『質的言語教育研究を考えよう』については、あるところでZoom読書会が開かれたこともあり、私は読みましたが、その中でも特に第1章、2章、3章、4章を面白く思いました。
第1章(中井好男先生・中山亜紀子先生)と2章(八木真奈美先生・中山亜紀子先生)は、重要概念が簡潔に定義されています。基本的な考えで混乱しがちな人にとってはとても便利な整理となっていると思います。
第1章では「コミュニケーション観」「学習観・学習者観・教育観」「政治性」が、第2章では「量的研究」「実証主義」「ポスト実証主義」「構築主義」(注)「意味」などが簡単にまとめられています。
(注)ただし「構築主義」については、「構成主義」の用語が登場しませんでしたので、そもそもこの「構築主義」が "constructivism"のみを指すのかそれとも "constructionism"も含む意味で使われているのかは曖昧でした(そもそもそのような区別は無用なのかもしれませんが)。
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K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン
これらの中で例えば意味については、「ある出来事や経験が、どのような意味を持つのかを理解するということは、このようにある出来事と、数多くの他の出来事を結びつけ、筋を作り、筋の中でその出来事の意味を理解することに他ならない」(26頁)と、物語的な意味理解を提示したり、「どの程度どんな人々で共有されている意味を対象としたいのか」が問題であると意味の社会性を示したりしています。私は以下の3つの論文で、意味および物語について(1)-(5), (a)-(f) のように理解していますので、この章での説明を共感的に読みました。
意味概念についてのまとめ
意識の統合情報理論からの基礎的意味理論:
英語教育における意味の矮小化に抗して
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53
(1) 意味は、客観的実在物上での主観的経験である。
(2) 意味の経験では、現実性の確定性と可能性の不確定性が統一的に共存している。
(3) 意味は、動態的過程として常に連動的に発展する。
(4) 意味は、理解者の内的な「見通し」の変化として主観的に実感される。その「見通し」は、不確定的な可能性を含んだものとして動態的に現れる。
学校英語教育は言語教育たりえているのか:
意味の身体性と社会性からの考察
https://doi.org/10.18989/keles.6.0_6
(5) 意味は、心の現象(意識の自己展開)であると共に身体の現象(神経回路の自己展開)である。
(6) ことばは、個々人内で成立する意識と社会的に成立するコミュニケーションの両方で用いられる媒体として使われ、個人内の意識的・身体的現象であった意味と、コミュニケーションという社会的な現象で成立する意味を連動させる。
物語概念についてのまとめ
なぜ物語は実践研究にとって重要なのか:
読者・利用者による一般化可能性
https://doi.org/10.14960/gbkkg.16.12
(a) 物語の素材:物語の素材は登場人物であり、登場人物は主に試練における行為と意識の二つの水準で葛藤する存在として描かれる。
<=> 自然科学の素材は明確な指示対象である。
(b) 物語の筋書:筋書は典型的には、「定常状態-破損-危機-修復」という4段階(あるいは「状況説明-問題発生-対応・解決」という3段階で進行する。
<=> 自然科学の筋書きは、「序論(命題提示)-方法-結果-考察」である。
(c) 物語の題材:物語は、ルーマンやアレントが説明したような意味 ―複合的な世界に複数で生きる人間にとっての意味 ―を題材として扱い、現実を描き出す。特に、根底にある題材は、損なわれつつある価値・正統性・規範の意味である。
<=> 自然科学の題材は真理である。
(d) 物語の言語:物語の言語は曖昧(喚起的・比喩的)で、読者にさまざまな想像力を発揮させながら、複数の主観的な実在性を描き出し、世界を多義的・多元的に描く。
<=> 自然科学の言語は一義的で、客観的な実在性を具体的に定義する。そこには「科学者」としての視点しかない。
(e) 物語の基調:物語の基調は対話的多声性である。
<=> 自然科学の基調は独話的単旋律性である。
(f) 物語の実在性:物語の読者は多様な仮定法的実在性を自分なりに統一的に理解する。その統一的理解は,物語を読み終えた読者が「あの話はね…」と語り始める読者が自分なりに書き足し・書き直した物語において示される。物語は読者を作者にし、読者に新たな物語を生み出させる。
<=> 自然科学の実在性は直説法的な実在性である。
李暁博先生による第4章(ナラティブ・インクワイアリ)では、他人のナラティブを、研究者自身の頭の中にある観念・理論・枠組みを強化するためだけに使うという誤りの危険性を述べています。上の (e) でしたら、「独話的単旋律性」(=研究者一人の声しか聞こえず、その声は常にその研究者の主張が真であることを論証していること)といえるでしょう。そのような研究は、ナラティブ・インクワイアリ(あるいは質的研究)とは呼べないと李先生は警告します(51頁)。
李先生は、ナラティブ的(物語的)に考えることが大切である理由を、中国の古典『史記』が二千年経っても延々と読みつがれていることに求めます。と中国の研究者の指摘によれば、『史記』の著者である司馬遷は、「歴史人物や歴史の出来事の記述にあたり、その人物、あるいはその歴史的な出来事に含まれている多声性、解釈の多様性、そして歴史的・文化的な意味を、なるべくナラティブのままに表出させるように意図的にしていた」そうです(53頁)。つまり司馬遷は、人物を固定観念的に捉えることを避けていたわけです。李先生は、そのことにより『史記』の歴史記述が(上で述べたような意味で)物語性を豊かにもったからこそ、多くの人を魅了し続けていると論じています。
研究者という人種は、「人間は現代に近づけば近づくほど賢くなる」と考え、時に「10年以上前の論文を引用することは学問的な意味がない」とまで言い切ります。ですが、少なくとも人間がかかわる研究については私はそうは考えません。
人文系においてはむしろ "There is nothing new under the sun." と考え、「温故而知新」を大切にするべきでしょう。安田登先生(特別授業『史記』)は、漢字の語源を参照しながら、「温故而知新」を、<古(「故」)いものをぐつぐつ煮て「温」めてしばらくすると(「而」)、斧で木を切った時に現れるような切断面(「新」)が、矢が飛んできて地面に至るように現れる(「知」)>と解説します。
そのように古今東西の古典でずっと考えられてきたテーマを、近現代の研究も参考にしながら考え抜くことが人文系の仕事だと私は思っています。そういった意味で、言語教育関係者は、『史記』をはじめとした古今東西の古典をもっと読み、その洞察に助けられながら、言語教育の毎日の営みをじっくりと観察するべきと私は考えます。古典を読まず、現場の観察も怠りながら、最新論文ばかり引用して論文を書き続ける著者の論考は底が浅いように思いますが、実際のところはどうなのでしょう(と偉そうに説教する私自身が、本を読めず、授業の観察と省察も最小限しかできていないのですが・・・)。
この記事はそれなりに長くなりましたし、次に大きなテーマ(リフレクシビティ)が出てきますので、この記事はここでいったん終えることにします。