2019/08/23

ジョセフ・ヘンリック著、今西康子訳 (2019) 『文化がヒトを進化させた』白楊社、Joseph Henrich (2016) The secret of our success. New Jersey: Princeton University Press




この本の著者は、航空宇宙工学と人類学の学士を得たあと、二年間エンジニアとして働いて、大学院 (UCLA) で人類学を学び直し修士号と博士号を取得しました。この本は、「文理融合」などということばを使うのがばからしく思えるほど、人文社会的研究と自然科学的研究をたくみに使い分けて統合した書です。

以下はいつものように私の「お勉強ノート」です。翻訳書を読んで気になった箇所を原著で確認した後にまとめを作成しました。忠実な翻訳ではありません。まとめの項目の選択と順序はきわめて恣意的なものですし、訳語も翻訳書とは異なっているところも多いので、興味をもった方はぜひ翻訳書と原著をご参照ください。※印以下の挿入は私の蛇足です。


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1 人類の成功の秘密は、文化性と社会性による集団脳
 人類が他の動物よりもはるかに成功したのは、ヒトが個体として優れているからというよりも、他人から学ぶことに長けるという意味で文化的 (cultural) であり、規範と共につながった大規模集団で生きることができるという意味で社会的 (social) であったからである。文化性と社会性によりヒトは集団脳 (the collective brains) をもつにいたった(25頁、p. 5)。
 
※ 近代的学校教育は、学習をもっぱら個人的なものとして扱ってきて、様々な制度や慣習も個人学習向けにできているが、やはり人間の知性の社会性と文化性を重んじた学校教育の制度や慣習を再生するべきではないだろうか。ちなみに西川純先生の『学び合い』は、このあたりを十分に自覚した教育実践であるし、その他の優れた教育実践も子どもの社会性を重視している。

関連記事:
西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊
木村泰子(2015)『「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』小学館、他3冊の木村先生の著作


1.1 個人的学習、社会的学習、文化的学習
 個人学習 (individual learning) とは、一つの個体だけで環境を観察し試行錯誤して学ぶ場合を指す。社会的学習 (social learning) とは、他の個体の存在によって個人学習が影響を受けている状況を意味する。文化的学習 (cultural learning) とは、社会的学習の中でも特に個体が他の個体からの情報を得ようと努力し、他の個体の選好・目的・信念・戦略について推測したり、さらには行動をそのまま模写 (copy) したりする場合を指す(35頁、pp. 12-13)。

※ ノートテイキングなどの個人学習のやり方はしばしば教えられているが、他の学習者から学ぶ文化的学習のうまいやり方はあまりやられていないように思える。そもそも学校教師にも文化的な学習をするような慣習や制度を失いつつあるようにも思える。

1.2 ヒトの幼児が類人猿に勝っているのは社会的学習のみ
 ある実験によると、認知能力 (cognitive abilities)において、ヒトの幼児はチンパンジーとオランウータンより社会的学習においてはずばぬけて勝っているが、空間認知や両概念や因果関係に関する能力についてはほぼ同等であるにすぎない(37-38頁、p. 14)。

※ この知見と、後に出てくるネアンデルタール人との比較はとても示唆的。英語教師としては、英語圏文化に世界の人々がどんどんなびいて、英語によるコミュニケーションという集団的知性の流れに参入していくことには一理あると言わざるを得ない。後に紹介するように、集団の規模が大きくその中でのコミュニケーションの密度が高ければ高いほど社会的学習・文化的学習は促進されるだけである。



2 文化-遺伝子共進化 (culture-gene coevolution)
 文化はヒトが「自らをプログラムすること」を可能にしている (“self-programmable”) が、それにとどまらず、文化は長年にわたってヒトに影響を与えてヒトの生理や心理を変えるし、さらには遺伝的進化にも寄与する(27頁、p. 7)。文化進化と遺伝子進化は互いに影響し共進化している。

※ この本での「文化」は極めて包括的な概念なので、分析的に考えていく必要があるが、英語という言語と英語圏(といっても正確にはどこのことだ!)の文化の結びつきをどのようにとらえた上で英語教育を進めてゆけばいいのだろう。両者の分離は基本的に可能と考えるか不可能とするかで大きく立場は変わってくる。

2.1 文化的説明は進化的説明の一つである
 ヒトを説明する場合に、文化的説明と進化的(もしくは生物的)説明を対立させるの適切ではない。進化による自然選択 (natural selection) による結果、他人から学ぶことに長けた個体の遺伝子が残りやすくなり、その遺伝子を引き継いだ個体がさらに文化を進化させたが、この文化進化は非遺伝的な進化プロセス (nongenetic evolutionary processes) によるものである。文化的説明 (cultural explanation) は、進化的説明 (evolutionary explanation) の一つのタイプである(65頁、pp. 34-35)。

2.2 ヒトの脳容積の遺伝的進化は急速である
 500万年前のヒトの脳のサイズはチンパンジーと同じ350 cm3であったが、現在のサイズは1350 cm3である。しかもおそらくここ200万年で500 cm3から現在のサイズに増えたと考えられる。これは文化的説明抜きの進化的説明では考えがたいスピードである(99頁、p. 62

2.3 ヒトの消化器官は食物調理文化と共進化
 ヒトは他の霊長類と比べて、消化器官である口や胃や大腸は非常に小さいが、栄養吸収器官である小腸は同じようなサイズである。これは人が火や調理方法を文化的に獲得した結果だと考えられる(104-106頁、p. 65-66

2.4 エネルギーを消費する脳と身体の脆弱化は道具と共進化
 人の脳は自らが摂取するエネルギーの20-25%を消費するが、他の霊長類の脳は8-10%、他の哺乳類の脳は3-5%を消費するにすぎない。これほどエネルギーを使う脳は、ヒトの身体を脆弱にするほかないが、その脆弱化はヒトが文化的に道具を使用することによって補われている(111頁、p. 70

2.5 長距離走が可能な身体と狩猟文化も共進化
 ヒトは熱疲労を起こす多くの動物を3時間以上追い続けることによってしとめるが、このような長距離走は、人が体毛をなくすような遺伝的進化をしたこと、および容器で水を持ち運びしたりうまく水の在り処を見つけたりする文化の進化によって可能になった(113-117頁、pp. 71-75

2.6 白い肌と青色や緑色の瞳は農耕技法と共進化
 赤道直下では皮膚中の葉酸が破壊されるのを防ぐためメラニン色素の多い黒い肌が有利だが、日照量の少ない高緯度地域では黒い肌はビタミンD欠乏を招く。それに対応するため例えばイヌイットは魚や海洋動物中心の食事文化を身につけたが、バルト海沿岸地域では農耕に成功し、魚などのビタミンDが豊富な食物を食べなくなった。それに対する適応として白い肌や薄い瞳の色をもつ人々が自然選択されることとなった(130-131頁、pp. 83-85

2.7 過度のアルコール摂取を抑制する遺伝子は稲作を早く始めた地域に多い
 アルコールを速く分解するがアセトアルデヒドを作り出し不快感を生み出す遺伝子はアルコール依存症を防ぐ機能がある。この遺伝子は酒を作り出すもととなる米を早くから作り始めた地域の人々に多い(136頁、p. 88

2.8 ミルク摂取を可能にする遺伝子は家畜文化と共に広がった
 ヒトはもともと基本的に他の哺乳類の乳は飲めないものだが、その摂取を可能にする遺伝子をもつ人々は家畜文化の普及と共に増えた。またチーズやヨーグルトを作る文化は、はそのような遺伝子なしでミルク摂取を可能にする文化である(136-141頁、pp. 88-92)。

※ 道具や習慣といった文化が一世代内に人間を非遺伝子的に変えるだけでなく、世代をまたぐうちに遺伝子的にも変えるわけであるが、前者の非遺伝子的な変化が後者の遺伝子的変化のスピードをはるかに超えるものとなり、文化変化に対応することが難事となった現代では、下で紹介されるように誰をモデルとするかを次々に変化させることが重要なのだろうか。それともこのように変化が激しい時代だからこそ、何千年・何百年と続いた伝統文化をモデルとするべきなのだろうか。(まあ、その両方だろうが)。




3 選択的文化学習(モデルに基づく文化学習)
 ヒトの文化学習は、誰から学ぶかを重視する選択的な文化学習 (selective cultural learning)、あるいは「モデルに基づく」文化学習 (“model-based” cultural learning) である。
69頁、p. 38

3.1 技能にすぐれ成功している他人
 モデルに選ばれやすいのは、もちろん技能 (skill) と成功実績 (success) をもつ者である(69頁、p. 38)。

3.2 名声をもった他人
 多くの人々が既に注目している者をモデルにすること(=他人が誰かを真似をしている文化学習を二次的に文化学習 (second-order cultural learning) して、そのモデルを自分のモデルとすること)は効果的であり、それゆえヒトは名声 (prestige) を重視する(75頁、pp. 42-43)。

3.3 多数派
 多くの人々が取っている行動は、うまいやり方である確率が高い集団の知恵 (the wisdom of crowd) なので、多数派の行動をそのまま取り入れる同調伝達 (conformist transmission) はそれなりに有効である(83頁、p. 48)。

3.4 自分と性や民族を同じにする他人
 自分と性や民族が同じ者は、自分が生きる上での手本として優位である確率が高い(77頁、p. 44

※ きわめて単純に考えれば、以上のたいていの項目において、日本人英語学習者は英語学習の適切なモデルを潤沢にもっているとはまだいいがたいのではないか。他の日本人の英語のアラをやたらと指摘することによって自らの優位性を誇示しようとする「英語マニア」は3.13.2の点でのモデルのもつ可能性を減じている。3.3の多数派模倣からすれば、多くの日本人英語学習者が「英語はできなくて当たり前」と思いこんでいるのも不思議ではない。近年はアジア圏で英語交流したりすることが増えてきているようだが、それは地理的近接性や費用の安さといった点だけではなく、3.4の傾向を無意識に拡張的に適用しているのかもしれない。

3.5 年齢が少し上か長生きしている他人
 自分より少しだけ年上の者は、自分が真似しやすい技能をもっている確率が高いし、長生きしている者はそれだけ環境の試練に耐えたという点で真似する価値がある(81-82頁、pp. 46-48

※ この点、学習者にとって年長者である教師の説明に敬意は払うべきであるが、実のところわかりやすい説明は同輩や先輩によるものであることが多いのかもしれない。『学び合い』の実践はこの想定に基づいている。学校教育は教師の教える力だけでなく、もっと学習者が他の学習者に教える力についても注目するべきだろう。

3.6 心の理論と文化的知性仮説
 他人から学ぶ場合は、そのモデルが心に抱いている目的・選好・同期・意図・信念・戦略 (goals, preferences, motivations, intentions, beliefs, and strategies) をうまく推測する心の理論 (theory of mind) もしくはメンタライジング (mentalizing) が重要になる。これは心の理論が他人を操るために発達したというマキャベリ的知性仮説 (the Machiavellian intelligence hypothesis) とは異なる文化的知性仮説 (the cultural intelligence hypothesis) である(86-87頁、pp. 50-51)。

※ 読むことおよび書くことは心の理論を発達させるための格好の機会であるが、近年の英語教育のリーディングもライティングも、客観試験用の定型的な読み書きに傾斜し、他人の心を読むことを軽視しているように私には思われる。スピーキングやリスニングにいたっては一層のこと思考を伴わない自動的な技能の獲得の方に傾いている。もし今後の情報技術の発達が自動的な外国語能力を大幅に支援できるようになれば、より重要なのは他人の心を的確に推測した上で文章を理解したり産出したりすることとなるのではないか。近年の英語教育改革は英語教育の軽薄化であるようにすら私には思える。

3.7 過剰模倣
 他の個体を真似する実験では、人間はしばしば物理的な因果関係からすれば不必要なはずの手順まで過剰模倣 (overimitation) するが、これはチンパンジーには見られない行動である。ただこの過剰模倣には、有力者と同じような行動をしてその者との親近性を示すという機能がある(165-167頁、pp. 108-110)。

※ ファンはヒーローのいたるところを真似しようとするのは、こういった人間の文化-遺伝子共進化の帰結の一つだろう。最初はともかく過剰模倣し、そのうちに取捨選択していくというのは「守破離」ではないが、それなりの合理性をもった戦略といえるかもしれない。もちろん過剰模倣を金科玉条にしてしまって延々と続けるのは愚かであるが。




4 社会規範の創出
 多くの人が有力者のやり方を真似るようになれば、そういった人々の相互作用から社会規範 (social norms) が生まれてくることは、文化進化ゲーム理論 (cultural evolutionary game theory) が告げることでもある(218頁、pp. 143-144

4.1 社会規範が共同体を作り上げる
 共同体ができてからそこに社会規範が付け足されるのではなく、社会規範が共同体を作り出すというべきだろう(233頁、p. 154

※ 強引な読み替えをここでも性懲りもなくやると、クラスづくりは、教師がまずは少数の学習者に望ましい行動を誘発させ、それを評価し模倣することを奨励する中で望ましい行動が広く見られるようになり、いつのまにかそれが「望ましい」行動から「やるべき」行動となる社会規範が芽生え、クラスが学ぶ共同体になってゆくということだろうか。もちろん、ここでも教師一人の教示や説諭(あるいは脅迫)ではなく、学び合う学習者の集団の力を大切にするべきである。ちなみに『学び合い』では「子どもたちは有能である」という前提をもっているが、ここでは子ども「たち」と言っていることが決定的に重要であろう。

4.2 社会規範は集団間競争で広がる
 社会規範が勧める望ましい行動には利他的で個人の直近の利益に結びつかないものも多いが、そんな非利己的な行動が続けられる集団は、利己的な行動ばかりが行われる集団をいつか圧倒する。このような集団間競争に勝つことにより、非利己的な行動も後世に伝えられる(252-253頁、p. 167)。

4.3 集団間競争がないと社会規範は崩れる
 集団間の競争という選択圧がなくなれば、非利己的な行動が多くなる(256頁、pp. 169-170

※ たまたま先日読んだ論説は、冷戦対立がなくなることで、ロシア(旧ソ連)においてもアメリカにおいても、自己利益よりも事実を大切にするという文化が蔑ろにされるようになったという説明をしていた。一切の競争がない状況というのはユートピアでなくディストピアなのかもしれない。

Toxic Nostalgia Breeds Derangement


4.4 自己調教と規範心理学
 規範を犯せば制裁が加えられ、守れば報酬が得られる文化が続く中で、人間は自己調教 (self-domestication) するようなり規範心理学 (norm psychology) が生まれた。規範心理学にしたがい、ヒトは直感的に社会にはルールがあるはずだと想定し、ルールや規範がわかればそれをできるだけ内面化 (internalize) しようとする(282頁、pp. 188-189)。内面化の例として考えられるのが最後通牒ゲーム (Ultimatum Game) におけるヒトの行動である。このゲームにおいては(少なくとも面識のない相手に対しては)できるだけ低い金額を提示することが合理的な行動であり、実際チンパンジーもそのように合理的な行動をするが、ヒトの場合は大抵のばあい半額の金額を提示する(286頁、pp. 191-192)。





5 累積的文化進化 (cumulative cultural evolution)

5.1 累積的文化進化というルビコン川
 おそらく200万年前にとって人類の遺伝的進化の最大の駆動力 (primary driver of our species’ genetic evolution) が、文化進化 (cultural evolution) になった。いったん文化的情報が累積して文化的適応 (cultural adaptation) がさかんになると、遺伝子への選択圧 (selection pressure on gene) は、いかに個体が集団の中にある適応のための技術や慣習を獲得し活用できるかということになる。遺伝的進化はヒトに他人から学ぶことができる脳を準備したが、そこで文化的進化が始まり文化が累積するようになった。そのような環境では文化進化に長けた個体が適者となり、文化進化が遺伝進化を促進するようになった。このことをもってヒトは他の生物とは明らかに異なる進化を遂げるようになり、いわばルビコン川 (the Rubicon) を渡ったといえるだろう。(95頁、p. 57

5.2 集団の規模と社会的つながり
 累積的文化進化(ひいては遺伝進化)において重要なのが、集団の規模と集団の中の個体の社会的つながり (the size of the group and the social interconnectedness among these individuals) である。個体の数が多ければ多いほど幸運な偶然も増えるだろうし、結びつきが強ければ強いほどよい成果は普及するだろう。この二つの要因は、個体の頭のよさ以上に重要である。(318頁、p. 213

※ 繰り返しになるが、これが英語圏(=英語によるコミュニケーションによって受容な活動を行う共同体)の力を強くしている要因だろう。英語圏の成果は翻訳すればよいだけだと主張することも可能であるが、どんな要因とその組み合わせがよりよい環境への適応を生み出すかはわからない以上、文化の成果物だけでなく文化生成のコミュニケーションという営みに入っていた方が有利ではあろう。

5.3 イノベーションに天才はいらない
 集団脳の重要性がわかれば、現代のさまざまな社会でイノベーションにおける差が生じている理由がわかる。イノベーションとは、個々人の頭の良さや、組織が与えるインセンティブの問題ではない。イノベーションとは、多くの個人が知識の最先端で自由に交流し、意見を交換し、異論を述べ、互いから学び合い、協働し、見知らぬ人も信頼し、間違うことを、どれだけ進んでやることができるかという問題である。イノベーションには特殊な天才や集落が必要なのではない。必要なのは、知性が自由に相互作用する大きなネットワーク (a big network of freely interacting minds) だ。これを生み出すには人々の考え方 (people’s psychology) が変わらなければならない。考え方が代わるためには社会の規範や信念が変わらなければならないし、それらを許容したり促進したりする公式的制度も変わらなければならない。(480頁、pp. 325-326

※ ここで大学関係者なら誰もが思いつくことが、近年の日本政府はイノベーションを起こすため「選択と集中」と称して、特定の研究分野だけに予算を集中させている。その分野は、研究の素人にもわかるぐらいにこれまで目覚ましい成果が認められたものであることが多いが、そのような分野ではしばしばもはやブレイクスルーは期待できない、血で血を洗うような「レッドオーシャン」になっている。
 イノベーションを行うには、上に書かれているように、また多くの科学者が再三再四警告するように、研究の裾野を広くし研究者が自由に、直近の成果にこだわることなく知的交流を行うことだろう。ある程度創造的な活動を行っている者ならこのことは直感的にわかるはずだが、日本の多くの権力者がこのことをわかっていないとしたら、それは彼ら・彼女らはこれまでの人生で創造的な活動に携わったことがないことを示しているのかもしれない。

5.4 ネアンデルタール人はホモサピエンスよりも賢かった?
 ネアンデルタール人の脳容積は現人類の脳容積よりも大きかったことが知られている。それにも関わらず生き残ったのは現人類なので、研究者は現人類の知性に特殊な要因をもっていたと仮定してきたが、現人類は生まれついての賢さはネアンデルタール人より劣っていたが、累積的文化進化を可能にする集団脳において勝っていたと考えることも可能だろう。(336頁、p. 226

※ 何度も繰り返すが、生き残るための適応という創造を行うためには、文化的交流を重んじる共同体で育つ方が、生まれつきの頭の良さよりも重要かもしれないという論点は重要。いわゆる頭のいい人の中には、接してきた文化資本によって作られた習慣という「第二の天性」そうなっている人も予想以上に多いのかもしれない。そうなると、公教育における学校では、できるだけ「自由に交流し、意見を交換し、異論を述べ、互いから学び合い、協働し、見知らぬ人も信頼し、間違うこと」を推奨する文化を提供することが大切であろう。
 だが、現実では、個々の子どもが既に有している経済資本・社会関係資本・文化資本の格差を助長し、一部の恵まれた子どもだけを伸ばして、その子たちがさらに有利になるように選抜することを、試験制度による「能力主義」という考え方で正当化しているのではないか。

5.5 コミュニケーション手段の一つひいては文化-遺伝子進化の中での言語
 言語を、あくまでもコミュニケーション文化全体の中で考えること、さらにはそのコミュニケーション文化を文化-遺伝子共進化の中に位置づけて考えることが重要。(345頁、p. 232) 

※ 日本の英語教育を考える際には以下のようなアプローチがあるだろう。

(1) 所定の能力試験を前提として、その中でどれだけ点数を上げるかを考える。
(2) 現時点での社会構造を前提として、その中で日本語話者が英語を使うことの意味を考えた上で英語教育のあるべき姿を考える。
(3) 現代社会における文化進化の加速を前提として、日本語話者が英語を使うことの意味を考えた上で英語教育のあるべき姿を考える。

これらのうち、番号が少なくなればなるほど、確かな結果を導き出しやすいし、それゆえ現状の制度下では「研究」として認められやすいが、(3)の意義も忘れるべきではないだろう(と言いつつ、この文章を私は非公式で権力獲得に直結しないブログという媒体のために文章を綴っている 苦笑)。

5.5.1 進化のルビコン川は言語の登場ではない
 進化のルビコン川を言語の出現に求める説がこれまで強かったが、その考え方にも再考が必要なのではないか。(381頁、p. 256

※ 英語教育においてもチョムスキーの言語観の影響は強かったが(少なくとも私も大きく影響されたが)、「個人心理学」や脳での実在性を強調する実在論と共に、いわゆる「言語の自律性」についても再考するべきなのかもしれない。

関連記事
ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房

5.6 文化による変化は、遺伝変化より速く遺伝進化をもたらす
 私たちは文化的な種 (a cultural species) であることを十分に認識するとわかることは、短期的には、制度・テクノロジー・言語は、私たちの心理的バイアス・認知的能力・情動的反応・選好と共進化していることである。また長期的には、遺伝子はこのように文化的に構築された世界に適応するために進化していることであり、また、この進化のあり方が人間の遺伝子進化の最大の駆動力であることである。(464頁、p. 315

※ 学校とは文化的制度であり、必然的に社会的であり、人々の結びつきを強く大きなものにする使命をもっているはずである。だがその学校がますます「個人化」 (individualization) の潮流の中で、学習者の社会的発達をおろそかにしている。この傾向を「仕方ない」現代社会の「条件」とみなすことは、下のバウマンのことばにも示されているように自分で自分の首を絞める行為であろう。

「条件」は、それらが人間の選択を超えたものであると宣言されて受け入れられることによって、目的と手段という枠組みの生きてゆくため行為とは別のものとされ、その結果、人間の選択の幅は狭まってしまう。W. I. Thomasが言ったように、人々が何かを真実だと仮定すれば、その仮定ゆえにそれは真実となりがちである(もう少し正確に言うなら、人々の行為の累積的な結果ゆえに真実となりがちである)。人々が「X以外に選択肢はない」と言うなら、そのXは行為の領域から抜け出し、行為の「条件」の領域に入ってしまう。人々が「もう何もできない」と言うなら、本当に何もできることがないのだ。

関連記事
バウマン『個人化社会』 Zygmunt Bauman (2001) The individualized society

5.7 新たな種類の進化学
 人間が生きるということを理解する探究を進めるには新しい種類の進化学が必要である。人間の心理、文化、生理、歴史、遺伝子の間での豊かな相互作用と共進化に焦点を当てた進化学である。(488頁、p. 331

※ 進化学についてやっぱりある程度勉強しなくては、現代の知的潮流は理解できないのだろう。勉強しなくっちゃ。











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