2020/09/14

教科教育における「リアリティ」 -音楽科・社会科・英語科について-

   私の旧勤務校である広島大学では組織改編のため、私が所属していた教育学研究科はなくなり、新設された人間社会科学研究科の中に統合されました。その改編に伴い、旧教育学研究科のホームページ内容が失われました。

「広島大学 学術情報レポジトリ」でも、文章が掲載されていた研究の概要を伝える報告書しか掲載されていないので、私個人のブログに自分が書いた文章を再掲することにしました。

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(1) :

 教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて

http://doi.org/10.15027/42729

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(2) : 

異教科が協働する授業づくりへの「広大モデル」提示を目指して

http://doi.org/10.15027/45428


以下は、私がそこに寄稿していた文章の一つです。今思い出しても、他教科の同僚と真剣に討議できた時間は貴重でした。私たちがもし本気で異文化コミュニケーションを唱えているのなら、私たちはこういった機会をもっと増やすべきかと思います。



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教科教育における「リアリティ」

-音楽科・社会科・英語科について-

 

 柳瀬陽介英語教育学講座)

 

要約

この論では、学校英語教育が学習者の「リアリティ」の感覚に即していないのではないかという問題意識を受けて行われた対談に基づくもので、物語論の観点から社会科と音楽科と英語科におけるリアリティについて考察します。さらに、リアリティが教材から奪われ、学習者が学びのリアリティを、受験勉強についてのサクセスストーリーにしか感じることができなくなった場合についての懸念についても併せて言及します。

 

Ⅰ はじめに

最初にこの研究が始まった経緯を簡単に説明しておきます。音楽科の徳永は、現在の日本の音楽科の教育内容が学習者の興味・関心からかけ離れてしまっているのではないかという懸念を抱いていました。一方、社会科の草原もそのような問題意識から、「ナマモノ」を扱った公民科の教材を作成しました。「ナマモノ」とは文字通り生々しい題材です。解雇・冤罪・いじめ・デートDV・貧困などを物語形式で学習者に導入し、そのことを通じて公民科で学ぶべき概念について考えさせることが草原のねらいです。この草原の教材開発の発想から、徳永は、映画『TOKYO TRIBE』を音楽科の教材として扱いうるかという問いかけをし、徳永と草原だけでなく体育科の黒坂と英語科の柳瀬も加えた対談を行いました。この論では、その対談の中の「リアリティ」(1)という論点を取り上げ、それを物語の観点から考察し、徳永提案の意義を考えます。さらに、筆者が専門とする英語科についての論述を加えます。英語科の教員が、社会科と音楽科について考察する箇所には非専門家としての誤りが含まれているかもしれないことを予めお詫びしておきます。言うまでもなく、この論に含まれる誤りの責任はすべて筆者である柳瀬にあります。

 

Ⅱ 社会科のリアリティ

対談において、草原は徳永と問題意識を共有しながらも、草原実践での物語化は抑制的であったことを示しました。公民化の教材としては、できるだけ一次資料を大切にし、仮に一次資料に基づく評論や物語といった二次資料・三次資料を使うとしても、その作品の意図や背景を考えさせることを大切にするそうです。草原の教材では、題材に関する物語の一部を劇画調の画像で示すなどの工夫はあっても、その物語はあくまでも論点提示のための導入に過ぎないもののように思われます。

とはいえ、ここでは学習者の興味・関心を引くためには、たとえ抑制的ではあるにせよ物語という様式が選ばれていることに注目したく思います(2)。科学のテーマが真理、より具体的に言うならある命題が真であるかどうか、ということであるのに対して、物語のテーマは意味、特に生きる意味です。物語は、完全な虚構 (fiction) としても成立しますから、そこで語られる出来事が実際に起こった事実ではなくてもかまいません。しかし「何でもあり」というわけでもなく、物語には、「迫真性」 (verisimilitude) 、「真実味」 (truth likeness) 、「本当らしさ」 (lifelikeness) が求められます (Bruner 1990, p.61)。これらを読者に感じさせるのが物語作者の力量ですが、これは容易なことではありません。

ですから、物語(3)を社会科で使う場合は、できるだけ「事実に物語らせる」方針をとることが現実的でしょう。その端的な例が歴史科と考えられます(4)。公民科でしたら、教えるべき社会科学概念にまつわるエピソードの一つを取り上げることが考えられますが、そのエピソードはあくまでも社会科学概念の理解の糸口でしかありません。ですから、草原実践のように、その物語記述は最小限のものとなるでしょう。とはいえ、物語を使わなければ学習者に抽象概念の意味を実感させることは困難です。物語という様式で登場人物を出し、その登場人物が遭遇する葛藤を「仮定法的リアリティ」として学習者に実感させなければ、社会科学概念も自分とは無関係なよそよそしいものと思われるのではないでしょうか。

 

Ⅲ 音楽科のリアリティ

それでは音楽科ではどのように学習者にリアリティを感じてもらえるのでしょうか。徳永の対談での発言である「『みんなベートーベン聞きましょう、モーツァルト聞きましょう。美しいですね、きれいですね。人類の遺産ですね』と言ったところで、なかなか子どもたちのリアル[リアリティ]に響いてこない」に即して、ここでは鑑賞について考えます(5)

公民科での教育内容が社会科学概念であったのに対して、音楽科の鑑賞の教育内容はせいぜい「音楽の面白さやよさ,美しさ」としか言語的に表現できないものなのかもしれません。もちろんそれも、たとえば吉田秀和といった専門家なら、高度な分析と思考を言語化して音楽評論の形で表現することは可能でしょう。ですが、そのレベルのことは学習者には求められていないはずです。学習者に第一に求められているのは、神経科学のダマシオ (Damasio, 2012) の用語体系を借りて語りますなら、言語表現以前であり、言語や思考を生み出す基盤である情動 (emotion) や感情 (feeling) のレベルで豊かな体験をすることでしょう(6)

音楽の鑑賞の教育内容が、学習者がそれぞれに心身で経験する情動であり感情であるとすれば、それは伝達することがおよそ困難です。抽象概念でしたらとりあえず言語で伝えることもできますし、実際の事物でしたら実物や写真を指し示すこともできます。しかしそれぞれの学習者の内なる情動や感情は「それらを自分の中で作り出して実感しなさい!」と指示しても滑稽なだけです。鑑賞の模範的な感想文を指し示し「これを参考にしなさい」と言っても嘘くさいだけでしょう。「人類の遺産ですから、ベートーベンを理解しましょう」という指示は、ベートーベンの文化資本としての価値を知りそれを後に功利的に利用しようと思っているませた学習者でもないかぎり、リアリティを感じにくいものなのかもしれません(もちろん感性に恵まれた子どもは音楽の力に素直に感動してくれるでしょうが)。「権威なのだから学びなさい」といった言い方は、特に時代の権威から排除され否定されてるように感じている困難な状況にいる子どもには届かないでしょう。

こうしてみると映画『TOKYO TRIBE』といった題材を教材として扱う可能性について問いかけた徳永の提言は非常に合理的であるものであると思われます。この映画には次のような特徴があるからです。

 

・音楽表現が、非権威的・反権威的なヒップホップである。

・音楽表現は、いわゆる純粋音楽でなく、言語(リリック)を伴っている。

・言語が、ストーリーの中の登場人物の感情・思考表現となっている。

・登場人物は、社会から周縁化された人々である。

 

このような題材は、子ども(特に社会的・経済的・文化的に困難な状況にいる子ども)に音楽のリアリティを感じさせる糸口としては、理解可能な言語もなく、共感できる登場人物もストーリーもなく、ただ権威として示される純粋音楽よりも、はるかに効果的であることは間違いないでしょう。

ただ、映画『TOKYO TRIBE』という具体的な個別作品を考えてみますと、学習者がまず暴力表現や性的表現の方に引っ張られてしまう危険性が大きいものでした。また、いわゆるエリート層の子どもでしたら、描かれた世界をまず社会階層的に理解できない(あるいは偏見を強める形でしか理解できない)可能性も高いでしょう。さらにより重要なこととして、この映画が、音楽的な「美」の理念に学習者を向かわせるだけの音楽的に洗練された表現をもっていたか、さらには社会的なテーマを概念理解する必要性を学習者に感じさせるだけの多面的な表現となっていたかには疑問が残るところでしょう。ですがこれらは提案者の徳永が重々承知していたところであり、今回の徳永の問いかけは、現代における教材選定のあり方に対しての思考を迫る貴重な問いかけでした。その問いかけを受けて、以下では、筆者の専門である英語科について若干述べたいと思います。

 

Ⅳ 英語科のリアリティ

科学と物語という対比で考えるなら、リアリティを感じやすいのは物語であることは上で述べた通りですが、その物語は中高大の教材から大幅に減っています。中高の教科書に残る数少ない物語文についても、筆者が勤務する講座での二つの未刊行卒業論文は、物語文に対する教科書の問いかけのほとんどが事実確認に関する正誤が明確に定まる問いかけであり、読者が生み出しうる多様な解釈についての問いかけは1-2割程度であることを示しています。物語を読む面白さの重要な側面は、読者がそれぞれに想像力を働かせ、物語の細部を自分なりに書き足すことによって読者が自分なりのリアリティを感じることですが (Bruner, 1986)、そのような読解は、題材選択の点でも教科書発問の点でも軽視されています。

この背後には、いわゆる「客観テスト」がますます普及し権力化していることがあると考えられます。客観テストの一つとしてのセンター試験が高校教育に影響を与えていることは今に始まったことではありませんが、客観テストの多肢選択方式の問いは、一義的に定まらない解釈を構造的に排除してします。多肢選択方式は、一つだけの正解を定めるものですから、「確かにそうも考えられる。だが、こうも解釈できる」といった読解のポイントは決して取り上げません。ですがそういった箇所こそは物語読解の面白みであり、また政治やビジネスを問わず交渉の争点となるところであり、私たちがリアリティを実感するところです。ですが、そういった点が、客観テストへの効果的な対策のもと、40年近くも軽んじられてきたら(共通一次試験の開始は1979年)、その影響は深刻であるといえるでしょう。

加えて近年は、大学英語教育の成果もTOEICなどの客観テストで測定されることが増えています。それに伴い大学英語教育の内容の少なからずが試験対策の問題集をこなすことになりました。問題集の英文には無難な内容と表現しかないことが多いことも周知の通りです。また、そもそも客観テストで一定の点数を獲得したならば大学教育の単位を与えるという制度は、大学教育の意義を大学が自ら否定するようなことだとも考えられますが、その制度を導入する大学は増えこそすれ減ることはありません。さらに現在は、2020年に向けて数多くの民間客観テストが大学入試制度に導入されることが検討されています。これらのテストは読解について多肢選択方式を採択していますから、中高大の英語教育は、物語読解のリアリティからも、政治やビジネス交渉などでの現実世界でのリアリティからも離れる路線を突き進んでいるといえます(7)

このように英語教育の教材から学習者が感じるリアリティはますます少なくなっているようですが、そんな中でも英語の学びにリアリティを感じることは、それは「英語を学んでいれば将来役に立つ」というストーリーをどれだけ信じられるかにかかっているのかもしれません。話をもう少し一般化すれば、ある進学校では受験勉強を正当化するのに「今、君たちが覚えていることはWikipediaを調べればすぐにわかることにすぎない。だが、それを覚えられる能力を持つ者が社会的に選抜され将来の権益を得ることにつながることを忘れてはならない」といったストーリーが使われていました。英語の学びに関する上のストーリーもこういった受験勉強全般に関する大きなストーリーを基盤にしているのかもしれません。

そのようなストーリーを信じられる者は、身の回りにそのストーリーで解釈できる事例を多く知っている者となるでしょう。それは経済資本(家庭の収入など)、社会関係資本(有力な親族・友人・知人を多くもっていることなど)、文化資本(身近な環境が知的に充実していることなど)において恵まれた者であるはずです(8)。そういった者を(広い意味での)エリート(=選ばれた者)と呼ぶなら、リアリティを実感しにくい教材が多い英語教育(9)で成功する者は、そのほとんどがエリートであり、そのエリートの一部が英語教師となることが多いとはいえませんでしょうか。エリートは上述のサクセスストーリーを信じることができた者ですから、エリートの一部である英語教師も、社会的教養を欠いたままに職に就くならば、そのサクセスストーリーを信じることができない大多数の非エリート学習者を「やる気がない」とか「知性に劣る」などと断じてしまうかもしれません。公教育がエリートによるエリートのための教育でしかなくなったら、それは社会のあり方に不可逆的な影響を与えてしまうと考えられます。一部のエリートと、経済・社会関係・文化などで機会を奪われた非エリートに分断された社会を望む者は少ないと思うのですが、今、日本はそちらの方向に向かう兆しを見せていませんでしょうか。大学入学という公的な営みにおいて、値段の高い民間資格試験を積極に導入しようとしている英語教育関係者は、これからの日本のあり方についてどのような構想を抱いているのでしょう。

そういう意味では、徳永提案のような思い切った問題提起は、英語教育にこそ必要なのかもしれません。

 

 

 

(1) 「リアリティ」という用語についてここで説明をしておきます。筆者は通常、 reality”という英語は「実在性」と訳しています。”Actuality”の「現実性」と区別するためです。 Reality”はラテン語の res (= thing) を語源としてもつため、物体としての存在性を示す「実在性」が訳語としてふさわしいのに対して、 actuality はラテン語の actu (= act) を語源としてもつため、自らの見聞や行為によって明らかになってくる現象性を示す「現実性」が訳語として適切だと私は考えています。なお、この語源的観点は木村敏 (1994) 『心の病理を考える』(岩波書店)から学びましたが、木村はこの観点に基づきながらも二つの英語を「リアリティ」と「アクチュアリティ」というカタカナ語を使用しています。

話を「リアリティ」に戻しますと、現代日本の日常語で「それリアルだねぇ」や「なんだかリアリティがないなぁ」といったようにことばが使用される場合は、それらのことばは上の「実在性」にとどまらない広い意味を有しているように思われます。ですから、ここでは  actuality と対比した上での reality の訳語としてではなく、日本語文化の中で定着し土着化したカタカナ語として「リアリティ」ということばを使います。あえて他のことばで言い換えるなら「実在感・現実感」ぐらいの意味だと私は理解しています。

 

(2) 物語については、この共同研究プロジェクトの別の論考(「それぞれの教科の中の科学と物語」)で触れましたので、物語に関する諸概念はそちらを参照してください。ここでは物語についてその別論考ではあまり述べなかった観点を若干追加的に述べています。

 

(3) 念のためにここで補っておけば、ここでの「物語」 (narrative) とは、「誰がいつどこで何を意図して何を行い・・・」といったストーリー (story) という認知形式を言語で表現したものを意味しています。つまり、抽象的な「ストーリー」が具現化された言語的産物が「物語」というるわけです。ただし、日常語では「物語」、「ストーリー」、「(お)話」はしばしばほぼ同義語として使われることはご承知の通りです。

 

(4) このように歴史叙述にいわゆる「事実」(=専門家集団によって証拠付けられた出来事)だけを掲載しても、それはたとえばその時代の体制が信奉するイデオロギーや個人が偏愛的に好むイデオロギーといったより大きなストーリーによって、恣意的に利用されうることは忘れてはならないでしょう(ホワイト (2017) も参照のこと)。「事実」も自分が都合のよいように選択して組み合わせば、ストーリーの一部として使われます。語りの事実性だけをもって物語性が排除されるというのは単純な想定というべきでしょう。

 

(5) これが演奏などの表現活動でしたら、学習者は自らの身体をつかった表現行為によって「現実性」 (actuality) を実感できるという解釈も可能かもしれません。最初はよそよそしかった曲も、自分(たち)が表現行為を重ねるにつれ、演奏活動に独特の現実性が現れ始め、後日それが唯一無二の記憶となるといった事態は容易に考えられます。

 

(6) ダマシオによるなら、人間は身体内の生理学的・生化学的・神経的な動きである情動 (emotion) の一部を感情 (feeling) として自覚します。その感情が私たちの意識の基盤(中核意識 (core consciousness))です。その中核意識の上で人間は獲得した言語を用いて、「今・ここ」の中核意識の時空を超えた未来・過去の(想像世界も含む)ありとあらゆる場所についての思考を働かせることができます(拡張意識 (extended consciousness) )。これらの用語の説明については柳瀬(印刷中)をご参照ください。

 

(7) 科学におけるリアリティを英語教育で実感できるような試みとしては、CLIL (Content and Language Integrated Learning) などが着目できますが、現時点での普及は芳しくないというのが実情でしょう。

 

(8) あるいは、経済資本・社会関係資本・文化資本に恵まれていない逆境にいる者が、そういったサクセスストーリーを固く信じこむことによって自らを奮い立たせることも世間では見受けられますが、そういった者は、少なくとも知能や体力などで平均以上に恵まれた者であることが多いと私は考えます。

 

(9) しかし、英語という外国語を自分の身で聞き話す活動などで学習者が actuality (アクチュアリティ・現実性)の側面の強いリアリティを感じられることは十分に考えられます。しかし、そのアクチュアリティ・現実性は、教室の外に出て英語を使った時に、自分が学校で培った力が通用しないことで失われてしまうこともよくあることです。

 

 

引用文献

ホワイト, H. 著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』 岩波書店

柳瀬陽介(印刷中)「優れた英語教師における感受性の働き ―情動共鳴によるコミュニケ

ーションの自己生成―」 『中国地区英語教育学会研究紀要』No. 48.

Bruner, J. (1986). Actual minds, possible worlds. Harvard University Press.

Bruner, J. (1990). Acts of meaning. Harvard University Press.

Damasio, A. (2012). Self comes to mind. Vintage.

 

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