例えば人が何かを話すということ―この「行為」は不思議だと思いませんか?単純な考え方をする人なら、話者が話そうとする意志をもって、その意志を発動したから、その意志に含まれていた計画に基づいて発話が行われるというように説明するかもしれません。しかし、例えば自分を内省しても、ある集まりの中での誰かを観察しても、発話という行為はそんな単純なものではないように思えます。
他人の発言が、あるいは他人の発言の中の一言がきっかけとなる。あるいは、そういったさまざまな人の発言の断片が特定の形で重なったことがきっかけとなる。もしくは、他人のいらいらとした表情や自分の中の不快感、もしくは時計が示す時刻がきっかけとなる。または、自分の中にめばえた想いがきっかけとなり一言述べたら、その一言が自らの思考を活性化し、さらなるきっかけとなる―というよりは、そういったさまざまなきっかけが相互作用を起こす中で、気がついたら自分がしゃべりはじめている―こういった記述の方が現実を捉えていませんでしょうか。
学習者が勉強をするという行為をとっても同じです。ある種の人々は、その行為の有無を学習者の意志や意欲の問題に還元してしまって、勉強を学習者個人の問題と考えます。あるいはある一定の働きかけをすれば、学習者はほぼ必ず(あるいは、統計的に有意な程度に)勉強を開始するものだと想定しています。しかし学びの現場を見てみれば、教室に冷房が入ったり、慢性の睡眠不足が解消したりしたことで急に勉強に熱が入ったり、急に勉強を始めた友人やテレビで聞いた一言に触発されて勉強が始まったり、ある一問がわかったことで、あるいは逆にわからなかったことで向学心が高まったり、提示されたご褒美で意欲が増したりあるいは減退したりします―いやそれらの複合的な相互作用が勉強という行為が生じる母体と考えた方が現実的ではないでしょうか。
英語教育を単純な行為理論で説明し、発話や学習を個人で完結する行為とみなす。教師は学習者に個人的に働きかけ、もしそれがうまくゆかなければその失敗を学習者個人の責任とする―こういったことは多く見られますが、そういった理論は、比較的短時間で多くの研究論文を量産することを可能にはしてくれても、現場の役には立たず、場合によっては、教育の可能性を損ねてはいないでしょうか。
少なくとも行為を個人的に考えるのではなく、社会的に考えるべきではないでしょうか。
そういった観点からすると、このラトゥールの著書は非常に興味深いと思います。
私としては、ここ最近勉強してきた中動態や物語論をさらに展開させてくれる非常に有効な理論としてこの本を読みました。また行為を確固たる基礎要素として考えない点ではルーマンの社会学ともつながっています(ちなみにアフォーダンスの考え方と通じている理論でもあります)。
関連記事
柳瀬陽介 (2018) 「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―読者・利用者による一般化可能性」 『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32
國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
この本で説明されている
actor-network-theory (ANT) は、質的研究や実践研究・実践者研究の記述の仕方の指針を示してくれていると私は理解しています。
ちなみにこのANTについては以下のサイトが便利です(といっても私はまだ活用できていませんが)。
The Actor Network Resource:
Thematic List
私はこの理論を、最初に伊藤嘉高先生の翻訳で読みました。噂にたがわず、すばらしく丁寧な翻訳でした。一読後にすぐに読み直し、アンダーラインを引いたところは原著(英語)でも読み直しました。伊藤先生の翻訳は正確さとわかりやすさを同時に追求したもので、特に “action is
overtaken” や “dislocation” といった表現は、私は英語で読んでいたらわからなかったのではないかと思います。また訳注も非常に充実しておりとても勉強になります。
以下は、この本の序論と第一部の一部を私なりに翻訳したものを「お勉強ノート」として掲載したものです(それ以外の箇所のまとめは今後時間があれば行います)。伊藤先生のすばらしい翻訳があるのに、拙訳を試みたのは、いつものように「翻訳してみないとどうも心底わかったような気持ちになれない」という私の癖からです(苦笑)。
勉強の足りない私の訳文ですから間違いもあるかもしれません。ですから、本書に興味をもった方はぜひ伊藤先生の翻訳書を読んでください。この翻訳書を読めば難解をもって知られる英語原著も比較的容易に読み進めることができるのではないでしょうか(もっともある程度の基礎知識、知識人にしばしば見られる逆説的な文体に対する慣れ、そして何より冒頭で私が書いた「行為」関する問題意識などは必要かもしれませんが)。
拙訳を提示した後のこの記事の末尾には、この翻訳を通じて学んだことを、私なりのことばでまとめた箇所があります。もしこの理論の概要を知りたい方があれば、その末尾部分を最初にお読みいただいた方がいいかもしれません。しかし、専門家の方々が先にそのまとめを読むと、翻訳語の違いなどが気になるかもしれません。この理論をよくご存知の方は、下の拙訳(および訳注)を最初に読まれた方がいいかもしません(そして私の誤解などをご指摘いただければとてもありがたい限りです)。
訳の末尾にある数字、例えば (5, 15) は訳の原文が原著の5ページにあり、伊藤先生による翻訳は翻訳書の15ページに見いだせることを示します。訳文中に挿入された[ ]内の表現は私が補った語句です。翻訳が問題となりかねない箇所には( )内で原文を補っておきました。
***以下、抜粋翻訳***
序論
つながりをたどるという課題をいかにして再開するか
Introduction:
How to
Resume the Task of Tracing Associations
■ 「社会的」とは異質な要素がつながること
訳:ほとんどの社会科学者は「社会的」 (social) なるものを均質なもの (a homogeneous thing) とすることを好むだろうが、「社会的」ということばで異質の要素 (heterogeneous
elements) の間のつながりの経路 (a trail of associations) を指すこともまったく可能だ。どちらの場合においても「社会的」ということばは同じ語源(ラテン語のsocius)を有しているのだから、社会科学の元々の直感的な理解に忠実に、社会学を「社会的なるものの科学」 (science of the social)
ではなく、つながりをたどること (tracing of associations) と再定義することもできる。この意味において「社会的」とは、白羊の中にいる黒羊といったように、他のものの中にあるあるものを指すのではなくて、それ自身は社会的でないものの間の一種の結びつき (a type of connection) を指し示す。(5,
15)
補注:ラトゥールは、彼が批判する社会学を「社会的なるものの社会学」と呼び、自らが提唱する「つながりの社会学」 (sociology of
association) と区別している。彼は後者の理論を、昔に採択した名前である「作用項-ネットワーク-理論」
(actor-network-theory) と呼んでいる[訳注1]。またラトゥールはこの理論の頭文字がANTとなり蟻を意味することを非常に喜んでいる。地面に張り付いたままその時々にさまざまな手がかりをもとに歩き回る様子に、自らの社会学における記述と似たものを見出しているからだ。(9, 21-22)
訳注1:この
“actor-network-theory” は思い切って「作用項-ネットワーク-理論」と意訳した。私は原則として日本語として定着していないカタカナ語を使うのはできるだけ避けることにしているので、「アクターネットワーク理論」という訳語は使わなかったし、その他の用語でも「エージェンシー」といったカタカナ語は避けている。「作用項-ネットワーク-理論」という訳のポイントは、
この理論が全体として意味することを優先し、actorと理論的にはほぼ同義で、かつ汎用的な「作用項」(後に説明するactantの訳語)をactorの代りに使ったことである。社会学の専門家からは怒られるかもしれないが、私としては少しでもわかりやすい日本語を選んだ。
■ 社会科学者は行為者に何かを教えるのではなく、社会学者が行為者に学ぶ
訳:[社会科学者の]課題はもはや、何らかの秩序 (order) を上から与えたり、[社会科学的説明において]認められる対象 (entities) は何から何までという範囲を教えたり、行為者 (actors) は実は何であるのかを行為者自身に教えたり、行為者がやみくもに行っている実践に再帰性 (reflexivity) を付け加えたりすることではない。ANTのスローガンを使うなら、社会科学者は「行為者自身に従う」 (to follow the actors
themselves) ことをしなければならない。行為者がしばしば行うとてつもなく革新的な行動 (wild innovation) に追いつき、行為者自身から以下のことを学ばなければならない―行為者はどのような集合的な存在 (collective existence) となり、そこに落ち着くまでにどんな方法を工夫し、そうやって確立せざるをえなかった新たなつながりをうまく定義するのはどのような報告か (which accounts could
best define the new associations that they have been forced to establish) である。 (11-12, 27-28)
第一部
社会的世界についての論争をいかに展開するか
PART I
How to
Deploy Controversies About the Social World
■ 行為者に理論を押しつけず、行為者がもっているさまざまな理論をまずは展開させる
訳:ANT [=作用項-ネットワーク-理論]
は、行為者が投げ込まれているあらゆる論争を行為者に展開させた後の方が、秩序をうまく見つけられると考えている。あたかも行為者にこう言っているようである。「皆さんを訓練して、私たち [=社会科学者] のカテゴリーにうまく自分自身を当てはめさせるようなことはしません。皆さんそれぞれの世界を (your own worlds) 展開してください。その後で私たちは皆さんがどうやってそこに落ち着いたか説明してもらうように求めます」。― 社会的なるものを定義し秩序づけるという課題は行為者自身に委ねられるべきであり、分析者によって行われるべきではない。だから、何らかの秩序の感覚を取り戻すための最上の方法は、のように論争を鎮めるかを[社会科学者が]決めようとすることではなく、さまざまな論争の間の結びつきをたどることである。 (23, 47)
第一の不確定性の発生源:
グループはなく、グループ形成のみがある
First
Source of Uncertainty:
No Group,
Only Group Formation
■ 「社会的」であることを普遍的に説明するようなグループはない
訳:私たちが学ぶべき第一の不確定性の発生源は、社会的な集合体 (social aggregates) を作り上げていると称するに適したグループ (relevant group) はなく、議論の余地なく出発点としてつかえる既に確立した構成要素 (established component)
もないということである。 (29, 56)
■ グループは、何がグループを構成しているのかという声によって形成されている
訳:グループとは物言わぬ対象 (silent things) ではなく、何がグループであり誰が何に関係しているかということに関する数多の相互矛盾する声 (contradictory voices) から生じる絶え間ない唸り (constant uproar) がとりあえず作り出しているもの (provisional product) である。(31, 62)
■ グループ形成が止むことはない
訳:もし人々が祭りをやめたり新聞を発行することをやめたりするならば、グループ形成 (grouping) がなくなってしまうことになる。グループ形成とは、修復が必要な建物ではなく、継続 (continuation) を必要とする運動 (movement) なのである。ダンサーが動きを止めればダンスは終わる (If a dancer stops, the
dance is finished)。(37, 73)
■ 中間項と媒介項の違い
訳:私の用語法において中間項 (intermediary) とは、意味や力を変形させることなく移送する (transports meaning or
force without transformation) するものである。[中間項においては] 入力
(inputs) を定義すれば出力 (outputs) が定義できる。実用上の目的からすれば、中間項は一つのブラックボックスとみなすことができる。たとえその内部には多くの部品があったとしてもである。他方、媒介項 (mediators) は、単に一つのものとして数えることができない。媒介項は一つとして数えられるかもしれないし、存在しないともされるかもしれないし、数多くあるとも、無数にあるともいえる。媒介項の入力で媒介項の出力を予測することはできない。私たちは媒介項の特定性 (specificity) を毎回考慮しなければならない。媒介項は、自らが担う意味や要素を変形し、翻訳し[訳注2]、歪曲し、修正する (transform, translate, distort,
and modify)。中間項はいかに複雑 (complicated) [訳注3]であっても実用上の観点からすれば単に一つのものとして数えられるだろうし、あるいはないものとされるかもしれない。なぜなら中間項の存在は容易に忘れられるからである。媒介項の場合は、一見どんなに単純に見えても複合的 (complex) になるだろう。媒介項は多方向に発展し、それに帰属している相互矛盾的な報告のすべてを修正するかもしれない。正常に機能しているコンピューターは複雑な中間項の例であり、何気ない会話は媒介項のおそろしく複合的な連鎖 (complex chain) となるかもしれない。会話ではさまざまな情熱や意見や態度が、会話が展開するごとに分岐してゆくからである。 (39, 74)
訳注2:ラトゥールのいう翻訳
(translate) とは、やや特殊な概念で、後に第四の不確定性の発生源の章で説明される。
訳注3:Complicatedとcomplexについては、いつものようにルーマン系の翻訳慣行にしたがった。たとえば長岡 (2006, p.91) は「多くの場合、システム理論では、システムを構成している要素の数(ないしは異質性の程度)にかかわる事態を複雑性と呼び、要素間の関係の数(ないしは種類)にかかわる事態を複合性と呼んできた」と説明している。(長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房)
■ 社会的なるもの社会学は中間項を用い、つながりの社会学は媒介項を重視する
訳:社会的なるものの社会学の研究者は、ある一つの特定の種類の社会的集合体の存在を信じて、媒介項はほとんど想定せず、中間項を多く想定している。ANTにおいては、社会的集合体において好まれる種類は何もないが、媒介項は限りなく存在する。媒介項が忠実な中間項に変形されることがあっても、それはよくあることではなく珍しい例外であり、特別な努力でもって報告されるべきことである。そしてその報告においてはしばしばより多くの媒介項が動員される。 (40, 78)
第二の不確定性の発生源:
行為は行為者を越えている
Second
Source of Uncertainty:
Action is
Overtaken
■ 行為は行為者の意識が開始し終結させるものではない
訳:行為は意識の完全な管理下においてなされるものではない (Action is not done
under the full control of consciousness)。行為は、作用起因性の驚くべき集合の結節点、結び目、団塊として感じられるべきものであり、それは少しずつ解きほぐされてゆかねばならない (action should rather
be felt as a node, a knot, and a conglomerate of many surprising sets of
agencies that have to be slowly disentangled)。行為とは、私たちが行為者-ネットワーク (actor-network) という奇異な表現で再び活性化させたい不確定性の古来の発生源である。 (44, 84)
補注:アレントの「行為」 (Handeln) に関しては以下の記事をご参照ください。ラトゥールの考えに通じるようなことを、彼女は複数性と複合性の観点から述べていると私は理解しています。
アレントの行為論 --『活動的生』より—
■ 行為者とは、多くの他のものによって行為するように仕向けられたものである (An
actor is what is made to act by many
others)
訳:ハイフンで結ばれた
“actor-network” という表現における “actor” とは、行為の発生源 (source) ではなく、行為に向かって群がる対象の一連なりであり、しかもそれは動いている (the moving target of a
vast array of entities swarming toward it)。
“Actor” の多元性 (multiplicity) を引き出すためのもっとも簡単な解決法は、これまで私が無害な代替記号として使ってきたこのことばに込められた比喩を再活性化することである。(中略)[「役者」の意味をもつ] “actor” という語を使うことが意味しているのは、私たちが行為するときは、誰がそして何が行為しているかが決して明らかではないということである。なぜなら舞台上の役者は行為[=演技]において決して一人ではないからである。劇中の行為[という比喩]で、行為を行っているのは誰なのだという問いが底知れない (unfathomable) 問いとなってしまう困惑 (imbroglio) に私たちは捉えられてしまう。劇が始まるやいなや、アーヴィング・ゴフマンがしばしば示したように、何もかもが確かでなくなる。―これは本物なのか、偽物なのか。観客の反応も勘定に入るのか。照明はどうだろう。裏方は何をしているのか。劇作家のメッセージは忠実に伝えられたのか、それとも無残なほどに伝えられなかったのか。主要登場人物は印象に残ったのか [“is carried over ―
この訳には自信がありません]、もしそうだとしたらそれは何によって。共演者は何をしているか。プロンプターはどこにあるのか。― もし私たちがこの比喩を展開することに同意するなら、 “actor” ということば自体が、私たちの注意を、行為のまったき非局在性 (a complete dislocation
of the action) に向けることになる。行為は一貫し、管理され、整然として、境界がはっきりした事態 (a coherent,
controlled, well-rounded, and clean-edged affair) ではないということを警告してくれる。定義上、行為は非局在化されているのだ (action is dislocated)。行為は、借りてこられたものであり、分散され、示唆され、影響を受け、支配され、裏切られ、翻訳されている (Action is borrowed,
distributed, suggested, influenced, dominated, betrayed, translated.)。もしactorがactor-networkであると言えるのなら、それが表現しているのは行為の起源をめぐる不確定性の大いなる発生源である。 “Network” の語については後に述べる。 (46, 89)
■ 作用起因性の第一の特徴:作用起因性は報告によって表れる
訳:第一に、作用起因性[訳注4]は常に報告において何かを行うものとして提示される (presented in an account as doing something)。つまり、事態に何かの違いをもたらし、Cという試みを通じてAをBに変形しするものである。報告や試みや違いや変形がないところで、作用起因性について意味ある論証をすることはできない。検知可能な参照枠もありえない。目に見えず、違いももたらさず、変形も引き起こさず、痕跡も残さず報告にも現れない作用起因性は作用起因性ではない。これに関しては議論の余地はない。 (52-53, 101)
訳注4:ここでもカタカナ語を嫌って “agency” を「作用起因性」と訳した(私の日本語理解では「エージェンシー」と言われても正直何のことかよくわからない)。この語はしばしば「行為主体性」と翻訳されるが、そうすると後に述べるように、この概念を人間以外の対象に帰属させることが語感上難しくなる。そこで「行為」ではなく「作用」を、「主体性」ではなく「起因性」を訳語に使った。
■ 作用起因性の第二の特徴:作用起因性にはさまざまな形象が与えられる
訳:第二に、作用起因性とその形象化 (figuration) を区別しなければならない。行為を行っているものは、報告において常に、どんなに曖昧であれ何らかの形と姿が与えられる肉体や特徴が与えられている。(53, 102) (中略) ANTは、文学研究に由来する作用項 (actant) [訳注5]という専門用語を使う。同じ作用項に形象を与えるのにも四つのやり方がある。「帝国主義が単独行動主義にむかう」、「アメリカ合衆国が国連脱退を望んでいる」「ジョージ・W・ブッシュ大統領が国連脱退を望んでいる」、「米国陸軍の多くの士官と数十人のネオコン的指導者が国連からの脱退を求めている」の四つである。最初の作用項は構造的な特徴、二番目は組織体、三番目は個人、最後は個々人のゆるやかな集合体である。これらの差はもちろん、報告において大きな違いを生み出す。しかし四つのどれがより「現実的」「具体的」「抽象的」もしくは「人工的」であるかということには差はない。どれも異なるグループの確定 (entrenchment) を導き、グループ形成に関する第一の不確定性を解消するのに役立っているだけである。ANTがさまざまな形象化をするからといって難解だと怖れられるべきではない。観念的であれ、技術的であれ、生物的であれ、形態化は形態化である。これは作用項を一人の人間に具現化するのとまったく同じである。(ideo-, or techno-, or bio-morphisms are ‘morphism’ just as
much as the incarnation of some actant into a single individual) (54, 102-104)
訳注5:Actantという用語は、理論的にはactorよりも中立的で、ANTの意味をうまく伝えると考えたので、ANT
(actor-network-theory) の訳を私は前述のように「作用項-ネットワーク-理論」とした。実際、ラトゥールも自らの「つながりの社会学」を ‘actant-rhyzome ontology’と呼ぶことも可能であると述べている(他の呼び方として、 ‘associology,’
‘sociology of translation,’ ‘sociology of innovation’も提示されている)。 (9, 22)
■ 作用起因性の第三の特徴:行為者は他の作用起因性を批判し否定しようとする
訳:第三に、行為者は自分以外の作用起因性を批判することにも関わっており、それらは、偽物、古すぎる、馬鹿げている、非合理的である、人工的である、妄想であるなどと非難される。 (56, 106)
■ 作用起因性の第四の特徴:行為者は自らの行為理論を提示する
訳:第四に、行為者は自らの作用起因性の効果がいかにして及ぶのかを説明するために、独自の行為理論 (theories of action) を提示することもする。
■ いかにして、誰かに何かをさせるか
(How to make someone do something)
訳:もし私たちがこの第二の不確定性の発生源を受け入れるなら、社会学は誰かに何かをさせる
(making someone do something) 場合に必ず考えなければならない非局在性を大切に扱う学問分野となる。しかし、ほとんどの行為理論においてこのような非局在性は見られない。なぜなら第二項は第一項によって予測されるからだ。「原因を与えてくれれば私は必ず結果を生み出す」というわけである。しかし二つの項が媒介項としてとらえられるとこのようにはいかない。[たしかに]中間項なら入力が出力をうまく予測するから謎はない。原因になかったものが結果に表れることはない。[だが]この一見科学的な語り方は常に問題を伴っている。もし本当に入力が出力を予測するのなら、結果は無視して原因にだけ注目する方がいいことになる。原因こそは、すべての興味深いことが生じるところだからだ(少なくとも潜在的には)。しかし、媒介項の場合、状況は異なる。原因は、単に機会・境遇・先行項 (occasions,
circumstances, and precedents) を提供するものとなり、結果を演繹するものとはならない。その結果、多くの驚くべき別異項 (aliens) が合間に現れてくる。(58-59, 112)
■ 人形遣いは一方的に人形を操っているわけではない
訳:操り人形は一見、ただ糸の動きに従うという、もっとも明白な直接的因果性を示すものように思われているが、人形遣いが人形を完全にコントロールすることは稀である。 (puppeteers will rarely
behave as having total control over their puppets) 人形遣いはしばしば「人形が、自分では思いもよらなかったことをするように提案してくる」 (their marionettes
suggest them to do things they will have never thought possible by themselves) といった奇妙なことを口走る。ある力が他を操作しているからといって、その力が結果を生み出している原因であるというわけではない。その力は、他のものが行為を開始する機会でもある。 (When a force
manipulates another, it does not mean that it is a cause generating the effects;
it can also be an occasion for other things to start acting). (中略)誰が糸を引いているのだろう。人形遣いが引いているのだが、実は人形も引いている。だからといって人形が人形使いをコントロールしているわけではない。それは因果性の順序を単に逆にしただけだろう。もちろん弁証法を持ち出して問題が解決するわけでもない。この事例が意味していることは単に、この時点での興味深い問いは、誰がどのようにして行為しているのかを決めること (who is acting and how)
ではなく、行為の確定性から行為の不確定性に移行し、何がどのように作用しているかを決める (to decide what is
acting and how) [訳注6]ことである。作用起因性に関する不確定性のすべての領域を開放するなら、私たちはすぐに社会科学が始まる際に存在していた強力な直感を回復するであろう。(59-60, 114)
訳注6:同じ原語には同じ訳語を与えたいところではあるが、ここではwho/whatの対立を明確にするためactingを行為している/作用していると訳し分けた。この訳し分けは、他の数多くの翻訳と同様、本書の翻訳者の伊藤嘉高先生に倣ったものである。なおANTを「作用項-ネットワーク-理論」と訳す場合には、「作用」を広い意味で取り、人間による行為と人間以外の物体の作用の両方を意味することばとして使っている。
■ 行為は分析者にとっても行為者にとっても謎である
訳:もし行為が局在的なものではないのなら、行為はどの場所にも関係ない。行為は分散され、多様な姿を表し、多元的で、非局在的であり、分析者にとっても行為者にとっても謎である。 (if action is
dislocal, it does not pertain to any specific site; it is distributed,
variegated, multiple, dislocated and remains a puzzle for the analysts as well
as for the actors). (60, 115)
第三の不確定性の発生源:
客体にも作用起因性がある
Third
Source of Uncertainty:
Objects
too Have Agency
■ 事態に違いを生み出すものはすべて行為者である
訳:これまで客体
(objects) に何ら役割が与えられなかったのは、社会学者が使ってきた「社会的なるもの」の定義だけによるものではなく、これまでもっとも選ばれてきた行為者や作用起因の定義によるものでもある。もし行為が予め (a priori) 「志向的」 (intentional) で「意味に充ちた」 (meaningful) 人間が行うことだけに限られているのなら、ハンマー、バスケット、ドアの鍵、猫、敷物、リストもしくはタグなどがいかにして行為するのかを観察する (see) のは困難だろう。これらは「物質的」 (material) で「因果的」 (causal) な関係の領域に存在しているものであり、社会的関係 (social relations)の「再帰的」 (reflexive) で「象徴的」 (symbolic)な領域に存在するものではないと考えられる。これに対して、もし私たちが行為者と作用起因に関する論争から出発するという決意を守るならば、違いを生み出すことで事態に修正を加えるどんなもの (any thing) も行為者ということになる―もしくは、もしそれが形象化を経ていないなら、作用項ということになる。したがって、行為者ついて問うべきは単にこれだけである。― 他の行為者の行為の成り行きに違いを生み出すか (make a difference in the course
of some other agent’s action) 。誰かにその違いを見いださせるような試み (some trial that allows
someone to detect this difference) があるか、ということである。(71, 134)
第四の不確定性の発生源:
事実事項と懸案事項
Fourth Source
of Uncertainty:
Matters of
Fact vs. Matters of Concern
■ 移送と変形
訳:これらの行為者がどのように結びついているかを私たちはまだ知らない。しかし、私たちが展開 (deploy) するすべての行為者は、他のものに何かをさせる
(make others do things)
ようにつなげられる (be associated) ということを私たちは研究を始める前の新たな基本設定として述べることはできる。これは、ある力 (a force) を何らかの忠実な中間項として終始同じ (same) に保ちながら移送する (transport) することによってはなされない。これが可能になるのは、変形 (transformation) を生み出すことによる。変形は多くの予期しない出来事 (unexpected events) において明らかになるが、それらの出来事はその後に続く (follow) 他の媒介項によって引き起こされたものである。これが「非還元の原則」 (principle of
irreduction) と私が名づけたものであり、ANTの哲学的な意味である。媒介項が連鎖していても、同じ結びつきの痕跡を残すわけでもないし、原因を移送する中間項としてつながっているという[中間項と]同じ種類の説明を要求するわけでもない。(a concatenation of
mediators does not trace the same connections and does not require the same
type of explanations as a retinue of intermediaries transporting a cause) (107,
201)
■ 二つの媒介項を共存させる関係としての翻訳
訳:「翻訳」(translation)
ということばは、こうしてやや特殊な意味を担うようになる。翻訳とは、因果性を移送 (transport causality) せずに二つの媒介項を共存するように仕向ける (induces two mediators
into coexisting) する関係である。(中略)今、私はこのつながりの社会学のねらい (aim) をより正確に述べることができる。社会も、社会的領域も、社会的紐帯もない (there is no society,
no social realm, and no social ties)。存在しているのは跡をたどることができるつながりを生み出すかもしれない媒介項間の翻訳だけである。(but there exist translations between mediators that may generate
traceable associations) (108, 203-204)
■ 事実事項とは区別される懸案事項
訳:事実事項
(matters of fact) ではなく、私が懸案事項 (matters of concern) と呼ぶ概念を導入することで流れは変わる。懸案事項は非常に不確定的であり激しく議論されている (disputed) が、実在的 (real) で、客観的 (objective) で、非典型的 (atypical) で、とりわけ興味を引く
(interesting) 作用起因性である。厳密に言うならこれらは客体というよりはむしろ集めるもの (gathering) [訳注7]として捉えられる。(114, 216)
訳注7:この「集めるもの」 (gathering) について、ラトゥールはハイデッガーの『技術への問い』を参照することを脚注で求めている。私はこの本を未読なので、この語―翻訳書の翻訳をそのまま使いました―の含意は残念ながらわかっていません。
■ 実在的ではあっても、統一的ではなくさまざまな議論を許す事項はある
訳:そのような多元性
(multiplicity)[=多くの科学概念が複数の解釈を許すこと]は、科学者は自分たちが何をやっているかわかっていないとか、すべてはたんなる虚構 (fiction) であるとかいうことを意味しているわけではない。多元性が意味しているのは、科学論 (science studies) において、「自然界の客体的事実事項」 (natural objective
matters of facts) という既成概念が慌てていっしょくたにしてしまった (conflate) こと、すなわち、実在性 (reality)、統一性 (unity)、そして議論の余地のなさ(indisputability) を引き離すことができるようになったということである。実在性を追求すれば、自動的に統一性と議論の余地のなさを得られるわけではない。これは、「同じ」とされた物事 (the ‘same’ thing) について多元的な視点 (multiple points of view) を取ることで得られる「解釈上の柔軟性」 (interpretive flexibility)
とは無関係である。多元的に展開できるのは物事自体であり (it is the thing itself
that has been allowed to be deployed as multiple) 、物事自体が、異なる視点からの把握を許し、しかるのちに統一を求める[科学者の]集団 (the collective) [訳注8]の 力でもって[異なる視点は]統一されるかもしれない。ウィリアム・ジェームズの表現を借りるなら、多元宇宙 (pluriverse) には、これまで哲学者や科学者が想定していたよりもたくさんの作用起因性があるのである。 (116, 219-220)
訳注8:私はまだラトゥールが “collective” という用語で何を意味しているのか正確にはまだよくわかっていません。
第五の不確定性の発生源:
間違うリスクを負った報告を書く
Fifth
Source of Uncertainty:
Writing
Down Risky Accounts
■ 客体に関する反論の余地を残すことにより客観的であることを目指す
訳:問題は、客観的テクスト
(objective texts) を主観的(subjective)
テクストと対置するということではない。自分たちが自然科学の秘密だと信じていることを真似ることで客観的であるふりをしているテクストもあれば、言われていることに反論する (to object) 機会が与えられた客体 (objects) を追いかけることによって客観的 (objective) になろうとしているテクストもある。ANTは、科学であるということが意味すること、および社会的であるということが意味することを刷新することを主張しているので、客観的 (objective) な報告であるということの意味も刷新する。客観的な報告とは、「客体化」を求める冷血で無関心な主張 (cold, disinterested
claims to ‘objectification’) を伴う伝統的な意味での事実事項―を意味しない。客観的な報告が意味するのは、懸念事項についての、血が通い関心をもった論争が積み上げられる場である (warm, interested,
controversial building sites of matters of concern)。客体性 (objectivity) はしたがって二つの方法で獲得することができる。一つの方法は、観察される客体がないのに客観主義者的なスタイル (objectivist style) を取ることである。もう一つの方法は、客観主義者的なジャンルのパロディを試みることなしに、反論項 (objectors) を多く提示することである。[訳注8](125, 235-236)
訳注8:あきらかにここでラトゥールは、objectおよびその派生形の多義性を活かした議論を展開しているが、それを忠実に日本語にすることはできない。
■ 正確かつ真実に基づいている「テクストによる報告」
訳:テクストによる報告
(textual accounts) において「テクストによる」 (textual) ということばを前面に出すことは危険である。というのも、科学論や記号論 (semiotics) を知らない人々にとって、テクストとは単なる「ストーリー」 (stories) さらには「単なるお話」 (just stories) と理解されてしまっているからだ。そのように無関心な (blasé) 態度に抗して、私は「テクストによる報告」という表現を、正確であること (accuracy) と真実に基づいていること (truthfulness) の問題を脇に置かないテクストを意味するために使うことにする。 (126, 238)
補注:このあたりのテクストの考え方は、歴史家のヘイドン・ホワイトの考え方に重なる。
Hayden White (1980) The Value of
Narrativity in the Representation of Realityの抄訳
ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』岩波書店
Hayden White (2014) The Practical
Past. Evanston, Illinois: Northwestern University Press.
■ よい報告とは、一連の行為が媒介項としてのさまざまな行為者によってなされるさまを描くものである
訳:私はよい報告を、ネットワークをたどる (trace a network) 報告と定義する。
このネットワークということばで意味するのは、それぞれの参加項 (participant) [訳注9]が十分な媒介項として扱われている一連の行為である (a string of actions
where each participant is treated as a full-blown mediator)。ごく簡単に述べるなら、よいANT報告とは、すべての行為者がただそこにいるだけではなく、何かを行っている
(do something) 語り (narrative) もしくは記述 (description) である。結果を変形させることなしに移送する代わりに、テクストのすべてのポイントは分岐点 (bifurcation)、出来事 (event)、もしくは新たな翻訳の起源となりうる。行為者が中間項としてではなく媒介項として扱われると、行為者は社会的なるものの運動 (the movement of the
social) を読者に対して可視化する。したがって、数多くのテクスト上の創意工夫 (textual inventions) によって、社会的なるものは再び循環する対象 (circulating entity) となり、かつては社会の一部として通っていた淀んだ組み合わせから構成されているものではなくなる。私たちが定義する社会科学におけるテクストとはしたがって、筆者がどれだけ多くの行為者を媒介項として取り扱い、どれだけ社会的なるものを書き上げることができるかのテストである。(A text, in our
definition of social science, is thus a test on how many actors the writer is
able to treat as mediators and how far he or she is able to achieve the
social.) (128-129, 243)
訳注9: 参加項
(participant) を、ラトゥールは、形象化 (figuration) される前の行為者として定義している。(71, 135)
■ ネットワークとは、テクストが行為者の客体的なつながりを示していることである
訳:したがって、ネットワークとは、そのあたりにある、電話や高速道路や下水の「ネットワーク」のように互いに結びついた点の集まりの形態を指しているわけではいない。ネットワークとは、手元にある話題についてのテクストの質を示す指標 (an indicator of the quality of a text) に他ならない。ネットワークは、ネットワークの客体性 (objectivity) を質的に保証する (qualify) 。ここでいう客体性とは、それぞれの行為者が、他の行為者に意外なことをさせる能力である (the ability of each actor to make other actors do unexpected things)。よいテクストは、翻訳と定義される多くの関係性の跡をたどることを筆者に許し、行為者のネットワークを引き出す (elicits networks of
actors when it allows the writer to trace a set of relations defined as so many
translations)。
■ よいテクストは、読者にもっと細部を知りたがらせる
訳:よいテクストはよい読者にこのような反応を引き起こすだろう―「もっと、細部を知らせてくれ。もっと細かいところが知りたい」 (Please, more details,
I want more details)。神は細部に宿るが、その他全てのものも―悪魔も―細部に宿る[訳注10]。社会的なるものの重要な特徴は具体的であることである (It’s the very
character of the social to be specific) 。大切なのは還元ではなく、非還元である(The name of the game is not reduction, but
irreduction)。
訳注10:ここでの悪魔 (the Devil) とは、その報告が誤りであることを示す具体的記述ぐらいの意味で解釈している。
追記(2022/04/08)
上では "action" を「行為」以外に「作用」とも訳していますが、後者の代わりに「作動」という訳語の方がよいかとも思えてきました。"Actor" も「作動項」と訳し、"actor-network-theory" を「作動項ネットーワーク理論」と訳すこともできます。
もっとも "interaction" は通常「相互作用」と約されていますので「作用」という訳語にも良さはありますので悩むところです。(「相互的作動」という訳語は、やり過ぎでしょうか?)
***以下、柳瀬によるANTのまとめ***
■ 前提
社会的
(social) であるということ:「社会的」であるというのは、同質な複数の者が何らかの本質的特徴を共有しているということではなく、異質な複数の者が互いにつながりあい影響関係を結ぶということである。
社会科学者
(social scientists) の務め:社会科学者はもはや自分たちが作り出したカテゴリーを単純に人々に当てはめることを止め、人々(およびその人々が利用している事物)がどのようなつながりをもっているか、およびその人々が自分たちの行為についてどのように語っているかを謙虚に調べるべきである。
■ 用語
行為者
(actor) :伝統的に行為の主体として考えられてきた存在。多くの社会学においては、行為者を意識・意志・意味を有する人間のみに限定しているが、作用項-ネットワーク-理論では人間以外の存在も行為者として認める。この意味で「行為者」という用語を使い続けるのは誤解を招きやすいので、私(柳瀬)は、原則として「行為者」の代りに、ラトゥールが時折使う「作用項」 (actant) を使って説明する。
作用項
(actant):他のものに何らかの影響を与えるもの。人間であるかないかを問わない。グレマス(『構造意味論』)に由来する専門用語。
ネットワーク
(network):作用項の相互影響関係を描く記述、ひいては理論。
作用項-ネットワーク-理論
(actor-network-theory)
:ある「行為」を引き起こしたとされる行為者は、実は単独で存在しているのではなく、「行為」とは、複数の作用項がネットワークとしてつながっている中から生じているのだということを具体的に記述する理論。私は理論的な意味が伝わることを最優先して、「アクターネットワーク理論」とも「行為者ネットワーク理論」とも訳さず、あえて用語を入れ替えて「作用項-ネットワーク-理論」と訳している。
行為
(action):他のものに何かの影響を与える出来事。通常、人間がその出来事を生じさせたと考えられる場合には「行為」、人間以外のものが生じさせたと考えられる場合には「作用」と呼ばれる(狭い意味での「作用」)。ただし、広い意味で「作用」という語を使う場合は、人間による(とされる)「行為」とモノによる(とされる)「作用」(狭義)の両方を指す。
中間項
(intermediary):中間項とはAからBへ、C(例えば意味や力)を変形させることなくそのまま伝えるAとBの間に存在する項である。中間項への入力がわかればその出力はわかる。中間項の内部は複雑かもしれないが、ネットワークの観点からすれば中間項は一つのブラックボックスと見てさしつかえない。
媒介項
(mediator):媒介項とはAからBへCを伝える際に、Cを変形させてしまう項であり、その変形具合が予想できないという意味で複合的である。作用項-ネットワーク-理論では媒介項の働きを重視する。
作用起因性
(agency):作用起因性は、ある作用を引き起こす契機の一つとして考えられている性質。作用起因性は、主体としての人間だけでなく客体としてのモノにも認められる。作用起因性はそれを説明する報告によってその存在が認められるものであり、その報告において、作用起因性にはさまざまな形象が与えられる(擬人化・擬観念化・擬機械化など)。ある報告における作用起因性は、自らの行為理論を提示し、他の報告における別種の作用起因性を批判し否定しようとするかもしれない。
翻訳
(translation) :二つの媒介項を共存させるつながり。このつながりにおいては、意味や力などが単純に移送されることはなく、それらは何らかの変形を受ける。
■ 五つの不確定性
(1) グループ
(group) に関する不確定性:時空を超えて存在し続ける確固たるグループなどというものはなく、絶えずグループ形成の営みが続いているだけである。その営みには、何がグループで何がグループでないかといった語りも含まれる。
(2) 行為
(action) に関する不確定性:行為は行為者の意識から開始されるものではない。行為は、他のものに予測不可能な変化を促す媒介項としての多くの作用項が結びついたネットワークの中において生じる。つまり、行為の始源は非局在的であり分散している。数多くの始源が互いに影響を与えあっているわけである。この意味で、行為は分析者にとっても行為者自身にとっても謎であるように見える。作用項-ネットワーク-理論は、行為を生み出すこの作用項-ネットワークをできるだけ丁寧に記述しようとする理論である。
(3) 作用起因性
(agency) に関する不確定性:作用起因性は、あるものが他のものに違いをもたらしているならば、どんなものにも認めることができる。
(4) 懸念事項
(matters of concern) に関する不確定性:実在的、客観的でありながら、その作用起因性において不確定的で議論を呼んでいる事項。懸念事項は、一つの対象に対して複数存在する。これらは科学が進展するにつれ統一的に説明されるようになるかもしれないが、物理的な実在性が認められたからといって、それが自動的に議論の余地のない統一理論につながっているわけではない。
(5) テクストによる報告
(textual account) に関する不確定性:作用項-ネットワーク-理論は、テクストによる報告で記述を行う。記述は、さまざまな作用項の作用起因性のつながりを描き出す。そこでの客観性は、記述が間違っている可能性を示すことができるような反論項 (objector) を多く提示することによって担保される。具体的な記述をすればするほど、反論の余地は多くなるだろうから、客観性を目指す報告は、詳細な記述を心がける。作用項-ネットワーク-理論におけるテクストとは、単なるお話でも虚構でもなく、正確さと真実性を重んじる記述である。
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