2020/09/10

本質性か連動性か?

 私の旧勤務校である広島大学では組織改編のため、私が所属していた教育学研究科はなくなり、新設された人間社会科学研究科の中に統合されました。その改編に伴い、旧教育学研究科のホームページ内容が失われました。

「広島大学 学術情報レポジトリ」でも、文章が掲載されていた研究の概要を伝える報告書しか掲載されていないので、私個人のブログに自分が書いた文章を再掲することにしました。

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(1) :

 教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて

http://doi.org/10.15027/42729

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(2) : 

異教科が協働する授業づくりへの「広大モデル」提示を目指して

http://doi.org/10.15027/45428


以下は、私がそこに寄稿していた文章の一つです。この文章も前の記事と同様、大学のいわゆる一般教養を考える際に関係あるかと思い、再掲します。


*****


本質性か連動性か?

 

柳瀬 陽介(英語教育学講座)

 

 

要約

 「教科教育学研究方法論」において,「10 教科共通の・・・」といった表現が多用されたが,この表現が意味することは認識論の違いによって異なりうる。本稿はこの表現の, 本質主義 (essentialism) に基づく意味と,親族的類似性 (family resemblance) に基づく意味を比較検討することによって,異なる教科間で対話し協働する際の基礎認識について考察する。

 

 

Ⅰ はじめに

 教科教育学専攻の「共通」科目としてスタートした「教科教育学研究方法論」では,その性質上,「『10教科共通』とはそもそも何か」といった問いが,時には明示的に時には暗示的に浮上した。

だが極端な話,一部の人にとって,この問いは単なるお飾りのように思われているのかもしれない。もし,制度上「教科教育学専攻」という名称で10の教科(専修)が一つの屋根の下に収められたが,事実上,それは寄り合い所帯にすぎず,自分の教科は,他の教科などとは関係しないと考える人がいるとすれば,その人にとっては10教科の関係などバラバラであるにすぎない(図1)。他の教科が自分の教科と近いか遠いかの違いはあっても,それらは自分の教科のあり方に関係はないと考えるだろう。





図1のような認識をもつなら,その人は,組織人 ―あるいは俗語でいう「大人」― として,教科教育学専攻の「共通」科目には必要最小限の形式的な参加しかしないだろう。そのような人にとっては,「10教科に共通するものは何か?」という問いは,机上の空論,あるいは制度上必要となる「作文」を導き出すための問いにしか思えないかもしれない。

しかし,この教科教育学専攻の開始をもって,より一層10教科の教員が協働しようと積極的な関心を抱くなら,この問いは新たな研究と教育の実践を開拓するための極めて重要な問いである。実際,「教科教育学研究方法論」に参画した教員にとってはこの問いはしばしば自発的に互いに問いかける問いとなった。

学生にとっては,この問いはより直接的だったのかもしれない。自分の卒業論文を完成させるだけで精一杯であった多くの学生にとっては,自分の教科の研究の全体像をつかむことですら困難である。そこへ,自分がほとんど知らないし関心ももったことがない他の教科の学生と討議せよという課題は,困惑ばかりを招きかねないものであったかもしれない(その困惑がいかに解消されたか,あるいは解消されなかったか,については他の報告を参照されたい)。

だが「教科教育学研究方法論」の稿 (Ⅱ-) で述べたように,現代社会においては教科の枠を超えて考え,問題解決にあたらなければならない。となると,「教科教育学研究方法論」での「10教科に共通するものは何か?」という問いはきちんと検討されるべき問いとなる。

本稿では,この問いに向かい合う際に人々が(自覚的あるいは無自覚的に)有する認識論の違いによって,この問いは否定的にも肯定的にも考えられるのではないかという筆者の考えを簡単に説明する。

筆者の基本的な考えは,本質主義(後述)に基づく認識論をもてば,10教科に共通するのは非常に抽象的な理念だけとなり,実際に異なる教科の人間が協働できることは限られてくると否定的に結論し,他方,親族的類似性(後述)に基づく認識論をもてば,異なる教科の人間が連動することにより絶えざる自己刷新が生じ,その自己刷新から教科を超えた新たな結びつきが生まれてくると肯定的に結論するのではないかというものである。この本質主義と親族的類似性の対比は,ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』に基づくものであるが,以下,その対比に基いて説明をしたい。

 

 

Ⅱ 本質主義

 ここでいう本質主義 (essentialism) とは,ある範疇(カテゴリー)に所属する複数の成員に関する考え方である。本質主義的な認識論に基づけば,もし複数の個体がすべてある範疇に属するとされるなら,それらの個体にはすべて共通するものがなければならない。「なぜなら,そうでなければ,それらの個体は同じ範疇に属するとは言えないから」が理由である。「本質」を,「それがなくてはあるものが成り立ち得ない性質」と定義するなら,この結論は必定である。実際,集合論で内包と外延が定められるなら,この本質主義の考え方を取らざるをえない。集合論によって科学も技術も進展したことは疑いようもない事実なので,この本質主義がまったくのナンセンスであるなどということはない。

 もし10教科に対して,この本質主義に基づく見方を適用してみるなら,「10教科に共通するものとは何か?」という問いは,「教科教育の本質とは何か」や「教育の本質とは何か?」といった問いに変換されてゆくことは想像に難くない ―「知識の本質とは何か?」とまでは問われないにせよ―。本質主義に基いて10教科に共通するものについて考えれば,その考え方は図2のように表現できるだろう。



 10教科の「本質」とされた中核部分は,図2のようにおそらく小さなものになるだろう。その部分は例えば教育基本法などで定められている教育の目的などを言い直したものになるかもしれない。そうなればその中核,すなわち「10教科に共通する本質」を語る最適の研究者は,教科教育学者ではなく,教育哲学者などに代表される教育学者ということになるだろう。

 もちろん,この認識がナンセンスとか悪いということはない。この認識によってもっともよく語りうる問題も多くあるだろう。しかし,この認識に基づくなら,それぞれの教科教育学を専修する者は,自らそしてお互いの教科教育の具体的内容についてほとんど語れない。この認識では,教科を横断した新たな探究を具体的に開発することなども困難になる。

 もし本質主義的な認識に基づきながら,各教科の枠組みを超えた具体的な教育内容について語り合う必要があるとするならば,共通部分の中核部分に位置する「すべての教科をつなぐスペシャリスト」が必要だと思えてくるかもしれない。実際,「教科教育学方法論」で学生が,異なる教科教育学を学ぶ他の学生とグループで対話を始めた当初,高校での教職経験をもつ学生は「特に高校は,各教科のスペシャリストばかりで,教科を超えたこのような話し合いはほとんどできない。このような話し合いをするためには,各教科の教員の間のコミュニケーションを促進することを専門とするスペシャリストが必要ではないか」という発言をしていた。

 異教科間コミュニケーションのスペシャリスト(コーディネーター)といった新たな職種が現在の教育予算で認められるとは思えないが,そういった現実的な考慮はさておき,異教科の教員はそのようなスペシャリストの支援を受けないと,教科の枠を超えて協働できないのだろうか?

 本質主義に基づき10教科を眺めてみるなら,「10教科に共通するもの」とは,きわめて抽象的な理念であり,教科教育学者よりも,教育学者の方が適任者となる。もし教科教育学者が教科の枠組みを超えた新しい教育について具体的に話をするためには,専門のコーディネーターが必要となる。

 だが,もしこれら二つの帰結が,本質主義に起因するものであればどうだろうか?次の章では認識論を本質主義ではなく親族的類似性に基づくものに変えることによって,教科を横断するプロジェクトについて語り新たな教育を創出するのは,教科教育学者の方が適しているのではないかという議論を提示する。

 

 

Ⅲ 親族的類似性

 親族的類似性 (family resemblance, Familienähnlichkeit) [i]とは,例えば「○○家親族」といった範疇に含まれる成員に見られる多様な類似性の重なり合いを表現する概念である。「○○家親族」が集まった冠婚葬祭の場を想像すれば,そこには体格や顔つきや気質や語り方などの様々な面で類似性が見られるだろう。だが,大抵の場合において,それらの特徴は「○○家親族」の成員全員に共通しているものではない。「○○家親族」には直接の血縁関係をもたない「義理」の成員がいることを考えれば容易に納得できるだろう。たしかに「○○家親族」は,血縁や生活の共有程度などにより,「大柄」や「陽気」は「早口」などの特徴をもつ成員が多いかもしれない。だがそれらの特徴は全員に共通しているわけではない。中には「大柄」ではあるものの「陽気」でも「早口」でもない成員もいるであろう。「○○家親族」の類似性は,「○○家親族」の異なる成員の間で重なり合い,離れ合いながら示されている。この親族的類似性を簡単に表現すれば表1のようになる。


 

 仮に「○○家親族」は10 (1-10) から構成されるとする。その集団に顕著な特徴は5つあると仮定しよう (A-E)。この表では,全員に共有される特徴はない。5つの特徴は,それぞれのあり方で多くの成員に共有されているだけである。だが,このような分布でも「○○家親族らしさ」を人々は感じることができるであろう。

 ウィトゲンシュタインは,親族的類似性でとらえられる例として「数」をあげ,さまざまな種類の「数」がある事態を,より合わせた糸にたとえている。

 

同じように,例えば数の種類も,一つの親族を構成している。私たちはなぜあるものを「数」と呼ぶのだろう。それは「数」と呼ばれるものには,私達がこれまで数と呼んでいたもののいくつかと,ある直接の関連があったからである。このことによって,それには私達が数と呼んでいたもの他の数と間接的な関連があると言うこともできる。私たちが数の概念を拡張するのは,私たちが繊維と繊維をより合わせて糸を紡ぐやり方にも似ている。糸が強いのは,何か一本の繊維が糸の端から端まで貫いているからでなく,たくさんの繊維が互いに重なり合っているからである。(『哲学的探究』67節の拙訳)

 

仮に上記の10名の「○○家親族」を例えば「成員1から三親等の者」と集合論的に定義できるとせよ,その定義条件(内包)に完全に対応する,つまりは「○○家親族」の全員に共有される外見的特徴は見られないかもしれない。もちろん例えば「鼻がある」などは全員に共有されている特徴であるが,それは「○○家親族」の必要条件ではあっても,「○○家親族」特有の十分条件でないし,「○○家親族」を定義できる必要十分条件でもない。

そうなれば,仮に本質主義的な内包定義が可能であるにせよ,場合によっては親族的類似性でさまざまな分布で共有される複数の特徴で「○○家親族」を記述した方が便利であることもある,ということになる。

10教科は,親族的類似性でとらえた方がよいのではないかというのが筆者の主張である。親族的類似性でとらえた10教科は例えば図3のように表現できるかもしれない。


 

 この重なり具合は,実際の10教科の重なり具合を表現したものではない,あくまでも単純な例示であるが,この図では,それぞれの教科は他の教科とそれぞれの重なり具合を有している。重なりは親族的類似性での特徴となるが,重なりの中には2教科だけの重なりもあれば,4教科での重なりもある。教科1は教科2や教科3教科4と重なるところが多いかもしれないが,教科8や教科9や教科10とは重なるところをまったくもたないかもしれない。

 しかしこの図では,他の教科との重なりをまったくもたない教科はない。10教科はなんらかの形で,直接的に・間接的につながっている。この配置を10教科のあり方と考えてはどうだろうか。例えば英語科は同じ言語科という点で国語科と,音声表現という点で音楽科と重なり合い,社会科とは直接の重なり合いをもたないように認識できるかもしれない。だが,音楽科が技芸性ということで家庭科と重なり,家庭科が人々の暮らしという点で社会科と重なるなら,英語科と社会科はつながっている。

 つながっているとすれば,ある教科で起きた変化は,他のどの教科にも影響を与えると考えることができるだろう。もちろん直接的に重なる教科には大きな変化が,間接的にしかつながっていない教科にはやや小さな変化が起きるなど,影響の具合はさまざまに異なるであろう。だが,どの教科もつながっており,どの教科の変化も他の教科に変化をもたらす。どの教科の変化も自分の教科の変化につながる。ある教科に対する認識が変われば,自分の教科に対する認識も変わる。自分の教科に対する認識が変われば,自分の教科実践も変わる。自分の教科実践が変われば,それは他の教科実践にも変化を与える ― これが親族的類似性で10教科をとらえた場合の考え方となる。

 この考え方では,10教科で共有されているのは,本質ではなく連動性 (coherence) [ii]である。どの教科も,他の教科と連動しているという点で10教科を考えれば,それぞれの教科の人間もさほど無理なく,異教科間の協働ができるのではないだろうか。

 だが,この協働も容易なことではない。たとえ間接的につながっているとはいえ,縁遠く見える教科の話を我が事として聞くことは少なくとも最初は容易ではないだろう。

 その中で大切になってくるのが,「対話」 (dialogue) であろう。筆者は,教科教育学専攻の共通科目について経験を重ねるにつれ,「対話」の重要性を痛感するようになった。「対話」の理論と実践を深めることが私たちに必要だが,それは別稿での課題としたい。

 

 

参考文献

Bohm, D. (2004) On Dialogue. Routledge.

Wittgenstein, L. (1953) Philosophical Investigation. Blackwell.

鶴見俊輔 (2002) 『読んだ本はどこへいったか』 潮出版社

 



[i] この用語は通常,「家族的類似性」と訳されているが,筆者は「親族的類似性」という訳語の方がこの概念の意味をより適切に伝えると考えている。なぜなら,現代日本で「家族」ということばはしばしば核家族などの極めて少人数のメンバーから構成される集団を意味するが,ウィトゲンシュタインが言いたかったのは,それよりも大きな集団,つまり現代日本での冠婚葬祭などで言われる「ご親族」(「義理」の関係も含んだ複数の世代におよぶ血縁集団)における類似性であったからである。

[ii] 「連動性」という用語は,ボームの対話論での “coherence”の訳語として筆者が用いているものであり,複数の事物が直接的・間接的に,同義的に・連想的に,求心的に・遠心的に等などの様々なやり方でつながりあっている事態を表現するために用いている。 “Coherence” の訳語としてはしばしば「一貫性」が用いられているが,この訳語は,「一本の繊維が糸の端から端まで貫いている」事態を想起させるので,筆者は,ボーム (Bohm) のいう定義で言う“coherence”の訳語としては好ましくないと考え,この「連動性」を使っている。ちなみにボームの “coherent” の意味は,英語での通常の定義なら “united as or forming a whole” (Oxford Living Dictionaries) の意味に近い。


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