2022/03/24

北出慶子・嶋津百代・三代純平 (2021) 『ナラティブでひらく言語教育』

 

ナラティブでひらく言語教育』についても著者によるZoomシンポが開かれましたので参加しました。シンポの主宰者・登壇者・関係者の皆様、ありがとうございました。

この本は理論編でかなり詳細に先行研究をまとめているので、一部の読者はその分量や用語の多さに圧倒されるかもしれません。(もちろん、それだけに修論や博論を書こうと思っている人には格好の書籍となっているのですが)。

少し怖気づいた場合は、まずこの本の3名の編著者が共同で書いた第5章「言語教育におけるナラティブの留意点と展望」を読むとナラティブを使った研究の見通しが得られると思います。

第5章の中でも特に私が大切だと思ったのは次の3点です。


(1) 現場体験の重要性:「語りの意味を深く理解するためには、その語りが生まれた現場=フィールドにおけることばの使い方に精通している必要がある」 (p. 83) 


(2) 自覚に基づく無知の姿勢:研究者は自身と自分の考え方に自覚的であった上で、調査協力者の語りを聞く際には「無知の姿勢」で臨むことが重要。 (p. 83) 


(3) 多様な質的研究の中の選択:質的研究は、認識論や方法論が多様であり、研究法は背景理論に沿って開発されることが多い。自身の目的にあった研究法を選択することが不可欠。


(1)の現場体験の重要性は、もっとも大切なことだと私は思います。たまに論文はたくさん書くけれど、実際に会って話を聞いてみたら、専門用語をやたらと使うけれど、観察現場の様子をうまく再現できない研究者もいます(自分のことを棚に上げた批判でごめんなさい)。その人が観察したはずの現場の雰囲気がいっこうに伝わってこないので、こちらとしてはうまく理解できません。

かといって専門用語のことについて尋ねると、「いや、論文にはそう書いてありましたから私もそのようにその用語を使っているだけです」といった答えばかり返ってきて、その人がその用語を自分の中でうまく咀嚼していないことがわかったりします。そのように頭でっかちで現場の感覚がわかっていない人の報告には私はどうもうまく共感できませんし、聞いていてむしろ退屈します。言語教育といった実際の現場をもつ研究者にとっては、まずは現場をよく知ることが大切だと私は考えます。


(2)の自覚に基づく無知の姿勢のうち、研究者が自らの認識について振り返り(=再帰性)理論的に反省できること(=省察)の重要性については、下の記事で書きましたのでここでは繰り返しません。


関連記事

「人が他人の心を知ることができるのか」という難問、および再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/reflexivity-reflection.html


しかしここでは、再帰性と省察に加えて研究者が「無知の姿勢」でもって研究協力者の語りを聞くことが進められています。「無知の姿勢」とは、研究者がこれまで学んできた専門知識や積み重ねてきた体験をとりあえずは脇において、自分はむしろこの語られる世界については無知であるという前提で語りを聞く態度です。

研究者はしばしば研究協力者に対して「それは○○です」と教えたり診断したりしますが、むしろ研究者は語りを聞く際には、研究協力者から学ぶつもりでゼロから話を聞くように努めるのが「無知の姿勢」です。調査協力者から学ぶ当事者研究でしたら「初心対等」の原則に相当するでしょう。


参照記事

心理学用語の学習:ナラティブ・セラピー

https://psychologist.x0.com/terms/263.html#1


関連記事

英語教師の当事者研究

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/09/blog-post_8.html


(3)の多様な質的研究の中で研究者はどの質的研究の方法と理論を選べばよいのかについては、まず研究者はこれまでどのような方法・理論が提唱されてきたのかを、例えば本書の第1章から第4章のような包括的な解説を読んで勉強するべきでしょう。(ですが、それよりも大切であり優先されるべきなのは現場理解であることは (1) で述べたとおりです)

しかしその勉強は果てしなく続きかねません。読めば読むほど、読まなければならない文献が増えてきてしまっては、自分がどの質的研究の方法と理論を選べばよいのかいっこうに決定できません。またもっとも大切な現場での時間がどんどん削られてしまいます。

となると、ある程度質的研究の概観を知ったら、あとは「雰囲気」や「相性」で決めるのが一番現実的だと私は考えます。(3)(つまり本書)では自分の研究の目的にかなった研究法を選べという助言がなされていますが、質的研究では現場観察を重ねていくうちに当初の研究目的や研究仮説が変化していくことも多々あります。ですから、私は「どれが自分にとって一番しっくりくるか」という感覚(あるいは直観)で決めるのが妥当だと考えます。

「雰囲気」「相性」「感覚」「直感」といった合理的でない(irrational) 用語を出すと、とたんに怒り出す人がいますが、ユングが指摘しますように、感覚や直観といった合理的とはいえない(=割り切れない)機能は、思考や感情といった合理的な機能(=割り切りやすい)機能と同じように、人間の行動を作り出しています。合理的に考えたら「大量の文献を読まなければならない。しかしその時間はない」というジレンマに陥る場合は、合理性を超えた感覚や直観に頼ることは私たちがよくやることでもあります。


関連記事

C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html

関連論文

人間と言語の全体性を回復するための実践研究

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gbkkg/12/0/12_14/_article/-char/ja/


また臨床家としての評判が高い精神科医の神田橋條治先生も、精神療法の選択については、まずは自分にとってよい「雰囲気」をもつ精神療法を選べと助言しています。理論についても自分が尊敬できる師匠が教える理論をまず学ぶことを勧めています。

研究、特に人間についての研究では、研究対象の人間を人格的存在としてとらえるために、研究者自身が自らの人格をかけて働きかけます(この場合の「人格」とは必ずしも道徳的含意をもたない「生き方」「あり方」「過去・現在・未来」といったことばで読み替えられる意味をもっています)。「人格」「生き方」「あり方」「過去・現在・未来」には、当然、思考や感情といった合理的な側面(注)だけでなく、感覚や直観といった非合理的な側面にも必要ですから、人間に関する研究をする者は、感覚や直観を働かせることをタブー視する必要はありません。

(注)感情を「合理的」とみなすことがよく理解できないとする人もいますが、感情は例えば「好き/嫌い」のように「A / Not A」の形で割り切れます。それに対して感覚は、もうなんとも言い難くて分析不可能な認識ですし、直観はただそれだけが単独で突然に到来する認識です。ですから、感覚と直観は割り切ることができず、ユングはそれらを「非合理的」(=合理性の外にある)としています。

神田橋先生の見識については、以前にまとめたブログ記事の一部を下に転載しておきましたから、ご興味があれば御覧ください。


この本のシンポに参加して総じて感じたことは、量的研究と質的研究のそれぞれが言語教育の改善を目指す姿勢は、中央集権的な社会改革と分散的な社会改革の違いに似ているということでした。

量的研究--少なくとも自然科学を模した量的研究--によって言語教育を改善しようとする研究者は、どの教育現場・教師・学習者にも当てはまるような「真理」を探し当てて、それを適用することを政治権力者に提言します。政治権力者としても政策には科学的な裏付けが欲しいので、そのような「真理」を歓迎します。かくして「今後は○○の方法で指導すること」といった通達が全国津々浦々に届けられることになります。

他方、質的研究で言語教育を改善しようとする研究者は、教育現場・教師・学習者によってさまざまな実践や考え方があることを熟知していますので、互いに微妙に異なる研究を地道に蓄積し、それらを比較対象しながら、教育に対する洞察を互いに高めようとします。それは精神科医やカウンセラーが多くの異なる事例報告を聞き、それについて語り合うことによって、専門職としての力量を少しずつ、必ずしも明言化できないしましてや普遍化は不可能な知恵として蓄積してゆくことにも似ています。

質的研究によるそのような改善は、一部の知識人・権力者が正しい知識を伝えて社会を一斉に変えようとする中央集権的な社会改革とは異なる、分散的な社会改革です。教育現場・教師・学習者などの点で似通ったそれぞれの共同体で知見を集積し、個々人が自分なりの理解を深めます。質的研究者は時に共同体の枠を超えて知見を交換して洞察を深め、理解をさらに非単純化(複雑化)します。現実はそもそも複雑なものだからです(注)。

ひょっとしたら量的研究を好む者と質的研究を好む者の間には、ユングのタイプ論で言うようなタイプの違いがあるのかもしれません。そうだとしたら量的研究者と質的研究者の間で相互理解がなかなか進まないのも得心できます。

とはいえ、自らとは異なる種類の人間を理解することこそが、人間の成熟なのですが・・・



(注)内田樹先生は『複雑化の教育論』の中で、成熟とは複雑化することであると述べます。内田先生によれば、複雑化する時に生じているのは計測が容易な変化ではなく、表情が深くなったり、声の厚みが変わったり、雰囲気が遷移したりするといった変化です。複雑化した人間は、出来事を捉える視座が増えて立体視できるようになり、人格が多層化し、「一筋縄では捉えられない人間」になってゆくと説きます。そうやって人間の器量を大きくしてこそ、さまざまに異なる主張を調停することができるわけです。

現実社会はどんどん複雑になっているので、本来はさらに複雑な思考で社会を捉えなければなりません。しかし、実際は、自分が容易に理解できる単純なモデルで社会を理解し、その理解に基づいて問題を解決にしようとしています。結果、複雑な現実と単純なモデルの間の乖離がますます大きくなっているのですが、世間の多くは「話を簡単にすること」こそが知性の証だと信じているようです。ですが、話を簡単にすることとは、思考の際の変数を減らすこと、つまりは知性の行使を減らすことです。だからこそ教育は複雑化つまりは人間の成熟を目指さなければならないというのが内田先生の見立てです。


現代の知性のあり方については、國分功一郎先生と千葉雅也先生の見解も、内田先生の考えと少し重なるのかもしれません(國分功一郎・千葉雅也 (2021) 『言語が消滅する前に』幻冬舎)。

國分先生と千葉先生が対談を通して語ったことの一部は次のようにまとめることができます。

考慮に入れる要素を減らして、ほんの数種類の変数(しかも一義的な解釈しか許さない変数)だけで構成されるのが、世間で通用している「エビデンス」です。従来は人々の辛抱強い話し合いで解決していたことも「エビデンス」だけで片付けようとするのが「エビデンス主義」です。それが世間にはびこり、物事の多面的な理解を促す思慮深い言語使用を排斥しているわけです。

しかし、話を非単純化・複雑化するなら(!)エビデンスには、誰でもわかるという民主的な側面があります。また、エビデンスに基づいて判断することによって個人の責任(というより帰責)を回避することができます。ですからエビデンス主義をむやみやたらと批判すると「エリート主義」といった非難を受けがちですし、エビデンスを処世のために使っている人たちの反感も買います。


関連記事

國分功一郎 (2021) 「中動態から考える利他--責任と帰責性」伊藤亜紗、他『「利他」とは何か』集英社 (111-134頁

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/2021-111-134.html


三先生の考えを私なりに翻案するなら、単純化による明晰化という自然科学的な知のあり方を認めつつ、同時に現実社会の複合性(複雑性)に対応できる人文的な知恵をどう育ててゆくかというのが現代の教育の課題の1つです。ナラティブを使った質的研究は、もちろん人文的伝統の上に立脚するものです。








付録:神田橋條治先生の知恵に学ぶ


以下、私のブログ記事からの抜粋です。これらのブログ記事では、神田橋先生の見識を、教育指導などに当てはめた形でまとめていますので、例えば「教育方法」や「指導法」といったことばは、今回は適宜「研究方法」などと読み替えてください。


精神療法のなかで技法を選ぶ場合は、「雰囲気」で選べばよい。(林・かしま (2012)「精神療法におけるセントラルドグマの効用」1988年7月23日)

***

概略:講義や実習者では、講師・指導者の雰囲気をよく観察せよ。その人の態度やことばのはしばしに、技法にふさわしい雰囲気がただよっているならよいが、それがないなら、その人は方法や技術の権化であり、人をよりよい方向に導こうとする意思の欠けたテクノロジーがしゃべっていると思って良い。(黒木・かしま (2013) 「いいお医者さんになってください」 2009年9月10日)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html



 理論は尊敬できる師匠が教えてくれる理論をまずは吸収する:師匠の教えを下手に批判的に取捨選択して学ぼうとすると、逆に師匠の悪い部分だけを学んでしまうことが多い。周りに師匠がいなければ本から理論を学ぶべきだが、その際は理論の創始者の伝記を読んでそれに共感できたら、それは自分にとって良い理論であることが多い。

 無批判的な吸収を勧めるのは、理論とは自分の癖をいったん取り除くための方便であるに過ぎないからである。守破離の教えが伝えるように、最初の段階では、多くの先人がその良さを認めてきたある理論の教えを徹底的に学び、自分の癖を取り除くことが必須である。しかし、そのうちに、どうしても自分としては腑に落ちない箇所が出てきて、理論の一部を破らなければならなく思えてくる。さらに理論の理解が深まると、その理論を墨守するとか破壊するとかいうことはどうでも良くなり、その理論から自由になり、必要に応じてその理論から離れたり戻ったりすることができるようになる。

 理論を学ぶのは、この守破離の過程を通じることで、凝り固まった自分や自己承認欲求に基づくエゴを捨て去ることである。だから、最初は親近感を覚える理論に自分の認識を変えてもらうぐらいの勢いで吸収するべきである。(神田橋條治 (1990) 『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社 pp. 12-23およびp. 233に基づく )

***

(拡大)解釈:自分という人間にとって最良の教師となるためには、自らのもって生まれての資質と人生経験で染み込んだ学習内容を、対面指導の技法に活かすしかない。つまり対面指導の技量を高めるための教師の目標は、自分なりの技法とその基盤となる理論を一人ひとりが築くことである。

 もちろん先人の技法や理論も学ぶが、それらは目標に至るまでの通過点と考えるべきである。先人の技法や理論の代弁者になることが目標ではない。他人の技法や理論は、自分の可能性を発見するための型であり、それは守破離の過程を経た上で、状況に応じて自在に使いこなすべきものである。それは自分の構成要素の一つであるが、すべてではない。

 良い教師となるためには、人間としての自らが身につけているものすべてを総動員して、その結果、もっともその人らしい教師になることが必要である。(神田橋條治 (1990) 『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社  p. 257に基づく)

***

それならば、教育方法に関して実践者が問うべきは、「どの指導法が万人にとってよい指導法なのか?」ではなく、「もっとも自分に適った指導法は何なのか?」だろう。この問いの転換のもつ意味や波及効果は大きい。上述の多くの教育方法研究者は戸惑うだろう。しかし、多くの実践者(特に若くて真面目な教師は)、この問いの転換によってずいぶん自由になれるのではないだろうか。もちろん誤解のないように付け加えておくと、「自分に適った指導法」の大前提は自分が指導する学習者をもっとも豊かな学びに導くことである。「自分に適った」というのは恣意的・利己的な意味での表現ではない。

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html



「人が他人の心を知ることができるのか」という難問、および再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い

 


[この記事は前の記事の続きです]


質的言語教育研究を考えよう』をめぐるZoom読書会ではブレイクアウトルームの時間が潤沢に設けられました。会の主宰者のご配慮に感謝します。



■ 「人が他人の心を知ることができるのか」という難問について


私のグループでは、なぜか「なぜ研究者は、調査協力者という他人の心をあたかも認識できたかのように語ることができるのか」というド直球の哲学的難問が出てきました(決して私の発案ではありません 苦笑)。


それに対してグループの4人で対話しながら、以下の結論らしきものにたどり着きました(以下には、このブログ記事を書くにあたって、私なりのことばをかなり書き足しています)。


研究者が他人の心を理解できると主張することについて


(ア) たしかに人間は自分のフィルターを通してからしか理解できないものだ。したがって下手をすれば、研究者は自分の主張を再生産し続けるような「研究」しかできない可能性がある。

(イ) だから研究者は、自己理解を深め、自分の認識枠組をまずは知る必要がある。

(ウ) 同時に読書などを通じて、自分のものとは異なる認識枠組も知る必要がある。

(エ) さらに重要なのは、実際のコミュニケーションを通じて、自らとは異なる認識枠組の持ち主と対話することだ。

(オ) そのようにして異なる認識枠組を知り体験することによって、研究者も少しずつ自分の認識枠組を相対化し、さらに他の認識枠組も理解できるようになる。

(カ) 研究者は、そのような自己の理解と変容を日々の訓練として行う必要がある。その訓練を自らに課した上で、研究者は研究協力者に対する理解について、研究協力者自身や他の研究者と対話して、その理解を少しでもまともなものにするべきだ。

(キ) そもそも質的研究は、普遍的真理を獲得しようとするものではないことを理解する必要がある。質的研究は、ある個人・時点・場所からのある対象の見え方を生み出すことである。そのような叙述が集まれば、その知見は「家族的類似性」(ウィトゲンシュタイン)をもったまとまりという形を現すであろう。それぞれの知見の基になっている視点・認識などを互いに自覚した上で、複数の知見の類似点や相違点を明らかにしようとすれば、私たちの洞察も深まるだろう。その洞察の深まりは、いろいろな国・地域のさまざまな時代に関する数多の歴史家の叙述を読み続ければ、人間についての洞察が深まることと似ている。すべての叙述に共通する特徴はない--「人は必ず死ぬ」といった当然すぎる共通性は別にして--。だが叙述からさまざまな類似性や相違点を見出す経験は、新たな対象を理解する際にも必ず役立つであろう。

(ク) さらには、「他人の心を理解できるのか?」という問いが発せられる時にあると思われる「自分の心は確実に理解できる」という前提についても疑う必要がある。「自分の心」も、意識の流動性や無意識の存在を考えると、確定的に把握できるものではない。自己理解を行う自己についても私たちは理解を深めなければならない。




■ 再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い


上で、研究者の自己理解が出てきましたが、これは八木真奈美先生・中山亜紀子先生による第3章(リフレクシビティ)につながります。


両先生は、リフレクシビティ (reflexivity) の訳語としては、「省察性」「再帰性」「反省性」などいろいろあるので、敢えて「リフレクシビティ」というカタカナ語を使うと説明されています(29頁)。


しかし両先生は、それなりに訳語を使い分けています。"Turning back on oneself" という表現を引用した説明では「再帰性」という訳語を使っています(30頁)。他方、"awareness"だけでなく "critical reflection" を必要とする「リフレクシビティ」には「省察性」という訳語を使っています(33頁)。Reflexivityには2つの段階を区別することができると言えるでしょう。


ここで私は、上の違いをreflexivityとreflectionという2つの用語を使って区別したいと思います。Reflexivity (Reflexivität)とreflection (Reflexion) の区別は、ルーマンに基づきます。しかし、彼の理論構成は非常に抽象的かつ難解なので、ここでは彼の区別についての私の解釈でこれら2つの概念を区別します。彼の論考のまとめは、この記事の最下部に「付録」としてまとめるにとどめます。Reflexivityとreflectionは、それぞれ「再帰性」と「省察」と訳すことにします。

再帰性 (reflexivity) とは、自分がある行為を続ける中で、その行為の対象が自分以外のものからやがて自分自身へと移っていくことです。例えば研究者がある観察対象(研究協力者)の様子を観察します。その研究者が観察を続けるなかで、やがて観察対象が自分自身になれば、そこに再帰性が見られることになります。

これはそれほど当たり前のことではありません。たとえばある研究者 (A) は、ある観察対象(研究協力者)を観察した後、次々に別の観察対象を観察し続けます(観察対象の数を増やすことが研究にとって何より重要だとAは思っているのかしれません)。別の研究者 (B) は、ある観察対象(研究協力者)を観察した後、たまたま他の研究者 (C) が同じ観察対象を観察した記録を見る機会を得るかもしれません。BはCによる観察記録をじっくりと観察し、次にCという観察者(研究者)を観察するかもしれません。Cがなぜ自分とは異なる観察をしたのかに興味をいだいたわけです。しかしBは、ついぞB自身に目を向けることはないかもしれません。(Bにとって、自分の観察方法は、自分では意識できないぐらい正しいものなのかもしれません)。観察者がやがて観察の対象を自分自身に向けるという再帰性はそれほど当たり前のことではありません。だからこそ研究においては再帰性が大切だと説かれるのでしょう。

しかし再帰性だけでは十分ではありません。再帰性では、自分自身に目が向けられただけで、自分自身を批判的に理解していないからです。研究者には、再帰性に加えて省察が必要です。

省察 (reflection) とは、自分自身の観察を省みて、そこにある特徴とない特徴を知ることです。「過去の自分自身は、○○の観点からの認識をもっぱら行っていたが、××の観点からの認識をしておらず、結果、云々のことが見えていなかったし、また、見えていなかったことも見えていなかった」などと気づくことです。自分自身という認識システムを省みて、そのシステムの性質を理解するわけです。このように過去の自分自身の認識を対象化したうえで、その特徴と限界を知ることがここでいう省察です。(注)

(注)私の解釈では、ここでの省察は、「自分自身の観察を観察すること、すなわち自分自身で行う二次観察」と言い換えることができると思います。二次観察については以下の記事をお読みください。

関連記事
ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ

研究者--とりわけ自らの方法論に自覚的である必要がある質的研究者--が、自分自身に目を向けるという再帰性は、研究者として必要な資質ですが、それだけでは研究者としての力量を発揮しているとはいえません。研究者としての批判的な分析力は、省察をどのように行うかで示されます。自分自身の認識をいかに対象・客体 (object) として「客観的」 (objective) に分析するかというのが省察の能力です。

省察することを知らずに再帰性を発揮するだけだったら、特に質的研究者は、自己愛的な自分語りを過剰に行ってしまうかもしれません。「この報告を行う研究者は、○○の経歴をもち・・・・」などと際限なく自分自身について語ることは研究にとって不必要です。研究者自身が自分自身について語ることの際限を決めるのは、「研究報告に必要な省察を行うための情報を出すこと」という基準でしょう。自らの認識の特徴と限界(長所と短所)を示すための必要最小限の自己開示が研究者に求められると私は理解しています。

再帰性は必要だが、それを踏まえて省察を行うことこそ研究者の力量だと言うのが私の理解であり、それだからこそ私は再帰性と省察を区別するべきだと考えます。




*****


付録:ルーマンによる3種類の自己参照の区別

ここで私は虎の威を借る狐としてルーマンの理論的区分に依拠します。『社会システム』第11章第III節以降で展開している3種類の自己参照についての論考です。とはいえ、私のルーマン理解は怪しいものです。かつ、自分なりの訳語を使っているので誤読を招くかもしれません。加えて、この箇所はとりわけ抽象性の高いところなので、以下に示す私の拡張的解釈に混入している誤りを怖れます。また抽象的な議論を少しでもわかりやすくするために、私なりに具体例を補いましたが、それがそもそも間違っているかもしれません。もしルーマンに詳しい方がいらしましたら、間違いをご指摘くだされば幸いです。「(○頁, p. △, p. □)という表記の数字は、それぞれ日本語訳、英語訳、ドイツ語原著のページ番号を指します)。



3種類の自己参照 (self-reference, Selbstreferenz)

(1) 基底的自己参照

(1a) 理解
1つ目の自己参照である基底的自己参照 (basal self-reference, basale Selbstreferenz)で参照される自己は、自己の要素にすぎずない。基底的自己参照は、最小限の自己参照である。基底的自己参照なしに、これ以降の自己参照(再帰性、省察)は不可能だが、基底的自己参照だけで再帰性や省察が成立するわけではない(232頁、p. 443, p. 600)

(1b) 拡張的解釈
間違いを怖れながら私なりの例を補う。<「私は昨日カレーライスを食べた」と私が今言っていること>において、現在の私は、昨日の私という自分自身を参照しているが、これらの<食べた私>と<語る私>2つの私にの間に言及関係以外の特別な関係はない(次に示す自己参照においては、<語った私>と<その語った私について語る私>というように、2つの私が同じ語るという行為においてつながっているという特別な関係をもっている)。<「私は昨日カレーライスを食べた」と私が今言っていること>では、<昨日の私>は<今の私>が、私自身の要素として言及しているだけである。


(2) 再帰性(過程的自己参照)

(2a) 理解

2つ目の自己参照である再帰性(過程的自己参照)(Reflexivität/prozessuale Selbstreferenz, reflexivity/processual self-reference) とは、あることの過程にある自己がその過程の以前の段階にあった自己について参照することである。再帰性(過程的自己参照)において、その参照<以前/以降>という区別が生じる。その「以降」の自己が、それ「以前」の自己をその過程の中で自己参照するのが再帰性である。(232頁、p. 443, p. 601)


(2b) 拡張的解釈
<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、今は少し意見を異にしている」と語ったこと>において、現在の<語る私>は、過去の<語った私>について語っている。その2つの<私>は語るという過程おいてつながっており、かつ一方が他方を言及するという特別な関係にある。ここにおける<私>は、語るという過程において構成されている。<私>とは<語った私>でも<語る私>でもある。同時にこの<私>は、今の語り(過程的自己参照)により<以前/以後>に区分されている。現在の<私>は、過去とは少し異なる見解をもっているという語りにより、以前の<私>と区別されている。現在の私は過去の私に「再」び「帰」って語っている。

だが、後述するように、再帰性(過程的自己参照)ではある自分が以前の自分を参照しているだけである。「以前の私がシステムとしてどのような区別をしていたのか/いなかったのか」といった省察(3つ目の自己参照)はまだ見られない。


(3) 省察

(3a) 理解
3つ目の自己参照である省察 (reflection, Reflexion) は、自分というシステムが自分自身で認識できることと、自分自身では認識できないこと(=環境)を区分することである。(232頁、p. 444, p. 601)

(3b) 拡張的解釈
再帰性(過程的自己参照)の例は<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、今は少し意見を異にしている」と語ったこと>であったが、省察の例はは<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、その時の私はXの観点からしか考えておらず、Yや他の観点からは検討出来ていないことがわかった」と語ったこと>になるだろう。省察は、自らの(一次)観察を自らが二次観察することと私は解釈している。


参照文献
ニクラス・ルーマン 馬場靖雄訳 (2020) 『社会システム(下)』勁草書房
Niklas Luhmann (Translated by Jon Bednarz, Jr. and Dirk Baecker) (1995) Social Systems. Stanford University Press.
Niklas Lhumann (1984) Soziale Systeme. Suhrkamp.

2022/03/23

八木真奈美・中山亜紀子・中井好男 (2021) 『質的研究を考えよう』(ひつじ書房)、および意味概念と物語概念のまとめ

 

質的言語教育研究を考えよう』については、あるところでZoom読書会が開かれたこともあり、私は読みましたが、その中でも特に第1章、2章、3章、4章を面白く思いました。


第1章(中井好男先生・中山亜紀子先生)と2章(八木真奈美先生・中山亜紀子先生)は、重要概念が簡潔に定義されています。基本的な考えで混乱しがちな人にとってはとても便利な整理となっていると思います。


第1章では「コミュニケーション観」「学習観・学習者観・教育観」「政治性」が、第2章では「量的研究」「実証主義」「ポスト実証主義」「構築主義」(注)「意味」などが簡単にまとめられています。


(注)ただし「構築主義」については、「構成主義」の用語が登場しませんでしたので、そもそもこの「構築主義」が "constructivism"のみを指すのかそれとも "constructionism"も含む意味で使われているのかは曖昧でした(そもそもそのような区別は無用なのかもしれませんが)。

関連記事

K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/km-2018.html 


これらの中で例えば意味については、「ある出来事や経験が、どのような意味を持つのかを理解するということは、このようにある出来事と、数多くの他の出来事を結びつけ、筋を作り、筋の中でその出来事の意味を理解することに他ならない」(26頁)と、物語的な意味理解を提示したり、「どの程度どんな人々で共有されている意味を対象としたいのか」が問題であると意味の社会性を示したりしています。私は以下の3つの論文で、意味および物語について(1)-(5), (a)-(f) のように理解していますので、この章での説明を共感的に読みました。


意味概念についてのまとめ


意識の統合情報理論からの基礎的意味理論:

英語教育における意味の矮小化に抗して

 https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53


(1) 意味は、客観的実在物上での主観的経験である。

(2) 意味の経験では、現実性の確定性と可能性の不確定性が統一的に共存している。

(3) 意味は、動態的過程として常に連動的に発展する。

(4) 意味は、理解者の内的な「見通し」の変化として主観的に実感される。その「見通し」は、不確定的な可能性を含んだものとして動態的に現れる。



学校英語教育は言語教育たりえているのか:

意味の身体性と社会性からの考察

 https://doi.org/10.18989/keles.6.0_6


(5) 意味は、心の現象(意識の自己展開)であると共に身体の現象(神経回路の自己展開)である。

(6) ことばは、個々人内で成立する意識と社会的に成立するコミュニケーションの両方で用いられる媒体として使われ、個人内の意識的・身体的現象であった意味と、コミュニケーションという社会的な現象で成立する意味を連動させる。



物語概念についてのまとめ


なぜ物語は実践研究にとって重要なのか:

読者・利用者による一般化可能性

 https://doi.org/10.14960/gbkkg.16.12


(a) 物語の素材:物語の素材は登場人物であり、登場人物は主に試練における行為と意識の二つの水準で葛藤する存在として描かれる。

<=> 自然科学の素材は明確な指示対象である。

(b) 物語の筋書:筋書は典型的には、「定常状態-破損-危機-修復」という4段階(あるいは「状況説明-問題発生-対応・解決」という3段階で進行する。

<=> 自然科学の筋書きは、「序論(命題提示)-方法-結果-考察」である。

(c) 物語の題材:物語は、ルーマンやアレントが説明したような意味 ―複合的な世界に複数で生きる人間にとっての意味 ―を題材として扱い、現実を描き出す。特に、根底にある題材は、損なわれつつある価値・正統性・規範の意味である。

 <=> 自然科学の題材は真理である。

(d) 物語の言語:物語の言語は曖昧(喚起的・比喩的)で、読者にさまざまな想像力を発揮させながら、複数の主観的な実在性を描き出し、世界を多義的・多元的に描く

<=> 自然科学の言語は一義的で、客観的な実在性を具体的に定義する。そこには「科学者」としての視点しかない。

(e) 物語の基調:物語の基調は対話的多声性である。

<=> 自然科学の基調は独話的単旋律性である。

(f) 物語の実在性:物語の読者は多様な仮定法的実在性を自分なりに統一的に理解する。その統一的理解は,物語を読み終えた読者が「あの話はね…」と語り始める読者が自分なりに書き足し・書き直した物語において示される。物語は読者を作者にし、読者に新たな物語を生み出させる。

<=> 自然科学の実在性は直説法的な実在性である。




李暁博先生による第4章(ナラティブ・インクワイアリ)では、他人のナラティブを、研究者自身の頭の中にある観念・理論・枠組みを強化するためだけに使うという誤りの危険性を述べています。上の (e) でしたら、「独話的単旋律性」(=研究者一人の声しか聞こえず、その声は常にその研究者の主張が真であることを論証していること)といえるでしょう。そのような研究は、ナラティブ・インクワイアリ(あるいは質的研究)とは呼べないと李先生は警告します(51頁)。


李先生は、ナラティブ的(物語的)に考えることが大切である理由を、中国の古典『史記』が二千年経っても延々と読みつがれていることに求めます。と中国の研究者の指摘によれば、『史記』の著者である司馬遷は、「歴史人物や歴史の出来事の記述にあたり、その人物、あるいはその歴史的な出来事に含まれている多声性、解釈の多様性、そして歴史的・文化的な意味を、なるべくナラティブのままに表出させるように意図的にしていた」そうです(53頁)。つまり司馬遷は、人物を固定観念的に捉えることを避けていたわけです。李先生は、そのことにより『史記』の歴史記述が(上で述べたような意味で)物語性を豊かにもったからこそ、多くの人を魅了し続けていると論じています。


研究者という人種は、「人間は現代に近づけば近づくほど賢くなる」と考え、時に「10年以上前の論文を引用することは学問的な意味がない」とまで言い切ります。ですが、少なくとも人間がかかわる研究については私はそうは考えません。


人文系においてはむしろ "There is nothing new under the sun." と考え、「温故而知新」を大切にするべきでしょう。安田登先生(特別授業『史記』)は、漢字の語源を参照しながら、「温故而知新」を、<古(「故」)いものをぐつぐつ煮て「温」めてしばらくすると(「而」)、斧で木を切った時に現れるような切断面(「新」)が、矢が飛んできて地面に至るように現れる(「知」)>と解説します。


そのように古今東西の古典でずっと考えられてきたテーマを、近現代の研究も参考にしながら考え抜くことが人文系の仕事だと私は思っています。そういった意味で、言語教育関係者は、『史記』をはじめとした古今東西の古典をもっと読み、その洞察に助けられながら、言語教育の毎日の営みをじっくりと観察するべきと私は考えます。古典を読まず、現場の観察も怠りながら、最新論文ばかり引用して論文を書き続ける著者の論考は底が浅いように思いますが、実際のところはどうなのでしょう(と偉そうに説教する私自身が、本を読めず、授業の観察と省察も最小限しかできていないのですが・・・)。


この記事はそれなりに長くなりましたし、次に大きなテーマ(リフレクシビティ)が出てきますので、この記事はここでいったん終えることにします。




2022/03/17

國分功一郎 (2021) 「中動態から考える利他--責任と帰責性」伊藤亜紗、他『「利他」とは何か』集英社 (111-134頁)

 

國分先生は、この小論で「新しい責任概念へと向かう準備作業のようなこと」(125頁)を行なうと宣言します。國分先生は、ギリシャ学者のジャン・ピエール・ヴェルナンの「ギリシャ悲劇における意志についての試論」の中の次の言葉を引用します


「人間的因果性と神的因果性は悲劇作品の中で混じり合うことはあっても、混同されることはない」。(129頁)


ギリシャ悲劇の登場人物は、例えば殺人を犯した点で加害者であると同時に、その殺害をせざるをえない運命に入り込まざるを得なかったという点で被害者です。加害者であり被害者でもあるとは、矛盾のようにも思えますが、ギリシャ悲劇はこの2つの側面を肯定します。登場人物は、人間的因果性(=ある人の行為が何らかの結果を生み出してしまうこと)という範囲で考えれば加害者です。しかし、神的因果性(=人間には知ることも回避することもできない因果の連鎖網)の規模で見れば被害者です。


この本でも例として上げられている『オイディプス王』でもそうです。オイディプスは、親殺しなどを行った点で加害者であり、彼自身ではどうしようもない悲劇的運命に巻き込まれた点では被害者です。この劇は、彼の被害者としての側面を矮小化してオイディプス加害者として断罪しません。かといって、彼の加害者的側面を否認して被害者として憐れむだけにも終わりません。


私は20歳の頃に『オイディプス王』を読み、以来、この本は自分にとってもっとも重要な本のうちの1つになっています、その後、ストラヴィンスキーのオペラDVDでもこの作品を鑑賞しました。最後の場面で、オイディプスは逃れられない運命の中で犯さざるをえなかった罪に絶望し、自らの目を潰し、その場を立ち去ります。しかし合唱は、そんな彼に対して、「オイディプス、私たちはあなたを愛していた」と歌いかけます(DVDが手元にありません。記憶違いだったらごめんなさい)。


私はDVDを見ていた時には、わけもわからずその合唱に涙を流してしまいました。ですが、今となればそれは、神的因果性に翻弄されながらも、人間的因果性を真正面から見ようとするオイディプスの生き方に大きく心を揺さぶられたと言えるのかもしれません。


國分先生は、当事者研究にも同様の思考法があると指摘します。当事者研究においては、問題行動の否定的な側面はとりあえず脇に置きます。当事者は、問題行動を起こす自分自身や周りの要因を対象化して、なぜ行動が起こるかを「研究」します。この対象化は、神的因果性の相において自分と周りを理解するということです。その神的因果性の理解があって初めて当事者は、自らの人間的因果性を見つめられるのではないかと國分先生は語ります。


客観的要因を理解しないままに「当事者だけが諸悪の原因だ」と責めるならば、当事者は「自分は被害者に過ぎない」と開き直るか、「自分は一切の弁明の余地のない加害者だ」として自己否定します(そしてその自己否定の苦しさから再び問題行動を始めます。問題行動は否定的な自己像を肯定してくれるからです)。人が自らの問題行為に「責任」を感じることができるのは、その人および周りの人々がその人がおかれた状況を理解してからだというのが國分先生の論だと私は理解しました。


ここでの「責任」 (responsibility) とは、自らの行為が引き起こしてしまった事態に対して「応答」することです。この「責任」は、「帰責性」 (imputability) と異なると國分先生は説きます。帰責とは、行為の原因を誰か・どこか1つにだけ定めて、それを責めることです。


國分先生が『中動態の世界』で説明した近代的な能動態的発想では、行為は「ある主体がその人の意志でもって開始すること」です。本来、意志は周囲や過去の影響を間違いなく受けていますから、意志を行為の唯一の始発点とみなすことはできません。しかし、物の所有を個人単位で考える私的所有の考えを大切にしてきた近代社会は、その延長で行為も私的所有物だと考えがちです。私的所有物として、行為は、その人が自由に操れるし操るべきだとも考えます。


そういった能動態的・私的所有物的発想の意志を想定しますなら、問題行為を行った人は、もっぱら問題の帰責の対象(=加害者)となります。「その人にも、そうせざるを得なかった事情があった」といった理解は、せいぜい情状酌量として例外的に認められるだけです。こういった想定が共有されている社会では、問題行動が起こった場合、関係者は「私は被害者であり、○○が加害者だ」と他人に帰責しようとするばかりです。そのようなせめぎ合いで、問題の帰責を引き受けざるをえなかった当事者は、責任を感じて適切な応答をするとは限らないと國分先生は論じます。


中動態について考えることは、帰責性ばかりを責任と考える近代的思考に異論を唱えることにつながります。中動態的発想は、「さまざまな因果連鎖の結節点の1つとしての自分が、ある行為が起こるという出来事の場になった」という理解をもたらします。ですがその理解をすることによって、逆に「自分はその出来事の場となったことに対して、無条件に免責されるわけではない。自分なりにできることはあったはずだ」と思えるようになるかもしれません。それこそが「責任」を感じることではないかというのが國分先生の主張です(ここでも「責任を感じる」ことは中動態的な事態として描かれています)。


蛇足で卑近な例を出しましょう。学習者はしばしば「勉強する気になれない」と言います。教師の多くは、「勉強する」という行為は、学習者が自分自身の意志をもって発動させるものだと考え、「それは学習者が悪い」と断罪します。学習が成立しないという問題を学習者のみに帰責します。「あれだけ、課題をきちんと提出しなければ単位を出さないと警告しているのに、課題を提出しなかったのは学生の責任です。私としてはもう何もできません」といった言葉はしばしば教師の口から発せられますが、それはその教師が近代的な意志概念の強い影響化にあることを示唆しています(あるいは、その教師が意志概念を使って、教師としての自分の責任を巧みに回避しようとしているのかもしれません)。


「勉強する気になれない」学習者にとって、勉強が必要なことは重々承知です。しかし、自分の努力ではどうしようもないほどに、指定された課題を学ぼうとする欲望(気)が自分の中に生じてこないのです。だからといって学習者に一切の責任はないというのも極端でしょう。学習者は、十分な睡眠や快適な気晴らしで気分を変えれば勉強する気になるかもしれないと考えいろいろな工夫することもできます。それらは学習者にとっての責任の一部でしょう。


しかしさまざまな試みをした後でも、一向に「勉強する気になれない」のなら、その責任の一端は教師が担うべきです。課題の意義を説明し、課題を興味深く再構成し、課題へのフィードバックを意味深いものにするなど、教師として果たすべき責任はたくさんあります。学習の不成立を、「勉強する気になれない」学習者だけに帰責するのは間違いです。


「教師-学習者」という関係の中の学びが成立するかしないかは、学習者だけに帰責するべき問題ではありません。「学ぶ気」は、中動態的に学習者の中に到来し、学びがその学習者の中で展開します。ですから、教師は学習者をよく観察し教材や指導方法を吟味して、できるだけ「学ぶ気」が学習者に到来するように努力しなければなりません。しかし学習意欲が学習者の中に生じることを教師は直接にコントロールすることはできません。教師の指導を、学習者の支配(=完全管理)と勘違いしてはいけません。


そもそも中動態について、國分先生は「水が欲しい」という事態を使っても説明していました。「水が欲しい」人は、水への欲求に突き動かされています。水を欲しがる人は能動的ではなくむしろ受動的です。「欲する」を能動態によってしか理解・表現しない近代的発想の限界は十分に自覚され克服されるべきです。(117頁)。


「学びたい」と思う人は、学ばずにはいられない人です。傍から見るとその人は学ぶ努力を重ねている意志強固な頑張り屋のように思えるかもしれません。しかしその人は、学びたいという欲望に駆動されて、少しの時間でもあれば学びに費やさないと気がすまないだけでしょう。武術家の甲野善紀先生は、『できない理由は、その頑張りと努力にあった』(聞き手は平尾文氏)や『上達論』(方条遼雨先生との共著)で、そのような学びの姿を描き出しています。学校教育関係者は、学校教育制度とは無縁に展開し、教室では想像できないほどの成果を生み出している学びにもっと注目すべきです。そのためには、自らの発想の限界を知るべきでしょう。そういった意味で、哲学は実学であると私は思っています。





2022/03/16

ジョルジョ・アガンベン 上村忠男訳 (2016) 『身体の使用』みすず書房

 

 

以下は、アガンベンの『身体の使用』に関するお勉強ノートです。國分功一郎先生らが中動態の議論をする際にしばしば参照するので興味をもち、邦訳書と英訳書を参照しながら自分なりにまとめました。私はまったくイタリア語ができないので、以下の「翻訳」もすべて英訳書からの翻訳にすぎません。またその翻訳も、自分なりの訳語を使ったり、読みやすさを優先した意訳となったりしている部分もあることにご留意ください。

 

 

ジョルジョ・アガンベン 上村忠男訳 (2016)

身体の使用』みすず書房

 

Agamben, Giorgio (Translated by Kotsko, Adam) (2015)

The Use of Bodies. Stanford University Press.

 

 

■ 「身体の使用」における身体は、客体(目的語)でも主体(主語)でもありうる

 

大意:「身体の使用」 (tou somatos chchresis) という表現の中での「身体の」 (of the body) という属格(所有格)は、単なる客体の意味 (in an objective sense) だけでなく、主体の意味 (in a subjective sense) でも理解されなければならない (34-35頁、 p.14)

 

解釈:あるものが主体でもあり客体でもあるような事態は、下でも説明する中動態の表現が廃れた現代ではなかなか考えにくいが、身体の使用についての洞察を深めるなら、このような事態の性質もわかってくるだろう。

日本語文法に詳しくない私なので間違いを言ってしまうことを恐れるが、「身体が動く」「手が出る」「目が行く」といった表現なら、身体・手・目が主語(主体)でありながら、同時にそれを所有しているはずの人間にとっては目的語(客体)として認識することも可能である事態をなんとか表現できるのかもしれない。

 

 

■ ギリシャ語の中動態における主体(主語)と客体(目的語)の関係

 

大意:近代語では「主体 (subject) が客体 (object) を使用する」という思考図式が明確だが、上で述べたようにギリシャ語の「身体の使用」では、この図式を当てはめがたい。これはこの表現が、能動態でも受動態でもなく、古代の文法家たちが「中動」 (mesotes) と呼んでいた態をとっていたからである。

 バンヴェニスト (Benveniste) は、中動態を次のように説明する。「中動態では、動詞が主語の中で生じる過程を示す。主語は過程の中にある (the subject is internal to the process)」。これに対して、能動態では「動詞は、主語が開始し主語の外で実現される過程を示す」 (a process that is realized starting from the subject and beyond him) (注)。(57頁、p. 27

(注)バンヴェニストの論文はフランス語で書かれている。ここの英語表現は The use of the bodyから引用したものにすぎない。

 

解釈:「英語の使用」を「英語を語るための身体の使用」として考えるなら、ホームステイ先でのある人の行動を「英語をしゃべった」とするのが能動態的表現、「英語が出てきた」とするのが中動態的な表現と考えてよいのだろうか(繰り返すが、私の日本語文法の知識不足を怖れる)。

 

関連記事

國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html

國分功一郎・熊谷晋一郎 (2019) 『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』(新曜社)を読んで:「英語が話せる」ことや「やる気が出ない」ことなどについて

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2019.html

 

 

■ 中動態が表現する事態において、主体は動詞が表現する過程の中に現れて影響を受ける。

 

翻訳:一方で、中動態が表現する事態においては、主体が行為を達成する。しかし、主体は客体に他動詞的な働きかけをしない。主体はまずもって、動詞が表現する過程の中に現れて影響を受けるのだ。他方、上の理由がゆえに、この過程は独自の位相(位置と形相)を有している。主体は行為を統括せず、過程が生じる場となっている。「中動」という名が暗示しているように、中動態は、主体と客体が確定できないゾーンに位置している(行為主が、ある意味で客体であり行為の場所であるのだ)。またこのゾーンでは能動と受動の確定もできない(行為主は、自らの行為によって影響を受けるのだ)(注)(58-59頁、p. 28

 

(注)この箇所は、日本語訳ではなく英語訳を基に大意をまとめた (On the one hand, the subject who achieves, by the very fact of achieving it, does not act transitively on an object but first of all implies and affects himself in the process; on the other hand, precisely for this reason, the process presupposes a singular topology, in which the subject does not stand over the action but is himself the place of its occurring. As is implicit in the name mestotes, the middle voice is situated in a zone of indetermination between subject and object (the agent is in some way also object and place of action) and between active and passive (the agent receives an affection from his own action.)

 

この中動態の観点からすれば、 “chresthai” という動詞の客体が対格 (accusative, 直接目的語・ドイツ語の4)ではなく、つねに与格 (dative, 間接目的語・ドイツ語なら3)や属格 (genitive, 所有格・ドイツ語なら2) で表されるかがよくわかる。中動態の過程は、能動的な主体から、行為とは切り離された客体に向けられた過程ではない。中動態的過程は、自らの中に主体を巻き込む。また、主体は同じように客体においても現れ、主体が客体に「与えられる」のである。(The process does not pass from an active subject toward the object separated from his action but involves in itself the subject, to the same degree that this latter is implied in the object and “gives himself” to it.)

 ゆえに “chresthai” の意味を以下のように定義することもできるだろう。この動詞は、ある者が自分自身と結ぶ関係、その者がある特定の存在者と関係している限りにおいて受ける影響を表現している(it expresses the relation that one has with oneself, the affection that one receives insofar as one is in relation with a determinate being.) 59頁、p. 28

 

追記:与格構文の発想も中動態の発想に近いと思われるので、以下に中島岳志が説明するヒンディー語の表現について短くまとめる。

中島岳志は中島・若松 (2021) の中で、ヒンディー語の与格構文について説明する。彼が説明するヒンディー語の表現を日本語に翻訳するなら「私に、あなたへの愛が宿った」「私にヒンディー語がやってきてとどまっている」となる。つまり「私はあなたを愛している」といった表現に含意されるように、<私があなたを理解した結果、好意をもった>というのではなく、「私に、あなたへの愛が宿った」は<私はあなたに対する愛に翻弄され、自分としてはどうもし難い>といった事態をヒンディー語の与格構文は表現している(日本語慣用表現なら「惚れてしまった」が近いだろうか)。同様に、言語使用についても、<私という主体がヒンディー語という客体を獲得し、自らの意思でその客体を自在に操作している>のでなく、<私がヒンディー語と関わり、ヒンディー語が私の中にとどまって時折私の口から出てくる>といった事態をヒンディー語の与格構文が表しているといえるだろう(日本語でしたら「英語ができるようになった」ぐらいが近いのかもしれない)。

中島岳志・若松英輔 (2021) 『現代の超克』 ミシマ社(147頁)

 

 中島はヒンディー語の与格構文についての文法説明(「自分の意思や力が及ばない現象については与格を使って表現する」)に得心し、言語獲得についても次のように表現する。

 

「私が言葉を所有しているのではない。言葉は私の能力ではない。私は言葉の器である。言葉は私に宿り、また次の世代に宿る。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。」(52頁)

 

 さらに中島 (2021) は、この言語獲得の「与格的方法」(=「Xが私にYする」)の発想が、近代においては「主格的方法」(=「私がXYする」)の発想に取って代わられたとしている。さらに近代の主格偏重の考え方は、与格的方法を「前近代的なもの」「怪しいもの」「正常ではないもの」して排除してきたとも述べる。(59頁)

だが、名人・職人・達人と呼ばれる人たちは、与格的な様態についてしばしば言及する。染色家で人間国宝の志村ふくみは「色をいただく」という表現をよく使い、料理家の土井善晴はおいしさを「やって来る」ものであり料理人にとっての「ご褒美」であると語るそうだ。(66-67頁)また、日本語には「思いがけなく起こること」を意味する「ふいに」「ふと」「つい」「はたと」「やにわに」「たまさか」「とっさに」「思いがけず」といった表現が多いことも指摘する。(78頁)

中島岳志 (2021) 『思いがけず利他』ミシマ社

 

 中島が解説する与格構文・与格方法も、中動態に似た事態を描写しているようだ。どちらにおいても、「主体が客体を管理する(=行為を意図し実行する)」という事態ではなく、「主体が客体に関与する中で、主体が客体に影響を与えられ、客体に関する出来事が主体を舞台として到来する」といった事態を表現している。主体が他動詞的に客体を操作するという近代的発想の中で勢いを失ったように見える中動態や与格構文の発想を取り戻すことで、私たち近代人も自らの認識の幅を広げられるかもしれない。

 

 

■ XYを使用するとは、まずもってXX自身を使用するということである

 

翻訳:何かを使うということは、すべて自分自身を使うということである。何かを使うという関係に入るためには、私はそれに影響を受け、それを使う者として自らを構成しなければならない。人間と世界は、使用において、絶対的かつ相互的に内在している。何かを使う時、まさにそれを使用する者の存在が最初に問題となるのだ。(every use is first of all use of self: to enter into a relation of use with something, I must be affected by it, constitute myself as one who makes use of it. Human beings and world are, in use, in a relationship of absolute and reciprocal immanence; in the using of something, it is the very being of the one using that is first of all at stake.) 61頁、p. 30

 

解釈:「XYを使う」場合、注目されがちなのはXYの関係性だけだが、実はXYを使う場合、Xは自分自身(X)を使いこなさねばならない。つまりYを使用することにより、X自身にも変化が生じなければならない。その変化したXこそがYを使用するのだとも言えるだろう。

 ただこの場合の「使う」や「使用」は、主に習慣的な使用、あるものを使うことが常態化した使用と考えるべきだろう。その留保を頭に入れて、下の例を考えてみたい。

 ある者が武術で剣を使うことを学ぶ場合、その者は剣を使うための身体作法を学び、自分の身体をいわば作り変えなければならない。さもないとその者は「剣に使われているだけ」とも言える受動的な状態になり、とても主体的に剣を使いこなしているとは言えない。とはいえ、主体的に剣を使うとは、その者が剣という道具から一切の影響を受けずに、剣を振り回すだけというわけではない。武術者は、剣の重みそのものや形状から来る重心あるいは剣の動きの勢いなどを感知し利用できるような身体を練り上げる。俗に言う「剣と一体になって」動く。その動きは武術者自身の動きであると同時に、剣によって導かれた動きでもある。武術者は動く主体であり動かされる客体でもある。剣は動かされる客体であり武術者を導く主体でもある。剣を使うことを学んだ者は、以前のその者とは異なる存在である。人は、剣を使うために、自分自身を変えなければならない。

 人が車を使いこなす、つまり車を運転するようになる場合においても、人は自らを作り変えなければならない。人はハンドルやアクセル・ブレーキなどで車をコントロールする。しかし車に乗るにつれ、人は車がカーブする際の横方面の重力移動などにつられて思わずブレーキを踏んだりする。いわば車という客体に、運転手という主体が操られる。ここにおいて、「主体とは独立し、主体に操られるだけの客体」といった主客関係を想定することは困難だろう。

 

補注:ここでは人が何かを使うという事態を、主体と客体の関係およびその逆転という二項関係で説明しているが、ラトゥールの作用起因性 (agency) はもっと多くの要因が絡んだネットワークの関係を使った説明となっている。

 

関連記事

B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) “Reassembling the social” OUP

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/b-2019bruno-latour-2005-reassembling.html

 

 

■ 予め定められた機能が使用を生み出すのではなく、使用が機能を作り出す。

 

大意:生きているもの (the living) は、ある目的を予め有しており、その目的を達成するという機能のために身体の各部分を使うのではない。そうではなく、生き物は身体の各部分との関係を築く中で、それをどう使用するかを見出す。身体の使用と機能においては、身体の部分が存在しそこから使用が見い出され、そこから機能が生まれてくる。身体は、身体の使用と機能に先行して存在する。目的とする機能が予め存在し、その機能のために身体を使用するのではない。(96頁、p. 51

 

解釈:身体の使用と機能を、人工的に作られた道具の使用と機能と同じように考えてはならない。人工的道具は、何かを達成したいという目的をもった設計者が、その目的達成という機能のために作成したものである。人が人工的道具を手にするのは(通常の場合において)、その道具の設計者が想定した機能を果たすという目的をもっているときのみである。

 これに対して身体は、仮にそれを「道具」と考えるとしても、極めて汎用的な道具であり、その点で人工的に作成された道具とは大きく異なる。私たちはまず身体を与えられる。赤ん坊がよくやるように、私たちはその身体がどのように動くかを学ぶ。その過程で、身体がどのような機能を果たしうるかを学ぶ。もちろん先人がある機能を果たすために所定のやり方で身体を動かすのを見て、その一連の身体使用を学ぶこともある。だが身体の使用を、そういった用途だけに限定するのは、身体に対する誤解である。身体を使うとは、所与の機能・目的に限らず、さまざまな機能・目的のために使用できることを学ぶことである。私たちは身体を使用する中で新たな機能や目的を見出す。

 身体と同じように汎用性の高い道具が言語であろう。私たちは物心ついたら第一言語と共にいる。むろん多くの言語表現は、周りの大人が行っているやり方で特定機能を果たすために学ばれる。だが、それが言語獲得のすべてではない。教育を受ける機会に恵まれた子どもは、直接の実利的目的をなんらもたない物語を読み、言語がこれまで自分が知らなかった感情や思考を表現できることを知る。子どもは、物語の言語の中から新たな言語の使用法を知り、その使用と共に新たな感情や思考を学ぶ。続いて物語で知った表現を適宜組み替えて、自ら新たに言語を組み合わせることを覚えると、これまで誰も使わなかった表現を生み出し、これまで存在しなかった事態を表現する。さらには表現という用途からも自由になった人は、ナンセンスともいえる言葉遊びにおいて、新たな言語との関係を見出し、言語使用の範囲の中にこれまでになかった機能や目的を付け足す。

こうなると、言語を学ぶことは、実務的な慣用表現を身につけるだけに終わらないことがわかる。喫緊の目的を離れても言語と関わることを覚え、その中から言語使用の新たな可能性を見出せることを実感することも言語学習には含まれる。言語教育は、動物に「お手!」「待て!」といった命令に従うことを教える調教とは本質的に異なる(人間への言語教育と動物への調教の違いは、教えられる言語表現の数だけに求められるべきではない)。人間の言語教育は、言語使用の特定の用途だけではなく、言語使用の可能性一般を教えることである。

だが外国語教育は、しばしば人工的道具の使用を教えるように遂行される。所定の機能を達成する表現が選定され、それを暗記し自在に再現できるようになることが外国語教育の目的と誤解される(そして研究者と業者はその再現を「評価」方法として厳密にしようとやっきになる)。もし特定表現の再現が外国語教育の目的ならば、紙や電子媒体での頻出表現集が外国語教育の目的を体現していることになる。それならばその表現集を購入すればいいだけだろう。そもそも、特定表現の再生が外国語教育の目的というのは、あまりにも貧困な考え方だろう。

外国語学習者は、いわば「外国語と遊ぶ」ことを許されなければならない。外国語の新たな並びに出会ったり、それを自ら作り出したりして、その可能性を吟味する。そうやって自分が外国語と親しむにつれ、その外国語では許される並び・許されない並び、頻出する並び・珍しい並びがわかってくる。その知識をうまく使いこなすことによって、外国語表現の可能性を広げてゆく。

外国語表現の可能性は、それまでの学習者が知らなかった機能や目的を表現する可能性も含む。例えば英語は日本語に比べてはるかに肯定・否定 (Yes/No)を明確に述べ、可算・不可算の区別を徹底し、結論を先に述べ詳細は後述する。英語を知る前の日本の子どもに、肯定・否定の明確化や可算・不可算を峻別、あるいは結論の先述といった欲望はそれほどないだろう。だが英語を学び始めた子どもは、英語を使い、そのことによって逆に英語に使われる経験(=主客関係の逆転)を繰り返す中で、自分自身を変容させ、英語的な身体ひいては英語的な心を生み出す。その新たな自分は、Yes/Noをはっきりと述べたり、事物の具体性(可算性・不可算性)にこだわったり、最初に結論を述べたいという欲望を見出すかもしれない。日本語しかしらない時代にはなかった欲望である。

外国語を使うということは、外国語に使われることででもある。外国語使用は、使用者と使用言語の主客関係が始終交代し続け、外国語使用者がそこから新たな自己を創出することである。外国語学習は、学習者がそれまで考えてもいなかった目的ひいては自分自身を生み出すことがある。

 

 

■ 生きるとは、自分が自分自身と自分自身以外に関わることであり、そこから新たな自分を生み出し、その自分を使うようになるということである。

 

翻訳:生きているものが自分自身を使用するとは、生きているものが生きて自分以外のものと関係をもつようになる中で、常に自分自身と関わり合い、自分自身を実感し、自分自身を自分自身に馴染ませるという意味においてである。自己とは自己を使用することに他ならない(The living being uses-itself, in the sense that in its life and in its entering into relationship with what is other than the self, it has to do each time with its very self, feels the self and familiarizes itself with itself. The self is nothing other than use-of-oneself.) (101-102頁、p. 54

 

解釈:自分自身とは自分の奥深くに眠っている静的な存在物・対象物ではなく、生きる中で他者と自分自身に関わるために使われ、そのことによって変容してゆく現象である。関わりという使用を離れた本来の自己といったものを想定するのは幻想にすぎない。自己はさまざまな自己の使用において展開してゆく現象である。

 この意味で「本当の自分自身が見つかるまで、何もしたくない」というのは、悪い意味の引きこもりにつながりかねない生の否定であろう。自分というものは、何かやっているうちに見つかり、さらに生き続ける中で変化しつづける現象である。

 

補記1:私はまだ「自分自身」と「自己」という表現の使い分け方をまだ見出していない。

補記2:上で「現象」ということばを使ったときに思い出したのは宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭部分であった。とはいえ私は賢治作品をよく理解しているとはとても言えない。

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

 

■ 存在は、現存・本質とか可能・偶発・必然とかいった区別より以前からある(あるいはその外部にある)。存在が主体のように見えるのは、存在が使用されてから後のことである

 

翻訳存在とは、その原初的な形式においては、実体ではなく、自己使用である。存在は、基体として現実化することはなく、使用の中に漂う。この意味で「使用する」は、元型的な様態動詞として存在を定義している。「使用する」は元型的な様態動詞として、現存/本質という存在論的差異や、可能性/不可能性/偶発性/必然性といった諸様態の分節化に先立っている(少なくともその分節化の外部にある)。主体―あるいは基体―のようなものが「私は○○である/できる/できない/しなければならない」などと言うためには、自己は実体性の外部にある使用において構成されなければならない。(being, in its originary form, is not substance (ousia), but use-of-oneself, is not realized in a hypostasis, but dwells in use. And “to use” is, in this sense, the archmodal verb, which defines being before or, in any case, outside its articulation in the ontological difference existence/essence and in the modalities: possibility, impossibility, contingency, necessity. It is necessary that the self first be constituted in use outside any substantiality in order that something like a subject –a hypostasis—can say: I am, I can, I cannot, I must …)104-105頁、p. 56

 

解釈:人間においても、「本来の私」といったものが確固たる実体として予め存在しているわけではない。私たちは日常的に「私は○○である/でない」「私は〇〇できる/できない」などと語るが、その際の「私」がそれなりの恒常的な存在であるように思えるのは、その「私」がそれまでに自分自身を使用して、その「私」も周りの人々も、その使用の中に特定のパターンを見いだせるようになったと思っているからである。だがその「私」は自他の明確な境界線をもった実体ではない。「私」とは、ウィトゲンシュタイン流に言うなら、その時々の「私」が家族的類似性で連なって1つの集合体とみなされるようになった現象の総称であろう。また、仏陀的に語るなら「諸法無我」ということばでもって虚構と定められる現象に過ぎないだろう。

 存在が主体のように見えるのは、存在が使用されてから後のことである。逆に言うなら、使用以前の存在を実体として想定すると不要な哲学的難問を生み出してしまうだけである。

 

 

■ ある行為を行う習慣とは、その行為を行う自己を使用するということである。つまり習慣とは、ある行為とその行為を行う自己の関係から構成されているその人の生き方である

 

翻訳:習慣は、使用という概念を通じて、「潜在的に可能という状態なのかそれとも実働している状態なのか」という単純な二項対立を超えて、現実的な存在として認められる。この意味で、もし習慣が常に自己の使用であり、自己の使用とは(これまで確認してきたように)主体と客体の二項対立を中和することを意味するのなら、習慣を所有し、それを使うか使わないかを決定する主体が存在する場所などない。自己とは、使用の関係によって構成されるものであり、主体ではない。自己は、使用についての関係に過ぎないのだ。 (Use is the form in which habit is given existence, beyond the simple opposition between potential and being-at-work. And if habit is, in this sensei, always already use-of-oneself and if this latter, as we have seen, implies a neutralization of the subject/object opposition, then there is no place here for a proprietary subject of habit, which can decide to put it to work or not. The self, which is constituted in the relation of use, is not a subject, is nothing other than this relation. 110頁、p. 60

 

解釈:「彼は英字新聞を読む習慣をもっている」という場合、現時点での「彼」が実際に英字新聞を読んでいなければならないのか、それとも読もうと思えば読める状態にあるだけでよいのか、といった論争はあまり有益ではない。

先に「XYを使用するとは、まずもってXX自身を使用するということである」として、使用を自己使用と定義した。もしさらに、習慣も使用すなわち自己使用と規定するなら、習慣とは、「ある主体Xが客体Yを習慣的に使用する中で、X自身がYによって作り変えられていること」と説明できる。英字新聞の例なら、「彼は英字新聞を読む習慣をもっている」は、「彼は英字新聞をしばしば読むことによって自分を英字新聞の読み手として使用し、その中で彼自身がそのような人間として作り変えられている」と言い換えることができる。

ここでは「彼」という主体が「英字新聞」という客体を読むという図式は残っているが、上の定義の中での「彼」は「英字新聞」および「英字新聞を読む自分自身」によって再構成される客体でもある。したがって、習慣=使用=自己使用という考え方において、「客体からは独立して客体を自由自在に操作する主体」といった概念を使う意義はほとんどない。習慣とは、ある行為とその行為を行う自己の関係性から構成されているその人の生き方を指している。

 

 

■ 習慣的な使用は、その人のあり方であり生き方である。それを対象化・客体化し実体化することは知的な落とし穴である

 

大意:有名なピアニストのグレン・グールドは、ピアノを演奏し、ピアノ演奏の習慣をもっているという意味で自分を使用している。彼は、現時点でピアノを弾いているか弾いていないかには関係なく、彼はピアノ使用において自分自身を構成しているのである。この事態を、「グールドは、ピアノ演奏の潜在的可能性を有しそれを自在に実現できる」 (the title holder and master of the potential to play, which he can put to work or not)などと表現することに積極的な意義はない。習慣としての使用は、1つの生き方であり、主体が所有している知識や能力ではない(Use, as habit, is a form-of-life and not the knowledge or faculty of a subject.)

この考え方は、近代が育ててきた主体とそれがもつ能力という図式を完全に書き換えることを意味している。どんな人間も、行為したり制作したりする能力を所有する超越的な存在ではない。人間は、自分自身と世界を使用しながら、自らを経験し自らを構成して生きている存在である。(they are living beings that … have self-experience and constitute-themselves as using (themselves and the world).

 

付記1:原文のイタリア語は知らないが、上の英訳では a “form-of-life”という表現が見られる。これはウィトゲンシュタインが『哲学探究』で使った表現であり、ついつい「生活様式」や「生の形式」などと訳したくなるが、ここではあくまでも日常的に使える概念として「生き方」と訳した。

付記2:上の英文でとしている部分は、 “in the use and only in the use of their body parts as of the world that surrounds them” ですが、私はこの “as of the world” の解釈ができないままでいる。

 

解釈:近代人は、「<主体>が<対象>を<行為する>」という他動詞的発想が好きである。この発想においては、主体は対象からも行為からも独立している。主体が対象から影響を受けることはないし、主体は行為の開始や中止を自力のみで決定できると考えられている。ある人が英語を話せるという事態においては、ある主体が「英語」という対象を「話す」という行為を自在に実行し、かつその主体はその対象からも行為からも何の影響を受けないという想定が(暗黙のうちにおいてかもしれないが)なされている。

この発想はさらに延長し、「英語を話す」という対象-行為の組み合わせが「英語スピーキング能力」と対象化され、ある主体が「英語スピーキング能力」という対象を「もっている」という(状態動詞的な)行為をしているという図式で理解されることもある。対象化・客体化された「英語スピーキング能力」は、さらに抽象化され、他の人と異なる程度で有している一般的能力と理解され、さまざまなテスト開発が始まる。テストは「英語スピーキング能力」をそれが定めた一連の操作的定義で実体化する。

しかし「彼は英語スピーキング能力をもっている」という事態は、「彼はグラスをもっている」という事態とは明らかに異なる。後者の所有は一時的なものであり、その人はグラスを近くのテーブルに置くこともできる。それがパーティ会場なら、その人はグラスを置いた後に会場を立ち去り、その人とそのグラスの関係性はそれ以降まったくなくなってしまうことも可能である。

だが「英語スピーキング能力をもっている」人は、その「英語スピーキング能力」をどこかに置き去りにすることはできない。この能力は彼という存在そして生き方の一部を構成しているので、その人はこの能力を自分から切り離すことはできない(ましてや他人に譲渡することもできない)。

またこの能力はその人のあり方と深く関わっているので、その人がある理由で心理的に深く動揺していたら、その人がまるで英語をしゃべれなくなることも十分ありうる。だからといってその人は能力を喪失してしまったわけではない。その人は、英語を話すという身体使用を自分の一部として自分を作り変えている。ゆえに自分自身が不安定な時には、英語使用も不安定になる。だがその人が安定を取り戻せば、その人は英語使用者としての自分を取り戻し、英語を使う。

「彼は高い英語スピーキング能力をもっている」とは無邪気な表現かもしれない。だがそこから「英語スピーキング能力」を対象化し抽象化した上で、操作的定義で実体化したりすれば、「スピーキングテスト」といった事物が生まれてくる。それが大規模に実施されることは、一部の研究者や業者にとっての吉報だが、少なからずの学習者と教師にとってはいい迷惑かもしれない。

ウィトゲンシュタインは、私たちが使うことばが、私たちの思考をいかに歪めるかを明らかにしたが、上で述べた問題意識をもって『哲学探究』をゆっくり読み直したい(だが、この職場では読書をする時間がほとんど取れない。現場経験は増しているが、それを的確に振り返るためにも読書して考える時間がほしい)。

 

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■ 人間が生きるということは、どのような生き方で生きるかである。そして人間の生き方とは常に可能性である。

 

翻訳:生き方から分離することが不可能な生とは、生きる形態において、生きること自体が失われてしまうかもしれないような生である。そして生きることにおいて、まず失われてしまうかもしれないのは生きる形態である―こう言ったからといって、この表現は何を意味しているのだろうか。この表現は、生きること―人間が生きること―を定義し、そこにおいてはある特定の生き方・行為・過程が決して単なる事実ではなく、常にそしてとりわけ生きることの可能性であること、潜在的可能性であることを示している。 (A life that cannot be separated from its form is a life for which, in its mode of life, its very living is at stake, and, in its living, what is at stake is first of all its mode of life. What does this expression mean? It defines a life --human life-- in which singular modes, acts, and processes of living are never simply facts but always and above all possibilities of life, always and above all potential. 346頁、p. 207

 

解釈:人間が生きるということは、どのように生きるかということと不可分である。生物学的に生命が保たれているだけでは、人間が十分に生きているとは言えない。人間は、自分が臨む生き方で生きられない場合は、人間として生きられていないとさえ言えるかもしれない。そして人間の生き方は、決して変更不可能な既定事項ではなく、常に可能性に対して開かれている。

 

 

 

■ ある人の「潜在的可能性」を、その人の常日頃の生き方と無縁に想定することは有益な考え方ではない

 

翻訳:潜在的可能性は、それぞれの存在の本質もしくは本性である限りにおいて、宙吊り状態で観想の対象となることはあるが、決して完全に行為から切り離されることはない。潜在的可能性を有する習慣というものは、潜在的可能性を習慣的に使用するということであり、また、そのような使用をするという生き方である。 (And potential, insofar as it is nothing other than the essence or nature of each being, can be suspended and contemplated but never absolutely divided from act. The habit of a potential is the habitual use of it and the form-of-life of this use.) 346頁、p. 207

 

解釈:「ある人はあることを行うことができる」という潜在的可能性について私たちは抽象的に考察することはできる。だが、潜在的可能性は決して行為と切り離して考えてはならない。ある習慣があるということは、ある潜在的可能性をもち、その潜在的可能性をしばしば実現しているということ、すなわちその潜在的可能性がしばしば現実となっている生き方をしているということである。

 例えば20年前に英検1級に合格したが、その後まったく英語を使ったことがない人に対して、私たちは「英語力」といった潜在的可能性があるとはあまり思わない。その人のここ20年間の生き方に英語を使うという経験が皆無だからである。英語使用とは無縁の生き方をしている人に対して、「それでも昔、英検1級を取ったのだから、潜在的には英語力が残っているはずだ」と言ったとしても、それはあまり現実的に有益な立論とは思えない。使用とは習慣的な使用であり、それにより自分自身が変容する。つまり、使用とは使用によっての変容した自分自身を使用することであり、その使用は日々の生き方に現れている。潜在的可能性といえども、実際の行為と無縁に語るべきではない。

 

 

■ ある特定の生き方しか許されない人は、人間として生きているとはいえない

 

翻訳:人間の生き方が、ある特定の生物学的資質によって予め規定されることなど決してない。人間の生き方が、何らかの必然性によって与えられたと考えるのも間違いである。人間の生き方が、たとえ慣習的で、反復的で、社会的な義務のように思えるにせよ、人間の生き方には現実的な可能性 (a real possibility) という特徴が常に保たれている。これは、人間の生き方においては、生きること自体が常に失われるかもしれないということを意味している。つまり、潜在的可能性が帰属し、潜在的可能性を自在に行為に転換するような主体というものはない (There is not a subject to which a potential belongs, which he can decide at his will to put into act)。生き方とは潜在的可能性としての存在であるが、それはできる/できない、成功/失敗する、自分自身を失う/見出すということだけでなく、それ以上に、生き方とはその潜在的可能性であり、潜在的可能性に一致しているからである。そのため、人間は、生きることにおいて幸福が常に失われるかもしれない唯一の存在となっている。人間が生きるとは、取り返しがつかず痛々しいほどに幸福に委ねられているのである。しかしこのことによって、生き方はただちに政治的な意味で生きることとして構成されることとなる。 (346頁、p. 208

 

解釈:人間の生き方は、たとえそれが社会によって与えられたものに過ぎないように見えたとしても、それは、とりあえず現実になっている可能性の1(a real possibility) と考えるべきである。生き方とは、常に可能性に開かれている。現時点での生き方以外の生き方の可能性をすべて否定された人間は、幸福ではありえない。可能性を奪われた不幸な生き方は、人間の生き方としては認めがたい。人が生きるということは、生物学的な生命維持以上のことであり、生き方を選ぶ自由に支えられている。その自由は常に発揮されないにせよ、潜在的可能性としてその人の生き方に組み込まれていなければならない。自由が必要という意味において、人間が生きるということは、政治的な問題となる。

 

 

■ 生き方とは、ある人が生きる中で現れてくるものである

 

翻訳:生き方とは、主体のように生きることに先立って存在し、生きることに実体と現実性を与えるものではない。事態はまったく逆で、生き方は生きることにより生成される。生き方は「単に形式に過ぎないものにより作られる」のである。ゆえに、生き方が生きることに対して、実体的な意味においても超越的な意味においても優先するわけではない。生き方とは、存在し生きることの様式に過ぎない。生き方が人間を[予め]決定してしまうことはない。同様に、人間が[予め]生き方を決定してしまうこともない。しかし、生き方は人間と不可分なのだ。 (Form-of-life is not something like a subject, which preexists living and gives it substance and reality. On the contrary, it is generated in living; it is “produced by the very one for which it is form” and for that reason does not have any priority, either substantial or transcendental, with respect to living. It is only a manner of being and living, which does not in any way determine the living thing, just as it is in no way determined by it and is nonetheless inseparable from it.) 375頁、p. 224

 

補注:文中の “the living thing”は議論の性質を考えて「人間」と意訳した。

 

解釈:生き方とは、人が生きることとは独立して存在する実体ではない。ある生き方があって、それがある人が生きることを決定づけることはない(ここではとりあえず、幸福追求の自由が認められた近代民主主義社会の人間のことだけを考えている)。生き方は、ある人が生きる中から生まれてくる。だがその人は生まれたときからその生き方を生み出すことが運命づけられていたわけでもない。人が生きて、自分自身や自分以外の存在と関係をもちながら、自分自身を作り出していく。その自己生成の過程で、ある種の行為が頻繁に行われ、それがその人の習慣(生活の中に組み込まれた潜在的可能性)となる。人間とその生き方は、片方が、もう片方に先行することも、もう片方を決定づけることなない。人間が日々生きて、ある種の自分を習慣的に使用するにつれ、生き方は現れてくる。

 

 まず特定の生き方があってそれがある人を作り出すとか、まず特定の人がありその人がある生き方を予定通りに作り出すわけではない。前者はおよそ抑圧的な社会でのみ可能で近代人は想像しかできない事態であり、後者は神話的な想像に過ぎないであろう。

 

 



"AI is an empowerment tool to actualize the user's potential."

  本日、「 AIはユーザーの潜在的能力を現実化するツールである。AIはユーザーの力を拡充するだけであり、AIがユーザーに取って代わることはない 」ということを再認識しました。 私は、これまで 1) 学生がAIなしで英文を書く、2) 学生にAIフィードバックを与える、3) 学生が...