2019/10/16

第7回こども英語教育研究大会(10/20)での講演スライド + 11/16 JACET講演の予告


2019年10月20日に神戸学院大学附属中学校・高等学校で開催される第7回こども英語教育研究大会 (10:00-18:00) で講演をさせていただくことになりました (17:00-17:50)


こども英語教育研究大会ホームページ


そこで投影するスライドをここでも公開します。
ご興味のある方は御覧ください。




この度第3刷が発刊された岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』で提示した「からだ・こころ・あたま」の枠組みを継承・発展させた試みです。




今回は特に、Lisa Feldman Barrettの論を自分なりに取り込みました。

とはいえ、この会は実践者中心の集まりですので、自分としてはできるだけわかりやすい説明を試みたつもりです(苦笑)。

参考記事
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/09/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html


ついでながら、11/16(土)に同志社大学で開催されるJACET関西支部大会では、以下の講演をさせていただきます。ご興味があればぜひお越しください。



Emotions, cultures, and stories: 
Against the impoverishment of meaning

Yosuke YANASE 
(Kyoto University)

An assumption penetrating into the minds of the general public due to the widespread use of standardized tests is the notion that multiple-choice format can successfully measure understanding of meaning. This belief leads people to suppose that sense-making is only a common reaction and to regard meaning as definite, static, and monologic. This view, however, impoverishes meaning to the loss of its potential in communication. In this presentation, I argue that understanding meaning is proactive and that meaning is indefinite, dynamic, and dialogic by considering some origins of meaning: emotions, cultures, and stories. Emotion is both biological and cognitive, not just a fixed reaction to a stimulus, but a proactive driver of dynamic meaning. Cultures enable individuals to exploit meaning socially without completely realizing its potentiality; meaning is thus indefinite to its users. Stories as a powerful genre of language use expand the dialogic nature of meaning in a complex situation. Meaning, therefore, is a bio-cognitive guide to future actions, a social resource to deal with unforeseen states of affairs, and a source of wisdom to thrive in complexity and plurality of the human world. Language teachers need a better understanding of meaning and should be critical of the extensive use of standardized tests.


2019/09/13

コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか:長岡(2006)『ルーマン 社会の理論の革命』の第8章を基にしたまとめ


以下は、長岡克行先生の『ルーマン 社会の理論の革命』(2006年 勁草書房)の第8章「社会システムの形成」(pp. 255-278)の論考を私になりにまとめて若干の書き足しをしたものです。論点と論点の順番は長岡先生のものにしたがっていますが、論点の表現は大胆に変えた箇所もありますし、付け加えた具体例は私が自分の興味に引き寄せて考えたものです。私としては自分の誤読・歪曲を恐れますので、ご興味のある方は必ず原著をお読みください。








コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか




 言語教育に関わる者にとって「コミュニケーションとは何か」とは常に重要な問いであるが、ここではまず長岡 (2006, pp. 255-278)の論考に即しながら「コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか」について考えてゆきたい。コミュニケーションを日常茶飯事の自明なことと考える者にとってこの問いはいかにも無用のように思えるかもしれないが、異文化間での交流や、互いを社会から排斥したいと相互に考えている党派性の高い集団間でのやり取りや、離婚前の夫婦の会話を想像するなら、そもそもどうやればコミュニケーションは成立しうるのだろうかという問いは重要になるだろう。学校現場なら、学校教育という秩序に信頼を失いかけた学習者とどう対話をするかという課題を例えば考えてほしい。あるいは「アクティブラーニング」が流行語になりグループ活動を入れたものの、発言する者も発言の様式も固定化してしまった授業を考えてみてもいい。コミュニケーションに関する理論的な問いは実践的でもある。


■ 二重の偶発性

 コミュニケーションについて考える際に二重の偶発性 (double contingency)の問題を検討することは、ルーマンがパーソンズから継承し発展させたことであった。それではその二重の偶発性とは何であろうか。たとえば私と誰かがコミュニケーションを取ろうとしていると考えよう(上に述べた困難な状況を想像してほしい)。私は、相手がどう発話してくるかわかれば自分もどう発話してよいかわかるが、相手がまだ何も言わない以上、何をどう言えばよいかわからない。私の発話は相手に依拠 (contingent) しているという点で私の発話は偶発的である。この事情はおそらく相手においても同じである。そうなると二者の間では二重の偶発性があることになる。双方ともに相手の出方がわからず発話できないという葛藤が生じる。

 だが大抵の場合に私たちは困難な状況ですらコミュニケーションを試みる。もちろんそれが破綻することもしばしばではあるが、ここではコミュニケーションが成立する場合を考えよう。コミュニケーションの参加者はどうやってこの二重の偶発性という困難を克服するのであろうか。ルーマン以前の説明をきわめて単純化するならそれは、参加者双方が互いにこの二重の偶発性という葛藤を承知しているので、共通の価値体系に依拠することによってコミュニケーションを成立させるということだ。実際、私たちの日常においても、組織体での会議なら提示された議事次第を参照しながら行われるし、その組織体では発言に関するさまざまな規則も明示的・暗示的に共有されている。授業というコミュニケーションなら、その一部が「本日のねらい」として板書される教師の授業計画(教案)が共有すべき秩序体系として存在している。学習者は、その秩序体系ではどんな発言や行動が許されるかを知るあるいは推測することが求められている。だが私たちがここで考えようとしているのは、そのような共通の価値体系や秩序体系の共有が危ぶまれている場合、あるいはほとんど存在しない場合であった。そのような場合にコミュニケーションはどのように形成されるのだろうか。


■ 二重の偶発性の3つの側面

 ルーマンは偶発性を「必然的でもなければ不可能でもない」 (neither necessary nor impossible)、あるいは「可能ではあるが必然ではない」 (possible, but not necessary)、もしくは「こうではあるが他のようでもありうる」 (as it is, but as it can be otherwise) ととらえる。このように原理的な議論に立ち返ることで、コミュニケーションの結果であったはずの「社会的に共有されている共通基盤」をコミュニケーションの形成の説明に組み込むことを避けるのがルーマンのやり方である。長岡のまとめを筆者なりに言い換えるなら、コミュニケーションにおける二重の偶発性は、自らの複合性、相手の不可知性、互いの相違性の3点で考えることができる。

1 自らの複合性
 コミュニケーションを開始するにあたって何をどう発話してよいかわからない自分であるが、その自分には多くの話題と語り方という要素がある。また、その要素は他のどの要素と組み合わさるかによって実に多くの展開例が生まれる。要素が多く、それらの要素間の関係性が量的にも質的にもさまざまであるという点で、コミュニケーションの参加者はそれぞれ自分の中に複合性 (complexity) を有している。複合性においては、すべての可能な展開例(=要素の組み合わせ)を一望して比較検討することができないため、そこでは選択が行われる。選択とはもちろん「必然的でもなければ不可能でもなく」「他でもありうる」偶発的なものである。この自分に関する複合性を第1の偶発性と呼んでもいいかもしれない。

2 相手の不可知性
 このようにどんな参加者も複合性ゆえに自分の心を見通すことができないが、相手の心は意識の唯我論的存在性というまったく別の理由が加わるゆえに一層に不可知である。私の意識にアクセスすることができるのは私だけであり、いかなる他人も私の意識を直知することはできない。同じように相手の意識を私は直接に知ることはできない。せいぜい私なりに想像するだけであり、相手は基本的には不可知である。しかも相手の意識も複合的なものであろうから、相手の心はより一層不可知である。だが相手の不可知性も、完全な不可能性ではない偶発性としてとらえるべきであろう。相手の心は「こうかもしれないし、こうでないかもしれない」ものである。「必ずこうだ」と断定できるものでもないが「ありえない」ものでもない(社会的に「ありえない」として排除・隔絶される心のあり方についての議論はここでは割愛する)。このような相手に関する不可知性を第2の偶発性と呼んでもいいかもしれない。

3 互いの相違性
 二重の偶発性については、相手は自分とは異なる知識と考え方をもっているという側面も強調されるべきだろう。自分と相手は違うというのが、近代社会の人々が経験から学んでいる前提であるとすれば、コミュニケーションについて考える場合においてもこの前提を踏襲するべきだろう。「相手と自分の知識と考え方が完全に一致することがない」という前提から近代人が学んだ社会のあり方は、大きく分けるなら、相手を自分と同じようにするか、相手と自分が異なったままに共存共栄することであろう。前者は小規模では一方的な説得となるが、それが権力者によって大規模に行われるなら全体社会の形成につながる。そうなると、グローバル化により異文化間の交流が増え、人間の多様性に関する認識の深まりによりさまざまな生き方が認められ尊重されるようになった現在、求めるべきは後者の互いの差異を否定しないコミュニケーションだろう。もちろん自他の違いを排除しないといっても、双方に部分的な共通点を見出すことはしばしばある。ここでも自他の違いは必然的でもなければ不可能でもない偶発的なものである。


■ 3側面からの3つの指針

 上記の二重の偶発性の3側面から、コミュニケーションの指針らしきものを見出すことができる。以下、私の主関心である授業でのコミュニケーションを例にして若干解説したい。その際に誤解を避けるため、筆者が想定している「授業でのコミュニケーション」について予め述べておきたい。現在の多くの学校の授業はまだ知識伝達型であり、授業では伝えられるべき知識が説明されその記憶・理解がテストされることがほとんどであろう。説明も一方的であり、教師は伝達事項を自分が理解しているような形で学習者が記憶してくれるように望む。ゆえに教師の発話はきわめて目的合理的であり、これを「コミュニケーション」と呼ぶことは難しいと筆者は考える。とはいえ大学・大学院の少人数ゼミではそのすべてにおいてではないにせよ、コミュニケーションということばにふさわしい言語使用が見られることもあるだろう。小中高においても「学び合い」「協働学習」「アクティブラーニング」の一部では学習者はまさにコミュニケーションしているといえるような姿が見られる。筆者はそのような、現代学校文化ではまだ例外的な―しかし今後は主流となっていかざるを得ないような―授業でのコミュニケーションを想定して以下の3つの指針について語る。

1の自らの複合性については、発話の選択性を肯定するという指針が導きだせる。自分の発言はあくまでも自分が選択した偶発的なものであり、必然的なものである必要はないという認識を積極的に認めるということである。現状の多くの教室において学習者は「教師が求めていること」を察知しようとする。このような背景もあり、教師の意図が明確にわからない時に学習者はできるだけ言動を避ける。もちろん正解を求める発問の場合は教師の意図は明確であるが、その場合でもその正解に確証がもてない学習者は手をあげようとしない(正解を知っているが他の学習者の目を気にして挙手しない学習者についての考察はここでは割愛する)。この場合の解決法の1つは、権力者である教師が、学習者の発言を学習者が自らの可能性の中から選択するものなるように仕向けることである。言い換えれば、教師が学習者の発言を、必然的(正解)であるから褒められ不可能(不正解)であるから罰せられるような正否を問う発問ではないようにすることである。正解を求める発問ではなく、学習者それぞれの判断を尋ねる発問にすることである。教育手法の点から補足するなら、正解がある場合でもその正解はいつでも学習者が参照できる状態にした上で発問するというやり方が考えられる。学習者の発言を「正解/不正解」(必然/不可能)の二区分で峻別できるものにせずに、「こうもありえるし、他のようでもありうる」偶然性を有する発言を奨励するように教師権力を使うことが教室内のコミュニケーションを増やす1つの方法であろう(ただ後述するように、発言はそれまでの発言とある程度の関連性を有するものでなくてはならない)。

 2つ目の相手の不可知性については、教室の成員相互に「自由」を認めるという指針が考えられる。相手が自分の考えとは違うことや自分が予想もしなかった行動をしたとしても(つまり相手が自分にとっては必然としか考えられない言動をしなかったとしても)、その発言が「ありえない・許してはいけない」非倫理的・反社会的なものではない限り、それを受け入れるということである。自分にとっての必然性が他人から生じなかったとしても、それは自分が他人を知り尽くすことができないことから生じる偶発性が現れただけと考えるわけである。こうして相手に言動の自由を認めた上で、自らも自分の言動に関する選択の自由を行使するという文化を志向するということになる。教室の例で言うなら、学習者が学校文化を受け入れがたく思っている場合も、「ありえない」非倫理的・反社会的な言動を禁じながら学習者の偶発的な言動という自由を認め、後で述べるようにいかに「私たち」を作ってゆくかということになるだろう。

 第3の互いの相違性からは、どの個人にもコミュニケーションを決定してしまう権利を与えないという指針を導くことができる。抽象的に言うなら、コミュニケーションの個人帰属性の否定と表現できるだろうか。ある個人が自他の違いを否定・根絶しようとして、他の者をその個人のあり方に強制的に変える方法は、今後も限定的にはあり続けることかもしれないが、現代社会においては原則として慎むべきだと上では述べた。教室で言うなら、授業でのコミュニケーションの具体的展開は教師個人が計画したようになるべしということを前提とはせず、コミュニケーションは誰もが完全には予想できなかった展開をするということを前提とする指針である。一部の教師教育現場では、今なお「教案」という形で、教師が授業前に学習者の具体的な発言を予想した上で授業展開を書かせることもある。そのような教育を受けた学生はしばしば教育実習などで、自分の予想外の生徒の発言に困惑し、それらを無視するか強引に自らの解釈に引き込むかなどして、授業でのコミュニケーションづくりに失敗する。教師にすらも授業のコミュニケーションを1人で設計・構築してしまう権利を認めず、コミュニケーションを形成するのは教師ではなく、教師と学習者が作る「私たち」であるという認識を教師が具体的な言動で示し続けることが1つの指針であろう。

 以上の3つは授業におけるコミュニケーションを成立させるための実践的な指針であるが、以下では再びコミュニケーションについての一般的考察に戻り、コミュニケーションに関する理解を深めることにしよう。


■ コミュニケーションでは何が起こっているのか

 コミュニケーションではいったい何が起こっているのだろうか。ここでも長岡 (2006) の論考に即しながら3つの論点を提示する。コミュニケーションにおいて起こっていることのうち重要なのは、発話の関連性の継続、期待による学習と不可知性の縮減、社会的な「私たち」の創発であるというのがここでの主張である。

A 発話の関連性の継続
 コミュニケーションにおいて私は自らの複合性から生じる多数の可能性から1つを選択しそれを発話とするわけであるが、それは無思慮の決断ではない。相手の心は原理的には不可知ではあるが私はそれを自分ができる範囲で観察し推測する。その上で相手が自分の発話を相手にとっての関連性があるようにして私は発話を行う。そうしてこそ相手も私の発話を、時折の疑問や躊躇があるかもしれないが、さまざまな程度の関連性を認めるだろう。そして相手も私に対して同じことを試みる。コミュニケーションとはこの過程が連続することである。私の発話は相手によって規定され、相手の発話によって定められる。聞き手にとっての関連性の高いと思われる発話を話し手が自らの可能性の中から選択するのがコミュニケーションである。ここには、言語学の関連性理論 (Relevance Theory) が強調している原理が見られる。

B 期待による学習と不可知性の縮減
 そのように発話の継続的発展という経験が重なるにつれ、双方はそれぞれに相手に関してそれなりに学習し、相手の行動に対するある程度の期待をいだくようになる。相手の反応を自分なりに予想できるようになるわけである。もちろん期待はしばしば裏切られるが、その失敗経験も相手に対する期待についての新たな学習となる。双方がそれぞれに学習すれば、双方の期待もそれぞれにより信頼できるものとなり、2人の間にはそれなりの秩序が生まれ始めるだろう。もちろん期待は予想に過ぎず予知・予見ではない。ゆえに期待が裏切られ秩序が破壊される可能性は常に存在する。とはいえ、コミュニケーションの経験の蓄積から、2人はそれぞれに互いに対する期待を学習し、コミュニケーションの不可知性は少しずつ縮減する。

C 社会的な「私たち」の創発
 コミュニケーション不可知性が少しは低減したとしても、実際に話し手の発話を聞き手が関連性のあるものとして受け入れるかどうかは聞き手次第であることに変わりはない。つまりコミュニケーションにおいては、双方が相手に由来する期待をもとに発話し、その発話の解釈を相手に委ねる。「自らの行為」と私達が通常想定している発話は、実は相手がなくては準備も実行も完遂もできない行為である。ここでもって相手は自分にとって不可欠であるという認識が双方に生じるだろう。ここで、2人は別々の個人ではなく「私たち」となる。「私たち」は個人には還元できない社会的な自己である。その「私たち」を自己参照しながらコミュニケーションは継続する。「私たち」とは私たちのこれまでのコミュニケーションから想定されている概念であり、「私たち」はその過去のコミュニケーションに基づき、かつこれからの私たちのコミュニケーションを予期しながら、コミュニケーションを重ねる。コミュニケーションこそが「私たち」という概念の母体である。


■ まとめにかえて

 これまで説明してきたことに基づきコミュニケーションについてすこし発展的にまとめるなら次のようになるだろう(ここでも話を単純にするため2人の間でのコミュニケーションを考える)。

 コミュニケーションは、自分も相手も互いを基本的にはブラックボックスと考え、自分ができる範囲で相手を観察することから始める。その上でどちらかがまずは自分ができることとして自らの発話を選択する。その発話はその人なりに相手にとって関連性があると思った発話である。その発話を受けた相手もその人なりに観察・推測し発話を返す。双方がそれを行い続ければ、2人それぞれにコミュニケーションのあり方について学習し、そこには一種の社会的な秩序ができてくる。このコミュニケーションはどちらかの個人だけで準備・実行・完遂できるものでもないし、2人の個人(の思考と行動のレパートリー)の単純な合算によって作られたものでもない。コミュニケーションは、相手を自分の発話行為を定めるための必須の要因として観察・推測し発話しあう2人という新たな単位によって行われる。コミュニケーションを個人に帰属させることはできない。コミュニケーションは、コミュニケーションを行う「私たち」に帰属させるべきものである。あるいは少し異なる言い方をすれば「私たちのコミュニケーション」を自己参照しながら形成されるものである。だからといって「私たち」とは均質な存在ではない。2人が生物学的に1つの生物になるわけでもないし、同一の心理を有しているわけでもない。それぞれは別の生物学的・心理学的存在であり、それぞれに自分なりの複合性を有し、それぞれが互いを知り尽くすことはない。しかしながら、コミュニケーションによって結ばれた2人は、それまでの生物学的・心理学的個体としては経験できなかった自己をそれぞれに実感する。それは「私」というよりも「私たち」という自己と呼ぶべきかもしれない。これは個々人の生物学的・心理学的な実在性 (reality) を超えた、社会的な現実性 (actuality) を有するものである。こうしてコミュニケーションは社会的に形成され、そこには社会的な現実性が生じる。


関連記事
意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/blog-post_20.html




2019/09/02

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ



この記事は下の二つの記事の続きとしての「お勉強ノート」です。第6章の “How the Brain Makes Emotion” をまとめました。まとめ方は私の関心にしたがったもので、かつ、私の解釈も入っていますので、ご興味のある方は必ず原著を御覧ください。


Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html




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カテゴリー事例の決定 (categorization)
 ある状況において、ある人の脳の中に大きく「怒り」と表象できる概念 (concept) が活性化したとしても、その概念には実に多くの事例が含まれている。それらのうち、その人の身体の内受容 (interoception) やその他の感覚も含めた今の世界のあり方としてもっとも適したものとして選ばれる勝ち残り事例 (winning instance) を脳が決めることをカテゴリー事例の決定 (categorization) と呼ぶ。カテゴリー事例の決定がその人にとっての知覚 (perception) となりその人の行為を導く。 (pp. 112-113)

情報の要約 (summary) としての概念
 人間の脳にはさまざまな物理的・生物的制限があるので脳は効率的な情報処理をしなければならない。たとえばある種の点の連なりは「線」という概念で要約 (summarize) することができる。その概念を表象するニューロンの数は、さまざまな点の連なりそれぞれを表象するニューロンの数よりはるかに少なくて済む。「線」概念が重なったさまざまの事例の一部は「角度」概念として要約できる。要約を続ければ「目」概念、「顔」概念などとその抽象度を上げることができる。抽象度の高い概念はそれだけ効率的な情報の要約 (more efficient summaries of the information) である。 (p. 115)

補足:「顔」概念での知覚は、「目」概念での知覚と異なり、「目」概念以外の「鼻」概念や「口」概念なども含めて統合した知覚である。「顔」概念に必要なニューロンの数は、「目」「鼻」「口」などの「顔」を合成する諸概念のニューロンの数の合計よりもはるかに少ないだろう。ましてや、それは、「目」概念などを構成するさまざまな「角度」や「線」の概念のすべてを表象するニューロンの合計数よりも断然少ない。抽象度の高い概念をもつことにより、人間は効率良い情報処理ができる。

補足2:多層構造に関しては、私は下の記事をまとめた際に参照した動画からアナロジー的に理解しました。文系の悲しさで、きちんとした理解ができていないことを恥じます。

松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』




概念はマルチモーダルであるし非常に抽象的でもありうる
 上には視覚の例だけを出したが、もちろん概念には他のモードの感覚(たとえば聴覚、嗅覚、内受容感覚など)も含まれるという意味で多感覚的 (multisensory) であるし、「母」といった極めて抽象的な概念も含まれる。 (p. 116)

補足:「母」という概念は、例えば自分の母親に関してのさまざまな姿・声・匂い・内受容などの事例を含むだけでなく、これまで自分が接してきた他の人の母親に伴う事例、これまで接したことはないが自分の経験や記憶から想像できる母親についての事例、さらには「新宿の母」「母としての自然」といった比喩的表現に伴う事例も含んでいる。それぞれの「母」の事例にはさらにさまざまな下位概念を含むことを考えると、「母」概念は莫大な量の情報を要約している非常に抽象的な概念であることがわかる。

概念と予測はコインの裏表
 「ある概念の一事例を構築する」 (construct an instance of a concept) ことは、「ある概念の予測を出す」 (issue a prediction) ことと同じである。予測とは概念を「適用」することと考えることができる (Think of prediction as “applying” a concept)。この予測においては、さまざまな知覚入力を通じての修正や洗練 (correcting or refining) が行われる。(p. 118)

予測においては、細かな予測という巨大な滝の流れ (a gigantic cascade of more detailed predictions) が生じる
 たとえば今・ここでの諸感覚から「幸せ」という概念を想起し、その概念を基にして直近の未来のあり方を予測しようとすれば、その概念から数多くのより小さな(=低次の)概念が想起され、それらはそれぞれにさらに小さな概念を想起させ・・・といったことが何層にもわたって行われる。つまり諸感覚入力の要約 (a summary of all the sensory input) である「幸せ」概念を開いて (unpack) 、さらに細かな予測という巨大な滝の流れ (a gigantic cascade of more detailed predictions) が生じさせる。(p. 119)

補足:原著とは異なる図を私なりに作ってみた。最初に細かなお断りを入れておくと、この三層の図は極端な単純化で、本来、ニューロン(印)は何十・何百もの層にも重なっているはず(「何十・何百」という規模でいいのか自信がないのですが、それはそれとして)。また図としては本来、第一層のすべてのニューロンが第二層のすべてのニューロンに、第二層のすべてのニューロンは第三層のニューロンに線でつながれているべきなのですが(線は0から1までの間の重み付けをもつと仮定する)、面倒なので省略しました。



 もし諸感覚の入力から「幸せ」概念のニューロン(本来はニューロン集合でしょうが、ここでは議論を簡単にするために単一のニューロンとする)が活性化したなら(=頂上の印が活性化したなら)、それは第二層の多くのニューロンさらには第三層のさらに多くのニューロンを活性化させる。その活性化の過程でも諸入力は次々に入り続けるので、それらの諸入力ともっとも適合的なニューロン(=第三層のどれか一つの印)が活性化する。それが予測である。
 逆のプロセスを取るのが概念を形成することである。人はさまざまの事例(=第三層のさまざまな印)を経験し、それらは抽象化(=第二層のニューロンで表現)され、また周囲の人々の「それは幸せなことだったね」といった発話に教えられ、独自の「幸せ」概念(=第三層のニューロン)を作り出す(また、この概念形成は終結することなく、その時々の状況にもとづくゴールによって概念は新たに作られる)。

滝の流れの始まりと終わり
 概念の滝の流れは、内受容ネットワーク (interoceptive network) から始まり、一次感覚領域 (primary sensory regionの訳語として適切かどうかわかりません)で終わる。このことからあらゆる予測やカテゴリー事例の決定は、その人の身体の状態が関わっていることがわかる。 (pp. 121)

補足:内受容ネットワークについては下を参照

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

情動的細密性 (emotional granularity) が高いことの長所
 「心地よい」 (pleasant) といった幅広い(情動)概念が活性化すると、それだけ数多くの事例が予測されるが、これは脳に負担をかけることになる。他方、(情動)概念が細密化されていると(=高い細密性 (high granularity) をもつと)、可能な予測事例の数は少なくなり、予測はより効率よく (efficient) かつ精密 (precise) なものになる。 (p. 121)

補足:これも私なりに図を作ってみた。三角形の高さは前の図の三角形よりも高いが、両者の高さは実は同じものだと仮定してほしい。前の図が一つの三角形でカバーしていた領域を、この図の五つの三角形がカバーしていると想像してほしい。言い換えるなら、この図は前の図が表象していた概念をさらに五つに細分化しているわけである。



 このような細分化された概念を有する人は、より短時間でより精密な予測ができることになる。大胆に言い換えるなら、より多くの語彙を使いこなせる人は、より速くより緻密な予測ができることになる。もちろん概念はすべて言語化されていなければならないのではないのだから、例えば人の動きをより細密に識別できる武術家は、より素早くより効果的に相手を制することができるともいえるだろう(もちろんこの識別が意識的である必要はない)。

概念も母集団思考 (population thinking)
 補足:ここの解釈は私の考えがずいぶん入っていますので、この項の記述は「補足」といたします。この解釈を出した元は122ページの最初の段落です。
 概念も母集団思考で考えるべきである。ある概念はさまざまな事例から構成されており、その母集団をもって概念となしている。だが、人がある概念を活性化したとしても、それはその人がその概念のすべての事例をすべて想起しているといったことは意味しない。概念は事例の要約に過ぎない。
 また、異なる状況で違うゴールをもった場合は、別の仕方でその概念を活性化するだろう。つまり、その際にその概念に含まれる事例は前の時の事例とは異なっている可能性がある。したがってこの場合の予測は、前の場合の予測には含まれなかったようなものになる可能性がある。
 この意味で、事例の “population” という用語は、単なる「集団」ではなく、理念的な想定である「母集団」と訳した方がよいと私は考えます。
 とはいえ、私は進化論に関しての理解は非常に浅いので今後勉強を重ねてゆきたいと思っています(本を読む時間がほしい)。

実際の予測は、同時並行的かつ確率的に大量に行われる
 脳は刻々と何千もの予測を同時並行的に出している。予測はイチかゼロかといったものではなくどれも確率的 (probabilistic) であり、どれか一つだけの予測が100%正しいとしてそれに固執 (linger on) するようなことはない。

補足:武術オタク的にいうと心身が「居着く」と、100%とは言わないにせよ、ある状態が到来する可能性しか予測できず、心も身体もその準備にばかり動員されて、状態変化についてゆけなくなる。(参考:『古武術の極み: 身体の使い方には理がある 柔術稽古覚書其ノ一』)

数多くの予測を管理するコントロールネットワーク
 あまりに多くの予測が生じると脳は混乱するが、その混乱を解消するのがコントロールネットワーク (control network) である。たとえばある有名な図では、ACに挟まれればBと見え、1214に挟まれれば13に見える記号があるが、この場合、それぞれ二つの文脈に応じてコントロールネットワークが働いていると言える。ただしコントロールといっても中央管理ではなく、適当にいじくっている (tinker) といったイメージの方が実際に近いだろう。 (p. 123)

意味を作り出すという現象
 脳は、過去の経験に基づいて、次の瞬間に世界がどうなるか予測するメンタルモデルを常に有している。これが概念を用いて世界と身体から意味を作り出すという現象である。人が起きている時に脳は過去の経験を用い、それを概念として組織化して、次の行動を導くと共に感覚に意味を与える。 (Your brain has a mental model of the world as it will be in the next moment, developed from past experience. This is the phenomenon of making meaning from the world and the body using concepts. In every waking moment, your brain uses past experience, organized as concepts, to guide your actions and give your sensations meaning.) (p. 123)

補足:ここで私が思い出したのが「意味の流れ」 (a stream of meaning) を強調したボームの論です。ボームは、意味の流れが人々を結びつけるし、一見矛盾するような複数の考えも、それらの意味の流れが連動すれば、それだけ私たちはより真理に近づくとも述べます。予測とは、過去の経験に基づく「想起された現在」 (“the remembered present” by Gerald M. Edelman) と次の瞬間をつなぐ流れであり、かつその流れはどんどん到来する諸感覚入力により刻々と修正・洗練されながら連綿と続くものです。「意味とは流れである」という表現はそれほど間違っていないと私は考えます。

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David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念

 他にも意識の統合情報理論は、意味の動態性を強調しました。

関連記事
意識の統合情報理論からの基礎的意味理論--英語教育における意味の矮小化に抗して--全国英語教育学会での投映スライドと印刷配布資料

J-STAGE: 中国地区英語教育学会研究紀要
意識の統合情報理論からの基礎的意味理論英語教育における意味の矮小化に抗して

 意味については、下のような論考をまとめたこともあります。

「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17

意味についてはいつかしっかりとまとめた論考を書きたいと思います。心身を整えて「忙中閑あり」で時間を見つけてゆきたいと思います。

意味を作り出すということは、与えられた情報を超えるということ
 意味を作り出すということは、与えられた情報を超えるということである (To make meaning is to go beyond the information given)。心臓の早い鼓動には、走れるように四肢に十分な酸素を与えるといった物理的な機能がある。しかしカテゴリー事例の決定は、そういった身体変容が、幸せや怖れといった情動的な経験となることを可能とし、それにその人の文化内で理解された意味と機能を付け足す。カテゴリー事例の決定は、生物学的な信号に新たな機能を付け加えるが、これは物理的性質ではなく、その人の知識と周りの状況によって付け加えられるのである。 (p. 126)

情動は意味である
 情動は意味である (Emotions are meaning.)。情動は、内受容とそれに伴う身体変容性の感情 (affective feelings) を状況に応じた形で説明する。情動は行為の処方箋でもある。内受容ネットワークやコントロールネットワークといった概念を実行する脳システムは、意味を作り出す生物学的現象 (the biology of meaning-making) である。 (p. 126)

補足:繰り返しになるかと思いますが、このようにして考えると意味は生物的であり文化的であり、個人的であり社会的であり、生理的であり認知的であり、現在から過去を参照しつつ未来を志向しているといえるでしょう。
 意味を訳語に還元してしまうような単語集の丸暗記実践や、誰でも同じように同定できると想定する多肢選択試験に強烈な違和感を覚える私としては意味についての理解を深めてゆきたいと思っています。






2019/08/27

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ



この記事は前の記事の続きで、Lisa Feldman Barrettホームページツイッター)のHow Emotions Are Madeの第五章「概念、ゴール、ことば」 (Concepts, Goals, and Words) を私の関心にしたがってまとめたものです。

著者によりますと、この本の翻訳が紀伊國屋書店から発行される予定だそうですが、私としてはこの本を非常に面白く読みましたので、いつものように「お勉強ノート」をつくっている次第です。




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概念 (concept)
 概念とは、人が感知するあらゆる感覚信号 (sensory signals) を意味ある (meaningful) ものにして、それが何に由来し何を指し自分はどのように対応するかの説明を与える (an explanation for where they came from, what they refer to in the world, and how to act on them. p. 86)ために脳が作り出すものである。概念なしには世界は常に変動するノイズになり、何がなんだかわからない状況になるだろう。
 つまり概念とは、古典的(辞書的)概念観が示唆するように脳内の固定的な定義 (fixed definitions) ではなく、もっとも典型的なあるいはよくある事例であるプロトタイプでもない。概念とは、今自分がいる状況におけるゴール (goal) にしたがうならば似たものとしてまとめられると脳が判断した多くの事例 (instances) である。(pp. 89-90)
 概念はゴールに基づいている非常に柔軟に状況に適応するものである。「概念は静的ではなく、非常に可塑的で文脈依存的である。なぜならゴールは状況に適応するために変わりうるからである」 (Concepts are not static but remarkably malleable and context-dependent, because your goals can change to fit the situation. p. 91)

GlossaryGlossaryは、 “concept” を単に「ある目的のために似たようなものとして取り扱われる事例の集まり」と説明しています。

Categoryとの違い:従来はconceptは人が作り出すもので、categoryは世界に備わっているものとされていたが、著者は前者を人の知識、後者をその知識でもって語る事例と区別している。(p. 87)

ゴール (goal)
 たとえば「怒り」という情動概念 (emotion concept) は、すべての状況で一つの同じゴールを有しているわけでもない。「怒り」のゴールあるいは目的にはさまざまなものがあるだろう。 (p. 101)

補足:これは、「怒りのゴール」も概念であり、多くの事例から構成されていると考えれば理解しやすいだろう。

他人の心を利用して学習する
 概念を学ぶ際に、人間は単細胞生物でも行う統計学習 (statistical learning) だけでなく、自分の周りにいる人々の心 (minds) に存在している情報を利用して学ぶ。 (p. 96)

補足:別のことばを使えば、人間は個人学習としての統計学習を行うだけではなく、社会的学習・文化的学習を行うということであろう。ヘンリックは、この文化的学習が人間を他の動物とは異なるものにしたと考えている。

関連記事
ジョセフ・ヘンリック著、今西康子訳 (2019) 『文化がヒトを進化させた』白楊社、
Joseph Henrich (2016) The secret of our success. New Jersey: Princeton University Press

ことば (words)
 語り (speech) は、他人の心にある情報にアクセスするための方法の一つである。(p. 97) 概念の諸事例はしばしば外見を大きく異にしているが、ことばが使われることによって、幼児は周りの大人の心の中にある、概念に基づく心的な類似性 (mental similarities) に注意を向けることができる。ことばは、あたかも子どもに「これらの外見は異なるけれど、心の中ではあるものに対応しているんだよ」と語りかけているようだ。もちろんこの「あるもの」とはゴールに基づく概念 (goal-based concept) である。ことばは幼児にゴールに基づく概念を形成することを促し、さまざまな物事を等価物として表象することを可能にする (Words encourage infants to form goal-based concepts by inspring them to represent things as equivalent. p. 98)

子どもに向けて語られることば
 ことばは、子どもが物理的な本質条件も有せず多様である概念を学ぶ際の鍵となるものであるが、ことばそのものにそのような力があるのではない。そのような力をもつのは、子どもの身体変容性ニッチ (affective nich) に向けて周りの大人が語りかけることばである。

身体変容性ニッチ:わかりやすくなら「人の心身に訴えてくるもの」「興味関心をひくもの」ぐらいであろう。詳しくは前の記事を参照。

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補足:この論点は、いわゆる「英語のシャワー論」(=周りで英語の音声を流しておけば、いつのまにか英語が習得できる)への反論となっている。聞いている者の心身が自ずと注意を払うような事柄について語られたことばこそが、そのことばの概念および語形の習得に役立つわけである。
 英語のシャワー論まではいかないものの、単語学習については未だに「何度も繰り返して単語帳を暗記すれば単語は覚えられるし、ひいては使えるようになるはずだ」といった信念を多くの英語教師が抱いていることについては辟易する。彼・彼女らは自分自身が英語を使わない・使えないからそのような信念を抱いているのだろうか。それとも丸暗記学習は学習者の管理のために非常に便利だからそのような信念を抱いているのだろうか。いずれにせよ、情動レベル・身体で感じるレベルで学習者の興味関心を引くことの重要性は強調してもしすぎることはない。

社会的実在性 (social reality)
 ことばによって形成された概念は社会的実在性を有するといえる。複数の人間が、心的なものが実在する (something purely mental is real) ことに同意することが人間の文化と文明の基礎をなしている。 (p. 99)

一人の心を作り出すには複数の脳が必要
 遺伝子が可能にしているのは、脳が物理的・社会的環境に応じて自分を書き換える (wire itself) ことにすぎない。周りの人々、あるいは文化こそが、概念に充ちた環境を維持し、それらの概念をあなたに伝えることによってあなたがこの環境で生きることができるようにしているのだ。後にあなたも次の世代の脳にあなたの概念を伝えることになる。一人の心を作り出すには複数の脳が必要なのだ (It takes more than one yhuman brain to create a human mind. p. 111)

情動も概念によって作り出される
 情動は、人がもっている情動概念を使って、自分の身体も含む世界に由来する物理的な信号 (physical signals) を元にして作り上げた (construct) 情動的な意味 (emotional meanings) を反映している。この情動概念の多くは、その人のことを気にして語りかけ、社会的世界 (your social world) を形成することの手助けをしてくれた人々の脳内にある集合的知識 (collective knowledge) から獲得したものである。 (p. 104)

補足:蛇足だが、ここで情動概念(および概念一般)は、心理的なものであると同時に社会的であり、個人的でありながら集合的でもあり、生物的・生理的であると共に認知的でもあることが示されているといえよう。

ことばなしでも概念は学べる
 ことばがあった方が概念の学習が容易になるのは当たり前だが、人は既知の概念を組み合わせること (概念結合 conceptual combination) により概念を学ぶことはできる。例えば多くのアメリカ人はドイツ語の Schadenfreude という語・概念を知らないが、それが示す経験を認識することはできる。 (pp. 104-105)

補足:外国語の概念を学ぶ際には、最初は母国語の概念をそのまま適用させたり組み合わせるだろうが、最終的にはその学習者の興味関心に即したコミュニケーションに参加することでその概念を習得すると言えよう。その習得した概念が「母国語話者の概念とまったく同じかどうか」といった論考に意味がないのは、概念が状況ごとのゴールに基づき、親族的類似性でもってまとめられることを思い起こせば理解できるだろう。もちろん両者にある程度の類似性が必要なことはいうまでもない。

概念の学習と使用は個人において全身的で全生涯的であるだけでなく、個人を超えて社会-歴史的でもある
 概念を学ぶ時、とりわけ情動概念を学ぶ時は、出来事を五感および内受容 (interoception) の感覚すべてを統合する。その概念を用いる時にも脳はそれらすべての感覚を考慮に入れる。 (p. 108)

補注:以上の意味で概念の学習と使用は全身的である。また、五感および内受容にはその人がそれまでの生涯で経験した記憶が伴うわけであるから、その意味で概念の学習・使用は全生涯的である。このように概念学習・使用は全身的・全生涯的に個人に関わっているが、周りの人々のそれまでの知識と経験が関与しているので社会-歴史的でもある。

他人に情動を認めるということ
 あなたは他人の顔に情動を見つけたり認識したり (detect or recognize) しているのではない。自分自身の身体の生理学的パターンを認識しているのでもない。あなたが行っているのは確率と経験に基づいてこれらの感覚の意味を予測し説明しているのである。 (You are predicting and explaining the meaning of those sensations based on probability and experience. pp. 108-109)

補足:ここからやや強引に一般化するなら、「認知とは自らの経験に基づいて、すべての感覚が意味することを予測し説明すること」となるだろう。


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2019/08/23

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この記事も「お勉強ノート」で、Lisa Feldman Barrettホームページツイッター)のHow Emotions Are Madeを、あくまでも私個人の関心に即してまとめたものです。とりあえず4章までの論点を書きました。

私はこれまで主にダマシオの論に基づいて情動 (emotion) について理解をしてきましたが、このバレットの本は情動について新たな理解を与えてくれています(まだ最後までは読み切れていませんが・・・苦笑)。記憶が新しく夏休みで比較的時間が取れるうちにまとめておこうと思った次第です。

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Damasio (2018) "The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures”


私が知る限りこの本には翻訳書がないので、以下は私なりに訳語を作ってまとめたものです。訳語を決める際には以下のサイトを参考にしましたが、私は神経科学を専門にしているわけではないので、いつものように誤りを怖れます。もし誤りがありましたらご指摘いただけたら幸いです。


How Emotions Are Made: Glossary

脳科学辞典

ライフサイエンス辞書






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指紋 (fingerprint)
 古典的な情動観 (the classical view of emotion) は、喜びや怒りといった情動には「指紋」があると想定している。(p. 3) この表現はもちろん比喩であり、Glossaryは「人が経験している情動を特定するのに十分な身体的変化の特異のパターン(顔、身体、声、脳)」 (a distinct pattern of physical changes (in the face, body, voice, and/or brain) that is said to be sufficient to determine which emotion someone is experiencing) と説明している。この古典的な考えが誤りであることを踏まえた上で著者が提示しているのが情動構築理論 (theory of constructed emotion) であり、その概要を以下で示す。

一つ一つが異なるのが正常
 数々の実験や調査が示しているのが、例えば「怒り」といった情動は、さまざまな機会や状況においても、ある個人の中でもさまざまな人間の中でも、実にさまざまな身体的反応 (bodily responses) を生み出したということである。すべてが同一であることではなく、一つ一つが異なることこそが正常な状態なのだ (Variation, not uniformity, is the norm) (p.15)

情動は、多様な事例を含むカテゴリーと考えるべき
 怒りや怖れや幸福といった感情は、それぞれが一つの感情であり、それぞれに指紋(=本質的特徴)があると考えるのではなく、多様な事例を集めた集合であるという意味で情動カテゴリーとして考えるべきだ (What we colloquially call emotions, such as anger, fear, and happiness, are better thought of as emotion categories, because each is a collection of diverse instances)(p. 23)

母集団思考 (population thinking)
 ダーウィンに由来する母集団思考 (population thinking) によるならば、動物の種 (a species of animal) といったカテゴリーは、中核に本質的条件をもたない互いに異なるそれぞれ独自の構成員から構成される母集団である (A category, such as a species of animal, is a population of unique members who vary from one another, with no fingerprint at their core.)。カテゴリーは抽象的で統計学的な用語として集団のレベルで記述できるだけである (The category can be described at the group level only 3.13人から構成されるアメリカ家庭が存在しないように、平均的な怒りのパターンと同じ怒りの事例はない。「指紋」はステレオタイプだと考えるべきだろう。 (p. 16)

訳注“Population Thinking”には「集団的思考」や「集団科学的思考」といった訳語も充てられているようですが、これは個々の事例を統計学的に抽象化した上で議論する考えだと私は理解したので「母集団思考」と訳しました。

なお、調べる中で、次の短い記事は面白かったので、以下にその一部を翻訳します。

Population Thinking by Dan Sperber

種は進化し、古い特徴が消え、新たな特徴が生じることがある。母集団主義者的観点(a populationist point of view)からすれば、種とは有機体の母集団 (a population of organisms) である。これらの有機体は、共通の「性質」 (a common “nature” ) によってではなく、血統においてつながっている (related by descent) から特徴を共有 (share features) している。このような理解に基づく種とは、時間的には連続しているが、地理的には分散した存在 (a temporally continuous, spatially scattered entity) であり、時間がたつにつれ変化するものである。.

母集団思考は容易に生物学の枠を越え、文化進化にも適用された。(Peter Richerson, Robert Boyd, and Peter Godfrey-Smithの議論を参照せよ)。文化的現象 (cultural phenomena) は母集団として考えることができる。それを構成する諸現象 (members) は、互いに影響を及ぼし合うから特徴を共有している。とはいえこれらの現象は有機体のように子孫を残すわけでも他の有機体のコピーとなるわけでもない (they do not beget one another the way organisms do and are not exactly copies of one another)。三つの例をあげよう。

(word)、たとえば「愛」とはなんだろう。語は、通常、音と意味を結合する言語の基礎的単位だとされている。確かにそう考えることはできるが、そのように理解された語は抽象概念であり因果力はもっていない (an abstraction without causal powers)。原因と結果を有しているのは「愛」という語の具体的な使用だけである。語を発語することがもつ原因の一つとして話者の心的過程 (mental processes) があり、結果の一つとして聴者の心的過程がある(ここではホルモンやその他の生化学的過程については割愛する)。 この話すという出来事 (speech event) は別の時間スケールで、話者と聴者が「愛」という語を発語し理解する能力を獲得した昔の様々な出来事と因果的に関係している ( is causally linked, on another time scale, to earlier similar events from which the speaker and listener acquired their ability to produce and interpret “love” the way they do)。この語はこういった習得と使用のエピソードを通じて言語共同体の中で残り続けるし変化も受ける (The word endures and changes in a linguistic community)

ゆえに「愛」という語は、人々および人々が共有している環境の中で因果的につながった出来事の母集団として研究できる。この母集団は数知れないほど多くのそのような出来事から構成されているが、それぞれは異なる文脈で生じてそれぞれの瞬間に適切な意味を伝えている。それにもかわらずこれらの出来事は因果論的に関係している。「語」についての学術的・非学術的な議論も、その語の意味も、それぞれが「愛」の母集団の周縁部で進化する心的・公的なメタ言語的出来事を構成する (Scholarly or lay discussions about the word “love” and its meaning are themselves a population of mental and public meta-linguistic events evolving on the margins of the “love” population)。すべての語も同じように、単なる言語の抽象的単位と考えないこともできる。語を心的・公的出来事の母集団と考えるのだ(All words can similarly be thought of not, or not just, as abstract units of language, but as populations of mental and public events)。

なお、この母集団思考はウィトゲンシュタインの「親族的類似性」 (family resemblance) と重なるところの多い概念であることは言うまでもないでしょう。

関連記事
ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

追記(2019/10/03)
その後、この "population thinking"は「個体群的思考」と訳した方がいいのではないかとも思えてきました。少しずつ勉強を重ねてゆきたいと思います。

情動の一事例 (an instance of emotion)
 喜びといった情動はカテゴリーであり、私たちがそれを経験したと感じる・認識した場合は、「喜び」という情動そのもの(あるいはカテゴリー全体)を経験したのではなく、その情動の一事例 (an instance of emotion) を経験したのである。したがって「喜び」といった概念あるいは語は、情動カテゴリー (emotion category) として考えるべきである。 (p. 39)

縮重 (degeneracy)
 ある感情カテゴリー(たとえば「怒り」)に共通して活動しているニューロン集合 (a set of neurons) (=「怒り」の指紋となるニューロン集合)が存在しないことは、神経科学の縮重 (degeneracy) によって説明できる。縮重とは「多くが一つに」 (many to one) ということであり、ニューロンのさまざまな組み合わせ (combinations) が同じ結果(outcome) を出しうるということである。(p. 19)

コアシステム (core systems)
 縮重の「多くが一つに」とは反対の「一つが多くに」の働きを示すのが脳のコアシステムである。一つのコアシステムは多くの種類の心的状態を生み出すことに関与 (participate) している。(p. 19)

等機能性 (equipotentiality) ではない
 しかしいかなるニューロンもいかなる機能をもつといった等機能性を主張しているわけではないことには注意されたい。(p. 19)

内受容 (interoception)
 内受容とは、内部器官・組織、血中のホルモン、免疫システムなどでのすべての感覚を脳が表象したものである (Interoception is your brain’s representation of all sensations from your internal organs and tissues, the hormones in your blood, and your immune system) 。内受容は、情動の中核的要素 (the core ingredients of emotion) であるが、その情動を感情として知覚したものは、喜びや悲しみといった情動よりもはるかに単純な、快-不快や平穏-興奮 (from pleasant to unpleasant, from calm to jittery) あるいは特に何でもない (completely neutral) といった非常に単純なものにすぎない。 (p. 56)

固有脳活動 (intrinsic brain activity)
 私たちが生まれてから死ぬまで、外からの刺激があろうとなかろうと、私たちに意識があろうとなかろうと、脳においては常にニューロンが互いを刺激している。

固有ネットワーク (intrinsic network)
 固有脳活動は固有ネットワーク (intrinsic network) で行われるが、この固有ネットワークは常に同じニューロンによって構成されているわけでなく、スポーツでプレーをするメンバーがしばしば代わるように、異なるニューロンがネットワークを構成する。 (p. 58)

固有脳活動が行うこと
 固有脳活動は、心臓や肺を動かしたりすることだけでなく、シミュレーションとして総括できる夢、白昼夢、想像、注意散漫 (mind wandering)、空想 (reverie)といった経験を可能にしているだけでなく、内受容の経験も可能にしている。

補記(2020/02/14):その後出た翻訳書では、「内因性脳活動」と「内因性ネットワーク」という翻訳語が使われていました。

予測 (prediction)
 頭蓋骨の中に閉じ込められた脳は断片的な情報から、今何が起こっているかを知らなければならないが、その時に脳が行っているのは予測である。脳は、過去の経験を参照しながら、微細な (microscopic) なレベルでのニューロン同士の更新を行い、現在起こっているのは何なのか、次には何が起こりそうなのかを予測する。 (p. 59)

予測がなければ生存は困難
 莫大な情報を帯びた複合的な世界の中で生き残るには、何らかの刺激を得てから行動するのでは遅く、常に予測していなければならない。 (p. 59)

「自由意志という幻想」 (“the illusion of free will”)
 予測は脳内で常に行われるので、次の行動も本人が自覚する前からその開始のための準備が脳内で行われている。このため実験をすれば意志より前に次の行動のための脳内活動がなされていることが判明する。 (p. 60)

身体の動きは身体内の動きを常に伴う (Any movement of your body is accompanied by movement in your body)
 身体が動けば、呼吸にせよ血流にせよ身体内に必ず何らかの変化が生じる。(p. 66)

脳内の内受容ネットワーク
 内受容ネットワーク (interoceptive network)は、身体内の変化を内受容の変化として捉える。(p. 66)

脳にとって身体は世界の一部である
 頭蓋骨の中に閉じ込められた脳からすれば、身体は説明することが求められている世界の一部である。 (p. 66)

内受容ネットワークを身体予算領域と一次内受容皮質の二つで考える
 単純な説明として、内受容ネットワークを身体予算領域と一次内受容皮質の二つで考えよう。(p. 67)

身体予算領域 (body-budgeting region)
 身体予算領域は、身体が次にどのように動くかの予測に基づき身体各部にそのために必要な内部環境 (internal environment) を整える命令を出す領域である(身体予算領域とは比喩に基づく用語であり、これは「辺縁」領域とも「内臓運動」領域 (“limbic” or “visceromotor” region)とも呼ばれる)。(p. 67)

Glossary “body budget” は、「脳が、身体内でどのようにエネルギーを振り分けるかということに関するメタファー。科学的にはアロスタシスと呼ばれる」 (a metaphor for how your brain allocates energy resources within your body. The scientific term is allostasis)と説明されている。

一次内受容皮質 (primary interoceptive cortex)
 内受容ネットワークの二つ目の領域は、一次内受容皮質であり、これは内受容の感覚を脳に表象する働きをもつ。 (p. 68)

内受容予測 (interoceptive prediction)
 身体予算領域と一次内受容皮質は予測ループ (prediction loop) を構成する。身体予算領域が次の動きとそれに必要な身体資源を予測(内受容予測)すると、一次内受容皮質はその予測と実際の身体内の感覚を比較し、予測エラー (prediction error) を修正し、内受容感覚 (interoceptive sensation) を完成させる。 (pp. 68-69)

情動を生み出すのは身体予算領域
 情動 (emotion) は身体予算領域から生じる。こおで大切なのは、身体予算領域が情動に反応 (react to emotion) しているのではなく、身体予算領域が視覚・聴覚・思考・記憶・想像などと並んで、情動を予測し準備しているということである。 (pp. 69)

情動が個人的に意味あること (personally meaningful)になる
 身体予算領域を活性化し最後には情動を発動させる出来事が個人的に意味あることとなる。

補足:予めどこかに「意味」があって、それが情動を引き起こすのではない。身体内に動きが生じることによって意味が生じるのであり、この点からすれば意味は常に身体的である。(p. 70)

身体変容 (affect)
 さまざまな情動に分化する以前の根源的な内受容を感じること (feeling) は、身体変容と呼ばれる。身体変容には直観 (intuition) や虫の知らせ (gut feeling) も含まれる。身体変容は、快-不快に関する快適価 (valence) と、平穏-興奮 (calm or agitated) に関する覚醒価 (arousal) の二つの次元をもつ。(p. 72)

訳注 “affect”を私はこれまでダマシオにならってemotion(情動)とfeeling (感情) を総称するという意味で「情感」と訳してきたが、この本を読んでもスピノザの『エチカ』の英語版を読んでも、 “affect” とは身体の変化によって影響を受けている (=affected) 人間の情動・感情という意味が強いように思えるので、ここでは思い切って「身体変容」と訳してみた。

補記(2020/02/14):その後出た翻訳書では、「気分」と訳されていました。たしかに日本語としては「気分」の方が自然です。

Glossary: “affect”は、「快と不快、平穏と興奮の間で常に変動しているもっとも単純な感情」 (Your simplest feeling that continually fluctuates between pleasant and unpleasant, and between calm and jittery)と説明されている。

身体変容は意識も含むすべての生命活動の基礎的側面
 じっとしていても寝ていても意識的であっても、身体変容は人間が生きる上での基盤となっている。 (p. 72)

身体変容は身体変容性ニッチに目を向けさせる
 身体変容によって身体予算のあり方がバランスを欠いていることがわかれば、脳はそれが何によって生じているかを説明しようとして、このような時の打開策には何があったかを過去の経験の中から探し出す。そこで見つけた、身体予算と身体変容のあり方を変えてくれると思われる対象や出来事 (objects and events) 身体変容性ニッチ (affective niche)となる。当座はこのニッチ以外の対象や出来事はそのヒトにはノイズにしか思えなくなる。 (p. 73)
Glossary: “affective niche” は「今この瞬間に身体予算と何らかの関連をもっているすべて」 (everything that has any relevance to your body budget in the present moment)と説明されている。

身体変容に基づく実在主義
 自分の身体変容が何によって引き起こされたのか自覚できない時には、その身体変容は世界に関する情報であると考えてしまう。これが身体変容に基づく実在主義 (affective realism)  である。これは一種の素朴な実在主義であり、よく見られるが強力な働きをもつ。これによって人は、自分の感覚は常に世界についての正確で客観的な表象であると信じてしまう (a common but powerful form of naïve realism, the belief that one’s senses provide an accurate and objective representation of the world) (p. 75) しかし嫌な気持ち (a bad feeling) が常に何かがおかしいことを意味しているわけではない。それが意味しているのは、単に身体予算が枯渇しているということかもしれない。 (p. 76)

訳注75ページの脚注部分でaffective realismは一種の錯誤として描かれているように思えるが、Glossaryでは「内受容が視覚や聴覚やその他の知覚に影響を与える現象」(the phenomenon that interoception influences what you see, hear, and otherwise perceive) と中立的な説明が与えられている。

感情は脳の予測に基づく
 人は脳が信じていることを感情として認識する。身体変容の主な出どころも脳の予測である (In short, you feel what your brain believes. Affect primarily comes from prediction.) 。人が感情として認識することはすべてその人の知識と過去の経験からの予測に基づいている。人はまさに、自らの経験を作り上げる建築家である (Everything you feel is based on prediction from your knowledge and past experience. You are truly an architect of our experience. Believing is feeling) (p. 78)

内受容は外世界よりも影響力をもつ
 刻一刻の内受容は、外世界よりも人の知覚そして行動に対して影響力をもつ (Interoception in the moment is more influential to perception, and how you act, than the outside world is.) (p. 79) 脳は身体予算に耳を傾けるように配線されている。運転手席にいるのは身体変容であり、合理性 (rationality) は乗客であるにすぎない。 (p. 80)

どんな決断も行為も内受容と身体変容から自由でありえない
 解剖学的にも、人間の脳が内受容と身体変容から自由に決断や行為をすることはありえない。人が構築するあらゆる思考・記憶・知覚・情動には身体の状態に関する何らかのもの、少しばかりの内受容が含まれている (Every thought, memory, perception, or emotion that you construct includes something about the state of your body: a little piece of interoception.) (p. 82)

脳は過去の身体状況に基づいて予測をする
 視覚的予測は「前に私がこの状況 (situation) にいた時に見たものは何か?」という問いに答えてなされるのではない。問いは「私の身体がこの状態だったとき (when my body was in this state) に見たものは何か?」である。 (p. 82)

補注:外国語習得で言うなら、丸暗記力した単語が実際にはなかなか使えないのは、丸暗記された単語は、その単語にふさわしい身体的記憶が伴っていないから。それに対してその単語に適切な情動的な体験を伴って単語を身につけた--そうまさに「身につけた」--場合は、その身体的記憶に近い状態が再び生じた時、すなわちその単語使用にふさわしい状況に身体がなった時に、自然と、どこからともなくその単語が口から出てくる。日本の英語教育では、非身体的な丸暗記単語学習が当たり前となっているし、英語教師にもこのような丸暗記で得た知識を「語彙力」と思っている人が少なくないので、このような身体と認知の関係を語ってもなかなか理解してもらえない。

ちなみにこのような身体的側面について述べた拙著も、第三刷を出版することができました。「少なくとも10年間は読む価値のある本を書こう」と思っていたので、これまでこの本をお読みくださったすべての皆様に感謝すると共に、まだ手にとっておられない方にはぜひ一読していただけたらと思います。また、以前読みかけて「難しい」と読み止めてしまった方も、こういった身体的側面の重要性について学んだり、どんどん各種試験が権力をもっていく過程を理解したりすると、この本も面白く読んでいただけるかもしれません。



内受容が世界の意味を作り出す
 内受容がなければ物理世界は意味のないノイズ (meaningless noise) となってしまう。内受容に基づく予測 (interoceptive prediction) は、身体受容の感情 (feelings of affect) を生み出し、今この瞬間に何を気にするか (what you care about in the moment) --身体受容性ニッチを決定する。脳の立場からすれば、身体受容性ニッチにあるものはすべて身体予算に影響を与えうる重要な事柄であり、その他のことは重要ではない。(pp. 82-83)

人の環境はその人自身が作り出している
 あなたはあなたが生きる環境を構築している (you construct the environment in which you live.) 。環境はあなたとは無関係に外の世界に存在しているのだというのは神話に過ぎない。 (p. 83)

内受容と身体変容だけでは具体的な予測ができない
 実生活で有用な具体的な予測をするためには内受容からの身体変容だけでは不十分である。身体変容よりもはるかに複合的 (complex) な感情を認知することが必要である。言い換えるなら、脳がもっと具体的な行動を取れるように、あなたは身体変容を意味あるものにかえなければならない (You must make the affect meaningful so your brain can execute a more specific action)。その一つの方法が情動の一事例を構築すること (construct an instance of emotion) である。(p. 83)
補注:上では身体変容の一例としての "a gut feeling"に「虫の知らせ」を充てたが、そのことばに即して説明すると、虫の知らせ(あるいは直観)といった身体変容は、せいぜい「善いか悪い」や「大変か大変でないか」ぐらいのまだまだ十分に特定できないメッセージにすぎない。虫の知らせを感知した人は、「はて、これはどういうことだろう」と過去の記憶を探ったりしているうちに、より具体的な情動を認識するようになり、その情動からこれからどうするべきかという予測をより細かなものにしてゆく。身体変容から情動を知覚し、その情動の知覚(ということは「感情」(feeling))と共に思考が深まってゆくのが私たちの認知とまとめられるだろう。
情動的細密性 (emotional granularity)
身体変容をどのように事細かに情動として分化 (differentiate) することができるかという情動的細密性 (emotional granularity)  (p. 3) は、生きる上でも重要である。







TED Talk by Lisa Feldman Barrett
You aren't at the mercy of your emotions: your brain creates them





追記: 上のTED動画につながっていた下の歴史家によるTED Talkも面白かったのでついでに紹介しておきます。


TED Talk by Tiffany Watt Smith
The history of human emotions




柳瀬陽介 (2023) 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」『早稲田日本語教育学』第35号 pp.57-72

  この度、『早稲田日本語教育学』の第35号に、拙論 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」 を掲載していただきました。同号は「人工知能知能時代の日本語教育」をテーマにしたのですが、それに伴い、日本語教育と英語...