2019/06/27

『学び合い』における コミュニケーション観の転換 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―(中国地区英語教育学会発表用のスライドと配布資料と発表音声)


以下の学会口頭発表のスライドと配布資料をここに公開します。
追記(2019/07/01):口頭発表の音声もダウンロードできるようにしました。

日程:2019年6月29日(土)
場所:広島大学教育学部
名称:第50回中国地区英語教育学会・研究発表会
発表者:柳瀬陽介
タイトル:『学び合い』における コミュニケーション観の転換 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―
発表時刻:15:25-15:55
発表会場:第5室(K114)

当日投影スライド
パワーポイント版


PDF版


当日配布資料
PDF版


学会発表音声
(MP3)



以下は、当日配布資料の内容のコピーです。ご興味のある方はお越しいただけたら幸いです。


『学び合い』における コミュニケーション観の転換
 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―

柳瀬陽介 
(京都大学 国際高等教育院)

1 はじめに
1.1 対話的・主体的・深い学び:コミュニケーションを教える英語科教員は先導的であるべき
1.2 対話的身体仮説:対話を促す教師は一定の身振りを多用しているのでは?
1.3 対話的身体仮説の修正:『学び合い』の教師はほとんど「身振り」を示さなかった
1.3.1 「身振り」(gesture) というより「態度」(manner) において特徴的だった
1.4 本研究の研究課題:『学び合い』実践を具体的起点として、コミュニケーションについて理論的考察をすることにより、学校教育観についての新たな洞察を得る。

2.『学び合い』におけるコミュニケーション
2.1 『学び合い』とは:教師が一斉説明を極力抑えるが、学習者間での活動や話し合いについては具体的に指示する一般的な「学び合い」よりも一歩進み、 学習者の活動や話し合いに関する指示も極力抑えて、学習者の主体的な対話と学びをさらに引き出す実践
2.2 『学び合い』の学校観・子ども観・授業観
2.3 『学び合い』の根本信念:「教師が」ではなく「みんなが」、「一人も見捨てない」
2.4 学びの主体についての考え方の転換:学校教育を、教師自身を含めた学級構成員が学びの共同体として育つ営みととらえる。←問1:しかし、共同体を「主体」として捉えるべきか?

3.中動態的な発話とコミュニケーションのオートポイエーシス
3.1 発話は中動態的な営み:中動態では、何かを「する/される」ではなく、何かが「起こる」
能動態:動詞は主語から出発し主語の外で完遂する過程を指し示す。 例:「私はXを曲げた」
中動態:動詞は主語が過程の内部にある過程を指し示す(バンヴェニスト)。あるいは、「動作が行為者を去らずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの」(細江逸記) 例:「私は反省した」「私はXに惚れた/惚れてしまった」
←問2:自然で自発的・即興的な発話(「私は(思わず)X と言った」)は能動態と中動態のどちらで解釈するべきか?(現象学的分析)
主語を「コミュニケーション共同体」とした上で中動態的に考えると、整合的な解釈は可能になる(コミュニケーション共同体における発話はコミュニケーション共同体自身に反照する)。だが、問1が残る。
3.2 互いにケアする共同体:「いる」とは互いにケア(お世話)を受け入れること。「ケアする/される」という能動態/受動態で語ってきたことは中動態で語られるべき。しかしまだ残る問1。
3.3 「主体」という虚構:「主体」は制度的事実ではあるが自然科学的事実ではない。主体概念の使用の短所が明白な場合は、使用を控えるべき(依存症や学習者の沈黙など)。主体概念を共同体に適用するのは危険(「学級王国」や「共同体の意思」)
3.4 コミュニケーションのオートポイエーシス:コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションだけである。意識とコミュニケーションはそれぞれに自己生成するオートポイエーシスシステムであり、両者は互いに触発する関係にあるが、根本的には独立した別々のシステムである。

4 学校教育観の変革
4.1 コミュニケーション観の刷新:コミュニケーションに関する一見自己循環的な命題の理解は重要
4.2 学校教育観の刷新:ケアというコミュニケーションがやがては学びのコミュニケーションを生み出す
4.3 英語教育への示唆: 学習者がさせられる半強制的な発話は、一見「能動的」に見えるが、 実は教師の権力に「受動的」に反応しているだけであり、スピノザ的な意味での「能動」は示していない

2019/06/20

意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ




この記事も、前の記事 https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/2019.html と同じように、学会発表のために慌ててつくった「お勉強」ノートです。ルーマンの英語翻訳の一部を、オリジナルのドイツ語論文と照らし合わせながら翻訳しました。

Niklas Luhmann (2002). How can the mind participate in communication? Translated by W. Whobrey. In W. Rasch (Ed.) Theories of distinction: Redescribing the description of modernity (pp. 169-184). Stanford University Press. 
Niklas Luhmann (2008). Wie ist Bewußtsein an Kommunikation beteiligt? In Niklas Luhmann Soziologische Aufklärung 6: Die Soziologie und der Mensch. 3. Auflage. Heidelberg: VS Verlag für Sozialwissenschaften.


以下の構成は、私のつけた小見出し()に続いて、翻訳(および脚注(※))、そして蛇足コメント()となっております。[ ]は私なりに前後の文脈から補った箇所です。( )内の二つの数字は、最初がドイツ語文献、次が英語文献のページ数です。

私のドイツ語力は低いので、高校一年生が大学院で使われている英語論文を読むような基本的な間違いをしていないか恐れます。また、自分なりに納得できる日本語翻訳を目指しましたが、まだまだ「ルーマン語」で通常の日本語読者には意味不明の箇所も多いかと思います。今回の翻訳を通じて考えたことを、今後時間をかけて日常的な日本語にするのが私の課題です。




 意識がコミュニケーションに「関与」しているということはどういうことか?

 意識 (das Bewußtstein; the mind) がコミュニケーションに関与 (beteiligen; participate) することは議論の余地のないことのように思える。なぜなら意識がなければコミュニケーションはありえないからだ。物質の分子組織がなければ生命もありえないのと同じことである。しかしこの場合の関与とはどういうことだろう。(38, 170)

 この論文は、私たちが自明に思っている「意識はコミュニケーションに関与している」という考えを問い直すこと。結論から言うと、ルーマンは、両者は互いを触発しているが、基本的には別のシステムであり、それぞれがそれぞれに発展している自己生成(オートポイエーシス)システムである、ということ。

 そのようなことを考えることの意味は何かと問われるなら、一つの答えは、例えば教師が教室内でコミュニケーションを育もうとする際に、生徒個々人の意識に訴え、個々人をあまりに意識的にさせてしまうことは有効ではないのではないかといったことについて考えるためというもの。例えば「よく考えて発言しよう」、「勇気をもって間違いを恐れずに発言しよう」といった指示は、コミュニケーションにとっての前提ではあっても、コミュニケーションそのものではない個人の意識を肥大させてしまうかもしれない。

「コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションであり、教師は教室でコミュニケーションを育もうとするなら、コミュニケーションの関係性を作り出すことが肝要ではないか。すなわち非言語的でもいいから何らかの形でコミュニケーションを開始すること、あるいはそれ以前に、互いが「いる」ことが苦痛でないような関係性を作ることが必要といったことを今私は(安直に)考えている。

前の記事:東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院



 複数の意識を統一して作動させている意識などない

 [細胞や器官や脳などと]同じように、私たちが意識として経験 (erleben; experience) していることは閉ざされた自己生成システム (geschlossens autopoietisches System; isolated autopoietic system) として作動している。ある意識と別の意識を結ぶ意識的なつながりはない。複数の意識システムを統一的に作動しているもの (Einheit der Operationen mehrerer Bewußtseinsysteme; operatonal unity of more than one mind as a system) もない。「合意」 (Konsens; consensus) と思えるものは、一人の観察者が構築しているものであり、その人がなしたことにすぎない。(39, 170)

 「コミュニケーションを行っているのは、個々人でも個々人の集合でもなく、全体としての共同体である」といった言い方は有効だが、その共同体は「意識」をもった存在ではないことに注意したい。「意識」がないのだから、当然、「共同体の意思」などというものもない。ただコミュニケーションが続くこと(あるいは止むこと)が共同体の現実である。



 ある意識が自らはコミュニケーションをおこなっていると想像しても、それがコミュニケーションであるわけではない

 意識が意識的なコミュニケーションをすることはない (Das Bewußtsein kann also nicht bewußt kommunizieren; The mind cannot consciously communicate)。もちろん意識が自らはコミュニケーションをしていると想像することはできるが、それはその意識システム自体の中にとどまるものであり、自らの思考過程をさらに続けることを可能にしている内的な作動である。だがそれがコミュニケーションであるわけではない。(39, 170)

 ある人が「これこそが私たちの思いだ」などと考えても、それは個人の考えに過ぎない。意識とコミュニケーションの間に垣根をなくして、両者を連続的に考えること、あるいは等価に考えることは間違い。



 システムが自分自身を定めることができるのは、自らの構造を通じて環境に接触しているかぎりである。

 システムが自己生成的な再生産 (autopoietischen Reproduction; autopoietic reproduction) を行い、自らが作動する領域に自らを適応させてはじめて、システムは自らの構造を通じて自らを定める (determinieren; determine) ことができる。システムは、自らの構造的カップリング (in einem laufenden structural coupling 英語では明示的には訳されていない) で自らの構造を通じて自らの環境に接触している限りにおいて、自ら固有の作動を続けることができる。 (41, 172)

 自己生成(オートポイエーシス)システムは、自らの構造を通じて環境に触発され、自己展開する。ある人の意識はその人の意識なりにしか変容しないし、あるコミュニケーションはそのコミュニケーションの歴史に根ざしたようにしか展開しない。教師が生徒に自らの意識を移入しようとしても無理だし、ある共同体が別の共同体に自分たちのコミュニケーションのやり方ををそのまま採択させようとしても無理。



 コミュニケーションは自らの環境に適合し自己再生産を行うが、その際に特定の意識に適合するかしないかは、コミュニケーションが目的とするところではない。

 再生産は生じるか生じないかのどちらかでしかない。コミュニケーションは継続するか停止するかのどちらかである。継続する場合、コミュニケーションはそれ自身の動態性においてどのように進行しようと、自らの環境に適合している。しかし、コミュニケーションが自らを煩わせている意識[だけ]に適合するというのはコミュニケーションの目的 (Ziel; goal) ではない。事態はむしろ逆で、コミュニケーションは継続している時あるいは継続している限り、意識を魅了したりその注意を引いたりしている。これ[=コミュニケーションが意識に適合すること]は、コミュニケーションの目標 (Zweck; purpose) でも意味 (Sinn, meaning) でも機能でもない。それ[=コミュニケーションが意識に適合すること]が生じることもあれば、生じないこともある、ただそれだけである。 (41, 172)

※ ここではEs ist also nicht etwa das Ziel der Kommunikation, sich dem Bewußtsein, das in Anspruch genommen wird, anzu passenの解釈(特にAnspruchのあたり)に自信がありません。

 コミュニケーションは、ある人の意識に納得されることを自己目的として展開するわけではない。コミュニケーションはコミュニケーションの流れにそってしか展開しない。その過程である人が一時的に激しく同意したり、別の人が急にわからないと言い始めたりするかもしれない。コミュニケーションがそのまま直接的に意識を変えるとは考えない方がいい。コミュニケーションは意識を触発するが、意識が「わかった」という理解の感覚に到達するまでにはその意識が自己展開するのを待たねばならない。教室場面で言うなら、理解できていない生徒に、教師が自分の意識にぴったりと沿った形の言語をコミュニケーションとして発話しても、生徒がそれをそのまま理解するとは限らない。



 コミュニケーションが自己展開する時、その可能性は、コミュニケーションの流れという点では狭まるが、意味という形式を使うことで広がりもする

 何かを言うことによって、コミュニケーションは自らが自らとどうつながってゆくかについての可能性を縮減する。しかし同時に、意味という形式において、コミュニケーションのつながりの可能性をより広げる。その可能性には告示された情報 (mitgeteilte Infromation; received communication) を否定したり再解釈したりすることや、それが真でないとか歓迎されないことを明らかにすることも含まれる。社会的システム[=コミュニケーション]の自己生成[=オートポイエーシス]とは、自らをどうつないでゆくかに関する可能性を常に縮減すると同時に拡張するプロセスに他ならない。(41, 172)

※ Mitteilenはルーマン自身も言うように翻訳しにくい語ですが、私は今のところ「告示」と訳しています。「コミュニケーションにおいては、ある情報とその情報が告示しているものが区別され、そのどちらに重きをおいた理解をするかという選択が常に迫られる」といったようにルーマンのコミュニケーション論を表現できないかなと考えています。

 話の流れによって、ある話題が発展することなく見捨てられるという可能性の減少はあるが、同時に意味の「可能性」に導かれて、話題は広がったり深まったりもする。

関連記事:「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論―英語教育における意味の矮小化に抗して―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.53-62



 コミュニケーションに意識は関与しているが、(たいていの場合において)コミュニケーションはその意識をコミュニケーションのテーマとしないことによって、意識をコミュニケーションに関与させている
 
 まさに光や空気そのものが見えないし聞こえないからこそ、視覚や聴覚は光や空気をメディアとして使用している。それとまったく同じように、コミュニケーションは自らが煩わされている意識をテーマとしないことによって、意識をメディアとして使用している。比喩的にはこう言うことができる。コミュニケーションに関与している意識 (beteilgte Bewußtsein; the mind in question) は、コミュニケーションにとっては不可視である。(43-44, 175)

※ ここでもgerade weil es das jeweils in Anspruch genommene Bewußtsein nicht thematisiertの箇所の解釈に私は自信がもてません。

 光や空気が視覚や聴覚の前提とはなっているが、視覚や聴覚は光や空気そのものについてのことではないように、コミュニケーションは意識を前提とはしていても、意識そのものを話題にしているわけではない。もちろん「そんなこと言いながら、君は心の中ではよからぬことを考えているのだろう」とある人の意識をコミュニケーションの話題とすることもできるが、話題となったその意識は、コミュニケーションにおいて語られた意識であり、ある人の心の中にある意識そのものではない。



意識がコミュニケーションに関与するのは、構造的に限定されたメディアとしてのみである
 
 コミュニケーションは自己生成システムとしてのみ可能である。言語の助けを借りて、コミュニケーションはコミュニケーションからコミュニケーションを自己再生産するが、その自己再生産の構造的条件を利用し、メディアとしての意識を必要とする。したがって意識がコミュニケーションに関与するのは、構造的に限定されたシステムおよびメディアとして[のみ]である。このことが可能であるのは、ひとえに意識とコミュニケーションつまり心的システムと社会的システムが、決して融合することも部分的にすらも重なることがない、完全に切り離された、それぞれ自己言及的に閉ざされた自己生成-再生産システムであるからである。前にも述べたように、人間がコミュニケーションをすることはできないのだ。(Menschen können nicht kommunizieren; humans cannot communicate) (45, 176)

※ ここでもSie reproduziert mit Hilfe von Sprache Kommunication aus Kommunikation und benutzt diese strukturelle Bedingung ihrer Reproduktion zugleich, um Bewußtsein als Medium in Anspruch zu nehmen.Anspruchについて今ひとつよくわかった感じがしません。Anspruchがこの文脈でもっている具体的な意味をどうもうまくイメージできません。

 「人間」とは、生命維持もし意識ももちコミュニケーションにも参加するといった多元的な存在であるが、そのように多義的な存在をコミュニケーションの主体あるいは参加者として考えてしまうと、特に意識をコミュニケーションと混同して論が進んだりするので好ましくない。現実世界でも、すぐれた司会者などは会議で、参加者それぞれの意識は意識として配慮しながらも、あくまでもそのコミュニケーションの場で語られたことに忠実に話を進めているのではないだろうか。



意識システムとコミュニケーションシステムは互いに独立しているからこそ、互いを触発すれど決定してしまうことのない相補的な関係性にあることができる

 意識システムとコミュニケーションシステムは互いにまったく独立して存在している。しかしながら同時に二つは構造的相補性 (struktureller Komplementarität; structural complementarity) の関係にある。それぞれが具現化し特定化できる (aktualisieren und spezifizieren; actualize and specify) のは自らの構造だけであり、それぞれが変えることができるのはそれぞれ自身にすぎない。[しかし]これらの構造的変化をもたらすために、それぞれは互いをつかう。コミュニケーションシステムは概して意識システムのみから触発される (reizen lassen; be stimulated)。意識システムの方は、言語によって非常に明瞭にコミュニケーションされていることに著しく気を取られる。私たちの議論はこうである。それぞれの閉ざされたシステムが独立していることが、構造的相補性のためには必要である。そうでないと、互いに触発しながら(しかし決定してしまうことなしに)それぞれの構造を具現化することはできない。 (46, 177)    

 ある人の意識を変えることができるのは、その人の意識の働きだけ。逆に、ある人がどんなに熱い想いをもったとしても(「この授業での話し合いを成功させたい!」)、コミュニケーションを変えることができるのはそのコミュニケーションの流れだけ。コミュニケーションをうまく発展させたいとすれば、自己意識を意識化したりして意識の働きを肥大化させるのではなく、意識しているかしていないかは別にしてコミュニケーションの流れに言語的であれ非言語的にであれ反応してコミュニケーションの流れを作り出す方がよいと考えられる。とはいえ、コミュニケーションがある人が思ったとおりには必ずしも発展しないのは周知の通り。しかし、だからこそコミュニケーションは面白いといえる。


コミュニケーションに関するルーマンのことばとしては「コミュニケーションだけがコミュニケーションを行うことができる」(Nur die Kommunikation kann kommunizieren; only communication can communicate) というWas ist Kommunikation?の論文の表現が有名ですが、今回はあえてそちらの論文ではなく、こちらの論文についてまとめました。「コミュニケーションとは何か」の論文は全訳を試みていたのですが、挫折したままになっています。おそまつ。                                               






前ブログ「英語教育の哲学的探究2」におけるルーマン関連の記事





東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院



■ はじめに

以下は、2019年6月29日(土)に広島大学教育学部で開催される第50回中国地区英語教育学会での研究発表(個人)のための準備の一環として作成した「お勉強ノート」です。

タイトル:『学び合い』におけるコミュニケーション観の転換 --近代的主体からオートポイエーシスへ--
要旨:主体的で深い対話をもっともよく達成している学校教育実践の一つの『学び合い』では、教師は授業中の介入を極力控えている。この逆説的な状況を理解するには、コミュニケーション観の転換が必要であろう。本発表では、私たちの多くが前提としている近代的主体概念を批判的に検討し、オートポイエーシスによるコミュニケーション観を提示する。

下のまとめは、著者も言うように本来なら「エッセイの言葉」(あるいは物語・ナラティブの言葉)で丁寧に語られるべき事柄を単純にまとめたもので、かつ、本書の謎解きの部分についても触れていますので、この本をいつか大切に読みたいと思われている方は以下はお読みにならないことをお勧めします。


■ セラピーとケア

セラピストとして訓練を受けた著者は、あくまでも実践の現場でセラピーを行いたく就職活動にいそしみますが、苦労した上で得た職場は、セラピーよりもケアの側面の方が多い場所でした。

ここでセラピーとケアについて整理しておきましょう。

セラピーとは、傷ついた相手に対してその傷に向かい合うことを促す営みです。セラピストが相手に積極的に介入し、傷はどんなニーズが満たされていないことから生じているかを解明し、そのニーズをその相手が自分自身で変更できるように仕向けます。その人は非日常的な葛藤に苦しむかもしれませんが、そうすることで成長し、個人として自立します。(p. 276)

それに対してケアとは、相手のニーズを満たすことによって、相手を傷つけないようにすることです。その相手を支え、相手がケアする人に依存してくることを引き受け、その人の安全を確保し生存を可能にします。相手が日常という平衡状態を享受することを目的とします。 (p. 276)

著者は当初張り切ってセラピー(カウンセリング)を行おうとしますが、就職した場所は、社会に「いる」のが難しい人たちのための場所でした。著者は次第に、自分の仕事とは、「いる」のが難しい人と、一緒に「いる」ことだということに気づきます。 (p. 43)

それでは「いる」とは何か?一つの答えは、「いる」とは互いにケア(お世話)を受け入れることです。(p. 209) 著者は入居者にケアをしますが、そのケアを入居者に受け入れてもらうことによって著者もケアされます(「自分もここにいていいのだ」という思いを得ます)。また、著者が入居者から逆にケアされてそのケアを受け入れることは、その人をケアすること(入居者に自身の有用感を覚えてもらうこと)にもなります。(p. 205) 「いる」とは、そういった相互依存関係が日常化し当たり前のようになってこそ達成されるものです。

このような「いる」ことがそれほど容易でないことは、精神疾患に関する現場だけでなく、学校や職場、あるいは家庭の現場でも時に感じられることは、さまざまな人々の人生で実証されているとおりです(一緒に食事をすることはおろか、同じ場所にいることすら苦痛という人は残念ながら人生に何度かは現れるものでしょう)。セラピー的な問題解決が志向される場でも、ケアの側面は必要です。そしてケアが重視される場にもセラピー的な要素が入る場合もあるでしょう。

しかし、私たちは今、自立している個人を前提とした社会に生きています。(p. 106) ですから、ケアの価値、ただ「いる」ことの意味が見失われてしまっています。これが本書の基底に流れているテーマの一つです。


■ ケアの自己生成

さて、「いる」ということ、ケアしケアされるということが相互依存的あるいは同時成立的・相即的であるなら、私たちは「ケアすること」と「ケアされること」、あるいは「ケアをする人」と「ケアされる人」を分離して固定的に考えるべきではないとなるでしょう。

職員とは常に入居者のケアするものであるという前提に囚われていたら、職員は入居者からのさりげないケアに戸惑うでしょう。また、ケアを受け入れない入居者を、職員は問題とみなすかもしれません。あるいは、職員はなすべきケアを列挙したリストを求め、それらを常に遂行し、それら以外のことは職務外のこととして拒否することがプロフェッショナリズムだと思いこんでしまうかもしれません。しかし、ケアあるいは「いる」とはそういったことではないでしょう。ケアを与える/受け入れるということが、どちらからともなく自然に湧き出るのが、人間が生きるということではないでしょうか。

著者は、「援助者療法原理」(リースマン) や「傷ついた治療者」(『ユングとポスト・ユンギアン』) といった理論で、ケアをするという能動とケアが受け入れられるという受動がいかに分かちがたく絡み合っているかを指摘しますが、それを踏まえた上でさらに一歩先に進みます。著者は言います。

だけど、僕らがデイケアウォッチングで観察してきたのは、じつはそれ以前のことだったのではないか。つまり、個々人の「する/される」以前に、デイケアというコミュニティに必要性が生じて、それに対応するために自然とケアが生じていたのではないか。主体はコミュニティにあったのではないか。(p. 221)

つまり、ケアは能動的な主体としてのAさんが行い、それを受動的な客体としてのBさんが受け取ると考えるのではなく、AさんとBさんが共に心地よく「いる」ことができる関係性がケアを生み出すと考えるわけです。ケアの主体は個人でなく、関係性を構築した共同体だという考え方です。

著者は、次のアナロジーも使います。

足が痛いから右手でそこを押さえる。背中が痒いから左手がそこを掻く。その時、右手と左手がケアする部分で、足と背中がケアされる部分、なわけがない。「する/される」を超えて、体そのものにケアが生じているのだ。(p. 221)

ここではケアが、「する/される」ものではなく「生じる」ものとされています。ということは、ケアとは能動態/受動態で語られるべき営みではなく、中動態で語られるべき事態となってきます。

この章で「ケアする/される」という能動態/受動態で語ってきたことは、中動態で語られるべきだったのだ。
デイケアにケアが生じて、それがデイケアに作用する。(p. 224)

関連記事:國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html

このようにケアの主体を個人ではなく共同体と考えることは、いろんな意味でより自然な認識かと私も思います。ただ「主体」ということばには、「自由意志」やその前提となる「意識」という含意が伴いがちです。これらのことばをそのまま共同体に帰属することは難しいでしょう。

ですから、私はここはルーマンの「コミュニケーションをするのはコミュニケーションだけである」 (only communication can communicate; nur die Kommunikation kann kommunizieren) という命題に倣って、「ケアをするのはケアである」あるいは「ケアという関係性が、ケアという関係性を生み出す」 と表現してもいいのではと考えています。自己循環的で何も述べていないような命題に思えるかもしれませんが、これはこれでオートポイエーシス(自己生成)について述べた表現にもなっているのではないでしょうか(希望的観測)。上に述べた学会発表ではこのあたりを論じたいのですが、なかなか準備ができていません(汗)。

参考記事:
「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」投影スライドと配布資料 + 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post_73.html
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_11
「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post.html
https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83


■ 現代社会に浸透する会計監査文化

職場に少しずつ慣れてきて、そこではセラピーよりもケアが優先されることを少しずつ学んだ著者でしたが、それでも「それでいいのか?それは価値を生んでいるのか?」(p.11)、「それでいいのか?それ、なんか、意味あるのか?」 (p.13)といった声が自らの内から湧き上がってくることに著者は苛まされます。この声は現代社会にはびこる会計の原理から発せられると著者は喝破します。(p. 317) 資本の自己増殖という「成長」を運命づけられた資本主義的生産社会は、変化をもたらし、効果があり、(商品)価値を生み出すことを是とします。それをチェックするのが会計の声です。

関連記事
マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/08/blog-post_14.html
モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/20121993.html

こういった会計の声が四方八方から寄せられ、ついには私たち一人ひとりがその声を内面化してしまった文化は「会計監査文化」とも呼ばれます。

ストラザーンという人類学者は、そのような世界のあり方を「会計監査文化 audit culutre」と呼んでいる。それは、ありとあらゆるものに会計係の監査が向けられる世界だ。大学も、病院も、中学校も、会社も、コミュニティセンターも、幼稚園も、ありとあらゆるところに会計の透明性が求められる。(p. 323)


この声に対して、日常の平衡を保つだけの「いる」こと、そしてその「いる」ことを可能にしているケアという営みは、自らを正当化することがなかなかできません。会計の声を使っては反論し難いのです。

著者は以下のことばで、本書が学術書でありながら型破りな文体で書かれた理由を説明します。
それはエッセイの言葉で語られるしかない。「ただ、いる、だけ」はそれにふさわしい語られ方をしないといけないのだ。そしてそれは語られ続けるべきなのだ。ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けないといけない。そうやって語られた言葉が、ケアを擁護する。それは彼らの居場所を支えるし、まわりまわって僕らの居場所を守る。(p. 338)

総じて、大変に考えさせられる本でした。現代の主流文化に抑圧された人間の営みに関する良書を医学書院がさらに出版してくれることを楽しみにしています。





追記

以上のまとめから、学校教育におけるケアとセラピーの両側面についても再考したく思っています。教室でのコミュニケーションの「主体性」を教師個人にも学習者個人にも帰属させてしまわずに、まずはケアを重視することから教師も含めた「学びの共同体」を作り、次第にセラピー的にそれぞれの問題に向き合うようにするというのがこのまとめから導かれる筋道の一つかと思います。

これはまずは学級づくりを大切にする熟練教員の知恵を難しく言い換えただけのように思えるかもしれませんが、会計監査文化のように妙に浅薄な言説がもてはやされる現代においては、現場の知恵をさまざまに言語化して対抗言説を作っておくことは重要だと私は思っています。でも、学会までに十分な準備ができるかなぁ。新しい職場は非常にやりがいがあり毎日はとても充実していますが、充実しすぎて睡眠時間と研究時間がなかなかとれないのが贅沢な悩みです。


2019/06/08

知的な英語を使いこなせるようになりたい大学生のために

追記
私が所属する京都大学・国際高等教育院・附属国際学術言語教育センター・英語教育部門のウェブサイトでは、学生さんの自律的な英語学習・使用を支援するための情報を多く提供しています。特に以下のページなどをご参照ください。


京都大学自律的英語ユーザーへのインタビュー

英語学習相談:よくある質問



柳瀬陽介 (2023) 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」『早稲田日本語教育学』第35号 pp.57-72

  この度、『早稲田日本語教育学』の第35号に、拙論 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」 を掲載していただきました。同号は「人工知能知能時代の日本語教育」をテーマにしたのですが、それに伴い、日本語教育と英語...