以下の学会口頭発表のスライドと配布資料をここに公開します。
追記(2019/07/01):口頭発表の音声もダウンロードできるようにしました。
日程:2019年6月29日(土)
場所:広島大学教育学部
名称:第50回中国地区英語教育学会・研究発表会
発表者:柳瀬陽介
タイトル:『学び合い』における コミュニケーション観の転換 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―
発表時刻:15:25-15:55
発表会場:第5室(K114)
当日投影スライド
パワーポイント版
PDF版
当日配布資料
PDF版
学会発表音声
(MP3)
以下は、当日配布資料の内容のコピーです。ご興味のある方はお越しいただけたら幸いです。
『学び合い』における コミュニケーション観の転換
―近代的主体からオートポイエーシスへ―
柳瀬陽介
(京都大学 国際高等教育院)
1 はじめに
1.1 対話的・主体的・深い学び:コミュニケーションを教える英語科教員は先導的であるべき
1.2 対話的身体仮説:対話を促す教師は一定の身振りを多用しているのでは?
1.3 対話的身体仮説の修正:『学び合い』の教師はほとんど「身振り」を示さなかった
1.3.1 「身振り」(gesture) というより「態度」(manner) において特徴的だった
1.4 本研究の研究課題:『学び合い』実践を具体的起点として、コミュニケーションについて理論的考察をすることにより、学校教育観についての新たな洞察を得る。
2.『学び合い』におけるコミュニケーション
2.1 『学び合い』とは:教師が一斉説明を極力抑えるが、学習者間での活動や話し合いについては具体的に指示する一般的な「学び合い」よりも一歩進み、 学習者の活動や話し合いに関する指示も極力抑えて、学習者の主体的な対話と学びをさらに引き出す実践
2.2 『学び合い』の学校観・子ども観・授業観
2.3 『学び合い』の根本信念:「教師が」ではなく「みんなが」、「一人も見捨てない」
2.4 学びの主体についての考え方の転換:学校教育を、教師自身を含めた学級構成員が学びの共同体として育つ営みととらえる。←問1:しかし、共同体を「主体」として捉えるべきか?
3.中動態的な発話とコミュニケーションのオートポイエーシス
3.1 発話は中動態的な営み:中動態では、何かを「する/される」ではなく、何かが「起こる」
能動態:動詞は主語から出発し主語の外で完遂する過程を指し示す。 例:「私はXを曲げた」3.2 互いにケアする共同体:「いる」とは互いにケア(お世話)を受け入れること。「ケアする/される」という能動態/受動態で語ってきたことは中動態で語られるべき。しかしまだ残る問1。
中動態:動詞は主語が過程の内部にある過程を指し示す(バンヴェニスト)。あるいは、「動作が行為者を去らずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの」(細江逸記) 例:「私は反省した」「私はXに惚れた/惚れてしまった」
←問2:自然で自発的・即興的な発話(「私は(思わず)X と言った」)は能動態と中動態のどちらで解釈するべきか?(現象学的分析)
主語を「コミュニケーション共同体」とした上で中動態的に考えると、整合的な解釈は可能になる(コミュニケーション共同体における発話はコミュニケーション共同体自身に反照する)。だが、問1が残る。
3.3 「主体」という虚構:「主体」は制度的事実ではあるが自然科学的事実ではない。主体概念の使用の短所が明白な場合は、使用を控えるべき(依存症や学習者の沈黙など)。主体概念を共同体に適用するのは危険(「学級王国」や「共同体の意思」)
3.4 コミュニケーションのオートポイエーシス:コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションだけである。意識とコミュニケーションはそれぞれに自己生成するオートポイエーシスシステムであり、両者は互いに触発する関係にあるが、根本的には独立した別々のシステムである。
4 学校教育観の変革
4.1 コミュニケーション観の刷新:コミュニケーションに関する一見自己循環的な命題の理解は重要
4.2 学校教育観の刷新:ケアというコミュニケーションがやがては学びのコミュニケーションを生み出す
4.3 英語教育への示唆: 学習者がさせられる半強制的な発話は、一見「能動的」に見えるが、 実は教師の権力に「受動的」に反応しているだけであり、スピノザ的な意味での「能動」は示していない