『ナラティブでひらく言語教育』についても著者によるZoomシンポが開かれましたので参加しました。シンポの主宰者・登壇者・関係者の皆様、ありがとうございました。
この本は理論編でかなり詳細に先行研究をまとめているので、一部の読者はその分量や用語の多さに圧倒されるかもしれません。(もちろん、それだけに修論や博論を書こうと思っている人には格好の書籍となっているのですが)。
少し怖気づいた場合は、まずこの本の3名の編著者が共同で書いた第5章「言語教育におけるナラティブの留意点と展望」を読むとナラティブを使った研究の見通しが得られると思います。
第5章の中でも特に私が大切だと思ったのは次の3点です。
(1) 現場体験の重要性:「語りの意味を深く理解するためには、その語りが生まれた現場=フィールドにおけることばの使い方に精通している必要がある」 (p. 83)
(2) 自覚に基づく無知の姿勢:研究者は自身と自分の考え方に自覚的であった上で、調査協力者の語りを聞く際には「無知の姿勢」で臨むことが重要。 (p. 83)
(3) 多様な質的研究の中の選択:質的研究は、認識論や方法論が多様であり、研究法は背景理論に沿って開発されることが多い。自身の目的にあった研究法を選択することが不可欠。
(1)の現場体験の重要性は、もっとも大切なことだと私は思います。たまに論文はたくさん書くけれど、実際に会って話を聞いてみたら、専門用語をやたらと使うけれど、観察現場の様子をうまく再現できない研究者もいます(自分のことを棚に上げた批判でごめんなさい)。その人が観察したはずの現場の雰囲気がいっこうに伝わってこないので、こちらとしてはうまく理解できません。
かといって専門用語のことについて尋ねると、「いや、論文にはそう書いてありましたから私もそのようにその用語を使っているだけです」といった答えばかり返ってきて、その人がその用語を自分の中でうまく咀嚼していないことがわかったりします。そのように頭でっかちで現場の感覚がわかっていない人の報告には私はどうもうまく共感できませんし、聞いていてむしろ退屈します。言語教育といった実際の現場をもつ研究者にとっては、まずは現場をよく知ることが大切だと私は考えます。
(2)の自覚に基づく無知の姿勢のうち、研究者が自らの認識について振り返り(=再帰性)理論的に反省できること(=省察)の重要性については、下の記事で書きましたのでここでは繰り返しません。
関連記事
「人が他人の心を知ることができるのか」という難問、および再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/reflexivity-reflection.html
しかしここでは、再帰性と省察に加えて研究者が「無知の姿勢」でもって研究協力者の語りを聞くことが進められています。「無知の姿勢」とは、研究者がこれまで学んできた専門知識や積み重ねてきた体験をとりあえずは脇において、自分はむしろこの語られる世界については無知であるという前提で語りを聞く態度です。
研究者はしばしば研究協力者に対して「それは○○です」と教えたり診断したりしますが、むしろ研究者は語りを聞く際には、研究協力者から学ぶつもりでゼロから話を聞くように努めるのが「無知の姿勢」です。調査協力者から学ぶ当事者研究でしたら「初心対等」の原則に相当するでしょう。
参照記事
心理学用語の学習:ナラティブ・セラピー
https://psychologist.x0.com/terms/263.html#1
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英語教師の当事者研究
(3)の多様な質的研究の中で研究者はどの質的研究の方法と理論を選べばよいのかについては、まず研究者はこれまでどのような方法・理論が提唱されてきたのかを、例えば本書の第1章から第4章のような包括的な解説を読んで勉強するべきでしょう。(ですが、それよりも大切であり優先されるべきなのは現場理解であることは (1) で述べたとおりです)
しかしその勉強は果てしなく続きかねません。読めば読むほど、読まなければならない文献が増えてきてしまっては、自分がどの質的研究の方法と理論を選べばよいのかいっこうに決定できません。またもっとも大切な現場での時間がどんどん削られてしまいます。
となると、ある程度質的研究の概観を知ったら、あとは「雰囲気」や「相性」で決めるのが一番現実的だと私は考えます。(3)(つまり本書)では自分の研究の目的にかなった研究法を選べという助言がなされていますが、質的研究では現場観察を重ねていくうちに当初の研究目的や研究仮説が変化していくことも多々あります。ですから、私は「どれが自分にとって一番しっくりくるか」という感覚(あるいは直観)で決めるのが妥当だと考えます。
「雰囲気」「相性」「感覚」「直感」といった合理的でない(irrational) 用語を出すと、とたんに怒り出す人がいますが、ユングが指摘しますように、感覚や直観といった合理的とはいえない(=割り切れない)機能は、思考や感情といった合理的な機能(=割り切りやすい)機能と同じように、人間の行動を作り出しています。合理的に考えたら「大量の文献を読まなければならない。しかしその時間はない」というジレンマに陥る場合は、合理性を超えた感覚や直観に頼ることは私たちがよくやることでもあります。
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C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html
関連論文
人間と言語の全体性を回復するための実践研究
https://www.jstage.jst.go.jp/article/gbkkg/12/0/12_14/_article/-char/ja/
また臨床家としての評判が高い精神科医の神田橋條治先生も、精神療法の選択については、まずは自分にとってよい「雰囲気」をもつ精神療法を選べと助言しています。理論についても自分が尊敬できる師匠が教える理論をまず学ぶことを勧めています。
研究、特に人間についての研究では、研究対象の人間を人格的存在としてとらえるために、研究者自身が自らの人格をかけて働きかけます(この場合の「人格」とは必ずしも道徳的含意をもたない「生き方」「あり方」「過去・現在・未来」といったことばで読み替えられる意味をもっています)。「人格」「生き方」「あり方」「過去・現在・未来」には、当然、思考や感情といった合理的な側面(注)だけでなく、感覚や直観といった非合理的な側面にも必要ですから、人間に関する研究をする者は、感覚や直観を働かせることをタブー視する必要はありません。
(注)感情を「合理的」とみなすことがよく理解できないとする人もいますが、感情は例えば「好き/嫌い」のように「A / Not A」の形で割り切れます。それに対して感覚は、もうなんとも言い難くて分析不可能な認識ですし、直観はただそれだけが単独で突然に到来する認識です。ですから、感覚と直観は割り切ることができず、ユングはそれらを「非合理的」(=合理性の外にある)としています。
神田橋先生の見識については、以前にまとめたブログ記事の一部を下に転載しておきましたから、ご興味があれば御覧ください。
この本のシンポに参加して総じて感じたことは、量的研究と質的研究のそれぞれが言語教育の改善を目指す姿勢は、中央集権的な社会改革と分散的な社会改革の違いに似ているということでした。
量的研究--少なくとも自然科学を模した量的研究--によって言語教育を改善しようとする研究者は、どの教育現場・教師・学習者にも当てはまるような「真理」を探し当てて、それを適用することを政治権力者に提言します。政治権力者としても政策には科学的な裏付けが欲しいので、そのような「真理」を歓迎します。かくして「今後は○○の方法で指導すること」といった通達が全国津々浦々に届けられることになります。
他方、質的研究で言語教育を改善しようとする研究者は、教育現場・教師・学習者によってさまざまな実践や考え方があることを熟知していますので、互いに微妙に異なる研究を地道に蓄積し、それらを比較対象しながら、教育に対する洞察を互いに高めようとします。それは精神科医やカウンセラーが多くの異なる事例報告を聞き、それについて語り合うことによって、専門職としての力量を少しずつ、必ずしも明言化できないしましてや普遍化は不可能な知恵として蓄積してゆくことにも似ています。
質的研究によるそのような改善は、一部の知識人・権力者が正しい知識を伝えて社会を一斉に変えようとする中央集権的な社会改革とは異なる、分散的な社会改革です。教育現場・教師・学習者などの点で似通ったそれぞれの共同体で知見を集積し、個々人が自分なりの理解を深めます。質的研究者は時に共同体の枠を超えて知見を交換して洞察を深め、理解をさらに非単純化(複雑化)します。現実はそもそも複雑なものだからです(注)。
ひょっとしたら量的研究を好む者と質的研究を好む者の間には、ユングのタイプ論で言うようなタイプの違いがあるのかもしれません。そうだとしたら量的研究者と質的研究者の間で相互理解がなかなか進まないのも得心できます。
とはいえ、自らとは異なる種類の人間を理解することこそが、人間の成熟なのですが・・・
(注)内田樹先生は『複雑化の教育論』の中で、成熟とは複雑化することであると述べます。内田先生によれば、複雑化する時に生じているのは計測が容易な変化ではなく、表情が深くなったり、声の厚みが変わったり、雰囲気が遷移したりするといった変化です。複雑化した人間は、出来事を捉える視座が増えて立体視できるようになり、人格が多層化し、「一筋縄では捉えられない人間」になってゆくと説きます。そうやって人間の器量を大きくしてこそ、さまざまに異なる主張を調停することができるわけです。
現実社会はどんどん複雑になっているので、本来はさらに複雑な思考で社会を捉えなければなりません。しかし、実際は、自分が容易に理解できる単純なモデルで社会を理解し、その理解に基づいて問題を解決にしようとしています。結果、複雑な現実と単純なモデルの間の乖離がますます大きくなっているのですが、世間の多くは「話を簡単にすること」こそが知性の証だと信じているようです。ですが、話を簡単にすることとは、思考の際の変数を減らすこと、つまりは知性の行使を減らすことです。だからこそ教育は複雑化つまりは人間の成熟を目指さなければならないというのが内田先生の見立てです。
現代の知性のあり方については、國分功一郎先生と千葉雅也先生の見解も、内田先生の考えと少し重なるのかもしれません(國分功一郎・千葉雅也 (2021) 『言語が消滅する前に』幻冬舎)。
國分先生と千葉先生が対談を通して語ったことの一部は次のようにまとめることができます。
考慮に入れる要素を減らして、ほんの数種類の変数(しかも一義的な解釈しか許さない変数)だけで構成されるのが、世間で通用している「エビデンス」です。従来は人々の辛抱強い話し合いで解決していたことも「エビデンス」だけで片付けようとするのが「エビデンス主義」です。それが世間にはびこり、物事の多面的な理解を促す思慮深い言語使用を排斥しているわけです。
しかし、話を非単純化・複雑化するなら(!)エビデンスには、誰でもわかるという民主的な側面があります。また、エビデンスに基づいて判断することによって個人の責任(というより帰責)を回避することができます。ですからエビデンス主義をむやみやたらと批判すると「エリート主義」といった非難を受けがちですし、エビデンスを処世のために使っている人たちの反感も買います。
関連記事
國分功一郎 (2021) 「中動態から考える利他--責任と帰責性」伊藤亜紗、他『「利他」とは何か』集英社 (111-134頁
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/2021-111-134.html
三先生の考えを私なりに翻案するなら、単純化による明晰化という自然科学的な知のあり方を認めつつ、同時に現実社会の複合性(複雑性)に対応できる人文的な知恵をどう育ててゆくかというのが現代の教育の課題の1つです。ナラティブを使った質的研究は、もちろん人文的伝統の上に立脚するものです。
付録:神田橋條治先生の知恵に学ぶ
以下、私のブログ記事からの抜粋です。これらのブログ記事では、神田橋先生の見識を、教育指導などに当てはめた形でまとめていますので、例えば「教育方法」や「指導法」といったことばは、今回は適宜「研究方法」などと読み替えてください。
精神療法のなかで技法を選ぶ場合は、「雰囲気」で選べばよい。(林・かしま (2012)「精神療法におけるセントラルドグマの効用」1988年7月23日)
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概略:講義や実習者では、講師・指導者の雰囲気をよく観察せよ。その人の態度やことばのはしばしに、技法にふさわしい雰囲気がただよっているならよいが、それがないなら、その人は方法や技術の権化であり、人をよりよい方向に導こうとする意思の欠けたテクノロジーがしゃべっていると思って良い。(黒木・かしま (2013) 「いいお医者さんになってください」 2009年9月10日)
理論は尊敬できる師匠が教えてくれる理論をまずは吸収する:師匠の教えを下手に批判的に取捨選択して学ぼうとすると、逆に師匠の悪い部分だけを学んでしまうことが多い。周りに師匠がいなければ本から理論を学ぶべきだが、その際は理論の創始者の伝記を読んでそれに共感できたら、それは自分にとって良い理論であることが多い。
無批判的な吸収を勧めるのは、理論とは自分の癖をいったん取り除くための方便であるに過ぎないからである。守破離の教えが伝えるように、最初の段階では、多くの先人がその良さを認めてきたある理論の教えを徹底的に学び、自分の癖を取り除くことが必須である。しかし、そのうちに、どうしても自分としては腑に落ちない箇所が出てきて、理論の一部を破らなければならなく思えてくる。さらに理論の理解が深まると、その理論を墨守するとか破壊するとかいうことはどうでも良くなり、その理論から自由になり、必要に応じてその理論から離れたり戻ったりすることができるようになる。
理論を学ぶのは、この守破離の過程を通じることで、凝り固まった自分や自己承認欲求に基づくエゴを捨て去ることである。だから、最初は親近感を覚える理論に自分の認識を変えてもらうぐらいの勢いで吸収するべきである。(神田橋條治 (1990) 『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社 pp. 12-23およびp. 233に基づく )
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(拡大)解釈:自分という人間にとって最良の教師となるためには、自らのもって生まれての資質と人生経験で染み込んだ学習内容を、対面指導の技法に活かすしかない。つまり対面指導の技量を高めるための教師の目標は、自分なりの技法とその基盤となる理論を一人ひとりが築くことである。
もちろん先人の技法や理論も学ぶが、それらは目標に至るまでの通過点と考えるべきである。先人の技法や理論の代弁者になることが目標ではない。他人の技法や理論は、自分の可能性を発見するための型であり、それは守破離の過程を経た上で、状況に応じて自在に使いこなすべきものである。それは自分の構成要素の一つであるが、すべてではない。
良い教師となるためには、人間としての自らが身につけているものすべてを総動員して、その結果、もっともその人らしい教師になることが必要である。(神田橋條治 (1990) 『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社 p. 257に基づく)
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それならば、教育方法に関して実践者が問うべきは、「どの指導法が万人にとってよい指導法なのか?」ではなく、「もっとも自分に適った指導法は何なのか?」だろう。この問いの転換のもつ意味や波及効果は大きい。上述の多くの教育方法研究者は戸惑うだろう。しかし、多くの実践者(特に若くて真面目な教師は)、この問いの転換によってずいぶん自由になれるのではないだろうか。もちろん誤解のないように付け加えておくと、「自分に適った指導法」の大前提は自分が指導する学習者をもっとも豊かな学びに導くことである。「自分に適った」というのは恣意的・利己的な意味での表現ではない。