2020/09/10

意味と真理の概念から捉えた対話の概念

  私の旧勤務校である広島大学では組織改編のため、私が所属していた教育学研究科はなくなり、新設された人間社会科学研究科の中に統合されました。その改編に伴い、旧教育学研究科のホームページ内容が失われました。

「広島大学 学術情報レポジトリ」でも、文章が掲載されていた研究の概要を伝える報告書しか掲載されていないので、私個人のブログに自分が書いた文章を再掲することにしました。

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(1) :

 教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて

http://doi.org/10.15027/42729

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(2) : 

異教科が協働する授業づくりへの「広大モデル」提示を目指して

http://doi.org/10.15027/45428


以下は、私がそこに寄稿していた文章の一つです。「意味」や「対話」に関する2016年時点での私の覚書です。


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意味と真理の概念から捉えた対話の概念

 

柳瀬 陽介(英語教育学講座)

 

 

要約

本論は,「教科教育学研究方法論」で対話を進める際に筆者が参考にしていたDavid Bohmの対話論をまとめ,その一部にNiklas Luhmannの意味論を補足し,かつ意識の統合情報理論 (Integrated Information Theory) の考え方も参考にしながら再整理したものである。

 

 

Ⅰ はじめに


「意味と真理の概念から捉えた対話の概念」は以下の六つの命題に集約できる。

 

意味と真理の概念から捉えた対話の概念

 

1 対話とは,意味の連動性を通じて真理を追求する協働的な思考である。

 意味は連動性を生み出す。

3 意味をまとめあげるのは感受性であり,感受性が高まれば「一つの身体,一つの心」が生じうる。

4 真理は到達できない理念として対話を導く。

5 真理に到達できない対話者にとって重要なのは,決めつけないことである。

6 感受性を高め,互いに決めつけない方針を貫く対話は,新たな思考を創造する。

 

これら六つの命題は,主張構成-主張解説-主張再構成の三層構造をなしている。すなわち,1が意味と真理の概念から捉えた対話概念という主張の構成,2と3が意味概念に関しての,4と5が真理概念に関しての解説,6が対話についての主張の再構成,となっている。

 

整理においては,一桁番号が振られた命題(例えば1)について,複数桁番号の命題(例えば1.11.2,あるいは1.1.11.2.1など)で付加的に説明するという,ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に準拠した形式を採用した。

 

相互関係をできるだけ明らかにした諸命題の集合として表現することにより,本論は対話に関する概念構造をできるだけ明示的に示そうとした。反面,簡潔で抽象的な表現を多用したことにより,読みにくさが生じているかもしれない。それに関しては,後日何らかの機会に改めて本論の概念分析を基にした対話論を平易に書き直すこととしたい。

 

  

Ⅱ 六つの命題およびそれらの下位命題


意味と真理の概念から捉えた対話の概念

 

対話とは,意味の連動性 (coherence) を通じて真理を追求する協働的な思考である。

1.1 対話では対話者間での意味の差異が発見される。

1.1.1 聞き手はしばしば話し手が想定しなかった反応をするが,そこで両者の意味の差異が明確になる。

1.1.2 意味の差異は,語られていたことの新たな側面を浮かびあがらせ,話し手と聞き手の両者にとって重要な新たな意味となる。

1.1.3 対話が進展し差異が明らかになるにつれ,両者にとって重要な意味が相互に次々に発見される。

1.1.4 対話の目的は既知情報の伝達と共有ではなく,対話者にとっての新たな意味の発見である。

1.2 対話において追求されるのは真理と連動性である。

1.2.1 対話者は真理 (truth) を追求するために,自らの古い考えや意見を放棄する覚悟が必要である。

1.2.2 対話者は連動性を追求するため,誰のいかなる考えや意見も,絶対否定することも絶対肯定することもしてはならない。

1.2.3 対話者は,すべての考えや意見を何らかの形で相互に関連づけられるように試みなければならない。

1.3 対話の中に特定の勝者はいない。

1.3.1 対話は,論者の勝ち負けを決める討論 (debate) でも,意見の優劣を競う議論 (discussion) でもない。

1.3.1.1 会話 (conversation) はそれほど真理と連動性を追求しないことにおいて対話とは区別されうる。

1.3.2 対話においては,誰も他の人を打ち負かして自分が勝者になろうとしてはならない。

1.3.2.1 勝ち負けを超越するためには,円座で対面し,専制的な指導者 (leader) を排することが重要である。

1.3.2.2 対話を促進させるための世話人 (facilitator) を設けてもよいが,その世話人がなすべきことは世話人という役割が不要になるように対話を自己展開させることである。

1.3.3 もし対話に勝者がいるとすれば,それは全員である。

1.3.3.1 ある誰かが他の誰かの事実誤認の修正をしたとしても,それは前者が勝ち,後者が負けたということではない。

1.3.3.2 異なる意見の提示は,意見の優劣や論者の勝敗を決めるためのものではなく,その提示からの差異の発見で全員が益するためである。

1.4 対話は協働的な思考であり,必ずしも結論を求めない。

1.4.1 対話は,複数の対話者が相補的に協力しながら思考をすることである。

1.4.1.1 複数の対話者には過去の自分や異なる見方をし始めた自分も含まれるので,自己内対話も可能である(ヴィトゲンシュタインの『哲学的探究』の流儀のように)。

1.4.1.2 対話では,論題だけでなく,対話者の思考過程も思考の対象となる。これにより,対話により思考過程そのものが変わることもある。

1.4.2 対話においては,必ず最後に結論を合意しなければならないという義務はない。

1.4.3 対話において重要なのは対話が意味深く継続し発展することである。

 

意味は連動性を生み出す

2.1 意味は,意識やコミュニケーションにおいて焦点化された観点(現実性 actuality) と,その側面とつながる無数の観点 (可能性 potentiality) の統合である。統合された現実性と可能性は連動する。

2.1.1 意識においてある意味が立ち現れるとは,意識の機序 (mechanism) が,ある焦点(現実性)とそれにつながる他のさまざまな観点(可能性)が浮かび上がった状態になることである。意識における意味とは,ある現実性とそれにつながる可能性が意識によって区別されながらも連動性を有するようになった意識の機序状態である。

2.1.2 コミュニケーションにおいて意味が立ち現れるとは,コミュニケーションの機序が,焦点(現実性)とそれにつながる他のさまざまな観点(可能性)が浮かび上がった状態になることである。コミュニケーションにおける意味とは,ある現実性とそれにつながる可能性がコミュニケーションによって区別されながらも連動性を有するようになったコミュニケーションの機序状態である。

2.2 意味はしばしば意味の流れを作り出す。

2.2.1 ある意識とコミュニケーションの機序状態(意味)が別の機序状態へと変化するにつれ,意味の流れ (a stream of meaning) が生じる。意味の流れは,意味が次々に他の意味と連動する状態を指す表現である。

2.2.2 意味の流れは,意識においては次々に新たな意識を,コミュニケーションにおいては次々に新たなコミュニケーションを自己生成 (autopoiesis) させる。

2.3 意味や意味の流れのほとんどは暗黙的である。

2.3.1 私たちが明言できるのは意味のほんの一部にすぎない。

2.3.1.1 意味の現実性と可能性の連動性は,後者が潜在的である以上,暗黙的であり,それを語り尽くすことはできない。

2.3.1.2 意味の流れにおいても,現実性として話題となっている以上のものが潜在的な可能性として連動している。

2.3.2 意識やコミュニケーションにおいて,顕在的な現実性がなかなか焦点化しなくとも,暗黙の水準で意識やコミュニケーションの可能性が変化しているのなら,そこには思考の変革が生じている。

2.3.3 対話における沈黙にも重要な役割がある。

 

意味をまとめあげるのは感受性であり,感受性が高まれば「一つの身体,一つの心」が生じうる。

3.1 感受性 (sensitivity) は,自分の内外で何が起こっているかを感覚で捉える働きである。

3.1.1 感受性によって私たちは,対話を通じて自分の内でどのような変化が生じたかを知る。

3.1.2 感受性によって私たちは,対話を通じて自分の外すなわち他の対話者にどのような変化が生じたかを知る。

3.2 感受性は身体的な感覚を基にして自分の内外で起こっていることの意味をまとめあげる。

3.2.1 意識はしばしば身体的な感覚知覚から生じる。

3.2.2 意識はしばしば意味としてまとまる。

3.2.3 意味によって自分の内外で起こっている現実性とその可能性の連動性が成立する。

3.3 意味によって,対話への参画が適切に定まる。

3.3.1 意味の現れにより,対話者は,いつ・何を・どのように発言するか(しないか)についてより適切に,つまり,意味と意味の流れがより豊かになるように,対話をすることができるようになる。

3.4 対話への参画が深まれば,対話者は互いの心身で何が起こっているかがよくわかるようになる。

3.4.1 対話が深まれば,他の対話者の身体での反応が,自分の身体の一部で起こっていること以上に知覚されうる。

3.4.1.1 たとえば他の対話者が身体的にどのように振る舞っているかという反応は,現在自分の足指の先で何が起こっているかということ以上に重要になりうる。

3.4.2 知覚された他の対話者の身体の変化は,意味の変化,意味の流れとなり,自分自身の心身の変化をもたらす。

3.5 対話者が互いの心身で起こっていることをよくわかるようになれば,複数の対話者があたかも「一つの身体,一つの心」をもったようになる。

3.5.1 対話者相互の身体が連動すれば,複数の対話者はあたかも「一つの身体」 (one body) をもったようになる。

3.5.1.1  「一つの身体」をなす複数の対話者においては,それぞれの身振りが連動的にお互いに影響をおよぼす。

3.5.2 身体の変化は心の変化に即応しているので,「一つの身体」は「一つの心」 (one mind) につながる。

3.5.2.1 「一つの心」は個々の対話者の差異を抑圧するものではない。複数の対話者の心は連動性を有しているという意味で「一つの心」を形成している。

3.5.2.2 「一つの心」においては,対話者のすべての考えや意見が共存している。

3.5.2.3 「一つの心」は,複数の対話者のすべての考えや意見を連動させようとすることによって,真理を目指そうとする。

 

 

真理は到達しがたい理念として対話を導く

4.1 真理はすべての意味が連動しない限り到達できない。

4.1.1 「私の意味は他の意味と連動しているが,あの人の意味は連動していない」と思うなら,それはすべての意味が連動できているわけではないことを示している。

4.1.2 自分(たち)だけの「真理」は,まがい物の真理であり,それに固執する限り衝突は起こり続ける。

4.1.3 対話ではなかなか真理には到達できない。

4.2 科学が解明する「真理」は一種独特の真理である。

4.2.1 科学が,思考の断片化 (fragmentation) による限定でその対象を明確にしているのなら,その限定ゆえにその対象は世界のすべてと連動性を有していないのであり,それだけ真理から遠ざかっている。

4.2.2 科学が, 思考による抽象 (abstraction) によってその展開を可能にしているのなら,科学は世界の具体性・特異性を対象としえないものであり,それだけ真理から遠ざかっている。

4.2.3 科学ではなかなか真理には到達できない。

4.3 真理は私たちには到達しがたい理念であるが,その理念はいわば永遠の目標として対話を導く。

4.3.1 すべての意味を連動させることが真理に必要だとしたら,意味には多くの可能性が潜在しているので,私たちは真理を明言的に語り尽くすことはできない。

4.3.1.1 ヴィトゲンシュタインはかつて「語り得ぬことについては,沈黙を守らなければならない」と述べたが,この沈黙は可能な限りの明言をなした後でのものであろう。私たちが真理に近づきえる瞬間は,可能な限りの対話を尽くした後の沈黙の時であろう。

4.3.2 真理は,必要十分な定義が可能な概念ではないが,その存在を理念として想像することはできる。

4.3.3  真理は,到達困難であるがゆえに,いわば永遠の目標として対話を導くことができる。

 

真理に到達しがたい対話者にとって重要なのは,決めつけないことである。

5.1 対象を狭く限定しない対話においては,どの対話者も特定の考えや意見についても決めつけない (to suspend) ことが重要である。

5.1.1 現在の自分の考えや意見を「正しい」と決めつけたり,他人の考えや意見を「間違っている」と決めつけたりするなら,私たちはしばしば怒りを覚えその怒りを言動で表出するが,そういった否定的な言動は意味の連動による真理追求の妨げになる。

5.1.1.1 怒りについては,さらなる言動でそれを増幅させることなく,冷静にその存在を認めることが重要である。

5.1.1.2 さらなる言動で怒りを増幅させずとも,心中で密かに怒りをたぎらせては,それも真理追求の妨げとなる。

5.1.2 自分も含めた誰のどんな考えや意見についても決めつけることなく,それらをいったん受け入れた上で,それらが他の考えや意見とどのように連動しうるかを探求することが重要である。

5.1.2.1 すべてを連動させるように探求するとは,意識やコミュニケーション新たな機序状態が現れることを待つことである。

5.2 決めつけないことに失敗したことから生じる否定的な言動も,その人の思い込みの偏りを知らせてくれる指標として活用することができる。

5.2.1 ある人が決めつけから否定的な言動を引き起こしたとしても,周りの人がそれを冷静に観察しそこから探求するだけに留めるなら,人々はどこに思い込みの偏りがあったかを知ることができる。

5.2.2 「一つの身体,一つの心」が成立していたなら,ある人の否定的な言動はすべての人々にとっての痛みとなるが,その痛みを「一つの身体,一つの心」の代償として引き受けそこから学ぶことにより対話は深まる。

5.3 決めつけた考えや意見に対しても決めつけることなく,それらの存在を冷静に認め,それらを他のすべてと連動させようとするなら,私たちは真理に一歩近づくことができる。

 

感受性を高め,互いに決めつけない方針を貫く対話は,新たな思考を創造する。

 

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参考文献

Bohm, D. (2004). On dialogue. Routledge.

Luhmann, N. (1990) Essays on Self-Reference. Columbia University Press.

Tononi, G. (2008) Consciousness as Integrated Information: a Provisional Manifesto. Biol. Bull. Vol. 215 No. 3. 216-242

Wittgenstein, L. (2001) Tractatus Logico-Philosophicus. Routledge.

Wittgenstein, L. (2010) Philosophical Investigations. Wiley-Blackwell.

ウィトゲンシュタイン, L. (1976) 『哲学探究』大修館書店

ウィトゲンシュタイン, L. (2003) 『論理哲学論考』岩波文庫

トノーニ, G. ・マッスィミーニ, M. (2015). 『意識はいつ生まれるのか』亜紀書房

ボーム, D. (2007). 『ダイアローグ 対立から共生へ,議論から対話へ』英治出版

ルーマン, N. (2016). 『自己言及性について』ちくま学芸文庫

 

 

参考サイト

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/01/1-88.html

統合情報理論: Tononi (2008) の論文要約とTononi and Koch (2015) の用語集 

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/tononi-2008-tononi-and-koch-2015-1.html

ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話,ダイアローグ)概念

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/04/david-bohm-dialogue.html


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