以下は、ある本の章のために書いた文章ですが、分量が多くなったため削除せざるをえませんでした。しかし捨て去るにはしのびありませんし、その本が完成された折にはURLを示してこの文章をやや長めの脚注として呼んでもらおうと思い、ここにその文章を掲載します。
ただしルーマンの概念については、いつものように私の誤解を怖れます。なにせ物事を徹底的に考え抜いた学者ですから、私の単純化が彼の精密な意図を裏切ることもありえます。識者の方のご批判は謙虚に受け止めますので、もし何かありましたらこちらにご連絡いただけたら幸いです。
関連記事(旧ブログ)
ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ -- Identität - was oder wie? より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html
参考文献
柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93. https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83
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多元的な客観性を得る方法は複数の人間を関与させるだけにとどまりません。多元的客観性を担保する原理的な方法として、ここではドイツの理論社会学者のルーマンが提唱する「二次観察」(Beobachtung zweiter Ordnung / second-order observation) を紹介しましょう。二次観察は、ある対象Xに対する観察があった場合、その観察を一次観察として、そのXに対する一次観察を観察対象とする観察です。いわば観察の観察といえるでしょう。
二次観察者は、以下の4つを観察 (sehen/see)
しています。(i) 一次観察の観察対象、(ii) 一次観察の観察様式、(iii) 一次観察が観察しえていない対象、(iv) 一次観察者が(iii)を観察していないということをわかっていないこと、です。
二次観察は、ある対象Xを観察する2つ目の一次観察ではありません。新たな一次観察でしたら、Xをもう一度観察するだけです。1人目の一次観察者が「XはAだ」と自分の観察結果を主張すれば、2人目の一次観察者は「XはBだ」と異なる主張をするかもしれません。「それなら他の人を呼んでこよう」と3人目を連れてきても、その人がさらに一次観察を重ねるだけでしたら、観察結果は単なる多数決でその正しさが決まるか、「人の数だけ事実がある」といった悪しき相対主義 (“anything goes”) になるだけでしょう。
しかし、もし2人目の観察者が二次観察をするのでしたら事態は変わってきます。二次観察者は四種類の観察をして一次観察者にこう言うかもしれません。(i)「なるほど、あなたはXを見てAだと判断したわけですね」、(ii)「その際、あなたはαという観点から観察をされました」、(iii)「ですが、その観点からではBという側面が見えていません」、(iv)「そしてあなたは、Bが見えていないことを自覚できていないのではありませんか」というわけです。
先程は「XはBだ」と結論づけた2人目の一次観察者を登場させましたが、その一次観察者は「Aだ」と判断した一次観察者の観察様式αとは異なる観察方法βを取っていたからこそ「B」と主張したのかもしれません。しかし2つの一次観察を両論併記するだけでは、それぞれの観察様式が異なり、それぞれに見えていない無知があり、さらにそれぞれは自分の無知を認識できないわけですから、2人はお互いを愚かと思うだけで2人の間に建設的な対話は期待できないかもしれません。
その点、2人目が二次観察をするのでしたら、最初の一次観察者は自らの観察の限界を知ることができます。これも客観性です。また、二次観察者は一次観察者と同じでもかまわないというのも重要なことです。ある時にある対象Xに対してAと判断した一次観察があった場合、もう一度Xを観察(2回目の一次観察)するだけでしたら「やっぱりXはA」と確信度を高めるだけでしょうが、2回目の観察を、一次観察全体を観察対象にする二次観察にしたならば、その人は自分の観察の限界を自覚し、別種の観察による異なる観察結果についても謙虚に知ろうとするなど客観性を高めることができるでしょう。
しかし、この二次観察は最終判断ではないことを忘れてはいけません。二次観察は、それ自身としては一次観察に過ぎず、それ自体が別の二次観察の対象となりえます。二次観察にも限界があり、それはその二次観察を一次観察として扱う新たな二次観察によって明らかになります。図2をごらんください。
図2:一次観察としての二次観察
二次観察も1つの観察に過ぎない以上、そこには限界があります。図4の黒色で表示されている観察を二次観察している観察者(図をあまり複雑にしたくないので、その二次観察者は読者であるあなたにしましょう)には、黒色の観察の特徴が見えてきます。あなたはこう言うことができるでしょう。
(i’)「この黒色観察は、たしかに灰色観察を観察し、その観察について(上述の)4つのことを結論づけています」、しかし(ii’) 「黒色観察者の観察方法もある特定のものであり、唯一絶対のものではありません」、なぜなら (iii’) 「黒色観察では (iii’) の部分が見えてない」からです。そして
(iv’) 「黒色観察者は (iii’) が見えていないことがわかっていません」。
もちろんこの二番目の二次観察も、それ自体は一次観察であり、他の二次観察の対象になります。ですから、その新たな二次観察を「三次観察」などと呼ぶ必要はありません。そうすればさらに「四次」「五次」・・・と級数が無限に増えてしまうだけです。そして級数が上がればそれだけ万全な観察であるわけでもないわけですから、用語は一次観察と二次観察だけで十分です。これがルーマンの二次観察の考え方です。