2020/12/28

瀧田寧・西島佑(編著) (2019) 『機械翻訳と未来社会』 社会評論社

 

私は機械翻訳が今後の英語教育のあり方を根本的に変えると考えています。というより変えなかったら、英語教育は悲惨なものになると思っています。ですから、およばずながら機械翻訳に関する本を読もうとしています(しかし本を読む時間がない!)


ここでは本書の中で特に面白かった第二章(瀬上和典「機械翻訳の限界と人間による翻訳の可能性」)を読んで勉強になった箇所を抜書きしておきます。


瀬上先生の基本的主張の1つは、機械翻訳に関して、理系と文系の間での交流がほとんどないということです。理系では信じられないぐらいスピードで機械翻訳研究が進展し、文系では地道ながらもトランスレーション・スタディが進められているのに、両者の知見がなかなか交わらないことは残念なことです。


文系の研究者として、瀬上先生は、トランスレーション・スタディで注目されている「創造翻訳」 (transcreation)「厚い翻訳」 (thick translation) が、今後の人間による翻訳と機械翻訳のあり方を考える上で重要な概念としています。極めて異なる文化間での翻訳を行う際にある意味、換骨奪胎してしまう創造翻訳や、異文化間の溝を埋めるための注釈を徹底的に補う厚い翻訳こそが、これから人間が注目すべき翻訳というわけです。



Wikipedia: Transcreation

https://en.wikipedia.org/wiki/Transcreation


ウィキペディア:トランスクリエーション

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3


Wiktionary: thick translation

https://en.wiktionary.org/wiki/thick_translation



たしかに実用目的の翻訳では創造翻訳が、学術目的では厚い翻訳が有益です。また、特に創造翻訳に関しては、英語から日本語への翻訳では、明治前期などを中心に多くの実践が積み重ねられてきました。しかし、これまではこれらの種類の翻訳は、追加的なものと考えられてきました。ですが、機械翻訳により文字から文字への翻訳が容易になるにつれ、この種の翻訳こそは、人間の翻訳者が力を注ぐべきものとなってくるでしょう。


創造翻訳や厚い翻訳は、テクストを超えた広い背景的理解がなければ無理なものです。書き手と読み手それぞれの文化およびそれらの差異、テクストが果たそうとしている機能の受容のあり方などを理解した上で、それを明文化することは、関連する事項が多岐にわたり複雑に絡まっているので、当面は機械による翻訳は難しいといえるでしょう。



瀬上先生の論点でもう1つ面白かったのは、身体で感じる翻訳の「快感」を扱ったところです。瀬上先生は、村上春樹 (1997, pp.68-70) の述懐を引いて、翻訳の「快感」は、まったく違う体系の2種類の言語を扱う中で、翻訳者の思考法が変容を受け、翻訳した文章にも瑞々しいリズムが生まれてくることだとしています。


村上春樹のこの述懐は、「次々に翻訳作品を出版する村上は、実は誰か他の人が日本語に訳した下訳を使っているのではないか」という疑念に対して、彼がそれを否定するために出したものです。


「下訳」からの翻訳出版は、機械翻訳が出力した英語(もしくは日本語)を読んで、それを少し補正しながら使うことに相当するかと考えられます。


これから英語教育でも、学習者に本格的に機械翻訳を使わせる局面も出てくるでしょう。しかし、電卓が普及してからも、小学校での算数では手計算させるように、ある程度の頭のOSの変換ともいうべき、直接的に身体で経験する異言語・異文化体験をさせておくべきでしょう。さもないと、機械翻訳導入は、機械翻訳を通じて表面的には異言語・異文化をわかったように思い込ませつつ、実は深いところで異言語・異文化を理解させることができないようにしてしまうかもしれません。

そのことは同時に、自言語・自文化の枠組みから一歩も出ることもないし出ようともしない頑なな知性ばかりを生み出すことにつながりかねません。そうなれば、外国語教育は、長期的な教育的・社会的意義を失ってしまうかと思います。



「異言語・異文化体験をしたつもり」といった事態を、かつてダグラス・ラミスは「自分自身は濡れないでガラスごしに海の中を疑似体験する」ような「潜水艦の旅行」であるとも表現したそうです。機械翻訳は、他言語圏の人間とのコミュニケーションを促進するものの、その異言語・異文化を、自言語・自文化に引きずり込み、他者の他者性を捨象してしまう「暴力性」を有するとも瀬川先生は説きます。(p. 157)



ちなみに誤解のないように言っておきますと、私は冒頭にも述べましたように、機械翻訳は積極的に英語教育に導入すべきだと考えています。しかし、その導入が、英語教育に関する産業界や研究界にとっての新たなミニバブル(「商機到来!」)として無批判的になされることを怖れています。


これからも機械翻訳については、積極的に考え新たな実践を生み出しそれを改善してゆきたいと思っています。





関連文献

村上春樹 (1997) 『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』新潮文庫 


関連記事

社会評論社 目録準備室

特集『機械翻訳と未来社会』

https://www.shahyo.com/?cat=589



追記

坂西優・山田優 (2020) 『自動翻訳大全』(三才ブックス)は現時点で、英語を始めとした言語のリーディング・ライティング・リスニング・スピーキングなどでAIが人間に対してどのような支援をしうるのかの情報をまとめた本です。


2020/12/22

今井むつみ (2020) 『英語独習法』岩波新書


いい本に出会いました。日頃学生さんに英語の学び方を解説する私にとっては非常に役立つ本です。その意味で、英語教師・英語教師志望の方々にはぜひお薦めします。また、自らの英語力を(CEFRでいうならB2やC1のレベルまで)高めようとする方々にとっても、格好の学習の指針となる本だと思います。高い能力を求めるなら、よい師を選ばねばなりません。この本はきっとよい師となるでしょう。


類書が数ある中で、私がこの本を評価するのは、著者もいうように、この本が合理的な英語学習法を提案するだけでなく、その理由としくみを解説しているからです。さらには、著者自身が日々英語を学び続け、高い英語力を有しているからです。


理論のない、体験談に基づく英語学習論を提示する人は、しばしば自説の第一の信者となってしまい、バランスを欠いた助言をしてしまいます。逆に理論はあっても、自らの英語力が中途半端な人は、現実離れした論やピントのずれた主張を展開しがちです。


この点、この本の著者は、認知科学・言語心理学・発達心理学の第一人者であり、かつ高い英語力をもった方です。著者の英語力は、この本の数々の英語例文の選択センスの良さや、007の『スペクター』が気に入り何度も「熟見」しているうちにすべての台詞が頭に入ってしまったというエピソード (pp. 157-158) などに示されています。そんな著者の論説は非常に説得力があります。


英語学習の理由としくみを説明する中で、著者が強調していることは、自らが関心も注意も向けていない現象、あるいは自らの「スキーマ」(認知的枠組み)ではとらえがたい現象は、いくら見聞きしても理解も記憶もしにくいということです(その極端な例の1つは "the invisible gorilla" でしょう)。


英語学習に即した例として解説されている1つの例は、英語の<様態動詞+前置詞>という構文スキーマです。このスキーマは、日本語には存在しないので、 日本語を母語とする英語学習者は、"A bottle floated into the cave."などとはなかなか言えず、ついつい "A bottle entered the cave, slowly floating."などと表現してしまいます。 (pp. 60-61)


こういった人間の学びの特性を踏まえた上で、どう英語を学ぶべきかという点については、ぜひ本書をお読みください。


日頃、英語ライティングを教えている私としては、上のようなスキーマ、あるいは可算名詞・不可算名詞の区別といったスキーマを学習するために有効な方法の1つは、瞬時に発話をするスピーキングではなく、考えて書くライティングだという主張 (p. 170) には我が意を得た思いでした。


今期、私はあるクラスでこれまでに学生さんに9回英語エッセイを書かせ、文法・文体・ストーリーテリングの観点からそれらすべてのエッセイにフィードバックを書面と口頭で加えました。そのクラスの学生さんからは、「この授業を通じて、外国語を学ぶとは母語について学び直すことでもあることを強く感じるようになった」とか「最初に英語に接した新たな感覚を思い出してきた」といったコメントをもらっています。英語学習は「とにかくトレーニング!」でなく、大きな認知的な原理を理解しながら、新たな感覚を身体に染み込ませ、新たな直感を獲得することだと私は信じていますが、この本からもそういった言語学習観が強く提示されています。


古典的な認知科学の枠組みに囚われた研究者は、とかく明確に表象 (represent) できる対象だけを取り上げ、実践へのアドバイスでもそういった対象についてしか語らないことが多いものです。しかし、先程述べたように理論面でも実践面でも超一流の著者は、「『頭の知識』を『身体の知識』にしなければならない 」(p. 163) や、「感覚と直感を磨くことが大事」 (p. 194) などと明言します。以下のような実践者の語り、実践の認識論、情動などの身体的側面を重視する神経科学などに説得力を覚える私としては、この本が感覚や直感や身体といったことばを使ってうまく外国語学習をしていることに大きく力づけられました。


関連記事:

ジョッシュ・ウェイツキン著、吉田俊太郎訳 (2015) 『習得への情熱 -- チェスから武術へ』(みすず書房)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/2015.html

羽生善治氏の4冊の本を読んで:知識を経験にそして知恵に

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/4.html

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html

「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The Reflective Practitioner" の第2章のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner-2.html

「専門職および専門職の社会における位置に関する発展的考察」 "The Reflective Practitioner"の第10章のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner10.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/09/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/2019-1-7.html

第7章「社会的実在性を有する情動」(Emotions as Social Reality) のまとめ: "How Emotions Are Made"より

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/7emotions-as-social-reality-how.html

身体と心と社会は不可分である:Barrettの"How Emotions Are Made"の後半部分から

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/barretthow-emotions-are-made.html



もう1つこの本の優れている点をあげるなら、最近の英語学習のためのオンラインツール(ほとんどのものは無料)を駆使した学びを例示していることです。これらのツールの中には私も知らないものがありましたので、私は早速ブラウザーにブックマークして、これから日々の英語使用・英語学習の中で使おうと思っています。


かつては何千円もした英英辞書などが無料でオンラインで使えるようになったことは私などにとってはいまだに衝撃で、オンライン英英辞書を私は毎日使っていますが、この本で紹介されたツールはそれら以上の衝撃や影響を今後私にとっても与え続けるかもしれません。これらの新しいオンラインツールを自ら使いこなすと同時に、学生さんにもこれらの使い方を指導し、どんどんと英語を自ら学ぶ習慣を身につけてもらおうと思っています--そのためには、英語を日本語を通じてではなく、英語を通じて学ぶことを今まで以上に指導しなければなりませんが・・・


その他、この本は、「探究実践編」として英語例文・練習問題を多く掲載しています (pp. 198-257)。これらの問題を簡単に解くための「感覚」や「直感」をもっているかどうかが、英語を知的世界で実際に使いこなせるかどうかの目安の1つになるでしょう。このセクションにも見られるように、この本は、単に英語学習についての抽象論を展開しているだけの書ではありません。


この本は、質の高い例文提示を通じて、英語(外国語)学習の方法と原理を解説する良書です。安直なダイエット本を求めるように「これさえ読めば、英語ができるようになる」ことを欲している人には薦められませんが、英語習得のために必要な合理的な努力を厭わない人には強くお薦めします。


日頃読書の習慣がない高校生や大学生には、本書の記述が少し難しく思える時もあるかもしれませんが、その時は「こういった日本語の説明をきちんと理解することが英語習得のためにも必要な一段階である」ということを自分に言い聞かせて読書するべきでしょう。


冒頭に述べましたように、英語教師・英語教師志望者と、高度な英語力獲得を目指しているすべての方々に薦めたい良書です。私もこの本を参考にして、本日より気持ちを新たに英語の使用・学習・指導を統合的に行ってゆくつもりです。



追伸1

この本では英語の映画をじっくり何度も見て、英語を身につける方法(「熟見」)を解説しています。私もこの方法で楽しみながら英語を身につけることがある程度できたと思っていますが、この本には書かれていない方法を1つここで書いておきます。


それは、日本語の吹き替え音声を聞きながら、英語字幕を読むことです。映画を使って英語を身につけるためには、最初、日本語字幕で見て内容を確認した後、何度も英語字幕を見ながら英語音声を聞いて映画を見ることが有効です。しかし、そうやってある程度、英語の音声を覚えたら、今度は字幕は英語にしたまま、音声を日本語吹き替えにするわけです。


日本語の吹き替えは口頭言語ですから、書記言語である日本語字幕に比べてはるかに表現が自由です。多くの語数をしゃべれますし、吹き替え声優の力量で、日常語や俗語なども絶妙のイントネーションで表現できます。日頃私たちが使っている日本語に限りなく近い表現です。その日本語音声を英語字幕と重ねると、「そうか、こういう気持ちの時には、こう英語で短く表現できるのだ」と次々に翻訳に関する洞察が深まります。


近年私は忙しくて時間がなくなったのと、時間があってもその時には体力が残っていなかったりで(苦笑)、映画を見る習慣をすっかり失ってしまいました。ですが、この方法は若い時にやって本当に勉強になりました。感性と体力に恵まれた若い人には、「遊び半分」の英語学習としてお勧めします。いやいややらされる無味乾燥の「勉強」よりも、はるかに英語が身につきます。



追伸2

この本は著者の以下の三冊の新書のテーマ(言語と思考の関係、ことばの発達、学びと教育)のちょうど真ん中に重なる書だそうです。(pp. 205-206) 私も以下の三冊を改めて読もうと思います。






2020/12/17

斎藤環 (2019) 『オープンダイアローグがひらく精神医療』日本評論社


この本は、オープンダイアローグの普及に関しての日本の第一人者である斎藤環先生のさまざまな文章を集めたものです。ここではこの本を読んで私なりに感じたことを、この本に示されているキーワードでもある、現前性・相互性・包摂性・柔軟性・多元性・安心感の6つの観点からまとめます。「=>」以下の文章は私の蛇足です。



■ 現前性

オープンダイアローグで大切なのは関係するすべてのメンバーが「その場にいる」という現前性です (p. 130)。対話では、それぞれに異なった見解や感性をもった複数の人間が、それぞれの存在を実感しながらことばを紡いでいくことが重要です (p. 50)。そのようにして生み出されることばは、活字化できる情報だけでなく、活字化すれば失われてしまう声の響きや調子、姿勢の勢いやその欠如、熱量の変化などが重要です。それらの身体の内から外へと表現される情動がメンバーの間で共鳴を引き起こすことがオープンダイアローグでは決定的に重要です。


関連記事

オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html


=> 現前性の大切さは数カ月ぶりに対面授業を再開した私が痛切に感じていることです。言語教育研究者の一部は、言語使用のうちの言語、しかも標準した(上の比喩を使うなら「活字化した」)言語の形式と意味だけを対象として研究をします。しかし、使用される言語には標準化・活字化できない部分もあり、それは非言語的(あるいは前言語的)な現象と結びついています。非言語的・前言語的現象を体系的に記述・説明できる用語を私たちはまだ十分にもっていないかもしれませんが、そのことはそういった現象が無視されてよいことを意味するわけではありません。

私としては、現在、「感染リスクや通学コストにもかかわらず教室に来るだけの意味のある授業」をすることを自らの課題としています。そこには、オンデマンドのパッケージ化音声・映像されたでも、オンラインの同時中継デジタル音声・映像でも実現できない、同じ時空を共有する学習者と教師だけが実現できる教育的に意味深い現象がなくてはなりません。しばらくは試行錯誤を続けながら、この経験を後日、実践報告としてまとめたく思います。



■ 相互性

そのように現前性の中で、情動の変化が重視される環境の中では、誰かだけが他の人々に影響を与え続けるということが少なくなります(そのように一方的な影響関係が続くなら、それはオープンダイアローグとも対話とも呼べないでしょう)。オープンダイアローグでは変化が双方的に起こります。患者だけでなく治療者も自らが変化します (p. 17)。逆に言うなら、自分が変わりうることを拒む人はオープンダイアローグにも対話にも参加できないでしょう。その結果、オープンダイアローグの現場では民主主義が自然に成立することになります (p. 20)。人々の間の対等性を原則とする民主主義的文化がオープンダイアローグと対話の基盤となっています。


=> 民主主義的であること、すべての人権を尊重することは、政治的・道徳的に正しいだけではなく、人間の潜在力を活性化する実際的な効果があるというのが、ここでの含意の1つだと私は考えます。ただ人間はどうしても権力を好むものですから、教師としての自分は一切変化せず、学習者だけを変化させようとして、自らの特権性を担保しようとする人はどうしてもいるでしょう。そういう人は、教育の営みの成功・失敗を、「客観的な教育方法」の違いに還元することで、自らのプライドを保っているのかもしれません。



■ 包摂性

こうして現前性と相互性を重視すると、やがてできるだけ多くの人と事柄を含めようとする包摂性につながってゆきます。オープンダイアローグでは、他の精神医療なら、治療者が密室の中で単独であるいはチームで決定するような治療方針が、患者および患者の家族などの前で話し合われます(リフレクティング)。ケロプダス病院で実際のリフレクティングを見て、斎藤先生は「患者の目の前で話し合えないような情報にはろくなものがない」との思いを強くします (p. 21)。このオープンダイアローグの特徴は "Nothing About Us Without Us" の精神ともつながります (p.99)。そうなると現実的対応としては、日本の病院なら決して取り上げず、役所などに任せるだろうような事柄についてもオープンダイアローグの関係者は相談に乗るということにつながります (p. 13)。


Wikipedia: Nothing About Us Without Us

https://en.wikipedia.org/wiki/Nothing_About_Us_Without_Us


=> ここでも研究批判になってしまいますが、昨今の研究はひたすらに研究対象を細分化することで論文の大量を可能にしているように思えます。しかし人間を扱う教育が、そのよう細分化した研究を大量に読みいくつかを自らも生産することで、何らかの改善を示すのか立ち止まって考えるべきでしょう。私は教育に関する大学院教育は、フィンランドのように教育実習などの現場での学び--科学的な体系性はもたず、さまざまな要素が交錯する学び--を重視するべきだと考えます。


参考図書

米崎里(2020)『フィンランド人はなぜ「学校教育」だけで英語が話せるのか』亜紀書房 2020.

※ 学術的な調査書ではありませんが、「徹底した教育の機会均等」「早期の学習支援」「教員の質と能力」といった当たり前過ぎる基盤的要因が、やはり一番重要であることをわかりやすい語りで伝えている本だと思います。



■ 柔軟性

この包摂性および相互性は、オープンダイアローグの柔軟性としても現れます。ガイドラインにもありますように、オープンダイアローグは、個別の事情を考えずにスタッフや機関の都合だけを考えて作られた一般的なプログラムは使わないということを基本的な考え方としています (p. 250)。また、その柔軟性は、「答えのない不確かな状況に耐える」 (Tolerating uncertainty) というオープンダイアローグの基本精神によって支えられているともいえるでしょう (p. 252)。


オープンダイアローグ対話実践のガイドラインウェブ版(第1版)


=> ここも実践家タイプの教師と、管理者タイプの教師で意見が分かれるところでしょう。前者の教師は、目の前の学習者の人生のためにとって最善と考えられる措置をできるだけ柔軟に取るべきだと考えるのに対して、後者の教師はそのような措置を組織秩序にとっての重大な裏切りと考えます。もちろん後者の「ブレーキ」がなくなれば、前者の「アクセル」は暴走するばかりかもしれませんが、私などにとっては組織および組織の規則は何のために存在するのかを常に考え、規則の文字通りの墨守よりも規則が守ろうとしているあるいは育てようとしている精神を尊重する方がよほど大切と考えます。まあ、安っぽいマンガの読みすぎなのかもしれません(笑)。



■ 多元性

柔軟性と不確実性を大切にすることは、必然的に唯一の正解を求めない多元性につながります。ガイドラインにもありますように、オープンダイアローグでは、ある1つのことだけの正しさを求める議論や説得や説明は、対話のさまたげにしかならないと考えます。それぞれの参加者、特に患者の主観世界を大切に、互いの主観世界を共有するイメージを大切にします。(p. 257)。

そういった態度を斎藤先生は「対話的多元主義」 (dialogical pluralism) とも呼びますが、1つ確認しておくべきことは、こういった態度は、唯一の正解を求めて参加者が言論を戦わせる科学のあり方とは大きく異なることです。オープンダイアローグは、現前性で言語化しがたい細かな情動の変化を大切にし、相互性で単一方向で単純な因果関係を否定し、包摂性でできるだけ多くの要素を取り込み、柔軟性で標準化・明晰化を重視しない姿勢を示しています。そのようにして行われる対話には再現性はなく、手順をマニュアル化することもできません。ですからオープンダイアローグを科学的に分析することは非常に困難です (p. 52)。

しかし、医療現場ではすでに、「キュアからケアへ」「患者から病む個人へ」「病院からコミュニティへ」「医者の指導から患者の自己決定へ」「教育から自立支援へ」「客観的健康から主観的健康へ」「疾病生成論から健康生成論へ」という流れが大きくなっているそうです (p. 53)。そうなると分析的で要素還元的な科学の態度ばかりを重視するのもおかしなことといえるでしょう。

思想として見ても、オープンダイアローグのセイックラの論文は、思想としては緩いが実践に関しては圧倒的な説得力をもつと斎藤先生は評しています (p. 209)。このあたりの評は、かつて斎藤先生が教条化・訓詁学化しやすいラカンの思想 (p. 212) を評価していただけに、斎藤先生の自己批判も含めて非常に含蓄のあることばのように思えます。


=> このブログで何度も言っているかと思いますが、ある人が多元主義者(さまざまな認識のあり方を認め、自ら少しでも多くの認識ができるように心がける人)と一元主義者(正しい認識は1つしかなく、自らはそれを体現していると考えている人)の違いは決定的だと思います。この対立構造で考えると、一元主義者は多元主義者の世界を否定する存在となります。このような人の存在を多元主義者がどのように肯定し共存できるようになるかというのは長年の課題でしょう。



■ 安心感

多元性で、他の人から見たら奇異にしか思えないかもしれない主観世界の存在を肯定され、包摂性で爪弾きにされることもなく自分なりに大切と思うことを述べることが許された患者は安心感を覚えます。斎藤先生は「安心」や「安全保障感」はそれ事態が治療的意義をもつとも述べ、オープンダイアローグでは初回の(しかも患者の訴えがあってからただちの)対話で一定の安心感や信頼感が醸成されていると観察しています (p. 110)。こういった感覚が育まれることが重要であることは、ガイドラインのチェックリストの最後の2項目が次のものであることからも伺えます (p. 261)。


15 ミーティングの雰囲気は、安全で安心できるものでしたか?

16 ミーティングの「後味」は良いものでしたか?


=> 「学級が児童・生徒の居場所となることが大切」とは小中高の教師が多くいうことですが、安心感や雰囲気いった感覚は、対象化が困難で測定も難しいので量的研究者は相手にもしません(時に、それらを語る人を学界から追い出そうとします)。しかし、数十年間にわたる量的研究の蓄積が、英語教育現場に大きな変化をもたらしていない現状からすると、私は変化しなければならないのは研究の考え方の方だと思います。


その点で、最近、共著ですが本を出版することができました。よければお手にとってお読みください。




英語授業学の最前線 (JACET応用言語学研究シリーズ 第1巻)



追記1

私が今少しずつ読み進めようとしている神田橋條治先生のことを、斎藤環先生も「さすが名人」と評しています。オープンダイアローグ発祥の地のスタッフによる「急性期には窓が開いている」という比喩表現を聞いて、即座に[患者の心の状態が]「一番開いているときだから有効なんじゃない?」と答えたからです。 (p. 192) 


追記2

巻末のガイドラインでは、オープンダイアローグの7つの原則(英語表記)にわかりやすい日本語訳と解説が加えられています。以下は、私が自分勝手に教師用にその原則を意訳的に説明したものです。



1 Immediate help

教師の都合より学習者の都合を優先させた方が、かえって教師の仕事は楽になる。


2 A social networks perspective

人間は孤立した存在でなく、他の人との社会的な関係性の中で生きる存在であると考える。


3 Flexibility and mobility

時には組織の枠組みを超えて学習者のために働き、関係者とも連携する。


4 Team's responsibility

学習者の問題を、教師一人が解決するべきものだと考えず、同僚や学習者および学習者の関係者を巻き込んで仲間として取り組む。


5 Psychological continuity

問題を抱えた学習者をたらい回しにせず、少なくとも一人は専門家でないにせよ、人間として常にその学習者に寄り添う。


6 Tolerance of uncertainty

解決法や結論が出なくても、また問題が自分の専門知の範囲を超えても、焦ったり怒りだしたりしない。


7 Dialogism

安心して各人が自分らしさを表現できる雰囲気の中で対話が続いてゆけば、そのうち何とかなると考える。逆に、ぎすぎすした空気の中で解決策を強行してもろくなことにはならないと考える。




関連記事

オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/poetics-of-open-dialogue.html

オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html

オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html

オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/love.html

飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/2016.html

比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html

ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2016.html

野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html

「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/11/blog-post.html

斎藤環 (2019) 『オープンダイアローグがひらく精神医療』日本評論社

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/12/2019.html 



 

『若林俊輔先生著作集3』


一般財団法人・語学教育研究所が刊行を進めている『若林俊輔先生著作集』の第3巻をこの度入手することができました。


最近でしたら、「若林俊輔」という固有名詞を聞いても何のイメージもわかない人がほとんどかと思います。しかし、この著作集は、その若林俊輔先生 (1931-2002) が英語教育について語ったことばが忘れられず、その後のそれぞれの英語教師人生の糧となっている人々が、若林先生のことばをまとめあげている著作集です。


これを懐古趣味と切って捨てるのは、あまりにも単純で思慮のない行いでしょう。実際、この本をパラパラと読むだけでも、「なるほど」、「言われてみれば、確かにその通り」と思われる洞察がたくさんあります(勤務校での学生のリスニング力向上について考え続けている私としても、参考になる箇所が多々ありました)。


若林先生のことばが今でも貴重なのは、さらに言うなら、ひょっとしたら英語教育研究なるものは、次から次に新しい学術用語や研究方法を生み出しそれらを消費し続けているだけだからかもしれません。この業界のことばは、実は教育の営みの深いところにある事柄を十分捉えきれていないのではないでしょうか。だからこそ、古くは1960年代に書かれたことば--とりわけ学術的であろうとしていない平明なことば--が、現代の私たちの心を捉えるのかもしれません。人文系であるはずの英語教育関係者は、科学的装いをまとったことばには習熟しても、深いレベルで人間を納得させることばをまだまだ開拓していないのかもしれません(このような駄文をブログに書く人間も含めて)。


直接に謦咳に接することがなかった私の推測にすぎませんが、若林先生は人格をかけてことばを発していたように思います。学生との口頭での対話でも、エッセイの1つのことばの選択にせよ、若林先生は、無難なことばでお茶を濁さず、常に、自分がもっとも納得し、相手にどうしても伝えたいことばを選ぼうとしていたのではないでしょうか。


英語教育に関する知の主なものは、科学知というより人格的知識 (personal knowledge) であると私は考えています。人が生きてゆく中で、自らのあり方・生き方・人となり(=人格)をかけて実践することではじめて獲得できる知です。その人の身体に染み込み根本的な価値観を形成する知です。社会的・歴史的・文化的文脈の中の葛藤から発揮される知です。逆に言うなら、抽象的伝達や客観的・対象的 (objective) な記述・説明が原理的に不可能な知です。仮に記述・説明・伝達したとしても、その明証的なことばは、実践の中の暗黙知と統合されなければ意味をなさない知です。


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Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ 

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html


研究論文執筆にしか興味がない人はともかく、英語教育の実践にそれなりに取り組んでいる人は、そういった人格的知識の理解と獲得を実は求めているのだとしたら、若林先生などのことばがこのようにしていつまでも大切にされていることが少しは説明できるように思えます。


この著作集は一般書店では販売されず、入手は一般財団法人・語学教育研究所を通じて可能だそうです。『著作集3』でしたら1冊1200円です。


一般財団法人・語学教育研究所

https://www.irlt.or.jp/modules/bulletin/



若林先生をまったく知らない若い世代の人が、この著作集のことばと現代の英語教育を語ることばを比較検討してみれば、面白い卒論や修論になるかもしれません。


ご興味のある方は上記ホームページを御覧ください。


2020/12/03

向谷地生良(他) (2020) 『弱さの研究 -- 「弱さ」で読み解くコロナの時代 --』 くんぷる


 当事者研究に関しては今やさまざまな書籍が刊行されるようになりましたが、私はやはり浦河べてるの家の関係者が出す本が好きです。すっと心に入ってきます。

 かといってべてるの家からの刊行物が、世間に受け入れられるための糖衣をまとっているわけでもはありません。また、もちろん学界に受け入れられるための鎧もかぶっていまん。浦河べてるの家からの本には、文体というか行間から感じられるどくとくの「雰囲気」--神田橋條治先生の用語を借りています--があり、それで読書も進みます。さらに神田橋先生の分析を援用するなら、その雰囲気があるからこそ当事者研究もうまくいくのかもしれません。

 この本は浦河べてるの家の関係者とべてるの家に招かれたゲストが語ったことば・書いた文章をまとめたものです。ここではそれらの中から、私のアンテナに特に残った箇所について簡単にまとめて(■印)、それに私の蛇足を加えます(=>印)。


■ 「尊厳というタンパク質はない」

糸川昌成先生は分子生物学者でもあり精神科医でもありますが、べてるの家の向谷地生良 さんとの対談中で、精神疾患の症状を一つ一つ脳に局在化してゆくアプローチの限界に気づいたことを述べ、次のように語っています。


「ところが実際そうじゃない。置き換えられないものがあることに気付いたんです。それは尊厳というタンパク質はないんですね。自尊心というタンパク質もないんです。リスパダールを飲むと尊厳が湧く。ジプレキサを飲むと自尊心が湧くということはない。尊厳というのは目の前にある相手に、かけがえのない相手として丁寧に扱うという、自分と相手との間に発生する共鳴現象だと。」 (p. 58)


=>情動についての著作をまとめたバレットも、例えば「怒り」といった情動に「指紋」(=本質的特徴)はないことを報告しています。情動に関する古典的な研究は、たとえばある種の表情が「怒り」なら「怒り」が普遍的にもち、それでもって「怒り」を定義できる特徴だと想定していました。しかし、数多くのより丁寧な実証研究は、ある表情が複数の情動に結び付けられるなど、古典的な情動説の誤りを明らかにしました。さらにその後の研究で、ニューロンのさまざまな組み合わせが、ある一つの結果(例えば「怒り」)を生み出しうること--縮重 (degeneracy) --も示しました。ある特定の情動を、ある特定の表情あるいはある特定のニューロンの組み合わせと等しいものと想定することはできないわけです。


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Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ 

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html


 このバレットの総括から糸川先生の洞察を発展させますと、脳の特定の部位や特定の生化学物質に還元できないのは、複数の人の間で生じる現象(例えば自尊心)だけでないことが示唆されます。おそらくは一人しかいない時にも生じる現象(例えば、私は突然の雨に対して「怒り」の情動を感じることもできるでしょう)も単一の部位や物質に還元できないといえます。なぜなら、一人しかいない時に生じる現象を表すことばも、複数の人々の長年のコミュニケーションの蓄積により意味が構築されてきたものだからです。意味は、莫大な言語使用の総体から私たちが「あるに違いない」と想定するものです。その意味には比較的明確な部分(denotationあるいは現実性)だけでなく、曖昧でその領域も不明瞭な部分(connotationあるいは可能性)もあります。辞書的な「意味」はもっぱら意味の明確な部分を取り扱いますが、私たちが日常生活の中で感じている「意味」は、その輪郭も範囲も不明瞭な部分も含みます。両者あっての「意味」です。


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「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17 

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/08/no19-pp7-17.html


 つまり、日常生活のコミュニケーション(言語使用)の総体から私たちが想定している意味には、「これさえ指していればその意味はすべて過不足なく伝わる」という必要十分条件(=厳密な定義)はないわけです。ウィトゲンシュタインの言い方を借りれば、ある語の使用は、典型例から周辺例や比喩的用法に至るまで、家族的類似性(親族的類似性)でもって集まっているだけとなるでしょう。


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<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して-- 

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/11/blog-post.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード

https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html



 コンピュータ言語のような人工言語とは異なる自然言語のほとんどの用法において、その本質を表す必要十分条件は設定できず、厳密な定義を特定することはできません。私たちはある語の意味についての説明を求められた時には、「典型的にはこの辞書が説明するような意味をもつが、後はこの語が使われているさまざまな事例を、その話し手・聞き手・状況などを注意深く観察してその意味を理解して欲しい」と言えるぐらいです。

 そうだとしたら、自然言語が描写する何かの現象に対して、厳密な意味での原因を特定できないことになります。ある語が描写する現象のすべてを十全に定義することはできないわけですから、その定義できない現象に対して、厳密な原因を定義することはできません。領域が定かでない曖昧で多義的ともいえる結果群に対して厳密な単一原因を対応させることはナンセンスです。

 人工言語や非常に厳密な自然科学の用語ではない、日常言語で表現するような現象を扱っている研究において、過度の還元主義的な思考を取ることは筋違いといえるでしょう。日常言語が描写する多くの現象を、何か明確な一つのものに還元することはほとんどの場合において不可能なはずです。



■ 「一生懸命物語を書いていたらだんだん具合悪くなるよね」

 これは向谷地生良さんが対談の中でふと述べたことば (p. 71) です。統合失調症を患う人などは、妄想をどんどん一人で発展させてストーリーを作り出してしまいますが、そのように一人で作ってしまう物語は作れば作るほど、本人の調子が悪くなるというわけです。従来、妄想は、精神科医に話をしてもまともに相手にされず、副作用のきつい薬の量を増やされることが多いものでした。ですから患者としても一人で妄想を膨らませる結果になりがちだったでしょう。ところがべてるの家では、そのような物語(妄想)を、仲間に語り、仲間もそれに対して質問したり意見を述べたりします。そういった中で、物語を共同で経験するようにしたわけですが、それが状況の改善につながることを見出してきました。

=>「発話は聞き手の反応をもってはじめて意味が定まる」とは社会構成主義者がよく言うことですが、物語も聞き手がいて、聞き手の反応があってはじめて物語として落ち着くのかもしれません。聞き手のいない物語は、どこかいびつなものになり、物語がもっているとされる人々の心にある種の調和をもたらす機能を失うのかもしれません(典型的な物語は、ある価値の危機と回復を通じて、人々の心に落ち着きをもたらします)。

 今の私にはこれ以上の説明はほとんどできないのですが、「物語は聞き手を必要とする。聞き手のいない物語は暴走する」というのはものすごい経験知なのかもしれません。この仮説についても今後、いろいろ考えてゆきたいです。


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K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン

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■ 浦河に赴任してからの向谷地生良氏の取り組み

 向谷地生良氏による「和解の時代」 (pp. 126-145) は、非常に深い文章です。中でもp. 140の文章はすばらしいものです。

=>向谷地さんは、お会いすると「自然体」といったことばを使うのが恥ずかしくなるぐらい飄々とされていますが、その向谷地さんが行うことは、常識では信じられないような回復というか和解をもたらすことです。

 この回想記は、そんな向谷地さんも浦河に赴任当時は、胃潰瘍と絶望に近い無力感に襲われたことを告げています。そういった中で「隣人を愛する」「信じる」ことを学んでいったこと、いや「トラブルメーカー」と世間が呼ぶ人に教えられていたことを伝えています。私などがここに引用すれば、その文章がもつ力がかえって損なわれるように思いますので、この文章はぜひご自身でお読みください。



■ 合理性の内側と外側

 向谷地宣明さんの文章を、私はべてるの家のメールマガジン(「ホップ ステップ だうん!」)でいつも面白く読んでいます。というより、私は向谷地宣明さんがそのエッセイで取り上げる本は、ほとんど自分でも購入して読むようにしています。

 その向谷地宣明さんが書いた「病態失認 (Agnosognosia)」 (pp. 153-162) は、アレントも引用しながら合理性のみに拘ることの危険性を説き、次のように述べます。


「べてるの理念には「非合理」てきなキャッチフレーズが並んでいますけど、それはいかにべてるが「合理性の外側」にいるかということの現れだったかもしれません。そういう経験を蓄積してきた。逆に「合理性の内側」に留まれば、それはもう人間の「劣化」と「疎外 (Alienation)」しかありません。その帰結は数多の歴史が証明しています。ですけど、問題は私たちがその病理に「気がついていない (Anosognosia)」ことです。 (p. 161)


=>割り切れる側面 (合理性)と割り切れない側面(非合理性)の両方があって、人間ははじめてその全体性(ひいては健康)を保つことができるということはまったくそのとおりだと思います。


関連記事

「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」

https://doi.org/10.14960/gbkkg.12.14


ただ、上の文章は下手をすると、合理性の過剰な否定だと誤解されないかと私は危惧します。私の蛇足としては、「合理性の内側にも外側にも移動でき、どちらの側にも居着くことがないことが人間の健全さである」と補足しておきたく思いました。



■ 「良かったところ、苦労しているところ、更に良くする点」

べてるのミーティングは、「良かったところ、苦労しているところ、更に良くする点」 の三つの軸で進めるという伝統をもっている。(p. 174)

=>これは何気ないようでいて非常に深い知恵であり、私たちもよく覚えておくべき方針かと思います。私たちはついつい「問題は何か。その原因は何か。その原因を消去するにはどうしたらよいか」という、後ろ向きというか、悪いところばかりに着目した発想をして、それを「知的」とか「分析的」とか「学術的」と称して悦に入ったりしています。

 しかしそうではなく、現状の萌芽に着目し、それを育てるためには何ができるかという前向き、あるいは良さを志向した発想法を臨床の現場の人間は覚えるべきでしょう。

 今後、このブログにまとめの記事を掲載する予定である神田橋條治先生の方針からは、「現在の現象に過去を見出し、よりよい未来を志向する」、つまりは「現在・過去・未来を一つの流れとして見て、よりよき方向を目指す」認識の大切さを私は学びました。べてるの家からは、「良かったところ、苦労しているところ、更に良くする点」の発想を学び、私もこれから学生さんの指導というか支援に役立ててゆきたいと思います。


以上がとりあえずの私のメモですが、読んでいてよい空気(あるいは雰囲気)が流れてくるようなべてるの家の刊行物はお薦めです。





西洋の近代的構成感を直感的に理解するためのベートーベン交響曲第5番?

 

今年度、私は毎週の授業課題締切日に受講学生にメールを出して、出し忘れがないように催促をしています。ただの催促では味気ないので、毎週「気になる英語」というコラムで、The New York Timesなどで目にした英語に日本語の小見出しをつけて、学生さんの知的関心を広げようとしています。

以下の文章は、今週のメールに掲載したものです。通常は>>>から<<<までの部分だけなのですが、今週の話題は私の趣味性が強いものなので、それ以降に文章を付け加えました(また、忙しい学生さんの邪魔にならないように、このコラムはいつものようにメール冒頭にもってくるのではなく、末尾に掲載しました)。

ただ、「西洋の近代的構成感を直感的に理解する一つの方法は、ベートーベンの交響曲第5番を聞くことだ」というのは私の長年の持論なので(苦笑)、文章をまとめ、それを(厚顔無恥にも)このブログに掲載する次第です。


***


>>>気になる英語

ベートーベンは伝統的な形式が解体するまでそれを極めた

Beethoven was one of music’s most passionate and disruptive forces. He simultaneously glorified the traditional forms -- symphony, sonata, quartet -- and pushed them to the breaking point.

By Armando Iannucci

https://www.nytimes.com/2020/12/02/arts/music/five-minutes-classical-music-beethoven.html

<<<


今から250年前の今月(12月)にベートーベンは生まれました。生誕250年を祝していろいろなイベントが行われていますが、The New York Timesは、人気の「5分シリーズ」でベートーベンの音楽の素晴らしさを紹介しています。


5 Minutes That Will Make You Love Beethoven

https://www.nytimes.com/2020/12/02/arts/music/five-minutes-classical-music-beethoven.html


今年は奇しくもビートルズ結成50周年でもあります。数十年前のビートルズの曲を私も含めたファンは今だに新鮮な感動と共に聞き続けています。おそらく彼らの曲の中には、今後も末永く残り続ける曲も出てくるでしょう。

そうやって200年以上も残り続けているのがベートーベンの曲です。

上の引用は、NYT記事の執筆者の1人のことばです。その人はこの文章と共にピアノ協奏曲第4番を推薦していますが、私がこの文章を読んで真っ先に思ったのは、彼の最後のピアノソナタ(第32番)です。その最終楽章はもはやジャズです。ベートーベンの創造性と音楽の力には本当に驚かされます(そしてその驚きを伝えてくれるのが、ポピュラー音楽でいうところの「カバー」を行う現代のクラシック音楽演奏家です)。

この記事には、推薦曲を連続して聞くことができるSpotifyのPlay Listもありますから、アプリをお持ちの方はぜひ一度、聞いてみてください。選曲のセンスは非常にいいと思います。




ついでながら書きますと(すみません、今週は好きな音楽の話題なので非常に長くなっています)、私はかねがね、ベートーベンの交響曲第5番は、西洋の(特に啓蒙の時代の)近代的知性を象徴するともいえる作品だとも思っています。

アカデミック・ライティングでも、テーマの統一性 (unity) やテーマのつながりのよさ (coherence) の重要性を説きますが、この曲でも最初の有名な「ジャジャジャジャーン」のテーマが、曲全体を知らせるいわば "topic sentence" になっています(と同時に、聴衆の心を鷲掴みにする "hook"ともなっています)。

そのテーマは統一感を保ったままどんどんと発展してゆきます。ライティングの "story telling" でも読者の心の動きを重視しますが、この交響曲も聞き手の心を掴んでそれを最後まで動かし続けます。その心への働きかけを可能にしている音楽の展開とつながりは見事です。圧巻は、第3楽章から第4楽章への移行です。ここには楽章間には通常ある休止がなく、連続して演奏されますが、聞き手はそこで楽章が変わったことを明らかに実感することができます("discourse marker"や改行といった通常の工夫を一切しないのに、段落が変わったことがわかる達意の文章と喩えることも可能でしょう)。このつながりは見事で、このイメージを覚えておくことは人生の宝の一つとなるといっても過言ではないでしょう。

日本的な感性でしたら、たとえば武満徹の交響的作品(例:November Steps) のような広がりとつらなりを好むのかもしれません。武満の曲は、西洋的感性からすれば統一感と構成感の欠如とも思えるかもしれません。しかし逆に言うなら、武満的な感性の持ち主にとっては、西洋近代的な構成感覚はやや異物のように思えるでしょう。

しかし、現代は、西洋近代の遺産を基盤としている時代です。そのような状況では、たとえ非西洋的文化圏に育った者も、西洋近代の統一感や構成感を理解し、その良さを実感することが重要でしょう。ライティングといった知的な営みにも、そういった美的感性が根づいています。その意味で、ベートーベンの交響曲第5番はぜひ一度、最後まで聞いてみてください。(ただし下の演奏は名演ではありますが、このYouTubeアップロードは音質はあまりよくありません。名曲・名演だけにきちんとした媒体で聞きたいものです)。




2020/12/02

選抜か育成か

 

たまたま今朝読んだThe New York Timesの以下の記事は、多くの企業が採用の一次面接で、企業側の人間の面接者を省いて、予め定められた質問に対して、応募者が答える様子をビデオ録画する方法がだんだんと増えていっている様子を伝えています。


Job Interviews Without Interviewers, Products of the Pandemic

By Julie Weed

The New York Times, Nov. 27, 2020

https://www.nytimes.com/2020/11/27/business/video-job-interviews.html


この面接方法にはこの方法なりの良さがあり、応募者も少しずつこの新しい形式に慣れていっていることもこの記事は伝えています。

COVID-19の影響でICTの活用方法を知った私たちは、今後ますますICTを利用するようになるでしょう。

これからの企業は、ICTで省力化できる業務に人手を割く企業は人件費負担で衰退し、逆に対面で人間同士が行わなければならない業務をICT化する企業もサービスの質を問われ落ち目となるでしょう。

何を機械化し、何を機械化してはいけないかというのは、今後大切な問いとなると思われます。


教育界でも、何を機械が行い、何を人間が行うべきかを見極める必要があります。

一方でICTは良質なコンテンツを常時提供できることで、反転授業などの推進を可能にします。他方で、機械化できないことはないが、機械化してしまうと、一部の人だけが受益者となることもあるでしょう。

私が懸念しているのは、教育関係者が、何を教育の目的と考えているかです。

多くの人は、教育の機能を選抜--良い人だけを選び出し、そうでない人を排除する--ことだと考えているようです。(改めて問うと否定するかもしれませんが、行動を見ているとそう考えているとしか思えない人が珍しくありません)。

実際、企業の論理、例えば上の人事面接などは、選抜の論理で動いています。企業が必要なのは採用に値するよい人材を獲得することです。値しない人材の今後のことなど考える必要はありません。「商売は慈善事業ではない」からです。

昔、あるワークショップで、企業での英語研修の大家と、公立中学校で優れた実践を展開している英語教師が講師となったことがありました。

ワークショップ終了後のタクシーの中で、私はそのお二人と同席する機会を得たのですが、その際の企業講師のことばを忘れることができません。


「いやぁ、今日は本当に勉強になりました。学校というところは、ボトム[=成績不振者]を救おうとするんですね。企業でしたらボトムは切り捨てるだけですから、ボトムを育成しようとするという発想には改めてびっくりしました」


資本主義社会の中で、利益を上げ、資本を増大することを構造的に運命づけられている企業は、できるだけのコスト削減を行います。それが資本主義的生産体制の中の企業としてやるべきことです。(そういった社会のあり方そのものに対する批判的考察はここでは割愛します)。

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マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ

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モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/20121993.html

柳瀬陽介 (2014)「学習者と教師が主体性を取り戻すために」 『英語教師は楽しい』所収


しかし、私企業のあり方と公教育のあり方は異なります。

確かに、公教育も受験という入り口のところで、選抜を行っています。

しかし公教育には、すべての人に教育の機会を与え人格的な発展を促すという目的があります(世界人権宣言第26条、子どもの権利条約第28条、日本国憲法第26条・教育基本法第1条)。私人の間での私教育はともかく、公教育においては、個人と社会の育成という目的を怠ることは許されません。

どんな学習者にも、その人なりの自己実現を目指させる。そしてどんな人も見捨てない姿勢を堅持することで、人権感覚に基づいたよりよい社会を作る--こういった理想を教育関係者が忘れてはいけません。

公の営みを私事化・民営化 (privatize) する新自由主義の発想がもはや空気のように当たり前になる中、教育関係者の思考も私企業の人間の思考と同じようになってきています。そんな風潮の中、できうるだけ機械化を進めて、公教育のコストを下げるべきだという思潮が暴走することを私は恐れます。

仮にICTの活用で、一部の学習者の学びが進んでも、その機械化が多くの他の学習者の自己実現を阻んでいるのなら、そのICT化に対しては慎重になるべきだと私は考えます。

進めるべき機械化は進めながら、すべての学習者の権利を保障するために、人間教師は何ができるのか、ICTや機械では代替できない対面コミュニケーションの力とは何か、ということを教育関係者は真剣に問う必要があります。人間から人間の間でしか達成できない学びの文化の伝承をすべての学習者に対して実現することが公教育関係者の果たすべき務めです。

「時代の流れ」に流されているだけの公教育のICT化・機械化を私は恐れます。英語教育関係者も、教育工学的発想が強い人は、総じて新しいテクノロジーが出てくるたびに、それを利用することを目的としたような教育方法を提案します。企業もこれを商機とみなし、そんな教育方法や研究発表をさまざまな形で支援します。

もちろんそういった試行錯誤は、歴史の中で必然的に生じてくるものです。好奇心に駆られた試みをむやみに否定することは賢明ではありません。しかし、新自由主義という空気の中で、経費(特に人件費)削減を第1の目標とするような教育研究がはびこること、さらには奨励されることには批判の目を失ってはいけないでしょう。

公教育の私事化の流れは、「公教育も個々人にそれぞれの利益を最大化させるように競争させるだけの営み」といった考えを広めます。そういった公共的事業の私事化 (privatization) は、長期的には社会を損なうでしょう。人類が長い苦難の歴史の中で獲得してきた人権意識をおろそかにしてはならないと私は考え、そして自省します。


追伸、

もうすぐ発刊される『英語教育2021年1月号』(大修館書店)で私もこういった話題についてのエッセイを寄稿させていただきました。機会があればぜひお読みください。

柳瀬陽介 (2023) 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」『早稲田日本語教育学』第35号 pp.57-72

  この度、『早稲田日本語教育学』の第35号に、拙論 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」 を掲載していただきました。同号は「人工知能知能時代の日本語教育」をテーマにしたのですが、それに伴い、日本語教育と英語...