2020/02/25

身体と心と社会は不可分である:Barrettの"How Emotions Are Made"の後半部分から



この記事も、Barrettの "How Emotions Are Made" に関するお勉強ノートです。





この記事ではこの本の後半部分にあった、理論の要約部分とルーマンの理論との親和性を示唆する部分についてまとめます。おそらくこの本のお勉強ノートはこれで終わりです。

( )内でのページ数表記や、翻訳書に大変お世話になったことは前の記事に書いた通りです。







関連記事Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ
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Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ
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意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで
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第7章「社会的実在性を有する情動」(Emotions as Social Reality) のまとめ: "How Emotions Are Made"より
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*****


■ 理論の要約:身体と心と社会は不可分である

バレットは、本書後半で何度かにわたって、前半で説明した彼女の理論を非常に短く要約している。それらによると、彼女の理論は3つの柱から構成されている。3つの柱には、以下に見られるように微妙に異なった表現を与えられているが、本質的には同じことを述べている。


要約その1:読者に学んでほしかったのは以下の3点である。

(1) 身体と心は深く結びついている。 (your body and your mind are deeply interconnected)
(2) 行為を駆動するのは内受容である。(interoception drives your actions)
(3) 脳の配線を行うのは文化である。(your culture wires brain)
(176 , 292)


要約その2:情動を作り出すには以下の3つの構成要素 (ingredients) が必要である。

(1') 内受容 (interoception)
(2') 情動概念 (emotional concepts)
(3') 社会的実在性 (social reality)
(256 , 417)


要約その3:人間の心に共通する構成要素とは、以下の3つの心の側面 (aspects) である。

(1") 身体変容に基づく実在主義(affective realism)
(2") 概念(concepts)
(3") 社会的実在性 (social reality)
(285, 465)


要約その4:3点を統合した形で述べた文章

拙訳:人間は明示的に教えられなくても情動を知覚する。しかしだからといって、情動が生得的であるとか、学習とは関係ないとかいうわけではない。生得的であるのは、人間が概念を使って社会的現実を作り上げるということである。そして今度は社会的現実が脳の回路を組み上げる。さまざまな情動は、社会的現実がまさに実在的に創造したものである。この創造は、人間の脳が他の人間の脳と連携するからこそ可能になっている。(You perceive emotions without formal instruction, but that does not mean that emotions are innate or independent of learning. What's innate is that human use concepts to build social reality, and social reality, in turn, writes the brain. Emotions are very real creations of social reality, made possible by human brains in concert with other human brains.)
(281, 459)


以上の要約を私なりにさらにまとめてみると次のようになる。

私なりの要約身体と心と社会は不可分である。

(i) 心の身体性:身体内で起こっている情動が、その人の脳で知覚されることによりその人に心が生じる。
(ii) 心の概念・予測性:心は、その人のこれまでの経験の要約である概念を活性化する。その概念が、その人の未来を予測して行為を導き出す
(iii) 心の社会性:心の中の概念は、さまざまな人々がそれまでに作り上げてきた社会的現実の中で、その人が言語を使いながら他の人々と連携することによって獲得される。



■ ルーマンの理論との親近性

以前の記事でも書いたように、バレットの理論とルーマンの理論は親近性が高い。ここでは3つの論点を挙げてみる。


論点その1:脳と世界の間に境界はない

拙訳:私たちはたいてい、自分と外の世界は物理的に分離されていると考えている。出来事は世界という「外で」起こるのであり、自分は脳という「内で」それに反応すると考える。
しかし、構成主義的な情動理論では、脳と世界の境界線は相互浸透しているもの、というよりは、存在しないものである。脳の中核システムは、脳と世界をさまざまな形で結びつけ、知覚・記憶・思考・感情・その他の心的状態を構築している。
(Most of us think of the outside world as physically separate from ourselves. Events happen "out there" in the world, and you react to them "in here" in your brain.
In the theory of constructed emotion, however, the dividing line between brain and world is permeable, perhaps nonexistent. Your brain's core systems combine in various ways to construct your perceptions, memories, thoughts, feelings, and other mental states.)
(153, 255)
補足:脳は、外で客観的に起こっていることを内に投影しているのではない。脳は、外で起こっていることに起因する身体内の変化を、その時々の身体の状態と過去の記憶を通じて、自らの神経回路に反映させて「現実」を知覚している。


論点その2:私たちは「自己」をその時々に応じて生成している

拙訳:自己も概念であるのなら、人はそれぞれの自己のさまざまな事例をシミュレーションによって構築していることになる。構築した一つ一つの自己は、その時々の目的にかなっている。人はある時には自分を職業によって規定する。他の時には親であったり子どもであったり恋人であったりする。時には単なる肉体である。社会心理学者によれば、私たちは複数の自己を有しているのだそうだ。だが、これらの自己のレパートリーは、「自己」という一つの概念のさまざまな事例として考えることができるだろう。その「自己」は、目的に即した概念であり、目的は文脈によって変化する。
(If the self is a concept, then you construct instances of your self by simulation. Each instance fits your goals in the moment. Sometimes you categorize yourself by your career. Sometimes you're a parent, or a child, or a lover. Sometimes you're just a body. Social psychologists say that we have multiple selves, but you can think of this repertoire as instances of a single, goal-based concept called "The Self" in which the goal shifts based on context.)
(191, 315)
補足:「自己」という自分自身を表象する語の意味は、その語を発する人が、自分が置かれている文脈とそこで自分が定める目的に応じて生み出すものであり、その時々のその人の状態と状況によってさまざまに異なりうる。だが、その多様な意味を、「私という自己」といった語は、超越論的に指示する。
多くの人は、その超越論的指示が、どの言語使用においても<今・ここ>の指示対象の中に具現化しているに違いないと思い込んでいることはウィトゲンシュタインも指摘したとおりである。

論点その3:たった一つの現実など存在しない
拙訳:私たちが「確実なこと」として経験すること--自分自身やお互いや身の回りの世界について知っているという感情--、これは、私たちが毎日をなんとかやってゆくために脳が作り出している幻想である。(中略)私たちは愚かであったり能力が足りなかったりするから現実を把握できないと述べているのではない。私が言っているのは、把握すべき唯一の現実などないということだ。脳は、周りの感覚入力に対して1つ以上の説明を与えることができる--現実は無限に存在するとまでは言わないにせよ、確実に1つ以上は存在する。
(What we experience as "certainty" -- the feeling of knowing what is true about ourselves, each other, and the world around us -- is an illusion that the brain manufactures to help us make it through each day. (...) I'm not saying that we are dumb or ill-equipped to grasp reality. I'm saying there is no single reality to grasp. Your brain can create more than one explanation for the sensory input around you -- not an infinite number of realities, but definitely more than one.)
(290, 474)

補足:著者は、(292, 477)で、自分の理論も客観的事実ではない(not objective facts)ではない、と述べる。彼女の理論は、現時点でもっとも脳の物理現象を説明できる理論であるとは信じているが、同時に、将来、他のよい理論が出てきたとしても驚きはしないと述べている。


最近新訳が出たルーマンの『社会システム』の訳者のことばをもじっていうなら、こうなるかもしれない。


バレットの理論は「人間の知性の理論」ではない。
この理論そのものが、人間の知性の一部なのだ。


構成主義的な考え方からすれば、記述・説明される事象から独立してすべてを眺望的に記述・説明するが、自らはいかなる知的記述・説明からも逃れられている超越的な知性は存在しない。エッシャーの「描く手」のように、理論はその理論的記述・説明により、対象だけでなく自分自身も記述・説明している。自らの理論が絶対的なものではないという自覚を保ちつつ「なんでもあり」の俗流相対主義に陥らないのは、現代人の基礎的素養の一部だろう。








追記
いつものように私の誤解や錯誤を怖れます。もし何かありましたらこちらまでお知らせください。


2020/02/20

第7章「社会的実在性を有する情動」(Emotions as Social Reality) のまとめ: "How Emotions Are Made"より



この記事も、How Emotions Are Madeに関するお勉強ノートです。






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意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで
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今回の記事では直前の記事と少し重なりますが、同書の第7章についてまとめました。この章は同書の理論編の最後の部分なので少しきちんとまとめておこうと考えました。

以下に現れる (131, 220) といった表記は、最初の数字が原著の、次の数字が翻訳書の該当ページ番号を示します。

翻訳書は大変参考にさせていただきましたが、下で示した訳は私なりに訳したものです。

翻訳書は正確で読みやすく、訳注や解説も充実していますから、ご興味がある方はぜひ入手してお読みください。






*****


■ 情動は実在するのか? (Are emotions real?)

何が実在する (real) かに関しては、二種類の実在性 (reality) を想定するべきであろう。

第一の実在性は物理的実在性 (physical reality) であり、これは人間という観察者がいようがいまいが、その実在性に変化がない実在性である。物理的実在性は知覚者とは無関係 (perceiver-independent)なカテゴリーである。 (131, 220) 物理学者や化学者などはこの物理的実在性をもとに研究を進めている。

第二の実在性は社会的実在性 (social reality) である。社会的実在性は知覚者に依存した (perceiver-dependent) カテゴリーである。 (132, 221)

情動は--少なくともバレットの定義によるなら--人々に意味をもたらし行動を促すものである。もちろん個々人の意味や行動はそれぞれ微妙に異なるが、同じ文化に住む人々はだいたいに同じように意味を感じ同じように行動を促される。

逆に言うなら、文化が違えば情動に関する意味や行動は大きく変わりうるし、そもそも文化によっては他の文化がもたない情動をもつこともある。こういう点からすれば、情動は、同じような生活様式(ウィトゲンシュタイン)を共有してきた歴史をもつ人々がおおまかに同意する限りにおいて存在しているものである。したがって、情動は社会的実在性をもつと考えるべきである。

もちろん、心臓の鼓動・血圧・呼吸・体温・コルチゾールなどの変動は物理的実在性を有しているともいえる。(132, 222) (注)

(注)ただ、これらの変動を特定しているのは人間の概念であることからすれば、そう簡単に「観察者からの独立性」を標榜をすることはできない。しかしこの問題についてはここでは深入りしない。

ダマシオならこれらの物理的実在性を有する現象に対して「情動」という用語を使うかもしれないが、情動の概念性・予測性を重視するバレットは、それらの物理的(というよりは生理学的)現象を「本質的には情動でない」 (not intrinsically emotional) と述べる。(133, 222) 彼女はこうまとめている。

筋肉運動や身体変化が情動の具体的な事例 (instances of emotion) としとして機能する (functional) のは、人間がそれらを具体的な情動の事例としてカテゴリー化した時だけである。そのカテゴリー化によってこそ、さまざまな経験や知覚といった新たな機能が得られるのである。 (133, 222)

もちろんこの情動の社会的実在性には、物理的実在性の基盤がある。脳と身体である。だが物理的対象としての脳と身体そのものが情動であると言い切ることはできない。脳と身体が生み出した現象についてゆるやかに合意する人々の社会的な営みがあってこそ、私たちは情動をリアルなものと感じている。このリアリティーが社会的実在性あるいは社会的現実である。

ちなみに特定の人間集団という観察者に依存した社会的実在性を、厳密に客観的な方法で測定することはできない。得られるのは合意 (consensus) ぐらいである。これは、科学の限界を示しているというよりは、私たちが物理的実在性ではなく、社会的実在性について扱っていることを示していると考えるべきである。(140, 234)--ちなみにバレットはウィトゲンシュタインを引用していないが、私は彼女の立論を理解する際に、ウィトゲンシュタインの哲学が(ルーマンの哲学と共に)非常に有用であると感じている。


■ 情動はいかにして実在するようになるのか? (How do emotions become real?)

人間が情動の社会的現実を信じている背景には、人間の総合力 (human capabilities) が二つ必要である。

第一に必要なのは、集団的志向性 (collective intentionality)である。これは、対象・事実・事態・目的・価値などに対して、複数の人々が共同的に注意を向ける心の能力であある。集団的志向性は、意図・注意・信念・受容・情動などを個人を超えた複数の人々で共同的に共有するという様態を取る。(Stanford Encyclopedia of Philosphy)。集団的志向性によって協調的行為 (cooperative act) が可能になる。(135, 226)

だが、集団的志向性は、アリ・蜂・鳥・魚・チンパンジーなどももつものである。集団的志向性は、人間の情動にとっての必要条件ではあっても十分条件ではない。 (135, 226)

そこで、第二に必要となってくるのが言語 (language) である。人間ほどに集団的志向性とことば (words) を結びつけている動物はない。 (135, 227) これら二つが結合することにより、人々は協調的にカテゴリー化を進める (categorize cooperatively) が、これがコミュニケーションと社会的影響 (social influence) の基盤となる。 (136, 227)

たとえば「楽器」や「怖れ」といったことばを考えてみても、これらは外見上は非常に異なる事態を概念としてまとめあげている。これらの複雑な概念が「楽器」や「怖れ」という言語の形式を得ることにより、人間はこれらの概念をコミュニケーションに明示的に登場させ、協調的にカテゴリー化を広げ・深めることができるようになった。

人間の集団がこれほどゆたかにさまざまな情動と概念を有しているのは、人間が集団的志向性と言語という二つの力を相互作用させながら使いこなしているからである。


■ 情動的文化的変容 (emotion accultulation) 

社会的実在性をもつ情動は、当然のことながら、属する社会(集団)が違えば異なってくる。移民や留学生は、新しい国の文化と言語になじむにつれ、新しい言語が表す概念に従うことを学び、考え方や感じ方や行動の仕方を変容させる。これを情動的文化変容と呼ぶことができる。

簡単な例を出すなら、アメリカで長く暮らす日本人の多くは、次第にアメリカ人のような身振り・手振りをし始め、笑いや不快感のツボもアメリカ人と同じようになってくる。

こういった日本人が日本の文化・言語による生活様式も忘れていないとしたら、そういった日本人はbicultural(二文化併用的)になったと言えるのかもしれない。

だが、もちろんアメリカ語は流暢になってもアメリカの生活様式をなかなか受け入れない日本人もいるだろう。そういった人は、bicultural(二文化併用的)にならないままbilingual(二言語併用的)になったといえるだろう。そういった日本人の話す英語は、特に情動のレベルで時にアメリカ人を驚かすかもしれない。

言語的変容と文化的変容という話題については、さまざまな価値観が交錯するので語りにくいところもあるが、ますます異文化間交流が進む現在、無視できない話題ではある。




2020/02/15

意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで


Lisa Feldman Barrettの "How Emotions Are Made"の翻訳である『情動はこうしてつくられる』(高橋洋訳、2019年、紀伊國屋書店)をようやく入手し読み始めることができました。



やはりすぐれた翻訳書というのはありがたいです。「そうか、こう訳せばよかったのか」と学ぶ点も多いですが、何よりもありがたいのは、日本語で書かれているので圧倒的に速く読めることです。読む認知的負担が少なくなるので、読みながらいろいろ考えることもできますし、何度も読み返すことによって集中的に考えることもできます。また、訳注や訳者あとがきもとても有用です。特に後者では、バレットの「情動」概念が、ダマシオらの「情動」概念と異なり、意識的(自覚的)であり認知作用を含むものであることが、原著者と訳者の間での質疑応答から示されており (520頁)、一読者として確証が欲しかったことに一定の解が与えられた気分です。

この記事では、翻訳書の1-7章(本書の理論編に相当)を読んで私なりに考えたことを備忘録として書き留めておきます。論点は、意味のシステム依存性(=意味は、システムの作動に伴う出来事である)と語の超越論的指示機能(=語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である)の2つです。丸括弧の中の (27, 57) といった2つの数字は、前者が英語原著の、後者が日本語翻訳の該当ページであることを示します。何箇所か日本語訳を出しますが、それは拙訳です。


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■ 意味のシステム依存性:意味は、システムの作動に伴う出来事である

「意味は、システムの作動に伴う出来事である」という命題は、先日、ブログ記事に掲載したルーマンの意味理論からのものです私は、さまざまな科学的知見を読み解く時に便利だからルーマンの抽象的な論考に興味を抱き続けています。バレットの理論を理解する際も、私はルーマンの理論を手がかりにしました。

関連記事
ルーマン『社会の社会』第1章第3節(意味)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/13.html


以下は、バレットの見解を、ルーマンの用語を時折使いながら要約してみます。ルーマンの用語は《 》で表記しますが、その中に=がある場合は、バレットの用語とルーマンの用語がほぼ交換可能ことを、≒が使われている場合は、厳密には交換できないことを示します。

人間は、覚醒している間ずっとさまざまな感覚刺激を受けています。その刺激は多義的でノイズの多い情報です。それは人間が何気なく認識している情報が、人工知能にとってはひどく認知が困難であることからもわかるでしょう。ですが人間の脳は、そのような曖昧な感覚刺激から、過去の経験を使って仮説(シミュレーション、あるいは予測)を作り出します。(27, 57) 外界《=環境》からの撹乱を受けて、自身の中にあった記憶を使い仮説を生成し、次の瞬間のシミュレーション・予測をするわけです。これが意識システムの主要な作動です。システムが構築していた記憶はバレットの用語では「概念」と呼ばれます。ですから、脳が意味を生み出すメカニズム《=意識という自己生成システムが意味を紡ぎ出すメカニズム》は次のようにまとめられます。バレットの表現です。

どんな時、どんな文脈でも、脳は概念を使って、世界という外に起因する感覚 (sensations) に対しても、[身体という]内に起因する感覚に対しても、その瞬間ごとに意味を与える。(30, 61)

意味は絶え間なく更新される動態的なものです。脳は、何十億もの予測ループを使って未来をシミュレーションし続けているからです。その予測は、世界に起因する新たな感覚入力 (sensory input)《≒撹乱》)によってチェックされます。脳はそれを優先しシミュレーションを変更することもあれば、無視してそのままシミュレーションに基づいた行動を行うこともあります。(64, 116)


こういったバレットの論点は、そのまま彼女の情動構成理論 (the theory of constructed emotion) の定義にもつながります。

覚醒しているときはどんな瞬間でも脳は、概念として体系化された過去の経験を用いて、行動を導き、感覚に意味を与える。概念が情動を伴う概念 (emotion concepts) である場合、脳は情動の事例を構築することになる。 (31, 63)

言い換えるなら、情動とは、外界《=環境》で生じた出来事から自動的に生じる反応 (reaction) ではありません。(31, 64) 情動とは、身体内外に起因する感覚を契機として、脳《≒意識システム》が、自らの構成要素である概念《=記憶》を用いながら、未来の事態を予測することを促す身体内の変容です。情動は、現在を過去と未来に関連づけるとも言えるでしょう。こういった点を総合して言い切ってしまうなら、情動とは意味です (Emotions are meaning)。(126, 211) そして、意味を作り出すということは、現在与えられている情報《≒撹乱》を超越することです (To make meaning is to go beyond the information given)。(126, 211)

私は以前、ある機会(2019年度 大学英語教育学会(JACET)関西支部大会)の講演で、下のスライドを使おうかと思いながらも、時間の都合で断念していました。このスライドには、上の説明では割愛した、body budget (身体予算=身体のリソースを勘案する機能)、interoception (内受容=身体内の変化を脳が感知すること)、exteroception(外受容=身体外の変化を脳が感知すること)、conatus (生きる力(コナタス)=生命が自らを維持し発展させようとする力:バレットは使っていないが、ダマシオはスピノザの用語として時折使っている)という用語が使われています。ですからバレットの理論の忠実な要約にはなっていませんが、これも私なりの1つの解釈かと思い、ここに掲載します。図の白色部分は身体内を、黒色部分は身体外の領域を示します。灰色部分は、それらの両方の領域に関わる現象です。なお、図にはmeaningの用語が見当たりませんが、この図全体が、いかにして意味が生成されるかを説明しているとご理解くだされば幸いです。






*****


■ 語の超越指示論的機能:語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である

語は、乳児の注意を、他人の内部にある概念(特に情動概念(注))に向ける。概念は、外界では観察できないが、語により表現されることによって、乳児の注意をひくことができる。語は、外界のさまざまな事例を互いに類似している個体群・母集団としてまとめることを教える(98, 166-167)

(注)私は、野口三千三が言うように(あるいは竹内敏晴も示唆するように)、すべての概念には情動が含まれていると考えた方が合理的だと思っています。また、バレットの理論で考えても、すべての概念は何らかの形で情動概念につながっていると考えてもよいと考えています。ですから私は、「概念」と「情動概念」を峻別する必要はないと考えます。よって、以下でバレットを引用する際に「情動概念」や(その概念を表す)「情動語」という用語を使っても、その議論は「概念」や「語」一般にも適用されると私は理解していることを付記しておきます。この両義性をうまく表現するために、「(情動)概念」や「(情動)語」といった表記を時折使うことにします。 
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野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
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竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html


ここで大切なのは、乳児がまだ学んでいない(情動)概念は、外界ではさまざまな事例で表現されるので、外界の様子を観察するだけでは、その(情動)概念が存在することすら乳児にとっては理解困難であることです。しかし、周りの大人が、その(情動)概念を表現する(情動)語をさまざまな事例でを通して使い続けると、乳児はその語の形式(=音声)の同一性(厳密には類似性)から、さまざまな外界の様子には、何らかの共通性(厳密には類似性)があるのではないかと推論することが容易になるでしょう。

たとえば「怒り」という情動概念が適用される事例には、実にさまざまな身体、文脈、目的の状態が含まれます。(100, 171) ゆえにその概念の学習は容易なことのようには思えません。しかし、周りの大人から適切な折に「怒り」という語を含んだ発話を聞く子どもは、その時々の状態を超えて(=超越して)、「怒り」の概念が適用できる範囲を規定する道具・媒体を授けられます。語のことです。もちろんその概念構築(つまりはその語の使用)の過程で、子どもは大人から誤用を指摘されることもあるでしょう。ですが、多くの使用事例を通じて、子どもは語を、目の前の特定の状態に適用できるだけでなく、その事態を超越した様々な状態にも適用することを可能にする、いわば超越論的な指示機能をもつ記号であることを学びます。

この語の超越論的な指示機能(繰り返して説明するなら、目の前の事例を超えて、誰もその全貌を知らない範囲を指示できる働き)こそは、人間と他の動物の知性の差を生み出している大きな要因の1つでしょう。もちろん動物も、たとえば「獲物」や「敵」といった単純な概念をもつ語はもっているかもしれません。しかしそれらは、ほぼ本能的に受け継がれた概念であり、その語とその指示対象の関係は単純で限定的です。

人間の言語でしたら、たとえば「怒り」にしても、表面上はあえて静かな態度を取り続けるといった事例にも適応可能ですし、雷という事例に対しても「(天の)怒り」といった形で適用可能です。ましてや抽象的な「美しさ」といった概念でしたら、万人が受け入れるような事例から前衛アートといった事例にいたるまで、物理的対象に限っただけでもさまざまな事例に適用可能です。ましてや「生き方の美しさ」や「虚数の美しさ」といった抽象的事例も考慮に入れるなら、人間の語のもつ超越論的指示機能は、他の動物の語の機能とは大きく異なっていることがわかるでしょう。誰もが現実世界では達成できない超越的な指示を可能にするという点で、超越論的な語は、人間の知性を大いに発展させていると私は考えます。

また、このように多くの事例を表象できる語という記号は、それらの事例に含まれている無数の、しかもマルチモーダルの情報を統括的に要約します。この記号の神経表象は、現実世界のさまざまな問題に対応しなければならない脳にとって、非常に効率的・効果的な表象でもあります。(116, 197)

さて、そのように超越的な指示をする人間の語ですが、それが指示しているすべての事例の集合(=過去や未来の事例も含むので、だれもそのすべてを知ることができない集合)をどのような要素によって構成されている集合として考えるべきか、ということも重要な問題です。

原著でバレットは、19世紀のダーウィンの思想を20世紀のメイヤーが要約した "population thiking" という用語を使っています。この中にある "population" は私見では、「母集団」とも「個体群」とも訳せる語です。(ただ、現在は、個体群的思考と訳した方が誤解が少ないかとも思っています。ちなみに、翻訳書でも個体群的思考という訳語が使われています)。

「母集団」とは言うまでもなく統計学の概念で、採取した標本(サンプル)の母体となる集団を指しますが、その母集団とは、しばしば誰もが容易にアクセスすることができない集団であることが含意されていると理解します(統計学に詳しい方、この含意が間違っていたらご指摘ください)。目の前にある標本から平均値を出したりすることはできますが、それは母集団の平均値であるとは限りません(もちろん統計的な手続きとしては、標本の平均から母集団の平均を推定する方法は確立されていますが、母集団の平均は推定するしかできないものです)。私の解釈では、ある語が指示することが可能な事例のすべてという集合は、母集団として(別の言い方をすれば、超越論的に)推定できるだけです。ですから、限られた数の語の使用例の中に共通要素や平均的・典型的な使用例を見出したりしたとしても、それらは母集団にも当てはまるとは限りません。母集団は、標本以上に多様で異質な事例も含んでいるかもしれないというのが妥当な推論ではないでしょうか。ある語もしくはある概念が指示しうるすべての事例の集合は(超越論的に想定できる)母集団に過ぎないという主張には一定の理があると私は考えます。

他方、"population" を「個体群」と訳すと、その集団の中には、さまざまな個体が存在することが強調されます。その含意として、そこで平均をとったとしても、その平均から逸脱する個体はたくさんあることが浮かび上がってくるのではないでしょうか。

"Population thiking" を「母集団的思考」と訳そうが「個体群思考」と訳そうが、その含意は、すべての事例が均一なものではないということです。つまり、すべての事例は、互いに類似しているが、すべて同一ではないということです。これは、本質主義 (essentialism) や類型論的思考 (typological thinking) の否定です。この否定は、ウィトゲンシュタインの親族的類似性概念による本質主義批判や、ローズの平均主義批判につながる大きな論点です。

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いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html

私は、近々公刊される予定の原稿でこの論点について少し論じましたので、ここではこれ以上の議論は割愛しますが、語彙学習を考える上でも、この本質主義・類型論的思考の批判は重要だと私は思っています。現在主流の単語テストの考え方は、英単語の訳語を産出したり、選択肢の中から正しい定義を選んだりすることができればその英単語は(一応)習得できたとみなすものです。しかし、この考え方は、本質主義・類型論的思考に基づくもので、言語使用の実態を歪めていると私は思っています。この考え方は、訳語・定義こそはその語のすべての使用に共通する本質であり、それを知れば、その語を使用することが可能になると想定しているからです。

私の考え方はこうです。言語使用の実態については、ある程度の定義や典型例は想定できるものの(母集団的思考)、それらを暗記するだけではその語を使用することができません。学習者は、さまざまな実例を体験するたびに、自分の記憶や身体予算を参照しながら、それぞれに異なる情動の事例を新たに経験する必要があります(個体群的思考)。学習者は自分の心身全体でその意味を処理し、その意味処理の時点を過去と未来と結びつけることが必要です。そうしなければ、学習者は、語の超越論的な指示機能を働かせる術を身につけられないとと私は考えます。

さて、子ども(あるいはここで論点を拡張させるなら、外国語学習者)は、そのような超越論的指示機能をもつ語という記号を手がかりにして、大人(あるいは当該外国語話者)の心の中にある(情動)概念を学ぶわけですが、その場合の語は、「孤立した語」 (words in isolation) ではなく、「情動概念を使って子どもの勘所 (the child's affective niche)[=身体変容性ニッチ]を押さえている他の人間が話しかけている語」 (102, 173) であるというバレットの主張にも注目したいところです。言い換えるなら、子ども(あるいは学習者)が語を学ぶのは、それらの語が彼・彼女らの心身の様子を共感的に理解した上で、彼・彼女らの心身を活性化し、彼・彼女らの意識を過去と未来に拡張するようなやり方で提示された時ということです。

具体的な事例を出します。私の勤務校での授業では、ある単語集を使って、原則として毎週50語を範囲とした単語テストを行うことが義務づけられています。ですが私は大学が提供する一問一答式のテストは使いません。それらは文からも文脈からも孤立した単語単体だけが提示される形で、その単語とその定義(同義語)を対応づければ正解となるテストだからです。私はそのようなテストは実施・採点するには便利ですが、学習者の言語使用につながりがたいと感じています。

言語使用の事例は、同一ではなく互いに類似しているだけなので多様です。学習者は、それらのさまざまな実例を自分の心身で処理して、自分なりの意味をそれぞれに実感しなくてはなりません。学習者は、さまざまな言語使用の実例を、自分で共感できる具体的な文脈の中で情動的に経験する必要があります。

ですから、私はテストでは50語の範囲から10語出題しますが、それぞれの語に5つずつの例文を用意します。テストされる語は、最初の一文字を除いて例文からは消去されていますので、学習者は5つの互いに類似しているが異なった文に共通して使われている当該語を推定します。学習者は、事前に勉強していた50語のうち、どの語でこの消去部分を埋めればよいのだろうかと頭を働かせ続けるわけです。また私は、テストが終わってもそれで学習を終了せません。私は、それぞれの語の例文を取り上げ、それらの文脈を補いながら、その例文を発話した者や聴いた者の心情や目的などを学習者に実感させます。

このテスト方法は一例にすぎませんが、単語学習・単語テストのあり方を考える場合においても、抽象的な理論理解は重要だと私は考えます。この記事では、(1) 意味は、意識システムの作動に依存しその意識が過去や未来とつながることであること、また、(2) 語の超越論的指示機能は、定義といった本質ですべて指示されるものではなく、さまざまな事例を経験する中で人が徐々に身につけるものであること、という2つの論点を提示しましたが、こういった理論的検討は、英語教育という非常に具体的な実践においても重要であると私は考えます。


*****


以上、備忘録としての文章なので、まだまだわかりにくい表現も多かったことをお詫びします(それは、私がまだまだ精緻には考えきれていないといことでもありますが)。しかし、私としては「優れた理論ほど実践的なものはない」という逆説的な表現を信じています。上の論点は、今後少しずつ整理して、具体例なども補うこととして、この記事はここで終わります。



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追記(2020/02/20)
(1) 「超越論的機能」といった表現は、意味をより正確に示すため「超越論的指示機能」などと書き換えました。
(2) 語が超越論的な指示機能といった一種驚くような機能をもちうるのは、語がこれまでさまざまな人々によってコミュニケーションで使われ続けてきて、今後も使われ続けるだろうという前提をもった媒体だからからだ、と言えるのではないかと考え始めました。



2020/02/13

ルーマン『社会の社会』第1章第3節(意味)のまとめ




以下は、ルーマンの意味に関する論考(『社会の社会』第1章第3節:意味 (Sinn / meaning)の一部の拙訳と解釈です。

私は外国語で書かれた難解な書を読む時には、(1) 自分なりに翻訳できるか、さらに (2) その翻訳から具体的な解釈を生み出せるか、という手続きを踏むことが多いです。これらができて、はじめて自分は(少しは)理解したといえるのではないかと考えているわけです。
(1) (2) は次のように言い換えることもできます。

(1) 翻訳可能性:ある言語で表現された理にかなった命題は、別の言語でも理にかなった命題として翻訳できるはずである。

(2) 命題生成可能性:ある理にかなった命題は、その理に基づき、数多くの理にかなった命題を生成できるはずである。

もし私のドイツ語理解力(および哲学的思考力)が十分だったら、私は(2)の命題生成可能性に基づき、ルーマンの命題から、数多くの例示的命題を即座に派生させることができるでしょう。

しかし私のドイツ語力は非常に乏しいので、(1) の翻訳可能性に基づき、まずは、ドイツ語原文を自分にとってもっとも精確な思考媒体である日本語に翻訳します。その日本語翻訳が意味の通るものなら、自分のルーマン理解はそれほど間違っていないのではないかと思うわけです(もっともこの段階で、ドイツ語文法を体得していない私は非常に苦労するのですが)。
その上で、(2) を信じて、自分の日本語翻訳から、その意味を保った上でのさらなる書き換えや例示ができるかどうかを試します。そういった解釈が楽に出てくるなら、私はそれなりに、ルーマンが言っていることを理解できているのではないかと思うことができます(もっともこの段階で、頓珍漢な例示などを出す可能性は高いのですが)。

そんなことをせずとも、きちんとした日本語翻訳があれば、それを読んでそこから解釈を導き出せばよいのではないか、という声も聞こえてきそうです。しかし、(後述する用語を先取り的に使うならば)、日本語翻訳の文字通りの「顕在的意味」だけを読んでも、それは翻訳者がその翻訳語を紡ぎ出した時に経験していたはずの「潜在的意味」がわからず、私の理解はしばしば上滑りに終わってしまいます。潜在的意味の経験が薄い読解は、なかなか展開的な解釈を生み出してくれません。だから、私は無駄に思えても、できるだけ原文を日本語に翻訳しようとします。

以下の「拙訳」は (1) を、「解釈」は (2) を私なりに示したものです。正直、自分でも翻訳・解釈に自信をもてていない箇所も含まれています。(1) (2) が誤っていれば、私はそれなりにルーマンを理解しているという仮説は間違っていることになります。恥ずかしながら私のドイツ語力では、このような手続きを踏まないと、ルーマンを少しはわかっているのかそれともまったくわかってないのかについて、自分で見当をつけることもできないので、以下に「拙訳」と「解釈」を提示する次第です。

なお、これらを作成するにあたり、英語翻訳書日本語翻訳書をひっきりなしに参照しました。ですが、最終的には自分なりの日本語で翻訳したつもりです(もちろん、日本語翻訳書と結果的に似ている箇所は多数あります)。

また、私がこれまで採択してきた訳語と異なる訳語を今回使ったので、その主な点2つについて述べておきます。

 “Aktualität / actuality” “Potentialität / potentiality” もしくは “Möglichkeit / possibility”について:これまで私は、ルーマンの意味理論における “Aktualität / actuality” を「現実性」と訳し、 “Potentialität / potentiality” および “Möglichkeit / possibility” を「可能性」と訳してきました。しかし、この記事からこれらの用語を、それぞれ「顕在的意味」と「潜在的意味」と訳すことにします。これらが意味理論の用語であることを明確に示すためです。また “Aktualität / actuality” の形容詞形と動詞形についても「顕在的な・顕在化する」などと訳します。ただし、これらが意味理論以外の文脈で一般的に使われている場合はこの限りではありません。
ちなみに、“Potentialität / potentiality” “Möglichkeit / possibility” をルーマンがどのように使い分けているのかというのは、私の長年の疑問ですが、この節を読んでもその疑問は解決しませんでした。ですから、両者ともに同じ日本語翻訳を充てています。

“Selbstrererenz  / self-reference” “Fremdreferenz / other-reference”について:これらの語は通常、「自己参照」と「他者参照」(あるいは「自己言及」と「他者言及」、もしくは「自己準拠」と「他者準拠」)と訳されますが、今回、私はこれらを「システム内参照」と「システム外参照」と翻訳してみました。「自己」もしくは「他者」という日本語は、どうしても人格的な存在としての人間を連想させ、ルーマンが議論しているのはシステムであることを忘れがちになるからです。そもそも “Selb / self” とは、人間(たとえば “himself” “herself”)だけでなく、モノ (たとえば “itself”) にも使われる語ですが、「自己」という語は、後者への適用にはふさわしくないものです。「彼の自己」とはいっても、「モノの自己」とは通常いいません。せいぜい「そのモノ自体」でしょう。
とはいえ、私はこれまでわかりやすさを優先して、“autopoiesis” を「オートポイエーシス」ではなく「自己生成」と訳してきました。この「自己」は上の原則に反してしまいますが、他にいい訳語が見つからないので、下では “autopoiesis” を「システムの自己生成」と訳しています。ルーマンの専門家以外にも理解できる日本語で翻訳したいというのが私の願いです。

それでは前置きばかり長くなりましたが、以下、『社会の社会』第1章第3節(意味)の中で私が気になった箇所の翻訳と解釈を示します。■印の後に続く太字部分は、私が勝手につけた小見出しです。(D44 / E18 / J33) といった表記は、それぞれドイツ語原著英語翻訳書日本語翻訳書の対応ページ数を示します)


以下の拙訳と解釈に間違いがあれば、ご指摘・ご教示いただければ大変ありがたく思います。(メールはこちらから送れます)。

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■ 意味は、意味システムが作動している限りにおいてそのシステムにとって存在する。

拙訳:意味は、それを利用している [システムの] 作動の意味として存在しているだけである (Sinn gibt es ausschließlich als Sin der ihn benutzenden Operationen. / Meaning exists only as meaning of the operation using it) 意味は、[システムの] 作動によって確定された瞬間に存在するだけであり、その前後に存在しているわけではない。したがって意味は意味を使う [システムの] 作動の産物 (Product / product) であり、神による創造や基盤や起源といったものに期することができる世界の特性でなない。(D44 / E18 / J33)

解釈:意味は、世界の永続的な特性ではなく、意味を用いる意識やコミュニケーションという意味システムが作動している限りにおいて現れるものである。


■ 意味システムの作動は、システム自体とシステム以外を区別する。

拙訳:心的システムと社会的システムの作動は、自らを環境と区別することを可能にする観察性の作動 (beobachtende Operationen / observational undertakings) として形成される。これは、その作動がシステムの中でしか起こらないにもかかわらず可能になっていると言えるが、私としてはそれがゆえに可能になっているとも言いたい。別の言い方をするなら、これらのシステムはシステム内参照とシステム外参照 (Selfstrererenz und Fremdreferenz / self-reference and other-reference) を区別している。これらのシステムにとっての境界は、物質的な構築物ではなく、2つの側をもった形式 (Formen mit zwei Seiten / forms with two sides) である。 (D45 / E19 / J34-35)

解釈:たとえばある人がある知的難問について懸命に考えているとしよう。その人の意識は、できる限りのことを意識内で想起して問題解決を図ろうとする。しかし、長い間その想起と考察を続けているその意識は、意識内を観察しながらも、同時に問題の解決の糸口が自ら(意識)を超えた領域--それは無意識かもしれないし、その意識がいまだ知覚したことがない知識かもしれない--にあるかもしれないことを自覚している。かくして、その意識というシステムは、システム内を参照しており、そのことによってシステム内(つまりは意識自体)とシステム外(意識を超えた領域)を区別している。
 同じように、ある複数の人々が、ある問題について熱心に話し合っているとしよう。その人たちのコミュニケーションの中でさまざまな解決方法が言及されるのだが、どれも問題解決法としては不十分である。そうなると、そのコミュニケーションは、「これまで話し合った論点だけで十分だろうか」というコミュニケーションシステム自体を参照しはじめるかもしれない。そのシステム内参照は、システム自体を観察することによって、「これまでコミュニケーションに登場しなかった論点」というシステム外をシステム自体とは区別していることになる。


■ 区別の再参入は、意識では自覚(自己意識)において、コミュニケーションではコミュニケーションの展開において行われる。

拙訳:抽象的に述べるなら、これは、自らが区別している事態に区別を「再参入」させることである。 (Abstrakt gesehen handelt es sich dabei um ein >>re-entry<< einer Unterscheidung in das durch sie selbst Unterschiendene. / In abstract terms, this is a “reentry” of a distinction into what it has itself distinguished.) ここではシステム/環境の区別が2回行われる。最初はシステムを通して生産された区別としてであり、次はシステムの内で観察された区別としてである。 (als durch das System produzierter Untershield und als im System beobachteter Unterschied / as difference produced through the system and as difference observed in the system) (D45 / E19 /J35)

解釈:たとえば、ある意識が、「あそこに梅の花が咲いている」という区別(梅の花という存在/梅の花以外の存在)を行うとき、その区別はその意識というシステムを通じて行われるものであるが、その区別が意識によって確認されたときに再参入が行われる。「梅の花という存在/梅の花以外の存在」という区別をしていることを、意識は「梅の花という存在/梅の花以外の存在」という区別の自覚によって行うからである。コミュニケーションにおいても、話者Aが「あそこに梅の花が咲いている」という発言で、「梅の花が咲いているという話題/それ以外の話題」という区別をした後に、話者Bが「そんな時期になったね」という反応で「梅の花が咲いているという話題/それ以外の話題」という区別によって梅の花が咲いているという話題を選んだなら、ここでもその区別にその区別が再参入したことになる。
※ 再参入については、こういった解釈でよいのか、今ひとつ自信がもてません。


■ 意識もコミュニケーションも、再参入によって、自らが自らを活性化するから、さらに複合的になり、予測不可能になる。

拙訳:[再参入によって]システムはそれ自身にとって計算不可能になる。システムは外部の効果(独立変数)が予測不可能であるがゆえの不確定性 (Unbestimmtheit / indeterminacy) ではなく、システム自体に由来する不確定性という状態にいたる。ここで、過去に行った選択の結果を現在の状態に対して利用するために記憶 (Gedaächtnis / memory) もしくは「記憶機能」が必要となってくる(現在の状態では忘れることと思い出すことが役割を果たす)。また記憶によってシステムは、肯定や否定になる作動の間とシステム内参照とシステム外参照の間で振幅する状態に置かれる。さらに記憶は、自分では決定できない未来に直面する。記憶は、未来の予期できない状況に対する適応素材のようなものを貯めているわけである。
これ以降は、この再参入によって生じる帰結がシステム自身にとって明らか (sichtbare / apparent) である結果を指して、それを「意味」とする。 (D45-46 / E19 /J35)

解釈:意識が、自らが行っていることを参照する時、およびコミュニケーションが、自らが行っていることを参照する時、再参入は行われるわけであるが、その再参入には記憶が伴い、そのことによってシステムが不確定的になる。記憶により、システムが行う区別に伴う潜在的意味が活性化されるからである。意識もコミュニケーションも、その先行きを完全には予測できないのは、それらが予測できない外部要因によって影響を受けるからというよりは、再参入という形で内部要因がますます複合的になってゆくからである。


■ 世界自体が、意味を有しているのではないし、意味を生み出すのでもない。

拙訳:意味システム (Sinnsysteme / meaning systems) にとっての世界とは、ある状態から別の状態を産出してシステム自身の状態を決定してしまう巨大なメカニズムではない。世界は、思いがけない事態 (Überraschung / surprises) を生み出す測り知れないほどの潜在的可能性 (Potential / potential) である。世界とは、事実上の情報 (virtuelle Information / virtual information) であり、その情報を産出するためにはシステムが必要である。より正確に言うなら、世界とは、選択された刺激 (Irritationen / irritations) に情報という意味 (Sinn von Information / sense of information) を与えるためにシステムを必要とする事実上の情報である。(D46 / E19 /J36)

解釈:世界は、意味システムが意味を生み出すために利用する潜在的可能性である。意味システムが意味を有しているのであって、世界が意味を有しているわけではない。厳密に言うなら、世界は情報を有しているわけでもない。情報もシステムの作動によって成立する概念であり、世界が有しているのは、いわば情報の前段階(事実上の情報)である。それはシステムに利用されてはじめて情報となり、意味となる。


■ 過去も未来も、意味システムが生み出す。

拙訳:意味のある同一性 (sinnhafte Identitäten / meaningful identities) (たとえば経験する対象 (empirische Objekte / empirical objects) 、象徴、記号、数字、文、等など)が、回帰的にしか産出されない (nur rekursive erzeugt werden / be produced only recursively) ということは、多くの認識論的帰結を生み出す。一方で、そのような対象の意味が、観察の瞬間だけにとどまらないことは明らかである。他方、対象が観察されない場合にはそれらの対象が「存在」しないということにはならない。(中略)回帰 (Rekursionen / recursions) が過去(確証され、知られている意味 (to bewährten, bekannten Sinn) / tried and tested, known meaning))を参照するとき、回帰は、その結果が現在のところわかっている偶発的な作動を参照しているだけであって、何かを実質的に生み出す原初 (fundierende Ursprünge / substantiating origins) を参照しているわけではない。回帰が未来を参照するとき、回帰は、無数の観察の可能性 (obachtungsmöglichkeiten / possibilities for observation)、つまり、事実上の実在としての世界 (Welt als virtuelle Realität / world as virtual reality) を参照している。また、これらの可能性が、観察という作動によってシステムに組み込まれるか(またどのシステムに組み込まれるか)を私たちは現時点で知ることはできない。したがって、意味とは徹底的に歴史的な作動形式であり (ein durch und durch historische Operationsform / a thoroughly historical form of operation)、意味が使用されることによってのみ、偶発的な創発と未来の使用の不確定性 (kontingente Entstehung und Unbestimmtheit künftiger Verwendungen / contingent emergence and indeterminacy of future uses) を束ねることができる。 (D47 / E20 /J36-37)

解釈:過去とは、確固たる原初--何かを次々と生み出す始原--ではない。過去とは、意味システムが自らに回帰して、現在のシステムの状態につながっているとみなす自らの過去の状態である。未来とは、意味システムが回帰して現在のシステムが到達しうるとみなす多数の観察可能性である。これらの可能性のうち、どの可能性がどのように、意味システムに将来組み込まれるかは現時点ではわからない。


■ 意味は、それが直示している顕在的意味を通じて、それが暗示している潜在的意味も参照する。

拙訳:意味とは、現在、直示されているものにおいてはすべて他の可能性への参照も暗示され共に把握されているということである (Sinn besagt, daß an allem, was aktuell bezeichnet wird,Verweisungen auf Möglichkeiten mitgemeint und miterfaßt sind. / meaning implies that everything currently indicated connotes and captures reference to other possibilities.)  (中略)要するに意味とは、共存する世界参照として顕在化されたもの (was akutualisiert wird, als Weltverweisung co-präsent / co-present as reference to the world in everthing that is actualized) である。つまり、顕在的に「間接提示」(注)されている (akutuell appräsentiert / “appresented” in actuality) )わけである。この参照には、自らの能力の条件 (Bedingungen eigenen Könnens) 、つまり、自らが世界において達成しうる能力と限界も含まれている。 (D48 / E20 /J35)
(注)「間接提示」とは、日本語翻訳の注釈 (853頁)によれば、フッサールの概念である。その意味するところは、他者は、本来私たちにとっては未規定の潜在性にとどまる存在だが、その存在は、その他者の身体という現実に現れたものを知覚することによって間接的に提示される(あるいは付帯的に現前化される)ということである。

解釈:意味とは、意味システムが直接的に示している顕在的意味と、それが間接的に示している潜在的意味の両方を同時に参照する作動である。意味システムが参照する先には、意味システム自身が可能なことおよびその限界も含まれる。


■ 意味は、それが明示(直接的に参照)する確定的な顕在的意味と、それが暗示(間接的に参照)する不確定的な潜在的意味が、区別された上でつながっている参照複合体である。

拙訳意味は、現象学的には、顕在的に与えられた意味から到達できる参照先が過剰にあることと記述できる。 (Man kann Sinn phänomenologisch beschreiben als Verweisungsüberschuß, der von aktuell gegebenem Sin aus zugängliich ist. / meaning can be described phenomenologically as surplus reference accessible from actually given meaning.) したがって意味とは、ある決まったやり方で到達し再現することができる、無限でそれゆえに不確定な参照複合体である。(ein endloser, also unbestimmbarer verweisungszusammenhang, der in bestimmer Weise zugänglich gemacht und reproduziert werden kann. / an infinite and hence indeterminable referential complex that can be made accessible and reproduced in a detemined manner.) --私はこの逆説的な定式化は重要だと考えている。意味の形式は、顕在的意味と可能性の差異 (Differenz von Akutualität und Möglichkeit / difference between actuality and potentiality) であると言えるし、この区別こそが意味を構成している (Sinn konstituiert / constitutes meaning) と言える。

解釈:たとえばある一つの語を使って、毎回ほぼ一定の事柄について直接的に言及することはできる。だが、その語の使用は同時に、毎回違ったように使用されることによって、それぞれ異なったやり方で、無数の他の潜在的可能性も間接的に言及しえる。意味は、直接的で確定的な言及を繰り返しながら、使われるたびに間接的かつ不確定的にさまざまに異なる物事を言及する。


■ 意味システムで再参入は次々に行われ、そのたびに顕在的意味と潜在的意味が刷新される。とりわけ潜在的意味はさまざまに更新される。

拙訳:もう少し具体的に述べるなら、再参入は次々に行われ、そのたびに顕在的な意味の処理 (akutuelle Sinnnbehandlung / treatment of actual meaning) が再現され、[意味の]可能性が予見される (vorgegriffen / anticipated)。たとえてみるなら、顕在的意味とは線路のようなものであり、そのうえに最新のシステム状態が次々に表現され実現される。 (projektiert und realisiert werden / are projected and realized) したがって、システムにとっては、顕在的意味は一瞬存在するように思えるだけであり、顕在的意味が自分自身をテーマとすることによって、(それがどれだけ束の間のことであろうが)ある程度の持続性 (Dauer / duration) を有するにいたるにすぎない。そのようなシステムは、再参入という構造的帰結を免れることができない。とりわけ避けがたいのは、どんな観察や記述でも全貌をとらえることができず、選択をせざるを得ない事態 (Selektivität / selectivity) としてしか観察できないぐらいに、システムが過剰なほどの可能性にみまわれることである。 (D51 / E22 /J40-41)

解釈:意味システムが、顕在的意味を処理するたびに、さまざまな潜在的意味が生み出され、やがてある顕在的意味は過剰なほどに多くの潜在的意味を有するようになる。突飛な例に思えるかもしれないが、愛する者の固有名がもつ潜在的意味を考えてみればわかりやすいだろう。あるいは濃密なコミュニケーションを取り続けた小集団の言語使用が、同じ言語(例えば日本語)使用者にすら容易に理解できない特殊な意味をもつことを考えてもよい。


■ 意味は意識システムとコミュニケーションシステムの普遍的なメディアであり、システムの自己生成と共に刷新される。

拙訳: 意味は、すべての心的もしくは社会的、すなわち意識かコミュニケーションによって作動するシステム (bewußt und kommunicativ operierenden Systeme / consciously and communicatively operating systems) にとっての普遍的なメディアであり、意味はこれらのシステムの自己生成 (Autopoiesis / autopoiesis) と共に、造作なく自ら自己革新する (regeneriert / regenerate)。 (D51 / E23 /J42)

解釈:意識もコミュニケーションも、意味を基盤として展開する(システムの自己生成)。意識やコミュニケーションが展開するにつれ、意味も同時に刷新される。


■ 意識もコミュニケーションも時間化されたシステムである。

拙訳:意味は、ある種の(つまり意識的か社会的な)システムの「固有行動」 (Eigenbehavior / eigenbehavior) として生成し再生産される。なぜなら、これらのシステムは、自らの究極の要素を出来事として生産するからである。出来事は、ある時点で生じてはすぐに消滅し、持続性をもちえない。出来事が生じるのはそれが最初で最後である。意識システムや社会的システム[=コミュニケーションシステム]は、時間化されたシステム (temoralisierte Systeme / temporalized systems) であり、その安定性は動態的安定性 (synamische Stabilität / dynamic stability) という形でしか達成されない。つまり、束の間の要素を、他の新しい要素と常に取り替え続けることによってしか安定しないのだ。 (D52 / E23 /J43)

解釈:意識およびコミュニケーションの究極の構成要素は、生じては消える出来事である。意識やコミュニケーションがある程度安定しているとしたら、それはそれらが作動つまりシステムの自己生成を続けているからである。


■ 顕在的意味と潜在的意味は、それらの参照先においても参照様式において異なる。また、意味のすべてを顕在化させることはできない。

拙訳:問題は次のようにまとめることができる。瞬間ごとの顕在化が、いかに明瞭(あるいは不明瞭)で、独自で、事実としては抗弁の余地がないとしても(ここで思い出されるのはデカルトである)、意味が表象できるのは、その視点から得られる過剰な参照 (Verweisungsüberschuß / surplus of reference) としての世界だけである。つまり、意味は世界を、選択の強制 (Selectionzwang / selection constraint) としてしか表象できない。顕在的に専有したもの (Das akutell Appropriierte / What has actually been appropriated) は確か (sicher / secure) であるが、不安定である (unstable / instabil)。意味形式の反対の部分は安定しているが不確かである。なぜなら、次の瞬間に何が意図されているかによってすべてが決まるからである。すべての可能性 (Möglichkeiten / possibilities) の総体の統一 (Einheit / unity) が顕在化されることはない (aktualisiert warden / be actualized) もちろん、[意味の]形式の統一、すなわち顕在的意味と潜在的意味 (Potentialität / potentiality) の統一が顕在化されることもない。意味は、世界を与えることはしないが、選択を強制する処理 (selektives Prozessieren / selective processing)は参照する。 (D55 / E25 /J45-46)

解釈:デカルトが述べたように、意識は疑いのないほど明瞭な現象である。だが、その明瞭さは、瞬間ごとのものである。意識の明瞭性とは、意識が区別という作動を絶え間なく自らに再参入させているからこそ達成されている。その絶え間ない作動に伴い、潜在的意味がその度毎に新たに参照される。(何かをずっと注目しながら「・・・ということはこういうことか」と、潜在的意味の一部が活性化し、顕在的意味となる経験は多くの人が経験するものであろう)。
 顕在的意味は明瞭であるが、不安定である。なぜなら、次の瞬間には、活性化された潜在的意味が新たな顕在的意味となるかもしれないからである。逆に、潜在的意味は、潜在的な参照先としてずっと存在しているという点で安定しているが、現時点では顕在化しておらず不明瞭である。
 ある意味システム(意識やコミュニケーション)が有している潜在的意味のすべてが、ある瞬間に統一的に顕在化されることはない。それは意味システムの処理能力を遥かに超えている。意味システムができることはせいぜい「すべての可能性」といった表現で、その意味を総称的に(あるいは超越論的に)顕在化させるぐらいであろう。
 また、ある意味システムは、ある瞬間の顕在的意味を顕在化することはできても、その瞬間の顕在的意味と潜在的意味のすべてを統一的に顕在化することはできない。この処理も実現不可能であり、意味システムができるのは「すべての意味」といった表現を使うぐらいである。
 意味は、世界すべてを顕在化することはできないが、潜在的意味の参照を通じて、理論的には世界すべてに及びうる参照先の中から何かを選択する処理をシステムに提示することはできる。


■ 意味の経験は、必然的ではなく偶発的であり、選択を伴うものである。

拙訳:顕在化された意味とは、例外なく、選択的に実現されており (selektiv zustandgekommen / comes about selectively)、さらなる選択を例外なく参照する。顕在的意味が偶発的であるということは、意味を含んだ (sinnhaften / meaningful) 作動にとっての必要な契機なのである。 (D55 / E25 /J46)

解釈:ある意味システムが、潜在的可能性としての世界 (D46 / E19 /J36) の中からある事象を顕在的意味として焦点化することは、たいていの場合偶発的なことである。焦点化された顕在的意味は、前の瞬間の顕在的意味に伴っていた潜在的意味の一部が選択されたものかもしれないし、その意味システムがたまたま世界から選択的に焦点化したものかもしれない。意味の経験とは、それ以外の選択肢がない必然的なものではなく、「他でもありえる」偶発的なものである。


■ 顕在的意味と潜在的意味の区別という形式の再参入

拙訳先ほど述べたことを、意味に特有の形式、すなわち、顕在的意味と潜在的意味の区別に適用して述べるなら、意味が作動可能になるのは、形式を形式に再参入させるからであるということになる。意味の形式の内側は、この再参入を受け入れなければならない。束の間の顕在的意味と開かれた潜在的意味 (offener Möglichkeit / open possibility) の違いは、意識とコミュニケーションのどちらか・もしくは両方においても顕在的に観察される (verfügbar / available) のでなくてはならない。どのようにしてこの境界をまたぐことが可能なのか、そして、次にどのような段階がくるのかを私たちはあらかじめ顕在的に知ることができなくてはならない (Man muß aktuell schon sehen können / We must be able to see in actuality)。しかしこのことは、「可能なすべて」という「マークされていない空間」が、顕在的に示されているものという「マークされている空間」の中に収容されるということではない。というのも、「マークされていない空間」が顕在的なもの (Akutuelle / what is actual)  となるのは、これが顕在的なものを越えるからである。 (D58 / E27 /J50)
訳注:「観察される (verfügbar / available)」は、(D45 / E19 /J35) の理解をもとにして意訳した。

解釈:顕在的意味と潜在的意味の区別という形式は、意識システムもしくはコミュニケーションシステムが遂行した作動に再参入し、新たに顕在的意味を潜在的意味から区別する。この区別により、現在の顕在的意味とは異なる顕在的意味が次の瞬間に生まれうるということ(つまりは、顕在的意味と潜在的意味の境界が越境されるということ)が顕在的になる。




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意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ

ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ

ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identitat - was oder wie? より



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"AI is an empowerment tool to actualize the user's potential."

  本日、「 AIはユーザーの潜在的能力を現実化するツールである。AIはユーザーの力を拡充するだけであり、AIがユーザーに取って代わることはない 」ということを再認識しました。 私は、これまで 1) 学生がAIなしで英文を書く、2) 学生にAIフィードバックを与える、3) 学生が...