【この「時事」カテゴリーの記事は、学生さんへの課題リマインダーに掲載した文章をこのブログに転載しているものです。】
***
Peter Coy
In Praise of the Humble Rule of Thumb
https://www.nytimes.com/2022/10/24/opinion/decision-making-rules-of-thumb.html
***
このエッセイのタイトルに使われている "rule of thumb" の意味は、Merriam Webster Dictionary では次のように定義されています。
1 a method of procedure based on experience and common sense
2 a general principle regarded as roughly correct but not intended to be scientifically accurate
https://www.merriam-webster.com/dictionary/rule%20of%20thumb
2の定義で示されているように、"rule of thumb" は非科学的なものとして軽視されがちですが、案外、そういった決定法には合理性があるというのがこのエッセイの主張です。
とはいえここ数世紀の経済学は、さまざまな要因を厳密に計算することで決定をすることが合理的だというものでした。そして人間は合理性を追求する生き物なのだから、人間もそのような決定法をしているだろうと仮定しました。
The economist-approved way to make hard choices is to maximize your expected “utility” (pleasure, benefit), which involves a complex weighing of the pros and cons of each option, including the likelihood of each one actually happening.
そのような厳密な決定法に対して疑義を抱いたのが、ノーベル経済学賞も受賞したHerbert Simonです--彼の知的貢献は多方面に及んでいます--。彼は、少なくとも人間は、完璧でなくともそれなりにうまくゆく (good enough) な決定--彼の用語なら“satisfice”できる決定--をしているのではないかと説きました。
そのように「いいかげんな」決定法の1つは、とりあえずある1つの基準でだけ比較をして、その基準でもっとも優れたものを採択することです。この方法は、"lexicographic ordering" とも呼ばれます。英語辞書の配列は、とりあえず最初の文字だけで順番を決め、2文字目については最初の文字が同じ時に初めて考えるからです。
そんなずさんな決定方法は、伝統的な経済学的思考からすれば噴飯ものなのかもしれませんが、同じくノーベル経済学賞受賞者のJoseph Stiglitzは2020年の論文で次のように述べているそうです。
“Our results suggest that fast and frugal robust heuristics may not be a second-best option but rather ‘rational’ responses in complex and changing macroeconomic environments,” the Nobel laureate Joseph Stiglitz and four other authors wrote in a 2020 article in the journal Economic Inquiry.
キーワードは "complex and changing (macroeconomic) environments" です。複雑で(=あまりに多くの要因が複合的に絡み合っている)流動的な(=長い時間をかけて厳密な計算をしたとしてもその時にはすでに状況が変わっている)環境では、完璧な解答を求めることは現実的に不可能だからです。そのような環境では「いいかげんな」方法で「それなりにうまくゆく」選択肢を選ぶ方が合理的だというわけです。
このエッセイは、Stiglitzと同じように考える学者の声も紹介しています。その学者によればlexicographic orderingといった方法は、人が入手できるデータが少なく、世界そのものが不安定で、現在が過去とはことなる場合などには特に有効だと述べています。AIの機械学習では高度なモデルを使うこともあるが、AIにおいても人間が太古から使っていたような簡単なモデルを使う方が、複雑で流動的な世界に対応するためには有効であることも多いと述べています。(もちろん「いいかげんな方法」の欠点もありますが、同時にその克服法もあります。詳しい議論はこのエッセイ本文を読んで下さい)。
くしくもこのエッセイを読んだ直後に、私のツイッターには京大広報から次のニュースが流れてきました。
脳型人工知能の実現に向けた新理論の構築に成功
―ヒントは脳のシナプスの「揺らぎ」―
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2022-10-24-0
京大情報学研究科准教授の寺前順之介先生が立命館大学准教授の坪泰宏との共同研究グループで、これまで脳の非合理性とも思われてきた揺らぎが、実は、複雑な世界を生き抜くための合理的な特性ではないかと発想を転換し、機械学習に役立てているそうです。
ニューラルネットワークは現在発展を遂げている人工知能の基盤技術であり、生物の脳をヒントに提案されましたが、最適化という緻密な計算を必要とするため、脳のニューロンやシナプスが示す強い「揺らぎ」とは整合しない問題がありました。この「揺らぎ」とは、脳ではニューロンやシナプスが、あたかもランダムに、つまり確率的に動作することを意味し、最適化のような緻密な計算とは一致しないようにみえます。
本研究では「脳の学習は最適化ではなく、適切な具体例を生成するサンプリングではないか」と考えることでこの問題を解決し、揺らぎによって最適化なしで学習するニューラルネットワークの構築に成功しました。
私たちはついつい「頭の良さ」を「厳密な計算で思考すること」と考えがちですが、複雑で流動的な世界を生き抜く生物が長年にわたって採択している「いいかげんな」方法にもっと着目してもいいのかもしれません。