2021/03/12

神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店

  

以下は、神田橋條治 (2011) 技を育む』 中山書店を読んで、私なりに印象に残ったところを再構成し文章化したものです。本書の記述を参照したところは、ページ番号で示しました。しかし、正確な引用になっていないところも多いですし、私の意見もけっこう入れています。ですから、神田橋先生の論考に興味をもった方は必ず原著を参照するようにお願いします。

 

ちなみに最近私が神田橋先生についてつくった「お勉強ノート」には以下のものがあります。

 

 

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以下の文章は、「技」、「出会い」、「専門的支援」という3つのテーマを柱として、それぞれに小項目をつける形でまとめています。

 

 

 

*****

 

 

「技」とは

 

■ 「技」は人格的に身体化されている

 

 実践者が優れた行いをした場合、私たちはその「技」を讃えますが、その技とは、Lisa Feldman Barrettが言うように、その実践者の多種多様の経験に裏づけられた数々の予測に基づく身体化されたものです。その技は、その実践者の経験の宝庫としての身体に基づくものであり、その身体が常に生起させている情動と感情に伴って生じるものです。

 

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情動や感情といっても、激しいものである必要ではありませんが、技は身体の中のざわめきから自ずと生じてくるものです。ある技の外面だけを真似しても、その技の根本にある情動や感情、理論的に言い換えるなら、これまでの経験に基づくさまざまな価値判断から生じる行動仮説が伴っていなかったら、その技は場違いなものであり、技の効果が適切に発揮することはないでしょう。

 

さらに身体は、個々人固有の歴史によって形成されたものなので、Michael Polanyiに倣ってそれは人格的 (personal) なものとも言えるでしょう。

 

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技は状況に適しているだけでなく、その場にいる実践者にとっても適しているものでなければ有効なものにはなりません。技は身体化されているだけでなく、人格化もされているのです。技は個人固有の歴史あってのものです。

 

さらに言うなら、ひょっとしたら技は個人が歴史を作る前から、その個々人に根ざしているとも言えるかもしれません。多くの優れた技能者が技の修練を目指す起点や動因は、自己実現つまり自己の潜在的可能性を発揮させようとすることだからです。それらの動機には才能の開花だけではなく、生来不得意なことを克服しようとすることも含まれています。 (p. 4) 

 

英語教育でも学習者を深い学びに導くさまざまな技がありますが、その技はその実践者の生き方を反映したものでもあります。もちろんその実践者が好き勝手に自己実現をはかっているのではありません。技の究極の目標は、目の前の人のために望ましい事態をもたらすことです。技は、その受益者と状況と目指す事態に即していなければなりません。しかしそれらに即する技は一つだけではありません。しばしば言われるように「同じ頂上に到達するにも複数の経路がある」わけです。それらのうち、どの経路を選ぶかは、実践者に依拠しています。この意味で、実践は普遍的な真理が一様に適用される科学ではなく、さまざまな個性がいろいろな偶発性の中で多様に展開するアートです。

 

このように技は次々に生まれ次々に姿を消しますが、姿を消した技も実践者の無意識の中に残っています。それは次に適した機会が生じたとき再び(ほとんどの場合は少し形を変えて)現れます。そのような無意識の財産が多くなると、実践者の意識は常に「空」のようになり、次々に状況に応じた技が新たに生まれるような感覚になります。 (p. 149) つまり、実践者は「次に何をするべきか」などと自分の心の内部に意識を向けることなく、状況の変化に注目しているうちに、その場に適した技が自然と出てくるわけです。その技は、その実践者のこれまでの経験に根ざしたものですが、それはその時々の状況に最適化されているため、新たなもののように感じられます。

 

このように技は、個々人の心身全体と溶け合っています。ですから、ある人の技を他人が同じようにやっているとイメージしていても、その成果は異なることはあります。(iii) 昔から「技は一代かぎり」と言いますが、たしかに他の人がある人の技を都合よく習得できるものではありません。

 

 

 

■ 「技」は固定的・永続的な存在物ではなく、状況的・瞬間的な出来事である。

 

これまで技を、ある人が自在に再現することができる個人の所有物のように語ってきました。しかし、私たちが「あの人の技はすごい」などと述べるときでも、その実践者は常に同じ技(同じ心身の状態から生じる同じ外的な動き)を出しているわけではありません。

 

技は、さまざまな関係性の中で生じるものですから、その時々の状況に適ったものであり、千変万化します。 (p. 7) ある英語教師がある英単語をうまく解説し例示する「技」にしても、その際の説明の言語・言い方・表情や身振り・例文・エピソード・まとめ方等などは、学習者のこれまでの学習履歴あるいはその時の理解度や集中度や反応等などによってさまざまに変化します。

 

しかしそのように細かな差異があるにせよ、実践者の技は似たような状況の中で繰り返し観察されると、「型」として抽象的に認識されます。ですから、私たちが通常「技」と呼んでいるのは、実は「型」のことです。 (p. 7) この「型」は「パターン」と呼び替えることもできるかもしれません。

 

ですから、ある実践を一度見ただけで、その「技」の本質を掴むためには、観察者に相当の力量が必要です。法隆寺を見て古の匠の技の凄さを見取るには、同等の技の力量が必要 (iii) なわけです。普通の人は、ある熟練者の「技」を何度も見ないと、そこに「型」(パターン)を見い出せません。いや、「型」を抽象化できない人も多いでしょう。

 

概念化された「型」は、同じような状況での数々の微妙に異なる技が繰り返し観察される中から形成された概念あるいはイメージです。それは口伝の対象となりますが、口頭で伝えられるのは抽象的な概念である以上、その伝承だけで技ができるようになるわけではないのは上掲のMichael Polanyiも言う通りです。

 

技は固定的・永続的な存在物ではなく、状況的・瞬間的な出来事である以上、それを定義してその定義だけからその技を再現することはできません。私たちができることは技を型として抽象的に理解し、その意味を個々人の心身で探究することだけです。その探究者の心身すなわち過去の経験記憶が、その技を行う実践者の心身と近ければ近いほど、その技(あるいは型)の伝承可能性は高くなるでしょう。これが、徒弟制が現代においても重要な理由です。

 

しかし技や型を墨守することが徒弟制の目的ではありません。芭蕉は「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と諭したそうです。(p. 195) これを、言い換えるなら、「先達の一つの技を追求しようとするのではなく、先達がその技を一例とするような型、あるいはその型で実現しようとしていた境地を探求せよ」となるのかもしれません。

 

 

 

 

「出会い」とは

 

■ ある対面が「出会い」となるとき

 

人と人が対面することは日常的な出来事ですが、それが「出会い」と呼びたくなるほどの事態になるには、ある種のきっかけが必要となります。神田橋先生はその豊かな臨床経験から、「出会い」はある者の未分化の感情と他の者の未整理の感情が即応した際に生じやすいと考えています。具体的に言うと、神田橋先生が患者に波長を合わせて対応していると、患者の生の感情がぶつけられ、考える暇もなしに即座に応えなければならず、自分の生身の感情が出ることがあるそうです。そうやって自分の心底が開かれた時に、患者との出会いが生じ、治療が進展することが多いと神田橋先生は自分の医療を総括しています。 (p. 57)

 

 

■ 発話の中で明晰に言語化できない部分を大切にする

 

「出会い」と呼べる事態はそうそう生じるものではないかもしれませんが、それでもより深い相互理解は求めたいものでしょう。そのために重要なことは、自分が語る時も他人の話を聞く時も、発話の中の、言い回しやイントネーションや間(ま)や方言の挿入といった非言語的部分に注意することです。書き言葉においても、漢字・カタカナ・ひらがなの使い分けや「て・に・を・は」、句読点、文末表現などに注意するべきです。そうすることで、さまざまな関係性がよくわかるようになります。だが、発話の非言語的な側面の中でももっとも大切なのは声の質です。 (pp. 61-62) 

 

ちなみに私はこの箇所を読んで田尻悟郎先生のことを思い出しました(もっとも神田橋先生の著作を読んでいると、しょっちゅう田尻先生のさまざまなエピソードが私の中に蘇ってくるのですが)。私にとって、田尻先生を始めとした多くの優れた現場教師の授業を見せていただき、話を聞くことができたのは、職業生活最大の幸福の一つです。私が「教育」ということばに誇りと信頼を保てているのは、このような出会いがあったからです。

 

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■ 声を意識することで自他の身体のあり方に敏感になる

 

情動・感情レベルでの相互理解を求めて自ら発声の工夫を続けていると、相手の声の変化に対する感受性が高まります。そうなると、声を聞いただけで相手の体調を感知したり背後状況を推測したりする能力が高まります。 (p. 65)

 

ちなみに、音声はからだの一部であり固有の声はその人の身体を離れることができませんが、文字(特に活字)にはそのような身体的制約がありません。ですから、文字・活字は人の身体を離れて自在に拡散します。拡散された文字・活字が暴走し、それがある人のからだの中で、再び音声のようにしてこだまするようになると、その人はしばしば病んでしまいます。 (p. 89)

 

私たちはもっと音声に対する感性を高めて、それがある人の心底からくる肉声かどうかを一瞬で見極める技能を高めるべきでしょう。あることばが、いくらある人の口から音声化され、それが記録されて文字化・活字化されたとしても、そのことばがもともと真正のことばでなければ、そのことばの意味は十全なものと考えるべきではありません。論理実証主義者なら卒倒しそうなぐらいに主観性を伴う人格的な判断です。しかし、活字の世界だけで生きているような論文生産者や官僚主義者でもなければ、そのような判断は人間が古今東西行ってきていることです。そんな「当たり前」の知恵を正当に再評価しなければ、言語教育が培うことばの力も暴走してしまいかねません。自他の情動・感情の動きに蓋をして、非人格的に仕事を進めるばかりの論文生産者や官僚主義者が書く文書に、言語教育のあり方を委ねてしまうことは危険です。私たちは、もっと現場で出てくる「生の声」に耳を傾ける文化を取り戻すべきです。

 

 

 

 

「専門的支援」とは

 

■ 専門知は素朴な知恵を払拭できる完全な知ではない

 

医療従事者にせよ学校教諭にせよ支援者は、学校でそれぞれの専門知を学び現場に立ちます。しかし、自分が学んだ専門知が、人間としての素朴な知恵の完全な代わりとなるような知であるなどと誤解してはいけません。支援者は、特に初心者のうちは、まずは素の人間として共感し助言するべきです。そこで限界を感じた時に、専門知識を参照しはじめるぐらいでいいのではないでしょうか。 (p. 76)

 

専門知は完全なものではないということから、神田橋先生は、相反する考えを保ち続け相互干渉させる葛藤こそが理想的なこころのありようだと考えるようになりました。「正・反・合」 の合を終点とせずに、それを新たな正としてそれに対する反を求めるようになりました。また、反とまではいわないものの、よく似ているがわずかに異なる表現を加えることで、合/正に膠着しないようにもしているそうです。 (p. 69)

 

今さら言うまでもないことですが、複数の人々が絡み、複合的な事象については、多様な見解を大切にし、多くの人の声を聞くべきです。たとえ当座、一つの結論を得てそれを行動指針にするにせよ、その結論とは微妙にあるいはかなり異なる複数の意見を常に頭の片隅に置いておき、状況に柔軟に対応できるようにするべきです。それが民主主義的文化の利点の一つでしょう。ちなみに、私は最近、民主主義を教条・政治原理というよりは歴史を通じて人類が得てきた素朴な知恵として捉えるようになっています。

 

 

 実践者の物語の中に部分的な科学知を取り込む

 

優れた実践者は、学校で学ぶ専門知の体系に忠実に思考し行動を決定しているわけではありません。そのような思考・行動をすれば、早晩、現場はひどいことになるでしょう。もっともそのような理論崇拝者の中には、「正しい措置をしたのにうまく行かないこの現場は、ひどいものだ」と責任を現場に押し付ける者もいますが・・・。

 

実践者は、理論体系ではなく、自分で納得できる物語に支えられています。この場合の物語とは、さまざまな出来事を関連付け、それがどのように動いてゆくかについての全体的な見通しを与える語りのことだとここでは私なりに説明しておきます。物語は意識に上らないこともありますが、実践者はその物語に即して次の行動を選んでいることが多いわけです。 (p. 83)

 

科学としての医学と現場実践としての医療の2つについて対比的に考えてみましょう。自然科学が発展する前の医学の知は医療の現場から得られたものだったのでしょう。しかし、今では医学の知は医療の現場に下ろして適用するべきものとなり、医学と医療の間の方向性が変わってしまっています。ですが、医学の知は医療の現場では必ずしもそのままの形で常に役立つわけではありません。なぜなら正確さを求め、単純化した条件得られる医学研究の知は、複雑系・複合系の極みである人間の治療につなぐことが難しいからです。 (p. 111)

 

 

■ 「治療学」や「授業学」は理論ではなく物語の形を取るだろう

 

それでは医学に代わる医療学あるいは治療学を新たに作ったとしても、医学研究のような形での論文は書けないはずです。治療学でまとめられる知見は複雑・複合的な場に関する知なので、原理・原則(あるいは主義・主張)の域を超えることはないでしょう。 (p. 112)

 

同じように、複数の異なる人間が多くの流動的な要因から構成される複合的な世界で相互作用をする授業について「授業学」という学問を作ったとしても、それを古典的な論理実証主義の様式で発展させようとすれば、そこには必ず嘘が入り、また新たな虚学の体系ができるだけでしょう。もし「授業学」を作るとしたら、それは理論の完成や結果の普遍性を求めるようなものではなく、ある事象の具体的な検討から始まり、そこから少しずつ実践のための指針(原理・原則)を求めるものとなるべきでしょう。

 

ちなみに私は『英語授業学の最前線』という本に、「当事者の現実を反映する研究のために

―複合性・複数性・意味・力の獲得―」という論文を書かせてもらったことは、自分の研究生活において非常に重要なことの一つだと思い感謝しています。しかし、「授業学」という表現はあまり好きでないので、この本以外の媒体ではこの用語はほとんど使っていません。

 

実践のための原理・原則といっても、それがむやみやたらと並列されているだけでは、実践者も戸惑うばかりでしょう。実践の見通しを得るためには、典型的な事例ごとの全体像、つまりは物語・ストーリーが必要です。神田橋先生は、医学における EBM (Evidence-Based Medicine) は、細切れの知識を提示することで、従来の医療の物語を破壊してしまったが、批判されるべきはEBMの医学というよりは、現場の医療者の知的衰退かもしれないと述べています。「実践者は、医学の知を取り込んで、医療の物語を更新・改良するべきだ。それが現場の知というものだ」というのが神田橋先生の考え方です。 (p. 112)

 

英語教育研究においても私は、ある教授法の普遍的な有用性を立証するような実験研究ひいてはそれらの知見で「英語教育学」の体系を構築しようとする動きには興味がありません。私としては、下のような論考で、認知科学・言語学・哲学等などの基礎学問の知見をうまく統合できる物語、あるいは緩い意味での理論を作っているつもりです。

 

 

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