この記事は、ジョッシュ・ウェイツキン著、吉田俊太郎訳
(2015) 『習得への情熱 -- チェスから武術へ』(みすず書房)[原著:Josh
Waitzkin (2007) The art of learning: Aninner journey to optimal performance. Free Press]の中から、言語教育に関係しそうな部分を要約・翻訳したものです。翻訳は、さすがプロの翻訳家の仕事というべきか、見事な日本語ですが、私としては自分の勉強のために、下の要約・翻訳では、基本的に自分で訳した日本語を使っています。この本は、厳密な学術スタイルで書かれているわけではないので、多くの部分は要約しました。翻訳した部分は、「 」で囲むことにより示しました。
数年前に出て一読した時には熱狂したものの、このようにまとめる機会を失っていた本書を読み返した理由は、マイケル・ポラニーの技能論を再読したからです。
Michael
Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html
Michael
Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html
ポラニーの学術的分析とこのウェイツキンの現象学的記述には多く共通するところがあると直感しましたが、下のようにまとめてみて、その直感はそれなりに正しかったと思えました。
著者については、以下の公式サイトやウィキペディアページに詳しいように、全米ジュニアチェス選手権で優勝、国際太極拳世界大会優勝など、チェスと太極拳という技芸で頂点を極めた人です。
Josh
Waitzkin: Official Site
Wikipedia:
Josh Waitzkin
https://en.wikipedia.org/wiki/Joshua_Waitzkin
以下、「著者について」、「意識と無意識」、「感情」、「情動」、「直感」、「流れ
(flow)」、「技芸
(art)」、「学びの方法」の項目で並べ直した本書の要約・翻訳を提示します。
***
著者について
■ 日誌による振り返り:著者は12歳からチェスについての日誌 (journal) をつけて、心理的観察 (psychological observations) を行ない続けているが、太極拳でも同様に日誌をつけ続けた。 (xv, 6ページ)
■ チェスと太極拳:チェスと太極拳はおよそ似つかぬように思えるが、自分には「2つの技芸がそれらを結ぶ本質的な基盤によってつながっているように」 (as if the two arts
were liked by an essential connecting ground) 思えた。
(xvi, 8ページ)
■ 老子哲学と太極拳:著者は老子思想に出会い、その瞑想的・武術的具現 (the meditative and
martial embodiment of Taoist philosophy) としての太極拳に惹かれ始めた。最初に太極拳のクラスに参加した時に印象的だったのは、太極拳の目標は勝つことではなく、ただ単に存在することである (the goal was not
winning, but, simply, being) ことであった。 (p. 96, 113ページ)
補記:この老子思想の影響は大きいように思います。老子や莊子などと言いますと、何か特別な思想のように思えますが、江戸時代ぐらいまででしたら、日本では文化人なら当たり前のように知り、民衆の中にもその知恵は浸透していたものかと思います。(技芸習得について興味深い『天狗芸術論・猫の妙術』も老荘思想の影響を受けていますし、そもそも「包丁」や「木鶏」も莊子に由来しています。私は今年の前期に仕事に疲れたこともあり、莊子を読み直したりしていましたが、Zhuangzi: The Essential Writings: With
Selections from Traditional Commentaries (Hackett Classics) の英語訳で読んでみるとまた新たな理解が得られたようで非常に面白かったです。また、『ゲド戦記』の作者でもあるUrsula Le GuinによるLao
Tzu: Tao Te Ching: A Book about the Way and the Power of the Wayは、『老子』は思想書であると同時に詩でもあることを重視した英語訳であり、これも大変勉強になりました。
■ 技芸における共通の意識モード:「チェスと太極拳、文学と海、瞑想と哲学に魅せられた私の中で、それら全ては、一つのそしてすべての活動に完全に浸り切ることで、心の潜在的可能性に触れるというテーマに集約された」 (all coalesced around
the theme of tapping into the mind’s potential via complete immersion into one
and all activities.) 私の成長は「障壁がないこと」 (barrierlessness) として定義できるようになった。純粋に集中するなら (pure concentration)、
思考や誤った構築概念 (false constructions) が私の覚知の邪魔をする (impede my awareness) ことなどできなくなる。私は、異なる人生経験が共通の意識モード (the common mode of
consciousness) を通じてはっきりとつながっていることがわかった。そもそも、どの人生経験もその意識モードで知覚されているのである」。 (xvii, 8ページ)
補記:この境地を他のことばで表現するなら、おそらく「明鏡止水」や「映るとも月も思はず映すとも水も思はぬ広沢の池」になるかもしれません。ちなみに将棋の羽生善治名人は「玲瓏」ということばを好んでいますが、これも似た意味をもっているものかと思われます。
■ 学びの技芸:著者がもっとも得意なのはチェスでも対局でもなく、学びの技芸 (the art of learning) である。(xxi, 12ページ)
補記:なんだか「薀蓄おじさん」みたいになっていますが(笑)、宮本武蔵のことばとされる「一芸は万芸に通ず」という言い方もありますね。
意識と無意識
■ 無意識に統合されるまで学ぶ:[太極拳を学び始めた時に、それまでのチェス学習を振り返っての発言]「それまでの生涯を通じて、私はテクニックや原理や理論が無意識に統合されるまで (until they were
integrated into the unconscious.) 学んでいた」
(xvi, 7ページ)
補注: 補助的覚知として焦点的覚知に統合されるまで:「無意識に統合されるまで」と表現されているが、マイケル・ポラニーの表現を借りるなら、ある事柄が「焦点となっている行為のための補助として統合的に働けるようになるまで」、つまり「補助的覚知として焦点的覚知に統合されるまで」と表現できるのではないか。ここで大切なことは、ただただ何度も繰り返し無意識化する(あるいは意味飽和状態になってしまう)ことではなく、繰り返すことで焦点となっている行為の達成に貢献するようになり、その結果、それらの事柄に意識が向かなくなる(=補助的にしか覚知されなくなる)ということではないか。
■ 熟達者は統合した情報を分解するのに苦労する:初心者向けのチェスの本を書いたときは、何年もかけて綻びなく統合した (cultivating a seamless
integration) 情報を、少しずつ解体 (break down) せねばならず、苦労した。テーマが「内面化され、生命を与えられ、そして忘れられる」 (be internalized, lived
by, and forgotten) というパターンは、学びの技芸 (the art of learning) を分析した時にいつも現れる。 (xix, 11ページ)
補記:専門家は、自分自身苦労しながらその技能を学んだはずなのに、熟達してしまった後にその技芸を初心者に対して言語的に説明しようとすると戸惑ってしまうというエピソードはよく聞くことです。
■ 意識の限界容量を理解する:意識的な知性は、一定時間の間にきわめて限られた情報量しか扱うことができないということを理解することが重要。 (p. 146, 167ページ)
補記:「進化の過程で発達してきた意識は重要な機能をもっているはずである。だから技能習得などにおいても意識を敵視することは間違いである。ただし、意識の能力・容量には限界があることを忘れてはならず、意識に万能の力を仮定してはならない」というのは、私が常日頃から思っていることです。
感情
■ 見つける前に何かを感じる:「チェスではしばしば、何かを見つける前に、それを感じる。 (Often in chess, you
feel something is there before you find it)(中略)無意識が、意識的なチェス選手に、何か見つけるべきものがあると警告を発し、そこから探索が始まる。 (the unconscious alerts
the conscious player that there is something to be found, and then the search
begins) (p. 26, 40ページ)
■ 情動と知性は連動している:この分析方法[「直感:振り返りと分析から直感を得る(現象学的記述)」を参照せよ]のすばらしい副産物は、チェス理解の飛躍と私の世界理解の変化の間 (between the leaps of chess
understanding and my changing vision of the world) のつながり (connections) がわかり始めたことだ。重要局面を研究している間、私は実際のチェスの試合の時の感情 (feeling) を自分がもっていることに気がついた。上で私は、トーナメントでプレッシャーを感じる中で、自分の心の緊張と共に局面の緊張が高まり (the tension in the
mind mounts with the tension in the position)、盤上での失敗はたいてい一種の心理的な崩れと共に起きていた。 (an error on the board usually
parallels a psychological collapse of sorts) どんなトーナメントにおいて、ほとんど常にチェスの失敗には心の無理が伴っていた。 (Almost invariably,
there was a consistent psychological strain to my errors in a given tournament)
チェス盤での私の問題は、たいていの場合、チェス盤以外の私の生活に姿を現している (my problems on the
chessboard usually were manifesting themselves in my life outside of chess) ことに気がつき始めた。 (p. 74, 91ページ)
補注Keep calm: 武術ヲタ話になりますが(苦笑)、ロシアの武術のシステマの四大原則は、Keep breathing, stay relaxed, keep
straight posture, and keep movingです。それらはすべて
“Keep calm” につながると解釈できます。危機的な状況であればあるほど、平常心を保つことが生死を分けるということがシステマのマスターたちが身を持って知ったことかと思います。私は頭でっかちの理解しかしていませんが、この太極拳を扱った『習得への情熱』やシステマをエンターテイメント小説化した『人生は楽しいかい?』は、金銭換算できないぐらいのものすごい深い人生の知恵を伝えてくれていると思っています。このまとめでは、言語教育に関連すると思われる箇所のみを扱っていますが、いかに、この『習得への情熱』の著者が、チェスや太極拳の試合での執拗な妨害などに対処していったかというのは、私の人生にとって偉大な指針となっています(とはいえ、なかなかそれを実践できないことが悲しいところですが)。
■ ある稽古で得た身体内の感情を他の稽古にも転用する:「このように稽古することによって、私は太極拳における感情をより緻密なものにすることができた (I was able to sharpen
my feeling for Tai Chi.) 細かな動きを苦労して洗練させることによって私が感情を発達させたとき (when through painstaking
refinement of a small movement I had the improved feeling)、私はその感情を方の他のところに翻案 (translate) することができるようになった。するとすべてはより高度なレベルで流れる (start flowing at a
higher level) になった。ここで鍵となっているのは、一つの簡単なテクニックを動かしている原理と、太極拳全体に広がる体系に燃料を与える基本 (the same fundamentals
that fueled the whole expansive system of Tai Chi Chuan) が同じものだということだ。 (p. 118, 137)
補注 “Feeling”:
ダマシオやバレットのまとめをする際に、私は “feeling” を「感情」と訳し、 “emotion” の「情動」と区別し続けました。この本の翻訳でも、私はその方針を踏襲しました。とはいえ、上のような箇所では、 “feeling” を翻訳書のように「感覚」と訳した方が日本語としては自然だと思います。しかし、私としては自分なりの訳語の一貫性を優先させました。意見が分かれるところかとは思いますが、その一貫性により、「感情」という日本語に専門語のニュアンスを加えることが狙いです。
関連記事:
身体と心と社会は不可分である:Barrettの"How Emotions Are Made"の後半部分から
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/barretthow-emotions-are-made.html
Damasio
(2018) "The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of
Cultures”
http://yosukeyanase.blogspot.com/2018/10/damasio-2018-strange-order-of-things.html
補注2:多次元的に同時進行しており、言語化できない感覚:たしかに日常動作にはない、(より自然な)武術の技を多少はできるようになったとき、実践者の中には、「グーーーッ、ウァッ」といった擬態語ぐらいでしか表現できないような身体の中の蠢き(=情動)を感じること(=感情を覚えること)があります。それは分析された手順や精緻化された言語ではとても表現できない、多次元的に同時進行している感覚です。そういった情動や感情--両者の違いは、後者の方がより当人に自覚されていることです--を会得することが、技芸の上達の重要な側面なのかもしれません(外国語習得で考えるなら、その外国語を読み・書き・聞き・話す際に、「その外国語に典型的なリズムとメロディーでもってその外国語を使用できている感じ」といったものでしょうか。
ただしそういった感じ・感覚・情動・感情は、下の関連記事で示されている武術家の光岡英稔先生と甲野善紀先生の用語を借りるのなら、「確認」するのではなく、「体認」することが大切です。言い換えるなら、今起こっていることを、ある既定の体系の中のある既定の事例の一つとして再確認するのではなく、今の流れの中で動態的かつ多次元的に生じているがゆえに単純な言語化ができない感覚を身体で実感することが必要かと思います。
関連記事:
柳瀬陽介
「インタビュー研究における技能と言語の関係について」『中国地区英語教育学会研究紀要』2007年37巻
pp. 111-120
https://doi.org/10.18983/casele.37.0_111
尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 3/7
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/07/flow37.html
尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 4/7
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/07/flow47.html
尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 6/7
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/07/flow67.html
情動
■ 情動は否定せず活用する:相手の挑発を受けたり不快な出来事が生じたりしたときも、自分の情動を否定 (deny our emotions) することなく、それを有利に使いこなすことを学ぶ (learn to use them to
our advantage) べきである。自分自身を窒息させるのではなく、自分の気分を、集中を高めるように向ける (channel my mood into
heightened focus) ことが必要なのだ。 (p. 59, 75ページ)
補注:もちろんここの「情動」は
“emotion” の訳語です。
■ どんな自分の情動とも和解する:「世界クラスの選手においてもっとも決定的な特性はおそらく心の再起力 (mental
resilience) だろう。そしてそれは、常に育ててゆかねばならない。(中略)もし不快な出来事にあったら、現在の私の本能は、その不快さを避けるのではなく、それと和解することである。 (become at peace with
it) (p. 60, 75-76ページ)
補注Resilience: “Resilience” とは、単にダメージを受ける前の状態に回復することではなく、そこからなんとかそれなりにやってゆくことなので、「回復力」ではなく「再起力」と訳しました。また私はカタカナ語の過剰使用には警戒的なので、「レジリエンス」は避けました。
関連論文:
中川 篤,
柳瀬 陽介,
樫葉 みつ子
「弱さを力に変えるコミュニケーション:関係性文化理論の観点から検討する当事者研究」『言語文化教育研究』2019 年 17 巻
p. 110-125
https://doi.org/10.14960/gbkkg.17.110
■ 情動の奔流すらも活用できるようにする:「自分の情動から逃げ出すこともせず、腹わたから湧き上がってくる最初の情動 (initial guts) に呑み込まれてしまうことにもならず、私たちは自らの情動と共存し、それぞれの情動の特有の特徴と若いし、究極的には、そこにインスピレーションの深い泉があることを発見するべきである。私は、これが自然なプロセスとなることを知った。いったん、突発的な出来事に対して寛容になり、情動が増大して手がつけられないようにならないような習慣をつけたら、私たちは情動の波に乗り、その波と共にスピードを上げることすらできる」。 (p. 211, 236ページ)
補記:この点に関する著者や他の有名人のエピソードはすばらしいです。小人で小事に翻弄されがちな私としては、少しでも見習いたいです。
直感
■ 振り返りと分析から直感を得る(現象学的記述):「数から離れるために数を研究する」例の一つは以下のような手順で進む。最初に、以前は行き詰まっていたチェスの局面を振り返り始めるが、最初は頭がなかなか働かない。次第に自分が攻撃する際に考えていたこと、またその考えが十分にはつながっていなかったことを思い出す。さらに、相手から見た局面について考えることができるようになり、以前には見えていなかった相手の防御について理解し始める。そうやって、「以前は十分に理解できていなかった、盤上で進化しつつある構造的力学を自分に統合し始める」。 (integrating the
evolving structural dynamics) そうしているうちに調子が出て、分析のリズムが整い (settled into the
rhythm of analysis)、コンピューターなら何十億もの手を考えるだろう局面に対して熟考するが、その時起こっていることは、進化しますます洗練される無数のパターンに浸っていることなのだ。 (soaked in countless
patterns of evolving sophistications) そうやって、思考が邪魔を受けないようになり、自由に流れ、速度をますます加速し、私は局面に自分自身を失う。 (my thinking became
unhindered, free-flowing, faster and faster as I lost myself in the position) こういった研究は休憩なしに6時間続くこともあれば、一週間かけて30時間におよぶこともある。チェスの迷宮に住み、そこで息をして、眠っているように感じる。やがてどこからともなく、一連の混乱が解消する。これが理解することなのだ。 (and then, as if from
nowhere, all the compilations dissolved and I understood) かつて私を苦しめていた難問のすべてが今や明らかになる。「最善手がわかり、正しい計画を感じ取ることができ、局面の評価を理解できる。この新しい知識を手やことばで説明することはできない。 (I couldn’t explain
this new knowledge with variations or words) この知識はもっと根源的なものであるように感じる。まるで、さざ波かそよ風のようだ。 (It felt more
elemental, like rippling water or a light breeze) 私のチェスの直感が深まったのだ。 (My chess intuition had
deepened) これが数から離れるために数を研究するということなのだ。 (pp. 73-74, 90-91)
補記「適切に語ることができない知識」としての直感:ここで著者は、自分の直感を知識ではあるが、具体的な手やことばといった形式では説明できない知識だとしている。著者はそれを「さざ波かそよ風のようだ」という、動きある自然現象にたとえている。「流れ」にしてもそうだが、こういった知識・直感、あるいは創造性を説明するの喩えに、時間を伴う動きや変化が選ばれていることに注意したい。意識および意味にも時間的次元が必要で、それらは静態ではなく動態として扱われるべきだが、直感に導かれて創造に至る知識も、動態として捉えられるべきなのかもしれない。
関連論文:
柳瀬陽介
「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論 ―英語教育における意味の矮小化に抗して―」『中国地区英語教育学会研究紀要』 (2018年48巻
pp. 53-62)
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53
また、この記述において、著者が体調の変化についても語っていることに注意したい。上のまとめでは省略したが、本文では、以上の変化が、冬に不承不承ジョギングを始めて、やがてランニングの楽しさを体感し始める比喩と渾然一体となった形で記述されている。知性の働きと身体の調子(ということは情動の様態)が不可分であることは、チェスと太極拳を極めた著者にとって否定できない事実である。
■ 蓄積した多くの知識の中からどれを使用するかを瞬時に決めなくてはならない:ある程度の専門的能力 (expertise) を身につけ知識も広くなった時に大切になってくるのが、「どのようにしてこれらの素材を探索し使用すればいいか」という問題である。 (p. 135, 155ページ)
補記:これは「フレーム問題」としても捉えることが可能かと思います。チェスのプレーヤーはもちろんチェスというルールで定められたゲームのフレーム(問題空間)で物事を考えていますが、もちろんその中で「ルークを取られないようにする」といったもう少し狭いフレームで考えてしまうこともあるかと思います。その時にそのフレームから離れた大局観をもち、自分がもつすべての知識を活かして、最善手を見つけ出すということは容易なことではないことは言うまでもありません。
■ 知識と直感と創造性:学びの方法論の一つは、知識と直感と創造性を共に作用させること (the play between
knowledge, intuition, and creativity) (p. 35, 48ページ)
補注 知識と創造性を結ぶのは直感:ここでの私の解釈は、自分がもっている莫大な知識のうちのどれを今使うべきかを選択して、創造的な行為を生み出す助けとなるのが直感であるというもの。無意識の領域から直感が意識の領域に現れ、その直感に導かれて、その場に適切な知識およびそれに関連した他の知識が次々に現れるという図式で私は今、創造的な行為について考えています。
■ 直感は無意識と意識を結ぶ:直感は無意識と意識の間にかけられた橋である。 (p. 137, 157ページ)
■ 脳は大量の知識を音楽や風のような流れに変化させ、意識に伝える:「私は大量の技術的情報を取り入れるのだが、その情報は私の脳が、機械的な組み合わせというよりは音楽や風のように感じられる洞察の噴出としてまとめ上げたものだ。 (I would take in vast
amounts of technical information that my brain somehow put together into bursts
of insight that felt more like music or wind than mathematical combination.) だんだんと、この跳躍の鍵は相互のつながり (interconnectedness) だという感覚を私は得た。私の一部が、私が所有している知識の関連ある部分と調和をなし、一つの効果的な噴流 (one potent eruption) となり、突然、謎だったものが明らかになるのだ」。 (pp. 136-137, 157ページ)
補注:ここでの喩えも動きのある音楽や風になっていますが、直感の場合、その動きが瞬発的なので、 “burst” や
“eruption” ということばが使われていることに注意。言うまでもなく、直感は瞬間的な啓示です。
■ 名人の意識は混濁していない:名人が意識的に目つけをする量は、人よりも多くなく、少ない。 (the Grandmaster
consciously looks at less, not more) 蓄積された情報のチャンクにより、名人は人よりも少ない意識的思考でもってより多くのことを理解することができる。 (see much more with
much less conscious thought) ゆえに名人は、わずかなことに目をつけるだけで、実に多くのことを理解する。 (he is looking at very
little and seeing quite a lot) (p. 143, 163ページ)
補記:このあたりの記述は、私たちの日常生活を振り返ってもよく理解できるのではないかと思います。ある技芸に卓越した人は、苦もなく本質をつかみます。
■ 直感的な判断はそれまでの学びを内在化させたから:名人がインスピレーションを得て創造性を発揮することは日常的に起こる。凡人がインスピレーションを得ることもあるが、凡人は「思いついたんだ」としか言わない。だが、名人は当たり前のようにその創造的な一手の背後にある原理を説明する。名人は奥義ともいえるパターンと原則を内在化させているので、息を呑むほど正確な判断を直感的に行うことができる。 (they have internalized
such esoteric patterns and principles that breathtakingly precise decisions are
made intuitively) 名人の後づけ分析は、そこまで達していない者にとっては神がかったインスピレーションに見える。 (The technical
afterthoughts of a truly great one can appear to be divine inspiration to the
lesser artist.)
流れ (flow)
■ 学ぶとは流れを求めること:学ぶことを、私は、流れを求めることだと理解していた。流れは、技術的なことの中核にありながら、それを超越しているものである。 (My understanding
of learning was about searching for the flow that lay at the heart of, and
transcended, the technical.) (p. 95, 113ページ)
補注 Flow: “Flow” はチクセントミハイの用語とも関連をもっているかもしれないので「フロー」と訳すことも考えましたが、できるだけカタカナ用語は避けるという自分の信念にしたがって「流れ」としました。
■ 流れを感じる:[エキシビションで40名の相手とチェスをした時に] 「私は残されている空間に駒をおいていったが、私は海で波に乗るように、あるいは武術を行っているように、流れを感じていた (I was feeling flow)」。(xvi, 8ページ)
補注:これも信頼できない武術ヲタ話ですが、上級者が単数あるいは複数の初心者を相手に乱取りなどをする時、上級者がリズム・テンポ・メロディーを創り出して、初心者はその「音楽」に呑み込まれて翻弄されてしまうように思えることがあります。もちろん、武芸者のレベルが上がると、そのように他人に認識されるようなパターンは一切作らずに、瞬時瞬時にやるべきことだけをやるようになるのかもしれませんが・・・
■ 意識化されていた原理は、流れの感覚となり、やがてはそれ自身が生命を得る:「最初は一度に考慮できるのは一つか2つの重要なテーマであるが、やがて直感がより多くの原理を流れの感覚に統合する。(the intuition learns to
integrate more and more principles into a sense of flow.) 最後にそれらの基盤 (the foundation) は深く内面化され (deeply internalized) 意識的には考慮できなくなり、生命を獲得する。 (no longer consciously
considered, but is lived) このプロセスは、技芸のより深い層に浸るかぎり連続して繰り返される」
補注:“is
lived by”は思い切って意訳しました。よりよい翻訳があればご教示ください。
■ 細かな点に意識を向けると流れが失われる:ピアニストが細かな運指に注意を向けると流れが失われてしまうかもしれない。 (the flow might be
lost) (xix, 11ページ)
補記:これはポラニーもよく出すエピソードです。
■ 流れの現象学的記述:「およそ10分考えると、私はさまざまな手の中に自分自身を失い始めた。奇妙な感覚であった。最初、自分はチェス盤を見つめる1人の人間である。さまざまな手を比較し、複合性について考えるうちに知性のスピードが上がる。やがて、チェスの局面と自分は別物であるという意識が遠のく。残るのは、エネルギーに満ちたチェスの流れの中にいるという感覚 (the sensation of being
inside the energetic chess flow) である。やがて知性は電流のようなスピードで働き、直感的な明晰さ (an intuitive clarity) によって、複合的な問題が姿を消す。チェスの局面の魂 (the soul of the chess
position) の中にどんどん深く入り込み、時間が消え去り (time falls away) 「私」という概念がなくなる。そこに存在するのは、至福と共にチェスに入り込んでいること (blissful engagement)、純粋に存在していること (pure presence)、完全なる流れ (absolute flow) である。私はゾーンに入っていた」。(I was in the zone) (p.
53, 67ページ)
補注:本文ではこの引用部分はすべてイタリックになっていますが、ここではそのままにしています。
技芸 (art)
■ 技芸を深めることにより、自分自身と真理をより深く知るようになる:「チェスのゲームは私にとって限りなく魅惑的なものになった。チェスが意味すること (implications) は、勝ち負けをはるかに超えていた。私はチェスのプレーの技術を洗練させることよりも、チェスを通じて自分自身を発見すること (discovering myself) を優先させていた。チェスという技芸を、到達できない真理 (an unattainable truth)
へ少しずつ近づいてゆく動きだととらえていた。まるで行けば行くほど深くそして広くなるトンネルを旅しているようだった。チェスについて知れば知るほど、どれだけ知るべきことがあるかということが余計にわかるようになった。チェスのセッションが終わる度に、それがわずかなものであったにせよ、チェスの神秘により深い畏敬の念 (slightly deeper awe of
the mystery of chess) を抱くようになり、謙虚な気持ちも大きくなった。(a building sense of
humility) チェスをやることに対して、次第に過酷 (fierce) ではなく柔和 (tender) になってきた。まさに技芸のために技芸を行うようになってきた。 (Art was truly becoming
for art’s sake) (p. 77, 94ページ)
補記:まさにポラニーのいう「人格的知識」
(personal knowledge) に重なる記述かと思います。
■ 基本の深さがトップを決める:実践者をトップの場に立たせる鍵は、神秘的なテクニックではなく、基本的と言ってもいいぐらいの一組の技能を深いレベルにまで熟練させること (a profound mastery of
what may well be a basic skill set) である。いかなる場合も深さの方が幅よりも大切である。深さこそが、私たちの隠れた潜在的可能性の、つかみどころがなく、意識化もできない創造的な要素への経路を開けてくれるからである。 (opens a channel for
the intangible, unconscious, creative components of our hidden potential) (p.
123, 143ページ)
補記:この「基本」ということばは、しばしば「定型的で非即興的な稽古パターン」と読み替えられてしまうので、甲野善紀先生と方条遼雨先生は、『上達論』の中でこの「基本」ということばを嫌い、「原理」あるいは「原則」ということばを使っています。
■ 名人とは基本を極めた人:「最初に台湾を訪れた後でわかったことは、もっとも偉大な実践者とは神秘的な存在ではなく、[太極拳に]深く身を捧げた武術家であり、ある基本技能をとてつもなく高いレベルまで洗練させた人たち (not mystics, but
profoundly dedicated martial artists who had refined certain fundamental skills
at a tremendously high level) だということである」。
(p. 220, 245ページ)
■ 戦いを自分らしいものにする:「私の経験では、もっとも偉大な技芸者と競技選手は、自分自身の心理状態をうまく乗りこなし、自分の強みで戦い、戦いのトーンをコントロールし、戦いを自分の性格に合ったものとしている」。 (masters of navigating
their own psychologies, playing on their strength, controlling the tone of
battle so that it fits with their personalities.) (p. 217, 242ページ)
補記:これも言うまでもないことですが、テニスにせよボクシングにせよ、「戦い方にはその人の人柄が出る」とはよく言われることです。
■ 技芸が実践者の本質の表現となるとき、その技芸は真の技芸となる:「技術的な巧みさから独自の創造性へと飛躍するにはどうすればよいのだろう。本当の技芸とは、技術的熟達を超え、私たちの仕事が私たちの本質の表現となるときに姿を現す」。 (How do we make that
leap from technical virtuosity to unique creativity? The real art in learning
takes place as we move beyond proficiency, when our work becomes an expression
of our essence.) (p. 218, 243ページ)
学びの方法
■ 何かを学んで、最終的にはそれから離れる:「チェスと武術を行う中で、私の成長 (growth) にとって決定的な研究の仕方が一つある。それを私は時に「数から離れるために数を研究する」、あるいは「型から離れるために型を研究する」 (the study of numbers to leave numbers, or form to leave form) と呼ぶ。 (xviii, 10ページ)
補注 守破離との関連性:翻訳書では “leave” を「忘れる」と訳していますが、ここではあえて「守破離」との関連を示唆するために「離れる」と訳しました。
■ 身についた知性は直感的に感じられる:「「数を忘れるための数」や「型を忘れるための型」という表現で、私は技術的な情報が、身についた知性のように思えるほどに統合される過程 (a process in which
technical information is integrated into what feels like natural intelligence) を表現していることを理解していただきたい」。例としてチェスの初心者クラスのことを考えてみよう。初心者は最初にそれぞれの駒の価値を表す数値を覚える。「ルーク1駒は、ポーン4駒に相当する」といった数字である。初心者は駒交換をする際に、最初は頭か指でこれらの数字を数える。だが「やがて、数を数えることを止める。駒が、もっと流動的でかつ統合された価値体系となってゆくのだ。 (The pieces will
achieve a more flowing and integrated value system) 駒はまるで力の場 (fields of force) があるように盤上を動き始める。かつては数として理解されていたものが、いまや直感的に感じられるのだ」。 (What was once seen
mathematically is now felt intuitively.)
補注Natural intelligence: この語は「身についた知性」と意訳しました。
■ 学ぶこと自体の価値や美しさを実感することが大切:最初に勝つためのテクニックを覚えることはカンニングするようなもので、テストには合格するかもしれないが何も学べない。もっとも重大なのは、学ぶこと自体の価値や美しさを実感することができないということだ。 (most critically, you
don’t gain an appreciation for the value or beauty of learning itself.) (p. 35,
49ページ)
補記:この「美しさ」
(beauty) ということばを私は重視したいと思います。私はポラニーやデューイも使う
“appreciation” という用語をどう訳すかいつも悩みますが、この「美しさ」という観点を重視すれば「美的実感」や「美的体感」と訳すことも可能かと思えてきます。
■ もっとも単純な技から感覚を得る:最初は敵のキング、こちらのキングとポーン[=将棋の歩に相当]の3つの駒しかない盤面でチェスの学習を始めた。「私たちは、複合性を縮減し、原則を明らかにする立場を取った」 (We took on positions
of reduced complexity and clear principles) 「やがて、私は、キングの力とポーンの繊細さについてすばらしい直感的な感覚 (intuitive feel) を得た」。「チェスの先生と私の二人の努力で、私は知識を増やし、どのようにして伝承を創造的な洞察への燃料に変化させるかについての理解を深めた」。 (my understanding of how to transform axioms
into fuel for creative insight) (p. 34, 48ページ)
■ まずは小事に徹して理解を得る:大切なのは幅より深さだ。ここでの学びの原則は、小さな事象の細かな謎に飛び込んで、大きな事象がどのように働くかを理解することである。(p. 116, 135ページ)
補注 最初にもっとも単純でもっとも奥が深いことを学ばせる:私はこれまで八光流柔術と合気道を少しだけ学ばせていただいたことがあります(どちらもすばらしい先生に教えていただきながら、きちんと稽古できなかったのは申し訳ない限りですが)。どちらも、最初に、もっとも単純な練習(例えば合気上げ)をさせられます。八光流柔術の先生は、「最初にもっとも単純でもっとも奥が深いことを学ばせるのが、稽古の体系だ」とおっしゃっていたことを思い出します。
■ いきなり複雑なことをやらせると、細かなことばかりに気を取られて、大切な原理を学びそこねる:しかし、もし終盤のように駒の少ない単純な局面から学び始める代わりに、いきなり込み入った (complicated) チェスの序盤や中盤を使っての学びを始めるなら、細かなミスをしないようにすることばかりに気を取られて、抽象的な伝承の言語で思考する (think in an abstract
axiomatic language) ことが難しくなってしまう。最初は(伝承を手がかりに、基本的な原理を体得させ、その感覚を失わせないようにしながら、次第に少しずつ込み入った技を学ばせるべきである。(p. 118, 137-138ページ)
補注ライティング指導の例:たとえば私は今1人の実践者として、約100名の学生に毎週学術英語のライティングを教えています。ライティング指導といえば、どの種類のフィードバックをどれだけ与えることが効果的かといった問いがよく立てられますが、現在の大学に来て二年目の今の方針は、story, style, usageのライティングの三側面のうち、最初はstoryの運び方に関するフィードバックを中心にしています。Usageレベルの誤りをすべて指摘し修正するなら、教師は疲弊し、たいていの学習者もうんざりするだけでしょう。こういった指導方針についてはいくらでも書けるのですが、もう少し自分自身で自分の実践を振り返り分析してから新たに文章をまとめたいと思います。
■ チェスの学習法: (1) 自分はキングとポーン、相手はキングだけというもっとも単純な局面から学習を開始し、気持ちよく駒を動かせるようになるまでいろいろな動きを試してみる。 (I play around with
them for a while until I feel comfortable) 次にビショップ、ナイト、ルークなど順々に駒を増やしてゆくが、(2) どの段階でも駒の動きと価値が自然なもの (natural) のように思え、意識して考えなくても駒の形状を見ただけでその潜在的可能性 (potential) がわかるようになることが必要。(3) 盤上に並んだ駒から、潜在的可能性の無数のベクトルが飛び出してくるように見えることも大切。これらの駒の動きは自然なものなので、プレーヤーはそれらについて意識で考える必要がなくなる。そうなると (4) 意識はより多くの情報を取り入れ、盤上をより広い視野で見ることができる。次に (5) 複数の駒を協調的に動かす (coordinate) 段階に入る。(6) まずは、ある局面にどの原則を適用させるべきかを苦労して考える。(7) 次第に、その思考が自然なものになり、ひと目でどの原則を使うべきかがわかるようになる。(8) 駒の価値は、駒自体にあるのではなく、それぞれの局面におけるその駒と他の駒の関係性にあることがわかり始め、脳は駒をそれぞれの関係性の中でチャンク化するようになる。(9) 最初に学んだ駒の価値に関する伝承は、鉄則ではなく、相対的なものであることがわかる。この段階で学びは学びほぐし (unlearning) になる。(10) このように基本原則に反する原則を内在化させるが、このレベルの原則は他の原則と矛盾を生じさせるものなので、頑なな考え方は捨てて、どれが真実かを競い合うような緊張と和解することを学ぶ。ここまでのレベルになると、(11) プレーヤーがどこまで深くその場にいながらも意識的な知性をリラックスさせ、無意識が何の障害もなく流れてくるようにするか (deep presence,
relaxation of the conscious mind, which allows the unconscious to flow
unhindered) が勝負を決める。これは、(12) 意識的な知性を自由に流れる無意識のプロセスに精妙に再統合すること (a subtle reintegration
of the conscious mind into a free-flowing unconscious process) である。ここで重要なのは、(13) 主役を意識から無意識に譲るが、だからといって耽溺してしまって意識が提示できる正確さは失わないことである。 (to shift the primary
role from the conscious to the unconscious without blissing out and losing the
precision the conscious can provide) (pp. 140-142, 163)
補記:以上の要約は長い記述を短くまとめたものですが、この過程についてはもっとじっくり考えてゆかねばと思っています。
■ 損失への投資:成長するためには、現在の考え方 (current mind-set) を捨てなければならない。勝つためには負けなければならない。(need to lose to win) これが損失への投資 (investment in loss) である。損失への投資とは、自らを学びの過程に委ねることである。(Investment in loss is
giving yourself to the learning process)しかし多くの学習者は古い習慣を手放すことを恐れ、上達することができない。師の提案に対しても、自分自身の考え方を正当化する説明ばかりを繰り返す。常に正しくあらねばならないという考え方にがんじがらめになっているのである。 (p. 107-10,
125-126ページ)
補注 献身 (commitment) :
“Investment in loss is giving yourself to the learning
process.” の一文は、マイケル・ポラニーの言う「献身」 (commitment) を想起させます。
■ 振り返りにより繰り返しを最小限に抑える:人は学ぶ中で必ず誤りを繰り返すものである。訓練の狙いは、引き続き起こる心理的・技術的誤りのテーマが何であるかを知ることによって、繰り返しを最小限に留めることである。 (the aim is to minimize
repetition as much as possible, by having an eye for consistent psychological
and technical themes of error.) (p. 108, 127ページ)
補記:私が尊敬してやまない実践者も、「いろいろ試してたくさん失敗する。そしてその失敗を反省的に分析して、その失敗を繰り返さないようにする」という原則を力説していました。
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まとめは以上です。いつものように誤りがありましたら、ご指摘いただきますようお願いします。
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