以下は、長岡克行先生の『ルーマン 社会の理論の革命』(2006年 勁草書房)の第8章「社会システムの形成」(pp. 255-278)の論考を私になりにまとめて若干の書き足しをしたものです。論点と論点の順番は長岡先生のものにしたがっていますが、論点の表現は大胆に変えた箇所もありますし、付け加えた具体例は私が自分の興味に引き寄せて考えたものです。私としては自分の誤読・歪曲を恐れますので、ご興味のある方は必ず原著をお読みください。
コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか
言語教育に関わる者にとって「コミュニケーションとは何か」とは常に重要な問いであるが、ここではまず長岡 (2006, pp. 255-278)の論考に即しながら「コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか」について考えてゆきたい。コミュニケーションを日常茶飯事の自明なことと考える者にとってこの問いはいかにも無用のように思えるかもしれないが、異文化間での交流や、互いを社会から排斥したいと相互に考えている党派性の高い集団間でのやり取りや、離婚前の夫婦の会話を想像するなら、そもそもどうやればコミュニケーションは成立しうるのだろうかという問いは重要になるだろう。学校現場なら、学校教育という秩序に信頼を失いかけた学習者とどう対話をするかという課題を例えば考えてほしい。あるいは「アクティブラーニング」が流行語になりグループ活動を入れたものの、発言する者も発言の様式も固定化してしまった授業を考えてみてもいい。コミュニケーションに関する理論的な問いは実践的でもある。
■ 二重の偶発性
コミュニケーションについて考える際に二重の偶発性 (double
contingency)の問題を検討することは、ルーマンがパーソンズから継承し発展させたことであった。それではその二重の偶発性とは何であろうか。たとえば私と誰かがコミュニケーションを取ろうとしていると考えよう(上に述べた困難な状況を想像してほしい)。私は、相手がどう発話してくるかわかれば自分もどう発話してよいかわかるが、相手がまだ何も言わない以上、何をどう言えばよいかわからない。私の発話は相手に依拠 (contingent) しているという点で私の発話は偶発的である。この事情はおそらく相手においても同じである。そうなると二者の間では二重の偶発性があることになる。双方ともに相手の出方がわからず発話できないという葛藤が生じる。
だが大抵の場合に私たちは困難な状況ですらコミュニケーションを試みる。もちろんそれが破綻することもしばしばではあるが、ここではコミュニケーションが成立する場合を考えよう。コミュニケーションの参加者はどうやってこの二重の偶発性という困難を克服するのであろうか。ルーマン以前の説明をきわめて単純化するならそれは、参加者双方が互いにこの二重の偶発性という葛藤を承知しているので、共通の価値体系に依拠することによってコミュニケーションを成立させるということだ。実際、私たちの日常においても、組織体での会議なら提示された議事次第を参照しながら行われるし、その組織体では発言に関するさまざまな規則も明示的・暗示的に共有されている。授業というコミュニケーションなら、その一部が「本日のねらい」として板書される教師の授業計画(教案)が共有すべき秩序体系として存在している。学習者は、その秩序体系ではどんな発言や行動が許されるかを知るあるいは推測することが求められている。だが私たちがここで考えようとしているのは、そのような共通の価値体系や秩序体系の共有が危ぶまれている場合、あるいはほとんど存在しない場合であった。そのような場合にコミュニケーションはどのように形成されるのだろうか。
■ 二重の偶発性の3つの側面
ルーマンは偶発性を「必然的でもなければ不可能でもない」 (neither
necessary nor impossible)、あるいは「可能ではあるが必然ではない」
(possible, but not necessary)、もしくは「こうではあるが他のようでもありうる」
(as it is, but as it can be otherwise) ととらえる。このように原理的な議論に立ち返ることで、コミュニケーションの結果であったはずの「社会的に共有されている共通基盤」をコミュニケーションの形成の説明に組み込むことを避けるのがルーマンのやり方である。長岡のまとめを筆者なりに言い換えるなら、コミュニケーションにおける二重の偶発性は、自らの複合性、相手の不可知性、互いの相違性の3点で考えることができる。
1 自らの複合性
コミュニケーションを開始するにあたって何をどう発話してよいかわからない自分であるが、その自分には多くの話題と語り方という要素がある。また、その要素は他のどの要素と組み合わさるかによって実に多くの展開例が生まれる。要素が多く、それらの要素間の関係性が量的にも質的にもさまざまであるという点で、コミュニケーションの参加者はそれぞれ自分の中に複合性 (complexity) を有している。複合性においては、すべての可能な展開例(=要素の組み合わせ)を一望して比較検討することができないため、そこでは選択が行われる。選択とはもちろん「必然的でもなければ不可能でもなく」「他でもありうる」偶発的なものである。この自分に関する複合性を第1の偶発性と呼んでもいいかもしれない。
2 相手の不可知性
このようにどんな参加者も複合性ゆえに自分の心を見通すことができないが、相手の心は意識の唯我論的存在性というまったく別の理由が加わるゆえに一層に不可知である。私の意識にアクセスすることができるのは私だけであり、いかなる他人も私の意識を直知することはできない。同じように相手の意識を私は直接に知ることはできない。せいぜい私なりに想像するだけであり、相手は基本的には不可知である。しかも相手の意識も複合的なものであろうから、相手の心はより一層不可知である。だが相手の不可知性も、完全な不可能性ではない偶発性としてとらえるべきであろう。相手の心は「こうかもしれないし、こうでないかもしれない」ものである。「必ずこうだ」と断定できるものでもないが「ありえない」ものでもない(社会的に「ありえない」として排除・隔絶される心のあり方についての議論はここでは割愛する)。このような相手に関する不可知性を第2の偶発性と呼んでもいいかもしれない。
3 互いの相違性
二重の偶発性については、相手は自分とは異なる知識と考え方をもっているという側面も強調されるべきだろう。自分と相手は違うというのが、近代社会の人々が経験から学んでいる前提であるとすれば、コミュニケーションについて考える場合においてもこの前提を踏襲するべきだろう。「相手と自分の知識と考え方が完全に一致することがない」という前提から近代人が学んだ社会のあり方は、大きく分けるなら、相手を自分と同じようにするか、相手と自分が異なったままに共存共栄することであろう。前者は小規模では一方的な説得となるが、それが権力者によって大規模に行われるなら全体社会の形成につながる。そうなると、グローバル化により異文化間の交流が増え、人間の多様性に関する認識の深まりによりさまざまな生き方が認められ尊重されるようになった現在、求めるべきは後者の互いの差異を否定しないコミュニケーションだろう。もちろん自他の違いを排除しないといっても、双方に部分的な共通点を見出すことはしばしばある。ここでも自他の違いは必然的でもなければ不可能でもない偶発的なものである。
■ 3側面からの3つの指針
上記の二重の偶発性の3側面から、コミュニケーションの指針らしきものを見出すことができる。以下、私の主関心である授業でのコミュニケーションを例にして若干解説したい。その際に誤解を避けるため、筆者が想定している「授業でのコミュニケーション」について予め述べておきたい。現在の多くの学校の授業はまだ知識伝達型であり、授業では伝えられるべき知識が説明されその記憶・理解がテストされることがほとんどであろう。説明も一方的であり、教師は伝達事項を自分が理解しているような形で学習者が記憶してくれるように望む。ゆえに教師の発話はきわめて目的合理的であり、これを「コミュニケーション」と呼ぶことは難しいと筆者は考える。とはいえ大学・大学院の少人数ゼミではそのすべてにおいてではないにせよ、コミュニケーションということばにふさわしい言語使用が見られることもあるだろう。小中高においても「学び合い」「協働学習」「アクティブラーニング」の一部では学習者はまさにコミュニケーションしているといえるような姿が見られる。筆者はそのような、現代学校文化ではまだ例外的な―しかし今後は主流となっていかざるを得ないような―授業でのコミュニケーションを想定して以下の3つの指針について語る。
第1の自らの複合性については、発話の選択性を肯定するという指針が導きだせる。自分の発言はあくまでも自分が選択した偶発的なものであり、必然的なものである必要はないという認識を積極的に認めるということである。現状の多くの教室において学習者は「教師が求めていること」を察知しようとする。このような背景もあり、教師の意図が明確にわからない時に学習者はできるだけ言動を避ける。もちろん正解を求める発問の場合は教師の意図は明確であるが、その場合でもその正解に確証がもてない学習者は手をあげようとしない(正解を知っているが他の学習者の目を気にして挙手しない学習者についての考察はここでは割愛する)。この場合の解決法の1つは、権力者である教師が、学習者の発言を学習者が自らの可能性の中から選択するものなるように仕向けることである。言い換えれば、教師が学習者の発言を、必然的(正解)であるから褒められ不可能(不正解)であるから罰せられるような正否を問う発問ではないようにすることである。正解を求める発問ではなく、学習者それぞれの判断を尋ねる発問にすることである。教育手法の点から補足するなら、正解がある場合でもその正解はいつでも学習者が参照できる状態にした上で発問するというやり方が考えられる。学習者の発言を「正解/不正解」(必然/不可能)の二区分で峻別できるものにせずに、「こうもありえるし、他のようでもありうる」偶然性を有する発言を奨励するように教師権力を使うことが教室内のコミュニケーションを増やす1つの方法であろう(ただ後述するように、発言はそれまでの発言とある程度の関連性を有するものでなくてはならない)。
2つ目の相手の不可知性については、教室の成員相互に「自由」を認めるという指針が考えられる。相手が自分の考えとは違うことや自分が予想もしなかった行動をしたとしても(つまり相手が自分にとっては必然としか考えられない言動をしなかったとしても)、その発言が「ありえない・許してはいけない」非倫理的・反社会的なものではない限り、それを受け入れるということである。自分にとっての必然性が他人から生じなかったとしても、それは自分が他人を知り尽くすことができないことから生じる偶発性が現れただけと考えるわけである。こうして相手に言動の自由を認めた上で、自らも自分の言動に関する選択の自由を行使するという文化を志向するということになる。教室の例で言うなら、学習者が学校文化を受け入れがたく思っている場合も、「ありえない」非倫理的・反社会的な言動を禁じながら学習者の偶発的な言動という自由を認め、後で述べるようにいかに「私たち」を作ってゆくかということになるだろう。
第3の互いの相違性からは、どの個人にもコミュニケーションを決定してしまう権利を与えないという指針を導くことができる。抽象的に言うなら、コミュニケーションの個人帰属性の否定と表現できるだろうか。ある個人が自他の違いを否定・根絶しようとして、他の者をその個人のあり方に強制的に変える方法は、今後も限定的にはあり続けることかもしれないが、現代社会においては原則として慎むべきだと上では述べた。教室で言うなら、授業でのコミュニケーションの具体的展開は教師個人が計画したようになるべしということを前提とはせず、コミュニケーションは誰もが完全には予想できなかった展開をするということを前提とする指針である。一部の教師教育現場では、今なお「教案」という形で、教師が授業前に学習者の具体的な発言を予想した上で授業展開を書かせることもある。そのような教育を受けた学生はしばしば教育実習などで、自分の予想外の生徒の発言に困惑し、それらを無視するか強引に自らの解釈に引き込むかなどして、授業でのコミュニケーションづくりに失敗する。教師にすらも授業のコミュニケーションを1人で設計・構築してしまう権利を認めず、コミュニケーションを形成するのは教師ではなく、教師と学習者が作る「私たち」であるという認識を教師が具体的な言動で示し続けることが1つの指針であろう。
以上の3つは授業におけるコミュニケーションを成立させるための実践的な指針であるが、以下では再びコミュニケーションについての一般的考察に戻り、コミュニケーションに関する理解を深めることにしよう。
■ コミュニケーションでは何が起こっているのか
コミュニケーションではいったい何が起こっているのだろうか。ここでも長岡 (2006)
の論考に即しながら3つの論点を提示する。コミュニケーションにおいて起こっていることのうち重要なのは、発話の関連性の継続、期待による学習と不可知性の縮減、社会的な「私たち」の創発であるというのがここでの主張である。
A 発話の関連性の継続
コミュニケーションにおいて私は自らの複合性から生じる多数の可能性から1つを選択しそれを発話とするわけであるが、それは無思慮の決断ではない。相手の心は原理的には不可知ではあるが私はそれを自分ができる範囲で観察し推測する。その上で相手が自分の発話を相手にとっての関連性があるようにして私は発話を行う。そうしてこそ相手も私の発話を、時折の疑問や躊躇があるかもしれないが、さまざまな程度の関連性を認めるだろう。そして相手も私に対して同じことを試みる。コミュニケーションとはこの過程が連続することである。私の発話は相手によって規定され、相手の発話によって定められる。聞き手にとっての関連性の高いと思われる発話を話し手が自らの可能性の中から選択するのがコミュニケーションである。ここには、言語学の関連性理論 (Relevance Theory) が強調している原理が見られる。
B 期待による学習と不可知性の縮減
そのように発話の継続的発展という経験が重なるにつれ、双方はそれぞれに相手に関してそれなりに学習し、相手の行動に対するある程度の期待をいだくようになる。相手の反応を自分なりに予想できるようになるわけである。もちろん期待はしばしば裏切られるが、その失敗経験も相手に対する期待についての新たな学習となる。双方がそれぞれに学習すれば、双方の期待もそれぞれにより信頼できるものとなり、2人の間にはそれなりの秩序が生まれ始めるだろう。もちろん期待は予想に過ぎず予知・予見ではない。ゆえに期待が裏切られ秩序が破壊される可能性は常に存在する。とはいえ、コミュニケーションの経験の蓄積から、2人はそれぞれに互いに対する期待を学習し、コミュニケーションの不可知性は少しずつ縮減する。
C 社会的な「私たち」の創発
コミュニケーション不可知性が少しは低減したとしても、実際に話し手の発話を聞き手が関連性のあるものとして受け入れるかどうかは聞き手次第であることに変わりはない。つまりコミュニケーションにおいては、双方が相手に由来する期待をもとに発話し、その発話の解釈を相手に委ねる。「自らの行為」と私達が通常想定している発話は、実は相手がなくては準備も実行も完遂もできない行為である。ここでもって相手は自分にとって不可欠であるという認識が双方に生じるだろう。ここで、2人は別々の個人ではなく「私たち」となる。「私たち」は個人には還元できない社会的な自己である。その「私たち」を自己参照しながらコミュニケーションは継続する。「私たち」とは私たちのこれまでのコミュニケーションから想定されている概念であり、「私たち」はその過去のコミュニケーションに基づき、かつこれからの私たちのコミュニケーションを予期しながら、コミュニケーションを重ねる。コミュニケーションこそが「私たち」という概念の母体である。
■ まとめにかえて
これまで説明してきたことに基づきコミュニケーションについてすこし発展的にまとめるなら次のようになるだろう(ここでも話を単純にするため2人の間でのコミュニケーションを考える)。
コミュニケーションは、自分も相手も互いを基本的にはブラックボックスと考え、自分ができる範囲で相手を観察することから始める。その上でどちらかがまずは自分ができることとして自らの発話を選択する。その発話はその人なりに相手にとって関連性があると思った発話である。その発話を受けた相手もその人なりに観察・推測し発話を返す。双方がそれを行い続ければ、2人それぞれにコミュニケーションのあり方について学習し、そこには一種の社会的な秩序ができてくる。このコミュニケーションはどちらかの個人だけで準備・実行・完遂できるものでもないし、2人の個人(の思考と行動のレパートリー)の単純な合算によって作られたものでもない。コミュニケーションは、相手を自分の発話行為を定めるための必須の要因として観察・推測し発話しあう2人という新たな単位によって行われる。コミュニケーションを個人に帰属させることはできない。コミュニケーションは、コミュニケーションを行う「私たち」に帰属させるべきものである。あるいは少し異なる言い方をすれば「私たちのコミュニケーション」を自己参照しながら形成されるものである。だからといって「私たち」とは均質な存在ではない。2人が生物学的に1つの生物になるわけでもないし、同一の心理を有しているわけでもない。それぞれは別の生物学的・心理学的存在であり、それぞれに自分なりの複合性を有し、それぞれが互いを知り尽くすことはない。しかしながら、コミュニケーションによって結ばれた2人は、それまでの生物学的・心理学的個体としては経験できなかった自己をそれぞれに実感する。それは「私」というよりも「私たち」という自己と呼ぶべきかもしれない。これは個々人の生物学的・心理学的な実在性 (reality) を超えた、社会的な現実性 (actuality) を有するものである。こうしてコミュニケーションは社会的に形成され、そこには社会的な現実性が生じる。
意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/blog-post_20.html