2020/09/24

「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The Reflective Practitioner" の第2章のまとめ


以下は、Donald Schön (1983) The Reflective Practitioner: How Professionals Think In Action (Basic Books) の理論的中核ともいえる第2章のFrom Technical Rationality to Reflection-in-Actionのまとめです。

翻訳書である『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』(佐藤学・秋田喜代美訳、2001年、ゆみる出版)も参考にしましたが、下の要約および翻訳の日本語は基本的に私が日本語としてのわかりやすさを優先して翻訳したものとなっております。したがって、例えば "Technical Rationality" は「工学的合理性」、"reflection-in-action" は「行為内在的省察」と訳したりしています。補記はいつものように私の駄弁です。


■ 工学的合理性は実証主義的な実践の認識論であり、実践の認識論の特殊形態である

図解:本書は、「工学的合理性」 (Techinical Rationality) を批判して、真正な実践の認識論の復権を説いていることで有名です。ですが、両者は相互排他的な関係にあるのではないことに注意すべきかと思います。工学的合理性は、特殊な実践の認識論(問題が明確に定義された事例でもっぱら有効な実践の認識論)であり、それは広く一般的な実践の認識論の一部としてとらえられるべきです。以下のように図示すると、その包含関係を明らかにできると考えます。




訳注: "Technical Rationality"を私は今まで他の人と同じように「技術的合理性」と訳していましたが、今回本章を再読して、この語は「工学的合理性」と訳した方がその意味が伝わりやすいと考えましたので、以下後者の訳語を使います。


関連記事:

教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/08/blog-post_7.html


関連記事:

ウィキペディア:実証主義

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9

Wikipedia: Positivism

https://en.wikipedia.org/wiki/Positivism



■ 工学的合理性では、専門職の活動が科学的な問題解決だと考えられている。

要約:工学的合理性 では、専門職の活動 (professional activity) は、「科学の理論と手法を適用することによって厳密になる道具的な問題解決」 (instrumental problem solving made rigorous by the application of scientific theory and technique.) (p. 21)だと考えられている。

補記:この認識は、英語教育研究の業界でもまだ強いように思えます。とはいえ、一部の学会は、実践研究・実践者研究を取り込もうと努力を続けています。その動きを確かなものにするためには、この本のような現代の古典をきちんと再読することが重要でしょう。先駆的な才人が書いた古典を私のような凡人が理解するには、数年から数十年かかると私は思っています。


■ 工学的合理性による専門職の主流と傍流の区別

要約:工学的合理性の考え方によれば、明確な目標によって規定され、変化の少ない制度的文脈 (stable institutional context)で行われる専門職 (profession) が主流 (major) の専門職である。その例としては医療や法務や工学がある。

 他方、傍流 (minor) の専門職は、目的がゆらいだり曖昧だったりする不安定な制度的文脈で行われるものである。その例としてはソーシャル・ワーク、教育、都市計画などがある。(p. 23)

補記:自覚の有無にかかわらず工学的合理性を信奉している英語教育関係者は、英語教育研究をこの意味で傍流から主流にしようと努力しているのでしょう。


■ 工学的合理性による体系的知識の4つの特徴

要約:工学的合理性からみる体系的知識 (systematic knowledge) とは、「専門分化し、境界が明確に定められ、科学的で、標準化されたもの」(specialized, firmly bounded, scientific, and standardized) である。 (p. 23)

補注:科学技術において「知識」とされているものは、確かにこれら4つの特徴を有しているが、人間が日常生活の中で「知っていること」は必ずしもこれらでは特徴づけられませn。そんな日常知の復権を目指し、認識論の刷新を図っているのが、この著者のショーンであり、また、マイケル・ポラニーです。

関連記事:

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

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Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

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■ 工学的合理性による知の伝達順番

要約:工学的合理性で考えるならば、専門職における知は、「基礎科学 => 応用科学 => 診断・問題解決手法 (diagnostic and problem-solving techniques) => 実際のサービス提供」、の順で伝達されることになる。 (p. 24) 工学的合理性を教理として共有する人たちの間では、通常、源泉の知(基礎科学)が権威があるとされ、そこから離れれば離れるほど知的ではなくなると考えられている。

補記:このヒエラルキーは近年は少し緩んできたようで、基礎科学(英語教育の分野で言えば、英語学など)の研究者が、実践文脈の理解を取り込んだ著作を次々に公刊していることからも伺えます(その一端は、以下の書評でも扱いました。ちなみに、その書評は、今後、その下のようにウェブ公開されるかもしれません)。


関連サイト:

研究社『英語年鑑2020』

https://books.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327-39950-4.html

研究社『英語年鑑2019』回顧と展望

http://www.kenkyusha.co.jp/EigoNenkan/Year2019/


■ 工学的合理性の源泉は実証主義である。

翻訳:「工学的合理性は、実証主義による実践の認識論である」 (Technical Rationality is the Positivist epistemology of practice.) (p. 31)

補記:19世紀後半から20世紀初頭に隆盛した実証主義はこれまでずいぶん批判を受けています。ですから、哲学についてある程度の知識をもっている人が自らを実証主義者 (positivist) と名乗ることは現代では少ないと思います。

 ですが、哲学的自覚がない人が、事実上、実証主義者のような言動を示すことは今でも(少なくとも私の業界では)珍しくありません。明示化できないもの、あるいは数値化できないものに意味を見いださない人たちです。

 こういった事実上の実証主義者は、社会構成主義もまったく拒絶することが多いので、私としては時に対話を続けることに困難を覚えますが--それでも対話を続けることが私たちの責務です--、そういった人たちの「意味」についての狭い考えについても批判が必要ではないかと考えます。


関連記事:

K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/km-2018.html

オンデマンド配信シンポジウム:「学校英語教育は言語教育たりえているのか―意味の身体性と社会性からの考察―」 

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/06/blog-post_7.html

意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで 

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/2019-1-7.html

「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論―英語教育における意味の矮小化に抗して―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.53-62) 

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp53-62.html

「言語学という基盤を問い直す応用言語学?―意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて―」 (応用言語学セミナーでのスライドとレジメ)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/11/blog-post_15.html

「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/no19-pp7-17.html

ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html

ルーマン『社会の社会』第1章第3節(意味)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/13.html

「意味論の比較から考える小学校英語教育のあり方」(一般社団法人「ことばの教育」主催 講演会)のスライドを公表 

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2015/07/blog-post.html


■ 工学的合理性が遭遇した問題:複合性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤

要約:しかし近年、工学的合理性では、「複合性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤 」(complexity, uncertainty, instability, uniqueness, and value-conflict) などをうまく扱えないことがわかってきた。 (p. 39)

補記:これらの特徴に対応することは、現在、ますます重要になってきていますが、これらの特徴を考慮に入れた問題設定をすると、一義的な正解が得られない問いになってしまうことが、実証主義を秘かに信奉する研究者にとっては我慢のならないことなのかもしれません。

かつてウィトゲンシュタインは『論理哲学的論考』(6.52)で、「すべてのありとあらゆる科学的な問いに答えが与えられたとしても、人生の問題はそのまま手つかずに残っているだろうと私たちは感じている。その時もちろん、問いは残っていない。そしてそれこそが答えなのだ」(拙訳)と言いました(We feel that even if all possible scientific questions be answered, the problems of life have still not been touched at all. Of course there is then no question left, and just this is the answer.) ここでの「問い」とは "questions and answers"という対語表現が示すように、答えがあることが前提となっている問いのことです。(実際、彼は上の命題の親命題である6.5で「もし問いが建てられるのなら、その問いは答えることも可能なのだ」とも述べています (If a question can be put at all, then it can be answered.)

ウィトゲンシュタインのこの区分を用いるなら、「工学的合理性は、人生の問題に答えることができない。そしてそれこそがまさに工学的合理性として正しい答えなのだ」と言えるかもしれません。


■ 工学的合理性が不得手とする現実世界での問題設定

要約:工学的合理性は、問題解決に集中するあまり、問題設定 (problem setting) を不得手としている。現実世界における問題は、まごついてしまう厄介で不確実な(puzzling, troubling, and uncertain) 問題含みの状況の中で生じるので、必ずしも工学的合理性が想定するような明確に定義できる問題ではない。

 工学的問題解決 (technical problem solving) には問題設定が不可欠だが、問題設定自体は工学的問題 (technical problem) ではない。 (p. 40)

補記: "Technical problems" (工学的問題・技術的問題)という用語は下の記事・図書では、"adaptive challenges" (適応課題)という用語と対比的に使われています。


関連記事:

現代社会で学ぶことの意義--VUCA, Adaptive Challenge, 4Cs, Societyの視点から--

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

関連図書:

ハイフェッツ、リンスキー著、野津智子訳 (2018) 『最前線のリーダーシップ』英治出版

http://www.eijipress.co.jp/book/book.php?epcode=2256

私は上のブログ記事を今年度前期の授業の最初に紹介しました。COVID-19で社会が混乱し始めた時期だったこともあり、学生さんは技術的問題(工学的問題)だけではなく、適応課題--規定の解決法が使えず、自分自身も変わらなければならない課題--にも対応できなければならないことをよく理解してくれたように思います。

中には、自分はこれまで受験勉強を中心にして、技術的問題(工学的問題)の解決能力は高めてきたけれど、適応課題に直面することは避け続けてきたと述懐する学生さんもいました。

ただ、一部の学生さんは技術的問題(工学的問題)を解決する能力は、適応課題に対応する際の基礎になると指摘してくれました。

これはその通りで、適応課題に対応する際も、私たちはしばしば、これまでの問題解決方法を細分化した上で、それらをこれまでにはない組み合わせで統合して適応課題に立ち向かいます(そして、失敗するたびに部分修正をして再度挑戦します)。

ある意味、適応課題の多くの部分は、それを新たな技術的問題(工学的問題)に変換・翻訳することで解決すると言えるかもしれません。

とはいえ、問題状況が刻々と変わったり、調停できない価値対立があったり、何より当事者自身が根本的な認識変容をしなければならなかったりするなどの点で、適応課題のすべてを技術的問題(工学的問題)に還元してしまうことは私は無理だと思っています。


■ 問題設定には、名づけと枠組みづけが含まれる。

要約:問題設定においては、注目すべき事物に名前をつけ (name)、それらの事物が入っている文脈を枠組みづける (frame) ことが必要である。物事に解釈の枠組みを与えることは、工学的なことではない (non-technical)。 (p. 41)

補記:問題となっている事象に対して、適切な考え方(枠組み)と適切な名称をつけることは、現実世界の中で非常に重要なことですが、この枠組み付け・名づけは、演繹の結果でも帰納の結果でもなく、仮説発想に基づく推論 (abduction) であることにも注目すべきでしょう。ですから、適切な枠組みや名称は、絶対的な唯一の結論(=演繹の結果)でも現時点での最良の結論(=帰納の結果)でもありません。それらは、たまたま思いついた着想にが、それなりにうまく物事を説明しているに過ぎず、その着想に万全の確証性はありません。一部の人は、その確証性の欠如に座りの悪さを覚えるかもしれませんが、鶴見俊輔の『アメリカ哲学』を若い時に読んで以来pragmatistを自認する私としては、認知能力に限りのある私たちが複合的な現実世界で問題に対処するには、それぐらいが私たちができることだろうと思っています。


関連サイト:

Wikipedia: Abductive reasoning

https://en.wikipedia.org/wiki/Abductive_reasoning

ウィキペディア:アブダクション

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%80%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

Wikipedia: Pragmatism

https://en.wikipedia.org/wiki/Pragmatism

ウィキペディア:プラグマティズム

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0


■ 工学的合理性にとらわれたままの実践者

要約:「厳密性か適切性か」 (rigor or relevance) という相互排他的な二者択一を突きつけられた実践者 (practitioner) の中には、工学的合理性が提示する厳密さを好み、現実世界の実践を、工学的合理性が規定する専門職知識 (professional knowledge) の枠組みでしか理解しようとしなかった者もいる。そういった人たちは、研究の枠組みから外れるデータは無視するか「ゴミカテゴリー」 (junk caterories) に入れてしまった。手持ちの手法で解決しない不都合な結果は、「個性」や「政治」、あるいは「困った人」や「問題児」のせいだとしたりもした。クライアントを犠牲にして、実践者の専門知(expertise) のプライドを守ったともいえるだろう。 (pp. 44-45)

補記:「適切性」を重んじ、「実践派」で「プラグマティスト」であると自覚している私としては、「厳密性」を重んじる研究者がきれいに整理してしまった人工的世界の記述に居心地の悪さを感じます。「そりゃあ、まぁ、そのように選択的な記述をすれば、そうなるかもしれないけれど、その記述は現実世界の記述としては適切なものだと言えないだろう」というのが私の実感です。しかしこの本の著者は、後に述べるように、実践の認識論や行為内在的省察を通じて、厳密性と適切性を両立させることができると説いています。


■ 工学的合理性的特徴をもたない実践の認識論

要約:実践の認識論は、工学的合理性の認識論も含むが、それ以外の認識論も有している。後者の認識論は、「実践者が、不確実で不安定で独自性と価値葛藤にみちた状況において従事する芸術的で直感的な過程 (artistic, intuitive processes) に暗示されているものである。 (p. 49)

補記:私も今まで、実践の認識論と工学的合理性を二律背反・相互排他的概念と誤解していましたが、今回の再読で、実践の認識論は、一部の問題の特殊な認識形態として工学的合理性を含むものだと理解して得心しました。


■ 私たちの日常的な知は、行為に内在している。

要約:私たちは、日常に行っている即興的で直感的な行為を、適切に記述することはできない。「私たちが知るということは、通常は、行為のパターンにおいても、行為において扱っているものに対する感覚においても、暗黙的で暗示的である。私たちは、私たちの行為に内在的であると言ってよいだろう」 (Our knowing is ordinarily tacit, implicit in our patterns of action and in our feel for the stuff with which we are dealing. It seems right to say that our knowing is in our action.) (p. 49)

訳注:"In"という前置詞は、この本では "reflection-in-action" などの用語で使われるので、その意味を明示的に示すために、あえて「内在的」などと訳すことにしました。なお、"in" は時折 "on"と対比的に使われるので、"on" には「対象的」といった訳語を与えることにしました。

ちなみに、しばしば "reflection-in-action" と "reflection-on-action"という用語対比がで見られますが、後者の用語はこの章にはみられず、ハイフンなどなして "on" が使われているだけです。


■ 行為に内在する知の中に、行為を対象とした知も含まれる。

要約:行為に内在した知を有する者は、しばしばその行為の基準 (criteria) や規則や手続き (rules and procedures) を適切に述べることができない。しかしながら、日常の人々も専門職の実践者も、時に、自分がやっていることについて考える (think about)。時に、行為を行いながら考えることもある。(p. 50)

 「自らの行為を対象として、あるいは、その行為に暗黙的に示されている知を対象にして、振り返って考える」 (they turn thought back on action and on the knowing which is implicit in the action) わけである。自らが暗黙的にしかしらない行為の基準や規則や手続きについて考え始めるわけである。「通常、行為に内在した知を対象とした省察は、目の前にある事柄を対象とした省察と共起する」 (Usually, reflection on knowing-in-action goes together with reflection on the stuff at hand.) (p. 50)

 人は、「自らの行為に暗黙的に示されていた理解を対象にして省察する。その人はその理解を、表面に浮上させ、批判し、再構築し、将来の行為に内在する形で身体化する」 (he also reflects on the understandings which he surfaces, criticizes, restructures, and embodies in further action. )(p. 50)

「実践者は、行為を対象として省察しているのだが、時には、行為に内在しながら省察している」。 (They are reflecting on action and, in some cases, reflecting in action.) (p. 55)

訳注:上の翻訳ではさすがに "in" を「内在的に」と訳しても意味が通りにくいと思ったので「内在しながら」と訳しました。


■ 実践者の技量の中心にあるのは、行為内在的な省察

翻訳:「実践者が、時に不確実性・不安定性・独自性・価値葛藤にみちた状況にうまく対処する「アート」の中心にあるのは、この行為内在的な省察の過程すべてである」 (It is this entire process of reflection-in-action which is central to the "art" by which practitioners sometimes deal well with situations of uncertainty, instability, uniqueness, and value conflict.) (p. 50)

訳注:ここでは有名な用語である "reflection-in-action" を「行為内在的な省察」と訳しました。

 また "art" をどう日本語に訳すかはいつも苦労します。『ブリタニカ国際大百科辞典・小項目事典』が言うように、本来「芸術」という語は、日本語においても、ことさらに美的な制作だけを指さない一般的な意味をもったことばでした。(「本来的には技術と同義で,ものを制作する技術能力をいったが,今日では他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう」。たとえば江戸時代の『天狗芸術論』は剣術書・兵法書であり、「武芸」についての本といえるでしょう。

補注:しかし、日本では古来、何らかの事物を作り出したり、自らの行動を変容させたりする場合では、「美」が一つの基準となっていたのであり、その美的な行為の修練を極めることが、健康増進(広義の医療的活動)になっていたという説もあります。そうなると、近代的な美術に相当する作成活動だけでなく、茶道・華道・書道などの芸道や、剣術・柔術・武術などの武芸などの中核には「美」の観念が潜在していたといえるかもしれません。その意味では、 "art" の訳語に、思い切って「美芸」という新語を充てることも可能かもしれません。

ちなみに上の説は、稲葉俊郎先生 の『いのちを呼びさますもの --ひとのこころとからだ--』 からのものです。私は以前一度だけですが、稲葉先生のワークショップに参加して感銘を受けていましたが、不勉強で先生の著書は読んでおらず、最近、上掲書を読み、さまざまな深い学びをさせてもらったように思います。稲葉先生の著書については、改めてまとめる機会を設けたいと思います。


■ 常識的に考えても、知が行為に内在しているという主張には何らおかしなところはない。

要約:いわゆるノウハウも行為に内在している (the know-how is in the action) (p. 50)。綱渡り師のノウハウは、綱の上でどう歩くかということの中に存在する (lies in) するし、そのことによって示されている (is revealed by) といえる。 (pp. 50-51)

「常識で考えてみても、ノウハウは、私たちが行為以前に心に抱く規則や計画によって構成されているのだ、などと主張する必要などない。たしかに私たちは時に行為をする前に考えるが、巧みな実践の即興的行動の大半において、私たちは、事前の知的操作から派生したのではない知を示すことも事実である」 (There is nothing in common sense to make us say that know-how consists in rules or plans which we entertain in the mind prior to action. Although we sometimes think before acting, it is also true that in much of the spontaneous behavior of skillful practice we reveal a kind of knowing which does not stem from a prior intellectual operation.) (p. 51)

補記:上の綱渡りの例は絶妙かと思います。類比的に言うなら、私たちが現実世界でどうコミュニケーションを遂行するかというノウハウは、その現実世界の状況および話者とその状況との関係性の中に埋め込まれているのであり、そのノウハウを「コミュニケーション能力」として脱文脈化して一般化・普遍化するのは、少し「無理筋」なのかもしれません。


■ 実践とは、特定状況での行為遂行とそのための準備の両方を指す。また、実践には繰り返しの要素がある。

要約:実践とは、一連の専門職的な状況の中での行為遂行 (performance in a range of professional situations) と、そのための準備・練習 (preparation) の両方を意味する。また、実践は繰り返しを伴うものであるので、専門職の実践者とは、「ある種の状況に何度も何度も遭遇する特化的技能者(スペシャリスト)」 (a specialist who encounters certain types of situations again and again.) (p. 60) であるともいえる。

訳注:ここでは "practice" をそのまま「実践」と訳しましたが、もちろん上の第二番目の意味での "practice" は素直に「練習」と訳すべきでしょう。


■ 「実践的現在」は一瞬のこともあれば数ヶ月に及ぶこともある。

要約:行為内在的な省察を語る際に、行為の内にとどまっている時間(=「実践的現在」 ("action-present") は、一瞬のこともあれば、数分、数時間、数日、数週間、さらには数ヶ月となることもある。例えばオーケストラの指揮者にとっての実践は、ある意味では一曲の演奏であり、別の意味では一シーズンを通じての演奏活動である。「行為内在的省察のエピソードのペースや長さは、実践状況のペースや長さと共に変わる」 (The pace and duration of episodes of reflection-in-action vary with the pace and duration of the situation of practice.) (p. 62)

補記:これはとても重要な指摘で、実践的現在とは、一瞬から長期間に及ぶということは、実践内在的省察を語る上で忘れてはならないことでしょう。


■ 省察の対象もさまざまである

要約:省察の対象は、判断の中に潜在している暗黙的な規範であったり美的実感 (tacit norms and appreciations) かもしれないし、一連の行動につながる感情 (the feeling for a situation which has led him to adopt a particular course of action)かもしれない。あるいは問題をどの枠組みに入れるかや、自分が制度的文脈の中でどのような役柄を作り上げていったかかもしれない。 (p. 62)

訳注:"Appreciation"もいつも訳語に困ることばです。ここでは上の稲葉俊郎先生の説を踏まえた上で、「美的実感」と訳しました。ちなみに下の論考では「鑑賞・実感」と訳しました。

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■ 実践者は実践の中で実験を繰り返す

要約:実践者が、これまでの実践内在的な知識で対応できない場合は、その知識を表面に浮き上がらせ批判し、新たな実践内在的知識の記述を生み出し、それが目の前の現象に対応できるかをその場で実験する (on-the-spot experiment)。時には自分の感情を言語化することによって現象についての新たな理論に到達することもある。(p. 63)

実践者は実験を行い、それによって現象の新しい理解と状況における変化の両方を生み出す。(p. 68)

補記:例を出してみれば、それまで瞬間的な判断(直感力)で指していた棋士が、ある局面で手詰まり感を覚え始め、これまでの指し手を振り返り、長考を始め(大局観)、数々の展開を自分の頭の中でシミュレーションして、次の一手を決める(決断力)といったところでしょうか。

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■ 行為内在的な省察は、実践者を、実践状況での研究者にする。

翻訳:ある人が行為内在的な省察を行えば、その人は、実践状況での研究者 (a researcher in the practice context) となる。その人は、既存の理論や手法のカテゴリーには依存せずに、独自の事例に対しての新しい理論を構築する。その人の探究は、目標に関する事前の合意に依拠した手段についての熟慮だけにとどまらない。手段と目的を分けずに、問題含みの状況に枠付けをしながら、手段と目的を相互作用の関係性の中で定義する (define them interactively)。思考と行為を分けることなく、決定をしてから後にそれを行為に変換するといった段階的な推論 (ratiocinate) もしない。この実験遂行 (experimenting) は一種の行為なのだから、実行は探究の中に組み込まれている。したがって、行為内在的な省察は、不確実なあるいは独自な状況においても進行する。なぜならば、それは工学的合理性の二分法によって限界づけられていないからである。  (pp. 68-69)

訳注:ここに限らず、動名詞 (experimenting, knowing, reflectingなど)が使われている箇所では、その知が固定的で安定したものではなく、動態的で進行的なものであることを表現したいのだが、なかなかうまく日本語で表現できていない。


■ 行為内在的な省察は実践の中核であるが、工学的合理性の影響で、正統に評価されていない。

翻訳:行為内在的な省察は特別な過程 (extraordinary process) ではあるが、けっして珍しい出来事ではない。実際、一部の省察的実践者 (some reflective practitioners) にとって、それは実践の中核 (the core of practice) である。しかしながら、専門職らしさ (professionalism) が依然として主に工学的専門知 (technical expertise) でもって定められているので、行為内在的な省察は--それを行っている者にさえにも--専門職の知 (professional knowing) の正統な形式として一般に認められていない (not generally accepted) のである。 (p. 69)

補記:実証主義の影響(およびその残滓)があまりに強すぎたので、日陰に追いやられた行為内在的省察・実践内在的省察に正当な評価を与えようというのがこの本の主張です。この認識変容によって「専門職らしさ」(プロフェッショナリズム)も変わってほしいというのが著者の願いでしょう。自分の「プロフェッショナリズム」の追求として、評論家的存在から実践者(省察的実践者)になるために現在の職場に異動した私としてもこのような認識の転換が広く普及することを願っています。


■ 厳密性か適切性かという二者択一の解消

翻訳:厳密性か適切性かという二者択一的な難問 (the dilemma of rigor or relevance) は、工学的問題解決をより広い省察的探究 (reflective inquiry) の文脈に位置づける実践の認識論を私たちが開発することができれば、解消するのかもしれない (may be dissooved)。また、厳密性か適切性かという問題は、行為内在的な省察が独自のやり方で (in its own right) 厳密になりえるかを示し、不確実性と独自性の中にある実践を、科学者の研究という技芸 (art) と結びつける。したがって私たちは、行為内在的省察の正統性 (legitimacy) を高め、それをより広く、深く、そして厳密に使うことを促進することができるかもしれない。

補記:行為内在的省察を厳密に行うという大筋には賛成しますが、省察を「厳密に」やろうとする際に、どこか工学的合理性が入り込んでしまうことを私は恐れます。思案のあげくに、作曲家が次の音符を、小説家が次の単語を、棋士が次の手を、「厳密に」定める際の思考とはどのようなものでしょうか。そのような「厳密性」は、工学的合理性における「厳密性」とは異なるのではないかと私は考えています。

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ジョッシュ・ウェイツキン著、吉田俊太郎訳 (2015) 『習得への情熱 -- チェスから武術へ』(みすず書房)

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