2020/09/24

「専門職および専門職の社会における位置に関する発展的考察」 "The Reflective Practitioner"の第10章のまとめ


この記事は、前の記事の続きで、Donald Schön (1983) The Reflective Practitioner: How Professionals Think In Action (Basic Books) のまとめである第10章 "Implications for the Professions and Their Place in Society"を私なりにまとめたものです。翻訳書である『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』(佐藤学・秋田喜代美訳、2001年、ゆみる出版)も参考にしましたが、下の要約および翻訳の日本語は基本的に私が日本語としてのわかりやすさを優先して翻訳しました。補記は私の蛇足です。


■ 省察を欠いた批判では有効ではない

要約:工学的合理性に基づく専門職の知識についての神話を解体しようとする動きがある。しかし、省察を欠いた実践者は、自分たちを専門職と名乗ろうが反-専門職 (counterprofessionals)と名乗ろうが、工学的合理性の専門職と同様に、限られた機能しかもたず、破壊的ですらある (limited and destructive)。 (pp. 289-290)

補記:実践の観点からの工学的合理性への批判は重要ですが、その批判が直情的で単純なものでしたら、それは破壊的になり、その反動から生まれたものは、大したものを生み出さず、残るのは工学的合理性すらも失った私たちだけとなるでしょう。

しばしば言われることですが、質的研究法を選ぶ者も、一度は量的研究法についてきちんと学び、その効用と限界をきちんと知るべきでしょう。同様に、実践の認識論を選ぶ者も、一度は工学的合理性について学ぶべきです。そして、そこから実践の認識論としての厳密性を探究すべきというのは、前の記事の末尾で述べたことです。

関連記事:

「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The Reflective Practitioner" の第2章のまとめ

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■ 批判が組織化されてしまうと、批判運動が管理的で非省察的になることがある。

要約:専門職の過剰な管理 (excessive professional control) から実践者の権利を守ることを主張する者 (advocate) が、その運動を組織化する時、その組織的で敵対的な動き自体が、管理的 (controlling) で非省察的 (unreflective) になる恐れがある。

補記:これも世間ではよくあることで、最初は周辺的な批判勢力であった者が勢いを増すと、自らの体制を作り始め、権力的になり、その体制に歯向かう者を抑圧したりしてしまいます。私たちは自らの権力性に対して自覚するべきでしょう。権力は誰もが抗しがたい魅惑であり落とし穴といえるかもしれません。


■ 省察的実践者は、クライアントと省察的会話を行う

翻訳:省察的実践 (reflective practice) が、状況との省察的会話 (a reflective conversation with the situation) を行うという形を取るように、省察的実践者がクライアントに対して取る関係は、省察的会話という形を文字どおりに取る。専門職は、自分の工学的専門知 (technical expertise) は、意味の文脈 (a context of meaning) に埋め込まれていることを認識している。専門職は、クライアントに対しても自分自身に対しても、意味すること、知ること、そして計画を立てることの能力 (a capacity to mean, know, and plan) を認める。 (p. 295)

補記:英語教育でしたら、省察的実践者・省察的研究者のクライアントとは、問題を抱えて悩んでいる教師だったり学習者だったりするでしょう。そういった「当事者」とどう会話をするかについては、下のカウンセリングからも、さらに下にリストを挙げています当事者研究やオープンダイアローグからも大いに学ぶべきでしょう。その際にそれぞれのアプローチの異同に注目すべきなのは言うまでもありませせん。

関連記事:

「英語教育の哲学的探究2」でカウンセリングについて扱った記事

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■ 省察的実践者の専門的技能は、現実の再構成能力であり、クライアントの意味を探究することでもある

要約:省察的実践者の専門的技能は、ある事象は、かつてはこのように構成された (constructed) ものではあるが、別用にも構成する (reconstructed) こともできるとみなすことができることである。また、クライアントの経験の中での意味を探究する準備と能力が整っていることでもある (both readiness and competence to explore its meaning in the experience of the client)。省察的実践家は、クライアントとの省察的会話を通じて、自らの専門的技能の限界を発見する。 (p. 296)

補記:要は、省察的実践者とは、事象が社会的に構成されたことであることを熟知し、必要に応じて別の事象構成も提示できなくてはならない。また、クライアントの意味世界を共感的に理解できることも必要である。その中で省察的実践者は、いたずらに自分の持論を強化するのではなく、持論の限界を見出してゆかねばならない。

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訳注:ここでの「専門的技能」は、 "expertise" の訳語である。この英語は、工学的合理性の文脈で使われる時は「工学的専門知」としていたが、省察的実践の文脈ではそう訳すと意味が通らないので「専門的技能」と訳した。


■ 省察的専門職は、権威や能力への挑戦を受けるかもしれないが、自らの仕事および自分自身の意味を発見することができる。

要約:伝統的な専門職観から省察的専門職観に移行するにつれ、専門職は自分の権威や能力が疑われないという立場から去らなければならない。しかし、省察的専門職では、自分の助言や実践内在的知識 (knowledge-in-practice) や自分自身の意味を発見するという満足を得ることができる。 (p. 299)

補記:もし伝統的な工学的合理性に基づく専門職意識で自己規定を行っていた専門家が、省察的実践者としての専門家に身を転ずるなら、その人は、当初、自らを守ってくれる鎧としての工学的専門知がなくなり、うろたえるかもしれない。しかし、省察的実践者としての経験(失敗と成功)を重ねるにつれ、その人は以前では考えられなったぐらいの豊かな意味を実践に見出すだろう。


■ 工学的専門知所有者と省察的実践者

要約:工学的専門知所有者は、「たとえ自分の知識に不確実なところがあったとしても、自分は知識をもっていることになっているし、そう主張しなければならない」と信じている。クライアントと距離を取り、専門知所有者としての自分の立場を守る。この立場に対しては、クライアントが敬意を示すことを求めている。

省察的実践者は、「自分は知識をもっていることになっているが、自分が与えられた状況に関連した重要な知識をもつ唯一の人間ではない」ことを理解している。また「私の知識の中で不確実な部分は、私とクライアントにとっての新たな学びの可能性を示している」と考えている。省察的実践者は、クライアントの思考と感情とのつながり (connections to the client's thoughts and feelings) を求め、クライアントの発見から省察的実践者が新たな洞察を得ることも認める。(p. 300)

訳注:ここでの「工学的専門知所有者」は、 "expert"の訳語です。

補記:別の言い方をすれば、工学的専門知所有者は、クライアントに接しても決して自分のあり方(自己認識とそれに基づく専門的知識)を変えようとしません。むしろそれを変えたら、自分の職能が崩壊してしまうと考えているのかもしれません。それに対して、省察的実践者は、自己認識も自分の知識も、クライアントとの対話の中で変えることを厭いません。こうなると両者の違いは、技術的問題 (technical problems) の一義的解決を主眼にする者と適合的課題 (adaptive challenges) への現実的対応を主眼にする者の違いとまとめられるかもしれません。

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■ クライアントも省察的になるべきである。

要約:クライアントも省察的実践者としてふるまうべきである。「クライアント(当事者)だから、自分が一番事情をわかっている」などと思わずに、専門職との省察的な会話をする能力を高め、自分の実践内在的知識を対象とした省察 (to reflect on his own knowledge-in-practice) を促進するべきである。(p. 302)

補記:クライアントにも自己省察的になってもらうことは実践上は重要なことです。クライアントの中には、自分が抱える問題の深刻さから身を守るために自己防御的になり、自己の認識を頑なに守ろうとするからです。ここでは当事者研究やオープンダイアローグの実践が教えるように、クライアントに安心感をもってもらうことが優先事項となります。


■ クライアントと専門職との間の伝統的契約と省察的契約

要約:伝統的契約 (traditional contract) では、クライアントは安心して専門職の手に自分を委ねる。専門職の指示に従えばすべてはうまくゆくと考える。専門職が問題解決のための最良の人材だと考える。

省察的契約 (reflective contract) では、クライアントは、専門職と共に自らの事例の意味を見出し (making sense of my case) 自分が事例に関与しそれに対して行為を行っていることに対する意識を高める。(a sense of increased involvement and action) 自分は無力で専門職に完全に依存しているとは考えず、専門職は自分だけが差し出せる情報や自分だけが行える行為を必要としていることを理解している。専門職の能力に対する判断を加え、専門家の知識および自分自身について発見をすることを喜ぶ。 (p. 302) 

補記:省察的契約の考え方は、オープンダイアローグや当事者研究における専門職とクライアント・当事者との関係と重なるところが非常に大きいと思います。伝統的契約では、クライアントは、専門職の権威を信じて問題の解決法を購入する消費者のような存在ですが、省察的契約ではクライアントは専門職と共に問題への対応を探究する主体的な存在にならなければなりません。

関連記事

オープンダイアローグ:下の2つおよびその他多数

J.セイックラ、T.アーンキル(著)、斎藤環(監訳)(2019)『開かれた対話と未来』医学書院、Jaakko Seikklra & Tom Erik Arnkil (2014) "Open Dialogues and Anticipations: Respecting Otherness in the Present Moment." Helsinki, Finland: National Institute for Health and Welfare.

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/jt2019jaakko-seikklra-tom-erik-arnkil.html

野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』 

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html


当事者研究:下の2つおよびその他多数

熊谷晋一郎(編) (2019) 『当事者研究をはじめよう』金剛出版

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/2019.html

向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院 

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/2009.html


■ 研究と実践についての伝統的な考え方

翻訳: 臓器全体を研究する者は臓器の一部を研究する者に対して身をかがめ、臓器の一部を研究する者は細胞を研究する者に対して身をかがめる(those who study whole organs bow down to those who study sections, and those who study sections bow down to those who study cells) (p. 308)

補記:これは有名な言い回しですが、このような認識の力は最近弱まっているのでしょうか?それともこの認識を信じる者と信じない者の二派が次第に分離して、互いに対話することがなくなってきているのでしょうか?


■ 研究と実践の分離

要約:研究と実践はそれぞれの道を取り始め、両者は別世界に住み、別々の営みに従事し、互いに対して何も言わなくなってきている。 (p. 308)

補記:この本は1983年に書かれたものですが、研究と実践の分離は、その後進行したのでしょうか?私の直感的認識は、上でも示唆したように、「一部の例外を除き、分離は進行した」ぐらいのものですが、いかがでしょう。

しかし省察的研究者にとって大切なことは分離を嘆くことだけでなく、少なくとも、ここ40年間の技術革新と比べると、実践に関する学術的認識の進歩が非常に見劣りすることに対して真摯に向き合うことでしょう。

一般に科学とアート(技芸)では、前者の伝播力は後者の伝播力をはるかに凌ぎます。科学知は脱文脈化・一般化して伝達することが比較的容易である一方、アートの知は、それに献身する者が自らの人格をかけて体得するしかないからです。

ですから省察のアートがなかなか社会的に普及しないからといって、それが即座に避難されるべきものではありません。だからといって、その普及が一向に進まないことを正当化するものでもありません。


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Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

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■ 「実践者研究」:実践者は省察的研究者となりうる。その研究は、実践状況から始まり、行為につながる。

翻訳:明らかに私たちは専門職の知識についての伝統的見解を退け、実践者は、不確実性・不安定性・独自性・葛藤にみちた状況においての省察的研究者 (reflective researchers) になる (become) ことができるかもしれないということを認識し、研究と実践 (research and practice) の間の関係性を再構成した。なぜなら、この観点からすれば、研究とは実践者の活動 (research is an activity of practitioners) だからである。研究は実践状況の特徴を契機とし (triggered)、その場で開始され (undertaken on the spot)、ただちに行為と結びつけられる。(p. 308)

補記:私は、このように具体的な状況で認識と行為が相互に直結した実践について研究することは、実践者自身が研究者(あるいは研究チームの一人)であることが必要だと考えています。したがって、私はこのような研究を「実践者研究」 (practitioner research)と呼びたく思います。


■ 4種類の省察的研究(あるいは「実践研究」)

要約:実践者研究は、上記のように実践の文脈の中で生じて発展するものだが、実践状況の外から、実践者が行為内在的省察をする能力を高めることができる研究がある。私はそれを「省察的研究」 (reflective research) と呼ぶが、それには「枠組み分析」、「レパートリー形成研究」、「探究の基本的方法と架橋理論に対する研究」、「行為内在的省察の過程に対する研究」の4種類が少なくともある。 (p. 309)

補記:このように、直接的に実践・実践状況に関与していない者でも、実践者を支援するために行える研究のことを私は「実践研究」 (research for practitioners) と呼ぶことも可能かと思っています。広義の実践的な研究を、実践者自身の関与を必要とする「実践者研究」と、それを必要としない「実践研究」に分けるわけです。


■ 枠組み分析:省察的研究その1

要約:枠組み分析 (frame analysis) とは、通常、多くの実践者が自覚していない自分の枠組みを分析する研究である。実践者は、問題や自分が果たしている役割という現実 (reality) を構成 (construct) している物の見方(枠組み)について考えることがなく、現在自分が認識している現実が唯一の現実 (the given reality) だと思い込んでいる。そういった人は、複数の枠組みの中から1つを選ぶ(そしてその枠組によって異なる現実を見る)ということについて考えることがない。 (p. 310)

翻訳:枠組み分析によって実践者は自分が有している暗黙の枠組み (tacit frames) を自覚し、専門職に伴う多元主義[補注:一つの専門職の中にも、多数の流派が存在すること]の難問 (the dilemmas inherent in professonal pluralism) を経験するようになるかもしれない。一度、実践者が、自分が実践の現実を積極的に構成していることに気づき、自分が利用可能な枠組みはさまざまなものがあることを自覚したならば、実践者はそれまで暗黙的であった枠組みについて実践内在的に省察する必要を覚え始めるだろう。(p. 312)

補記:このように自らの前提を自覚し、それを相対化することは、哲学あるいは対話の基本流儀の一つかと思いますが、そういった作法を「二重ループ学習」 (double-loop learnig) と表現することもできます。問題を所定のものとしてしまって問題解決にばかり傾注するのではなく、問題そのものを疑い問題を立て直す (problem setting) ことも時に必要だということです。

関連記事

ダブルループラーニング (double-loop learning 二重ループ学習)についての私的まとめ

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また言うまでもなく、上の記述などでは社会構成主義の考えが前提となっています。


■ レパートリー形成研究:省察的研究その2

要約:レパートリー形成研究 (repertoire-building research) は、既存の枠組みでは対応できない事例に対しても既存の枠組みそして対処法で対応しようとする実践者に対しても、行為内在的な省察を促進させるための、さまざまな実践例 (examplars) を提供する。 (p. 315)

補記:レパートリー形成研究として有名なのは、ビジネススクールでのケースメソッド (case method)です。

関連サイト:

Wikipedia: Case method

https://en.wikipedia.org/wiki/Case_method


要約:レパートリー形成研究は広く行われているが、多くのものは、開始状況、取られた行為、得られた結果 (the starting situation, the actions taken, and the results achieved) のみに着目しがちである。そのような研究では、状況に対して最初にどのような枠組みを当てはめ、最終的にはどのような結果 (outcome) に至ったかという探究の経路 (the path of inquiry) は明らかにしない。時には、歴史修正主義 (historical revisionism) のように、探究の最後になって得られた事例観 (a view of the case) が、最初からあったように事例を書き換えてしまうことすらある。 (p. 317)

補記:初任の英語教師に数多くの教授テクニックを提示しても、新人は途方にくれるだけです。その点、ケースメソッドのようにある程度の文脈記述が含まれた記述が提示されれば、新人も多少は自らの実践でどの手法を使えばよいか見通しがつくようになるかもしれません。しかし、そのケースメソッドが歪み始め、手法の提示ばかりになてしまうと、新人は、自らの認識を既存のケースに当てはまるだけとなり、それ以上の成長が閉ざされてしまいます。


■ 探究の基本的方法と架橋理論に対する研究:省察的研究その3

要約:探究の基本的方法と架橋理論に対する研究 (research on fundamental methods of inquiry and overarching theories) は、実践者の中での方法と理論の結びつきについてである。実践者は、方法・理論をスプリングボードのように使って、最初はその方法・理論に適していないように思われていた状況の意味を理解することに対しても、その方法・理論を適用する。この方法・理論の適用において、使用されるのが架橋理論 (overarching theory) とそれと不可分の一般的な探究方法 (a generic method of inquiry) である。架橋理論と基本的探究法を使って実践者は状況を再構成(restructure) して、その状況が自分の方法・理論(注)に適していると言うことができる。(pp. 317-318) 

訳注:(注)の「方法・理論」の箇所はp.318の "In this sense, an overarching theory and a generic method of inquiry which is inseparable from it are used to restructure a situation so that, eventually, one can validly say that the theory fits the situation."の最後の部分の "the theory" を意訳したものです。文脈の流れから、この語は、「方法を定める理論」という意味での「理論」という用語で、実践者が一組として使っている方法・理論を指していると解釈しました。

要約:このように、実践者が使う方法・理論と実践者が面する状況を結びつける架橋理論と探究方法に対して研究をするやり方には、2つある。1つのやり方は、実践のエピソードを吟味することで、自分たちはどうやって認識と再構成を行っているかを発見するやり方である (Researchers may try to discover how this process of recognition and restructuring works by examining episodes of practice). このような研究で、その他の実践者が自分のものにしたいと願っている見方・再構成法・介入法に近づくことができるかもしれない。(p. 318)

要約:架橋理論と基本的探究法に対する研究のやり方の2番目のものは、「アクション・サイエンス」 ("action science")という形をとる。 (p. 319)

翻訳:アクション・サイエンスは独自性・不確実性・不安定性にみちて、工学的合理性のモードでの科学から引き出される理論と手法 (techniques) の適用が叶わない状況に関わる。アクション・サイエンスが目指すのは、実践者がこういった状況で自らの理論や方法 (methods) をそこから構成 (construct) できる主題 (themes) を育てること (development) である。 (p. 319)

要約:このアクション・サイエンスは、Kurt Lewinに先例を見ることができる。アクション・サイエンスが生み出す主題は、理論というよりはメタファーというべきかもしれない。 (p. 319)

補記:もちろん、ここでメタファーを亜流の知として、その正当性を認めない人がいたら、上の記述はナンセンスに思えるかもしれません。しかし、メタファーは人間の知にとって欠くべからざる要素であると考えるべきでしょう。

関連記事:

ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html

マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html

補記:Kurt Lewinは、もちろん「アクション・リサーチ」という用語を生み出した人です。最近の記事(『現実はいつも対話から生まれる』)でも書きましたが、"action research"は、「行為としての研究」あるいは「研究という行為」とでも訳して、この種の研究では、行為と研究が本質的な意味で融合しているのだということを強調した方がいいのかもしれません。

関連サイト:

Wikipedia: Kurt Lewin

https://en.wikipedia.org/wiki/Kurt_Lewin

ウィキペディア:クルト・レヴィン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3

Wikipedia: Action research

https://en.wikipedia.org/wiki/Action_research


関連記事:

矢守克也 (2007) 「アクションリサーチ」

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/2007.html

『現実はいつも対話から生まれる』(再掲)

K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/km-2018.html


■ 実践内在的省察の過程に対する研究:省察的研究その4

要約:実践内在的省察の過程に対する研究は、実践者が、実践内在的省察を通じて自らの認識やことばづかいを変容させていく過程を研究する。(p. 321) その研究は、実践者の実践内在的省察をそのまま観察したり、課題を与えて観察したり、インタビューしたりする方法を取ることができる。ただし、このような研究方法では、研究者が実践者に対して何らかの社会的影響を与え、研究者が理解しようとしている現象に、研究者自身が変化をもたらせてしまていることを忘れてはならない。(p. 322)

翻訳:実践内在的省察を研究するためには、研究者は、実践内在的省察が中心的な役割を果たしている実験法という技芸 (an art of experiment) を学ばなければならない。 (p. 323)

補記:ここでは実践者の実践内在的省察を支援する4種類の省察的研究が紹介されているが、この他にも、実践者に記述の用語を提供する研究もその種の研究に加えてよいのではないかと私は考えています。

実践者はしばしば、自分がやっていることを記述する用語として日常語しかもっていません(時には日常語ですらうまく記述できません)。日常語で語ると、その意味範囲は広いし、意味の焦点も明確に定義されていませんから、どうしても誤解・曲解されがちです。そこにある程度の理論的基盤をもち整合性を保った用語群を導入することは、実践者の省察に役立つと考えます--というより、私はそのようにして実践者を支援する研究を自分で行っているつもりです。


■ 省察的研究における研究者と実践者の関係

要約:省察的研究においては研究者と実践者の関係は、工学的合理性に基づく研究者が知見を提供し実践者がそれを使うというものではない。実践者は、省察的研究者に自らが実践で使っている思考法を明らかにする。そこで省察的研究が始まるのだが、その結果を実践者は自らの実践内在的省察の手助けにする。また、省察的研究者は、実践者から距離を取ることもできないし、実践者を下に見ることもできない。省察的研究者がどの種類の省察的研究法を取ろうとも、実践経験の内的視点 (an inside view of the experience of practice) を得なければならない。省察的研究は、実践者的研究者と研究者的実践者のパートナーシップを必要とする (Reflective research requires a partnership of practitioner-researchers and researcher-practitioners.) (p. 323) 省察的研究では、実践者と研究者の役割の間には相互浸透があり、研究生活と実践生活 (research and practice careers) は当たり前のように交錯する。実践者が時に省察的研究者のように振る舞うこともあるし、その逆もある。 (p. 325)

補記:別の言い方をするなら、省察的研究においては省察的研究者(専門職)と実践者(クライアント)は、相互作用的であり相互補完的であり、時には相互浸透的になるということでしょうか。また、そうであれば、クライアントもやがては問題を抱える他の実践者に対して協働的な行為内省察を通じて支援をすることもできます。そうなれば実践者(クライアント)も事実上、省察的研究者(専門職)となっていることになります(もちろん、職業的な地位や報酬などは別問題ですが)。


■ 工学的合理性に基づく公共政策形成

要約:公共政策形成 (the formation of public policy) の支配的なモデルは、工学的合理性に基づくものである。この考え方では、政策決定とは、合理的な政治選択 (rational policy choices) であり、政策分析 (policy analysis) によって、現在利用可能な一連の行動の中から、最大の社会的利益と最小の社会的コストをもたらすものを選択することである。政策分析は、政治的文脈での工学的過程 (a technical process which occurs within a political context)だと見なされている。分析者は、いくつかの政策のインパクトを測定し比較するために洗練された手法をもちいるが、分析者とていくつかの点で政治的過程 (political process) に依存しているのだ。社会的利益と社会的コストといった政策目標 (policy objectives) を定めるのは、政治的過程である。時に、政策分析とは、権力者が最終的な政策決定をするためのインプットに過ぎない。このモデルによるなら、公共政策の主役は専門職である。(p. 339)

補記:工学的合理性に基づく公共政策決定に従事している人あるいはそれを支援している人は、しばしば、自分たちは政治的過程から超越していて、自らは政治的ではないと信じています。しかし、それは誤解だと私は考えます。政策決定に必要なパラミターを定めたりそれを(無批判的に)受け入れたりすることは政治的な行為だと私は信じます。

話を大きくすれば(苦笑)、アイヒマンは当時の「法」とも考えられたヒトラー総統の命令を忠実に実行しただけであるから、いかなる意味でも政治的ではなかったかと言われれば、私は否と答えます。政治は価値葛藤に関わる営みであると同時に権力に関する営みでもあります。ある専門職技能の行使で権力の分配に授かる者は、その点においてだけでも、政治的であると私は考えます。


■ 工学的プログラムへの根源的な批判

要約:このように工学的合理性を貫徹しようとする工学的プログラム (the Technological Program) を根源的に批判する者は、公共政策を専門職のものとすることを、民主主義的価値を歪めることだと批判している。工学的な専門職は、客観性と価値中立性 (objectivity and value neutrality) を装いながら、自分たちと自分たちを支配している層に奉仕しているだけとも主張する。工学的専門知は見せかけだけで、その実体は無知と操作 (ignorance and manipulation) だと手厳しい。だが、こういった批判には、どこか社会改革のユートピア思想 (a utopian vision of social reform) が見え隠れする。 (p. 340)

補記:前にも述べましたが、反専門職 (counterprofessional) という動きが、やがてそれ自体の工学的専門知(あるいは支配的で操作的な専門知)を生みだしそれが支配的体制(estabishment) となってしまう可能性に関しては、十分な警戒が必要でしょう。

例えば、精神医学では反精神医学の動きがありますが、この動きの歴史を虚心坦懐に勉強しておくことは重要でしょう。(反精神医学が支配的体制を生んだというわけではありません。といっても私はきちんと勉強できていないのですが・・・← 一知半解の悪いパターン(反省))。

関連サイト:

ウィキペディア:反精神医学https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%8C%BB%E5%AD%A6

Wikipedia: Anti-psychiatry

https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-psychiatry

その点、最近刊行された熊谷晋一郎 (2020) 『当事者研究――等身大の〈わたし〉の発見と回復』(岩波書店)には、当事者研究をその先駆者の歴史から分析しており、非常に勉強になります。(まだすべて読み終えていないのですが・・・)。


■ 現代社会から専門職を払拭することはできない

要約:現代社会は、専門分化した知識と能力 (special knowledge and competence) を必要としている以上、専門職 (professions) を根絶することなどできない。 (p. 344)

補記:この現実的認識はとても重要でしょう。工学的合理性とそれに基づいた専門家を抜きに、現代社会は成立しません。重要なのは工学的合理性を全否定することではなく、批判的に部分否定をすること、すなわち、その限界を指摘することです。


■ 省察的実践からの専門職・反専門職批判

要約:専門職も反専門職も、決して価値中立的ではなく、価値や利益の枠組みの中に、自らの専門分化した知を育んでいる。どちらの工学的専門知も、不確実性・不安定性・独自性・葛藤性にみちた状況においては限界がある。自らの研究に基づく理論や手法の適用ができない時、専門職は工学的専門知所有者 (expert) であると正統に主張することはできない。実践内在的省察をする準備が特にできている人々であるにすぎない。(p. 345)

補記:ここでは工学的合理性に基づく専門知所有者を省察から排除してしまうのではなく、実践内在的省察に適した人たちと位置づけていることに注目すべきかもしれません。もっとも、その人たちが工学的合理性にのみこだわってしまえばその限りではありません。実際、p. 345からp. 346にかけて、著者は、工学的専門知所有者が、自らの確証バイアスで自分の理論に適う事象だけに着目して既存の知識の再生産をし、支配力を高める様子を描いています。


■ 省察的実践での専門職観:社会全体での会話への参加者

翻訳:私が思うに、専門職は、より広い、社会全体の会話 (a larger societal conversaton) への参加者としてみなされるべきである。専門職がこの役をうまく果たすなら、この会話が省察的なものになる。 (p. 346)

補記:しかし私が知る狭い範囲では、工学的合理性ばかりで訓練された専門職が、自らの専門知を共有しない人々と話をすることはなかなか容易ではありません。自らの専門的前提を不動の前提として、その前提に基づかない、あるいはその前提から離れた、主張や疑問を一切受け付けようとしない人も珍しくありません。他方、私が知るある工学者は、工学的合理性を当然重視しながらも、そういった合理性からはみ出る雑然とした知性の価値の重要性も高らかに主張していました。専門知を有しながらも、そこから離れた知も認めることができる一般教養が重要だと思わされます。


■ 観念が行動を誘発し、社会的現実を構成する。

翻訳:社会的問題とその解決に関する観念が広まる中で、現実の記述が社会的に構成される (descriptions of reality are socially constructed)。公的機関、メディア、知識人の行動、公的な討論などを通じて、私たちは行動につながるほど強力な観念を作りだす。その観念で私たちは社会の論点や要求(issues and crises)、解決するべき問題、採択するべき政策を扱うのだ。私たちがこれらの観念から行動する時、私たちは社会的現実を変革している (When we act from these ideas, we change social reality)。(pp. 346-347)

補記:粗っぽい言い方ですが、食べ物で私たちが作られるように、私たちが接する観念で私たちの思考も作られます。情報が爆発するように増加した現代において、メディアリテラシーの重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。実際、すぐれた専門知をもちながらも、そこから離れた価値観に傾斜し、その価値観が著しく歪んだものであることに気づかない人は、存在します。


■ 私たちは、社会の外部に存在せず、社会の内部に存在する。社会を記述し変革するということは、自分自身を記述し変革するということでもある。

翻訳:私たちは、記述し変革したいと欲している問題含みの状況に内在している。状況に対して行為を遂行するとき、私たちは自分自身に対して行為を遂行している。(We are in the problematic situation that we seek to describe and change, and when we act on it, we act on ourselves.) (p. 347)

補記:誰も社会の外部に立つことはできないというのは、ルーマンなどの社会学者が唱えていることでもあります。

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■ 公共政策に関する議論は知的であると同時に政治的である。

翻訳:状況を記述しそれによって公共政策の方向性を決定しようとする戦い (struggle) は、常に、知的でもあり政治的でもある。 (both intellectual and political) 現実の見方 (views of reality) は、ある種のやり方で状況を理解可能にする認知的構成概念 (cognitive constructs) であると同時に、政治権力の道具 (instruments of political power) でもある。大きな社会全体での状況との会話において、問題設定、政策定義、状況からの反論 (the situation's "back talk")は常に知的探究 (intellectual inquiry) と政治的主張 (political contention) の刻印を帯びている。 (p. 348)

補記:個人的な信念ですが、私は政治あるいは権力について冷静かつ率直に語れる人を信頼します。政治や権力について、極端な立場に固執したり、それらを一種のタブーとして決して語ろうとしない人を私はあまり信用しません。自他の権力性について、多面的な検討ができることが人間の成熟の一つの要素なのかもしれません。


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