現場で不足しながらも、実は不可欠なものの一つは、対話である。少なくとも私はそう考えている。
現場では、利害だけでなく価値体系や思考法までもが異なる人々が集う。一方的な情報伝達だけでは、現場は動かない。
現場では、多くのことが同時進行する。「他の条件が変化しないと仮定して・・・」といった前提での理論は、現場では通用しない。
それゆえ、一つの視点・価値体系・思考法・問題解決法だけに固執していては、現場では役に立たない。
複数のそれらをいったんは受け入れた上で、それらをうまく調停して、実行可能な解決手段を探さなければならない。
それが現場だ。
だから対話が必要である。
それでは「対話」とは何だろう。
対話にもいろいろな理論体系があるが(注)、ここでは以下の2冊に即してまとめてみる。以下に書かれているページ番号は、それぞれの本での引用元ページ番号を指す。
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中原淳・長岡健 (2009)
『ダイアローグ 対話する組織』
(ダイヤモンド社)
対話は、会話とは異なる。会話はたんなるおしゃべりにすぎない (p. 7)。
対話は、一方的な通達でもない。よく人は「そのことは何度もお伝えしたんですけど」と嘆くが、それは、一方通行の「独り言=モノローグ」 (p. 91) をしただけであり、対話をしたとはいえない。「理解のプロセスを経て、行動や思考が変わる」(p. 45) ことが対話には必要だ。そして、変化する行動や思考は、聞き手のものばかりではなく、話し手のものでもある。
対話が成立するために必要なことの一つは聴くことである。
だが、他人の発言をきちんと聴くことができる人は意外に少ない。「聴いているつもり」でも「実は聴いていない」ことが多いのだ。(p. 91)
相手の話をさえぎって自分が発言権を取るということは、一般的には無作法とされているが、この不作法はしばしば見られる。
仮に相手の発言権を尊重して黙っているにせよ、終始首を横に振ったりしかめっつらをしたりして「即時の自分の判断」を留保することをしない。
表情の発露を抑えたにせよ、実は頭の中では、相手の発言が終わった時に何を言うかということばかり考えている。
要は、自分とは異なる相手を尊重し、その違いを少しでも理解するために謙虚に忍耐強く相手の話に即して自らの思考の可能性を変容させるという知的努力を怠っているのだ。
かくして「対話」としてスタートしたはずの話し合いも、モノローグが応酬し、双方ともに相手の愚をなじる場となり、しばしば事態は悪化さえしてしまう。
相手の話を丁寧に聴き、互いに対話の関係に入ることは、実は、忙しい現場にこそ必要だ。
忙しい現場では、日々さまざまな問題が生じ、人々はその対処に追われる。
有能な人であればあるほど、周りから頼られ日々の仕事に忙殺される。その結果、自分自身の行動や思考を振り返る余裕をなくす。そして、しばしば「対話なんて」と冷笑的な態度を取る。
だが、そういった目の前の問題を次々に片付ける人々は、実は「突貫工事のエキスパート」 (p. 132) になってしまっているのかもしれない。
ベトナム戦争時のアメリカ政権のブレーンであった「最良にして、最も聡明な人々」(ハルバースタム)は、少なくとも、戦争の悪化という状況の中でも卓越した対応力を示し、トラブルをなんとか片付けていった。
だが、そういう目の前の対応に追われる中で、長期的なビジョンの誤りに気づけず(あるいは気づいていたとしても対応できず)、長い目で見ればアメリカの舵取りに失敗してしまった。 (p. 132)
長期的とまではいかない数ヶ月単位の中期的な視点で考えても、対話を怠ることのコストは高くなりうる。現場で一方的な通達の効率を上げるだけでは、「最良にして、最も聡明な人々」の意図はなかなか伝わらない。さまざまに異なる人々が集うのが現場だからである。
その結果、気がついてみたら本来意図していなかった事態が出来し、人々はその修復に多くの時間を費やさざるを得ないことはめずらしくないだろう。
「急がば廻れ」ではないが、効率的な情報伝達と比べると短期的には時間のムダのようにすら思える対話こそが、中期的な効果、長期的な成功を得るためには必要ではないだろうか。
対話は、日々のコミュニケーションの中でも導入できる。自分の話が伝わらない時、相手の話が納得できない時、「なぜ伝わらないのだろう」、「双方の考えの違いはどこにあるのだろう」といった問い (p. 137) を自分に問い続ける姿勢を保つことがその第一歩だ。
主な読者層を、ラインで働く現場のマネジャーなどとしている本書は、職場における対話の効用を読みやすい形でまとめている。時間のない人が最初に読む対話に関する本として薦められるのかもしれない。
細川英雄 (2019)
『対話をデザインする』
(ちくま新書)
対話とは、話し手と聞き手が変わることであり、それは同時にコミュニティが変わることである。著者は「相手との対話は、他者としての異なる価値観を受け止めることと同時に、コミュニティとしての社会の複数性、複雑さをともに引き受けることにつながります」と端的にまとめる(p. 23)
この本でも聴くことの重要性が説かれる。他者理解は次のように説明されている。 (pp. 123-124)
1 相手の話を聴く。
2 ことばの表現から相手の言いたいことあるいは言おうとしていることを受け止める。
3 相手の言っていることに納得がいけばそれを受け入れる。
4 もし納得がいかなければどこの部分がどのように納得がいかないかを内省する。
5 自分にとってわからないところは、なぜわからないのか、あるいは相手がなぜそのように考えるのか、相手の言いたいことの背景や事情について考えてみる。
こうして「自分に向き合う」ことができてこそ、自分のことばで相手に伝えることができるとも著者は述べる。(p. 37)
この本は、メールマガジン「ルビュ言語文化教育」 の記事を基盤にしていることもあり、対話という観点から言語教育を見直す書にもなっている。また各章の最後に付けられている具体的なエピソード記述が抜群に面白い。数々の実例が、言語教育のあり方に対して鋭い問いを投げかける。
上の本がビジネスマン向けとしたら、この本は言語教師向けといえるだろう。どうやって対話のテーマを見つけるかといった問題設定は、対話のテーマが現実問題として有無を言わせず到来するビジネスの現場にはない発想で、とかく言語形式の指導と評価にばかり拘泥しがちな言語教育者がもっていなければならない発想だろう。「何のためのことばの教育か」 (p. 225) という問いを立て続ける著者ならではの本といえるかもしれない。
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以上2冊の本を読んでみると、対話の開始とは、まずは聴くことであり、聴くこととは、自らのエゴを自制し、一見理解不能な見解を理解するよう試みるという知的訓練を自らに課すことだと思えてきた。そうやって自分が変われば、相手も変わってくれるかもしれない。
もし相手のエゴによって対話が困難になっているのなら、相手のエゴをまずは認めればよい。その方法の一つは、自分が自分のエゴを抑えることだろう。つまり聴いて、考えることである。そうやって自分が変わることによって相手も変われば、コミュニティ全体も変わり始めるかもしれない。
忙しい現場でこそ対話を大切にしたい。
(注)
対話については、例えば私は、オープンダイアローグや当事者研究、あるいはボームの理論などについて興味をもっています。ご興味をおもちの方は、このブログの1つ前の版(英語教育の哲学的探究2 http://yanaseyosuke.blogspot.com/)の検索欄を使ってお調べください。