2021/03/05

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節の個人的解釈

  

 

はじめに

 

以下は、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の1-88節の個人的解釈をまとめた「お勉強ノート」です。読解を進める際には、鬼界彰夫先生の新訳に依拠しながら、重要な箇所については原著を参照しました。


 


 

 

この『哲学的探究』--私はこの本を『哲学探究』ではなく『哲学的探究』と呼び続けてきたので、ここでも私なりの言い方を踏襲します--は、「思考が一つの主題から別の主題へと自然に切れ目なく進む」(序)ようになっています。複雑で絡み合った主題群について書く際には、これがよい方法かと思いますが、私のまとめは、ウィトゲンシュタインの立論を言語教育での論考に使うためですので、以下、この本の節の順番を若干入れ替えています。

 

さらに注意すべきは、私はウィトゲンシュタインが使った比喩を、よりわかりやすくするために、少し変えたりすらしています。ですから、下の記事に「概略」とあっても、それがウィトゲンシュタインの論説の忠実な要約とは決して考えないでください。ウィトゲンシュタインの議論に少しでも興味をもった方は必ず上の翻訳書や原著をご参照ください。

 

また、本来はこの後期ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』をきちんと理解するためには、彼自身も言うように前期の『論理哲学論考』--これも『論理的哲学的論考』と呼ぶべきなのかもしれませんがそれはさておき--をきちんと参照しなければなりません。しかし以下のまとめではその作業を怠っていることもご承知おきください。

 

ちなみに私がこれまでウィトゲンシュタインについてまとめた記事には以下のものがあります。

 

関連記事

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から

 https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード

https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

 

 

=>」の記号以降は、明らかな私の加筆(あるいは蛇足)です。ですが、上にも述べましたように、「=>」以前にも、私の補筆が多々含まれています。繰り返しますが、この記事のいかなる記述も、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の忠実な要約ではありませんので、お気をつけください。

 

 

 

 

古典的な言語観の批判

 

■ 古典的な言語観(第1節)

 

概略:言語の中の語 (Wörter / words) とは対象 (Gägenstande /objects) の名である。文とはそれらの語の結合である。すべての語には意味 (eine Bedeutung / a meaning) があり、それは語が表す対象である。しかし、古典的な言語観は名詞をもっぱら考えている

=> こういった古典的言語観は、英語学習で単語集の暗記(学習する英単語とその訳語の一対一対応暗記)を学習者にやらせる教師にも引き継がれている。その結果、学習者もことばを学ぶのはこういうものだと信じるようになる。

 

 

■ 学校で再生産される古典的な言語観(第7節)

 

概略:学校でも、教師が対象を指差すと学習者がその対象の名を発音する指導や、さらに教師がその名を手本として発音してそれを学習者が繰り返す指導がある。

 => 日本の英語教育(特に中学校)でもまさにこのような活動が見られるのは周知の通り。

 

 

■ 名詞以外の語についての古典的言語観(第14節)

 

概略:「名詞以外の語にも、名詞と同じように対象という意味がある」という主張をすることも不可能ではない。動詞や形容詞、はては前置詞や接続詞などにも、それらの語が指している「対象」があるというわけである。しかしそれは、「あらゆる道具は何かを変えるのに役立つ。例えばのこぎりは板の形を変形させ、ものさしは物の大きさに関するわたしたちの知識を変化させる」と主張するようなものだ。そのような理屈を立てることは確かに可能だが、そのような立論にはどのような利点があるのだろうか。実践上有益な利点があるとは思えない。

 

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=> 「名詞以外の語の意味も、その対象を指示することで示される」という考え方は、たとえば動詞の意味を、ある種の表象(図示記号での表現)で表し、その表象は神経細胞のレベルでも存在するはずだという主張にも見られる。このような意味観では、あらゆる語の意味は、神経細胞のレベルで一義的に特定できる物理学的(あるいは生理学的・生物学的)対象であるとなる。だが、神経科学では、一般に、ある概念を想起している人間が、常に特定の神経細胞単体や神経細胞の集まりを活性化させているわけではないことを示している。たとえば、自分のおばあさんを表象している特定の「おばあさん細胞」といった単一の細胞は存在しない。縮重・縮退 (degeneracy) と呼ばれる現象は、ニューロンのさまざまな組み合わせ (combinations) が同じ結果(outcome) を出しうることを示している。

もちろんある語の意味を、ある表象(図や記号での表現)で説明することはできる。しかし、それは後に述べるように、可能な説明の一つであり、ある種の困惑を抱えている人々のために最適なものとして考案され使用されるものに過ぎない(第29節、第87節)。そういった表象は、一つのモデルあるいは「比較の対象」(第131節)として捉えられるべきである。モデルは現実を単純化・歪曲化した表現であり、比較の対象は現実を理想化した表現である(例えば物差しが現実世界にはほとんど見られない直線や1センチといった特定の長さを理想的に表現しているように)。モデルも比較の対象も現実の忠実な表現ではない。

 

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Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

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■ 名詞についての古典的言語観(第28節)

 概略:名詞以外の語についてはともかくも、名詞については「これがXである」や「これをXと呼ぶ」という形で、対象を指差しながら「X」という語(名詞)を定義できる(直示的定義: hinweisende Definition / ostensive definition) と古典的言語観をもつ者は主張するかもしれない。しかし例えばドイツ語教師が赤ペンと黒ペンが書かれてある図を示して “zwei” と言ったとしても、 “zwei” は「2」ではなく「筆記用具」を意味すると解釈する学習者もいるかもしれない。直示的定義ですら、定義者の意図以外の解釈を許す可能性があることを忘れてはならない。

 => 上の例はそれほど説得力があるようには思えないかもしれないが、クワインの根源的翻訳やデイヴィッドソンの根源的解釈の立論は、説明を受けた者が定義者の意図とは異なる解釈をしてしまう可能性について述べている。もっとも定義者と説明を受ける者が、十分に生活を共にし、お互いの興味関心のあり方を知るようになればそのような誤解は少なくなると考えるのが常識的なところだろう。

 

Wikipedia: Radical translation

https://en.wikipedia.org/wiki/Radical_translation

Wikipedia: Radical interpretation

https://en.wikipedia.org/wiki/Radical_interpretation

授業用スライド

https://app.box.com/s/my02oalacetso38t4vsz

二項対立の間でデイヴィドソンを考える

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「コミュニケーションの極から考える」(2001/8/3)および「コミュニケーションという革新」(2001/5/20)

https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay01.html

のページにあります。スクロールかCtrl+Fで探してください。

デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00027396

コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00028105

 

 

■ 名詞についての古典的言語観の続き(第29節)

 概略:「2」についての直示的定義を「この数が『2』だ」と「数」という語を補って行えば、たしかに誤解の可能性は低くなるだろう。しかし今度は「数」という対象をどのように直示的に定義するかという問題が生じてくる。私たちは「すべての名詞の対象は直示的定義をすることができる」という考えをそろそろ捨て去るべきではないだろうか。

 => 「これがXである」という直示的定義は、たしかに語の定義や説明のプロトタイプ(典型例)として私たちが考えるものかもしれない。だが当然のことながら、プロトタイプをすべての事例に当てはまると考えるのは間違いである(日本人の多くが雀を鳥のプロトタイプと考えたとしても、雀がもつ特徴をダチョウやペンギンを含めたすべての鳥が有しているわけではない)。直示的定義がすべての語について可能であると主張することについては、「『X』の語の意味は、この一定のニューロン群の活性化である」という主張も含めて、私たちは懐疑的になるべきではないだろうか。

  

■ 説明は、説明を受ける者やその時の状況次第である(第29節)

 概略:また重要なのは、上の「2」についての直示的定義で「数」という語を補ったことは、相手がどのような誤解をするかを定義者が推測できていたからこそだということに気づくことである。直示的定義に何か別の語を補うにせよ、どの語を補うかは、相手や状況次第である。どんな相手や状況でも補うべき語を想像することは容易ではないし、もしそのような語があったとしても、今度はその語をどのように直示的定義するかという問題が残ることは上で述べたとおりである。

 => 教師がしばしば経験することは、教師が完璧な定義と思う説明をしても、それを誤解する学習者は必ずといっていいほど存在することである。頭でっかちの教師は完璧な説明を目指すが、有能な教師は学習者の反応を日頃からよく観察し(というよりうまく引き出し)、学習者がどのような誤解をしやすいかを学ぶ。その上で、自分が担当する学習者のための説明を考案する。さらには、学習者仲間で話し合わせ、学習内容を理解した学習者が理解につまずいている仲間のために行う説明を促す。学習者仲間の説明は、教師による説明よりも有効であることは珍しくはないことは、『学び合い』の実践も伝えるとおりである。

 

関連記事

<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して

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■ 説明された語をどう使うかによって、その人が語をどのように理解しているかがわかる(第29節)

 概略:ある語について説明を受けた者が、その語を正しく理解しているかは、その人がその語の定義(あるいは対象の名)を再生できることだけではわからない。理解は、その人がその語をどのように使うかによってわかる。

 => 単語集や単語テストを偏愛する教師は、学習者がある英単語の日本語(もしくは英語による定義)を再生したり特定したりできたら、学習者はその語を理解(あるいは獲得)できたものだとみなす。かくして学習者は長年にわたり単語テスト対策の勉強を続ける。優等生は単語テストで高得点を取り続けるが、その優等生ですらその単語をスピーキングやライティングで使うことができないことは珍しくはない。それどころか、リーディングやリスニングでも暗記した訳語(あるいは定義)に引きずられるあまりその語の意味を誤解し、正しくその語が使われている文の意味を理解できない場合もある。

 おそらく単語テストを学習者に与え続ける教師も、単語テストだけでは語の理解や獲得は正しく評価することはできないことを知っているのだろう(この場合の「正しく評価」とは、その語を使えるかどうかを評価できるかということである)。ただ単語テスト以外に学習者を簡単に管理できる方法がないから単語テストを続けているだけなのかもしれない(ここには「教育とは学習者の管理である」という考えが隠れているが、この根強い偏見についてはここではこれ以上述べない)。しかし、こういった教師は、自らの「教育的指導」が学習者にどのような長期的影響を与えているのかを重々に理解するべきでる。

  

■ その語がどのような役割を果たしているかをすでに理解している者には直示的定義が成功する(第30-31節)

 概略:例えば、「これがオーディオインターフェイスだよ」という直示的定義が何らかの有用性をもつのは、「オーディオインターフェイス」とは音楽再生のために使われる機器の一つであり、入力機器と出力機器をつなぐ役割を担っている、などの理解をもっている人だけだろう。そのような理解をもっていない人は、いくら説明者が機器を(必要ならば何種類もの機器を)正しく指差しながら、「これがオーディオインターフェイスだよ」と直示的定義を繰り返しても、その語について理解を深めることはできない。

 => 「 “take” は『取る』だよ」と、 “take” の意味とされる「取る」という対象を学習者に直示的定義し続ける教師(あるいは単語集や単語テスト)は、「取る」という日本語が “take” という語の役割を十分に説明すると想定している。だが「取る」は“take” の役割のごく一部を説明するだけである。ここでもプロトタイプをすべての事例に当てはめる間違い(ステレオタイプの過剰な一般化)が見られる。だが、ひょっとしたら英語に教科書と問題集でしか接しないごく一部の英語教師は、訳語の提示はそれほど悪くないと思っているのかもしれない。

 

 

■ 意味の使用説の提示(第43説)

 概略:たしかにある語の「意味」を、その語が指し示している対象として説明することが可能な場合はある。しかし、大多数の場合においては、語の意味は、その語がその言語の中でどのように使われているかによって説明できる (die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache. / the meaning of a word is its use in the language) と言うべきであろう。

 => 意味をある対象に求める静態的な意味観から、意味はその語がどのように使われているかを理解するという動態的な意味観へ転換することは、大転換である。意味を、たとえば訳語や定義(あるいは意味の心的モデルや神経学的実体)といった確固たる実体ではなく、「ああ、この文ではこのように使われている」、「この文ではこのような役割を果たしているのだ」といったとらえどころがなく、いつ終わるともしれない過程に求めることだからである。この転換は、意味理解のカテゴリーが変わる大きな認識論的な変化であり、古典的言語観に囚われている者にとっては容易なことではない。

 

関連論文

柳瀬陽介 (2018) 「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論英語教育における意味の矮小化に抗して

https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53

 

 

  

言語ゲーム論

 

■ 語が標準化されて認識されるところに混乱の源がある(第11節)

 概略:語は、語りの中の音声で使われている時でも、手書きの文字で使われている時でも、広範囲に配布される印刷物の中の活字で使われている時も、「それらはそもそも同一の語だろう」という考えから、まったく同じものとして扱われることが多い。語の使われ方が、とらえどころがなく流動的なので私たちの認識からこぼれ落ちがちであり、語の使用の代わりに、語の形ばかりが(私たちの頭の中で理想化・標準化されて)語の特徴として認識される。

 => ウィトゲンシュタインは、とりわけ哲学者が、さまざまに使われている語をおしなべて一様に認識してしまうと述べているが、この認識は言語学者や言語教師も共有していると言うべきだろう。言語学者や言語教師の多くは、音声も手書き文字も、あたかもすべて活字に変換して認識しているようである。これらの「学識者」は言語の周囲や前後を取り巻く非言語的な要素を見事なほどに見落とすことによって、自分たちの研究や指導を成立させている。だがそういった偏った認識を克服することが、古くて新しい問題なのではないだろうか。

 

 

■ 「言語ゲーム」という用語の導入(第7節)

 概略:ことばと、それと折り合わされている活動の総体を「言語ゲーム」 (Sprachspiele / language-games) と呼ぶこととしよう。

 =>この表現を、「言語ゲーム」という語の意味を十全に伝える「定義」(という対象)とみなすことは、これまでの議論を否定することである。私たちはウィトゲンシュタインが、この語をどう使うか、そしてその使用によってわたしたちの認識がどう変わるかということを観察し、その結果、この「言語ゲーム」という用語を使うことが有用だと考えるならばこの語を自らも使うべきだろうそうやってこの語を使うことが、この語の「意味」である。

  ここで第120節の比喩を先取りして導入するなら、「ことばとその意味の関係は、お金とその効用の関係に似ている」となる。「お金」(例えば1万円)の意味は、「1万円で買えるある特定の商品」だけではなく、「1万円がなしうることすべて」--さまざまな商品を買ったり、商品でないものを譲ってもらったり、他人を祝ったり侮辱したりするなどのすべてのこと--と考えた方がいいだろう。ここで「すべてのこと」とは何かという問いが生じるかもしれないが、その問いについては後で考察する。

 

 

■ 「言語ゲーム」の多様性(第23節)

 概略:「言語ゲーム」とは、言語を使うことが、ある活動もしくは暮らし方・生き方の一部であること (das Sprechen der Sprache ein Teil ist einer Tätigkeit, oder einer Lebenfrom / The speaking of language is part of an activity, or a form of life) を強調するために用いる用語である。次のような言語の使い方、およびそこから想起される人間の営みを思い起こしてみよう。 

命令、観察、測定、記述、報告、推測、仮設、検証、図説、創作、朗読、演劇、歌唱、謎解き、冗談、小話、問題解決、翻訳、依頼、感謝、呪い、挨拶、祈り、などなど。

 この言語ゲームの多様性は、『論理哲学論考』を執筆し「命題(文)の一般形式」を考えていた頃のウィトゲンシュタインのような論理学者の言語観や、平叙文・疑問文・命令文の分類だけでよしとする言語学者の言語観にはまったく見られないものである。

=>言語ゲームの例示には、念のために「などなど」という表現をつけるべきであろう。それが後に述べる「親族的類似性(家族的類似性)」が強調することである。

また、多様性を見ようとするか、還元的な単純性を見ようとするかは、相反するともいってもよい認識スタイルの違いである。ある生物学者は、森を散策しながら木や葉や花の形態および色彩の多様性を愛でるかもしれないが、別の生物学者はこれらがすべて塩基配列の所産であることに改めて驚嘆するであろう。多様性を見ようとする認識と一元的な要素を見ようとする認識の、どちらも貴重なものであり、一律的な優劣をつけるべきではないだろう。だが、ある目的のためには、どちらの認識が有用であるかという判断は可能であるし時に必要でもあるだろう。

 

 

■ 本質的特徴でなく類似性によって「言語ゲーム」ひいては「言語」という概念を捉える(第65節)

 概略:「言語ゲーム」という概念によってさまざまな言語の使用法が語られているが、この言語ゲーム論では「言語ゲームの本質」 (das Wesentliche des Sprachspiels / what is essential to a language-game) は語られていない。あらゆる言語ゲームに共通する要素が何であるかについて一向に触れようとしていない。ましてや「言語の本質」についてはまったく語られていない。これは「命題の一般形式」あるいは「言語の一般形式」を追求しようとした『論理哲学論考』とはまったく異なる態度である。

  しかし『哲学探究』でウィトゲンシュタインが示したのは、「さまざまな現象に共通するものがあるという理由で私たちはある特定の語を使うのではない」という考え方である。そうではなくて、「さまざまな現象は、相互にいろいろと異なった仕方で類似しているだけであり、私たちはその類似性 (Verwandschaft / affinity) ゆえに、ある特定の語を使っているのだ」というのが『哲学探究』でウィトゲンシュタインが示した考え方である。

 => ウィトゲンシュタインは例えば第18節で古い街並みがどんどんと拡張されて新しい都市となってゆく例を挙げたり、第23節や第68節で数の概念の広がりの例を挙げたりして、この類似性によるつながりを説明している。だが進化によりさまざまな形態をもつようになった種の例を挙げる方がわかりやすいかもしれない。ダーウィンに基づくとされる “population thinking” については下の論説でも触れたが、進化論がもたらした認識の変化について少しはきちんと勉強しなくてはと思い続け、一向に勉強が進んでいない。

 

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 別の角度から補うと、第14節に出てきた「すべての道具は何かを変形するのに役立つ」といった論法で、すべての現象に共通な要素を説明することもできるだろう。ウィトゲンシュタインもその可能性は否定しない。私も「名詞にゼロ冠詞が付いている」といった小理屈を立てて説明することもある。そういった説明法の方がすっきりする場合もあるからだ。

  そうなると大切なのは、ある語が示すすべての現象に共通なものがあるかないかということで論争を始めるのではなく、どちらの認識で物事を捉えたほうが有益だろうかというpragmaticな態度ではないだろうかというのが私の解釈である。とはいえ、私は常々pragmatistでありたいと願っているので、pragmaticな認識を重視する傾向がある。私の解釈はその傾向ゆえの偏見かもしれない。

 

 

■ 「考えるな、見よ!」 (denk nicht, sondern schau! / don’t think, but look!) (第66節)

 概略:ある語の意味を考える時、「何か共通なものがあるに違いない。さもなければ、同じ語(例えば「ゲーム」)を適用するはずがないから」 (Es muß ihnen etwas gemeinsam sein, sonst heißen sie nicht ‘Spiele’ / They must have something in common, or they would not be called ‘games’ )という先入観で考えてはならない。考える前に、見ること、観察することが大切である。複雑な網の目のように互いに重なり交差しているさまざまな類似性、大小さまざまな規模での類似性をまずは見なければならない。

 => 観察しているうちに、ある1つの類似性が見えてきたり、それとは別の種類の類似性が見えてきたりするかもしれない。(私は実際、そのようにして英単語の意味を指導している)。その結果、複数の類似性をさらにまとめるいわば高次の類似性が見いだせればその類似性についても言及してもいいかもしれない。しかし大切なのは、まずは観察して、それを記述することから始めることであり、最初から理論を構築しようとしないことである。

 

 

■ 「家族的類似性」(第67節)

 概略:このような類似性をウィトゲンシュタインは「家族的類似性」 (Familienähnlichkeiten/ family resemblances) と呼ぶ。ある一族の人たち -- そこには当然夫婦のようにそもそもの血統がまったく異なる人たちも含まれる--が、さまざまな種類の類似性をもちながら「ファミリー(親族)」を形成している様子を思い起こすことが、この類似性を理解することに役立つからだ。

  他のたとえを使うなら、長い一本の糸を考えてもよい。糸は多くの繊維が重なり合うことにより成立しているが、長い糸の最初から最後まで貫いている繊維はない。

 => いろんな折に言っているので、ここでは長く繰り返さないが、核家族を連想させる「家族」という用語よりも、大家族を連想させる「親族」という訳語を使って「親族的類似性」と呼んだ方がいいのではないかと私は思っている。

 

 

■ 概念は、必ずしも下位概念の論理和というわけではない。はっきりとした境界をもたない概念も多いからだ(第68節)

 概略:言語ゲームや家族的類似性の説明を受けても、論理や概念の明晰性を保とうとして、概念はその概念を構成するすべての下位概念を足したもの (die logische Summe jener einzelnen mit einander verwandten Begriffe / the logical some of those individual interrelated concepts) であると主張したがる人もいるかもしれない。しかし、多くの概念には明確な境界があるわけではない。ウィトゲンシュタインが言うように「数」の境界もはっきりしているわけでもない。さらに補うなら「生命」や「知性」にも明確な概念境界はない。

  もちろん、ある概念を明確に区切ろうとして、境界を引くことはできる。だが、境界を引く以前に、私たちは問題なくその概念を使っていたことは忘れないでほしい。

 => 単純に概念を下位概念の論理和とすることはできないという反論には、上の反論以外にも、下位概念が相互排他的でなく相互に重なり合っているの論理和とすることもできないとか、別の区分で下位概念を設定したりすることもできるのでそうそう単純には考えられないとかいうものもあるだろう。

  また、新たに概念に境界線を引くことは、「この論文では○○の概念を△△と定義し、XXといった事例は考えないことする」といった例でも見ることができる。そうでもしないと、所定のページで簡潔に議論をすることができないからだ。だが、そうやって境界を定められた概念こそが真の概念だなどと思い違いをしてはならない。

 

 

■ 私たちは例示によって説明をする(第71節)

 概略:私たちは何かの概念を説明する時に、さまざまな事例をあげて、「このような意味なのだ」と説明する。この説明によって、説明者は、説明者自身が言語化できない共通要素を学習者が何らかの神秘的な方法で獲得してほしいと願っているのではない。説明者は、さまざまな例を示すことによって、学習者もその概念をそれらの例の類似性によって示されたように使うようになってほしいと願っているだけである。複数の例を示すことは、よりよい手段がないから仕方なく用いる間接的な手段ではない。どのような一般的な説明であっても、誤解される可能性があることを忘れてはならない(第28-31節も参照のこと)。

 => もちろん説明者は複数の例を出した後に、「これらの例が示すように、○○のような意味が、この概念の意味なのだ」と「○○」という総括表現を補うかもしれない。だが、この「○○」を、それ単体で定義となる説明であると考えてはならない。この「○○」は、示された特定例や、説明者の意図あるいは学習者のそれまでの理解などのさまざまな文脈的な要素に組み込まれた上で意味をなす説明である。「○○」は、ポラニーの用語の「伝承」 (maxims) に似ているかもしれない。伝承を覚えるだけでは(説明された概念を使いこなすという)技芸を獲得することはできない。伝承は、技芸の実践的知識の中で統合されなければ役に立たない。

 

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■ 例示による説明で、説明者の知識は十分に表現されている(第75節)

 概略:ある説明者が、ある概念の例を複数示し、そこからのアナロジーで他にどのような例が考えられるか、また逆にどのような例は考えられないかを示したりしたら、その説明者の知識は十分に示されたと言ってよいのではないか。

 => もちろん、その説明者も、学習者が予想もしなかった誤用を示すと「いやいや、そんな例は考えていなかったけれど、そのような使い方はしない」と説明を更新するだろう。また別の文脈にいる別の学習者には、別の説明をするかもしれない。しかし、それらの説明はその説明者にとってのその時々での最善の説明というべきであろう。もちろん、後で「あの例も付け加えるべきだった」と後悔することもあるだろうから、それらの説明は「その時々の」最善の説明であるにすぎない。だから、矛盾表現になってしまうが、次の瞬間には「その最善よりもさらによい説明」が出てくるかもしれない。とはいえ、それらの説明は、複数の例と、「これらの例が示すように○○のような」といった文脈に依存した総括しかないからといって不完全な説明と非難されるべきではない。このような説明を「不完全」と断じる人は、すべての事例に共通し、その説明だけで概念が必要十分に定義できる説明を求めているのかもしれないが、人工的に新たに作り、それ以上にその利用を拡張する予定がまったくない概念でもない限り、そのような説明は得られない。

 

 

■ たとえば「よい」ということばの意味を私たちはどのように学び、どのように使っているかを思い起こしてみよう。(第77節)

 概略:言語ゲームや家族的類似性の考え方をどうしても受け入れがたいのなら、例えば私たちが「よい」ということばの意味をどのように学んだか、そしてどのように使っているかを思い起こすといいだろう。

 => まさに「考えるな、見よ」(第66節)の例であろう。しかしウィトゲンシュタインにはこの表現を含め、魅力的な表現が多いので、それを乱用しないようにしないといけない。Bruce Lee“Don’t think. Feel.” という台詞は有名になりすぎて笑いのネタにされることもあるが、本来は非常に深いことばである。「考えるな、見よ」も同じように深い格言として慎重に使うべきだろう。

 

 

■ 「知っていること」と「語ること」は同じではない。(第78節)

 概略:「モンブランの高さは何メートルか」と問われて答える人の知っていることと語ることはほぼ同じかもしれないが、「クラリネットはどんな音がするのか」と問われた音楽家が語る言語と、その人がもっている知識はまったく異なる。(「『ゲーム』ということばはどのように使用されるか」と問われた人の答えと知識の例は、モンブランとクラリネットの例の中間にある例といえるだろう)。だが、しばしば人は、モンブランのような例だけでもって知識を考えようとする。

 => モンブランのような例しか考えない、あるいはそのような例のところで知識についての境界線を引いてしまおうとする人は、ポラニーの暗黙知についても否定するのだろうか?

 

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■ 想像できるすべての誤解を取り除くことを、説明に求めるべきではない(第87節)

 概略:説明 (eine Erklärung / an explanation)の働きとは、その説明がなければ生じてしまう誤解を取り除いたり、予防したりすることであり、想像しうるあらゆる誤解を取り除いたり、予防することなのではない。

 => 一方的に説明をして、それで学びそこねたら、それは学習者の責任と断じてしまう教師はともかく、丁寧に説明をしても学習者が多種多様な誤解をすることを知っている教師なら、このウィトゲンシュタインのことばは身にしみるだろう。多くの良心的な教師は、若いうちは「完全な説明」を求めて教材研究を重ねるが、学習者との交流を通じて、そのような執着から自由になって、学習者の学びを第一に考えるようになる。その結果、ある教師は、教師の説明は最小限に抑えるべきと考えるようにもなる。

 

 

 唯一無二の普遍的な「厳密さ」があるわけではない(第88節)

 概略:「厳密でない」ということばは、しばしば正当な批判のことばである。だが、「厳密さ」とは一律なものではなく、目的や状況次第である。家具職人に千分の一ミリ単位で注文を出さなければ厳密ではないというわけではない。

 => あることばを聞いた時に、そのことばには「本質」(共通要素)があるに違いないとか、「それは1つの意味しかもっていないに違いない」と私たちは考えがちである。私たちはさまざまな様態で使われている一つ一つの言語使用を、あたかも活字化し(第11節)、標準化さらには理想化してしまう癖をもっているからである。この癖に気づき、その癖から生じてくる難問は、実は解く必要のない問題にすぎないことを知ることが哲学の効用であり、以上の節に続く『哲学探究』の89-133節の重要なテーマである。

 

次の記事

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/89-133.html

 

 

柳瀬陽介 (2023) 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」『早稲田日本語教育学』第35号 pp.57-72

  この度、『早稲田日本語教育学』の第35号に、拙論 「「英語力」をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない─技術主導の問いから人間主導の問いへ─」 を掲載していただきました。同号は「人工知能知能時代の日本語教育」をテーマにしたのですが、それに伴い、日本語教育と英語...