[この記事は前の記事の続きです]
『質的言語教育研究を考えよう』をめぐるZoom読書会ではブレイクアウトルームの時間が潤沢に設けられました。会の主宰者のご配慮に感謝します。
■ 「人が他人の心を知ることができるのか」という難問について
私のグループでは、なぜか「なぜ研究者は、調査協力者という他人の心をあたかも認識できたかのように語ることができるのか」というド直球の哲学的難問が出てきました(決して私の発案ではありません 苦笑)。
それに対してグループの4人で対話しながら、以下の結論らしきものにたどり着きました(以下には、このブログ記事を書くにあたって、私なりのことばをかなり書き足しています)。
研究者が他人の心を理解できると主張することについて
(ア) たしかに人間は自分のフィルターを通してからしか理解できないものだ。したがって下手をすれば、研究者は自分の主張を再生産し続けるような「研究」しかできない可能性がある。
(イ) だから研究者は、自己理解を深め、自分の認識枠組をまずは知る必要がある。
(ウ) 同時に読書などを通じて、自分のものとは異なる認識枠組も知る必要がある。
(エ) さらに重要なのは、実際のコミュニケーションを通じて、自らとは異なる認識枠組の持ち主と対話することだ。
(オ) そのようにして異なる認識枠組を知り体験することによって、研究者も少しずつ自分の認識枠組を相対化し、さらに他の認識枠組も理解できるようになる。
(カ) 研究者は、そのような自己の理解と変容を日々の訓練として行う必要がある。その訓練を自らに課した上で、研究者は研究協力者に対する理解について、研究協力者自身や他の研究者と対話して、その理解を少しでもまともなものにするべきだ。
(キ) そもそも質的研究は、普遍的真理を獲得しようとするものではないことを理解する必要がある。質的研究は、ある個人・時点・場所からのある対象の見え方を生み出すことである。そのような叙述が集まれば、その知見は「家族的類似性」(ウィトゲンシュタイン)をもったまとまりという形を現すであろう。それぞれの知見の基になっている視点・認識などを互いに自覚した上で、複数の知見の類似点や相違点を明らかにしようとすれば、私たちの洞察も深まるだろう。その洞察の深まりは、いろいろな国・地域のさまざまな時代に関する数多の歴史家の叙述を読み続ければ、人間についての洞察が深まることと似ている。すべての叙述に共通する特徴はない--「人は必ず死ぬ」といった当然すぎる共通性は別にして--。だが叙述からさまざまな類似性や相違点を見出す経験は、新たな対象を理解する際にも必ず役立つであろう。
(ク) さらには、「他人の心を理解できるのか?」という問いが発せられる時にあると思われる「自分の心は確実に理解できる」という前提についても疑う必要がある。「自分の心」も、意識の流動性や無意識の存在を考えると、確定的に把握できるものではない。自己理解を行う自己についても私たちは理解を深めなければならない。
■ 再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い
上で、研究者の自己理解が出てきましたが、これは八木真奈美先生・中山亜紀子先生による第3章(リフレクシビティ)につながります。
両先生は、リフレクシビティ (reflexivity) の訳語としては、「省察性」「再帰性」「反省性」などいろいろあるので、敢えて「リフレクシビティ」というカタカナ語を使うと説明されています(29頁)。
しかし両先生は、それなりに訳語を使い分けています。"Turning back on oneself" という表現を引用した説明では「再帰性」という訳語を使っています(30頁)。他方、"awareness"だけでなく "critical reflection" を必要とする「リフレクシビティ」には「省察性」という訳語を使っています(33頁)。Reflexivityには2つの段階を区別することができると言えるでしょう。
ここで私は、上の違いをreflexivityとreflectionという2つの用語を使って区別したいと思います。Reflexivity (Reflexivität)とreflection (Reflexion) の区別は、ルーマンに基づきます。しかし、彼の理論構成は非常に抽象的かつ難解なので、ここでは彼の区別についての私の解釈でこれら2つの概念を区別します。彼の論考のまとめは、この記事の最下部に「付録」としてまとめるにとどめます。Reflexivityとreflectionは、それぞれ「再帰性」と「省察」と訳すことにします。
再帰性 (reflexivity) とは、自分がある行為を続ける中で、その行為の対象が自分以外のものからやがて自分自身へと移っていくことです。例えば研究者がある観察対象(研究協力者)の様子を観察します。その研究者が観察を続けるなかで、やがて観察対象が自分自身になれば、そこに再帰性が見られることになります。
これはそれほど当たり前のことではありません。たとえばある研究者 (A) は、ある観察対象(研究協力者)を観察した後、次々に別の観察対象を観察し続けます(観察対象の数を増やすことが研究にとって何より重要だとAは思っているのかしれません)。別の研究者 (B) は、ある観察対象(研究協力者)を観察した後、たまたま他の研究者 (C) が同じ観察対象を観察した記録を見る機会を得るかもしれません。BはCによる観察記録をじっくりと観察し、次にCという観察者(研究者)を観察するかもしれません。Cがなぜ自分とは異なる観察をしたのかに興味をいだいたわけです。しかしBは、ついぞB自身に目を向けることはないかもしれません。(Bにとって、自分の観察方法は、自分では意識できないぐらい正しいものなのかもしれません)。観察者がやがて観察の対象を自分自身に向けるという再帰性はそれほど当たり前のことではありません。だからこそ研究においては再帰性が大切だと説かれるのでしょう。
しかし再帰性だけでは十分ではありません。再帰性では、自分自身に目が向けられただけで、自分自身を批判的に理解していないからです。研究者には、再帰性に加えて省察が必要です。
省察 (reflection) とは、自分自身の観察を省みて、そこにある特徴とない特徴を知ることです。「過去の自分自身は、○○の観点からの認識をもっぱら行っていたが、××の観点からの認識をしておらず、結果、云々のことが見えていなかったし、また、見えていなかったことも見えていなかった」などと気づくことです。自分自身という認識システムを省みて、そのシステムの性質を理解するわけです。このように過去の自分自身の認識を対象化したうえで、その特徴と限界を知ることがここでいう省察です。(注)
(注)私の解釈では、ここでの省察は、「自分自身の観察を観察すること、すなわち自分自身で行う二次観察」と言い換えることができると思います。二次観察については以下の記事をお読みください。
関連記事
ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ
研究者--とりわけ自らの方法論に自覚的である必要がある質的研究者--が、自分自身に目を向けるという再帰性は、研究者として必要な資質ですが、それだけでは研究者としての力量を発揮しているとはいえません。研究者としての批判的な分析力は、省察をどのように行うかで示されます。自分自身の認識をいかに対象・客体 (object) として「客観的」 (objective) に分析するかというのが省察の能力です。
省察することを知らずに再帰性を発揮するだけだったら、特に質的研究者は、自己愛的な自分語りを過剰に行ってしまうかもしれません。「この報告を行う研究者は、○○の経歴をもち・・・・」などと際限なく自分自身について語ることは研究にとって不必要です。研究者自身が自分自身について語ることの際限を決めるのは、「研究報告に必要な省察を行うための情報を出すこと」という基準でしょう。自らの認識の特徴と限界(長所と短所)を示すための必要最小限の自己開示が研究者に求められると私は理解しています。
再帰性は必要だが、それを踏まえて省察を行うことこそ研究者の力量だと言うのが私の理解であり、それだからこそ私は再帰性と省察を区別するべきだと考えます。
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付録:ルーマンによる3種類の自己参照の区別
ここで私は虎の威を借る狐としてルーマンの理論的区分に依拠します。『社会システム』第11章第III節以降で展開している3種類の自己参照についての論考です。とはいえ、私のルーマン理解は怪しいものです。かつ、自分なりの訳語を使っているので誤読を招くかもしれません。加えて、この箇所はとりわけ抽象性の高いところなので、以下に示す私の拡張的解釈に混入している誤りを怖れます。また抽象的な議論を少しでもわかりやすくするために、私なりに具体例を補いましたが、それがそもそも間違っているかもしれません。もしルーマンに詳しい方がいらしましたら、間違いをご指摘くだされば幸いです。「(○頁, p. △, p. □)という表記の数字は、それぞれ日本語訳、英語訳、ドイツ語原著のページ番号を指します)。
3種類の自己参照 (self-reference, Selbstreferenz)
(1) 基底的自己参照
(1a) 理解
1つ目の自己参照である基底的自己参照 (basal self-reference, basale Selbstreferenz)で参照される自己は、自己の要素にすぎずない。基底的自己参照は、最小限の自己参照である。基底的自己参照なしに、これ以降の自己参照(再帰性、省察)は不可能だが、基底的自己参照だけで再帰性や省察が成立するわけではない(232頁、p. 443, p. 600)
(1b) 拡張的解釈
間違いを怖れながら私なりの例を補う。<「私は昨日カレーライスを食べた」と私が今言っていること>において、現在の私は、昨日の私という自分自身を参照しているが、これらの<食べた私>と<語る私>2つの私にの間に言及関係以外の特別な関係はない(次に示す自己参照においては、<語った私>と<その語った私について語る私>というように、2つの私が同じ語るという行為においてつながっているという特別な関係をもっている)。<「私は昨日カレーライスを食べた」と私が今言っていること>では、<昨日の私>は<今の私>が、私自身の要素として言及しているだけである。
2つ目の自己参照である
再帰性(過程的自己参照)(Reflexivität/prozessuale Selbstreferenz, reflexivity/processual self-reference) とは、あることの過程にある自己がその過程の以前の段階にあった自己について参照することである。再帰性(過程的自己参照)において、その参照<以前/以降>という区別が生じる。その「以降」の自己が、それ「以前」の自己をその過程の中で自己参照するのが再帰性である。(232頁、p. 443, p. 601)
(2b) 拡張的解釈
<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、今は少し意見を異にしている」と語ったこと>において、現在の<語る私>は、過去の<語った私>について語っている。その2つの<私>は語るという過程おいてつながっており、かつ一方が他方を言及するという特別な関係にある。ここにおける<私>は、語るという過程において構成されている。<私>とは<語った私>でも<語る私>でもある。同時にこの<私>は、今の語り(過程的自己参照)により<以前/以後>に区分されている。現在の<私>は、過去とは少し異なる見解をもっているという語りにより、以前の<私>と区別されている。現在の私は過去の私に「再」び「帰」って語っている。
だが、後述するように、再帰性(過程的自己参照)ではある自分が以前の自分を参照しているだけである。「以前の私がシステムとしてどのような区別をしていたのか/いなかったのか」といった省察(3つ目の自己参照)はまだ見られない。
(3) 省察
(3a) 理解
3つ目の自己参照である省察 (reflection, Reflexion) は、自分というシステムが自分自身で認識できることと、自分自身では認識できないこと(=環境)を区分することである。(232頁、p. 444, p. 601)
(3b) 拡張的解釈
再帰性(過程的自己参照)の例は<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、今は少し意見を異にしている」と語ったこと>であったが、省察の例はは<ある人が「私は昨日『あの計画に問題はない』と確かに語ったが、その時の私はXの観点からしか考えておらず、Yや他の観点からは検討出来ていないことがわかった」と語ったこと>になるだろう。省察は、自らの(一次)観察を自らが二次観察することと私は解釈している。
参照文献
Niklas Luhmann (Translated by Jon Bednarz, Jr. and Dirk Baecker) (1995)
Social Systems. Stanford University Press.