2022/10/26

複雑で流動的な世界では「いいかげんな」生き物のやり方の方が合理的?

  【この「時事」カテゴリーの記事は、学生さんへの課題リマインダーに掲載した文章をこのブログに転載しているものです。】


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Peter Coy

In Praise of the Humble Rule of Thumb

https://www.nytimes.com/2022/10/24/opinion/decision-making-rules-of-thumb.html


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このエッセイのタイトルに使われている "rule of thumb" の意味は、Merriam Webster Dictionary では次のように定義されています。


1 a method of procedure based on experience and common sense

2 a general principle regarded as roughly correct but not intended to be scientifically accurate

https://www.merriam-webster.com/dictionary/rule%20of%20thumb


2の定義で示されているように、"rule of thumb" は非科学的なものとして軽視されがちですが、案外、そういった決定法には合理性があるというのがこのエッセイの主張です。

とはいえここ数世紀の経済学は、さまざまな要因を厳密に計算することで決定をすることが合理的だというものでした。そして人間は合理性を追求する生き物なのだから、人間もそのような決定法をしているだろうと仮定しました。


The economist-approved way to make hard choices is to maximize your expected “utility” (pleasure, benefit), which involves a complex weighing of the pros and cons of each option, including the likelihood of each one actually happening. 


そのような厳密な決定法に対して疑義を抱いたのが、ノーベル経済学賞も受賞したHerbert Simonです--彼の知的貢献は多方面に及んでいます--。彼は、少なくとも人間は、完璧でなくともそれなりにうまくゆく (good enough) な決定--彼の用語なら“satisfice”できる決定--をしているのではないかと説きました。

そのように「いいかげんな」決定法の1つは、とりあえずある1つの基準でだけ比較をして、その基準でもっとも優れたものを採択することです。この方法は、"lexicographic ordering" とも呼ばれます。英語辞書の配列は、とりあえず最初の文字だけで順番を決め、2文字目については最初の文字が同じ時に初めて考えるからです。

そんなずさんな決定方法は、伝統的な経済学的思考からすれば噴飯ものなのかもしれませんが、同じくノーベル経済学賞受賞者のJoseph Stiglitzは2020年の論文で次のように述べているそうです。


“Our results suggest that fast and frugal robust heuristics may not be a second-best option but rather ‘rational’ responses in complex and changing macroeconomic environments,” the Nobel laureate Joseph Stiglitz and four other authors wrote in a 2020 article in the journal Economic Inquiry.


キーワードは "complex and changing (macroeconomic) environments" です。複雑で(=あまりに多くの要因が複合的に絡み合っている)流動的な(=長い時間をかけて厳密な計算をしたとしてもその時にはすでに状況が変わっている)環境では、完璧な解答を求めることは現実的に不可能だからです。そのような環境では「いいかげんな」方法で「それなりにうまくゆく」選択肢を選ぶ方が合理的だというわけです。

このエッセイは、Stiglitzと同じように考える学者の声も紹介しています。その学者によればlexicographic orderingといった方法は、人が入手できるデータが少なく、世界そのものが不安定で、現在が過去とはことなる場合などには特に有効だと述べています。AIの機械学習では高度なモデルを使うこともあるが、AIにおいても人間が太古から使っていたような簡単なモデルを使う方が、複雑で流動的な世界に対応するためには有効であることも多いと述べています。(もちろん「いいかげんな方法」の欠点もありますが、同時にその克服法もあります。詳しい議論はこのエッセイ本文を読んで下さい)。


くしくもこのエッセイを読んだ直後に、私のツイッターには京大広報から次のニュースが流れてきました。


脳型人工知能の実現に向けた新理論の構築に成功

―ヒントは脳のシナプスの「揺らぎ」―

https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2022-10-24-0


京大情報学研究科准教授の寺前順之介先生が立命館大学准教授の坪泰宏との共同研究グループで、これまで脳の非合理性とも思われてきた揺らぎが、実は、複雑な世界を生き抜くための合理的な特性ではないかと発想を転換し、機械学習に役立てているそうです。


ニューラルネットワークは現在発展を遂げている人工知能の基盤技術であり、生物の脳をヒントに提案されましたが、最適化という緻密な計算を必要とするため、脳のニューロンやシナプスが示す強い「揺らぎ」とは整合しない問題がありました。この「揺らぎ」とは、脳ではニューロンやシナプスが、あたかもランダムに、つまり確率的に動作することを意味し、最適化のような緻密な計算とは一致しないようにみえます。

本研究では「脳の学習は最適化ではなく、適切な具体例を生成するサンプリングではないか」と考えることでこの問題を解決し、揺らぎによって最適化なしで学習するニューラルネットワークの構築に成功しました。


私たちはついつい「頭の良さ」を「厳密な計算で思考すること」と考えがちですが、複雑で流動的な世界を生き抜く生物が長年にわたって採択している「いいかげんな」方法にもっと着目してもいいのかもしれません。



2022/10/19

新自由主義の後の政治哲学


 【この「時事」カテゴリーの記事は、学生さんへの課題リマインダーに掲載した文章をこのブログに転載しているものです。】


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Rana Foroohar

Globalism Failed to Deliver the Economy We Need

https://www.nytimes.com/2022/10/17/opinion/neoliberalism-economy.html


このエッセイの著者は、過去50年あまりにおいて強力な政治哲学であった新自由主義 (neoliberalism) も、もはや変化せざるを得ない時期ではないのかと説きます。

新自由主義が構想されたのは1938年のパリであり、そこに集まった識者は大恐慌後に国家の権力が強くなりすぎたことを懸念していたそうです。各国が自国の利益だけを追求して市場と社会が混乱するのを防ぐのは、国際的な法と機関だというのがその当初の考えでした。The International Monetary Fundやthe World Bankあるいはその後の the World Trade Organizationもこの考えを受けて作られたと著者は説明します。

新自由主義はレーガンとサッチャーの時代に加速し、2008年の経済危機直前の4年間は過去半世紀の中でもっとも地球上の富が増えた時期であったとも言います。

ですが同時に、国々の中で経済格差が広がりました。安い労働力を求めて資本は国境を超え、多国籍企業が繁栄しました。物価は安く抑えられても賃金は上がらず、各国で経済的に苦しむ層が増えました。そしてその苦悩は、ポピュリズム、ナショナリズム、あるいはファシズム的な政治文化を生みました。

そんな現状を著者は次のように表現します。


The world is beginning to reset -- not to the “normal” of conventional neoliberal economic models but to a new normal. There is a rethink going on in policy circles, business and academia about what the right balance is between global and local.


しかし「ポスト新自由主義世界」についての答えはまだ姿を現していません。


We don’t yet have a new unified field theory for the postneoliberal world. But that doesn’t mean we shouldn’t continue to question the old philosophy. One of the most persistent neoliberal myths was that the world was flat and national interests would play second fiddle to global markets. The past several years have laid waste to that idea. It’s up to those who care about liberal democracy to craft a new system that better balances local and global interests.


皆さんは自分の未来についてどんな見通しをもっていますか?最近の若い世代には悲観的な見方も少なくないと聞きます。「社会はどうあるべきなのか」という問いが、全世界の隅々で同時に考えられ、さまざまな声になることによってのみ、人々にも希望が生まれるのかもしれません。




2022/10/15

千葉市での講演:「翻訳アプリ時代にどうして/どのように英語を学ぶか」のスライドと動画

 先日、下のチラシの要領で「翻訳アプリ時代にどうして/どのように英語を学ぶか」という講演を行い、千葉市長の神谷俊一氏と対談させていただく機会を得ました。




市長は驚くほど率直かつ気さくにお話されたので私はもとより聴衆の皆さんも非常にいい時間を過ごすことができました。市長には改めて御礼申し上げます。


私が講演の際に使ったスライドは下からダウンロードできます。


「翻訳アプリ時代にどうして/どのように英語を学ぶか」のスライド


この講演の予行演習ビデオは下から見ることができます。


一般市民向けの講演なので、できるだけわかりやすくお話したつもりです。

ご興味のある方はどうぞ御覧ください。


最後に当日お越しいただいた皆様と、企画の裏方で働いてくださったスタッフの方々、そして私の古くからの友人でもありこの企画の事務局をやっていただいた組田幸一郎さんに感謝いたします。





2022/10/13

SNSで自分らしさを失う危険性

 


【この「時事」カテゴリーの記事は、学生さんへの課題リマインダーに掲載した文章をこのブログに転載しているものです。】


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When Facebook Actually Broke My Brain

https://www.nytimes.com/2022/10/11/opinion/facebook-bipolar-disorder.html

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Facebook, Instagram, TwitterといったSNSが、若者の精神的健康を害しているという調査報告は各所から出されています。このエッセイの著者は、直接の因果関係までは主張していませんが、自分がSNSのニュース・フィードを見る時間が長くなった頃とと、自分の精神不安定の時期が重なることを重視しています。


多くのSNSユーザーは、主体性をもってSNSを使いこなしていると言うでしょうが、著者は以下のように問いかけます。


Many of us once saw social media as an amusing time waster, a virtual space we populate and control. But how many times have I picked up my phone to open Instagram without even noticing? How many hours have I spent mindlessly scrolling, and what algorithmically chosen selfies, platitudes, memes and ads now occupy precious real estate in my brain? In participating, we give up control to the higher power of the algorithm.


自分の心を占めているのが "algorithmically chosen selfies, platitudes, memes and ads"というのは恐ろしいですね。


私たちは、強力なSNSアルゴリズムに支配されて中毒患者のようにスマホを手に取りSNSアプリを開いているのかもしれません。


また、自己表現は自分の精神的健康状態を保つために重要ですが、その自己表現をSNS上で行うようになった現代人は、常に他人からの承認や評価を気にし批判や炎上を恐れます。


偽りの自分の姿--多くの人に称賛され非難されない人物像--をSNSに投稿し続け、いつか自分らしさを失ってゆきます。同時に、同じように偽りの姿を晒し続ける他人の投稿を見続けて、自分にはまだ十分に称賛を受けていないとか、自分もいつか炎上の対象になるかもしれないとか恐れてしまいます。


そんな著者が自分を取り戻すために行ったことは、昔のように誰にも読まれることのない日記のような形で自分の思いを綴ることでした。そうすると自分に対して正直になり、自己理解が深まったそうです。それが自信につながり、外の世界でももっと落ち着き、他人に対しても共感をもって接することができるようになったと著者は述べます。


I’ve dedicated myself to unpacking my own story, mostly out of sight of semicurious onlookers and algorithms. Without an audience in mind, I was able to write with fierce honesty. The more I wrote, the more space I took up in my own mind. Grounded in self-knowledge, away from thoughts of engagement, comparison and chaos, I could re-enter public virtual spaces with more confidence, calm and empathy.


もし皆さんの中にSNSをやめられない人がいたら、SNSという表現手段の危険性について真剣に考えるべきかもしれません。






2022/10/06

"Humble"であることは近代社会で成功するためにも必要・・・(たぶん)


【この「時事」カテゴリーの記事は、学生さんへの課題リマインダーに掲載した文章をこのブログに転載しているものです。】



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The New York Times(2022/10/05電子版)に次のタイトルのエッセイが掲載されました。


"Humility Is a Virtue. But Can Humble People Succeed in the Modern World?"


たしかに"humble"であることは、多くの宗教が勧めていることですしかし"humble"であれば、近代社会の競争を生き残ることはできないのではないか、というのがこのエッセイストの問いかけです。


しかし商業の性質を理解すると"humble"であることと近代社会で生き残ることが合致しそうです。ビジネスをするためにはマナーがよくなければならないからです。エッセイストは友人によるモンテスキュー引用を紹介します。(注)


He referred me to Montesquieu, the Enlightenment philosopher who wrote: “Commerce is a cure for the most destructive prejudices; for it is almost a general rule, that wherever we find agreeable manners, there commerce flourishes; and that wherever there is commerce, there we meet with agreeable manners.”


"Humble"であること、つまり"humility"が、他人の意見に耳を傾け、他人から学ぶことであれば、それは近代社会での成功の鍵になります。少なくとも新しい発想を身につけることは容易になるでしょう。


if by humility we mean listening to other people without presumption and being willing to learn from them, that’s a virtue that can fuel innovation and growth. 


「他人の意見を聞くなんて当たり前でしょ?」とお思いのあなた、本当にそうですか?実はそんなに簡単なことではないと思います。少なくとも私は、他人の意見を耳では確認しながらも「この人はだいたい○○だから・・・」とか「この件は△△に決まっているでしょ!」などといった偏見が心の中に芽生えることがしばしばあります(反省)。


エッセイストは別の友人による引用も紹介します。


She quotes the Jewish sage Ben Zoma, who said: “Who is wise? One who learns from every person."


大学での学びも、皆さんを"humble"にするものであってほしいと願っています。



(注)とはいえ、購買活動の多くが無人格的なネット販売に移行していることを考えると、それほど商業にとって美徳は必要だといえるのだろうかという疑問も湧いてこないわけではありません。

「英語教育の希望としての田尻実践」のスライドと準備録画の公開、および若干の感想

3/23(土)の「 人を育てる英語教育:田尻悟郎の授業は大学生の人生にどう影響を与えているのか FINAL! 」は、会場がほぼ満員で終始いい雰囲気の中で終わりました。激しい雨の中お越しいただいた皆様、煩瑣な裏方作業を引き受けてくださいました凡人社の皆様に厚く御礼申し上げます。 下...