2020/09/18

K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン

  

社会構成主義のケネス・ゲーゲン (Kenneth Gergen) の本は、大学院生の頃(ということは約30年前)に読んで影響を受けましたが、彼の本を読む機会はそれ以来、失っておりました。最近、たまたま「対話」というキーワードでこの『現実はいつも対話から生まれる』を見つけて読みましたら、一般読者向けに書かれた本ということもあり、とてもわかりやすく、かつ面白く読みました。

 

 

K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018)

現実はいつも対話から生まれる

ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

Gergen, K. J. & Gergen M. (2012)

Social Construction: Entering the Dialogue

Taos Institute Publications

 

 

以下は、いつものように私なりのまとめです。引用箇所は「 」で示し、必要に応じて原著(ただしKindle版)の英語も引用しました。私の解釈は⇒で示しました。

ちなみにこの本の英語は極めて平明です。この本に興味をもった人はいきなり英語原著を読んでもいいかもしれません。

 

  

社会構成とは

 

「社会構成の概念とは、私たちの協働的活動を通じて意味が創造されるということである」 (the notion of social construction -- that is, the creation of meaning through our collaborative activities. Chapter 1)

 

⇒社会的であるということを、人々がつながり (associate) 、コミュニケーションを取っているということと考えるなら、そこに生じるのは意味である。何かが社会的に構成されるというのは、その何かが社会的な関係によって物理的に生み出されるというのではなく、その意味が社会的に共有されるということである。

関連記事

B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) Reassembling the social OUP

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ルーマン『社会の社会』第1章第3節(意味)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/13.html

 ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/1990.html

ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/06/blog-post_15.html

コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか:長岡(2006)『ルーマン 社会の理論の革命』の第8章を基にしたまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/09/20068.html

意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/blog-post_20.html

ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identitat - was oder wie? より

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html

  

  

社会構成主義とは理解の理解

 

「社会構成主義」(social constructionism) を説明する一つの方法は、「構成主義者は私たちの理解を理解しようとしているのであって、そうすることによって、さまざまな目的に使うことができる一連の道具や言説を提供している (p. 178) (constructionists try to understand our understandings, in doing so, offer a set of tools or discourses that can be used for many purposes. Chapter 5)と述べることである。

 

⇒社会的に構成されたものが意味だとしたら、意味はそれを感じる人の理解を伴う。社会構成主義は、その理解がどのようなものであり、どのように形成されたかなどを解明する。この理解によって、以前には荒唐無稽にしか思えなかったある人々の考え方(あるいはその考え方によって成立している「現実」)が理解可能になるかもしれない。理解可能になるということは、必ずしもその理解に賛同したり献身 (commit) したりすることにはつながらないかもしれないが、社会の分断(=コミュニケーションの拒絶)を防ぐことにはつながるだろう。

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Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

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Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

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社会構築主義との違い

 

社会構成主義/社会構築主義、social constructionism / social constructivismという用語法は混乱しがちだが、この本で著者は自らを「社会構成主義者」 (social constructionists) を名乗っている。著者によると「構成主義」 (constructionism) と「構築主義」 (constructivism) には共通点も多いものの、後者の「構築主義」は、世界あるいは意味の生成が個人の心の中で行われるという含意をしばしば強くもっているとのことであり、それゆえに著者は「構成主義」という用語を選んでいるとのこと。

 

⇒両者の関係については、Wikipediaでも同じような解説が与えられ、「社会構成主義は私たちが作り上げた現実 (artifacts) をグループ内の社会的相互作用によって作られたものとするのに対して、社会構築主義はグループ内での社会的相互作用の結果生じた個々人の中での学習に注目している」と説明している。

 

Wikipedia: Social constructivism

https://en.wikipedia.org/wiki/Social_constructivism

 

下の記事は哲学系の笑い話例によって、哲学好きはクスリと笑うが健全な市民は何がおかしいのかよくわからないジョークを紹介した上で、次の引用を紹介しています。「構築主義と社会構成主義の両方ともに、知識が主観性を伴うという見解を支持しているが、構築主義の方は、個々人の生物学的・認知的過程を強調している。他方、社会構成主義の方は、知識を社会的な交流の領域に位置づけている。

 

CONSTRUCTIVISM VS. SOCIAL CONSTRUCTIONISM: WHAT’S THE DIFFERENCE?

https://johnsommersflanagan.com/2015/12/05/constructivism-vs-social-constructionism-whats-the-difference/

 

 

物理的存在と意味

 

社会構成主義は、その基本的考え方を「私たちが世界を作り出している (p. 15) (We construct the world. Chapter 1) などと表現したりするので、「岩石や水も人間が作り出しているのか」といった誤解を招いたりする。

 

社会構成主義についてもっと丁寧な言い方をするなら、それは、異なる認識方法や文化伝統をもつ人たちには「この世界が自分たちにとって何を意味するかが、異なっている (p. 21) (what this means to us is different. Chapter 1.)ということである。

 

この本の表現に[ ]で補足を入れるなら、次のようになる。「私たちは、違ったやり方で世界[の意味]を構成する。この違いは、私たちの社会的関係性に根ざしている。この関係性から、世界は現在の姿となっている[あるいは現在の意味を担っている]のだ。(p. 17)(We construct [the meaning of] the world in a different way. This difference is rooted in our social relationships. From these relationships, the world has become what it is [or what it means]. Chapter 1)

 

⇒ つまり、社会構成主義は、物理的存在を否定しているわけでもないし、物理的存在が私たちの会話から魔法のように現れるといっているわけでもない。社会構成主義が説いているのは、物理的存在の基盤の上で私たちが構成している意味は、社会的関係性から生じているということである。

 

  

現実 (real, reality) とは

 

ここでも私が[ ]部分を補って、「現実」 (real / reality) についての、社会構成主義の考えを引用する。

 

「私たちが現実だと考えていることはすべて社会的に構成された[意味]である。もしくはもっと劇的な言い方をするなら、複数の人々の同意がない限り、何も現実とはならない。 (p. 20) (Everything we consider real is socially constructed. Or, more dramatically, Nothing is real unless people agree that it is. Chapter 1.)

 

「人々が何が『現実』か定義する時は常に、ある一定の文化的伝統から語っている。(p. 20)(whenever people define what "reality" is, they are always speaking from a cultural tradition. Chapter 1)

 

⇒ある人が、「しかしこれが現実なのだ」という時、あるいは「これが事実」や「これが真実」などという時、それはまさしくその人(およびその人と似た文化的・教育的背景をもつ人々)にとってそうなのであろうが、その背景を共有しない人にとっては、その主張は必ずしもすぐに受け入れられるものではない。この場合、お互いが相手の主張をナンセンスとして、両者のコミュニケーションが途絶えがちになるが、さまざまな文化的背景をもった人々が共存する現代において必要なのは、社会構成主義的な考え方でもって、「なぜこの人はこのような理解をするのだろう(あるいはしないのだろう)」と考え、それをコミュニケーションのトピックともしながら、対話を継続することであろう。そのような対話は、独善的な人にとっては苦痛でしかないかもしれないが、その苦痛を経て世界は複数の視点から構成されていることを理解することが現代の教養の一部なのかもしれない。

 

関連記事

真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より

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局所的な真実を放棄するわけではない

 

この本では truth / Truth (真実/真理)という表記区分による概念区分を必ずしも常には採択していないが、その区分を導入して原文を補うと次のようになる(もちろん "Truth"(真理)とは、普遍性や完全無欠性を含意している用語である)。

 

「構成主義は、いわゆる真実[真理]を放棄しているわけではない。そうではなく、構成主義は私たちが、あらゆる種類の真実を立証する主張を、特定の文化的・歴史的条件における関係性から生じているものとみなすように促しているのだ。 (p. 173) (constructionism doesn't mean giving up something called truth [Truth]; rather we are simply invited to see truth claims of all kinds as born out of relationships in particular cultural and historical conditions. Chapter 5.)

 

⇒さらに言い換えるなら、こうなりますでしょうか。「人間の認知能力を超えた絶対的な<真理> (Truth) なるものはあるのかもしれない。だが、私たちが正当に主張できるものは、そのような<真理>ではなく、私たちが身につけた特定の文化的・歴史的背景の作法によって正しいとされている真実 (truth) である。真実は、同じ背景を共有しない人々にはしばしば理解されない」。

 

また、「真実」 (truth) は、「真理」(Truth)とは異なる意味をもつことを示しているのが「局所的真実」(p. 174) (local truths) (Chapter 1) という表現である。

 

以下の箇所では「真理」(Truth)という表現を使って、端的に言い切っている。

 

「構成主義的な考えは、科学の営みの価値を低くみることはしない。しかし、科学こそが「真理」を明らかにするという考えには抗する (p. 43) (Constructionist ideas do not at all devalue the scientific enterprise, but they do challenge the idea that science reveals Truth. Chapter 1.)

 

⇒さらに補うならこうなりましょうか。「自然科学は、物理的・化学的な意味での世界に関する真実 (truth) の解明にどんどん近づこうとしている。だがその真実も、自然科学が扱い得ない 人間の価値などが考慮されていない以上、私たちが関わるすべてのことに関わる<真理> (Truth) ではありえない。」

  

 

社会とは

 

「構成主義的な観点からするならば、社会の基盤を構成しているのは関係性であり、個々人ではない (p. 59) from a constructionist perspective, relationships -- not individuals -- constitute the foundation of society. (Chapter 2))

 

⇒これも上の関連記事で言及したラトゥールやルーマンの考えと重なることは言うまでもありません。

 

  

意味とは

 

意味とは、複数の人々の間で「調整された行為」(p. 60) (coordinated action) (Chapter 2)である。

通常、私たちは、意味は個々人の頭の中にあると想定してるが、社会構成主義は、意味が個人の「内」(the within) にあるのではなく、個々人の「間」 (the between)にあると考える。(p. 60, Chapter 2)

 

⇒この「間」もアレントがしばしば強調している概念です。

 

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(再掲)真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より

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アレントの言語論に通じるル=グヴィンの言語論

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量的研究の源泉の理解のために フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部の簡単なまとめ

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フッサール『危機』書(第三部)における「判断停止」についてのまとめ 質的研究の「客観性」を考えるために

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/blog-post_17.html

 

 

⇒以下、著者の表現と、それを修正した私の表現を示して、意味の社会性についてまとめる(結論を先に述べるなら、私は個々人が自分の意識の中で想定している個人的意味にも、一定の役割を認めるべきと考えている。詳しくは現在執筆中の、関西英語教育学会シンポジウム講演を基にした論文で説明したい)。

 

関連記事

オンデマンド配信シンポジウム:「学校英語教育は言語教育たりえているのか―意味の身体性と社会性からの考察―」

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以下では、原文の「命題」 (propositions) を修正した私なりの命題 を示しているが、その命題の説明は、私なりの説明であり、原著にはないものである。

 

1) 「個人の発話はそれ自体では何の意味ももたない」(An individual's utterances in themselves possess no meaning) => [個人の発話の意味は、まだそれだけでは発話の意味としては十分ではない(An individual's utterances in themselves do not constitute their meaning.)

例えば、あなたが誰かに向けて電子メール(あるいはSNSメッセージ)を書いて送信したとする。あなたはあなたなりにその中に意味を感じているが、その返信をもらわないうちは、あなたは自分の意味が正しく伝わったのか不安に思うかもしれない。あなたの発話の意味は、その発話だけでは完結しない。あなたの発話への応答を待たなければあなたはあなたの発話の十全な意味がわからない。

 

2)「発話意味の潜在的可能性は、発話を補う行為があってはじめて姿を現す(The potential for meaning is realized through supplementary action) => [特に書き換える必要なし]

誰かに依頼のメールを書いた者は、そのメールへの返答が来なければ「自分の依頼が、相手には不当で大変失礼な要求になってしまったのではないか」などと不安に思うかもしれない。

だが、もし相手がメールに返事をしないことをもって、その人の中では「このような要求をするとは、何と自分勝手な人だ」とメール送信者について思っていたとしても、それも個人の意識の内に閉じ込められた意味であり、コミュニケーションにおける意味ではない。

メールの受信者は(忙しい毎日の実際ではともかく、原理的には)何らかの応答をしなければならない。両者はメール(あるいは他の手段)でコミュニケーションをとり、両者がそれなりに受け入れることができる意味(社会的意味・コミュニケーション的意味)を調整 (coordinate) しなければならない。

 

3) 発話を補う行為も、さらにそれを補う行為を必要とする (Supplementary action itself requires a supplement) => [特に書き換える必要なし]

先程のメールを受信した者が「正直、私がなぜそのような依頼に応えるべきかわからないのですが」などと返信を出したとする。その返信者の意識の中は、その人が考える不当な要求に対する静かな怒りに充ちているかもしれないが、その返信も、それへの応答がなければ、それがどのような意味をもつのかを知ることはできない。

例えばその返信は、相手の意識の中に、「やはり、この人は話にならないぐらい怒りやすい人だ。この件を最後に、この人と一緒に仕事はしたくない」といった考えを生み出しているかもしれない。その気持ちを抱く人が何らかの形で、返信に対する応信を出さねば、返信者と応信者の間での意味は定まらない。(無論、その応信に対する再応信が必要であることは言うまでもない。発話に対する応答の必要性は原理的にはずっと続く)。

 

原著の表現を引用するなら、「私たちは対話的に生きているとも言えるかもしれない。私たちの前に起こったことと、私たちの後に起こったことによってのみ、私たちが意味を作り出すことができる (p. 64) (it could be said that we live our lives dialogically. We make sense only by virtue of what has preceded, and what follows.) (Chapter 2)

 

4) 伝統は意味の可能性を私たちに授けてくれるが、伝統が意味を決めてしまうわけではない(Traditions grant us possibilities for meaning, but do not determine what must be.)

引き続きメールの例を使うなら、ある発話が適切な依頼か不当な要求かを判断する際には、もちろん、その両者の間での、あるいはその両者が属する組織でのコミュニケーションの歴史が影響を与える。コミュニケーションの歴史は、「こういう例では適切、こういう例なら不適切」といった事例を多く有しているはずである。だが、ある事例が他の事例とまったく同じということは考え難いので、過去の事例が現在の事例の解釈を決定しまうことはない。新たな可能性の創出はコミュニケーションに委ねられている。

 

なお、この項(「意味とは」)で引用した箇所は、すべてpp. 61-66 (Chapter 2) からである。

 

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言語とは

 

社会構成主義は、ウィトゲンシュタインの意味理論(言語ゲーム論)を採択する。言語は、事象を命名するだけでなく、「関係性を創り出す」(p. 28) (carry out relationships) (Chapter 1)。言語は事物の写像 (pictures) というよりは、「世界における実践的な行為」(p. 28) (practical actions in the world) である。

 

それぞれの文化が育んできた言語ゲームの中で、「私たちが使うことばは、人々にどのような行為を取るべきかを伝える」(p. 32) (the words we use to inform people of the actions they should take.) (Chapter 1). ある人がある物体を「椅子」と呼べば、周りの人は躊躇なくそれに座るだろう。だがその人がもし「貴重なアンティーク」と呼べば、たいていの人はそれには座らないだろう。

 

⇒別の本(『関係からはじまる』)で著者は知的影響を受けた学者の名前を挙げていましたが、その中でもウィトゲンシュタインは別格であったことは、非常に印象的でした。彼の主著の一つである『哲学的探究』は、およそ伝統的な学術論文のスタイルから離れた形式で書かれていますが、やはり古典の一つとして、人々の思考に対して広汎で深い影響を与えていることがうかがえます。

 

関連記事

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

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ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から

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野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

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鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

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ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

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ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html

 

  

批判から対話へ

 

社会構成主義は、当初は自然科学の絶対性を問い直す批判的な考え方だと考えられがちであったが、社会構成主義が目指しているのはむしろ対話による創造である。

 

以下は、社会構成主義が目指しているものの一部である。

「徹底した多元主義、つまりは、名づけや価値づけの方法を数多くもつことに対する開かれた態度 (p. 41) (a radical pluralism, that is, an openess to many ways of naming and valuing. Chapter 1)

 

「目指しているのは『唯一最良の方法』を定めることではなく、私たちが協働して自分たちの未来を作ってゆけるような関係性を創造すること (p. 42) (The challenge is not to locate "the one best way," but to create the kinds of relationships in which we can collaboratively build our future. Chapter 1).

 

「途切れることのない創造性 (p. 49) (unceasing creativity Chapter 2)

 

「別の声、案、修正案、そして関係性のさらなる拡張を受け入れる余地が常にある、常に開かれた対話 (p. 49) (an ever-open dialogue, in which there is always room for another voice, another vision and revision, and further expansion in the field of relationship. Chapter 2.)

 

「そうなると、構成主義者が目指しているのは、学問分野の境界を曖昧にすることということになる。私たちが目指している究極の状態はクロストーク、つまり、複数の現実と価値が交差することを許す対話である。 (p. 135) (The constructionist challenge, then, is to blur the disciplinary boudaries. Our ultimate welfare lies in cross-talk, the kind of dialogue that allows multiple realities and values to intersect. Chapter 4.)

 

「構成主義者的立場からすれば、根源的な誤りというものはない。他の考え方と最後まで戦って、構成主義は他の考え方よりも上位にあるのだということをいうことを立証する必要はない。そうではなく、私たちは構成主義に対する批判を対話と今後の協働への招待状として使うことができる。そこから新たな理解、洞察、あるいは出発が創発するのだ (p. 170)」 (However, from a constructionist standpoint there are no fundamental errors. We need not fight to the end to ensure that constructionist views prevail over all others. Rather, we can use the critique as an invitation to dialogue and possible collaborations out of which emerge new understandings, insights, or departures. Chapter 5.)

 

⇒こういった考えはボームの「対話論」に文字どおり重なります。私は現在、さまざまの背景(言語、文化、職能、学術的関心など)をもった人と、日本語と英語でコミュニケーションを取る仕事をしていますが、対話に関する自覚的な理解がなければ、この仕事は早晩に破綻するかもしれないとすら思えます。私にとって哲学的思考は生活必需品です。

 

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研究とは

 

この本の第4章のタイトルは 「構成的実践としての研究」(Research as Construction Practice) である。ここでは研究を、新しい現実を構成する(あるいは今の現実を再構成 (reconstruct) する実践、あるいは行為 (action) とみなす考え方がある。

 

⇒かつてオースティンは、「言語行為」 (speech act) という用語を作り出すことで、ことばを使うということは、「事実確定・記述」 (to constate) するだけにとどまらず、言語使用が一種の行為遂行的 (perfomative)な働きであることを明確にしたが、社会構成主義も、研究を事実確定にとどまらない「行為」(あるいは研究行為 (research act) でもあることを示しているとは言えないだろうか。

 

参考

Wikipedia: Performative utterance

https://en.wikipedia.org/wiki/Performative_utterance

 

そうなるといわゆる「アクション・リサーチ」 (Action Research) についてもう一度考え直してもよいかもしれない。アクション・リサーチは日本の英語教育界には、いまだに「亜流の実験研究」としてしか認めない人も少なくないと思われるが、「アクション・リサーチ」は「行為としての研究」(あるいは「研究という行為」)として、もっと新たな現実を作り出す営みとして認識されてもよいのではないだろうか。

 

つまり「過去を区分けして未来を予測する (p. 161) (charting the past in order to predict the future Chapter 5)ための研究ではなく、「直接的に新しい未来を創出する (p. 161) (creating new futures directly)研究として、アクション・リサーチを行為--未来創出行為--として考えるわけである。

 

このように、研究のあり方も、ある伝統や背景文化に基づく一つの語り方であり、唯一絶対のものではないとしたら、これまでは「研究対象」としか見なされていなかった人たちが「自分の声で語る権利 (p. 148) (the right to speak in their own voice. Chapter 4)を認めないということは考えられなくなる。かくして、社会構成主義の考え方は、日本でいうところの「当事者研究」にもつながりうる。

 

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