Lisa Feldman Barrettの "How Emotions Are Made"の翻訳である『情動はこうしてつくられる』(高橋洋訳、2019年、紀伊國屋書店)をようやく入手し読み始めることができました。
やはりすぐれた翻訳書というのはありがたいです。「そうか、こう訳せばよかったのか」と学ぶ点も多いですが、何よりもありがたいのは、日本語で書かれているので圧倒的に速く読めることです。読む認知的負担が少なくなるので、読みながらいろいろ考えることもできますし、何度も読み返すことによって集中的に考えることもできます。また、訳注や訳者あとがきもとても有用です。特に後者では、バレットの「情動」概念が、ダマシオらの「情動」概念と異なり、意識的(自覚的)であり認知作用を含むものであることが、原著者と訳者の間での質疑応答から示されており (520頁)、一読者として確証が欲しかったことに一定の解が与えられた気分です。
この記事では、翻訳書の1-7章(本書の理論編に相当)を読んで私なりに考えたことを備忘録として書き留めておきます。論点は、意味のシステム依存性(=意味は、システムの作動に伴う出来事である)と語の超越論的指示機能(=語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である)の2つです。丸括弧の中の (27, 57) といった2つの数字は、前者が英語原著の、後者が日本語翻訳の該当ページであることを示します。何箇所か日本語訳を出しますが、それは拙訳です。
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■ 意味のシステム依存性:意味は、システムの作動に伴う出来事である
「意味は、システムの作動に伴う出来事である」という命題は、先日、ブログ記事に掲載したルーマンの意味理論からのものです私は、さまざまな科学的知見を読み解く時に便利だからルーマンの抽象的な論考に興味を抱き続けています。バレットの理論を理解する際も、私はルーマンの理論を手がかりにしました。
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以下は、バレットの見解を、ルーマンの用語を時折使いながら要約してみます。ルーマンの用語は《 》で表記しますが、その中に=がある場合は、バレットの用語とルーマンの用語がほぼ交換可能ことを、≒が使われている場合は、厳密には交換できないことを示します。
人間は、覚醒している間ずっとさまざまな感覚刺激を受けています。その刺激は多義的でノイズの多い情報です。それは人間が何気なく認識している情報が、人工知能にとってはひどく認知が困難であることからもわかるでしょう。ですが人間の脳は、そのような曖昧な感覚刺激から、過去の経験を使って仮説(シミュレーション、あるいは予測)を作り出します。(27, 57) 外界《=環境》からの撹乱を受けて、自身の中にあった記憶を使い仮説を生成し、次の瞬間のシミュレーション・予測をするわけです。これが意識システムの主要な作動です。システムが構築していた記憶はバレットの用語では「概念」と呼ばれます。ですから、脳が意味を生み出すメカニズム《=意識という自己生成システムが意味を紡ぎ出すメカニズム》は次のようにまとめられます。バレットの表現です。
どんな時、どんな文脈でも、脳は概念を使って、世界という外に起因する感覚 (sensations) に対しても、[身体という]内に起因する感覚に対しても、その瞬間ごとに意味を与える。(30, 61)
意味は絶え間なく更新される動態的なものです。脳は、何十億もの予測ループを使って未来をシミュレーションし続けているからです。その予測は、世界に起因する新たな感覚入力 (sensory input)《≒撹乱》)によってチェックされます。脳はそれを優先しシミュレーションを変更することもあれば、無視してそのままシミュレーションに基づいた行動を行うこともあります。(64, 116)
こういったバレットの論点は、そのまま彼女の情動構成理論 (the theory of constructed emotion) の定義にもつながります。
覚醒しているときはどんな瞬間でも脳は、概念として体系化された過去の経験を用いて、行動を導き、感覚に意味を与える。概念が情動を伴う概念 (emotion concepts) である場合、脳は情動の事例を構築することになる。 (31, 63)
言い換えるなら、情動とは、外界《=環境》で生じた出来事から自動的に生じる反応 (reaction) ではありません。(31, 64) 情動とは、身体内外に起因する感覚を契機として、脳《≒意識システム》が、自らの構成要素である概念《=記憶》を用いながら、未来の事態を予測することを促す身体内の変容です。情動は、現在を過去と未来に関連づけるとも言えるでしょう。こういった点を総合して言い切ってしまうなら、情動とは意味です (Emotions are meaning)。(126, 211) そして、意味を作り出すということは、現在与えられている情報《≒撹乱》を超越することです (To make meaning is to go beyond the information given)。(126, 211)
私は以前、ある機会(2019年度 大学英語教育学会(JACET)関西支部大会)の講演で、下のスライドを使おうかと思いながらも、時間の都合で断念していました。このスライドには、上の説明では割愛した、body budget (身体予算=身体のリソースを勘案する機能)、interoception (内受容=身体内の変化を脳が感知すること)、exteroception(外受容=身体外の変化を脳が感知すること)、conatus (生きる力(コナタス)=生命が自らを維持し発展させようとする力:バレットは使っていないが、ダマシオはスピノザの用語として時折使っている)という用語が使われています。ですからバレットの理論の忠実な要約にはなっていませんが、これも私なりの1つの解釈かと思い、ここに掲載します。図の白色部分は身体内を、黒色部分は身体外の領域を示します。灰色部分は、それらの両方の領域に関わる現象です。なお、図にはmeaningの用語が見当たりませんが、この図全体が、いかにして意味が生成されるかを説明しているとご理解くだされば幸いです。
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■ 語の超越指示論的機能:語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である
語は、乳児の注意を、他人の内部にある概念(特に情動概念(注))に向ける。概念は、外界では観察できないが、語により表現されることによって、乳児の注意をひくことができる。語は、外界のさまざまな事例を互いに類似している個体群・母集団としてまとめることを教える(98, 166-167)
(注)私は、野口三千三が言うように(あるいは竹内敏晴も示唆するように)、すべての概念には情動が含まれていると考えた方が合理的だと思っています。また、バレットの理論で考えても、すべての概念は何らかの形で情動概念につながっていると考えてもよいと考えています。ですから私は、「概念」と「情動概念」を峻別する必要はないと考えます。よって、以下でバレットを引用する際に「情動概念」や(その概念を表す)「情動語」という用語を使っても、その議論は「概念」や「語」一般にも適用されると私は理解していることを付記しておきます。この両義性をうまく表現するために、「(情動)概念」や「(情動)語」といった表記を時折使うことにします。
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ここで大切なのは、乳児がまだ学んでいない(情動)概念は、外界ではさまざまな事例で表現されるので、外界の様子を観察するだけでは、その(情動)概念が存在することすら乳児にとっては理解困難であることです。しかし、周りの大人が、その(情動)概念を表現する(情動)語をさまざまな事例でを通して使い続けると、乳児はその語の形式(=音声)の同一性(厳密には類似性)から、さまざまな外界の様子には、何らかの共通性(厳密には類似性)があるのではないかと推論することが容易になるでしょう。
たとえば「怒り」という情動概念が適用される事例には、実にさまざまな身体、文脈、目的の状態が含まれます。(100, 171) ゆえにその概念の学習は容易なことのようには思えません。しかし、周りの大人から適切な折に「怒り」という語を含んだ発話を聞く子どもは、その時々の状態を超えて(=超越して)、「怒り」の概念が適用できる範囲を規定する道具・媒体を授けられます。語のことです。もちろんその概念構築(つまりはその語の使用)の過程で、子どもは大人から誤用を指摘されることもあるでしょう。ですが、多くの使用事例を通じて、子どもは語を、目の前の特定の状態に適用できるだけでなく、その事態を超越した様々な状態にも適用することを可能にする、いわば超越論的な指示機能をもつ記号であることを学びます。
この語の超越論的な指示機能(繰り返して説明するなら、目の前の事例を超えて、誰もその全貌を知らない範囲を指示できる働き)こそは、人間と他の動物の知性の差を生み出している大きな要因の1つでしょう。もちろん動物も、たとえば「獲物」や「敵」といった単純な概念をもつ語はもっているかもしれません。しかしそれらは、ほぼ本能的に受け継がれた概念であり、その語とその指示対象の関係は単純で限定的です。
人間の言語でしたら、たとえば「怒り」にしても、表面上はあえて静かな態度を取り続けるといった事例にも適応可能ですし、雷という事例に対しても「(天の)怒り」といった形で適用可能です。ましてや抽象的な「美しさ」といった概念でしたら、万人が受け入れるような事例から前衛アートといった事例にいたるまで、物理的対象に限っただけでもさまざまな事例に適用可能です。ましてや「生き方の美しさ」や「虚数の美しさ」といった抽象的事例も考慮に入れるなら、人間の語のもつ超越論的指示機能は、他の動物の語の機能とは大きく異なっていることがわかるでしょう。誰もが現実世界では達成できない超越的な指示を可能にするという点で、超越論的な語は、人間の知性を大いに発展させていると私は考えます。
また、このように多くの事例を表象できる語という記号は、それらの事例に含まれている無数の、しかもマルチモーダルの情報を統括的に要約します。この記号の神経表象は、現実世界のさまざまな問題に対応しなければならない脳にとって、非常に効率的・効果的な表象でもあります。(116, 197)
さて、そのように超越的な指示をする人間の語ですが、それが指示しているすべての事例の集合(=過去や未来の事例も含むので、だれもそのすべてを知ることができない集合)をどのような要素によって構成されている集合として考えるべきか、ということも重要な問題です。
原著でバレットは、19世紀のダーウィンの思想を20世紀のメイヤーが要約した "population thiking" という用語を使っています。この中にある "population" は私見では、「母集団」とも「個体群」とも訳せる語です。(ただ、現在は、個体群的思考と訳した方が誤解が少ないかとも思っています。ちなみに、翻訳書でも個体群的思考という訳語が使われています)。
「母集団」とは言うまでもなく統計学の概念で、採取した標本(サンプル)の母体となる集団を指しますが、その母集団とは、しばしば誰もが容易にアクセスすることができない集団であることが含意されていると理解します(統計学に詳しい方、この含意が間違っていたらご指摘ください)。目の前にある標本から平均値を出したりすることはできますが、それは母集団の平均値であるとは限りません(もちろん統計的な手続きとしては、標本の平均から母集団の平均を推定する方法は確立されていますが、母集団の平均は推定するしかできないものです)。私の解釈では、ある語が指示することが可能な事例のすべてという集合は、母集団として(別の言い方をすれば、超越論的に)推定できるだけです。ですから、限られた数の語の使用例の中に共通要素や平均的・典型的な使用例を見出したりしたとしても、それらは母集団にも当てはまるとは限りません。母集団は、標本以上に多様で異質な事例も含んでいるかもしれないというのが妥当な推論ではないでしょうか。ある語もしくはある概念が指示しうるすべての事例の集合は(超越論的に想定できる)母集団に過ぎないという主張には一定の理があると私は考えます。
他方、"population" を「個体群」と訳すと、その集団の中には、さまざまな個体が存在することが強調されます。その含意として、そこで平均をとったとしても、その平均から逸脱する個体はたくさんあることが浮かび上がってくるのではないでしょうか。
"Population thiking" を「母集団的思考」と訳そうが「個体群思考」と訳そうが、その含意は、すべての事例が均一なものではないということです。つまり、すべての事例は、互いに類似しているが、すべて同一ではないということです。これは、本質主義 (essentialism) や類型論的思考 (typological thinking) の否定です。この否定は、ウィトゲンシュタインの親族的類似性概念による本質主義批判や、ローズの平均主義批判につながる大きな論点です。
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私は、近々公刊される予定の原稿でこの論点について少し論じましたので、ここではこれ以上の議論は割愛しますが、語彙学習を考える上でも、この本質主義・類型論的思考の批判は重要だと私は思っています。現在主流の単語テストの考え方は、英単語の訳語を産出したり、選択肢の中から正しい定義を選んだりすることができればその英単語は(一応)習得できたとみなすものです。しかし、この考え方は、本質主義・類型論的思考に基づくもので、言語使用の実態を歪めていると私は思っています。この考え方は、訳語・定義こそはその語のすべての使用に共通する本質であり、それを知れば、その語を使用することが可能になると想定しているからです。
私の考え方はこうです。言語使用の実態については、ある程度の定義や典型例は想定できるものの(母集団的思考)、それらを暗記するだけではその語を使用することができません。学習者は、さまざまな実例を体験するたびに、自分の記憶や身体予算を参照しながら、それぞれに異なる情動の事例を新たに経験する必要があります(個体群的思考)。学習者は自分の心身全体でその意味を処理し、その意味処理の時点を過去と未来と結びつけることが必要です。そうしなければ、学習者は、語の超越論的な指示機能を働かせる術を身につけられないとと私は考えます。
さて、子ども(あるいはここで論点を拡張させるなら、外国語学習者)は、そのような超越論的指示機能をもつ語という記号を手がかりにして、大人(あるいは当該外国語話者)の心の中にある(情動)概念を学ぶわけですが、その場合の語は、「孤立した語」 (words in isolation) ではなく、「情動概念を使って子どもの勘所 (the child's affective niche)[=身体変容性ニッチ]を押さえている他の人間が話しかけている語」 (102, 173) であるというバレットの主張にも注目したいところです。言い換えるなら、子ども(あるいは学習者)が語を学ぶのは、それらの語が彼・彼女らの心身の様子を共感的に理解した上で、彼・彼女らの心身を活性化し、彼・彼女らの意識を過去と未来に拡張するようなやり方で提示された時ということです。
具体的な事例を出します。私の勤務校での授業では、ある単語集を使って、原則として毎週50語を範囲とした単語テストを行うことが義務づけられています。ですが私は大学が提供する一問一答式のテストは使いません。それらは文からも文脈からも孤立した単語単体だけが提示される形で、その単語とその定義(同義語)を対応づければ正解となるテストだからです。私はそのようなテストは実施・採点するには便利ですが、学習者の言語使用につながりがたいと感じています。
言語使用の事例は、同一ではなく互いに類似しているだけなので多様です。学習者は、それらのさまざまな実例を自分の心身で処理して、自分なりの意味をそれぞれに実感しなくてはなりません。学習者は、さまざまな言語使用の実例を、自分で共感できる具体的な文脈の中で情動的に経験する必要があります。
ですから、私はテストでは50語の範囲から10語出題しますが、それぞれの語に5つずつの例文を用意します。テストされる語は、最初の一文字を除いて例文からは消去されていますので、学習者は5つの互いに類似しているが異なった文に共通して使われている当該語を推定します。学習者は、事前に勉強していた50語のうち、どの語でこの消去部分を埋めればよいのだろうかと頭を働かせ続けるわけです。また私は、テストが終わってもそれで学習を終了せません。私は、それぞれの語の例文を取り上げ、それらの文脈を補いながら、その例文を発話した者や聴いた者の心情や目的などを学習者に実感させます。
このテスト方法は一例にすぎませんが、単語学習・単語テストのあり方を考える場合においても、抽象的な理論理解は重要だと私は考えます。この記事では、(1) 意味は、意識システムの作動に依存しその意識が過去や未来とつながることであること、また、(2) 語の超越論的指示機能は、定義といった本質ですべて指示されるものではなく、さまざまな事例を経験する中で人が徐々に身につけるものであること、という2つの論点を提示しましたが、こういった理論的検討は、英語教育という非常に具体的な実践においても重要であると私は考えます。
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以上、備忘録としての文章なので、まだまだわかりにくい表現も多かったことをお詫びします(それは、私がまだまだ精緻には考えきれていないといことでもありますが)。しかし、私としては「優れた理論ほど実践的なものはない」という逆説的な表現を信じています。上の論点は、今後少しずつ整理して、具体例なども補うこととして、この記事はここで終わります。
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追記(2020/02/20)
(1) 「超越論的機能」といった表現は、意味をより正確に示すため「超越論的指示機能」などと書き換えました。
(2) 語が超越論的な指示機能といった一種驚くような機能をもちうるのは、語がこれまでさまざまな人々によってコミュニケーションで使われ続けてきて、今後も使われ続けるだろうという前提をもった媒体だからからだ、と言えるのではないかと考え始めました。