以下は、ルーマンの意味に関する論考(『社会の社会』第1章第3節:意味 (Sinn / meaning)の一部の拙訳と解釈です。
私は外国語で書かれた難解な書を読む時には、(1) 自分なりに翻訳できるか、さらに (2) その翻訳から具体的な解釈を生み出せるか、という手続きを踏むことが多いです。これらができて、はじめて自分は(少しは)理解したといえるのではないかと考えているわけです。
(1) と
(2) は次のように言い換えることもできます。
(1) 翻訳可能性:ある言語で表現された理にかなった命題は、別の言語でも理にかなった命題として翻訳できるはずである。
(2) 命題生成可能性:ある理にかなった命題は、その理に基づき、数多くの理にかなった命題を生成できるはずである。
もし私のドイツ語理解力(および哲学的思考力)が十分だったら、私は(2)の命題生成可能性に基づき、ルーマンの命題から、数多くの例示的命題を即座に派生させることができるでしょう。
しかし私のドイツ語力は非常に乏しいので、(1) の翻訳可能性に基づき、まずは、ドイツ語原文を自分にとってもっとも精確な思考媒体である日本語に翻訳します。その日本語翻訳が意味の通るものなら、自分のルーマン理解はそれほど間違っていないのではないかと思うわけです(もっともこの段階で、ドイツ語文法を体得していない私は非常に苦労するのですが)。
その上で、(2) を信じて、自分の日本語翻訳から、その意味を保った上でのさらなる書き換えや例示ができるかどうかを試します。そういった解釈が楽に出てくるなら、私はそれなりに、ルーマンが言っていることを理解できているのではないかと思うことができます(もっともこの段階で、頓珍漢な例示などを出す可能性は高いのですが)。
そんなことをせずとも、きちんとした日本語翻訳があれば、それを読んでそこから解釈を導き出せばよいのではないか、という声も聞こえてきそうです。しかし、(後述する用語を先取り的に使うならば)、日本語翻訳の文字通りの「顕在的意味」だけを読んでも、それは翻訳者がその翻訳語を紡ぎ出した時に経験していたはずの「潜在的意味」がわからず、私の理解はしばしば上滑りに終わってしまいます。潜在的意味の経験が薄い読解は、なかなか展開的な解釈を生み出してくれません。だから、私は無駄に思えても、できるだけ原文を日本語に翻訳しようとします。
以下の「拙訳」は (1) を、「解釈」は (2) を私なりに示したものです。正直、自分でも翻訳・解釈に自信をもてていない箇所も含まれています。(1) や (2) が誤っていれば、私はそれなりにルーマンを理解しているという仮説は間違っていることになります。恥ずかしながら私のドイツ語力では、このような手続きを踏まないと、ルーマンを少しはわかっているのかそれともまったくわかってないのかについて、自分で見当をつけることもできないので、以下に「拙訳」と「解釈」を提示する次第です。
なお、これらを作成するにあたり、英語翻訳書と日本語翻訳書をひっきりなしに参照しました。ですが、最終的には自分なりの日本語で翻訳したつもりです(もちろん、日本語翻訳書と結果的に似ている箇所は多数あります)。
また、私がこれまで採択してきた訳語と異なる訳語を今回使ったので、その主な点2つについて述べておきます。
“Aktualität / actuality”と
“Potentialität / potentiality” もしくは
“Möglichkeit / possibility”について:これまで私は、ルーマンの意味理論における
“Aktualität / actuality” を「現実性」と訳し、 “Potentialität
/ potentiality” および “Möglichkeit / possibility” を「可能性」と訳してきました。しかし、この記事からこれらの用語を、それぞれ「顕在的意味」と「潜在的意味」と訳すことにします。これらが意味理論の用語であることを明確に示すためです。また
“Aktualität / actuality” の形容詞形と動詞形についても「顕在的な・顕在化する」などと訳します。ただし、これらが意味理論以外の文脈で一般的に使われている場合はこの限りではありません。
ちなみに、“Potentialität / potentiality” と “Möglichkeit
/ possibility” をルーマンがどのように使い分けているのかというのは、私の長年の疑問ですが、この節を読んでもその疑問は解決しませんでした。ですから、両者ともに同じ日本語翻訳を充てています。
“Selbstrererenz / self-reference” と
“Fremdreferenz / other-reference”について:これらの語は通常、「自己参照」と「他者参照」(あるいは「自己言及」と「他者言及」、もしくは「自己準拠」と「他者準拠」)と訳されますが、今回、私はこれらを「システム内参照」と「システム外参照」と翻訳してみました。「自己」もしくは「他者」という日本語は、どうしても人格的な存在としての人間を連想させ、ルーマンが議論しているのはシステムであることを忘れがちになるからです。そもそも
“Selb / self” とは、人間(たとえば “himself”
や
“herself”)だけでなく、モノ (たとえば
“itself”) にも使われる語ですが、「自己」という語は、後者への適用にはふさわしくないものです。「彼の自己」とはいっても、「モノの自己」とは通常いいません。せいぜい「そのモノ自体」でしょう。
とはいえ、私はこれまでわかりやすさを優先して、“autopoiesis” を「オートポイエーシス」ではなく「自己生成」と訳してきました。この「自己」は上の原則に反してしまいますが、他にいい訳語が見つからないので、下では
“autopoiesis” を「システムの自己生成」と訳しています。ルーマンの専門家以外にも理解できる日本語で翻訳したいというのが私の願いです。
それでは前置きばかり長くなりましたが、以下、『社会の社会』第1章第3節(意味)の中で私が気になった箇所の翻訳と解釈を示します。■印の後に続く太字部分は、私が勝手につけた小見出しです。(D44 / E18 / J33) といった表記は、それぞれドイツ語原著、英語翻訳書、日本語翻訳書の対応ページ数を示します)
以下の拙訳と解釈に間違いがあれば、ご指摘・ご教示いただければ大変ありがたく思います。(メールはこちらから送れます)。
*****
■ 意味は、意味システムが作動している限りにおいてそのシステムにとって存在する。
拙訳:意味は、それを利用している [システムの] 作動の意味として存在しているだけである
(Sinn gibt es ausschließlich als Sin der ihn benutzenden Operationen.
/ Meaning exists only as meaning of the operation using it) 意味は、[システムの] 作動によって確定された瞬間に存在するだけであり、その前後に存在しているわけではない。したがって意味は意味を使う [システムの] 作動の産物 (Product / product)
であり、神による創造や基盤や起源といったものに期することができる世界の特性でなない。(D44 / E18 / J33)
解釈:意味は、世界の永続的な特性ではなく、意味を用いる意識やコミュニケーションという意味システムが作動している限りにおいて現れるものである。
■ 意味システムの作動は、システム自体とシステム以外を区別する。
拙訳:心的システムと社会的システムの作動は、自らを環境と区別することを可能にする観察性の作動
(beobachtende Operationen / observational undertakings) として形成される。これは、その作動がシステムの中でしか起こらないにもかかわらず可能になっていると言えるが、私としてはそれがゆえに可能になっているとも言いたい。別の言い方をするなら、これらのシステムはシステム内参照とシステム外参照
(Selfstrererenz und Fremdreferenz / self-reference and
other-reference) を区別している。これらのシステムにとっての境界は、物質的な構築物ではなく、2つの側をもった形式 (Formen mit zwei Seiten /
forms with two sides) である。 (D45 / E19 / J34-35)
解釈:たとえばある人がある知的難問について懸命に考えているとしよう。その人の意識は、できる限りのことを意識内で想起して問題解決を図ろうとする。しかし、長い間その想起と考察を続けているその意識は、意識内を観察しながらも、同時に問題の解決の糸口が自ら(意識)を超えた領域--それは無意識かもしれないし、その意識がいまだ知覚したことがない知識かもしれない--にあるかもしれないことを自覚している。かくして、その意識というシステムは、システム内を参照しており、そのことによってシステム内(つまりは意識自体)とシステム外(意識を超えた領域)を区別している。
同じように、ある複数の人々が、ある問題について熱心に話し合っているとしよう。その人たちのコミュニケーションの中でさまざまな解決方法が言及されるのだが、どれも問題解決法としては不十分である。そうなると、そのコミュニケーションは、「これまで話し合った論点だけで十分だろうか」というコミュニケーションシステム自体を参照しはじめるかもしれない。そのシステム内参照は、システム自体を観察することによって、「これまでコミュニケーションに登場しなかった論点」というシステム外をシステム自体とは区別していることになる。
■ 区別の再参入は、意識では自覚(自己意識)において、コミュニケーションではコミュニケーションの展開において行われる。
拙訳:抽象的に述べるなら、これは、自らが区別している事態に区別を「再参入」させることである。
(Abstrakt gesehen handelt es sich dabei um ein >>re-entry<<
einer Unterscheidung in das durch sie selbst Unterschiendene. / In abstract
terms, this is a “reentry” of a distinction into what it has itself
distinguished.) ここではシステム/環境の区別が2回行われる。最初はシステムを通して生産された区別としてであり、次はシステムの内で観察された区別としてである。 (als durch das System produzierter Untershield und als im System beobachteter Unterschied / as difference produced through the system and as difference observed in the system) (D45 / E19 /J35)
解釈:たとえば、ある意識が、「あそこに梅の花が咲いている」という区別(梅の花という存在/梅の花以外の存在)を行うとき、その区別はその意識というシステムを通じて行われるものであるが、その区別が意識によって確認されたときに再参入が行われる。「梅の花という存在/梅の花以外の存在」という区別をしていることを、意識は「梅の花という存在/梅の花以外の存在」という区別の自覚によって行うからである。コミュニケーションにおいても、話者Aが「あそこに梅の花が咲いている」という発言で、「梅の花が咲いているという話題/それ以外の話題」という区別をした後に、話者Bが「そんな時期になったね」という反応で「梅の花が咲いているという話題/それ以外の話題」という区別によって梅の花が咲いているという話題を選んだなら、ここでもその区別にその区別が再参入したことになる。
※ 再参入については、こういった解釈でよいのか、今ひとつ自信がもてません。
■ 意識もコミュニケーションも、再参入によって、自らが自らを活性化するから、さらに複合的になり、予測不可能になる。
拙訳:[再参入によって]システムはそれ自身にとって計算不可能になる。システムは外部の効果(独立変数)が予測不可能であるがゆえの不確定性
(Unbestimmtheit / indeterminacy) ではなく、システム自体に由来する不確定性という状態にいたる。ここで、過去に行った選択の結果を現在の状態に対して利用するために記憶
(Gedaächtnis / memory) もしくは「記憶機能」が必要となってくる(現在の状態では忘れることと思い出すことが役割を果たす)。また記憶によってシステムは、肯定や否定になる作動の間とシステム内参照とシステム外参照の間で振幅する状態に置かれる。さらに記憶は、自分では決定できない未来に直面する。記憶は、未来の予期できない状況に対する適応素材のようなものを貯めているわけである。
これ以降は、この再参入によって生じる帰結がシステム自身にとって明らか (sichtbare
/ apparent) である結果を指して、それを「意味」とする。 (D45-46 / E19
/J35)
解釈:意識が、自らが行っていることを参照する時、およびコミュニケーションが、自らが行っていることを参照する時、再参入は行われるわけであるが、その再参入には記憶が伴い、そのことによってシステムが不確定的になる。記憶により、システムが行う区別に伴う潜在的意味が活性化されるからである。意識もコミュニケーションも、その先行きを完全には予測できないのは、それらが予測できない外部要因によって影響を受けるからというよりは、再参入という形で内部要因がますます複合的になってゆくからである。
■ 世界自体が、意味を有しているのではないし、意味を生み出すのでもない。
拙訳:意味システム (Sinnsysteme / meaning systems) にとっての世界とは、ある状態から別の状態を産出してシステム自身の状態を決定してしまう巨大なメカニズムではない。世界は、思いがけない事態 (Überraschung
/ surprises) を生み出す測り知れないほどの潜在的可能性 (Potential / potential) である。世界とは、事実上の情報 (virtuelle Information / virtual information) であり、その情報を産出するためにはシステムが必要である。より正確に言うなら、世界とは、選択された刺激 (Irritationen / irritations) に情報という意味 (Sinn von Information / sense of information) を与えるためにシステムを必要とする事実上の情報である。(D46 / E19 /J36)
解釈:世界は、意味システムが意味を生み出すために利用する潜在的可能性である。意味システムが意味を有しているのであって、世界が意味を有しているわけではない。厳密に言うなら、世界は情報を有しているわけでもない。情報もシステムの作動によって成立する概念であり、世界が有しているのは、いわば情報の前段階(事実上の情報)である。それはシステムに利用されてはじめて情報となり、意味となる。
■ 過去も未来も、意味システムが生み出す。
拙訳:意味のある同一性 (sinnhafte Identitäten / meaningful
identities) (たとえば経験する対象 (empirische Objekte / empirical
objects) 、象徴、記号、数字、文、等など)が、回帰的にしか産出されない (nur rekursive erzeugt werden / be
produced only recursively) ということは、多くの認識論的帰結を生み出す。一方で、そのような対象の意味が、観察の瞬間だけにとどまらないことは明らかである。他方、対象が観察されない場合にはそれらの対象が「存在」しないということにはならない。(中略)回帰 (Rekursionen / recursions) が過去(確証され、知られている意味 (to bewährten, bekannten
Sinn) / tried and tested,
known meaning))を参照するとき、回帰は、その結果が現在のところわかっている偶発的な作動を参照しているだけであって、何かを実質的に生み出す原初 (fundierende Ursprünge / substantiating
origins) を参照しているわけではない。回帰が未来を参照するとき、回帰は、無数の観察の可能性 (obachtungsmöglichkeiten / possibilities for observation)、つまり、事実上の実在としての世界 (Welt als virtuelle Realität
/ world as virtual reality) を参照している。また、これらの可能性が、観察という作動によってシステムに組み込まれるか(またどのシステムに組み込まれるか)を私たちは現時点で知ることはできない。したがって、意味とは徹底的に歴史的な作動形式であり
(ein durch und durch historische Operationsform / a thoroughly
historical form of operation)、意味が使用されることによってのみ、偶発的な創発と未来の使用の不確定性
(kontingente Entstehung und Unbestimmtheit künftiger
Verwendungen / contingent emergence and indeterminacy of future uses) を束ねることができる。 (D47 /
E20 /J36-37)
解釈:過去とは、確固たる原初--何かを次々と生み出す始原--ではない。過去とは、意味システムが自らに回帰して、現在のシステムの状態につながっているとみなす自らの過去の状態である。未来とは、意味システムが回帰して現在のシステムが到達しうるとみなす多数の観察可能性である。これらの可能性のうち、どの可能性がどのように、意味システムに将来組み込まれるかは現時点ではわからない。
■ 意味は、それが直示している顕在的意味を通じて、それが暗示している潜在的意味も参照する。
拙訳:意味とは、現在、直示されているものにおいてはすべて他の可能性への参照も暗示され共に把握されているということである (Sinn besagt, daß an allem, was
aktuell bezeichnet wird,Verweisungen auf Möglichkeiten mitgemeint und miterfaßt
sind. / meaning implies that everything currently indicated connotes and
captures reference to other possibilities.) (中略)要するに意味とは、共存する世界参照として顕在化されたもの (was akutualisiert wird, als
Weltverweisung co-präsent / co-present as reference to the world in everthing
that is actualized) である。つまり、顕在的に「間接提示」(注)されている (akutuell appräsentiert / “appresented” in actuality) )わけである。この参照には、自らの能力の条件 (Bedingungen eigenen Könnens)
、つまり、自らが世界において達成しうる能力と限界も含まれている。
(D48 / E20 /J35)
(注)「間接提示」とは、日本語翻訳の注釈 (853頁)によれば、フッサールの概念である。その意味するところは、他者は、本来私たちにとっては未規定の潜在性にとどまる存在だが、その存在は、その他者の身体という現実に現れたものを知覚することによって間接的に提示される(あるいは付帯的に現前化される)ということである。
解釈:意味とは、意味システムが直接的に示している顕在的意味と、それが間接的に示している潜在的意味の両方を同時に参照する作動である。意味システムが参照する先には、意味システム自身が可能なことおよびその限界も含まれる。
■ 意味は、それが明示(直接的に参照)する確定的な顕在的意味と、それが暗示(間接的に参照)する不確定的な潜在的意味が、区別された上でつながっている参照複合体である。
拙訳:意味は、現象学的には、顕在的に与えられた意味から到達できる参照先が過剰にあることと記述できる。 (Man kann Sinn phänomenologisch
beschreiben als Verweisungsüberschuß, der von aktuell gegebenem Sin aus zugängliich
ist. / meaning can be described phenomenologically as surplus reference
accessible from actually given meaning.) したがって意味とは、ある決まったやり方で到達し再現することができる、無限でそれゆえに不確定な参照複合体である。(ein endloser, also unbestimmbarer
verweisungszusammenhang, der in bestimmer Weise zugänglich gemacht und
reproduziert werden kann. / an infinite and hence indeterminable referential
complex that can be made accessible and reproduced in a detemined manner.) --私はこの逆説的な定式化は重要だと考えている。意味の形式は、顕在的意味と可能性の差異 (Differenz von Akutualität und Möglichkeit / difference between actuality and potentiality) であると言えるし、この区別こそが意味を構成している
(Sinn konstituiert / constitutes meaning) と言える。
解釈:たとえばある一つの語を使って、毎回ほぼ一定の事柄について直接的に言及することはできる。だが、その語の使用は同時に、毎回違ったように使用されることによって、それぞれ異なったやり方で、無数の他の潜在的可能性も間接的に言及しえる。意味は、直接的で確定的な言及を繰り返しながら、使われるたびに間接的かつ不確定的にさまざまに異なる物事を言及する。
■ 意味システムで再参入は次々に行われ、そのたびに顕在的意味と潜在的意味が刷新される。とりわけ潜在的意味はさまざまに更新される。
拙訳:もう少し具体的に述べるなら、再参入は次々に行われ、そのたびに顕在的な意味の処理 (akutuelle Sinnnbehandlung /
treatment of actual meaning) が再現され、[意味の]可能性が予見される (vorgegriffen / anticipated)。たとえてみるなら、顕在的意味とは線路のようなものであり、そのうえに最新のシステム状態が次々に表現され実現される。 (projektiert und realisiert werden
/ are projected and realized) したがって、システムにとっては、顕在的意味は一瞬存在するように思えるだけであり、顕在的意味が自分自身をテーマとすることによって、(それがどれだけ束の間のことであろうが)ある程度の持続性 (Dauer / duration) を有するにいたるにすぎない。そのようなシステムは、再参入という構造的帰結を免れることができない。とりわけ避けがたいのは、どんな観察や記述でも全貌をとらえることができず、選択をせざるを得ない事態 (Selektivität / selectivity) としてしか観察できないぐらいに、システムが過剰なほどの可能性にみまわれることである。 (D51 / E22 /J40-41)
解釈:意味システムが、顕在的意味を処理するたびに、さまざまな潜在的意味が生み出され、やがてある顕在的意味は過剰なほどに多くの潜在的意味を有するようになる。突飛な例に思えるかもしれないが、愛する者の固有名がもつ潜在的意味を考えてみればわかりやすいだろう。あるいは濃密なコミュニケーションを取り続けた小集団の言語使用が、同じ言語(例えば日本語)使用者にすら容易に理解できない特殊な意味をもつことを考えてもよい。
■ 意味は意識システムとコミュニケーションシステムの普遍的なメディアであり、システムの自己生成と共に刷新される。
拙訳: 意味は、すべての心的もしくは社会的、すなわち意識かコミュニケーションによって作動するシステム (bewußt und kommunicativ
operierenden Systeme / consciously and communicatively operating systems) にとっての普遍的なメディアであり、意味はこれらのシステムの自己生成 (Autopoiesis / autopoiesis) と共に、造作なく自ら自己革新する (regeneriert / regenerate)。 (D51 /
E23 /J42)
解釈:意識もコミュニケーションも、意味を基盤として展開する(システムの自己生成)。意識やコミュニケーションが展開するにつれ、意味も同時に刷新される。
■ 意識もコミュニケーションも時間化されたシステムである。
拙訳:意味は、ある種の(つまり意識的か社会的な)システムの「固有行動」 (Eigenbehavior / eigenbehavior) として生成し再生産される。なぜなら、これらのシステムは、自らの究極の要素を出来事として生産するからである。出来事は、ある時点で生じてはすぐに消滅し、持続性をもちえない。出来事が生じるのはそれが最初で最後である。意識システムや社会的システム[=コミュニケーションシステム]は、時間化されたシステム (temoralisierte Systeme /
temporalized systems) であり、その安定性は動態的安定性 (synamische Stabilität / dynamic
stability) という形でしか達成されない。つまり、束の間の要素を、他の新しい要素と常に取り替え続けることによってしか安定しないのだ。 (D52 / E23 /J43)
解釈:意識およびコミュニケーションの究極の構成要素は、生じては消える出来事である。意識やコミュニケーションがある程度安定しているとしたら、それはそれらが作動つまりシステムの自己生成を続けているからである。
■ 顕在的意味と潜在的意味は、それらの参照先においても参照様式において異なる。また、意味のすべてを顕在化させることはできない。
拙訳:問題は次のようにまとめることができる。瞬間ごとの顕在化が、いかに明瞭(あるいは不明瞭)で、独自で、事実としては抗弁の余地がないとしても(ここで思い出されるのはデカルトである)、意味が表象できるのは、その視点から得られる過剰な参照 (Verweisungsüberschuß / surplus of reference) としての世界だけである。つまり、意味は世界を、選択の強制 (Selectionzwang / selection
constraint) としてしか表象できない。顕在的に専有したもの (Das akutell Appropriierte / What
has actually been appropriated) は確か (sicher / secure) であるが、不安定である (unstable / instabil)。意味形式の反対の部分は安定しているが不確かである。なぜなら、次の瞬間に何が意図されているかによってすべてが決まるからである。すべての可能性 (Möglichkeiten
/ possibilities) の総体の統一 (Einheit / unity) が顕在化されることはない
(aktualisiert warden / be actualized)。
もちろん、[意味の]形式の統一、すなわち顕在的意味と潜在的意味
(Potentialität / potentiality) の統一が顕在化されることもない。意味は、世界を与えることはしないが、選択を強制する処理
(selektives Prozessieren / selective processing)は参照する。 (D55 / E25 /J45-46)
解釈:デカルトが述べたように、意識は疑いのないほど明瞭な現象である。だが、その明瞭さは、瞬間ごとのものである。意識の明瞭性とは、意識が区別という作動を絶え間なく自らに再参入させているからこそ達成されている。その絶え間ない作動に伴い、潜在的意味がその度毎に新たに参照される。(何かをずっと注目しながら「・・・ということはこういうことか」と、潜在的意味の一部が活性化し、顕在的意味となる経験は多くの人が経験するものであろう)。
顕在的意味は明瞭であるが、不安定である。なぜなら、次の瞬間には、活性化された潜在的意味が新たな顕在的意味となるかもしれないからである。逆に、潜在的意味は、潜在的な参照先としてずっと存在しているという点で安定しているが、現時点では顕在化しておらず不明瞭である。
ある意味システム(意識やコミュニケーション)が有している潜在的意味のすべてが、ある瞬間に統一的に顕在化されることはない。それは意味システムの処理能力を遥かに超えている。意味システムができることはせいぜい「すべての可能性」といった表現で、その意味を総称的に(あるいは超越論的に)顕在化させるぐらいであろう。
また、ある意味システムは、ある瞬間の顕在的意味を顕在化することはできても、その瞬間の顕在的意味と潜在的意味のすべてを統一的に顕在化することはできない。この処理も実現不可能であり、意味システムができるのは「すべての意味」といった表現を使うぐらいである。
意味は、世界すべてを顕在化することはできないが、潜在的意味の参照を通じて、理論的には世界すべてに及びうる参照先の中から何かを選択する処理をシステムに提示することはできる。
■ 意味の経験は、必然的ではなく偶発的であり、選択を伴うものである。
拙訳:顕在化された意味とは、例外なく、選択的に実現されており (selektiv
zustandgekommen / comes about selectively)、さらなる選択を例外なく参照する。顕在的意味が偶発的であるということは、意味を含んだ (sinnhaften / meaningful) 作動にとっての必要な契機なのである。 (D55 / E25
/J46)
解釈:ある意味システムが、潜在的可能性としての世界
(D46 / E19 /J36) の中からある事象を顕在的意味として焦点化することは、たいていの場合偶発的なことである。焦点化された顕在的意味は、前の瞬間の顕在的意味に伴っていた潜在的意味の一部が選択されたものかもしれないし、その意味システムがたまたま世界から選択的に焦点化したものかもしれない。意味の経験とは、それ以外の選択肢がない必然的なものではなく、「他でもありえる」偶発的なものである。
■ 顕在的意味と潜在的意味の区別という形式の再参入
拙訳:先ほど述べたことを、意味に特有の形式、すなわち、顕在的意味と潜在的意味の区別に適用して述べるなら、意味が作動可能になるのは、形式を形式に再参入させるからであるということになる。意味の形式の内側は、この再参入を受け入れなければならない。束の間の顕在的意味と開かれた潜在的意味 (offener Möglichkeit / open possibility) の違いは、意識とコミュニケーションのどちらか・もしくは両方においても顕在的に観察される
(verfügbar / available) のでなくてはならない。どのようにしてこの境界をまたぐことが可能なのか、そして、次にどのような段階がくるのかを私たちはあらかじめ顕在的に知ることができなくてはならない
(Man muß aktuell schon sehen können / We must be able to see
in actuality)。しかしこのことは、「可能なすべて」という「マークされていない空間」が、顕在的に示されているものという「マークされている空間」の中に収容されるということではない。というのも、「マークされていない空間」が顕在的なもの
(Akutuelle / what is actual) となるのは、これが顕在的なものを越えるからである。 (D58 / E27 /J50)
訳注:「観察される (verfügbar / available)」は、(D45 / E19 /J35) の理解をもとにして意訳した。
解釈:顕在的意味と潜在的意味の区別という形式は、意識システムもしくはコミュニケーションシステムが遂行した作動に再参入し、新たに顕在的意味を潜在的意味から区別する。この区別により、現在の顕在的意味とは異なる顕在的意味が次の瞬間に生まれうるということ(つまりは、顕在的意味と潜在的意味の境界が越境されるということ)が顕在的になる。
関連記事
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)
コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか:長岡(2006)『ルーマン 社会の理論の革命』の第8章を基にしたまとめ
意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ
ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ
ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the
second-order observation) についてのまとめ -- Identitat - was oder wie? より
原著
英語翻訳
日本語翻訳