2022/03/17

國分功一郎 (2021) 「中動態から考える利他--責任と帰責性」伊藤亜紗、他『「利他」とは何か』集英社 (111-134頁)

 

國分先生は、この小論で「新しい責任概念へと向かう準備作業のようなこと」(125頁)を行なうと宣言します。國分先生は、ギリシャ学者のジャン・ピエール・ヴェルナンの「ギリシャ悲劇における意志についての試論」の中の次の言葉を引用します


「人間的因果性と神的因果性は悲劇作品の中で混じり合うことはあっても、混同されることはない」。(129頁)


ギリシャ悲劇の登場人物は、例えば殺人を犯した点で加害者であると同時に、その殺害をせざるをえない運命に入り込まざるを得なかったという点で被害者です。加害者であり被害者でもあるとは、矛盾のようにも思えますが、ギリシャ悲劇はこの2つの側面を肯定します。登場人物は、人間的因果性(=ある人の行為が何らかの結果を生み出してしまうこと)という範囲で考えれば加害者です。しかし、神的因果性(=人間には知ることも回避することもできない因果の連鎖網)の規模で見れば被害者です。


この本でも例として上げられている『オイディプス王』でもそうです。オイディプスは、親殺しなどを行った点で加害者であり、彼自身ではどうしようもない悲劇的運命に巻き込まれた点では被害者です。この劇は、彼の被害者としての側面を矮小化してオイディプス加害者として断罪しません。かといって、彼の加害者的側面を否認して被害者として憐れむだけにも終わりません。


私は20歳の頃に『オイディプス王』を読み、以来、この本は自分にとってもっとも重要な本のうちの1つになっています、その後、ストラヴィンスキーのオペラDVDでもこの作品を鑑賞しました。最後の場面で、オイディプスは逃れられない運命の中で犯さざるをえなかった罪に絶望し、自らの目を潰し、その場を立ち去ります。しかし合唱は、そんな彼に対して、「オイディプス、私たちはあなたを愛していた」と歌いかけます(DVDが手元にありません。記憶違いだったらごめんなさい)。


私はDVDを見ていた時には、わけもわからずその合唱に涙を流してしまいました。ですが、今となればそれは、神的因果性に翻弄されながらも、人間的因果性を真正面から見ようとするオイディプスの生き方に大きく心を揺さぶられたと言えるのかもしれません。


國分先生は、当事者研究にも同様の思考法があると指摘します。当事者研究においては、問題行動の否定的な側面はとりあえず脇に置きます。当事者は、問題行動を起こす自分自身や周りの要因を対象化して、なぜ行動が起こるかを「研究」します。この対象化は、神的因果性の相において自分と周りを理解するということです。その神的因果性の理解があって初めて当事者は、自らの人間的因果性を見つめられるのではないかと國分先生は語ります。


客観的要因を理解しないままに「当事者だけが諸悪の原因だ」と責めるならば、当事者は「自分は被害者に過ぎない」と開き直るか、「自分は一切の弁明の余地のない加害者だ」として自己否定します(そしてその自己否定の苦しさから再び問題行動を始めます。問題行動は否定的な自己像を肯定してくれるからです)。人が自らの問題行為に「責任」を感じることができるのは、その人および周りの人々がその人がおかれた状況を理解してからだというのが國分先生の論だと私は理解しました。


ここでの「責任」 (responsibility) とは、自らの行為が引き起こしてしまった事態に対して「応答」することです。この「責任」は、「帰責性」 (imputability) と異なると國分先生は説きます。帰責とは、行為の原因を誰か・どこか1つにだけ定めて、それを責めることです。


國分先生が『中動態の世界』で説明した近代的な能動態的発想では、行為は「ある主体がその人の意志でもって開始すること」です。本来、意志は周囲や過去の影響を間違いなく受けていますから、意志を行為の唯一の始発点とみなすことはできません。しかし、物の所有を個人単位で考える私的所有の考えを大切にしてきた近代社会は、その延長で行為も私的所有物だと考えがちです。私的所有物として、行為は、その人が自由に操れるし操るべきだとも考えます。


そういった能動態的・私的所有物的発想の意志を想定しますなら、問題行為を行った人は、もっぱら問題の帰責の対象(=加害者)となります。「その人にも、そうせざるを得なかった事情があった」といった理解は、せいぜい情状酌量として例外的に認められるだけです。こういった想定が共有されている社会では、問題行動が起こった場合、関係者は「私は被害者であり、○○が加害者だ」と他人に帰責しようとするばかりです。そのようなせめぎ合いで、問題の帰責を引き受けざるをえなかった当事者は、責任を感じて適切な応答をするとは限らないと國分先生は論じます。


中動態について考えることは、帰責性ばかりを責任と考える近代的思考に異論を唱えることにつながります。中動態的発想は、「さまざまな因果連鎖の結節点の1つとしての自分が、ある行為が起こるという出来事の場になった」という理解をもたらします。ですがその理解をすることによって、逆に「自分はその出来事の場となったことに対して、無条件に免責されるわけではない。自分なりにできることはあったはずだ」と思えるようになるかもしれません。それこそが「責任」を感じることではないかというのが國分先生の主張です(ここでも「責任を感じる」ことは中動態的な事態として描かれています)。


蛇足で卑近な例を出しましょう。学習者はしばしば「勉強する気になれない」と言います。教師の多くは、「勉強する」という行為は、学習者が自分自身の意志をもって発動させるものだと考え、「それは学習者が悪い」と断罪します。学習が成立しないという問題を学習者のみに帰責します。「あれだけ、課題をきちんと提出しなければ単位を出さないと警告しているのに、課題を提出しなかったのは学生の責任です。私としてはもう何もできません」といった言葉はしばしば教師の口から発せられますが、それはその教師が近代的な意志概念の強い影響化にあることを示唆しています(あるいは、その教師が意志概念を使って、教師としての自分の責任を巧みに回避しようとしているのかもしれません)。


「勉強する気になれない」学習者にとって、勉強が必要なことは重々承知です。しかし、自分の努力ではどうしようもないほどに、指定された課題を学ぼうとする欲望(気)が自分の中に生じてこないのです。だからといって学習者に一切の責任はないというのも極端でしょう。学習者は、十分な睡眠や快適な気晴らしで気分を変えれば勉強する気になるかもしれないと考えいろいろな工夫することもできます。それらは学習者にとっての責任の一部でしょう。


しかしさまざまな試みをした後でも、一向に「勉強する気になれない」のなら、その責任の一端は教師が担うべきです。課題の意義を説明し、課題を興味深く再構成し、課題へのフィードバックを意味深いものにするなど、教師として果たすべき責任はたくさんあります。学習の不成立を、「勉強する気になれない」学習者だけに帰責するのは間違いです。


「教師-学習者」という関係の中の学びが成立するかしないかは、学習者だけに帰責するべき問題ではありません。「学ぶ気」は、中動態的に学習者の中に到来し、学びがその学習者の中で展開します。ですから、教師は学習者をよく観察し教材や指導方法を吟味して、できるだけ「学ぶ気」が学習者に到来するように努力しなければなりません。しかし学習意欲が学習者の中に生じることを教師は直接にコントロールすることはできません。教師の指導を、学習者の支配(=完全管理)と勘違いしてはいけません。


そもそも中動態について、國分先生は「水が欲しい」という事態を使っても説明していました。「水が欲しい」人は、水への欲求に突き動かされています。水を欲しがる人は能動的ではなくむしろ受動的です。「欲する」を能動態によってしか理解・表現しない近代的発想の限界は十分に自覚され克服されるべきです。(117頁)。


「学びたい」と思う人は、学ばずにはいられない人です。傍から見るとその人は学ぶ努力を重ねている意志強固な頑張り屋のように思えるかもしれません。しかしその人は、学びたいという欲望に駆動されて、少しの時間でもあれば学びに費やさないと気がすまないだけでしょう。武術家の甲野善紀先生は、『できない理由は、その頑張りと努力にあった』(聞き手は平尾文氏)や『上達論』(方条遼雨先生との共著)で、そのような学びの姿を描き出しています。学校教育関係者は、学校教育制度とは無縁に展開し、教室では想像できないほどの成果を生み出している学びにもっと注目すべきです。そのためには、自らの発想の限界を知るべきでしょう。そういった意味で、哲学は実学であると私は思っています。





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