2023/11/25

大津由紀雄・南風原朝和(編) (2023) 『高校入試に英語スピーキングテスト? 東京都の先行事例を徹底検証』岩波ブックレット

 

東京都は2022年11月27日に、2023年度の都立高校入学者選抜の一環として、ESAT-J (English Speaking Achievement Test for Jujior High School Students) と呼ばれる英語スピーキングを実施した。これがいかにずさんなテストであったかについて、本書は的確にまとめている。本書は、このテストの今後の見直しを求めること、および同種の大規模スピーキングテストの導入を考えている道府県に対して慎重な判断を要請することの2つの目的で緊急出版された。


ESAT-Jが入試としても、また英語教育改善の手段としても不適格であったことは最初の3つの章で明確に述べられている。第1章の沖浜真治氏(新英語教育研究会東京支部代表)は、教育現場の視点から、ESAT-Jのずさんな実態を報告する。第2章の南風原朝和氏(東京大学名誉教授)は、心理統計学の専門家として、ESAT-Jの採点措置が入学者選抜としては不公正であることを立証する。第3章の羽藤由美氏(京都工芸繊維大学名誉教授)は、理論と実施の両面においてスピーキングテストについて深い知識をもつ専門家として、ESAT-Jが8万人もの大規模で公平に行えるものではないことを示す。どの章の記述も具体的で、説得力をもつ。


これらの3つの章を受けて、第4章では大津由紀雄氏(慶應義塾大学名誉教授)と久保野雅史氏(神奈川大学教授)が、なぜ東京都はこれだけ不備が明らかになったESAT-Jの実施と続行にこだわるかを説明する。両者は、こだわりの理由は、ESAT-Jが近年の国レベルの英語教育政策の一端として位置づけられているからだと説く。第4章のさまざまな引用は、論説の確かさを強めている。


コラムで取り上げられた2名の教師と2名の保護者の声も現場の様子をよく知らせている。最後に付けられた年表も問題の整理に有用である。


ESAT-Jの問題性は、すでに多くの英語教員が知るところであるが、それを具体的な記述で論じた本書はきわめて資料的価値が高い。本書が廉価で手に入るブックレットの形で、緊急出版された意義はきわめて大きい。



その上で私の蛇足を加える。第4章の「なぜ東京都はESAT-Jの実施にこだわるのか」という問いとその答え--国の教育政策を否定しないため--をさらに一歩進める。「なぜ国は、実施において問題だらけのこのような教育政策(特に大規模スピーキングテストを進めるのか)という問いを立てる。だがその答えは、本書のように実証的なものではなく、きわめて思弁的なものである。とはいえ、思弁的だからこそ、思い切った仮説的な答えを出してみることにする。


私の答えは、「権力者にとっては、大規模スピーキングテストによって一部の者が不公平な措置を受けることは、大したことではないから」である。ここで私は、きわめて性悪説的で独善的な推論--いわば邪推--をしているので、読者諸氏においては十分批判的に以下を読まれたい。


近現代の政治的権力者は、経済的権力者と結託している必要がある。柄谷行人は、「国民国家」 (nation-state) の実態は、「資本=ネーション=ステート」であると説く。資本主義経済の過酷な現実を、想像の共同体(ネーション)としての一体感に訴えて緩和する形でしか、現在の国家(ステート)は成立しないと分析するからである。


よって政治的権力者は、世論が国民レベルで炎上しない限り、少々の不公平には目をつぶる。同時に、日本では特に安倍内閣以来、国家が世論の立ち上がりに対して過剰なほどの介入をしてきたことも周知のことであると私は考える。


そうなると国策の基本は、経済的権力者--いわゆる財界人や資本家--の利益の確保と拡大のために決められる。教育について、経済的権力者がもっとも求めるのは選抜である。一部の知的に優秀な人材を次世代の経済的権力者として選抜し、残りの大多数の人々を、安い労働力で従順に働き、ローン(借金)もいとわない消費者にしてしまえば、基本的に経済は回る。


未来の経済的権力者は国民のごく一部であればよいので、その選抜は多少ずさんでもよい。テストは知的能力の大小についての推論であるが、推論には「慌て者の間違い」(アルファ・エラー)と「ぼんやり者の間違い」(ベータ・エラー)がある。前者の間違いは、慌ててしまって、本当は知的に優秀でない者を優秀だと判定してしまう。後者の間違いは、ぼんやりしていて、本当は優秀な者を見逃してしまう。


大人数の中からごく少人数の優秀な者を選ぶには、「慌て者の間違い」を避け、「エリート」の中に知的に劣る者が入らないようにすることが大切である。逆に言うなら、「ぼんやり者の間違い」で少々、本当に優秀な者を見逃しても問題はない。なにせ母集団は大きく、選ばなければならないエリートは少数でよいからだ。


テストの理想は、これら両方のエラーを同時に少なくすることである。だが、現実的には、どちらかのエラーを深刻だと捉え、もう一つのエラーを許容するのがほとんどである。そうなると、経済的権力者が未来のエリートを選抜するためのテストは、少々の優秀者を見落とすことがあっても、選んだエリートの中にまがい者が入っていないことを是とする。


私自身が地方出身の貧乏人であったから、粗暴な表現を許してほしい。経済的権力者にとって、ESAT-Jテストなどで、不便な地域に住む者や経済的に恵まれない者、あるいはさまざまな意味で例外的な者が少々不公平な目にあっても、たいした問題ではない。そのような少数者を見落としてもかまわない。それよりも、確実にエリートを選抜すること、まおよびその選抜手段(テスト)の強制力で、未来のエリートに知的訓練を課すことの方がはるかに重要である。そもそも、ほぼすべての経済的権力者は都会に住む超高額所得者である。地方の貧乏人の事情など、彼ら・彼女らは日頃ほとんど考えてもいない。


もちろんこのような選抜を続けることは、長期的には愚策である。テストが育てるべき力を測るものでないなら、試験対策に時間とお金をかけた者ばかりがエリートとなってしまう。一知半解の事を述べるのは危険だが、科挙もそうして中国の国力を損ねてきたのではないか。また国難においては、狭い範囲から人材を取るだけでは対応できない。これは、江戸末期の黒船襲来によって徳川幕府が人材登用制度を大きく変えたことでも明らかだ。


とはいえ人間は惰性の動物だ。これまで入試でエリートを決めてきたのだから、入試にスピーキングテストを入れればよいだろうと多くの経済的権力者は想定する。そもそも経済的権力者のほとんどは、多くの政治権力者と同様、教育やテストの実情を知らない。「日本人エリートは、英語力がまだまだだから、高校や大学の入試で一斉にスピーキングテストを導入すればいいんでないの?」ぐらいの思考で教育方針を決めかねない。それを政治権力者が断固実行するのが現状だと私は考えている。


この「資本=ステート」の結託を是正する方法の一つは、「ネーション」(=「私たち」や「国民」といった想像上の共同体)の力を高めることである。大学共通テストへの民間英語試験導入は、ある政治家の「身の丈にあった」といった発言がきっかけとなり、国民感情が高まり、導入の延期(事実上の中止?)につながった。


だが今回の東京都のESAT-J導入の場合、一般市民の既視感や厭世感が強いのか、あるいはマスコミの「ニュースバリュー」認識が低いからか、ESAT-J中止までには至っていない。だからこそ本書のような出版が大切になる。


日本のマスコミのジャーナリズム精神の貧困はすでに長年指摘され続けている。マスコミも経済的権力者になびき、広告で大多数の国民の消費を促せば、今しばらく存命できる。だが、そんなやり方を良心的だと思っている者はいないだろう(口を歪めて開き直る者はいるにせよ)。マスコミもESAT-Jの問題を、一部の誠実なジャーナリストにならって、取り上げてほしい。


また日本にも、まだまだ「ネーション」を重視して「ステート」を運営しようとする政治家 (statesman) --性差別表現だったらごめんなさい--がいるはずだ。政治に関わる者すべてが、悪い意味での「政治屋」 (politician) ではないだろう--と信じたい。


いや「してほしい」や「信じたい」などといった他力本願の言い方はよくない。英語教育者の一人ひとりは、東京都のESAT-Jについて何かの行動を起こすべきだろう。日頃この問題について何の行動も起こしていない私も、その行動の一環としてこのような駄文を綴った。


英語教育関係者が本書を読み、知識を確実にした上で、この問題についてそれぞれのやり方で行動を起こすことが重要だと私は考える。






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