この本は、オープンダイアローグの普及に関しての日本の第一人者である斎藤環先生のさまざまな文章を集めたものです。ここではこの本を読んで私なりに感じたことを、この本に示されているキーワードでもある、現前性・相互性・包摂性・柔軟性・多元性・安心感の6つの観点からまとめます。「=>」以下の文章は私の蛇足です。
■ 現前性
オープンダイアローグで大切なのは関係するすべてのメンバーが「その場にいる」という現前性です (p. 130)。対話では、それぞれに異なった見解や感性をもった複数の人間が、それぞれの存在を実感しながらことばを紡いでいくことが重要です (p. 50)。そのようにして生み出されることばは、活字化できる情報だけでなく、活字化すれば失われてしまう声の響きや調子、姿勢の勢いやその欠如、熱量の変化などが重要です。それらの身体の内から外へと表現される情動がメンバーの間で共鳴を引き起こすことがオープンダイアローグでは決定的に重要です。
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オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
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=> 現前性の大切さは数カ月ぶりに対面授業を再開した私が痛切に感じていることです。言語教育研究者の一部は、言語使用のうちの言語、しかも標準した(上の比喩を使うなら「活字化した」)言語の形式と意味だけを対象として研究をします。しかし、使用される言語には標準化・活字化できない部分もあり、それは非言語的(あるいは前言語的)な現象と結びついています。非言語的・前言語的現象を体系的に記述・説明できる用語を私たちはまだ十分にもっていないかもしれませんが、そのことはそういった現象が無視されてよいことを意味するわけではありません。
私としては、現在、「感染リスクや通学コストにもかかわらず教室に来るだけの意味のある授業」をすることを自らの課題としています。そこには、オンデマンドのパッケージ化音声・映像されたでも、オンラインの同時中継デジタル音声・映像でも実現できない、同じ時空を共有する学習者と教師だけが実現できる教育的に意味深い現象がなくてはなりません。しばらくは試行錯誤を続けながら、この経験を後日、実践報告としてまとめたく思います。
■ 相互性
そのように現前性の中で、情動の変化が重視される環境の中では、誰かだけが他の人々に影響を与え続けるということが少なくなります(そのように一方的な影響関係が続くなら、それはオープンダイアローグとも対話とも呼べないでしょう)。オープンダイアローグでは変化が双方的に起こります。患者だけでなく治療者も自らが変化します (p. 17)。逆に言うなら、自分が変わりうることを拒む人はオープンダイアローグにも対話にも参加できないでしょう。その結果、オープンダイアローグの現場では民主主義が自然に成立することになります (p. 20)。人々の間の対等性を原則とする民主主義的文化がオープンダイアローグと対話の基盤となっています。
=> 民主主義的であること、すべての人権を尊重することは、政治的・道徳的に正しいだけではなく、人間の潜在力を活性化する実際的な効果があるというのが、ここでの含意の1つだと私は考えます。ただ人間はどうしても権力を好むものですから、教師としての自分は一切変化せず、学習者だけを変化させようとして、自らの特権性を担保しようとする人はどうしてもいるでしょう。そういう人は、教育の営みの成功・失敗を、「客観的な教育方法」の違いに還元することで、自らのプライドを保っているのかもしれません。
■ 包摂性
こうして現前性と相互性を重視すると、やがてできるだけ多くの人と事柄を含めようとする包摂性につながってゆきます。オープンダイアローグでは、他の精神医療なら、治療者が密室の中で単独であるいはチームで決定するような治療方針が、患者および患者の家族などの前で話し合われます(リフレクティング)。ケロプダス病院で実際のリフレクティングを見て、斎藤先生は「患者の目の前で話し合えないような情報にはろくなものがない」との思いを強くします (p. 21)。このオープンダイアローグの特徴は "Nothing About Us Without Us" の精神ともつながります (p.99)。そうなると現実的対応としては、日本の病院なら決して取り上げず、役所などに任せるだろうような事柄についてもオープンダイアローグの関係者は相談に乗るということにつながります (p. 13)。
Wikipedia: Nothing About Us Without Us
=> ここでも研究批判になってしまいますが、昨今の研究はひたすらに研究対象を細分化することで論文の大量を可能にしているように思えます。しかし人間を扱う教育が、そのよう細分化した研究を大量に読みいくつかを自らも生産することで、何らかの改善を示すのか立ち止まって考えるべきでしょう。私は教育に関する大学院教育は、フィンランドのように教育実習などの現場での学び--科学的な体系性はもたず、さまざまな要素が交錯する学び--を重視するべきだと考えます。
参考図書
米崎里(2020)『フィンランド人はなぜ「学校教育」だけで英語が話せるのか』亜紀書房 2020.
※ 学術的な調査書ではありませんが、「徹底した教育の機会均等」「早期の学習支援」「教員の質と能力」といった当たり前過ぎる基盤的要因が、やはり一番重要であることをわかりやすい語りで伝えている本だと思います。
■ 柔軟性
この包摂性および相互性は、オープンダイアローグの柔軟性としても現れます。ガイドラインにもありますように、オープンダイアローグは、個別の事情を考えずにスタッフや機関の都合だけを考えて作られた一般的なプログラムは使わないということを基本的な考え方としています (p. 250)。また、その柔軟性は、「答えのない不確かな状況に耐える」 (Tolerating uncertainty) というオープンダイアローグの基本精神によって支えられているともいえるでしょう (p. 252)。
オープンダイアローグ対話実践のガイドラインウェブ版(第1版)
=> ここも実践家タイプの教師と、管理者タイプの教師で意見が分かれるところでしょう。前者の教師は、目の前の学習者の人生のためにとって最善と考えられる措置をできるだけ柔軟に取るべきだと考えるのに対して、後者の教師はそのような措置を組織秩序にとっての重大な裏切りと考えます。もちろん後者の「ブレーキ」がなくなれば、前者の「アクセル」は暴走するばかりかもしれませんが、私などにとっては組織および組織の規則は何のために存在するのかを常に考え、規則の文字通りの墨守よりも規則が守ろうとしているあるいは育てようとしている精神を尊重する方がよほど大切と考えます。まあ、安っぽいマンガの読みすぎなのかもしれません(笑)。
■ 多元性
柔軟性と不確実性を大切にすることは、必然的に唯一の正解を求めない多元性につながります。ガイドラインにもありますように、オープンダイアローグでは、ある1つのことだけの正しさを求める議論や説得や説明は、対話のさまたげにしかならないと考えます。それぞれの参加者、特に患者の主観世界を大切に、互いの主観世界を共有するイメージを大切にします。(p. 257)。
そういった態度を斎藤先生は「対話的多元主義」 (dialogical pluralism) とも呼びますが、1つ確認しておくべきことは、こういった態度は、唯一の正解を求めて参加者が言論を戦わせる科学のあり方とは大きく異なることです。オープンダイアローグは、現前性で言語化しがたい細かな情動の変化を大切にし、相互性で単一方向で単純な因果関係を否定し、包摂性でできるだけ多くの要素を取り込み、柔軟性で標準化・明晰化を重視しない姿勢を示しています。そのようにして行われる対話には再現性はなく、手順をマニュアル化することもできません。ですからオープンダイアローグを科学的に分析することは非常に困難です (p. 52)。
しかし、医療現場ではすでに、「キュアからケアへ」「患者から病む個人へ」「病院からコミュニティへ」「医者の指導から患者の自己決定へ」「教育から自立支援へ」「客観的健康から主観的健康へ」「疾病生成論から健康生成論へ」という流れが大きくなっているそうです (p. 53)。そうなると分析的で要素還元的な科学の態度ばかりを重視するのもおかしなことといえるでしょう。
思想として見ても、オープンダイアローグのセイックラの論文は、思想としては緩いが実践に関しては圧倒的な説得力をもつと斎藤先生は評しています (p. 209)。このあたりの評は、かつて斎藤先生が教条化・訓詁学化しやすいラカンの思想 (p. 212) を評価していただけに、斎藤先生の自己批判も含めて非常に含蓄のあることばのように思えます。
=> このブログで何度も言っているかと思いますが、ある人が多元主義者(さまざまな認識のあり方を認め、自ら少しでも多くの認識ができるように心がける人)と一元主義者(正しい認識は1つしかなく、自らはそれを体現していると考えている人)の違いは決定的だと思います。この対立構造で考えると、一元主義者は多元主義者の世界を否定する存在となります。このような人の存在を多元主義者がどのように肯定し共存できるようになるかというのは長年の課題でしょう。
■ 安心感
多元性で、他の人から見たら奇異にしか思えないかもしれない主観世界の存在を肯定され、包摂性で爪弾きにされることもなく自分なりに大切と思うことを述べることが許された患者は安心感を覚えます。斎藤先生は「安心」や「安全保障感」はそれ事態が治療的意義をもつとも述べ、オープンダイアローグでは初回の(しかも患者の訴えがあってからただちの)対話で一定の安心感や信頼感が醸成されていると観察しています (p. 110)。こういった感覚が育まれることが重要であることは、ガイドラインのチェックリストの最後の2項目が次のものであることからも伺えます (p. 261)。
15 ミーティングの雰囲気は、安全で安心できるものでしたか?
16 ミーティングの「後味」は良いものでしたか?
=> 「学級が児童・生徒の居場所となることが大切」とは小中高の教師が多くいうことですが、安心感や雰囲気いった感覚は、対象化が困難で測定も難しいので量的研究者は相手にもしません(時に、それらを語る人を学界から追い出そうとします)。しかし、数十年間にわたる量的研究の蓄積が、英語教育現場に大きな変化をもたらしていない現状からすると、私は変化しなければならないのは研究の考え方の方だと思います。
その点で、最近、共著ですが本を出版することができました。よければお手にとってお読みください。
英語授業学の最前線 (JACET応用言語学研究シリーズ 第1巻)
追記1
私が今少しずつ読み進めようとしている神田橋條治先生のことを、斎藤環先生も「さすが名人」と評しています。オープンダイアローグ発祥の地のスタッフによる「急性期には窓が開いている」という比喩表現を聞いて、即座に[患者の心の状態が]「一番開いているときだから有効なんじゃない?」と答えたからです。 (p. 192)
追記2
巻末のガイドラインでは、オープンダイアローグの7つの原則(英語表記)にわかりやすい日本語訳と解説が加えられています。以下は、私が自分勝手に教師用にその原則を意訳的に説明したものです。
1 Immediate help
教師の都合より学習者の都合を優先させた方が、かえって教師の仕事は楽になる。
2 A social networks perspective
人間は孤立した存在でなく、他の人との社会的な関係性の中で生きる存在であると考える。
3 Flexibility and mobility
時には組織の枠組みを超えて学習者のために働き、関係者とも連携する。
4 Team's responsibility
学習者の問題を、教師一人が解決するべきものだと考えず、同僚や学習者および学習者の関係者を巻き込んで仲間として取り組む。
5 Psychological continuity
問題を抱えた学習者をたらい回しにせず、少なくとも一人は専門家でないにせよ、人間として常にその学習者に寄り添う。
6 Tolerance of uncertainty
解決法や結論が出なくても、また問題が自分の専門知の範囲を超えても、焦ったり怒りだしたりしない。
7 Dialogism
安心して各人が自分らしさを表現できる雰囲気の中で対話が続いてゆけば、そのうち何とかなると考える。逆に、ぎすぎすした空気の中で解決策を強行してもろくなことにはならないと考える。
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ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社
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野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
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「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳
斎藤環 (2019) 『オープンダイアローグがひらく精神医療』日本評論社