2020/09/23

それぞれの教科の中の科学と物語 -10教科への問いかけ-

   私の旧勤務校である広島大学では組織改編のため、私が所属していた教育学研究科はなくなり、新設された人間社会科学研究科の中に統合されました。その改編に伴い、旧教育学研究科のホームページ内容が失われました。

「広島大学 学術情報レポジトリ」でも、文章が掲載されていた研究の概要を伝える報告書しか掲載されていないので、私個人のブログに自分が書いた文章を再掲することにしました。

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(1) :

 教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて

http://doi.org/10.15027/42729

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(2) : 

異教科が協働する授業づくりへの「広大モデル」提示を目指して

http://doi.org/10.15027/45428


以下は、私がそこに寄稿していた文章の一つです。どの教科にも科学と物語の要素はあるのではないかというのが、私の主張です。


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それぞれの教科の中の科学と物語

10教科への問いかけ-

 柳瀬 陽介英語教育学講座)

 

 

要約

日本では強力な「文系か理系か」という区別が、それぞれの教科を「文系」「理系」「それら以外」に分けてしまい、学習者の自己認識もその三つのどれかにしてしまいがちであり、教科教育と学習者の可能性を狭めてしまう区別であるように思えます。この小論では、心理学者のブルーナーの物語様式の科学規範様式の概念区分を使って「文系」と「理系」の概念内容について再考し、それぞれの教科には物語的側面と科学的側面の両方があるのではないかと問題提起します。

 

Ⅰ 「文系か理系か」という区別

日本では「文系か理系か」という区分の意識が強く、多くの高校生は早い段階から自分が文系なのか理系なのかを決めることを学校に強要されます。その選択に従って、異なるカリキュラムが設定され、文系と自己申告した学習者はいわゆる文系教科(たとえば国語科や英語科や社会科)とされた科目を多く学び、理系と自己規定した学習者はこれもいわゆる理系科目(たとえば数学科や理科、あるいは技術・情報科や家庭科など)とされた科目を多く学ぶことになります。学校教育には、文系とも理系とも分けがたい科目、たとえば音楽や美術や体育などがありますが、それらは「文系か理系か」という問いの構造からもれた科目といった認識を受けているのかもしれません。その結果、文系の科目は理系の学習者に軽んじられ、理系の科目は文系の学習者に疎んじらます。「その他」とされた科目は、はなはだしい場合は。どちらのタイプの学習者にも「息抜き」と見られている現状すらあるのではないでしょうか。

この結果学習者は「私は文系」あるいは「自分は理系」という自己概念を強くもつようになります。卒業して社会に出てからでも「自分は文系だから」あるいは「自分は理系なので」といった自己弁明で自らの学びの可能性を狭くしてはいませんでしょうか。あるいは「自分は文系とも理系ともいえない」といった自己認識をもつようにいたった学習者も、社会に出てからは自分の得意とする技芸にばかり集中して、これまた学びの可能性を自ら閉ざすようになっていませんでしょうか。

このような「文系か理系か」ということばの強い影響力は教師にも及んでいます。もちろんすべての教師がそうではないでしょうが、少なくとも一部の教師は、たとえば国語科や英語科や社会科の教師でしたら、自分が文系科目の教師であるという理由で、理系の領域に対して興味がないことを正当化しています。同じように数学科や理科あるいは技術・情報科や家庭科の教師の一部も、いわゆる文系の領域に無頓着であることを合理化しているかもしれません。音楽科や美術科や体育科の教師の中にも、もっぱら自分をある技芸の専門家とみなして、自分の枠の中での充実ばかりはかっている人もいるかもしれません。

このように学校や学習者に大きな影響力を与えている「文系か理系か」という区別ですが、これは果たして妥当あるいは有用なものでしょうか。この論ではこの「文系か理系か」という区分について、もう一度考え直し、その問題点を指摘した上で教科教育学的な提言をします。

 

 

Ⅱ ブルーナーによる物語様式と科学規範様式

これまで通念にしたたがって、文系科目を国語科・英語科・社会科、理系科目を数学科・理科・技術情報科・家庭科などと規定してきましたが、ちょっと考えてみただけでも、この通念的規定にはいろいろな問題がありそうです。この段階ではわずかしか述べませんが、たとえば社会科には明らかに科学的な内容が含まれ科学的な思考力も要求されます。また家庭科にも社会的な価値を考えるといった文系的な側面があります。

ですから、この論ではそういった通念的な理解の代わりになるきちんとした概念枠組みとして、心理学者のブルーナー (Jerome Bruner 1915-2016) が提唱した区分を採択します (Bruner, 1986, 1990)。ブルーナーは20世紀において最も重要な心理学者の一人として、人間の知性をコンピューターから考えた第一次認知革命の中で認知心理学を立ち上げた一人でもあると同時に、後年は人間の社会的歴史的な特徴を踏まえた文化心理学を打ち立てた心理学者でもあります。そういった幅広い研究領域から、彼は物語様式 (the narrative mode) と科学規範様式 (the paradigmatic mode, or the logico-scientific mode) の二つの思考法の区別を提唱しました。彼によるとこの物語様式と科学規範様式は別々の思考法であり、どちらかをどちらかで説明してしまうことはできない二つの異なった思考様式です。人間はこの二つを相補うようにして使い分けて社会生活を営んでいます。それではこのブルーナーの物語様式と科学規範様式について簡単にまとめてみましょう。(1)

科学はここ数百年の間に急速に人類が学習し獲得した文化ですから、私たちはこれを意識的に学習し理解しています。ですからここでもまずは私たちにとってより理解しやすいと考えられる科学規範様式の方から考えていきましょう。科学規範様式の典型例は論証 (argument) です。この論証のテーマとなるのは、ある主張が真である (true) かどうかを決めること、すなわち命題の真偽です。論証の筋書きは、研究論文を書いている人にはお馴染みの、命題呈示-方法-結果-結論という形になります。最初に命題を提示し、次にその命題が真であるかを検証する方法を示して、その結果を報告し、結論を下すのが典型的な論証の展開です。この論証で使われる科学規範様式の言語の理想的な形態は、一義的な意味しかもたない言語です。用語は具体的に定義され、用語が示しているリアリティ(実在性)は客観的なものとされます。そしてこの論証を語る場合の視点は、「自然科学」と総称されている人類共通の一つの視点です。原則として語り方は、事実だけを述べる直接法 (indicative mood) です。

これに対して物語は太古の昔から人類が使っている文化です。科学がない文化があったとしても物語がない文化はありません。これだけ普及していますから私たちは逆に物語について意識していません。ですが、ブルーナーによりますと、物語のテーマは意味 (meaning)、特に生きることの意味です。その意味は、物語の筋書き (plot) の展開にしたがって実感されます。筋書きの中で活躍するのは登場人物 (characters) です。登場人物はその行為が描かれるだけではなく、その登場人物が心の中で何をどう考えたかという意識も描かれます。行為と意識といういわば二重の風景 (the dual landscape) で登場人物が多層的に描かれます。物語の筋書きは、普通の平和な状態から、その平和が破られる破損、さらに破損が深刻になる危機、そして人々がどうやって以前の状態を修復するかという四段階を原則としています(状況-問題-反応の三段階で説明することもあります)。物語のハイライトは危機から修復へといたるまでの冒険譚かもしれませんが、その背景にあるのは守られるべき元の状態がもつ意味あるいは価値です。その意味を大切に思うからこそ登場人物は奮闘するわけです。ですが、そんな物語もすべてが語り尽くすことはありません。読者は描かれていない背景や途中経過についてさまざまに想像力を働かせて物語をいわば書き足してゆきます。さらに物語では様々な登場人物が捉えた主観的な世界記述も多く示されます。多くの異なる記述が同時に成立しているというリアリティは、科学の一元的で客観的なリアリティとは異なるものです。世界はもはや一元的には認識されず多元的にとらえられるのです。そのように多くの視点から描かれた世界に読者のそれぞれの想像を付け加えたリアリティを読者は物語で経験します。このリアリティは仮定法的なリアリティ (subjunctive reality) とも呼べるでしょう。「もし私がこの登場人物だったら確かにこのようにも思えるかもしれない」、「しかしあのようだったらあのように感じるかもしれない」というように物語の読者は、自分以外のたくさんの存在となって世界を多元的にに経験します。

 

 

Ⅲ それぞれの教科における物語と科学

このようにブルーナーの物語様式と科学規範様式(以下、物語と科学)を分けてみますと、それぞれの教科にはそれぞれの割合と様相でそれぞれに物語と科学が存在しているのではないかと思えます。以下、英語科の教員である私がとらえた偏見かもしれませんが、10教科それぞれについて考えてみます。科目提示の順序は、広島大学教育学部で使用されている講座編成表の順序です。

 

1.理科

理科はもちろん科学を重視する教科です。しかし理科に物語がないというわけではないでしょう。少なくとも科学の啓蒙書では、物語の様式で科学法則の意味を語る本がたくさんあります。例えば私も相対性理論と量子力学に関する啓蒙書(マンリー, 2011)を読んだことがあります。その本ではこれらの理論がいろいろな喩えを使って物語風に説明されており、自然科学や数学の素養に乏しい私が読んでもそれなりに理解ができるものでした(何よりも読んで楽しいものでした)。ここで私が思ったのは、相対性理論や量子力学を教えることができる教師はそれなりにいるのかもしれませんが、これらの理論の意味を物語として語ることはできる教師は少ないのかもしれないということです。理科の教師はもちろん理科を科学として説明することを主な仕事としていますが、時には科学を物語として語ることも必要なのではないでしょうか。宮沢賢治は農学校で自然科学を物語としても教えたと言われています(畑山, 1992)が、そのような理科教育はやはり邪道なのでしょうか。理科に物語は必要ないし不要なのでしょうか?

 

2.数学科

数学ももちろん科学の教科と思われています(もちろん数学には実証する対象がない点で自然科学とは異なるという論があることも承知していますが、ここでは深入りしません)。しかし少なくとも数学が嫌いな学習者にとっては、数学の意味を感じないと数学を勉強する気になかなかなれないのではないでしょうか。また私の話で恐縮ですが、私は計算が苦手でしたので数学は得意でなくまたあまり好きにもなれませんでした。そんな私にとって行列に関する授業は、行列の計算ばかりさせられる授業で、なんだか私はクレペリン検査を受け続けているような気になり、冗談半分に「これは軽い拷問ではないか」とすら思っていました。やっている意味がまったくわからない作業だったからです。ですが後に私が大学院生の時に、ある人のエッセイ(大前研一 (1975) 『企業参謀--戦略的思考とは何か』プレジデント社)を読んだ時に、行列 m × n 次元の世界を考えるための非常に便利な知的装置だということがわかり、一気に行列について興味がわきました。その本の解説によりますと、人間は3次元の世界に住んでいますから3次元あるいはそれに時間を加えた4次元ぐらいで考えることしか普通はしませんが、行列を使うと多次元の世界を簡単に表現し思考することができるというわけです。私の高校時代の数学の先生はたしかに行列の計算の仕方は教えてくれましたし、たくさんのテストも作ってくれましたが、行列の意味を語る物語は残念ながら教えてくれませんでした。自分の努力不足を棚に上げた繰り言となりますが、もし数学の先生が時折でいいですから数学についての物語を語ってくれていたら私も数学が好きになり自分の人生もより豊かになっていただろうと思っています。

 

3.技術・情報科

いわゆる理系科目が続きますが技術・情報科も明らかに科学関係の科目です。技術・情報とは自然科学で解明された法則を応用した製品やサービスを作り上げることに関するものだからです。しかしエンジニアリングに関しましても、物語は必要であるように思えます。例えばアップル社の製品です。この会社の製品がこれだけ多くの人に愛されるようになったのには、確かなテクノロジーの裏付けだけではなく、Steve Jobsが中心になって作り上げた広めた物語があったのではないでしょうか。伝え聞くところによりますと、Steve Jobsはかつてコンピューター開発について「自転車のように快適な道具にしたい」という比喩を使って説明したと言われています。広告のメッセージや新製品発表の時のストーリーにもなみなみならぬ関心を持っていたと伝えられています(シーガル, 2012)。これらの物語的な要素の魅力があってこそアップルの会社のエンジニアたちもアップルらしい製品を作ると言う方向にベクトルを合わせることができたのではないでしょうか。テクノロジーも、およそ人間に使われると言うレベルに行けば物語が必要になっているのではないでしょうか。また別の見方をしますと、技術や情報は現在人々の生活に大きな影響を与えています。原発は、その最も大きなものの一つかもしれませんが、3·11以降、このテクノロジーについて様々な物語が語られました。エンジニアはこの物語に耳を傾け、それにエンジニアとして答える必要があるのではないでしょうか。こうしますと技術・情報科の教員にも物語の素養が必要であるように思えますがいかがでしょう。

 

4.社会科

まず歴史についてですが、歴史はホワイト (2017) のまとめによりますと、科学のように事実に忠実であることが求められながらも、同時に物語と言う形式で語らざるを得ない分野だと古代ローマの時代から考えられています。19世紀以降の歴史学 (historiography) は「歴史の科学化」を目指し、意味や解釈をできるだけ排除した形で発展したとも言われています。ですがその反動で、世間の人々は歴史の専門家の著作から興味をなくし始め、非専門家が歴史を語る際には非常に安直な物語で歴史を語ってしまい、狭いものの見方や党派的な態度の蔓延につながっているのかもしれません。私は素人なので完全な思い違いを語っているのかもしれませんが、歴史は、科学の事実性と、物語の意味性のバランスを学ぶ科目とはいえませんでしょうか。次に、地理ですが、この地理も人文地理と自然科学的地理の二つの側面があることもよく知られています。地理を学ぶ際にも科学と物語の二つの素養が必要なように思えます。公民や倫理にしても、社会科学の考え方への習熟および最近の自然科学の発展に対する正確な知識が必要であると同時に、人々の権利や生き方がどうあるべきかを考え話し合う際には、必然的に物語が必要となってきます。社会科においても物語と科学の両方の素養が必要ではないでしょうか。

 

5.国語科

国語科は明らかに文系の科目と思われていますが、その認識こそ問い直さねばならないのではないでしょうか。人工知能研究でロボットを東京大学に合格させるというプロジェクトを立ち上げた新井紀子先生は、そのプロジェクトを遂行する中で、日本の中高生が実は教科書の国語文をきちんと読めないことに気づきました(新井, 2010, 2018)。新井先生によりますと、理系・文系を問わず学力が伸びないのは、実は教科書の説明の国語をきちんと読めていないからだということになります。国語科教員にはこの可能性についての自覚は十分あるのでしょうか。再び私の個人的な思い出話で恐縮ですが、私は高校生時代に理系の友人がいくら勉強しても国語の成績が上がらないことが不思議でありませんでした。なぜならば数学や物理学の文章題を読んでみますと、文章題の正確な理解には相当に高い国語の読解力が必要であることが明白だったからです。そんな文章題を苦もなく解ける友人が、国語のテストでは無残な成績しか取れないことは、高校時代の私にとっては不思議でしかありませんでした。今から思いますと、私の理系の友人は科学規範様式で書かれた国語の読解力は素晴らしかったものの、物語様式で書かれた国語の読解には苦労していたのでしょう。その当時の国語のテストで問われる読解力はほとんどが物語様式での読解力であったように思えます。そもそも日本語も他のあらゆる自然言語もこの科学規範様式と物語様式のどちらの様式でも使われるものですが、そうだとしたら言語教育には二つの異なる教え方が必要なのだということにはなりませんでしょうか?そして国語科教員にはその自覚が十分にあるのでしょうか。また私は素人としての誤解をここに開陳しているだけなのかもしれません。実際、つくば言語技術教育研究所の三森ゆりか先生などは「言語技術教育」などで科学的な文章力について教えているように思えます。また、学校教育の国語科でも論理的な文章の教育が盛んに行われています。国語科は二つの様式について自覚的に教え分けているのかもしれません。しかし、私が読んだ狭い範囲での国語科教育の本には、自然科学のように明晰な曖昧性のないトピックを扱うのではなく、自分の好き嫌いや賛成も反対も自由自在に述べられるトピックに関して「論理的である」ことが求められているようです。ですから、たとえば「分数の割り算とは何を意味しているかを説明する」や「物理の方程式の意味を言語で説明する」といった数学や理科についての言語表現といった国語教材は少ないように思えます。私は間違っているのかもしれません。そういった言語表現は国語科が扱うべき範疇を超えているのかもしれません(でもそうだとしたらそれはなぜでしょう?)国語科の教員には、科学の素養がもっと必要ではないのかというのが私のここでの問いかけです。

 

6.英語科

上で私は、自分が専門としていない教科について批判的な言い方を続けてきましたので、自分の専門である英語教育についてはより批判的に語るべきでしょう。以前の英語科は、文学部英語英文科の影響が強かったので物語様式に関する素養を英語教員は備えていました。しかし1990年代ぐらいから「英文学の教材を使っているから英語ができない」といった俗説にあおられ、その結果、英語教師養成に関わる大学教育の内容も変わり、教員の物語に関する素養は著しく落ちてしまいました。その代わりに科学的な素養に優れた英語教員が育っていったのかとなりますと、そうでもありません。現在は非常に平板で内容も薄い英文が教材になっていることがほとんどです。TOEICなどの資格試験の点数で単位認定を行う大学では、試験対策が英語教育の主流となってきましたが、現在提案されている大学入試での民間資格試験利用が本格的に実施されれば、資格試験の無難な英文ばかりを扱い「効果的な」試験対策を行う傾向が高校にも普及するかもしれません。民間資格試験は四技能を扱っているので試験対策にも意味があるという意見はありますが、リーディングとリスニングではマークシート方式の選択肢問題であり物語様式の特徴である多義的な理解は構造的に排除されていること、またスピーキングとライティングでは本当の自分のことを表現せずにいかにも無難な定型文を再生することが最善の試験対策とされていることを忘れてはいけません。もちろん昔に比べれば今の大学生は、多少の英語のスピーキングとリスニングはできるようになってきましたが、それはいわゆる「英会話」のように定型文を再生する活動ばかりをやった結果であり、そういった定型的な言語使用は近い将来に人工知能によって代替可能な能力なのかもしれません。しかし他方で、CLIL (Content and Language Integrated Learning) といった動きもあり、英語教育が理科教育や数学教育あるいは社会科教育などなどの他の教科の教育と連動して遂行されるべきと言う意見はあります。しかしそういった教育方法の普及は現在ほど日本ではあまり見られないません。だからこそ広島大学教育学研究科の「教科教育融合プロジェクト」ではCLILを扱っていますが、全国的に見ればこれは小さな動きでしかありません。総じて言いますならば、英語科は10教科の中で、物語と科学の両方に対してもっとも素養の乏しい科目なのかもしれないというのが私の見立てです。

 

7.体育科

体育科については、その教員の多くはスポーツ科学や運動生理学といった自然科学の素養に恵まれています。しかし体育では、近年、体育競技におけるコミニュケーション能力や技能の言語化などが強調されるようになったものの、まだまだ物語的な素養の涵養については十分ではないと言えるのではないでしょうか。とりわけ私のような門外漢から気になるのは、体育では、当たり前と言えば当たり前ですが、もっぱら自分が体を動かすことばかりに目が行き、スポーツを観戦あるいは鑑賞することについての学びの側面が薄いようにも思えます。手元に適当な統計資料がないので確かな事は言えませんが、成人でスポーツをほとんどあるいは全くやらない人口はかなり多いように思えます。しかし、そういった人たちでもスポーツを見て楽しむ人たちはたくさんいます。その際に多くの人はスポーツを物語の文脈の中で見ています。典型的には甲子園の熱血物語やオリンピックでの感動秘話といった形です。しかしその物語の陰には、指導における暴力やパワハラ、あるいはオリンピック選手の燃え尽きなどの事象があります。こういった事象には必ずといっていいほど、それを正当化する物語があります。燃え尽きた選手にしても、それまでの生涯のほとんどを「メダルを取る」といった単純な物語にしたがって生きていたために引退後の生き方に迷っているのでしょう。甚だしい例が、オーストラリアの有名スポーツ選手がうつ病に悩んだことですが、近年こういったカムアウトは外国でも日本でも見られるようになってきました(上岡・小磯, 2018)。スポーツを観戦している多くの人も、こういった物語の中でスポーツを見ているという物語の側面に私たちはどれだけ自覚的でしょうか。物語がしばしば伴う単純化や美化などが抑圧しかねないものについても私たちは理解が必要ではないでしょうか。これはスポーツを見る場合だけではなく、スポーツを指導する場合、スポーツに打ち込む場合にも必要なことだと思います。私は何度も素人の誤解を述べているのかもしれませんが、体育科にはもっと物語性の自覚と理解が必要ではないかと思いますがいかがでしょう。

 

.家庭科

家庭科は、食物や衣服については必然的に自然科学の知識が必要となりますし、家族といった問題に関しましては意味を求める物語が必要なので、ひょっとしたら10教科の中でもっとも科学と物語の両方に通じた科目なのかもしれません。しかし科学と物語が交錯するところをどこまで掘り起こせているでしょうか。食物なら食物に関する科学的データと食物に関するさまざまな物語(例えば孤食や過食など)はどのように重ね合わされているでしょうか。あるいは家族の物語(たとえば愛情やケア)を語るときに科学的に収集されたデータ(勤労時間や年収)はどのように組み込まれているでしょうか。また、幸福度や不安度などといった科学化しにくいデータはどのように扱われているでしょうか。こういったことについても私は知識を欠いていますので、家庭科の先生や学生さんに伺いたいと思っています。

 

9.音楽科

音楽科もひょっとすると実技中心で、まずは音楽の表現や演奏ができることが最優先されているし、またそうあるべきなのかもしれません。しかし、音楽を表現することの意味、および音楽を鑑賞することの意味―言ってみるならば音楽にまつわる物語―はどのように扱われているでしょうか。しばしばオーケストラの指揮者は楽団員に演奏曲目の意味をことばで語ったりしますし、音楽鑑賞でも私たちは何らかの物語で感想を述べます。こういった場合の物語のあり方についてはどのような理解がなされているのでしょうか。あるいは歌には歌詞がありますが、その歌詞の物語性あるいは文学性はどのように音楽表現と統合されているのでしょうか。同時に音楽は、ギリシャの昔からその数学的な性質が指摘されてきましたが、音楽の理論、そして音楽の理論が私たちの心と体に訴えかけてくれる効果、についてはどういった教育がなされているでしょうか。もちろん数学の数式と一緒で、音楽に楽譜が出てきたら、その瞬間に多くの人はすぐに目をそむけてしまうという現実はあります。しかし音楽という営みにおいて科学性はどのように扱われているのか、そしてそれは物語性とどのように統合されているのか興味はつきません。またとりわけ最近は、テクノロジーの発展がすさまじく、手先が不器用な人でも楽器を持っていない人でもスマホやコンピューターなどだけで作曲や表現活動をすることもできます。その際に重要なのは音楽のパラミターであり、音楽の理論的理解が大切になってきます。多くのアプリはパラミターの操作によって音楽を生み出すからです。そういったテクノロジーによる音楽の「民主化」に対して音楽科は今どのような挑戦を行っているのでしょうか。これも知りたいところです。

 

10.美術科

美術科も音楽と同様に実技優先なのかもしれません。しかし現状を見ますとコンピューター・テクノロジーの発展で、一般人の美術的表現の手段は大きく変容しています。デジタルコピーを掲載したりミックスしたりして表現する方法は、SNSなどでも多く見られるところです。美術科はこれらの動きをどうとらえているのでしょうか。たとえばInstagramは旧来の写真愛好家の枠を大きく飛び越えて世界的な表現手段となりましたが、その利用者の多くは視覚や色彩に関する科学的な理論理解(例えば彩度・明度・ホワイトバランスなど)なしに見よう見まねでやっているだけのように思えます。そういった美術表現の科学的分析は美術科では現在どのように教えられているのでしょうか。同時に美術的な表現の物語における利用と言うものも見過ごすことができません。純粋芸術ですらもある物語文脈の中で評価され語られたりしています。私たちは美術が組み込まれた歴史的・社会的あるいは経済的な物語に対して十分に自覚的である必要があるように思えます。さもないと、私たちは美術的なイメージで容易に操作されかねないからです(ヒトラーによるベルリンオリンピックの政治利用はその古典的な例です)。そういった側面は美術鑑賞などの中でどのように扱われているのでしょうか。今はYouTubeを中心として多くの映像表現が世界各地で広がっています。旧来のテクノロジーでは高額すぎて一般人の手には入らなかった表現です。その中ではスマホなどの機材だけで高度な表現をする人たちも出ています。現在の映像文化の中心はもはやハリウッドではなく、世界各地に分散しているYouTube投稿者だという見解もあります(ケリー, 2016)。今や美的表現が世界中に溢れようとしているのかもしれません。そういった科学の利用そしてその利用がひき起こしかねない物語といったことに、美術科がどのように取り組んでいるのかも知りたいところです。

 

 

 

 

 

Ⅳ まとめ

このように物語(様式)と科学(規範様式)の観点から10教科を考え直しますと、10教科は「文系か理系か(あるいはそのどちらでもないものか)」といった問いで峻別されるものではなく、それぞれの教科の中にも物語の要素も科学の要素もあるように思えてきます。また物語も科学も理念型 (ideal type) ですから、理念としては想定できても、そのままの形で現実世界に存在しているわけではありません。たとえば、ある経済学者の言説は科学に基づいた推定値が大きな物語の文脈の中で使用されているものかもしれません。ある小説は、物語の山場に弁護士の科学的な論証を用いているものかもしれません。ですから、物語も科学も特定の教科だけで教えられるものではないでしょう。たとえば物語は国語科で教え、科学は理科で教えた上で、その知識を他教科で使うといった形にはならないのではないでしょうか。どの教科においても、私たちは人間の二大思考様式である物語と科学を教えるのだと私は考えます。そう考えますと、10の異なる教科の教師は、具体的な題材がたまたま重なったという点だけでなく、共に物語と科学の思考を教えるという点で相互に協力し連帯できるのではないかと思います。ともあれ、現代は、科学抜きには社会が成り立ちませんし、物語抜きには科学は社会に実装されません。物語と科学の両方の素養を備えた人間を育てるということは教育者の、そして市民の、合意事項となると考えます。こういった観点から自分が専門とする教科を見直し、他の教科の人たちとも共同できる教員を育てたいし、まずは自分がそのような教員でありたいと私は考えます。

 

(1) ブルーナーの物語様式と科学規範様式に関するまとめは以下にも掲載しています。

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/jerome-bruner-1990-acts-of-meaning.html

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/10/j-bruner-1986-actual-minds-possible.html

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/03/311.html

 

引用文献

新井紀子 (2010) 『コンピュータが仕事を奪う』日本経済新聞出版社

新井紀子 (2018) AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社

上岡陽江・小磯典子 (2018) 「オリンピックを目指すアスリートの当事者研究」、『精神看護』20181月号66-77 医学書院

ケリー, K.著、服部桂 (2016) 『<インターネット>の次に来るもの』NHK出版

シーガル, K.著、高橋則明訳 (2012) Think Simple―アップルを生み出す熱狂的哲学』NHK出版

畑山博. (1992)『教師宮沢賢治のしごと』小学館

ホワイト, H. (2017) 『実用的な過去』岩波書店

マンリー, S.L.著、吉田三知世訳 (2011) 『アメリカ最優秀教師が教える相対論&量子論』講談社

Bruner, J. (1986) Actual minds, possible worlds. Harvard University Press.

Bruner, J. (1990) Acts of meaning. Harvard University Press.

 


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