえば武満徹の交響的作品(例:November Steps) のような広がりとつらなりを好むのかもしれません。武満の曲は、西洋的感性からすれば統一感と構成感の欠如とも思えるかもしれません。しかし逆に言うなら、武満的な感性の持ち主にとっては、西洋近代的な構成感覚はやや異物のように思えるでしょう。

しかし、現代は、西洋近代の遺産を基盤としている時代です。そのような状況では、たとえ非西洋的文化圏に育った者も、西洋近代の統一感や構成感を理解し、その良さを実感することが重要でしょう。ライティングといった知的な営みにも、そういった美的感性が根づいています。その意味で、ベートーベンの交響曲第5番はぜひ一度、最後まで聞いてみてください。(ただし下の演奏は名演ではありますが、このYouTubeアップロードは音質はあまりよくありません。名曲・名演だけにきちんとした媒体で聞きたいものです)。




2020/02/15

意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで


Lisa Feldman Barrettの "How Emotions Are Made"の翻訳である『情動はこうしてつくられる』(高橋洋訳、2019年、紀伊國屋書店)をようやく入手し読み始めることができました。



やはりすぐれた翻訳書というのはありがたいです。「そうか、こう訳せばよかったのか」と学ぶ点も多いですが、何よりもありがたいのは、日本語で書かれているので圧倒的に速く読めることです。読む認知的負担が少なくなるので、読みながらいろいろ考えることもできますし、何度も読み返すことによって集中的に考えることもできます。また、訳注や訳者あとがきもとても有用です。特に後者では、バレットの「情動」概念が、ダマシオらの「情動」概念と異なり、意識的(自覚的)であり認知作用を含むものであることが、原著者と訳者の間での質疑応答から示されており (520頁)、一読者として確証が欲しかったことに一定の解が与えられた気分です。

この記事では、翻訳書の1-7章(本書の理論編に相当)を読んで私なりに考えたことを備忘録として書き留めておきます。論点は、意味のシステム依存性(=意味は、システムの作動に伴う出来事である)と語の超越論的指示機能(=語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である)の2つです。丸括弧の中の (27, 57) といった2つの数字は、前者が英語原著の、後者が日本語翻訳の該当ページであることを示します。何箇所か日本語訳を出しますが、それは拙訳です。


*****


■ 意味のシステム依存性:意味は、システムの作動に伴う出来事である

「意味は、システムの作動に伴う出来事である」という命題は、先日、ブログ記事に掲載したルーマンの意味理論からのものです私は、さまざまな科学的知見を読み解く時に便利だからルーマンの抽象的な論考に興味を抱き続けています。バレットの理論を理解する際も、私はルーマンの理論を手がかりにしました。

関連記事
ルーマン『社会の社会』第1章第3節(意味)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/13.html


以下は、バレットの見解を、ルーマンの用語を時折使いながら要約してみます。ルーマンの用語は《 》で表記しますが、その中に=がある場合は、バレットの用語とルーマンの用語がほぼ交換可能ことを、≒が使われている場合は、厳密には交換できないことを示します。

人間は、覚醒している間ずっとさまざまな感覚刺激を受けています。その刺激は多義的でノイズの多い情報です。それは人間が何気なく認識している情報が、人工知能にとってはひどく認知が困難であることからもわかるでしょう。ですが人間の脳は、そのような曖昧な感覚刺激から、過去の経験を使って仮説(シミュレーション、あるいは予測)を作り出します。(27, 57) 外界《=環境》からの撹乱を受けて、自身の中にあった記憶を使い仮説を生成し、次の瞬間のシミュレーション・予測をするわけです。これが意識システムの主要な作動です。システムが構築していた記憶はバレットの用語では「概念」と呼ばれます。ですから、脳が意味を生み出すメカニズム《=意識という自己生成システムが意味を紡ぎ出すメカニズム》は次のようにまとめられます。バレットの表現です。

どんな時、どんな文脈でも、脳は概念を使って、世界という外に起因する感覚 (sensations) に対しても、[身体という]内に起因する感覚に対しても、その瞬間ごとに意味を与える。(30, 61)

意味は絶え間なく更新される動態的なものです。脳は、何十億もの予測ループを使って未来をシミュレーションし続けているからです。その予測は、世界に起因する新たな感覚入力 (sensory input)《≒撹乱》)によってチェックされます。脳はそれを優先しシミュレーションを変更することもあれば、無視してそのままシミュレーションに基づいた行動を行うこともあります。(64, 116)


こういったバレットの論点は、そのまま彼女の情動構成理論 (the theory of constructed emotion) の定義にもつながります。

覚醒しているときはどんな瞬間でも脳は、概念として体系化された過去の経験を用いて、行動を導き、感覚に意味を与える。概念が情動を伴う概念 (emotion concepts) である場合、脳は情動の事例を構築することになる。 (31, 63)

言い換えるなら、情動とは、外界《=環境》で生じた出来事から自動的に生じる反応 (reaction) ではありません。(31, 64) 情動とは、身体内外に起因する感覚を契機として、脳《≒意識システム》が、自らの構成要素である概念《=記憶》を用いながら、未来の事態を予測することを促す身体内の変容です。情動は、現在を過去と未来に関連づけるとも言えるでしょう。こういった点を総合して言い切ってしまうなら、情動とは意味です (Emotions are meaning)。(126, 211) そして、意味を作り出すということは、現在与えられている情報《≒撹乱》を超越することです (To make meaning is to go beyond the information given)。(126, 211)

私は以前、ある機会(2019年度 大学英語教育学会(JACET)関西支部大会)の講演で、下のスライドを使おうかと思いながらも、時間の都合で断念していました。このスライドには、上の説明では割愛した、body budget (身体予算=身体のリソースを勘案する機能)、interoception (内受容=身体内の変化を脳が感知すること)、exteroception(外受容=身体外の変化を脳が感知すること)、conatus (生きる力(コナタス)=生命が自らを維持し発展させようとする力:バレットは使っていないが、ダマシオはスピノザの用語として時折使っている)という用語が使われています。ですからバレットの理論の忠実な要約にはなっていませんが、これも私なりの1つの解釈かと思い、ここに掲載します。図の白色部分は身体内を、黒色部分は身体外の領域を示します。灰色部分は、それらの両方の領域に関わる現象です。なお、図にはmeaningの用語が見当たりませんが、この図全体が、いかにして意味が生成されるかを説明しているとご理解くだされば幸いです。






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■ 語の超越指示論的機能:語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である

語は、乳児の注意を、他人の内部にある概念(特に情動概念(注))に向ける。概念は、外界では観察できないが、語により表現されることによって、乳児の注意をひくことができる。語は、外界のさまざまな事例を互いに類似している個体群・母集団としてまとめることを教える(98, 166-167)

(注)私は、野口三千三が言うように(あるいは竹内敏晴も示唆するように)、すべての概念には情動が含まれていると考えた方が合理的だと思っています。また、バレットの理論で考えても、すべての概念は何らかの形で情動概念につながっていると考えてもよいと考えています。ですから私は、「概念」と「情動概念」を峻別する必要はないと考えます。よって、以下でバレットを引用する際に「情動概念」や(その概念を表す)「情動語」という用語を使っても、その議論は「概念」や「語」一般にも適用されると私は理解していることを付記しておきます。この両義性をうまく表現するために、「(情動)概念」や「(情動)語」といった表記を時折使うことにします。 
関連記事
野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html
野口三千三の身体論・言語論についての学生さんの振り返り
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/01/blog-post.html
竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_18.html
「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/ss.html
竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html


ここで大切なのは、乳児がまだ学んでいない(情動)概念は、外界ではさまざまな事例で表現されるので、外界の様子を観察するだけでは、その(情動)概念が存在することすら乳児にとっては理解困難であることです。しかし、周りの大人が、その(情動)概念を表現する(情動)語をさまざまな事例でを通して使い続けると、乳児はその語の形式(=音声)の同一性(厳密には類似性)から、さまざまな外界の様子には、何らかの共通性(厳密には類似性)があるのではないかと推論することが容易になるでしょう。

たとえば「怒り」という情動概念が適用される事例には、実にさまざまな身体、文脈、目的の状態が含まれます。(100, 171) ゆえにその概念の学習は容易なことのようには思えません。しかし、周りの大人から適切な折に「怒り」という語を含んだ発話を聞く子どもは、その時々の状態を超えて(=超越して)、「怒り」の概念が適用できる範囲を規定する道具・媒体を授けられます。語のことです。もちろんその概念構築(つまりはその語の使用)の過程で、子どもは大人から誤用を指摘されることもあるでしょう。ですが、多くの使用事例を通じて、子どもは語を、目の前の特定の状態に適用できるだけでなく、その事態を超越した様々な状態にも適用することを可能にする、いわば超越論的な指示機能をもつ記号であることを学びます。

この語の超越論的な指示機能(繰り返して説明するなら、目の前の事例を超えて、誰もその全貌を知らない範囲を指示できる働き)こそは、人間と他の動物の知性の差を生み出している大きな要因の1つでしょう。もちろん動物も、たとえば「獲物」や「敵」といった単純な概念をもつ語はもっているかもしれません。しかしそれらは、ほぼ本能的に受け継がれた概念であり、その語とその指示対象の関係は単純で限定的です。

人間の言語でしたら、たとえば「怒り」にしても、表面上はあえて静かな態度を取り続けるといった事例にも適応可能ですし、雷という事例に対しても「(天の)怒り」といった形で適用可能です。ましてや抽象的な「美しさ」といった概念でしたら、万人が受け入れるような事例から前衛アートといった事例にいたるまで、物理的対象に限っただけでもさまざまな事例に適用可能です。ましてや「生き方の美しさ」や「虚数の美しさ」といった抽象的事例も考慮に入れるなら、人間の語のもつ超越論的指示機能は、他の動物の語の機能とは大きく異なっていることがわかるでしょう。誰もが現実世界では達成できない超越的な指示を可能にするという点で、超越論的な語は、人間の知性を大いに発展させていると私は考えます。

また、このように多くの事例を表象できる語という記号は、それらの事例に含まれている無数の、しかもマルチモーダルの情報を統括的に要約します。この記号の神経表象は、現実世界のさまざまな問題に対応しなければならない脳にとって、非常に効率的・効果的な表象でもあります。(116, 197)

さて、そのように超越的な指示をする人間の語ですが、それが指示しているすべての事例の集合(=過去や未来の事例も含むので、だれもそのすべてを知ることができない集合)をどのような要素によって構成されている集合として考えるべきか、ということも重要な問題です。

原著でバレットは、19世紀のダーウィンの思想を20世紀のメイヤーが要約した "population thiking" という用語を使っています。この中にある "population" は私見では、「母集団」とも「個体群」とも訳せる語です。(ただ、現在は、個体群的思考と訳した方が誤解が少ないかとも思っています。ちなみに、翻訳書でも個体群的思考という訳語が使われています)。

「母集団」とは言うまでもなく統計学の概念で、採取した標本(サンプル)の母体となる集団を指しますが、その母集団とは、しばしば誰もが容易にアクセスすることができない集団であることが含意されていると理解します(統計学に詳しい方、この含意が間違っていたらご指摘ください)。目の前にある標本から平均値を出したりすることはできますが、それは母集団の平均値であるとは限りません(もちろん統計的な手続きとしては、標本の平均から母集団の平均を推定する方法は確立されていますが、母集団の平均は推定するしかできないものです)。私の解釈では、ある語が指示することが可能な事例のすべてという集合は、母集団として(別の言い方をすれば、超越論的に)推定できるだけです。ですから、限られた数の語の使用例の中に共通要素や平均的・典型的な使用例を見出したりしたとしても、それらは母集団にも当てはまるとは限りません。母集団は、標本以上に多様で異質な事例も含んでいるかもしれないというのが妥当な推論ではないでしょうか。ある語もしくはある概念が指示しうるすべての事例の集合は(超越論的に想定できる)母集団に過ぎないという主張には一定の理があると私は考えます。

他方、"population" を「個体群」と訳すと、その集団の中には、さまざまな個体が存在することが強調されます。その含意として、そこで平均をとったとしても、その平均から逸脱する個体はたくさんあることが浮かび上がってくるのではないでしょうか。

"Population thiking" を「母集団的思考」と訳そうが「個体群思考」と訳そうが、その含意は、すべての事例が均一なものではないということです。つまり、すべての事例は、互いに類似しているが、すべて同一ではないということです。これは、本質主義 (essentialism) や類型論的思考 (typological thinking) の否定です。この否定は、ウィトゲンシュタインの親族的類似性概念による本質主義批判や、ローズの平均主義批判につながる大きな論点です。

関連記事
Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
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平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
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いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html

私は、近々公刊される予定の原稿でこの論点について少し論じましたので、ここではこれ以上の議論は割愛しますが、語彙学習を考える上でも、この本質主義・類型論的思考の批判は重要だと私は思っています。現在主流の単語テストの考え方は、英単語の訳語を産出したり、選択肢の中から正しい定義を選んだりすることができればその英単語は(一応)習得できたとみなすものです。しかし、この考え方は、本質主義・類型論的思考に基づくもので、言語使用の実態を歪めていると私は思っています。この考え方は、訳語・定義こそはその語のすべての使用に共通する本質であり、それを知れば、その語を使用することが可能になると想定しているからです。

私の考え方はこうです。言語使用の実態については、ある程度の定義や典型例は想定できるものの(母集団的思考)、それらを暗記するだけではその語を使用することができません。学習者は、さまざまな実例を体験するたびに、自分の記憶や身体予算を参照しながら、それぞれに異なる情動の事例を新たに経験する必要があります(個体群的思考)。学習者は自分の心身全体でその意味を処理し、その意味処理の時点を過去と未来と結びつけることが必要です。そうしなければ、学習者は、語の超越論的な指示機能を働かせる術を身につけられないとと私は考えます。

さて、子ども(あるいはここで論点を拡張させるなら、外国語学習者)は、そのような超越論的指示機能をもつ語という記号を手がかりにして、大人(あるいは当該外国語話者)の心の中にある(情動)概念を学ぶわけですが、その場合の語は、「孤立した語」 (words in isolation) ではなく、「情動概念を使って子どもの勘所 (the child's affective niche)[=身体変容性ニッチ]を押さえている他の人間が話しかけている語」 (102, 173) であるというバレットの主張にも注目したいところです。言い換えるなら、子ども(あるいは学習者)が語を学ぶのは、それらの語が彼・彼女らの心身の様子を共感的に理解した上で、彼・彼女らの心身を活性化し、彼・彼女らの意識を過去と未来に拡張するようなやり方で提示された時ということです。

具体的な事例を出します。私の勤務校での授業では、ある単語集を使って、原則として毎週50語を範囲とした単語テストを行うことが義務づけられています。ですが私は大学が提供する一問一答式のテストは使いません。それらは文からも文脈からも孤立した単語単体だけが提示される形で、その単語とその定義(同義語)を対応づければ正解となるテストだからです。私はそのようなテストは実施・採点するには便利ですが、学習者の言語使用につながりがたいと感じています。

言語使用の事例は、同一ではなく互いに類似しているだけなので多様です。学習者は、それらのさまざまな実例を自分の心身で処理して、自分なりの意味をそれぞれに実感しなくてはなりません。学習者は、さまざまな言語使用の実例を、自分で共感できる具体的な文脈の中で情動的に経験する必要があります。

ですから、私はテストでは50語の範囲から10語出題しますが、それぞれの語に5つずつの例文を用意します。テストされる語は、最初の一文字を除いて例文からは消去されていますので、学習者は5つの互いに類似しているが異なった文に共通して使われている当該語を推定します。学習者は、事前に勉強していた50語のうち、どの語でこの消去部分を埋めればよいのだろうかと頭を働かせ続けるわけです。また私は、テストが終わってもそれで学習を終了せません。私は、それぞれの語の例文を取り上げ、それらの文脈を補いながら、その例文を発話した者や聴いた者の心情や目的などを学習者に実感させます。

このテスト方法は一例にすぎませんが、単語学習・単語テストのあり方を考える場合においても、抽象的な理論理解は重要だと私は考えます。この記事では、(1) 意味は、意識システムの作動に依存しその意識が過去や未来とつながることであること、また、(2) 語の超越論的指示機能は、定義といった本質ですべて指示されるものではなく、さまざまな事例を経験する中で人が徐々に身につけるものであること、という2つの論点を提示しましたが、こういった理論的検討は、英語教育という非常に具体的な実践においても重要であると私は考えます。


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以上、備忘録としての文章なので、まだまだわかりにくい表現も多かったことをお詫びします(それは、私がまだまだ精緻には考えきれていないといことでもありますが)。しかし、私としては「優れた理論ほど実践的なものはない」という逆説的な表現を信じています。上の論点は、今後少しずつ整理して、具体例なども補うこととして、この記事はここで終わります。



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追記(2020/02/20)
(1) 「超越論的機能」といった表現は、意味をより正確に示すため「超越論的指示機能」などと書き換えました。
(2) 語が超越論的な指示機能といった一種驚くような機能をもちうるのは、語がこれまでさまざまな人々によってコミュニケーションで使われ続けてきて、今後も使われ続けるだろうという前提をもった媒体だからからだ、と言えるのではないかと考え始めました。



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