2019/09/13

コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか:長岡(2006)『ルーマン 社会の理論の革命』の第8章を基にしたまとめ


以下は、長岡克行先生の『ルーマン 社会の理論の革命』(2006年 勁草書房)の第8章「社会システムの形成」(pp. 255-278)の論考を私になりにまとめて若干の書き足しをしたものです。論点と論点の順番は長岡先生のものにしたがっていますが、論点の表現は大胆に変えた箇所もありますし、付け加えた具体例は私が自分の興味に引き寄せて考えたものです。私としては自分の誤読・歪曲を恐れますので、ご興味のある方は必ず原著をお読みください。








コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか




 言語教育に関わる者にとって「コミュニケーションとは何か」とは常に重要な問いであるが、ここではまず長岡 (2006, pp. 255-278)の論考に即しながら「コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか」について考えてゆきたい。コミュニケーションを日常茶飯事の自明なことと考える者にとってこの問いはいかにも無用のように思えるかもしれないが、異文化間での交流や、互いを社会から排斥したいと相互に考えている党派性の高い集団間でのやり取りや、離婚前の夫婦の会話を想像するなら、そもそもどうやればコミュニケーションは成立しうるのだろうかという問いは重要になるだろう。学校現場なら、学校教育という秩序に信頼を失いかけた学習者とどう対話をするかという課題を例えば考えてほしい。あるいは「アクティブラーニング」が流行語になりグループ活動を入れたものの、発言する者も発言の様式も固定化してしまった授業を考えてみてもいい。コミュニケーションに関する理論的な問いは実践的でもある。


■ 二重の偶発性

 コミュニケーションについて考える際に二重の偶発性 (double contingency)の問題を検討することは、ルーマンがパーソンズから継承し発展させたことであった。それではその二重の偶発性とは何であろうか。たとえば私と誰かがコミュニケーションを取ろうとしていると考えよう(上に述べた困難な状況を想像してほしい)。私は、相手がどう発話してくるかわかれば自分もどう発話してよいかわかるが、相手がまだ何も言わない以上、何をどう言えばよいかわからない。私の発話は相手に依拠 (contingent) しているという点で私の発話は偶発的である。この事情はおそらく相手においても同じである。そうなると二者の間では二重の偶発性があることになる。双方ともに相手の出方がわからず発話できないという葛藤が生じる。

 だが大抵の場合に私たちは困難な状況ですらコミュニケーションを試みる。もちろんそれが破綻することもしばしばではあるが、ここではコミュニケーションが成立する場合を考えよう。コミュニケーションの参加者はどうやってこの二重の偶発性という困難を克服するのであろうか。ルーマン以前の説明をきわめて単純化するならそれは、参加者双方が互いにこの二重の偶発性という葛藤を承知しているので、共通の価値体系に依拠することによってコミュニケーションを成立させるということだ。実際、私たちの日常においても、組織体での会議なら提示された議事次第を参照しながら行われるし、その組織体では発言に関するさまざまな規則も明示的・暗示的に共有されている。授業というコミュニケーションなら、その一部が「本日のねらい」として板書される教師の授業計画(教案)が共有すべき秩序体系として存在している。学習者は、その秩序体系ではどんな発言や行動が許されるかを知るあるいは推測することが求められている。だが私たちがここで考えようとしているのは、そのような共通の価値体系や秩序体系の共有が危ぶまれている場合、あるいはほとんど存在しない場合であった。そのような場合にコミュニケーションはどのように形成されるのだろうか。


■ 二重の偶発性の3つの側面

 ルーマンは偶発性を「必然的でもなければ不可能でもない」 (neither necessary nor impossible)、あるいは「可能ではあるが必然ではない」 (possible, but not necessary)、もしくは「こうではあるが他のようでもありうる」 (as it is, but as it can be otherwise) ととらえる。このように原理的な議論に立ち返ることで、コミュニケーションの結果であったはずの「社会的に共有されている共通基盤」をコミュニケーションの形成の説明に組み込むことを避けるのがルーマンのやり方である。長岡のまとめを筆者なりに言い換えるなら、コミュニケーションにおける二重の偶発性は、自らの複合性、相手の不可知性、互いの相違性の3点で考えることができる。

1 自らの複合性
 コミュニケーションを開始するにあたって何をどう発話してよいかわからない自分であるが、その自分には多くの話題と語り方という要素がある。また、その要素は他のどの要素と組み合わさるかによって実に多くの展開例が生まれる。要素が多く、それらの要素間の関係性が量的にも質的にもさまざまであるという点で、コミュニケーションの参加者はそれぞれ自分の中に複合性 (complexity) を有している。複合性においては、すべての可能な展開例(=要素の組み合わせ)を一望して比較検討することができないため、そこでは選択が行われる。選択とはもちろん「必然的でもなければ不可能でもなく」「他でもありうる」偶発的なものである。この自分に関する複合性を第1の偶発性と呼んでもいいかもしれない。

2 相手の不可知性
 このようにどんな参加者も複合性ゆえに自分の心を見通すことができないが、相手の心は意識の唯我論的存在性というまったく別の理由が加わるゆえに一層に不可知である。私の意識にアクセスすることができるのは私だけであり、いかなる他人も私の意識を直知することはできない。同じように相手の意識を私は直接に知ることはできない。せいぜい私なりに想像するだけであり、相手は基本的には不可知である。しかも相手の意識も複合的なものであろうから、相手の心はより一層不可知である。だが相手の不可知性も、完全な不可能性ではない偶発性としてとらえるべきであろう。相手の心は「こうかもしれないし、こうでないかもしれない」ものである。「必ずこうだ」と断定できるものでもないが「ありえない」ものでもない(社会的に「ありえない」として排除・隔絶される心のあり方についての議論はここでは割愛する)。このような相手に関する不可知性を第2の偶発性と呼んでもいいかもしれない。

3 互いの相違性
 二重の偶発性については、相手は自分とは異なる知識と考え方をもっているという側面も強調されるべきだろう。自分と相手は違うというのが、近代社会の人々が経験から学んでいる前提であるとすれば、コミュニケーションについて考える場合においてもこの前提を踏襲するべきだろう。「相手と自分の知識と考え方が完全に一致することがない」という前提から近代人が学んだ社会のあり方は、大きく分けるなら、相手を自分と同じようにするか、相手と自分が異なったままに共存共栄することであろう。前者は小規模では一方的な説得となるが、それが権力者によって大規模に行われるなら全体社会の形成につながる。そうなると、グローバル化により異文化間の交流が増え、人間の多様性に関する認識の深まりによりさまざまな生き方が認められ尊重されるようになった現在、求めるべきは後者の互いの差異を否定しないコミュニケーションだろう。もちろん自他の違いを排除しないといっても、双方に部分的な共通点を見出すことはしばしばある。ここでも自他の違いは必然的でもなければ不可能でもない偶発的なものである。


■ 3側面からの3つの指針

 上記の二重の偶発性の3側面から、コミュニケーションの指針らしきものを見出すことができる。以下、私の主関心である授業でのコミュニケーションを例にして若干解説したい。その際に誤解を避けるため、筆者が想定している「授業でのコミュニケーション」について予め述べておきたい。現在の多くの学校の授業はまだ知識伝達型であり、授業では伝えられるべき知識が説明されその記憶・理解がテストされることがほとんどであろう。説明も一方的であり、教師は伝達事項を自分が理解しているような形で学習者が記憶してくれるように望む。ゆえに教師の発話はきわめて目的合理的であり、これを「コミュニケーション」と呼ぶことは難しいと筆者は考える。とはいえ大学・大学院の少人数ゼミではそのすべてにおいてではないにせよ、コミュニケーションということばにふさわしい言語使用が見られることもあるだろう。小中高においても「学び合い」「協働学習」「アクティブラーニング」の一部では学習者はまさにコミュニケーションしているといえるような姿が見られる。筆者はそのような、現代学校文化ではまだ例外的な―しかし今後は主流となっていかざるを得ないような―授業でのコミュニケーションを想定して以下の3つの指針について語る。

1の自らの複合性については、発話の選択性を肯定するという指針が導きだせる。自分の発言はあくまでも自分が選択した偶発的なものであり、必然的なものである必要はないという認識を積極的に認めるということである。現状の多くの教室において学習者は「教師が求めていること」を察知しようとする。このような背景もあり、教師の意図が明確にわからない時に学習者はできるだけ言動を避ける。もちろん正解を求める発問の場合は教師の意図は明確であるが、その場合でもその正解に確証がもてない学習者は手をあげようとしない(正解を知っているが他の学習者の目を気にして挙手しない学習者についての考察はここでは割愛する)。この場合の解決法の1つは、権力者である教師が、学習者の発言を学習者が自らの可能性の中から選択するものなるように仕向けることである。言い換えれば、教師が学習者の発言を、必然的(正解)であるから褒められ不可能(不正解)であるから罰せられるような正否を問う発問ではないようにすることである。正解を求める発問ではなく、学習者それぞれの判断を尋ねる発問にすることである。教育手法の点から補足するなら、正解がある場合でもその正解はいつでも学習者が参照できる状態にした上で発問するというやり方が考えられる。学習者の発言を「正解/不正解」(必然/不可能)の二区分で峻別できるものにせずに、「こうもありえるし、他のようでもありうる」偶然性を有する発言を奨励するように教師権力を使うことが教室内のコミュニケーションを増やす1つの方法であろう(ただ後述するように、発言はそれまでの発言とある程度の関連性を有するものでなくてはならない)。

 2つ目の相手の不可知性については、教室の成員相互に「自由」を認めるという指針が考えられる。相手が自分の考えとは違うことや自分が予想もしなかった行動をしたとしても(つまり相手が自分にとっては必然としか考えられない言動をしなかったとしても)、その発言が「ありえない・許してはいけない」非倫理的・反社会的なものではない限り、それを受け入れるということである。自分にとっての必然性が他人から生じなかったとしても、それは自分が他人を知り尽くすことができないことから生じる偶発性が現れただけと考えるわけである。こうして相手に言動の自由を認めた上で、自らも自分の言動に関する選択の自由を行使するという文化を志向するということになる。教室の例で言うなら、学習者が学校文化を受け入れがたく思っている場合も、「ありえない」非倫理的・反社会的な言動を禁じながら学習者の偶発的な言動という自由を認め、後で述べるようにいかに「私たち」を作ってゆくかということになるだろう。

 第3の互いの相違性からは、どの個人にもコミュニケーションを決定してしまう権利を与えないという指針を導くことができる。抽象的に言うなら、コミュニケーションの個人帰属性の否定と表現できるだろうか。ある個人が自他の違いを否定・根絶しようとして、他の者をその個人のあり方に強制的に変える方法は、今後も限定的にはあり続けることかもしれないが、現代社会においては原則として慎むべきだと上では述べた。教室で言うなら、授業でのコミュニケーションの具体的展開は教師個人が計画したようになるべしということを前提とはせず、コミュニケーションは誰もが完全には予想できなかった展開をするということを前提とする指針である。一部の教師教育現場では、今なお「教案」という形で、教師が授業前に学習者の具体的な発言を予想した上で授業展開を書かせることもある。そのような教育を受けた学生はしばしば教育実習などで、自分の予想外の生徒の発言に困惑し、それらを無視するか強引に自らの解釈に引き込むかなどして、授業でのコミュニケーションづくりに失敗する。教師にすらも授業のコミュニケーションを1人で設計・構築してしまう権利を認めず、コミュニケーションを形成するのは教師ではなく、教師と学習者が作る「私たち」であるという認識を教師が具体的な言動で示し続けることが1つの指針であろう。

 以上の3つは授業におけるコミュニケーションを成立させるための実践的な指針であるが、以下では再びコミュニケーションについての一般的考察に戻り、コミュニケーションに関する理解を深めることにしよう。


■ コミュニケーションでは何が起こっているのか

 コミュニケーションではいったい何が起こっているのだろうか。ここでも長岡 (2006) の論考に即しながら3つの論点を提示する。コミュニケーションにおいて起こっていることのうち重要なのは、発話の関連性の継続、期待による学習と不可知性の縮減、社会的な「私たち」の創発であるというのがここでの主張である。

A 発話の関連性の継続
 コミュニケーションにおいて私は自らの複合性から生じる多数の可能性から1つを選択しそれを発話とするわけであるが、それは無思慮の決断ではない。相手の心は原理的には不可知ではあるが私はそれを自分ができる範囲で観察し推測する。その上で相手が自分の発話を相手にとっての関連性があるようにして私は発話を行う。そうしてこそ相手も私の発話を、時折の疑問や躊躇があるかもしれないが、さまざまな程度の関連性を認めるだろう。そして相手も私に対して同じことを試みる。コミュニケーションとはこの過程が連続することである。私の発話は相手によって規定され、相手の発話によって定められる。聞き手にとっての関連性の高いと思われる発話を話し手が自らの可能性の中から選択するのがコミュニケーションである。ここには、言語学の関連性理論 (Relevance Theory) が強調している原理が見られる。

B 期待による学習と不可知性の縮減
 そのように発話の継続的発展という経験が重なるにつれ、双方はそれぞれに相手に関してそれなりに学習し、相手の行動に対するある程度の期待をいだくようになる。相手の反応を自分なりに予想できるようになるわけである。もちろん期待はしばしば裏切られるが、その失敗経験も相手に対する期待についての新たな学習となる。双方がそれぞれに学習すれば、双方の期待もそれぞれにより信頼できるものとなり、2人の間にはそれなりの秩序が生まれ始めるだろう。もちろん期待は予想に過ぎず予知・予見ではない。ゆえに期待が裏切られ秩序が破壊される可能性は常に存在する。とはいえ、コミュニケーションの経験の蓄積から、2人はそれぞれに互いに対する期待を学習し、コミュニケーションの不可知性は少しずつ縮減する。

C 社会的な「私たち」の創発
 コミュニケーション不可知性が少しは低減したとしても、実際に話し手の発話を聞き手が関連性のあるものとして受け入れるかどうかは聞き手次第であることに変わりはない。つまりコミュニケーションにおいては、双方が相手に由来する期待をもとに発話し、その発話の解釈を相手に委ねる。「自らの行為」と私達が通常想定している発話は、実は相手がなくては準備も実行も完遂もできない行為である。ここでもって相手は自分にとって不可欠であるという認識が双方に生じるだろう。ここで、2人は別々の個人ではなく「私たち」となる。「私たち」は個人には還元できない社会的な自己である。その「私たち」を自己参照しながらコミュニケーションは継続する。「私たち」とは私たちのこれまでのコミュニケーションから想定されている概念であり、「私たち」はその過去のコミュニケーションに基づき、かつこれからの私たちのコミュニケーションを予期しながら、コミュニケーションを重ねる。コミュニケーションこそが「私たち」という概念の母体である。


■ まとめにかえて

 これまで説明してきたことに基づきコミュニケーションについてすこし発展的にまとめるなら次のようになるだろう(ここでも話を単純にするため2人の間でのコミュニケーションを考える)。

 コミュニケーションは、自分も相手も互いを基本的にはブラックボックスと考え、自分ができる範囲で相手を観察することから始める。その上でどちらかがまずは自分ができることとして自らの発話を選択する。その発話はその人なりに相手にとって関連性があると思った発話である。その発話を受けた相手もその人なりに観察・推測し発話を返す。双方がそれを行い続ければ、2人それぞれにコミュニケーションのあり方について学習し、そこには一種の社会的な秩序ができてくる。このコミュニケーションはどちらかの個人だけで準備・実行・完遂できるものでもないし、2人の個人(の思考と行動のレパートリー)の単純な合算によって作られたものでもない。コミュニケーションは、相手を自分の発話行為を定めるための必須の要因として観察・推測し発話しあう2人という新たな単位によって行われる。コミュニケーションを個人に帰属させることはできない。コミュニケーションは、コミュニケーションを行う「私たち」に帰属させるべきものである。あるいは少し異なる言い方をすれば「私たちのコミュニケーション」を自己参照しながら形成されるものである。だからといって「私たち」とは均質な存在ではない。2人が生物学的に1つの生物になるわけでもないし、同一の心理を有しているわけでもない。それぞれは別の生物学的・心理学的存在であり、それぞれに自分なりの複合性を有し、それぞれが互いを知り尽くすことはない。しかしながら、コミュニケーションによって結ばれた2人は、それまでの生物学的・心理学的個体としては経験できなかった自己をそれぞれに実感する。それは「私」というよりも「私たち」という自己と呼ぶべきかもしれない。これは個々人の生物学的・心理学的な実在性 (reality) を超えた、社会的な現実性 (actuality) を有するものである。こうしてコミュニケーションは社会的に形成され、そこには社会的な現実性が生じる。


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意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ
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2019/09/02

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ



この記事は下の二つの記事の続きとしての「お勉強ノート」です。第6章の “How the Brain Makes Emotion” をまとめました。まとめ方は私の関心にしたがったもので、かつ、私の解釈も入っていますので、ご興味のある方は必ず原著を御覧ください。


Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html




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カテゴリー事例の決定 (categorization)
 ある状況において、ある人の脳の中に大きく「怒り」と表象できる概念 (concept) が活性化したとしても、その概念には実に多くの事例が含まれている。それらのうち、その人の身体の内受容 (interoception) やその他の感覚も含めた今の世界のあり方としてもっとも適したものとして選ばれる勝ち残り事例 (winning instance) を脳が決めることをカテゴリー事例の決定 (categorization) と呼ぶ。カテゴリー事例の決定がその人にとっての知覚 (perception) となりその人の行為を導く。 (pp. 112-113)

情報の要約 (summary) としての概念
 人間の脳にはさまざまな物理的・生物的制限があるので脳は効率的な情報処理をしなければならない。たとえばある種の点の連なりは「線」という概念で要約 (summarize) することができる。その概念を表象するニューロンの数は、さまざまな点の連なりそれぞれを表象するニューロンの数よりはるかに少なくて済む。「線」概念が重なったさまざまの事例の一部は「角度」概念として要約できる。要約を続ければ「目」概念、「顔」概念などとその抽象度を上げることができる。抽象度の高い概念はそれだけ効率的な情報の要約 (more efficient summaries of the information) である。 (p. 115)

補足:「顔」概念での知覚は、「目」概念での知覚と異なり、「目」概念以外の「鼻」概念や「口」概念なども含めて統合した知覚である。「顔」概念に必要なニューロンの数は、「目」「鼻」「口」などの「顔」を合成する諸概念のニューロンの数の合計よりもはるかに少ないだろう。ましてや、それは、「目」概念などを構成するさまざまな「角度」や「線」の概念のすべてを表象するニューロンの合計数よりも断然少ない。抽象度の高い概念をもつことにより、人間は効率良い情報処理ができる。

補足2:多層構造に関しては、私は下の記事をまとめた際に参照した動画からアナロジー的に理解しました。文系の悲しさで、きちんとした理解ができていないことを恥じます。

松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』




概念はマルチモーダルであるし非常に抽象的でもありうる
 上には視覚の例だけを出したが、もちろん概念には他のモードの感覚(たとえば聴覚、嗅覚、内受容感覚など)も含まれるという意味で多感覚的 (multisensory) であるし、「母」といった極めて抽象的な概念も含まれる。 (p. 116)

補足:「母」という概念は、例えば自分の母親に関してのさまざまな姿・声・匂い・内受容などの事例を含むだけでなく、これまで自分が接してきた他の人の母親に伴う事例、これまで接したことはないが自分の経験や記憶から想像できる母親についての事例、さらには「新宿の母」「母としての自然」といった比喩的表現に伴う事例も含んでいる。それぞれの「母」の事例にはさらにさまざまな下位概念を含むことを考えると、「母」概念は莫大な量の情報を要約している非常に抽象的な概念であることがわかる。

概念と予測はコインの裏表
 「ある概念の一事例を構築する」 (construct an instance of a concept) ことは、「ある概念の予測を出す」 (issue a prediction) ことと同じである。予測とは概念を「適用」することと考えることができる (Think of prediction as “applying” a concept)。この予測においては、さまざまな知覚入力を通じての修正や洗練 (correcting or refining) が行われる。(p. 118)

予測においては、細かな予測という巨大な滝の流れ (a gigantic cascade of more detailed predictions) が生じる
 たとえば今・ここでの諸感覚から「幸せ」という概念を想起し、その概念を基にして直近の未来のあり方を予測しようとすれば、その概念から数多くのより小さな(=低次の)概念が想起され、それらはそれぞれにさらに小さな概念を想起させ・・・といったことが何層にもわたって行われる。つまり諸感覚入力の要約 (a summary of all the sensory input) である「幸せ」概念を開いて (unpack) 、さらに細かな予測という巨大な滝の流れ (a gigantic cascade of more detailed predictions) が生じさせる。(p. 119)

補足:原著とは異なる図を私なりに作ってみた。最初に細かなお断りを入れておくと、この三層の図は極端な単純化で、本来、ニューロン(印)は何十・何百もの層にも重なっているはず(「何十・何百」という規模でいいのか自信がないのですが、それはそれとして)。また図としては本来、第一層のすべてのニューロンが第二層のすべてのニューロンに、第二層のすべてのニューロンは第三層のニューロンに線でつながれているべきなのですが(線は0から1までの間の重み付けをもつと仮定する)、面倒なので省略しました。



 もし諸感覚の入力から「幸せ」概念のニューロン(本来はニューロン集合でしょうが、ここでは議論を簡単にするために単一のニューロンとする)が活性化したなら(=頂上の印が活性化したなら)、それは第二層の多くのニューロンさらには第三層のさらに多くのニューロンを活性化させる。その活性化の過程でも諸入力は次々に入り続けるので、それらの諸入力ともっとも適合的なニューロン(=第三層のどれか一つの印)が活性化する。それが予測である。
 逆のプロセスを取るのが概念を形成することである。人はさまざまの事例(=第三層のさまざまな印)を経験し、それらは抽象化(=第二層のニューロンで表現)され、また周囲の人々の「それは幸せなことだったね」といった発話に教えられ、独自の「幸せ」概念(=第三層のニューロン)を作り出す(また、この概念形成は終結することなく、その時々の状況にもとづくゴールによって概念は新たに作られる)。

滝の流れの始まりと終わり
 概念の滝の流れは、内受容ネットワーク (interoceptive network) から始まり、一次感覚領域 (primary sensory regionの訳語として適切かどうかわかりません)で終わる。このことからあらゆる予測やカテゴリー事例の決定は、その人の身体の状態が関わっていることがわかる。 (pp. 121)

補足:内受容ネットワークについては下を参照

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

情動的細密性 (emotional granularity) が高いことの長所
 「心地よい」 (pleasant) といった幅広い(情動)概念が活性化すると、それだけ数多くの事例が予測されるが、これは脳に負担をかけることになる。他方、(情動)概念が細密化されていると(=高い細密性 (high granularity) をもつと)、可能な予測事例の数は少なくなり、予測はより効率よく (efficient) かつ精密 (precise) なものになる。 (p. 121)

補足:これも私なりに図を作ってみた。三角形の高さは前の図の三角形よりも高いが、両者の高さは実は同じものだと仮定してほしい。前の図が一つの三角形でカバーしていた領域を、この図の五つの三角形がカバーしていると想像してほしい。言い換えるなら、この図は前の図が表象していた概念をさらに五つに細分化しているわけである。



 このような細分化された概念を有する人は、より短時間でより精密な予測ができることになる。大胆に言い換えるなら、より多くの語彙を使いこなせる人は、より速くより緻密な予測ができることになる。もちろん概念はすべて言語化されていなければならないのではないのだから、例えば人の動きをより細密に識別できる武術家は、より素早くより効果的に相手を制することができるともいえるだろう(もちろんこの識別が意識的である必要はない)。

概念も母集団思考 (population thinking)
 補足:ここの解釈は私の考えがずいぶん入っていますので、この項の記述は「補足」といたします。この解釈を出した元は122ページの最初の段落です。
 概念も母集団思考で考えるべきである。ある概念はさまざまな事例から構成されており、その母集団をもって概念となしている。だが、人がある概念を活性化したとしても、それはその人がその概念のすべての事例をすべて想起しているといったことは意味しない。概念は事例の要約に過ぎない。
 また、異なる状況で違うゴールをもった場合は、別の仕方でその概念を活性化するだろう。つまり、その際にその概念に含まれる事例は前の時の事例とは異なっている可能性がある。したがってこの場合の予測は、前の場合の予測には含まれなかったようなものになる可能性がある。
 この意味で、事例の “population” という用語は、単なる「集団」ではなく、理念的な想定である「母集団」と訳した方がよいと私は考えます。
 とはいえ、私は進化論に関しての理解は非常に浅いので今後勉強を重ねてゆきたいと思っています(本を読む時間がほしい)。

実際の予測は、同時並行的かつ確率的に大量に行われる
 脳は刻々と何千もの予測を同時並行的に出している。予測はイチかゼロかといったものではなくどれも確率的 (probabilistic) であり、どれか一つだけの予測が100%正しいとしてそれに固執 (linger on) するようなことはない。

補足:武術オタク的にいうと心身が「居着く」と、100%とは言わないにせよ、ある状態が到来する可能性しか予測できず、心も身体もその準備にばかり動員されて、状態変化についてゆけなくなる。(参考:『古武術の極み: 身体の使い方には理がある 柔術稽古覚書其ノ一』)

数多くの予測を管理するコントロールネットワーク
 あまりに多くの予測が生じると脳は混乱するが、その混乱を解消するのがコントロールネットワーク (control network) である。たとえばある有名な図では、ACに挟まれればBと見え、1214に挟まれれば13に見える記号があるが、この場合、それぞれ二つの文脈に応じてコントロールネットワークが働いていると言える。ただしコントロールといっても中央管理ではなく、適当にいじくっている (tinker) といったイメージの方が実際に近いだろう。 (p. 123)

意味を作り出すという現象
 脳は、過去の経験に基づいて、次の瞬間に世界がどうなるか予測するメンタルモデルを常に有している。これが概念を用いて世界と身体から意味を作り出すという現象である。人が起きている時に脳は過去の経験を用い、それを概念として組織化して、次の行動を導くと共に感覚に意味を与える。 (Your brain has a mental model of the world as it will be in the next moment, developed from past experience. This is the phenomenon of making meaning from the world and the body using concepts. In every waking moment, your brain uses past experience, organized as concepts, to guide your actions and give your sensations meaning.) (p. 123)

補足:ここで私が思い出したのが「意味の流れ」 (a stream of meaning) を強調したボームの論です。ボームは、意味の流れが人々を結びつけるし、一見矛盾するような複数の考えも、それらの意味の流れが連動すれば、それだけ私たちはより真理に近づくとも述べます。予測とは、過去の経験に基づく「想起された現在」 (“the remembered present” by Gerald M. Edelman) と次の瞬間をつなぐ流れであり、かつその流れはどんどん到来する諸感覚入力により刻々と修正・洗練されながら連綿と続くものです。「意味とは流れである」という表現はそれほど間違っていないと私は考えます。

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 他にも意識の統合情報理論は、意味の動態性を強調しました。

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J-STAGE: 中国地区英語教育学会研究紀要
意識の統合情報理論からの基礎的意味理論英語教育における意味の矮小化に抗して

 意味については、下のような論考をまとめたこともあります。

「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17

意味についてはいつかしっかりとまとめた論考を書きたいと思います。心身を整えて「忙中閑あり」で時間を見つけてゆきたいと思います。

意味を作り出すということは、与えられた情報を超えるということ
 意味を作り出すということは、与えられた情報を超えるということである (To make meaning is to go beyond the information given)。心臓の早い鼓動には、走れるように四肢に十分な酸素を与えるといった物理的な機能がある。しかしカテゴリー事例の決定は、そういった身体変容が、幸せや怖れといった情動的な経験となることを可能とし、それにその人の文化内で理解された意味と機能を付け足す。カテゴリー事例の決定は、生物学的な信号に新たな機能を付け加えるが、これは物理的性質ではなく、その人の知識と周りの状況によって付け加えられるのである。 (p. 126)

情動は意味である
 情動は意味である (Emotions are meaning.)。情動は、内受容とそれに伴う身体変容性の感情 (affective feelings) を状況に応じた形で説明する。情動は行為の処方箋でもある。内受容ネットワークやコントロールネットワークといった概念を実行する脳システムは、意味を作り出す生物学的現象 (the biology of meaning-making) である。 (p. 126)

補足:繰り返しになるかと思いますが、このようにして考えると意味は生物的であり文化的であり、個人的であり社会的であり、生理的であり認知的であり、現在から過去を参照しつつ未来を志向しているといえるでしょう。
 意味を訳語に還元してしまうような単語集の丸暗記実践や、誰でも同じように同定できると想定する多肢選択試験に強烈な違和感を覚える私としては意味についての理解を深めてゆきたいと思っています。






柳瀬陽介 (2023) 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」『早稲田日本語教育学』第35号 pp.57-72

  この度、『早稲田日本語教育学』の第35号に、拙論 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」 を掲載していただきました。同号は「人工知能知能時代の日本語教育」をテーマにしたのですが、それに伴い、日本語教育と英語...