先日、たまたま以下の論文のことを知りました。
草薙邦広・鬼田崇作・ 亘理陽一 (2021)
「外国語教育研究の再現可能性 : 素朴な認識の拒絶と追求姿勢の擁護」
『広島外国語教育研究』24号 pp.179-195
珍しいことに、私の論文(下記参照)が引用されていたので(苦笑)読んでみました。
柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93.
https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83
柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 pp.11-20.
ここでは簡単にその感想を書きます。
この論文の主旨は、自然科学の再現可能性の規範が外国語教育研究でも同等に通用するという素朴な認識を拒絶すること、しかしながら同時に、再現可能性を追求することには一定の機能的価値があると、再現可能性規範の擁護をはかることです。
前半の素朴な認識の批判については、私も上記の論文などで述べていますし、この論文の主張に全面的に賛成します。ですから、ここでこの論点について改めて述べることはしません。
しかし外国語教育研究でも再現可能性規範を擁護するという議論に対してはそれほど説得力を感じませんでした。「擁護など、まったくのナンセンス」とは言いませんが、「それよりももっと優先してやるべきことがあるのでは?」と私は思ってしまいました(もっともこれは私が数量的な研究を基盤にしていないからなのかもしれませんが)。
本論は、擁護のための論点として8つを上げていますが、そのうち、次の2つには私はある程度の説得力を認めます。
柳瀬が同意する論点
(5) 再現可能性の追求は観察の質を上げる。
(8) 再現可能性の追求は可謬主義的姿勢を強化する。
要は、次々にいい加減な実験を新たに行うのではなく、それなりに見込みのある実験の再現可能性を追求して追試を行うことにより、「未知パラミタ、または潜在的パラミタ」 (p. 187) を探索するようになり(5)、実験結果を問い直す批判的な文化が活性化する (8) ということだと私は理解しました。
しかし他の6つの論点については、研究者寄りの問題意識から生じているものであり、「外国語教育研究の最終的な目的」 の観点からは優先順位が低いものだと私は考えています。
「外国語教育研究の最終的な目的」についてこの論文は次のように述べています。
外国語教育研究の最終的な目的は、メカニズムの解明や科学的命題の判定自体ではなく、よりよい教育実践や教育政策を実現し、個人および社会の効用を最大化させることであると考える。 (p. 186)
しかし以下の6つの論点は、私が太字化した箇所や【 】で補った箇所に示されているように、研究者同士の業界の利益ばかりを優先しているように思えます。(後に述べますように、私は外国語教育研究などの臨床的な分野の研究者は、もっと実践を観察し実践者のことばを拾い上げそれを整理するべきだと考えています)。
関連記事
石井英真(編著) (2021) 『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社
柳瀬があまり説得力を認めない論点
(1) 再現性可能性の追求は研究者間の綿密なコミュニケーションを要求する【だがそのコミュニケーションは、実践者を遠ざけるかもしれない】
(2) 再現性可能性の追求は【関係者しか読もうとしない】研究をより【他の研究者にとって】オープンなものに変える【だがそれでも現場教師は研究論文を読もうとはしない】
(3) 再現可能性の追求は専門用語の精選を加速させる【だがその専門用語を実践者が使うことはない】
(4) 再現可能性の追求は【実験・調査の】手続きの規格化・標準化をうながす【だがそのような実験・調査は、実践者が現場で行う探究とますます異なってくる】
(6) 【学位論文に追試研究を認めることによる】再現性可能性の追求は【論文生産者としての研究者の】人材育成を効率化する【だが研究者と実践者の間の溝はますます広がり深まる】
(7) 再現性可能性の追求は構成概念の時間内変化を防ぐ【だが、自然科学概念と異なり、社会的な構成概念は社会の変化とともに変わってゆくものである】
私は最近、精神科医の神田橋條治先生の実践論に非常に説得力を感じていますから、ここでも神田橋先生の論を借ります。神田橋先生によりますと実践的分野の関係者がもちいることばには次の3つがあります。(上の石井先生の著作についての記事でも私は同じような議論をしています)
実践分野での3種類のことば
(a) 教師が学習者の学びを支援するするために使うことば
(b) 教師が自らの指導方針を策定するために自己省察の中で使うことば
(c) 研究者が、研究者間の相互理解を厳密にするために使う(業界での)共通用語
関連記事
『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html
神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html
神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html
神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店
ここで本論の上記の6つの論点が述べているのは、 (c) の業界内での共通用語のみであることは誰もお気づきになられると思います。
ですが私や、上記ブログ記事での石井先生などは、むしろ (a) や (b) の現場教師のことばに注目すべきだと考えています。それらのことばは実際に授業の成立や学習者の成長という現実を構成する力となっているからです。
ですから、私などは上の6つの論点などを見ても、「そんな研究者の業界だけの利益を考えるよりも、研究者はもっと現場の教師や子どもをよく知るべきではないのか」と思うわけです。あるいは、学校訪問があまりできない環境にある研究者は、自分で教えている(英語の)授業をよく自己観察し、自己省察をするべきではないかと考えるわけです。
しかし、英語教育研究の業界では、英語圏で流行の用語や心理学などの「親学問」(としばしば呼ばれる領域)の専門用語をもっぱら一方的に借用し、それを業界内で流用させます。
私の知る限り、それを上の (b) ましてや (a) に翻訳させようとする動き、あるいは (a) や (b) のことばとそれらの専門用語の間の接点を見出そうとす動きはほとんどありません。そういった専門用語はそれこそ「精選」させて、業界内では使いやすくしても、そういったことばばかり使うなら、研究者は、現場の教師や学習者とのコミュニケーションがますますできなくなるかと思います。
本論も言うように「量的研究や実証研究と呼ばれる種の研究」が「事実上の多数派」 (p. 180) となっている英語教育研究の業界で、私がそのような研究の限界を指摘し続けることは、友人や仲間を失うばかりなのですが(苦笑)、私は一応大学人の端くれである限りは、自分が正しいと考えることを主張し続けます(そしてその自分の確信を疑う目を失わないよう努めます)。
英語教育業界に対する私の率直な意見は、この業界の多数派がもっと教育の現場に注目し、そこを研究の基盤とすることです。
もちろん、たとえば心理学的手法を使う英語教育研究者が、だんだんと研究手法を洗練させて、もっぱら心理学者の業界ばかりで活躍するようになり、自他ともに認める心理学者になるといったキャリア設計も、もちろん私は認めます。
ですが、私としては多くの英語教育の研究者が、もっと素直に学びの現場に向かうことを自分の基盤とすることを願っています。それが他人の学びの現場であれ、自分の教える現場であれ。