2020/09/15

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

 

 

はじめに

 この記事は、Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge: Towardsa Post-Critical Philosophy (The University of Chicago Press) [翻訳:マイケル・ポラニー著、長尾史郎訳 (1985) 個人的知識』(ハーベスト社)] の中で、言語教育に関係すると思われる箇所についてまとめたものです。私は下の拙論を書いて以来、本書を約10年ぶりに読みましたが、今なお学ぶべき点が多く、また以前には十分に理解できなかった点もあり、大変勉強になりました。

 


柳瀬陽介

「インタビュー研究における技能と言語の関係について」『中国地区英語教育学会研究紀要』200737 pp. 111-120

https://doi.org/10.18983/casele.37.0_111

 

 まとめる際は、最初に翻訳書を通読し、重要箇所にアンダーラインを引き直してから、原著の相当部分(およびその前後)を読むという方法を取りました(本来は原著を最初から最後まで何度も通読すべきですが、そのような丁寧な勉強ができていないことを恥じます)。翻訳書の翻訳は非常に吟味されたものですが、いつものように私は自分の理解を深めるためあるいは後述する論点を先取りして述べるなら、私なりにこれまで「献身」してきた日本語という「人格的知識」に忠実であろうとして自分なりの翻訳を試みました。翻訳の後に掲載されているページ番号は、最初が原著の、二番目が翻訳書のページ番号です。

 まとめは、以下のキーワードに基づき再構成しました。最初にこれらのキーワードを用いた要約を掲載し、次に原著の翻訳と補注を掲載します。このまとめが少しでも言語教育の理解を深めるために役立てばと願っています。いつものように、もしまとめに間違いがあればご指摘いただけたら幸いです。

 

 

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キーワード

技芸の規則

鑑識眼

焦点的覚知と補助的覚知

「語り得ない」ということ

模倣

人格的知識と献身

言語使用と適応

意味と定義

言語とコミュニケーション

言語習得と共同体

 

 

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要約

 

 言語化された技芸の規則は伝承であり、先人の実践例から学ぼうとする学習者にのみ意味を成すものである。同じことは、鑑識眼を学ぶ際にもいえる。伝承をうまく活かせるのは、その実践に伴う実践的知識という基盤があってのことである。

 実践的知識は、焦点的覚知と補助的覚知という二種類の認識方式で実践者に自覚される。焦点的覚知とは、その実践の成果の進行に関わることであり、実践者は実践の成否に集中する中で、具体的な諸事項を補助的に覚知する。補助的覚知が意識の中心にくることはない。理論的には、第三者がある実践に関わるすべて(と思われる)具体的諸事項を列挙することは可能かもしれない。だが、実践者がある実践を成功させようとその成果の進行状況に集中しながら、同時にそれら具体的諸事項にも集中することは、人間の意識の容量・能力の限界を超えており、不可能である。

 したがって、技芸について私たちは「語り得ない」といえる。だが、その意味は2つあることに留意しなければならない。一つは、ある技芸について語られた伝承を、その技芸についての経験がほとんどない第三者が適用してもその技芸はうまく行かないという点で、「技芸は明示化された言語を伝達するだけでは習得できない」という意味である。もう一つは、「ある技芸について徹底的な言語化がなされた規則を、ある人が自分自身に適用しようとしても、それはその人の意識の限界を超えているので、その技芸はうまく実践できない」という意味である。ゆえに技芸が語り得ないとは、技芸が言語化をまったく許さない神秘的なものであるという意味ではなく、技芸を言語に還元してしまうことはできないということである。技芸の言語化はせいぜい伝承ぐらいで、その伝承を使いこなすことができるのは、先人の例示を模倣しようとする者だけである。

 模倣とは、学習者がこれまでの自らのやり方を放棄することさえいとわず、先人のやり方を信頼して、先人の実践の後を追うことである。

 そのような模倣を経て得られた実践的知識(技能・鑑識眼)は、人格的知識である。自らの身を捧げて獲得された実践的知識は、その実践者の人格(=生き方)の一部となるからである。

 こういった点から、人格的知識は献身によって獲得されるものといえる。ある実践の技能および鑑識眼を獲得し、その普遍性を高めるために、学習者が自らの人生(の一部)を捧げるからである。その人の人生がかけられているという点で、人格的知識は"客観的"ではないが、かといって恣意的・気まぐれという意味の"主観的"なものでもない。人格的知識は、主観的/客観的という二項対立を超えている。

 また人格的知識は先人の実践をまったく同じように再生産することではないことも忘れてはならない。現実世界の状況にまったく同じものがない以上、人は新たな状況に適応し、実践的知識を絶えず修正する。その修正という創造が適切であるかどうかを判断するのは実践者自身であるが、その判断は単なる自己満足ではなく、より現実に近づこうとする普遍的な意図をもってのものである。この点においても人格的知識は単に主観的なものとして片付けるわけにはいかないが、それは我が身を献身することでしか獲得できないという点で客観的であるとは言い切れない。

 言語使用ができるようになることも技芸の一つである。だが、たいていの言語使用は、ある同じ状況にある同じ単語を無人格的に適用する言語操作ではないことを忘れてはならない。ほとんどの言語使用は、程度の差こそあれ、新たな状況に適応するためのものである。言語使用者は、それまでの言語使用の実践的知識を修正しなければならない。その修正に基づく言語使用の結果は、その言語使用者が自分の人生で受け入れる。かくして、言語使用は人格的なものとなる。

 だが言語使用が複数・多数の人間が関わるものである以上、人格的な言語使用はより普遍的な(=より明晰でより一貫し、より多くの人に通じる)言語使用を目指すことになる。またこの普遍性は、言語使用が、人間とは独立して存在する事物とも関わっていることからも追求せざるをえないものである。このように言語使用者は、自らが人格を託してより妥当になることを求めながら使用してきた言語に、自らを捧げている。このような人格的な献身を伴わずに言語を使うことは、単なる機械的な言語操作であり、人間的な言語使用であるとはいえない。

 そのような言語使用において生じる意味は、人格的で実践的な知識に根ざしているものであり、それのすべてを定義で形式化(=無人格的・機械的に適用できるように定式化すること)はできない。私たちは自らが使用する言語の正しさを、自らの人格をかけた言語使用をすることによって示そうとする。その正しさは、これまでのその人の言語使用が他の人に正しいとして認められてきたこと、およびその人がその人の責任をもって、かつ十分に思慮深く、今回の事例に適応しようと言語を使用したことに依拠している。いわゆる定義が有効なのは、その定義を読む人が、その定義される語が使用されている営みにある程度参加している限りにおいてのみである。人格的な言語使用から完全に独立した外部からの形式的な定義では、言語使用における意味を解明できない。

 こうなると、言語を使ってのコミュニケーションとは、それぞれの参加者が、互いの人格的知識と人格的献身を信頼しつつ、それぞれの人格をかけて新たな事例に対して適応的にことばを発することの連鎖であると説明できる。言語とコミュニケーションが一体化することによって、言語という形式は、コミュニケーションという人格的な営みにおいて、人格的な献身を受け、人間の営みの一部となるともいえよう。もちろん、コミュニケーションの結果、あることばの使用が適切でなかったことが判明する場合もある。しかしその不適切性がわかるのも、コミュニケーションの参加者同士が、お互いの人格的献身を前提としているからである。お互いが、最善の言語的コミュニケーションをしているはずだという前提があるからこそ、コミュニケーションの結果が不全であることから、どこにその原因があったのかという探索も始まる。(その前提がなければ、すべての参加者は他者を罵り続けるだけであろう)。

 新たな機会に適応するためにことばが探される時、ことばは新たな意味(特に含意)を獲得する。そういったことばがコミュニケーションによって多くの人々に共有され、言語は人々の概念的枠組みとして進化する。子どもや外国人が新たな言語を習得するとは、そのように共同体で共有された概念枠組みによって生活することを学ぶことである。言語習得と共同体は不可分である。言語という形式が意味をもつのは、それがその言語に人生を託している人々によって使われた時だけである。

 

 

 

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翻訳と補注

 

技芸の規則

 

 伝承は実践的知識をもつ者の中で有益なものとなる。

 

翻訳:私は技芸の規則 (rules of art) についてもう少し述べたい。技芸の規則を私は伝承 (maxims) と呼ぶことにする。伝承とは規則であり、それを正しく適用 (correct application) することが、技芸の一部となっている。ゴルフや詩作の真の伝承はそれらの技芸の洞察を深めるだろうし、ゴルファーや詩人にとっての重要な導き (valuable guidance) ともなり得よう。しかしもしそれらの技芸に携わる者が、伝承だけで技術と技芸を獲得しよう (replace) するなら、伝承はただちに戯言 (absurdity) となる。伝承を理解できるのは、技芸の実践的知識 (a good practical knowledge) を既に所有している者だけである。ましてや伝承を適用することが、実践的知識をもっていない者にできるわけはない。伝承が興味あるものとなるのは、私たちが技芸を実感 (appreciation) するからこそである。伝承そのものがその実感となる (replace or establish) ことはない。(中略)私たちが人格的知識 (personal knowledge) への献身 (commitment) を受け入れるなら、人格をかけて知ること (personal knowing) の営みにおいてのみ有益 (useful) になる規則[=伝承]があるという事実に私たちは向き合うことができる。さらに私たちは、人格をかけて知るという行為の一部として、伝承がいかに有益であるかも知ることができる。(p. 31, 29ページ)

 

補注 “art” はそのまま「アート」と表現しようかとも考えたが、「技芸」としておいた。また “maxim” は、後に述べるように技芸の伝統に服して先人の技芸に倣うことにより体得できるものであるから「伝承」と訳した。 

 “appreciation” は以下の小論での表現を参考に「実感」と訳した。

 

創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/blog-post_90.html

 

追記:2020/11/05

その後、"appreciation/appreciate"は「身をもって理解(する)」とも訳せるのではないかとも思えてきました。この語の翻訳についてはこれからも考え続けてゆきたいと思います。

  

 “Personal knowledge” は翻訳書では「個人的知識」となっているが、これは人格をかけて知ること (personal knowing) (=それを知ることがその人の人格を築く学び)の結果の知識なので「人格的知識」とした。

 “Commitment” は訳しにくいことばで、翻訳書の訳の「自己投出」にならって「自己投入」と訳そうかとも考えた。さらには、それよりももっと自分自身を技芸に「帰依」するような雰囲気を出そうと思い、同じく仏教語ではあるが「帰依」よりも一般語化している「放下」(ほうげ)をもちいて「自己放下」という語も考えた。だが、結局は、以上の語よりも平易な「献身」とした。 英語の “commitment” 自体がそれほど珍しい語ではないからである。

 

 

 伝承は実践的知識の中に統合されなければならない。

 

翻訳:技芸の規則は有益でありうるが、それが技芸の実践 (the practice of an art) を決定 (determine) するわけではない。技芸の規則は伝承であり、その技芸の実践的知識に統合された(integrated) 時にはじめて技芸への導き (a guide) として役立つことができるのである。技芸の規則がこの実践的知識に取って代わることはない。 (p. 50, 46-47ページ)

 

 

 科学の内容は明示化できても科学的研究という技芸は明示化できない。

 

翻訳:詳細に明示化することができない (cannot be specified in detail) 技芸を詳細な指示 (prescription) で伝える (transmit) ことなど、もちろんできるわけはない。そのような指示など存在しないからだ。 (中略) 科学の内容を明確に言語化したもの (the articulate contents of science) は、全世界の何百もの新しい大学でうまく教えられているが、科学的研究という明示化不能な技芸 (the unspecifiable art of scientific research) は、それらの大学の多くにまだ浸透はしていない。

 

 

 

鑑識眼

 

 鑑識眼を得ることも技芸である。

 

翻訳:これまで技能 (skills) について述べてきたことは、同じように鑑識眼 (connoisseurship) についてもあてはまる。診断医の技能は知ることの技芸であると同じように行為の技芸でもある (as much an art of doing as it is an art of knowing)。判定したり味見をしたりする (testing and tasting) 技芸は、泳いだり自転車に乗ったりするといった、より能動的な筋肉技能と連続している。

 鑑識眼は、技能と同じように、例によって伝えられる (communicated) のであり、訓示 (precept) によって伝えられるのではない。専門のワイン利きや、数多のお茶のブレンドの知識を獲得したり、診断医になったりするには、先人 (master) の導きにもとづいて一連の長い経験を経なければならない。 (p. 54, 50-51ページ)

 

 

 自然科学においても知ることの技芸の多くは明示化できず、実践を積み重ねることでしか獲得できない。

 

翻訳:化学・生物学・医学を学ぶ学生が実習コース (practical courses) で多くの時間を費やすことが示しているのは、これらの科学が先人から弟子へと技能と鑑識眼を伝えること (transmission) にどれだけ頼っているかということである。このことは、科学の中核部分で、どれほど知ることの技芸 (the art of knowing) が明示化不能なままになっているかを示す大変印象深い例となっている。

 

補注:これは、社会科学・科学哲学に転じる前は、ノーベル賞候補者の一人と言われるほどに物理化学者として業績をあげていた彼の言葉だけに重い。

 

 

 

焦点的覚知と補助的覚知

 

 焦点的覚知と補助的覚知

 

要約:私たちがハンマーで釘を打ち付けるとき、ハンマーを持つ手に向ける注意と釘頭に向ける注意は種類を異にしている。ハンマーを握る指やハンマーの衝撃を感じる掌の感覚は、釘頭と違って、私たちの注意の対象ではなく、注意を払うための道具となっている (not objects of our attention, but instruments of it)。それらはそれら自身で観察されているのではない。私たちは、それらを鋭敏に覚知しながらも何か他のものを観察しているのである (we watch something else while keeping intensely aware of them)。掌にある感覚 (feeling) 補助的な覚知 (subsidiary awareness) であり、それは釘を打ち付けるという焦点的覚知 (focal awareness) に溶け込んでいる (merged into)

 

補注:「焦点的意識」と「従属的意識」という訳語はよく知られているが、ここでは “awareness” に対して「覚知」という訳語を宛て、“consciousness” (意識)と区別した。 “Subsidiary” については、 “focal awareness” のための「道具」であるということをより明らかに示すことを狙って「補助的」と訳した。

 

 

 両立不可能な補助的覚知と焦点的覚知

 

翻訳:補助的覚知と焦点的覚知は互いに相容れることができない (mutually exclusive)。もしピアニストが自分の注意を曲の演奏から、演奏時の指の動きの観察に移してしまったなら、混乱しおそらく演奏を中断せざるをえなくなるだろう。このような現象は、私たちが焦点的な注意 (focal attention) を、これまで補助的な役割においてしか気づいていなかった具体的諸事項 (particulars) に移した時に一般的に起こるものである。

 (中略)

 ここにおいても技能の具体的諸事項は明示化不能であるように思われる。だが、今回は、それらについて無知であるという意味で明示化不能というわけではない。というのも、このケースにおいて、私たちはパフォーマンスの詳細[=鍵盤上の運指]を確かめることができるからである。この明示化不能性は、私たちが注意をこれらの詳細に向けたらパフォーマンスが麻痺してしまうことから生じている。このようなパフォーマンスを私たちは論理的に明示化することができない (logically unspecifiable) と呼ぶことができるだろう。というのも、ある意味で、具体的諸事項の明示化が、そのパフォーマンスや文脈で含意されていることと論理的に矛盾していると言えるからである。(p. 56, 52ページ)

 

補注:この「論理的」ということばの使い方については、私としてはあまり納得できていません。「事(こと)の理(ことわり)からするならば」ぐらい意味だとすればそれなりにわかるのですが・・・

 

 

 習熟した言語を使う場合、焦点的な覚知は「話の流れ」についてのものであり、個々の単語に対しては補助的な覚知を得るだけである。

 

翻訳:意味の担い手 (carriers of meaning) としてもっとも生産性豊かなものは、もちろん、言語の単語である。ここで興味深いのは、私たちが話したり書いたりする時に単語を使う際に、私たちは補助的な様態 (subsidiary manner) だけでしかそれらの単語に気がついていないということである。

 

補注:もちろん不慣れな外国語を使おうとしている際は、具体的諸事項である単語にばかり焦点的な注意が向いてしまう。逆に言うなら、言語形式ばかりに注意が向いてしまい、「話の流れ」に意識の焦点が向かない外国語活動では、単語を補助的に使うことができないと表現できるかもしれない。単語といった言語形式を補助的に使うことができないということは、そのままその言語を使うことができないと読み替えることもできるだろう。

 

 

 私たちが何かをするために、あることに依拠している時、私たちは依拠しているものを絶対の基準と思う。だが、私たちは何かをし続けながらそれを焦点化して注視することはできないし、それが永遠に絶対であるわけでもない。

 

翻訳:実際、ある基準 (standards) を使用しながらその基準を見つめることはできない。なぜなら、現在の注意の焦点を形成するために補助的に使われている要素に焦点を当てることはできないからだ。私たちが自ら使う基準を絶対だとするのは、その基準を自分自身の一部として使い、その基準を究極の拠り所とするからだ。(We attribute absoluteness to our standards, because by using them as part of ourselves we rely on them in the ultimate resort) これは、その基準が本当はその人の一部でなくても、また、その人が作ったものでなくても同じことがいえる。しかしこの依拠が成立するのは、ある特定の時空での非永続的な状況 (some momentary circumstance) においてのみである。私たちの基準に絶対性が与えられるのは、この歴史的状況においてのみである。(pp. 183-184, 172ページ)

 

補注:絶対的な基準として、例えば、教育に半生を捧げてきた人がいう「こんな授業を教育と呼んではならない」といった基準が考えられるだろう。その基準はその教師の人生の一部である。だが、その基準を冷静に誰にもわかるように形式的に定義することは、その教師にとっては容易なことではない。その教師の定義には、同じような実践者でないとなかなかその意味が実感できない語がたくさん含まれるからである。

 上の例は基準が判断者の人生の一部であった場合だが、基準が外部から来た例としては、「こんな授業は、学習指導要領の精神に反している」と述べる教師の判断基準に求められるかもしれない。そして、そのような外部基準に忠実であることが自らの人生における重要事項であると思っている人を見つけることはそれほど難しくはない。

 しかし、これら二例にしても時が経てば判断が変わることもある。最初の例なら、その教師が教育経験を深めた後、次の例なら学習指導要領が大幅に改訂された後などの時である。

 

 

「語り得ない」ということ

 

 「語り得ない」とは、知ってはいるが、それを極めて不完全な形でしか言語化できないということ

 

翻訳:私が「語り得ない」 (ineffable) と称するものは、私が知ってはいるが、それを記述しようとすると普段よりも不正確に (less precisely)、もしくはおよそ曖昧に (only very vaguely) しか記述できないことを単に意味しているだけである。(中略)私は自転車に乗ることができるがその技能に関しては何も言えないかもしれない。また、私は20着ものレインコートの中から自分のレインコートを選び出してもその選択について何も言えないかもしれない。私はいかにして自転車に乗るかや、どのようにして自分のレインコートを見分けたのかについて明晰に語ることができないが--というのも、私はそれらのことについて明晰に知らないのである--、だからといって、私は自転車の乗り方を知っており、レインコートの見分け方を知っていると言ってはならないというわけではない。なぜなら私はそれらのことをどうやるかを非常によく知っているからである。ただ、私は自分が知っていることの具体的諸項目を単に道具的なやり方で知っているだけであり、それらについて焦点的には無知であるだけである。(I know the particulars of what I know only in an instrumental manner and am focally quite ignorant of them) だからこう言うこともできるだろう。私は自分が知っていることが何であるかを、明晰に語ることができないし、ひょっとしたらほとんど何も語ることができないかもしれないが、私はこれらの事柄を知っているのだ。(I know these matters even though I cannot tell clearly, or hardly at all, what it is that I know.) (p. 88, 81)

 

 

 まったく語り得ないのではなく、適切には語り得ない。

 

翻訳:私は語り得ない知識を有していると主張することは、私がそれについて語ることができることを否定するのではなく、私がそれについて適切に語ることができることを否定しているのだ。(To assert that I have knowledge which is ineffable is not to deny that I can speak of it, but only that I can speak of it)

 

 

 

 

模倣

 

 伝統に身を委ねて模倣する。そこでは人格をかけた評価が行われる。

 

翻訳:例から学ぶ (to learn by example) ということは権威に身を委ねる (to submit to authority) ことである。人は先人 (master) の後を追う (follow) が、それはその人が、先人がなす事の有効性を分析することも詳細に報告する (analyse and account in detail) ことができないときでも先人のやり方 (manner of doing things) を信頼 (trust) しているからである。先人をよく見て先人の例を前にしながら先人の努力に見習う (emulate) ことによって、弟子 (apprentice) は無意識のうちに技芸の規則を摘みとってゆく (pick up)。その中には先人自身さえ明らかには知らない (explicitly known) 規則も含まれている。これらの隠れた規則を同化 (assimilate) できるのは、そこまで無批判的 (uncritically) に他者の真似 (imitation) ができるまでに自らを放棄できる (surrenders himself to) 者だけである。人格的知識の蓄え (a fund of personal knowledge) を保護 (preserve) することを望む社会は、伝統に服さなければならない (submit to tradition)

 実際のところ、私たちの知性 (intelligence) が正確な形式化 (precise formalization) の理想に及ばない度合いに応じて、私たちは明示化不能な知識の光によって、行為し物事を見極め (act and see) 、私たちは人格をかけた評価 (personal appraisal) による評決 (verdict) を受容しているのだということを認めなければならない。私たちは、それが、自分自身の判断 (judgment) によるものであろうと、伝統の担い手としてのある人の例 (a personal example) の権威に服することによるものであろうと、人格をかけた評価を受容するのである。(p. 53, 49-50ページ)

 

補注:「人格をかけた評価」 (personal appraisal) とは、たとえば音楽コンクールの判定などに見られるかもしれない。技芸の評価は、誰の目にも明らかな機械的で客観的な基準だけで行われるものではない。かといってそれは恣意的や気まぐれといった意味での主観性だけに基づくものではない。後に述べるように、そういった評価は、その判断をすることによってその人のその技芸に関するそれまでの生き方やこれからの生き方が顕になるような人格をかけた評価である。

 また、弟子がほぼ無批判的に先人の模倣をするという戦略の文化的合理性については次の本も認めている。

 

ジョセフ・ヘンリック著、今西康子訳 (2019)

『文化がヒトを進化させた』白楊社、

Joseph Henrich (2016) The secret of our success.

New Jersey: Princeton University Press

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/2019-joseph-henrich-2016-secret-of-our.html

 

 

 言語で語るという技芸は模倣により学ばれる。

 

翻訳:すべての技芸は、学習者が信をおく (place confidence) 他者によって実践されるやり方を知的に模倣する (intelligently imitate) ことにより学ばれる。言語を知ること (to know a language) は技芸であり、暗黙の判断と明示化できない技能により遂行される。 (carried on by tacit judgments and the practice of unspecifiable skills) したがって、子どもが大人の保護者から話すことを覚える (learning to speak) のは、若い哺乳類や鳥が、餌を与え保護し導いてくれる年長者に対して示す擬態反応 (mimetic responses) に近いものである。語ることに暗黙的に伴う関連事項 (the tacit coefficients of speech) は、言語化されないコミュニケーションによって伝達され (transmitted by inarticulate communications)、権威ある人からその人を信頼する学習者へと伝わっていく。 (passing from an authoritative person to a trusting pupil) 語ることによってコミュニケーションを行う力は、この擬態的な伝達にかかっている。 (the power of speech to convey communication depends on the effectiveness of this mimetic transmission.)

 

補注:模倣・真似 (imitation) に関してはDewey Democracy and Education の第3章でやや詳しく論じているので、そちらも参照されたい。

 

Education as Direction (Chapter 3 of Democracy and Education)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/10/education-as-direction-chapter-3-of.html

 

 

 

 

 

人格的知識と献身

 

 知的献身をもって得られる人格的知識は、普遍的な意図をもつ

 

翻訳:技能の遂行および鑑識眼の行使において、知るという技芸 (the art of knowing) は、存在を意図的に変化させることを含む (to involve an intentional change of being) こととしてみなされている。補助的に気づく具体的諸事項に自分自身を注ぎ込み (pouring of ourselves into the subsidiary awareness of particulars) 、その具体的諸事項は、技能遂行においては技能達成の道具となり (instrumental to a skillful achievement)、鑑識眼の行使においては観察された包括的全体 (the observed comprehensive whole) の要素として機能する (function as the elements)。技能に長けた者は、基準を自らに課し、その基準で自分を判断する者 (setting standards to himself and judging himself by them) として見られる。鑑識眼を行使する者は、すぐれた鑑識を行うために自ら設定した基準によって包括的に諸物を価値づけているように見られている。そのような文脈の要素、例えばハンマーや探り針や話されたことばは、すべて自分自身を超えた何かを指している (point beyond themselves) のであり、その文脈において意味を付与されている (endowed with meaning in the context) 。他方、包括的な文脈それ自体、例えばダンス、数学、音楽などは、内在的あるいは存在的な意味 (intrinsic or existential meaning) を有している。

 為すことと知ることの技芸、および、意味を価値づける (valuation) ことと理解することは、人格的存在を拡張して、全体を構成している具体的諸事物を補助的に気づかせることの異なる側面であるに過ぎない。(only different aspects of the act of extending our person into the subsidiary awareness of particulars which compose a whole) 人格をかけて知るというこの基本的な行為の内在的構造により、私たちは必然的に、普遍的な意図 (universal intent) をもって人格的な知識を形成し、その結果を認める (acknowledge)することになる。これは知的献身 (intellectual commitment) のプロトタイプである。

 この構造を活かしきった形において献身を行うことで、人格的な知識が単に主観的となることを避けることができる。知的献身とは責任を伴う決定 (responsible decision) であり、私が良心をもって真だと信じることの有無を言わさぬ主張に対して身を委ねることである。(in submission to the compelling claims of what in good conscience I conceive to be true) 知的献身は希望の行為であり、自分自身が引き起こしたわけではないがそれゆえに私の天命 (calling) を決定づけている私の人格的な状況の中で生じた義務を果たそうとすることである。この希望とこの義務は、人格的知識の普遍的な意図の中に表現されている。 (p. 65, 61ページ)

 

 

 同化と適応

 

要約:ここでピアジェによる同化 (assimilation) 適応 (adaptation) の区別をしておくことは重要である。同化とは、新しい事例を以前に受け入れられた概念法に包摂することである。 (subsumption of a new instance under a previously accepted conception)これに対して適応とは、新規の経験に対応するため新しい概念法を作るか概念法を修正することである。 (formation of new or modified conception for the purpose of dealing with novel experience) (p. 105, 97ページ)

 

補注:ピアジェの対比は、同化 (assimilation) と調節 (accommodation) ではないかとも思われるが、ここではポラニーの用語をそのまま使った。

 

Wikipedia: Jean Piaget

https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Piaget

Jean Piaget's Theory and Stages of Cognitive Development

https://www.simplypsychology.org/piaget.html

 

中村恵子 (2007)

「構成主義における学びの理論 : 心理学的構成主義と社会的構成主義を比較して」

『新潟青陵大学紀要』(7), pp. 167-176

https://n-seiryo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1195&item_no=1&page_id=27&block_id=90

 

 

なお、「同化」と「適応」(「調節」)の対比は、次のエッセイで取り上げた「技術的問題」 (technical problem) と「適応課題」 (adaptive challenge) の対比にも見られる。

 

臨時休講中の受講生(新入生)の皆さんへ:現代社会で学ぶことの意義

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

 

 

 適応は人格的判断に基づき、私たちの知的存在を変化させ、より満足できる私たち自身を作り出す。

 

翻訳:固定的な解釈枠組みによって経験を同化することと、新しい経験の教訓を形成するために解釈枠組みを適応させることの2つを区別することによって、解釈枠組みが明確に表現されているときの意味について新しくより正確な意味が得られる。同化は、厳密なルールにしたがって、無人格的に言語を操作する理想を表現している。(the ideal of using language impersonally, according to strict rules) 適応は、新しい機会に適応するために言語の規則を変えることについて、話し手の人格的な介入に依拠している。(a personal intervention of the speaker, for changing the rules of language to fit new occasions) 同化は定常的なパフォーマンス (routine performance) であり、適応は発見的行為 (heuristic act) である。同化の範型 (paradigm) は計数 (counting) であり、ここでは解釈枠組み(計数にもちいる数字)はまったく変わらない。適応の理想は、詩作における語法 (poetic phrasing) の独創性や、新しい概念法を表すための新しい数学的記号法 (mathematical notation) に見ることができる。理念的に考えるなら、同化においては後戻りが可能だが、適応では後戻りが不可能である。(irreversible) なぜなら、私たちの慣用語法 (idiom) を修正するということは、私たちがその後に私たちの経験を解釈する際にもちいる参照枠 (the framework of reference) を修正することであり、それは私たち自身を修正することでもあるからだ。私たちが意のままに縮約し (recapitulate) その前提 (premises) にいつでも立ち返ることができる形式的手続き (formal procedure) と違い、適応には、以前になされた論証 (argument) からの厳密な論証では到達することができない新しい前提への転向 (conversion) が必然的に伴う (entail) からである。適応は、私たち自身が人格をかけて判断すること (personal judgment) から生じる決断 (decision) であり、その決断によって私たちは自分の判断の前提を修正し、私たちの知的存在 (intellectual existence) を修正し、自分自身に対してより満足すること (to become more satisfying to ourselves) を狙うのである。(pp. 105-106, 97-98ページ)

 

 

 私たちはより現実に近づくための普遍的な満足性を求める。

 

翻訳:しかし、ここで自分を満足させようとする衝動 (urge) は、単にエゴを満たすためのもの (purely egocentric) ではないことを再度確認すべきである。私たちが言語使用や経験において明晰性や一貫性 (clarity and coherence) をより求めることは、私たちがそれ以降、それに依拠しなくてはならない問題の解決を目指しているからである。私たちが自分を満足させようとすること (self-satisfaction) は、普遍的な満足性であるはずのもの (what should be universally satisfying) の一つの事例 (a token) であるに過ぎない。私たちの知的な自己同一性 (identity) を修正することは、現実により接近したい (achieving thereby closer contact with reality) という希望と共に開始されるのである。私たちはいわば飛び込むのであるが、それはより堅牢な足場を求めてのことである。現実への接近の見込みは推測に基づくものであり、後に誤りとわかるものかもしれない。しかしこれは推測に基づくものであるのだから、サイコロ賭博のような単なる当てずっぽうではない。なぜなら、発見をする能力 (the capacity for making discoveries) は賭博師のツキといったものとは異なるからである。発見する能力は、天与の能力が、訓練と知的努力 (training and intellectual effort) によって引き伸ばされることによって可能になるからである。これは芸術的な達成に似ており、明示化することができない。しかしこれは決して偶然によるものでも恣意的なもの (accidental or arbitrary) でもない。(p. 106, 98ページ)

 

 

 

 解釈枠組みと自分を同一視することで、ある技芸に人格的に参加する

 

翻訳:私たちがある種の仮定を前提的に受け入れ (accept a certain set of pre-suppositions) それを自分自身の解釈枠組み (interpretative framework) としてもちいるとき、私たちは、ちょうど自分の身体に生息している (dwell in) ように、私たちはその枠組みの中に生息していると言えるのかもしれない。しばらくの間、この枠組を無批判的に受容 (uncritical acceptance) することを構成しているのは、この枠組を自分自身と同一視する同化のプロセス (a process of assimilation by which we identify ourselves with them) である。枠組みが前面に出て主張される (asserted) ことはない。というのもそれは不可能である。なぜなら、主張は、私たちがしばしの間自分自身と同一視した枠組みの内部 (within) でのみ可能だからである。枠組みはそれ自身が私たちの究極の枠組みなのだから、それは明確に言語化する (articulate) ことが本質的に不可能である。

 科学者が経験の意味を得る (make sense of experience) のは、科学の枠組みを自らに同化させる (his assimilation) からである。このように経験の意味を得ることは、技能的な行為 (a skillful act) であり、これによりその科学者の人格をかけた参加が (personal participation) がその参加から生じる知識に刻印づけされるのである。 (p. 60, 56ページ)

 

補注 “Dwell in” に対しては「棲み込む」や「潜入する」といった翻訳語がしばしば与えられているが、ここでは日本語としてのわかりやすさを優先して「生息する」と訳した。

 

 

 

 人格的であるということは、主観的か客観的かという二項対立を超えている。

 

翻訳:次の区別をしてもいいだろう。私たちの内にある人格的なもの (personal in us) は私たちの献身に能動的に参入するが、私たちの主観的状態 (subjective states) は単に私たちの感情を担っている(endure our feelings)だけである。この区別によって、主観的 (subjective) でも客観的 (objective) でもない「人格的」の概念法が確立できる。 (establish the conception of the personal) 自ら自分とは独立したものであると認めた要求に身を捧げる限りにおいて (in so far as the personal submits to requirements acknowledged by itself as independent of itself) 人格的であることは主観的ではない。しかし人、個人の情熱 (individual passions) によって導かれる行為 (an action guided by individual passions) であるかぎりにおいて、人格的であることは客観的でもない。人格的であるということは、主観的であることと客観的であることの区別を超越する。(It transcends the disjunction between subjective and objective) (p. 300, 283ページ)

 

補注:客観的であることと主観的であることを峻別してしまい、さらには後者を侮蔑することは近代的発想にしばしば見られる癖であり、多くの識者がその発想を批判しているが、このポラニーの批判も重要。自然科学のように通俗的には客観的であるしか思えないような営みにも客観的という概念だけでは説明ができない人格的な側面はあるし、詩作のように主観的であるばかりにしか見えないような営みにも、自分を超えた言語に献身するという主観を超えた人格的な側面がある。

 

 

 真理の対応理論は、その対応を正当化する根拠をもちえない(そのような根拠は対応理論自体を否定してしまう)。

 

翻訳:このジレンマ [=客観主義者のジレンマ (the objectivist dilemma)]は、「真理の対応理論」 (‘correspondence theory of truth’) という姿を借りて、哲学を長く悩ませている。例えば、バートランド・ラッセルは、真理を、ある人の主観的と実際の事実の一致 (a coincidence between one’s subjective belief and the actual facts) と定義しているが、ラッセルが認めるような用語を使って、どのようにこの2つが一致しうるかを述べることは不可能である。 (p. 304, 287ページ)

 

 

 

 実証的な主張をすることも、普遍的な意図に基づく献身によることである。

 

翻訳:実証的陳述 (an empirical statement) が真なのは、それが、大部分は私たちから隠れており、それゆえ私たちの知とは独立して存在している現実 (an aspect of reality, a reality largely hidden to us, and existing therefore independently of our knowing it) の一側面を明らかにする限りにおいてである。私たちの知とは独立して存在していると信じられている現実について真なることを述べようとする (trying to say) ことによって、事実に関するすべての主張 (all assertions of fact) は必然的に普遍的意図 (universal intent) を帯びるようになる。現実について述べようとする私たちの主張は、私たちが事実に基づく陳述 (factual statement) をしようとする際の献身における外的な錨となるのである。

 献身の枠組み (the framework of commitment) のアウトラインが、この事例においては今や確立したといえるだろう。探求を続ける科学者が、隠れた現実に対していだく親密感 (intimations) は人格的なものである。それは科学者自身の信念であり、その独創性がゆえに、その科学者しか抱いていないものである。しかし、それは心の主観的状態 (a subjective state of mind) ではなく、普遍的意図によって形成された確信 (convictions held with universal intent) であり、困難なプロジェクトを伴うものである。何を信じるかを決めたのはその科学者であるが、その決定になんら恣意的なもの (arbitrariness) はない。その科学者は、極限まで責任を果たすことで (by the utmost exercise of responsibility) その結論に到達したからである。責任ある信念にたどり着いたのは、必然にかられてであり、意のままに変えることができることではない。発見的な献身 (a heuristic commitment)においては、何かを肯定することも、何かに身を委ねることも、何かを正統なこととすることも (affirmation, surrender and legislation) 一つの思考に融合し、隠れた実在にかかわりあうのである。 (p. 311, 294ページ)

 

補注 “Intimation” は「親密感」と訳した。

 

 

 

言語使用と適応

 

 ことばがことばとなるのは、人がことばに自分を捧げるからだ。

 

翻訳:道具と同じように、記号やシンボル (the sign or the symbol) が記号やシンボルとして見えるのは、何かを達成しようとしたり表したりしようとしたり (signify) するために、それらに依拠する (relies on them) 人格的存在 (a person) の目においてだけである。この依拠は、人格的献身 (a personal commitment) であり、私たちが、私たちの焦点的注意の中心にあるものを補助的に統合する知的行為のすべてに関わっている(This reliance is a personal commitment which is involved in all acts of intelligence by which we integrate some things subsidiarily to the center of our focal attention.) 私たちがあるものを、補助的な覚知と共に、自分自身の拡張 (extension of ourselves) として使う、人格的同化 (personal assimilation) という行為のすべては、自分自身の放下であり (a commitment of ourselves)、自分自身を捨て去る (disposing of ourselves) ことである。 (p. 61, 57ページ)

 

補注 (1) 話が抽象的になってきたが、言語を単に操作することと、言語を人格的に使用することの違いを明確にしてくれる論点なので、以下、私なりの言い換えを試みる:ことばがことばとして機能するのは、そのことばに依拠することによって自分の人格を形成している人にとってのみである。言語を人格的に使用している人は、自分が自分であるために、自分自身をそのことばに捧げているのである。このようにことばに依拠することによってはじめて、人はことばを補助的に使い、自分の関心の焦点となっている物事を意味することができる。そのように使われたことばは、その人の拡張として、その人の世界に働きかける。このようにことばを自らと同化させることは、自分自身の放下であり、自らをことばに捧げることである。

 (2) 論点をもう少し外国語教育に近づけるために、さらに私の言い換えを行う:ことばに自らの人格をかけることなく、ただ機械的に操作している人は、そのことばと切り離されたままであり、そのことばがその人が生きることと関わることがほとんどない(あるとすれば機械的な暗記で取ることができたテスト得点ぐらいだろう)。ことばに自分を込めようとしない人は、そのことばが、自分や自分の関心があることとは無縁なままであり、ことばはその人の前には、常に自分の人生とは関係ないままに登場した異物として現れる。異物としてのことばは、目の前にありそれに注意を払う限り、その人の注意の焦点となるが、それがその人の生きることと統合されて使われることはない。そのことばがその人の一部となって世界に働きかけることはなく、ことばは異物として存在し続けるままである。その人は、そのことばに接することによって、何ら自分を変えることはない。その人とそのことばは、およそ最低限の関係しか保たないまま、別個に存在し続ける。

 (3) 論点を私なりにさらに要約する:言語を使用することは、言語を自分の一部として、言語で自分を構成しようとすることであり、言語で自分と自分の世界を変化させようとすることである。その意味で言語使用は人格的なものであり、機械的な言語操作とは異なる。言語と自分を切り離した機械的な言語操作しかしない者は、言語を自分のために使うことがほとんどできない。

 (4) これは完全な脱線話(妄言)として:学習者があることば (a word) や言語 (a language) に、非人格的に接するか、人格的に接するかという対比は、学習者がことばや言語に対して、<私-それ>の態度で接するか<私-あなた>の態度で接するかという対比に重なるだろうか?

 

ブーバーの『我と汝』の英語版からの抄訳

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post_12.html

 

 

 日々の言語使用も、言語の再解釈に充ちている。

 

翻訳:刻々と変わりゆく世界の中で経験を記述するために言語を使うことはどれもその主題に関してある程度は先例がないといえる事例 (a somewhat unprecedented instance) に言語を適用させることである。したがってその言語使用は、言語の意味と私たちの概念枠組み (our conceptual framework) をある程度修正 (modify) する。(p. 105, 97ページ)

 

 

 言語の再解釈の3つのレベル

 

要約:この言語の再解釈 (re-interpretation) 3つのレベルに分けて考えることができる。

(1) 子どもが受動的に (receptively) 言語習得をするレベル

(2) 詩人や科学者や学者が言語の革新 (linguistic innovations) を行ない、その新しい言語使用を他人に教えるレベル

(3) 上の2つの中間にある日常、人々が言語を革新させようなどとはまったく思っていないままに言語の再解釈を行っているレベル (p. 105, 97ページ)

 

補注:以下、この3つのレベルでの議論が行われるが、日本の英語教育を考える上でもっとも重要な論点は (3) の日常レベルでの言語の再解釈であろう。

 

 

 文字通りの意味で言語を使うことすら、不可逆的で発見的な離れ業である。

 

翻訳 この点で私は、文字通りの意味を使って対象に言及すること (denotation) も技芸であると考えている。言語を学ぶことあるいはその意味を修正することは、暗黙の、不可逆的な発見的な離れ業である。(a tacit, irreversible, heuristic feat)。それは私たちの知的生活を変化させること (a transformation of our intellectual life) であり、さらなる明晰性と一貫性を追求する私たちの欲望に端を発し、その追求によって現実により接近できるという希望によって支えられている。実際のところ、それが概念上であれ、知覚上であれ、食欲上であれ、私たちの予期枠組み (an anticipatory framework) を修正することはどんな修正であれ、不可逆的な発見的行為 (an irreversible heuristic act) である。この修正により私たちの思考、視覚、食欲が変わり、私たちの理解、知覚、官能性は真で正しいもの (what is true and right) へとより順応する。(attune to) (p. 106, 98ページ)

 

補注 “denotation” は「直示」と訳してもよかったが、ここでは説明的に「文字通りの意味を使って対象に言及すること」と訳した。語用論ではしばしば「話し手の意味」が中心的話題となり、「文字通りの意味」は当然の出来事として軽視されるが、ここでは「文字通りの意味」でことばを使うことも、仔細に検討するなら、一回一回に適応的な側面があることが示されている。

 

 

 どの言語使用の機会も同じではない以上、言語の意味も言語使用の度に少しは修正される

 

翻訳:言語は、特に痛切な問題によって拍車をかけられることがなくとも、毎日の使用の中で絶えず再解釈されている。そして科学における命名法 (nomenclature) に関する類似の問題も、同じように事もなく片付いてしまうこともある。(中略)この変化の絶えない世界 (changing world) において、私たちの予期能力 (anticipatory power) は常にいくぶん前例のない状況に対応しなければならない。この対応が可能になるのは、一般的にいえば、何らかの適応手段を通じてのみである。もう少し具体的に言おう。語が使われる機会はどんな機会でも以前の機会とはいくらか異なっているのだから、語が使われる場合には語の意味は常にいくらかは修正されると考えるべきなのだ。 (since every occasion on which a word is used in some degree different from every previous occasion, we should expect that the meaning of a word will be modified in some degree on every such occasion.) (p. 110, 102ページ)

 

 

 

意味と定義

 

 

 実演や直示による定義でも、形式化できない部分が残る。

 

翻訳:実際にそのことばを使った例を示した上で、ことばで説明することにより、意味の非確定的な残りを除去しようとすることもできるかもしれない。 (We may try to eliminate the indeterminate residue of a meaning by explaining it in words aided by demonstrations)  そのような言語的定義 (verbal definition) 技能の分析や科学的探求法の公理化 (axiomization of a scientific method of enquiry) と同じように作用する。これらは、私たちがこれまで暗黙のうちに実践してきた技芸の規則を露わにして (disclose)、それらがうまく使えることを確実にし、また改善する。したがって、定義を形式化する場合は、私たちは、その語が真正に使われる技芸の様子を見ることが必要である。(In formulating a definition we must rely on watching the way the art of using a word is authentically practices) より正確に言うなら、真正であると私たち自身がみなすようなやり方で、私たちが定義しようとする用語を適用している姿を見つめなければならない。(watch ourselves applying the term to be defined in ways that we regard as authentic) 「直示的定義」 (‘ostensive definitions’) [=ある語を使いながら、その語が示す一つの実物を見せる定義]、とは、この観察を適切に延長したものにすぎない。非常に明晰だと思われている実物に聞き手の注意を向け、どのように説明がなされるかを示すことによって、あたかも賢い離れ業のような説明をするのである。意味の形式化は、したがって最初から形式化されていない意味の実践に依拠している。また意味の形式化は、最後においても形式化されない意味の実践に依拠している。定義に含まれている定義されていない語を使うからである。最後に、定義を実践的に解釈することは、いかなる時においても、その定義に依拠している人間の定義できない理解に依拠せざるを得ない。定義は意味の暗黙の関連事項を移動させるだけである。 (definitions only shift the tacit coefficient of meaning) 定義は意味の暗黙の関連事項を減らしはするがそれをなくしてしまうことはない。(p. 250, 234ページ)

 

 

ことばの意味の非形式的側面を形式的定義で置き換えることはできない。ことばの意味は、そのことばと共に生きることによって習得される。

 

翻訳:このような観点で理解されたなら、定義とは意味の形式化であり、意味の非形式的な要素を減らし、その一部を形式的操作(定義文を参照すること)によって取って変えようとすることだということになる。(Understood in these terms, definition is a formalization of meaning which reduces its informal elements and partly replaces them by a formal operation (the reference to the definiens). この形式化は、定義文を理解できるのは既に定義される語をよく知っている者だけであるという点においても不完全である。(This formalization will be incomplete also in the sense that the definiens can be understood only by those conversant with the definiendum.) とはいえ、定義は、弟子を導く伝承が技芸の実践に光を当てるのと同じように、定義される語に対して何らかの新しい光を投げかけるものである。とはいえ、伝承を適用するには技芸の実践的知識が必要である。「因果律とは必然的な連続である」とか「人生は適応の連続である」といった定義は、もし真であり新しいものなら、分析的発見(analytic discoveries ではある。このような発見は、哲学の最重要課題の一つである。 (p. 115, 107ページ)

 

補注:重要な箇所なので、私なりの言い換えを提示する。

 定義とは、語の意味の語り得ない非形式的な領域の一部を形式化することである。

 定義を十分に理解できるのは、その定義される語を既に使っており、その語についての実践的知識を有している者だけである。

 だが、定義は、その語を使い始め習得しようとしている者にはある程度有効である。とはいえ、定義を当てはめてその語を新たに使用するには、その語の使用に関する実践的知識が必要である。

 つまり、語は定義だけからでは学べない。あるいは定義だけからでは語を実生活で使えるようにはならない。語を使って営まれている生活様式に人格的な意味で身を捧げなければ、人はその語を使えるようにはならない。

 語の使用に身を捧げその語の実践的知識を十分に有する人が、同じようにその語を使って人生を歩んでいる人に対して、有効な定義を提示することはできるが、その定義はもともとその語がもっていた意味を露わにしたという点で、(カント的な意味で)「分析的」な発見である。

 

日本大百科全書:分析・総合

https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E6%9E%90%E3%83%BB%E7%B7%8F%E5%90%88-1588794

 

 

語の定義をしたいなら、自らその語を正しく思慮深く使用し、その使用を観察しなければならない。

 

翻訳:何が正義・真・勇気かということを私たちが同定できるという自信があってこそ、はじめて私たちは「正義」・「真」・「勇気」という用語を適用するという実践をまともに分析し始め (reasonably undertake to analyse our own practice of applying the terms) 、そのような分析が、正義・真・勇気とは何かについてより明晰な解明をもたらすことを希望することができる。(中略)同じように、もし私たちが「正義」ということばが適切に適用される条件を分析したいのなら、私たちは「正義」ということばを使用することが必要である。しかもその使用は可能な限り正確で思慮深いものでなくてはならず、使用しながら私たちはその言語使用をする自分自身を観察しなければならない。(Similarly, we must use the word ‘justice’, and use it as correctly and thoughtfully as we can, while watching ourselves doing it, if we want to analyse the conditions under which the word properly applies.) 私たちは、「正義」という用語を通して正義そのものを、集中しかつ他の語と識別しながら見つめなければならない。このように使用しながらその使用を観察することが「正義」という用語の適切な使用であり、この使用を私たちは定義したいのである。 (We must look, intently and discriminatingly, through the term ‘justice’ at justice itself, this being the proper use of the term ‘justice’, the use which we want to define.) そのようにせず「正義」ということば自体を見つめてしまうなら、その意味は破壊されてしまうであろう。 (To look instead at the word ‘justice’ would only destroy its meaning.) (p. 116, 108ページ)

 

補注:ここも重要なので私なりの言い換えおよび加筆を試みる。

 定義をするためには、まずは自分自身がその語を正しく思慮深く使用し、さらにはその使用を観察しなければならない。

 しかしその観察の対象は、語の意味であり、語の形式ではない。私たちは語を補助的に使い、語が意味するものに私たちの注意の焦点を合わせなければならない。そうせずに語自体(語の形式)に焦点的な注意を合わせたら、語の意味は破壊されてしまう。

 だが単語集の機械的暗記を英語学習の基礎と思い込んでいる(あるいは思い込まされている)多くの日本人英語学習者は、語の意味を破壊しつづけている。そういった学習者は、語の形式を機械的に記憶していることはあっても、その語を実生活において使うこと、その語に我が身を託すことができない。

 

 

 語の使用を分析するとは、その語の意味の主題とその語の使用に伴う具体的諸事項を同時に観察すること。

 

翻訳:もっと一般的に述べることにしよう。記述的な用語 (a descriptive term) の使用を分析するためには、私たちはその語の主題 (subject matter) について吟味 (contemplate) するという目的をもってその語を使わなければならない。この吟味を伴う分析は、必然的に吟味した対象にも及ぶ。したがって分析は、概念法 (conception) の分析に至るが、この概念法によって私たちは用語と主題の両方を共に知ることができるのである。より正確に言うなら、分析は、この概念法が網羅する具体的諸事項の分析に至る。この分析から、私たちは、より合理的な語の使用と、その用語が指定する物事のよりよい理解の両方を引き出すことができる。 (p. 116, 108ページ)

 

 

 

 

言語とコミュニケーション

 

言語を使ってのコミュニケーションは、参加者が互いに相手の言語獲得を信頼し、自分の言語獲得に自信をもっている時に成功する。

 

翻訳:語り合うコミュニケーションはそのような徒弟制度で獲得した言語的な知識と技能をもった二人の人間によってうまく適用される。 (Spoken communication is the successful application by such apprenticeship)。そこでは一人は伝達をしようとし、もうひとりは情報を得ようとする。それぞれが学んだことに依拠しながら、話し手は自信をもってことばを発し (confidently utter words)、聞き手は自信をもってそのことばを解釈する。それは相手がことばを正しく使い理解していることを両者が当てにする (rely on) ことができてのことである。真のコミュニケーションが成立するのは、これらの権威と信頼が組み合わさった前提が実際に正しいものであった場合のみである。 (A true communication will take place if, and only if, these combined assumptions of authority and trust are in fact justified.) (p. 206, 193)

 

補注:第2言語学習者は、もちろん自分の語る言語にそれほどの自信をもち得ないし、ましてや権威を感じることも難しいが、それでもそのことばが通じるにつれ自分の言語に自信(ひいてはそれなりの権威)を感じることができるようになる。

 他方、第2言語話者の拙い言語を聞きながら対応する第1言語話者(あるいは熟達した第2言語話者)は、第2言語話者の言語そのものに注意の焦点を当てるのではなく、会話の話題に焦点を当てることにより、第2言語話者の誤用すらも、その第2言語話者が意図したように補正しながら解釈することができる。

 もし上の両者に共有すべき話題という焦点がなければ、第2言語話者の誤用に対して熟達者はいらだち、第2言語話者自身はますます自信をなくすだけかもしれない。

 こういった問題の立て方については、Donald Davidsonの哲学が有効かもしれない。以下は、私が以前に書いた論文の一部です。

 

コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/list/HU_creator/Y/30696422c9feba30520e17560c007669/item/28105

 

デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/list/HU_creator/Y/30696422c9feba30520e17560c007669/item/27396

 

 

 私たちは自分のことばが自分の意図をうまく相手に伝えるものだと信じてことばを発するが、それは誤解されるに終わるかもしれない。だが、ことばを発するとは、このリスクを引き受けることである。

 

翻訳:話すことと書くことは互い[=送り手と受け手]が適切かつ理解可能になろうと絶えず新たにもがき続けることである。 (Speaking and writing is an ever renewed struggle to be both apposite and intelligible) 最後に発せられたことばはどれもが、私たちはこれ以上にうまくはできなかったということの告白である。 (every word that is finally uttered is a confession of our incapacity to do better) 何かを言い終えて、そのことばが自分から独立する時、私たちは暗黙のうちに、このことばは自分が意味していることを語っているのだし、それゆえに聞き手もしくは読み手にもそのような意味をもつはずだと思っている。ことばに対してこのように暗黙の信頼を託すことはどこにでも見られる現象 (these ubiquitous tacit endorsements of our words)であり、これは間違いであったと判明する可能性は常にあるが、私たちが何かを語ろうとするなら、常にこのリスクを受け入れなければならない。(p. 207, 193)

 

 

 

 

 

言語習得と共同体

 

 人は新たな状況に適うことば (words) を探し、それを使うことによってそのことばの意味を少しずつ変える。そういったことばの言語使用が無数の人々になされた末に私たちが理念化するのが言語 (language) である。

 

翻訳:私たちが目の前に既知の種類の新変種 (new variants of known kinds) として認める新しいものに対して、私たちは、自分の概念法 (conceptions) を適応させ、それに伴って言語の使用も適応させるが、この適応は補助的 (subsidiarily) に行われるのであり、私たちの注意の焦点は目の前にある状況の意味を理解すること (making sense of a situation in front of us) にある。したがって、これは、私たちがより明晰で一貫した知覚を得ようと、感覚的手がかり (sensory clues) の解釈を補助的に修正し続けることと同じやり方で行われているのである。あるいは新たな状況に出会う度に、どうやってやっているかを焦点的に知る (focally knowing) ことなく私たちが技能を拡張させている (enlarging our skill) のと同じやり方だといってもよい。したがって話し言葉の意味 (the meaning of speech) は、私たちがことばを探す行為において (in the act of grouping for words) 常に変わり続けている。しかし私たちはその変化を焦点的に気づくことはない。同時に、そのようにことばを探すことによってことばに明示化できない含意 (unspecifiable connotations) が蓄積されるが、この蓄積についても私たちは焦点的に気づくことはない。言語とは、人間が新しい概念的決定をする過程でことばを探し、そしてその決定をことばで伝えることによってできあがってものなのだ。(Languages are the product of man’s groping for words in the process of making new conceptual decisions, to be conveyed by words.) (p. 112, 103-104ページ)

 

補注:日常生活における私たちの注意・関心は目の前の状況に対応することにあり、その状況に適応することばを探す中で、言語が少しずつ修正・拡張されることは、状況対応に対して補助的になされるにすぎない。したがってそういった言語の修正・拡張は焦点的に意識されることはない。人は状況対応において、ことば(単語、words を探し出しそれを使うことで知らぬ間に自分のことばを少しずつ修正・拡張してゆく。そういった言語使用が無数の人々によってなされた結果として、私たちは言語 (language) というものを考えている。

 

 

 言語は人間集団がそれに身を委ねてきた解釈枠組みであり、その枠組みの中で知的営みが行われる。

 

翻訳:異なる言語というのは、さまざまな時代の様々な人々の集団が日々の中でことばを探し続けたことによって得られる、相異なる結論である。(Different languages are alternative conclusions, arrived at by the secular gropings of different groups of people at different periods of history) それぞれの言語は、相異なる概念枠組みを維持しており、語りうるあらゆる物事を、いくらかは異なるが何度も現れるとされる特徴の観点から解釈するのである。(They sustain alternative conceptual frameworks, interpreting all things that can be talked about in terms of somewhat different allegedly recurrent features.) ある一連のことばを探す世代によって発明され意味を与えられた (invented and endowed with meaning by a particular sequence of grouping generations) 名詞、動詞、形容詞、副詞は、自信をもって使われるが、その言語使用は物事の性質に関するその人たち独自の理論を表現している。話すことを学ぶ中で、子どもは森羅万象を伝統的に解釈する (traditional interpretation of the universe) という前提のもとに構築された文化を受け入れるが、この文化は子どもが生まれついた集団の言語の慣用法 (idiom) に根ざしている。教養ある人のあらゆる知的努力 (every intellectual effort of the educated mind) もこの参照枠の中で営まれるのだ。そんなことはありえないが、もしこの解釈枠組みが全面的に虚偽だったら、人は自らの知的人生を全面的に破棄しなければならないだろう。 人が合理的でありうるのは、その人が身を捧げてきた概念法 (the conceptions to which he is committed) が真 (true) である限りのことである。(p. 112, 104ページ)

 

補注:上の文章には実は次の文が続いている。「私はここで「真」ということばを使ったが、これは私がそのことばの意味を再定義する過程の一部である。この修正された意味により私はこの「真」ということばの意味をより真にしようとしている。」 (The use of the word ‘true’ in the preceding sentence is part of a process of re-defining the meaning of truth, so as to make it truer in its own modified sense.) ここから読み取れるポラニーの主張は真(あるいは真理)とは、人間の営みから独立したどこかの領域にある概念ではなく、人間の営みに根ざしその中で語られる概念だということだろう。こういった真理観は、認知意味論においても見られる。

 

 

マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/11/19911987.html

 

ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html

 

ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html

 

身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html

 

 

 

 人はことばを通じて何かを意味するが、それは自分および自分が属する言語共同体の人々がそのことばに人生を託しているからであり、そのことば自体に何か意味を生成する力があるからではない。

 

翻訳:「正確」(precise) という用語を[ある記述的用語に対して]適用すること自体は正確なのだろうかという無益な無限後退が示唆しているのは、「正確」ということばが記述的用語の性質 (character of a descriptive term) をもっていることを否定することによって、そのような問いを避けるべきだということである。あることばが正確(あるいは適切、丁度いい、明晰、表現力豊か)だと私たちが言う時、私たちは、実行して満足がゆく自分自身の行為を是認しているのである。 (approve of an act of our own which we have found satisfying while carrying it out) ぼんやりした視界やかすかな音をはっきりさせること、あるいは道を見つけたりバランスを取り戻したりすることと同じく、私たちは自分が行うことに満足しているのである。自分たちが使っている語は正確だと述べることによって、私たちは、自分自身の人格をかけた把握の成果を適切に宣言している (declare the outcome of this personal comprehension of our own)。無限後退が生じるのは、私たちが自ら満足しているという宣言 (announcement of our self-satisfaction) を、他の記述用語の性質を示している記述的用語だと偽る時である。

 この誤りを避けるには、話し手や聞き手はことばによって (by) 何かを意味することができるのであり、ことばがそれ自体において (in itself) 何かを意味することはないということを十分に認める必要がある。あるものを記述することばを使うことによって、あるものを理解していることを示している人に、意味をするという行為が得心できた時には (when the act of meaning is thus brought home to a person exercising his understanding of things by the use of words which describe them)、意味するという行為を厳密な外部基準 (strict criteria) で行うという可能性は、論理的に意味をなさない。 (logically meaningless)  なぜなら厳密に形式的な操作はいかなるものも無人格的であるそれゆえ話し手の人格的な献身を伝えることができないからである。 (For any strictly formal operation would be impersonal and could not therefore convey the speaker’s personal commitment) (p. 252, 236ページ) 

 

補注:「『Xの議論におけるYの主張は的はずれである』という言明は正確である」という発話は、オースティンの用語を借りるなら、事実確認的発話 (constative utterance) ではなく、行為遂行的発話 (performative utterance) である。なぜならその発話者は、「正確」ということばを、その人のこれまでの人生に基づき、かつ、その人のこれからを掛けることによって使用しているからである。つまりはこの言語使用は(他のほとんどすべての言語使用と同じく)人格的献身の表れだからである。

 

Performative utterance

https://en.wikipedia.org/wiki/Performative_utterance

 

 

まとめは以上です。以上の翻訳や解釈に誤りがあれば、どうぞご指摘くださいますよう、お願いします。

 

 

 

 

 

 


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