■ はじめに
以下は、2019年6月29日(土)に広島大学教育学部で開催される第50回中国地区英語教育学会での研究発表(個人)のための準備の一環として作成した「お勉強ノート」です。
タイトル:『学び合い』におけるコミュニケーション観の転換 --近代的主体からオートポイエーシスへ--
要旨:主体的で深い対話をもっともよく達成している学校教育実践の一つの『学び合い』では、教師は授業中の介入を極力控えている。この逆説的な状況を理解するには、コミュニケーション観の転換が必要であろう。本発表では、私たちの多くが前提としている近代的主体概念を批判的に検討し、オートポイエーシスによるコミュニケーション観を提示する。
下のまとめは、著者も言うように本来なら「エッセイの言葉」(あるいは物語・ナラティブの言葉)で丁寧に語られるべき事柄を単純にまとめたもので、かつ、本書の謎解きの部分についても触れていますので、この本をいつか大切に読みたいと思われている方は以下はお読みにならないことをお勧めします。
■ セラピーとケア
セラピストとして訓練を受けた著者は、あくまでも実践の現場でセラピーを行いたく就職活動にいそしみますが、苦労した上で得た職場は、セラピーよりもケアの側面の方が多い場所でした。
ここでセラピーとケアについて整理しておきましょう。
セラピーとは、傷ついた相手に対してその傷に向かい合うことを促す営みです。セラピストが相手に積極的に介入し、傷はどんなニーズが満たされていないことから生じているかを解明し、そのニーズをその相手が自分自身で変更できるように仕向けます。その人は非日常的な葛藤に苦しむかもしれませんが、そうすることで成長し、個人として自立します。(p. 276)
それに対してケアとは、相手のニーズを満たすことによって、相手を傷つけないようにすることです。その相手を支え、相手がケアする人に依存してくることを引き受け、その人の安全を確保し生存を可能にします。相手が日常という平衡状態を享受することを目的とします。 (p. 276)
著者は当初張り切ってセラピー(カウンセリング)を行おうとしますが、就職した場所は、社会に「いる」のが難しい人たちのための場所でした。著者は次第に、自分の仕事とは、「いる」のが難しい人と、一緒に「いる」ことだということに気づきます。 (p. 43)
それでは「いる」とは何か?一つの答えは、「いる」とは互いにケア(お世話)を受け入れることです。(p. 209) 著者は入居者にケアをしますが、そのケアを入居者に受け入れてもらうことによって著者もケアされます(「自分もここにいていいのだ」という思いを得ます)。また、著者が入居者から逆にケアされてそのケアを受け入れることは、その人をケアすること(入居者に自身の有用感を覚えてもらうこと)にもなります。(p. 205) 「いる」とは、そういった相互依存関係が日常化し当たり前のようになってこそ達成されるものです。
このような「いる」ことがそれほど容易でないことは、精神疾患に関する現場だけでなく、学校や職場、あるいは家庭の現場でも時に感じられることは、さまざまな人々の人生で実証されているとおりです(一緒に食事をすることはおろか、同じ場所にいることすら苦痛という人は残念ながら人生に何度かは現れるものでしょう)。セラピー的な問題解決が志向される場でも、ケアの側面は必要です。そしてケアが重視される場にもセラピー的な要素が入る場合もあるでしょう。
しかし、私たちは今、自立している個人を前提とした社会に生きています。(p. 106) ですから、ケアの価値、ただ「いる」ことの意味が見失われてしまっています。これが本書の基底に流れているテーマの一つです。
■ ケアの自己生成
さて、「いる」ということ、ケアしケアされるということが相互依存的あるいは同時成立的・相即的であるなら、私たちは「ケアすること」と「ケアされること」、あるいは「ケアをする人」と「ケアされる人」を分離して固定的に考えるべきではないとなるでしょう。
職員とは常に入居者のケアするものであるという前提に囚われていたら、職員は入居者からのさりげないケアに戸惑うでしょう。また、ケアを受け入れない入居者を、職員は問題とみなすかもしれません。あるいは、職員はなすべきケアを列挙したリストを求め、それらを常に遂行し、それら以外のことは職務外のこととして拒否することがプロフェッショナリズムだと思いこんでしまうかもしれません。しかし、ケアあるいは「いる」とはそういったことではないでしょう。ケアを与える/受け入れるということが、どちらからともなく自然に湧き出るのが、人間が生きるということではないでしょうか。
著者は、「援助者療法原理」(リースマン) や「傷ついた治療者」(『ユングとポスト・ユンギアン』) といった理論で、ケアをするという能動とケアが受け入れられるという受動がいかに分かちがたく絡み合っているかを指摘しますが、それを踏まえた上でさらに一歩先に進みます。著者は言います。
だけど、僕らがデイケアウォッチングで観察してきたのは、じつはそれ以前のことだったのではないか。つまり、個々人の「する/される」以前に、デイケアというコミュニティに必要性が生じて、それに対応するために自然とケアが生じていたのではないか。主体はコミュニティにあったのではないか。(p. 221)
つまり、ケアは能動的な主体としてのAさんが行い、それを受動的な客体としてのBさんが受け取ると考えるのではなく、AさんとBさんが共に心地よく「いる」ことができる関係性がケアを生み出すと考えるわけです。ケアの主体は個人でなく、関係性を構築した共同体だという考え方です。
著者は、次のアナロジーも使います。
足が痛いから右手でそこを押さえる。背中が痒いから左手がそこを掻く。その時、右手と左手がケアする部分で、足と背中がケアされる部分、なわけがない。「する/される」を超えて、体そのものにケアが生じているのだ。(p. 221)
ここではケアが、「する/される」ものではなく「生じる」ものとされています。ということは、ケアとは能動態/受動態で語られるべき営みではなく、中動態で語られるべき事態となってきます。
この章で「ケアする/される」という能動態/受動態で語ってきたことは、中動態で語られるべきだったのだ。
デイケアにケアが生じて、それがデイケアに作用する。(p. 224)
関連記事:國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html
このようにケアの主体を個人ではなく共同体と考えることは、いろんな意味でより自然な認識かと私も思います。ただ「主体」ということばには、「自由意志」やその前提となる「意識」という含意が伴いがちです。これらのことばをそのまま共同体に帰属することは難しいでしょう。
ですから、私はここはルーマンの「コミュニケーションをするのはコミュニケーションだけである」 (only communication can communicate; nur die Kommunikation kann kommunizieren) という命題に倣って、「ケアをするのはケアである」あるいは「ケアという関係性が、ケアという関係性を生み出す」 と表現してもいいのではと考えています。自己循環的で何も述べていないような命題に思えるかもしれませんが、これはこれでオートポイエーシス(自己生成)について述べた表現にもなっているのではないでしょうか(希望的観測)。上に述べた学会発表ではこのあたりを論じたいのですが、なかなか準備ができていません(汗)。
参考記事:
「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」投影スライドと配布資料 + 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post_73.html
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_11
「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post.html
https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83
■ 現代社会に浸透する会計監査文化
職場に少しずつ慣れてきて、そこではセラピーよりもケアが優先されることを少しずつ学んだ著者でしたが、それでも「それでいいのか?それは価値を生んでいるのか?」(p.11)、「それでいいのか?それ、なんか、意味あるのか?」 (p.13)といった声が自らの内から湧き上がってくることに著者は苛まされます。この声は現代社会にはびこる会計の原理から発せられると著者は喝破します。(p. 317) 資本の自己増殖という「成長」を運命づけられた資本主義的生産社会は、変化をもたらし、効果があり、(商品)価値を生み出すことを是とします。それをチェックするのが会計の声です。
関連記事
マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/08/blog-post_14.html
モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/20121993.html
こういった会計の声が四方八方から寄せられ、ついには私たち一人ひとりがその声を内面化してしまった文化は「会計監査文化」とも呼ばれます。
ストラザーンという人類学者は、そのような世界のあり方を「会計監査文化 audit culutre」と呼んでいる。それは、ありとあらゆるものに会計係の監査が向けられる世界だ。大学も、病院も、中学校も、会社も、コミュニティセンターも、幼稚園も、ありとあらゆるところに会計の透明性が求められる。(p. 323)
この声に対して、日常の平衡を保つだけの「いる」こと、そしてその「いる」ことを可能にしているケアという営みは、自らを正当化することがなかなかできません。会計の声を使っては反論し難いのです。
著者は以下のことばで、本書が学術書でありながら型破りな文体で書かれた理由を説明します。
それはエッセイの言葉で語られるしかない。「ただ、いる、だけ」はそれにふさわしい語られ方をしないといけないのだ。そしてそれは語られ続けるべきなのだ。ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けないといけない。そうやって語られた言葉が、ケアを擁護する。それは彼らの居場所を支えるし、まわりまわって僕らの居場所を守る。(p. 338)
総じて、大変に考えさせられる本でした。現代の主流文化に抑圧された人間の営みに関する良書を医学書院がさらに出版してくれることを楽しみにしています。
追記
以上のまとめから、学校教育におけるケアとセラピーの両側面についても再考したく思っています。教室でのコミュニケーションの「主体性」を教師個人にも学習者個人にも帰属させてしまわずに、まずはケアを重視することから教師も含めた「学びの共同体」を作り、次第にセラピー的にそれぞれの問題に向き合うようにするというのがこのまとめから導かれる筋道の一つかと思います。
これはまずは学級づくりを大切にする熟練教員の知恵を難しく言い換えただけのように思えるかもしれませんが、会計監査文化のように妙に浅薄な言説がもてはやされる現代においては、現場の知恵をさまざまに言語化して対抗言説を作っておくことは重要だと私は思っています。でも、学会までに十分な準備ができるかなぁ。新しい職場は非常にやりがいがあり毎日はとても充実していますが、充実しすぎて睡眠時間と研究時間がなかなかとれないのが贅沢な悩みです。