2020/12/03

向谷地生良(他) (2020) 『弱さの研究 -- 「弱さ」で読み解くコロナの時代 --』 くんぷる


 当事者研究に関しては今やさまざまな書籍が刊行されるようになりましたが、私はやはり浦河べてるの家の関係者が出す本が好きです。すっと心に入ってきます。

 かといってべてるの家からの刊行物が、世間に受け入れられるための糖衣をまとっているわけでもはありません。また、もちろん学界に受け入れられるための鎧もかぶっていまん。浦河べてるの家からの本には、文体というか行間から感じられるどくとくの「雰囲気」--神田橋條治先生の用語を借りています--があり、それで読書も進みます。さらに神田橋先生の分析を援用するなら、その雰囲気があるからこそ当事者研究もうまくいくのかもしれません。

 この本は浦河べてるの家の関係者とべてるの家に招かれたゲストが語ったことば・書いた文章をまとめたものです。ここではそれらの中から、私のアンテナに特に残った箇所について簡単にまとめて(■印)、それに私の蛇足を加えます(=>印)。


■ 「尊厳というタンパク質はない」

糸川昌成先生は分子生物学者でもあり精神科医でもありますが、べてるの家の向谷地生良 さんとの対談中で、精神疾患の症状を一つ一つ脳に局在化してゆくアプローチの限界に気づいたことを述べ、次のように語っています。


「ところが実際そうじゃない。置き換えられないものがあることに気付いたんです。それは尊厳というタンパク質はないんですね。自尊心というタンパク質もないんです。リスパダールを飲むと尊厳が湧く。ジプレキサを飲むと自尊心が湧くということはない。尊厳というのは目の前にある相手に、かけがえのない相手として丁寧に扱うという、自分と相手との間に発生する共鳴現象だと。」 (p. 58)


=>情動についての著作をまとめたバレットも、例えば「怒り」といった情動に「指紋」(=本質的特徴)はないことを報告しています。情動に関する古典的な研究は、たとえばある種の表情が「怒り」なら「怒り」が普遍的にもち、それでもって「怒り」を定義できる特徴だと想定していました。しかし、数多くのより丁寧な実証研究は、ある表情が複数の情動に結び付けられるなど、古典的な情動説の誤りを明らかにしました。さらにその後の研究で、ニューロンのさまざまな組み合わせが、ある一つの結果(例えば「怒り」)を生み出しうること--縮重 (degeneracy) --も示しました。ある特定の情動を、ある特定の表情あるいはある特定のニューロンの組み合わせと等しいものと想定することはできないわけです。


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Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ 

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html


 このバレットの総括から糸川先生の洞察を発展させますと、脳の特定の部位や特定の生化学物質に還元できないのは、複数の人の間で生じる現象(例えば自尊心)だけでないことが示唆されます。おそらくは一人しかいない時にも生じる現象(例えば、私は突然の雨に対して「怒り」の情動を感じることもできるでしょう)も単一の部位や物質に還元できないといえます。なぜなら、一人しかいない時に生じる現象を表すことばも、複数の人々の長年のコミュニケーションの蓄積により意味が構築されてきたものだからです。意味は、莫大な言語使用の総体から私たちが「あるに違いない」と想定するものです。その意味には比較的明確な部分(denotationあるいは現実性)だけでなく、曖昧でその領域も不明瞭な部分(connotationあるいは可能性)もあります。辞書的な「意味」はもっぱら意味の明確な部分を取り扱いますが、私たちが日常生活の中で感じている「意味」は、その輪郭も範囲も不明瞭な部分も含みます。両者あっての「意味」です。


関連記事

「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17 

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/08/no19-pp7-17.html


 つまり、日常生活のコミュニケーション(言語使用)の総体から私たちが想定している意味には、「これさえ指していればその意味はすべて過不足なく伝わる」という必要十分条件(=厳密な定義)はないわけです。ウィトゲンシュタインの言い方を借りれば、ある語の使用は、典型例から周辺例や比喩的用法に至るまで、家族的類似性(親族的類似性)でもって集まっているだけとなるでしょう。


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<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して-- 

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/11/blog-post.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード

https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html



 コンピュータ言語のような人工言語とは異なる自然言語のほとんどの用法において、その本質を表す必要十分条件は設定できず、厳密な定義を特定することはできません。私たちはある語の意味についての説明を求められた時には、「典型的にはこの辞書が説明するような意味をもつが、後はこの語が使われているさまざまな事例を、その話し手・聞き手・状況などを注意深く観察してその意味を理解して欲しい」と言えるぐらいです。

 そうだとしたら、自然言語が描写する何かの現象に対して、厳密な意味での原因を特定できないことになります。ある語が描写する現象のすべてを十全に定義することはできないわけですから、その定義できない現象に対して、厳密な原因を定義することはできません。領域が定かでない曖昧で多義的ともいえる結果群に対して厳密な単一原因を対応させることはナンセンスです。

 人工言語や非常に厳密な自然科学の用語ではない、日常言語で表現するような現象を扱っている研究において、過度の還元主義的な思考を取ることは筋違いといえるでしょう。日常言語が描写する多くの現象を、何か明確な一つのものに還元することはほとんどの場合において不可能なはずです。



■ 「一生懸命物語を書いていたらだんだん具合悪くなるよね」

 これは向谷地生良さんが対談の中でふと述べたことば (p. 71) です。統合失調症を患う人などは、妄想をどんどん一人で発展させてストーリーを作り出してしまいますが、そのように一人で作ってしまう物語は作れば作るほど、本人の調子が悪くなるというわけです。従来、妄想は、精神科医に話をしてもまともに相手にされず、副作用のきつい薬の量を増やされることが多いものでした。ですから患者としても一人で妄想を膨らませる結果になりがちだったでしょう。ところがべてるの家では、そのような物語(妄想)を、仲間に語り、仲間もそれに対して質問したり意見を述べたりします。そういった中で、物語を共同で経験するようにしたわけですが、それが状況の改善につながることを見出してきました。

=>「発話は聞き手の反応をもってはじめて意味が定まる」とは社会構成主義者がよく言うことですが、物語も聞き手がいて、聞き手の反応があってはじめて物語として落ち着くのかもしれません。聞き手のいない物語は、どこかいびつなものになり、物語がもっているとされる人々の心にある種の調和をもたらす機能を失うのかもしれません(典型的な物語は、ある価値の危機と回復を通じて、人々の心に落ち着きをもたらします)。

 今の私にはこれ以上の説明はほとんどできないのですが、「物語は聞き手を必要とする。聞き手のいない物語は暴走する」というのはものすごい経験知なのかもしれません。この仮説についても今後、いろいろ考えてゆきたいです。


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K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン

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■ 浦河に赴任してからの向谷地生良氏の取り組み

 向谷地生良氏による「和解の時代」 (pp. 126-145) は、非常に深い文章です。中でもp. 140の文章はすばらしいものです。

=>向谷地さんは、お会いすると「自然体」といったことばを使うのが恥ずかしくなるぐらい飄々とされていますが、その向谷地さんが行うことは、常識では信じられないような回復というか和解をもたらすことです。

 この回想記は、そんな向谷地さんも浦河に赴任当時は、胃潰瘍と絶望に近い無力感に襲われたことを告げています。そういった中で「隣人を愛する」「信じる」ことを学んでいったこと、いや「トラブルメーカー」と世間が呼ぶ人に教えられていたことを伝えています。私などがここに引用すれば、その文章がもつ力がかえって損なわれるように思いますので、この文章はぜひご自身でお読みください。



■ 合理性の内側と外側

 向谷地宣明さんの文章を、私はべてるの家のメールマガジン(「ホップ ステップ だうん!」)でいつも面白く読んでいます。というより、私は向谷地宣明さんがそのエッセイで取り上げる本は、ほとんど自分でも購入して読むようにしています。

 その向谷地宣明さんが書いた「病態失認 (Agnosognosia)」 (pp. 153-162) は、アレントも引用しながら合理性のみに拘ることの危険性を説き、次のように述べます。


「べてるの理念には「非合理」てきなキャッチフレーズが並んでいますけど、それはいかにべてるが「合理性の外側」にいるかということの現れだったかもしれません。そういう経験を蓄積してきた。逆に「合理性の内側」に留まれば、それはもう人間の「劣化」と「疎外 (Alienation)」しかありません。その帰結は数多の歴史が証明しています。ですけど、問題は私たちがその病理に「気がついていない (Anosognosia)」ことです。 (p. 161)


=>割り切れる側面 (合理性)と割り切れない側面(非合理性)の両方があって、人間ははじめてその全体性(ひいては健康)を保つことができるということはまったくそのとおりだと思います。


関連記事

「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」

https://doi.org/10.14960/gbkkg.12.14


ただ、上の文章は下手をすると、合理性の過剰な否定だと誤解されないかと私は危惧します。私の蛇足としては、「合理性の内側にも外側にも移動でき、どちらの側にも居着くことがないことが人間の健全さである」と補足しておきたく思いました。



■ 「良かったところ、苦労しているところ、更に良くする点」

べてるのミーティングは、「良かったところ、苦労しているところ、更に良くする点」 の三つの軸で進めるという伝統をもっている。(p. 174)

=>これは何気ないようでいて非常に深い知恵であり、私たちもよく覚えておくべき方針かと思います。私たちはついつい「問題は何か。その原因は何か。その原因を消去するにはどうしたらよいか」という、後ろ向きというか、悪いところばかりに着目した発想をして、それを「知的」とか「分析的」とか「学術的」と称して悦に入ったりしています。

 しかしそうではなく、現状の萌芽に着目し、それを育てるためには何ができるかという前向き、あるいは良さを志向した発想法を臨床の現場の人間は覚えるべきでしょう。

 今後、このブログにまとめの記事を掲載する予定である神田橋條治先生の方針からは、「現在の現象に過去を見出し、よりよい未来を志向する」、つまりは「現在・過去・未来を一つの流れとして見て、よりよき方向を目指す」認識の大切さを私は学びました。べてるの家からは、「良かったところ、苦労しているところ、更に良くする点」の発想を学び、私もこれから学生さんの指導というか支援に役立ててゆきたいと思います。


以上がとりあえずの私のメモですが、読んでいてよい空気(あるいは雰囲気)が流れてくるようなべてるの家の刊行物はお薦めです。





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