石井英真(編著)『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社を拾い読みではありますが、ようやく読む機会を得ました。従来の「教育学者」的な硬い文章のイメージから自由に、それぞれの著者が、率直に自らの学問の状況と教育の現実を比較して考察した本だと感じました。本の体裁やフォントの使い方などからも著者の意欲を感じることができます。
■ 英語教育における「コミュニケーション」
亘理陽一先生の「外国語コミュニケーション」 (pp. 178-198) の主張は明解です。「コミュニケーション能力(の伸長)をスタンダード化しようとすればするほど、コミュニケーションがもつべき最も重要な特性が失われる」 (p.189) というものです。なぜなら、コミュニケーションは自分とは異なる他者(相手)があってはじめて成立するものであり、それゆえコミュニケーションの多くの部分は偶発的 (contingent) な性格をもつからです。 (pp.188-189)
この論点は、榎本剛士先生などのコミュニケーション論に重なってきます。
関連記事:
仲潔 (2021) 「英語教授法をめぐる言説に内在する権力性」、榎本剛士 (2021) 「対抗するための言葉としての「コミュニケーション」」
私としては、これまで手放しで礼賛されるか、英語教育の軽薄化の象徴として嘲笑されるか、のどちらかに偏りがちだった「コミュニケーション」という概念に、このように光が当たり始めたことをとても嬉しく思っています。
亘理先生は、実際のコミュニケーションとは似つかない各種の外国語活動について、次のようにまとめます。
「誤りなく、成功しかない、予定調和的コミュニケーション」から離れられたときにはじめて、学校教育の一環としての外国語教育は、もっと言えば授業におけるコミュニケーションは、それに必要な能力の探究を次の段階へと進められる。 (p.195)
学校現場で「コミュニケーション」とされている出来事が、実は予定調和的で必ず成功に終わるようになっている出来事であるということ、非常に厳しい言い方をすれば儀式であり茶番であるということは、 もっと教育関係者の間で自覚されるべきでしょう(注)
■ 教師による「研究」
亘理先生が批判する「コミュニケーション」の対象は、英語授業の中の各種の「コミュニケーション活動」ですが、批判すべき「コミュニケーション」の対象を、教師が授業改善のためにおこなう授業研究にも向けてみれば、渡辺貴裕先生の「教師による「研究」」 (pp.147-171) の論考につながります。
現職教師が行う研究のほとんどは、「○○すれば、○○になるだろう」という仮説を、授業などを通じて検証するという形(「仮説-検証」図式)になっています。(p.149) しかしその仮説の定義は非常に曖昧で、その仮説を誰か他の人が試すことは想定されていないようですし、その仮説が研究で否定されることもまずありません。(pp. 152-154)
そんな「コミュニケーション」も、見るべき人が見れば滑稽なだけですが、問題は、多くの真面目な教師や指導主事が、そういった図式を採択しなければ、研究とならないと強く思い込んでいることです。(p.155)
もちろん「仮説-検証」という枠組み自体が間違っているわけではありません。むしろ、有能な現場教師は、日々の授業の中で、非常に細かな仮説を立てそれを検証するという営みを繰り返しています。ですが、その仮説は文脈に即した具体的なものであり、教師はその一般化には慎重です。優れた実践者は、そういった数多くの細かな実験から自分のレパートリーを増やしてゆきます。
関連記事:
「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The Reflective Practitioner" の第2章のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner-2.html
「専門職および専門職の社会における位置に関する発展的考察」 "The Reflective Practitioner"の第10章のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner10.html
ですが、現代日本で多く行われている授業研究は、そういった実践の中での小さな仮説-検証とは異なります。大きく曖昧すぎる仮説を、成立するかしないかを本気で確かめようとも今後活用しようともせずに、ただ研究会などのために行うものであることがほとんどです。
これは大きな時間と労力の無駄です。
私としては例えば次のような提案をして、現職教員の方々には、もっと実質的な研究をしていただきたいと思っています。現場で鍛えられている教師は、良心的で誠実で、(大学院的な研究法には親しんでいないとはいえ)現実対応能力においては極めて高い知性を有しているからです。
樫葉みつ子・柳瀬陽介 (2020) 「当事者研究から考える校内授業研究のあり方」
そういった意味で、この章は私の関心を引きました。
■ 「エビデンス」について
また杉田浩崇先生の「エビデンスに基づく教育」 (pp.231-256) という章もあります。私は以下のような論文を書いていますので、エビデンスに対しては全面賛成とは言えない態度をとっています。
柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93. https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83
柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 pp.11-20. https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11
また先日たまたま読んだ、東京大学理学部・理学研究科で物理学を学びそこで博士号も取った文部科学省官僚の方によるエッセイでは、エビデンスについてこれも両手を上げての賛成とは取れないような記述がありました。
近年はその中で、客観的に見て最適であり、より多くの人に納得してもらえるような政策立案を実現するために、Evidence-Based Policy Making(EBPM)が重要である、とさまざまな政策領域で主張されていますが、行政官がEBPMを実践するにあたっての確固たる根拠を得るには、まだまだ高いハードルがある、というのが現状だと思います。
「政策で科学を加速し、科学で政策を加速する〈アカデミアを離れてみたら〉」
■ 現場からのことばを大切にする
現場の知恵をもっと活かすという意味では、「座談会:いま一度、立ち止まり、語り合っておきたいこと」 (pp. 281-326) でのさまざまな発言は面白いものでした。私は特に石井英真先生の発言に共感しました。
石井先生は、そもそも「教育の世界で "ベストな制度がある" "明確な成功があるという前提自体を疑う必要がある」と語ります。 (p.285) 成果や成功の意味は、それぞれの子どもにとって・教師にとって・学校にとって異なりえますから、定義困難だからです。ですが、その不確実性の中で、教師には目の前の子どもの多様性に対応しながら、自分なりの追求を行う余地(=自律性)があります。(p. 295)
そういった日本の教師の自律性の核心には、「自分たちの実践を、教師自身の肌感覚に合った言葉を用いて語る」ことがあったとも石井先生は述べます。 「実践とそれを語る言葉はセットで、だからこそ、その語りは借り物でない真実性や説得力をもちえた」とも説きます。(p.305)
ことばは、学ぶ者の人格をかけて身体化されるものだというポラニーの論に説得力を感じる私としては、こういった指摘に共感します。
Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html
Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html
だからこそいたずらに流行を追い続けるのでもなく、反動的な復古主義に陥るのでもなく、「私たちの足元で起きているところに希望を見いだして、言葉を立ち上げていくことこそ重要」 (p.306) という石井先生の主張には私も全面的に賛成です。
ちなみに精神科医の神田橋條治先生は、臨床医・精神科医のことばを3つに分けています。 (1) 患者に治療について説明するためのことば、(2) 臨床医としての自分自身が治療方針を定めるために使うことば、(3) 精神科医が業界で情報共有するための共通言語、です。
『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html
神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html
神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html
神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店
これらの表現の「患者」を「学習者」に、「臨床医・精神科医」を「教師・教育学者」に置き換えることは可能だと私は考えています。
その翻訳を使って、私なりに英語教育界について語れば、次のようになります。--すぐれた現場教師は、学習者に語りかけることばを豊かにもっている。だが、そういったことばは、その人やその人が置かれた文脈に依存していることが多いので、なかなか他の文脈では伝わらなない。また、そういった優れた実践者の優先事項は実践であり、実践についての整理ではない。だから、自分自身で思考をまとめるためのことばは、ひょっとしたら子どもへのことばほど豊かではないかもしれない。他方、「英語教育学者」業界内の符丁(隠語)として使う専門用語は、それなりに多く、しかもきちんとした反省や総括なしに5-10年おきの流行の波で刷新されるから、数だけはある。だが、それらの専門用語が教師や学習者に実感を伴って理解されることはあまり多くない。--
教育学者はもっと現場のことばを大切にして、それを整理するべきではないでしょうか。業界用語を振り回して、それを使うことを現場教師に強要することはあまり効果がないようにも思えるからです。また、妙に真面目な教師が、一知半解で学術用語を誤用し、かつ、自らがもっているはずの実感の込もったことばを忘れてゆくのを見るのは辛いものです。
こうしてみると、現場教師の知恵をさらに活かすために、研究者がやるべきことはたくさんあるように思えます。現場で出てきたことばを、基礎科学的な知見で限定的に補強しながら、少しずつ整理してゆくことが、実践研究の1つのあり方ではないでしょうか。(参考: 『英語授業学の最前線』)
(注)
教育関係者の間でもっと共有すべき認識の1つは、現在の「評価」が、「全てを個体の能力に帰属させる能力観」に基づいていることです。 (p.191)
私は亘理先生が参考文献で示した以下の2つの文献をまだ読んでいません。
石黒広昭 (1998) 「心理学を実践から遠ざけるもの:個体能力主義の興隆と破綻」 佐伯胖・佐藤学・宮崎清孝・石黒広昭(編)『心理学と教育実践の間で』 (103-156ページ)東京大学出版会
山口毅 (2014) 「第3報告・教育に期待してはいけない」廣田照幸・宮寺晃夫(編)『教育システムと社会:その理論的検討』 (46-60ページ)世識書房
ですが、こういった個人への能力帰属は、下に掲げた研究などでも批判されていることですから、今後も勉強を続けてゆきたいと思います。
國分功一郎・熊谷晋一郎 (2019) 『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』(新曜社)を読んで:「英語が話せる」ことや「やる気が出ない」ことなどについて
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2019.html
國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)