2022/03/16

ジョルジョ・アガンベン 上村忠男訳 (2016) 『身体の使用』みすず書房

 

 

以下は、アガンベンの『身体の使用』に関するお勉強ノートです。國分功一郎先生らが中動態の議論をする際にしばしば参照するので興味をもち、邦訳書と英訳書を参照しながら自分なりにまとめました。私はまったくイタリア語ができないので、以下の「翻訳」もすべて英訳書からの翻訳にすぎません。またその翻訳も、自分なりの訳語を使ったり、読みやすさを優先した意訳となったりしている部分もあることにご留意ください。

 

 

ジョルジョ・アガンベン 上村忠男訳 (2016)

身体の使用』みすず書房

 

Agamben, Giorgio (Translated by Kotsko, Adam) (2015)

The Use of Bodies. Stanford University Press.

 

 

■ 「身体の使用」における身体は、客体(目的語)でも主体(主語)でもありうる

 

大意:「身体の使用」 (tou somatos chchresis) という表現の中での「身体の」 (of the body) という属格(所有格)は、単なる客体の意味 (in an objective sense) だけでなく、主体の意味 (in a subjective sense) でも理解されなければならない (34-35頁、 p.14)

 

解釈:あるものが主体でもあり客体でもあるような事態は、下でも説明する中動態の表現が廃れた現代ではなかなか考えにくいが、身体の使用についての洞察を深めるなら、このような事態の性質もわかってくるだろう。

日本語文法に詳しくない私なので間違いを言ってしまうことを恐れるが、「身体が動く」「手が出る」「目が行く」といった表現なら、身体・手・目が主語(主体)でありながら、同時にそれを所有しているはずの人間にとっては目的語(客体)として認識することも可能である事態をなんとか表現できるのかもしれない。

 

 

■ ギリシャ語の中動態における主体(主語)と客体(目的語)の関係

 

大意:近代語では「主体 (subject) が客体 (object) を使用する」という思考図式が明確だが、上で述べたようにギリシャ語の「身体の使用」では、この図式を当てはめがたい。これはこの表現が、能動態でも受動態でもなく、古代の文法家たちが「中動」 (mesotes) と呼んでいた態をとっていたからである。

 バンヴェニスト (Benveniste) は、中動態を次のように説明する。「中動態では、動詞が主語の中で生じる過程を示す。主語は過程の中にある (the subject is internal to the process)」。これに対して、能動態では「動詞は、主語が開始し主語の外で実現される過程を示す」 (a process that is realized starting from the subject and beyond him) (注)。(57頁、p. 27

(注)バンヴェニストの論文はフランス語で書かれている。ここの英語表現は The use of the bodyから引用したものにすぎない。

 

解釈:「英語の使用」を「英語を語るための身体の使用」として考えるなら、ホームステイ先でのある人の行動を「英語をしゃべった」とするのが能動態的表現、「英語が出てきた」とするのが中動態的な表現と考えてよいのだろうか(繰り返すが、私の日本語文法の知識不足を怖れる)。

 

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國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

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國分功一郎・熊谷晋一郎 (2019) 『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』(新曜社)を読んで:「英語が話せる」ことや「やる気が出ない」ことなどについて

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2019.html

 

 

■ 中動態が表現する事態において、主体は動詞が表現する過程の中に現れて影響を受ける。

 

翻訳:一方で、中動態が表現する事態においては、主体が行為を達成する。しかし、主体は客体に他動詞的な働きかけをしない。主体はまずもって、動詞が表現する過程の中に現れて影響を受けるのだ。他方、上の理由がゆえに、この過程は独自の位相(位置と形相)を有している。主体は行為を統括せず、過程が生じる場となっている。「中動」という名が暗示しているように、中動態は、主体と客体が確定できないゾーンに位置している(行為主が、ある意味で客体であり行為の場所であるのだ)。またこのゾーンでは能動と受動の確定もできない(行為主は、自らの行為によって影響を受けるのだ)(注)(58-59頁、p. 28

 

(注)この箇所は、日本語訳ではなく英語訳を基に大意をまとめた (On the one hand, the subject who achieves, by the very fact of achieving it, does not act transitively on an object but first of all implies and affects himself in the process; on the other hand, precisely for this reason, the process presupposes a singular topology, in which the subject does not stand over the action but is himself the place of its occurring. As is implicit in the name mestotes, the middle voice is situated in a zone of indetermination between subject and object (the agent is in some way also object and place of action) and between active and passive (the agent receives an affection from his own action.)

 

この中動態の観点からすれば、 “chresthai” という動詞の客体が対格 (accusative, 直接目的語・ドイツ語の4)ではなく、つねに与格 (dative, 間接目的語・ドイツ語なら3)や属格 (genitive, 所有格・ドイツ語なら2) で表されるかがよくわかる。中動態の過程は、能動的な主体から、行為とは切り離された客体に向けられた過程ではない。中動態的過程は、自らの中に主体を巻き込む。また、主体は同じように客体においても現れ、主体が客体に「与えられる」のである。(The process does not pass from an active subject toward the object separated from his action but involves in itself the subject, to the same degree that this latter is implied in the object and “gives himself” to it.)

 ゆえに “chresthai” の意味を以下のように定義することもできるだろう。この動詞は、ある者が自分自身と結ぶ関係、その者がある特定の存在者と関係している限りにおいて受ける影響を表現している(it expresses the relation that one has with oneself, the affection that one receives insofar as one is in relation with a determinate being.) 59頁、p. 28

 

追記:与格構文の発想も中動態の発想に近いと思われるので、以下に中島岳志が説明するヒンディー語の表現について短くまとめる。

中島岳志は中島・若松 (2021) の中で、ヒンディー語の与格構文について説明する。彼が説明するヒンディー語の表現を日本語に翻訳するなら「私に、あなたへの愛が宿った」「私にヒンディー語がやってきてとどまっている」となる。つまり「私はあなたを愛している」といった表現に含意されるように、<私があなたを理解した結果、好意をもった>というのではなく、「私に、あなたへの愛が宿った」は<私はあなたに対する愛に翻弄され、自分としてはどうもし難い>といった事態をヒンディー語の与格構文は表現している(日本語慣用表現なら「惚れてしまった」が近いだろうか)。同様に、言語使用についても、<私という主体がヒンディー語という客体を獲得し、自らの意思でその客体を自在に操作している>のでなく、<私がヒンディー語と関わり、ヒンディー語が私の中にとどまって時折私の口から出てくる>といった事態をヒンディー語の与格構文が表しているといえるだろう(日本語でしたら「英語ができるようになった」ぐらいが近いのかもしれない)。

中島岳志・若松英輔 (2021) 『現代の超克』 ミシマ社(147頁)

 

 中島はヒンディー語の与格構文についての文法説明(「自分の意思や力が及ばない現象については与格を使って表現する」)に得心し、言語獲得についても次のように表現する。

 

「私が言葉を所有しているのではない。言葉は私の能力ではない。私は言葉の器である。言葉は私に宿り、また次の世代に宿る。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。」(52頁)

 

 さらに中島 (2021) は、この言語獲得の「与格的方法」(=「Xが私にYする」)の発想が、近代においては「主格的方法」(=「私がXYする」)の発想に取って代わられたとしている。さらに近代の主格偏重の考え方は、与格的方法を「前近代的なもの」「怪しいもの」「正常ではないもの」して排除してきたとも述べる。(59頁)

だが、名人・職人・達人と呼ばれる人たちは、与格的な様態についてしばしば言及する。染色家で人間国宝の志村ふくみは「色をいただく」という表現をよく使い、料理家の土井善晴はおいしさを「やって来る」ものであり料理人にとっての「ご褒美」であると語るそうだ。(66-67頁)また、日本語には「思いがけなく起こること」を意味する「ふいに」「ふと」「つい」「はたと」「やにわに」「たまさか」「とっさに」「思いがけず」といった表現が多いことも指摘する。(78頁)

中島岳志 (2021) 『思いがけず利他』ミシマ社

 

 中島が解説する与格構文・与格方法も、中動態に似た事態を描写しているようだ。どちらにおいても、「主体が客体を管理する(=行為を意図し実行する)」という事態ではなく、「主体が客体に関与する中で、主体が客体に影響を与えられ、客体に関する出来事が主体を舞台として到来する」といった事態を表現している。主体が他動詞的に客体を操作するという近代的発想の中で勢いを失ったように見える中動態や与格構文の発想を取り戻すことで、私たち近代人も自らの認識の幅を広げられるかもしれない。

 

 

■ XYを使用するとは、まずもってXX自身を使用するということである

 

翻訳:何かを使うということは、すべて自分自身を使うということである。何かを使うという関係に入るためには、私はそれに影響を受け、それを使う者として自らを構成しなければならない。人間と世界は、使用において、絶対的かつ相互的に内在している。何かを使う時、まさにそれを使用する者の存在が最初に問題となるのだ。(every use is first of all use of self: to enter into a relation of use with something, I must be affected by it, constitute myself as one who makes use of it. Human beings and world are, in use, in a relationship of absolute and reciprocal immanence; in the using of something, it is the very being of the one using that is first of all at stake.) 61頁、p. 30

 

解釈:「XYを使う」場合、注目されがちなのはXYの関係性だけだが、実はXYを使う場合、Xは自分自身(X)を使いこなさねばならない。つまりYを使用することにより、X自身にも変化が生じなければならない。その変化したXこそがYを使用するのだとも言えるだろう。

 ただこの場合の「使う」や「使用」は、主に習慣的な使用、あるものを使うことが常態化した使用と考えるべきだろう。その留保を頭に入れて、下の例を考えてみたい。

 ある者が武術で剣を使うことを学ぶ場合、その者は剣を使うための身体作法を学び、自分の身体をいわば作り変えなければならない。さもないとその者は「剣に使われているだけ」とも言える受動的な状態になり、とても主体的に剣を使いこなしているとは言えない。とはいえ、主体的に剣を使うとは、その者が剣という道具から一切の影響を受けずに、剣を振り回すだけというわけではない。武術者は、剣の重みそのものや形状から来る重心あるいは剣の動きの勢いなどを感知し利用できるような身体を練り上げる。俗に言う「剣と一体になって」動く。その動きは武術者自身の動きであると同時に、剣によって導かれた動きでもある。武術者は動く主体であり動かされる客体でもある。剣は動かされる客体であり武術者を導く主体でもある。剣を使うことを学んだ者は、以前のその者とは異なる存在である。人は、剣を使うために、自分自身を変えなければならない。

 人が車を使いこなす、つまり車を運転するようになる場合においても、人は自らを作り変えなければならない。人はハンドルやアクセル・ブレーキなどで車をコントロールする。しかし車に乗るにつれ、人は車がカーブする際の横方面の重力移動などにつられて思わずブレーキを踏んだりする。いわば車という客体に、運転手という主体が操られる。ここにおいて、「主体とは独立し、主体に操られるだけの客体」といった主客関係を想定することは困難だろう。

 

補注:ここでは人が何かを使うという事態を、主体と客体の関係およびその逆転という二項関係で説明しているが、ラトゥールの作用起因性 (agency) はもっと多くの要因が絡んだネットワークの関係を使った説明となっている。

 

関連記事

B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) “Reassembling the social” OUP

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■ 予め定められた機能が使用を生み出すのではなく、使用が機能を作り出す。

 

大意:生きているもの (the living) は、ある目的を予め有しており、その目的を達成するという機能のために身体の各部分を使うのではない。そうではなく、生き物は身体の各部分との関係を築く中で、それをどう使用するかを見出す。身体の使用と機能においては、身体の部分が存在しそこから使用が見い出され、そこから機能が生まれてくる。身体は、身体の使用と機能に先行して存在する。目的とする機能が予め存在し、その機能のために身体を使用するのではない。(96頁、p. 51

 

解釈:身体の使用と機能を、人工的に作られた道具の使用と機能と同じように考えてはならない。人工的道具は、何かを達成したいという目的をもった設計者が、その目的達成という機能のために作成したものである。人が人工的道具を手にするのは(通常の場合において)、その道具の設計者が想定した機能を果たすという目的をもっているときのみである。

 これに対して身体は、仮にそれを「道具」と考えるとしても、極めて汎用的な道具であり、その点で人工的に作成された道具とは大きく異なる。私たちはまず身体を与えられる。赤ん坊がよくやるように、私たちはその身体がどのように動くかを学ぶ。その過程で、身体がどのような機能を果たしうるかを学ぶ。もちろん先人がある機能を果たすために所定のやり方で身体を動かすのを見て、その一連の身体使用を学ぶこともある。だが身体の使用を、そういった用途だけに限定するのは、身体に対する誤解である。身体を使うとは、所与の機能・目的に限らず、さまざまな機能・目的のために使用できることを学ぶことである。私たちは身体を使用する中で新たな機能や目的を見出す。

 身体と同じように汎用性の高い道具が言語であろう。私たちは物心ついたら第一言語と共にいる。むろん多くの言語表現は、周りの大人が行っているやり方で特定機能を果たすために学ばれる。だが、それが言語獲得のすべてではない。教育を受ける機会に恵まれた子どもは、直接の実利的目的をなんらもたない物語を読み、言語がこれまで自分が知らなかった感情や思考を表現できることを知る。子どもは、物語の言語の中から新たな言語の使用法を知り、その使用と共に新たな感情や思考を学ぶ。続いて物語で知った表現を適宜組み替えて、自ら新たに言語を組み合わせることを覚えると、これまで誰も使わなかった表現を生み出し、これまで存在しなかった事態を表現する。さらには表現という用途からも自由になった人は、ナンセンスともいえる言葉遊びにおいて、新たな言語との関係を見出し、言語使用の範囲の中にこれまでになかった機能や目的を付け足す。

こうなると、言語を学ぶことは、実務的な慣用表現を身につけるだけに終わらないことがわかる。喫緊の目的を離れても言語と関わることを覚え、その中から言語使用の新たな可能性を見出せることを実感することも言語学習には含まれる。言語教育は、動物に「お手!」「待て!」といった命令に従うことを教える調教とは本質的に異なる(人間への言語教育と動物への調教の違いは、教えられる言語表現の数だけに求められるべきではない)。人間の言語教育は、言語使用の特定の用途だけではなく、言語使用の可能性一般を教えることである。

だが外国語教育は、しばしば人工的道具の使用を教えるように遂行される。所定の機能を達成する表現が選定され、それを暗記し自在に再現できるようになることが外国語教育の目的と誤解される(そして研究者と業者はその再現を「評価」方法として厳密にしようとやっきになる)。もし特定表現の再現が外国語教育の目的ならば、紙や電子媒体での頻出表現集が外国語教育の目的を体現していることになる。それならばその表現集を購入すればいいだけだろう。そもそも、特定表現の再生が外国語教育の目的というのは、あまりにも貧困な考え方だろう。

外国語学習者は、いわば「外国語と遊ぶ」ことを許されなければならない。外国語の新たな並びに出会ったり、それを自ら作り出したりして、その可能性を吟味する。そうやって自分が外国語と親しむにつれ、その外国語では許される並び・許されない並び、頻出する並び・珍しい並びがわかってくる。その知識をうまく使いこなすことによって、外国語表現の可能性を広げてゆく。

外国語表現の可能性は、それまでの学習者が知らなかった機能や目的を表現する可能性も含む。例えば英語は日本語に比べてはるかに肯定・否定 (Yes/No)を明確に述べ、可算・不可算の区別を徹底し、結論を先に述べ詳細は後述する。英語を知る前の日本の子どもに、肯定・否定の明確化や可算・不可算を峻別、あるいは結論の先述といった欲望はそれほどないだろう。だが英語を学び始めた子どもは、英語を使い、そのことによって逆に英語に使われる経験(=主客関係の逆転)を繰り返す中で、自分自身を変容させ、英語的な身体ひいては英語的な心を生み出す。その新たな自分は、Yes/Noをはっきりと述べたり、事物の具体性(可算性・不可算性)にこだわったり、最初に結論を述べたいという欲望を見出すかもしれない。日本語しかしらない時代にはなかった欲望である。

外国語を使うということは、外国語に使われることででもある。外国語使用は、使用者と使用言語の主客関係が始終交代し続け、外国語使用者がそこから新たな自己を創出することである。外国語学習は、学習者がそれまで考えてもいなかった目的ひいては自分自身を生み出すことがある。

 

 

■ 生きるとは、自分が自分自身と自分自身以外に関わることであり、そこから新たな自分を生み出し、その自分を使うようになるということである。

 

翻訳:生きているものが自分自身を使用するとは、生きているものが生きて自分以外のものと関係をもつようになる中で、常に自分自身と関わり合い、自分自身を実感し、自分自身を自分自身に馴染ませるという意味においてである。自己とは自己を使用することに他ならない(The living being uses-itself, in the sense that in its life and in its entering into relationship with what is other than the self, it has to do each time with its very self, feels the self and familiarizes itself with itself. The self is nothing other than use-of-oneself.) (101-102頁、p. 54

 

解釈:自分自身とは自分の奥深くに眠っている静的な存在物・対象物ではなく、生きる中で他者と自分自身に関わるために使われ、そのことによって変容してゆく現象である。関わりという使用を離れた本来の自己といったものを想定するのは幻想にすぎない。自己はさまざまな自己の使用において展開してゆく現象である。

 この意味で「本当の自分自身が見つかるまで、何もしたくない」というのは、悪い意味の引きこもりにつながりかねない生の否定であろう。自分というものは、何かやっているうちに見つかり、さらに生き続ける中で変化しつづける現象である。

 

補記1:私はまだ「自分自身」と「自己」という表現の使い分け方をまだ見出していない。

補記2:上で「現象」ということばを使ったときに思い出したのは宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭部分であった。とはいえ私は賢治作品をよく理解しているとはとても言えない。

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

 

■ 存在は、現存・本質とか可能・偶発・必然とかいった区別より以前からある(あるいはその外部にある)。存在が主体のように見えるのは、存在が使用されてから後のことである

 

翻訳存在とは、その原初的な形式においては、実体ではなく、自己使用である。存在は、基体として現実化することはなく、使用の中に漂う。この意味で「使用する」は、元型的な様態動詞として存在を定義している。「使用する」は元型的な様態動詞として、現存/本質という存在論的差異や、可能性/不可能性/偶発性/必然性といった諸様態の分節化に先立っている(少なくともその分節化の外部にある)。主体―あるいは基体―のようなものが「私は○○である/できる/できない/しなければならない」などと言うためには、自己は実体性の外部にある使用において構成されなければならない。(being, in its originary form, is not substance (ousia), but use-of-oneself, is not realized in a hypostasis, but dwells in use. And “to use” is, in this sense, the archmodal verb, which defines being before or, in any case, outside its articulation in the ontological difference existence/essence and in the modalities: possibility, impossibility, contingency, necessity. It is necessary that the self first be constituted in use outside any substantiality in order that something like a subject –a hypostasis—can say: I am, I can, I cannot, I must …)104-105頁、p. 56

 

解釈:人間においても、「本来の私」といったものが確固たる実体として予め存在しているわけではない。私たちは日常的に「私は○○である/でない」「私は〇〇できる/できない」などと語るが、その際の「私」がそれなりの恒常的な存在であるように思えるのは、その「私」がそれまでに自分自身を使用して、その「私」も周りの人々も、その使用の中に特定のパターンを見いだせるようになったと思っているからである。だがその「私」は自他の明確な境界線をもった実体ではない。「私」とは、ウィトゲンシュタイン流に言うなら、その時々の「私」が家族的類似性で連なって1つの集合体とみなされるようになった現象の総称であろう。また、仏陀的に語るなら「諸法無我」ということばでもって虚構と定められる現象に過ぎないだろう。

 存在が主体のように見えるのは、存在が使用されてから後のことである。逆に言うなら、使用以前の存在を実体として想定すると不要な哲学的難問を生み出してしまうだけである。

 

 

■ ある行為を行う習慣とは、その行為を行う自己を使用するということである。つまり習慣とは、ある行為とその行為を行う自己の関係から構成されているその人の生き方である

 

翻訳:習慣は、使用という概念を通じて、「潜在的に可能という状態なのかそれとも実働している状態なのか」という単純な二項対立を超えて、現実的な存在として認められる。この意味で、もし習慣が常に自己の使用であり、自己の使用とは(これまで確認してきたように)主体と客体の二項対立を中和することを意味するのなら、習慣を所有し、それを使うか使わないかを決定する主体が存在する場所などない。自己とは、使用の関係によって構成されるものであり、主体ではない。自己は、使用についての関係に過ぎないのだ。 (Use is the form in which habit is given existence, beyond the simple opposition between potential and being-at-work. And if habit is, in this sensei, always already use-of-oneself and if this latter, as we have seen, implies a neutralization of the subject/object opposition, then there is no place here for a proprietary subject of habit, which can decide to put it to work or not. The self, which is constituted in the relation of use, is not a subject, is nothing other than this relation. 110頁、p. 60

 

解釈:「彼は英字新聞を読む習慣をもっている」という場合、現時点での「彼」が実際に英字新聞を読んでいなければならないのか、それとも読もうと思えば読める状態にあるだけでよいのか、といった論争はあまり有益ではない。

先に「XYを使用するとは、まずもってXX自身を使用するということである」として、使用を自己使用と定義した。もしさらに、習慣も使用すなわち自己使用と規定するなら、習慣とは、「ある主体Xが客体Yを習慣的に使用する中で、X自身がYによって作り変えられていること」と説明できる。英字新聞の例なら、「彼は英字新聞を読む習慣をもっている」は、「彼は英字新聞をしばしば読むことによって自分を英字新聞の読み手として使用し、その中で彼自身がそのような人間として作り変えられている」と言い換えることができる。

ここでは「彼」という主体が「英字新聞」という客体を読むという図式は残っているが、上の定義の中での「彼」は「英字新聞」および「英字新聞を読む自分自身」によって再構成される客体でもある。したがって、習慣=使用=自己使用という考え方において、「客体からは独立して客体を自由自在に操作する主体」といった概念を使う意義はほとんどない。習慣とは、ある行為とその行為を行う自己の関係性から構成されているその人の生き方を指している。

 

 

■ 習慣的な使用は、その人のあり方であり生き方である。それを対象化・客体化し実体化することは知的な落とし穴である

 

大意:有名なピアニストのグレン・グールドは、ピアノを演奏し、ピアノ演奏の習慣をもっているという意味で自分を使用している。彼は、現時点でピアノを弾いているか弾いていないかには関係なく、彼はピアノ使用において自分自身を構成しているのである。この事態を、「グールドは、ピアノ演奏の潜在的可能性を有しそれを自在に実現できる」 (the title holder and master of the potential to play, which he can put to work or not)などと表現することに積極的な意義はない。習慣としての使用は、1つの生き方であり、主体が所有している知識や能力ではない(Use, as habit, is a form-of-life and not the knowledge or faculty of a subject.)

この考え方は、近代が育ててきた主体とそれがもつ能力という図式を完全に書き換えることを意味している。どんな人間も、行為したり制作したりする能力を所有する超越的な存在ではない。人間は、自分自身と世界を使用しながら、自らを経験し自らを構成して生きている存在である。(they are living beings that … have self-experience and constitute-themselves as using (themselves and the world).

 

付記1:原文のイタリア語は知らないが、上の英訳では a “form-of-life”という表現が見られる。これはウィトゲンシュタインが『哲学探究』で使った表現であり、ついつい「生活様式」や「生の形式」などと訳したくなるが、ここではあくまでも日常的に使える概念として「生き方」と訳した。

付記2:上の英文でとしている部分は、 “in the use and only in the use of their body parts as of the world that surrounds them” ですが、私はこの “as of the world” の解釈ができないままでいる。

 

解釈:近代人は、「<主体>が<対象>を<行為する>」という他動詞的発想が好きである。この発想においては、主体は対象からも行為からも独立している。主体が対象から影響を受けることはないし、主体は行為の開始や中止を自力のみで決定できると考えられている。ある人が英語を話せるという事態においては、ある主体が「英語」という対象を「話す」という行為を自在に実行し、かつその主体はその対象からも行為からも何の影響を受けないという想定が(暗黙のうちにおいてかもしれないが)なされている。

この発想はさらに延長し、「英語を話す」という対象-行為の組み合わせが「英語スピーキング能力」と対象化され、ある主体が「英語スピーキング能力」という対象を「もっている」という(状態動詞的な)行為をしているという図式で理解されることもある。対象化・客体化された「英語スピーキング能力」は、さらに抽象化され、他の人と異なる程度で有している一般的能力と理解され、さまざまなテスト開発が始まる。テストは「英語スピーキング能力」をそれが定めた一連の操作的定義で実体化する。

しかし「彼は英語スピーキング能力をもっている」という事態は、「彼はグラスをもっている」という事態とは明らかに異なる。後者の所有は一時的なものであり、その人はグラスを近くのテーブルに置くこともできる。それがパーティ会場なら、その人はグラスを置いた後に会場を立ち去り、その人とそのグラスの関係性はそれ以降まったくなくなってしまうことも可能である。

だが「英語スピーキング能力をもっている」人は、その「英語スピーキング能力」をどこかに置き去りにすることはできない。この能力は彼という存在そして生き方の一部を構成しているので、その人はこの能力を自分から切り離すことはできない(ましてや他人に譲渡することもできない)。

またこの能力はその人のあり方と深く関わっているので、その人がある理由で心理的に深く動揺していたら、その人がまるで英語をしゃべれなくなることも十分ありうる。だからといってその人は能力を喪失してしまったわけではない。その人は、英語を話すという身体使用を自分の一部として自分を作り変えている。ゆえに自分自身が不安定な時には、英語使用も不安定になる。だがその人が安定を取り戻せば、その人は英語使用者としての自分を取り戻し、英語を使う。

「彼は高い英語スピーキング能力をもっている」とは無邪気な表現かもしれない。だがそこから「英語スピーキング能力」を対象化し抽象化した上で、操作的定義で実体化したりすれば、「スピーキングテスト」といった事物が生まれてくる。それが大規模に実施されることは、一部の研究者や業者にとっての吉報だが、少なからずの学習者と教師にとってはいい迷惑かもしれない。

ウィトゲンシュタインは、私たちが使うことばが、私たちの思考をいかに歪めるかを明らかにしたが、上で述べた問題意識をもって『哲学探究』をゆっくり読み直したい(だが、この職場では読書をする時間がほとんど取れない。現場経験は増しているが、それを的確に振り返るためにも読書して考える時間がほしい)。

 

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■ 人間が生きるということは、どのような生き方で生きるかである。そして人間の生き方とは常に可能性である。

 

翻訳:生き方から分離することが不可能な生とは、生きる形態において、生きること自体が失われてしまうかもしれないような生である。そして生きることにおいて、まず失われてしまうかもしれないのは生きる形態である―こう言ったからといって、この表現は何を意味しているのだろうか。この表現は、生きること―人間が生きること―を定義し、そこにおいてはある特定の生き方・行為・過程が決して単なる事実ではなく、常にそしてとりわけ生きることの可能性であること、潜在的可能性であることを示している。 (A life that cannot be separated from its form is a life for which, in its mode of life, its very living is at stake, and, in its living, what is at stake is first of all its mode of life. What does this expression mean? It defines a life --human life-- in which singular modes, acts, and processes of living are never simply facts but always and above all possibilities of life, always and above all potential. 346頁、p. 207

 

解釈:人間が生きるということは、どのように生きるかということと不可分である。生物学的に生命が保たれているだけでは、人間が十分に生きているとは言えない。人間は、自分が臨む生き方で生きられない場合は、人間として生きられていないとさえ言えるかもしれない。そして人間の生き方は、決して変更不可能な既定事項ではなく、常に可能性に対して開かれている。

 

 

 

■ ある人の「潜在的可能性」を、その人の常日頃の生き方と無縁に想定することは有益な考え方ではない

 

翻訳:潜在的可能性は、それぞれの存在の本質もしくは本性である限りにおいて、宙吊り状態で観想の対象となることはあるが、決して完全に行為から切り離されることはない。潜在的可能性を有する習慣というものは、潜在的可能性を習慣的に使用するということであり、また、そのような使用をするという生き方である。 (And potential, insofar as it is nothing other than the essence or nature of each being, can be suspended and contemplated but never absolutely divided from act. The habit of a potential is the habitual use of it and the form-of-life of this use.) 346頁、p. 207

 

解釈:「ある人はあることを行うことができる」という潜在的可能性について私たちは抽象的に考察することはできる。だが、潜在的可能性は決して行為と切り離して考えてはならない。ある習慣があるということは、ある潜在的可能性をもち、その潜在的可能性をしばしば実現しているということ、すなわちその潜在的可能性がしばしば現実となっている生き方をしているということである。

 例えば20年前に英検1級に合格したが、その後まったく英語を使ったことがない人に対して、私たちは「英語力」といった潜在的可能性があるとはあまり思わない。その人のここ20年間の生き方に英語を使うという経験が皆無だからである。英語使用とは無縁の生き方をしている人に対して、「それでも昔、英検1級を取ったのだから、潜在的には英語力が残っているはずだ」と言ったとしても、それはあまり現実的に有益な立論とは思えない。使用とは習慣的な使用であり、それにより自分自身が変容する。つまり、使用とは使用によっての変容した自分自身を使用することであり、その使用は日々の生き方に現れている。潜在的可能性といえども、実際の行為と無縁に語るべきではない。

 

 

■ ある特定の生き方しか許されない人は、人間として生きているとはいえない

 

翻訳:人間の生き方が、ある特定の生物学的資質によって予め規定されることなど決してない。人間の生き方が、何らかの必然性によって与えられたと考えるのも間違いである。人間の生き方が、たとえ慣習的で、反復的で、社会的な義務のように思えるにせよ、人間の生き方には現実的な可能性 (a real possibility) という特徴が常に保たれている。これは、人間の生き方においては、生きること自体が常に失われるかもしれないということを意味している。つまり、潜在的可能性が帰属し、潜在的可能性を自在に行為に転換するような主体というものはない (There is not a subject to which a potential belongs, which he can decide at his will to put into act)。生き方とは潜在的可能性としての存在であるが、それはできる/できない、成功/失敗する、自分自身を失う/見出すということだけでなく、それ以上に、生き方とはその潜在的可能性であり、潜在的可能性に一致しているからである。そのため、人間は、生きることにおいて幸福が常に失われるかもしれない唯一の存在となっている。人間が生きるとは、取り返しがつかず痛々しいほどに幸福に委ねられているのである。しかしこのことによって、生き方はただちに政治的な意味で生きることとして構成されることとなる。 (346頁、p. 208

 

解釈:人間の生き方は、たとえそれが社会によって与えられたものに過ぎないように見えたとしても、それは、とりあえず現実になっている可能性の1(a real possibility) と考えるべきである。生き方とは、常に可能性に開かれている。現時点での生き方以外の生き方の可能性をすべて否定された人間は、幸福ではありえない。可能性を奪われた不幸な生き方は、人間の生き方としては認めがたい。人が生きるということは、生物学的な生命維持以上のことであり、生き方を選ぶ自由に支えられている。その自由は常に発揮されないにせよ、潜在的可能性としてその人の生き方に組み込まれていなければならない。自由が必要という意味において、人間が生きるということは、政治的な問題となる。

 

 

■ 生き方とは、ある人が生きる中で現れてくるものである

 

翻訳:生き方とは、主体のように生きることに先立って存在し、生きることに実体と現実性を与えるものではない。事態はまったく逆で、生き方は生きることにより生成される。生き方は「単に形式に過ぎないものにより作られる」のである。ゆえに、生き方が生きることに対して、実体的な意味においても超越的な意味においても優先するわけではない。生き方とは、存在し生きることの様式に過ぎない。生き方が人間を[予め]決定してしまうことはない。同様に、人間が[予め]生き方を決定してしまうこともない。しかし、生き方は人間と不可分なのだ。 (Form-of-life is not something like a subject, which preexists living and gives it substance and reality. On the contrary, it is generated in living; it is “produced by the very one for which it is form” and for that reason does not have any priority, either substantial or transcendental, with respect to living. It is only a manner of being and living, which does not in any way determine the living thing, just as it is in no way determined by it and is nonetheless inseparable from it.) 375頁、p. 224

 

補注:文中の “the living thing”は議論の性質を考えて「人間」と意訳した。

 

解釈:生き方とは、人が生きることとは独立して存在する実体ではない。ある生き方があって、それがある人が生きることを決定づけることはない(ここではとりあえず、幸福追求の自由が認められた近代民主主義社会の人間のことだけを考えている)。生き方は、ある人が生きる中から生まれてくる。だがその人は生まれたときからその生き方を生み出すことが運命づけられていたわけでもない。人が生きて、自分自身や自分以外の存在と関係をもちながら、自分自身を作り出していく。その自己生成の過程で、ある種の行為が頻繁に行われ、それがその人の習慣(生活の中に組み込まれた潜在的可能性)となる。人間とその生き方は、片方が、もう片方に先行することも、もう片方を決定づけることなない。人間が日々生きて、ある種の自分を習慣的に使用するにつれ、生き方は現れてくる。

 

 まず特定の生き方があってそれがある人を作り出すとか、まず特定の人がありその人がある生き方を予定通りに作り出すわけではない。前者はおよそ抑圧的な社会でのみ可能で近代人は想像しかできない事態であり、後者は神話的な想像に過ぎないであろう。

 

 



"AI is an empowerment tool to actualize the user's potential."

  本日、「 AIはユーザーの潜在的能力を現実化するツールである。AIはユーザーの力を拡充するだけであり、AIがユーザーに取って代わることはない 」ということを再認識しました。 私は、これまで 1) 学生がAIなしで英文を書く、2) 学生にAIフィードバックを与える、3) 学生が...