2020/09/14

創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない

   私の旧勤務校である広島大学では組織改編のため、私が所属していた教育学研究科はなくなり、新設された人間社会科学研究科の中に統合されました。その改編に伴い、旧教育学研究科のホームページ内容が失われました。

「広島大学 学術情報レポジトリ」でも、文章が掲載されていた研究の概要を伝える報告書しか掲載されていないので、私個人のブログに自分が書いた文章を再掲することにしました。

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(1) :

 教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて

http://doi.org/10.15027/42729

異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(2) : 

異教科が協働する授業づくりへの「広大モデル」提示を目指して

http://doi.org/10.15027/45428


以下は、私がそこに寄稿していた文章の一つです。「評価」については、measurement/ratingとappreciation(あるいはevaluation) を区分した上で、前者の暴走を防ぎ、後者の復権を図るべきというのが私の基本的な考え方です。



*****


創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない

 

柳瀬 陽介英語教育学講座)

八木 健太郎 造形教育学講座)

徳永 崇 (音楽教育学講座)

 

要約

この論は、一元的な評価が創造性をかえって阻害しているという主張をします。論証のために科学史家のクリーズと哲学者のアレントの論を援用して、評価を一元的な「評定・測定」(rating / measurement) と多元的な「鑑賞・実感」(appreciation) の二種類に分けます。その概念的区別に基づいて、評価を「評定・測定」の対象とすることはかえって創造性を損ねることにつながるので、評価は文化共同体における「鑑賞・実感」の自由に委ねるべきだと主張します。創造性の評価を行わなければならないのなら、文化共同体での発表の場に出て自らの作品・表現を共同体での自由な「鑑賞・実感」の語り合いの中に委ねることができた事実をもって合格(それが何らかの理由でできなかったら不合格)の評価(評定)にとどめるべきだとも論じます。

 

Ⅰ はじめに

この論文は造形芸術教育学講座の八木、音楽教育学講座の徳永、英語教育学講座の柳瀬が行った対談をもとに、柳瀬が再構成したものです。ここに出たアイデアの多くは八木と徳永に基づくものです。第一著者の柳瀬が行ったことは、「二種類の評価」という理論枠を使って対談の一部を解釈し、「創造性を一元的な測定の対象にしてはいけない」という論点について文章化したものです。原稿は第二著者の八木、第三著者の徳永にも見てもらい加筆修正しましたが、文章にあるかもしれない誤りなどの責任は全て柳瀬にあります。

 

 

Ⅱ クリーズによる区別

この論では、「評価」 (assessment) は二種類に分けて考えるべきという理論枠を採択します。評価の一種類は「評定・測定」(rating / measurement) で、もう一つは「鑑賞・実感」(appreciation) です。この二種類の区別をする妥当性を、以下でクリーズとアレントの論から導き出します。

最初に科学史家のクリーズの論 (Creeze 2011)(1)です。クリーズは科学における長さや重さの測定が非常に厳密になされていることとは対照的に、人間に関わる測定たとえば知能・学力・幸福度などは非常に曖昧で問題をはらんでいることをまず指摘します。しかし彼は、「問題なのは、それらを測定するために十分に正確な道具をまだもちえていないということではない。問題は、二種類のまったく異なる測定があるということである」と述べます。

彼の区別によると、「存在物の測定」 (ontic measurement) と「存在論的測定」 (ontological measurement) は異なるものです。「存在物の測定」は、物体の長さや重さなどに関するもので、これは全世界の科学者によりメートルやキログラムといった単位を光速や他の科学的定数を使って厳密に定義する段階にまで到達しています。それに対して「存在論的測定」は、知能指数にしても学力テスト得点にしても幸福度指数にしても、確かに現行の測定システムはありますが、その厳密性は自然科学の測定基準の厳密さとは比較にならないほど曖昧あるいは恣意的なもので論争が絶えることはありません。打開の一つの方向は、こういった人間に関する測定も自然科学を目指してより厳密にすることでしょう。しかしクリーズはその方向は間違っていると考えます。クリーズは私たちに次のように問いかけます。

 

測定によって何が失われているかを自問自答することである。学校で実施されているテストは、生徒の頭を良くしその才能を開花させているのだろうか?それとも私たちに、自分たちは教育評価の方法については知っていると思い込ませているだけではないだろうか?

 

クリーズは、科学史家のスティーブン・ジェイ・グールドの著書『人間の測りまちがい』や、小説家のチャールズ・ディケンズの著書『ハード・タイムズ』に言及しながら、人間の知性や道徳性や幸福度といった種の測定対象は、存在論的に(つまり理念的に)私たちが構成しているだけであり、物体のように物理的な存在様式だけでは測定できないことを指摘します。

例えば、「道徳的に優れた人」で考えてみましょう。私たちは人の評価をする際に、「あの人はいい人」だといった判断を下します。もちろんこの判断は物体の長さのように厳密に定まるものではありません。また、10人が10人ともに同じ評価するかどうかもわかりません。一人や二人は「そうかなぁ」と疑問を呈するかもしれません。さらに、その判断の基準や理由も必ずしも同じではありません。ある人はその人の彼の業績を列挙するかもしれません。別の人はその人が長年持ち続けている性格特性について言及するかもしれません。三番目の人はその人の細かなエピソードについて語るかもしれません。そのように基準や理由は異なれども、私たちの世の中において「あのひとはすばらしい」といったように合意される判断はやはり存在します。そしてそれを一つの規範として私たちは道徳的に生きるための参考とします。もちろんこういった規範は一つだけに収束されるものではありません。道徳的な生き方の規範となる人は一人ではなく、多く存在します(また、そうあるべきでしょう)。しかし一人だけに収束しないからといって、あるいは、その判断基準が自然科学のように明確に言語化・数値化できないからといって、そういった判断が無意味と言うわけではありません。こういった判断は物体の測定とは異なるとクリーズはいいます。それが「存在論的測定」です。

クリーズの用語は「存在物の測定」と「存在論的測定」で、両者に「測定」(measurement) という用語が使われていますが、この論ではわかりやすさを優先し、前者は「(存在物の)測定」、後者は「(存在論的な)鑑賞・実感」と呼ぶことにしましょう。「鑑賞・実感」という言い方は少し耳慣れないかもしれませんが “appreciation” の訳語(2)として使っています。 “Appreciation” は、Merriam-Websterの定義によれば、 “to grasp the nature, worth, quality, or significance of; to value or admire highly; to judge with heightened perception or understanding; be fully aware of; to recognize with gratitude” といった意味です。 “Appreciation” の対象が美術や音楽の作品でしたら「鑑賞」と訳されますが、その対象が例えばワインでしたら「身体全体で味わう」といった意味で「実感」と訳せるでしょう。その他にも “appreciate” の対象としては、Merriam-Websterには “the difference between right and wrong” “our work”もありますから、さきほどの道徳性や知性や幸福度の高さも “appreciate” の対象(目的語)となります。ですが、「あの人は本当に良い人だと鑑賞する」では少し奇異なので、ここでは「鑑賞・実感」として二つの訳語を並べ適宜使い分けできるようにしておきます。もちろん「実感」だけでもいいのですが(例、「あの人のすばらしさを実感」、「モーツアルトの奥深さを実感」)ここでは美術科や音楽科などで使われている用語と連動させたいので「鑑賞」という語も併記することにしました。

 

 

Ⅲ アレントによる区別

さて「評価」を二種類に分ける妥当性を説明する二つ目の論拠は哲学のハンナ・アレントの論(3)に基づくものです。

アレント (2015)  (Arendt, 2002)  は私たちが世の中で「あの人はすごい」や「あの作品は素晴らしい」といった評価をすること彼女はこれを公共的賞賛 (öffentlicher Anerkennung) と呼んでいますが、現在ではますます移りゆくものように思われ始めているので、むしろ貨幣の方が客観的なように見えると言っています。もちろん昔から尊敬されつづけている人物や芸術の古典作品の存在は、公共的賞賛が移ろいやすいというのは私たちの早計にすぎないことを示していますが、確かに現代人は数値で表現できるものを信頼しがちな傾向を強くしています。この場合の貨幣とは、『資本論』でマルクスが指摘したように、あらゆるものの固有の質を消し去って、すべてを価格と言う一本の数直線の上に置いてしまう魔法のような働きをする媒体です。私たちは貨幣の価格のように一本の数直線の上に並べられたものの方を客観的で信頼おけるものと考えてるとアレントは警告しています。アレントは、人物や芸術作品などといったものは一次元の数直線では表せないもの、すなわち一つの視点・観点だけからは理解できないものだといいます。アレントは異なる考えを持つ人々が同じ世界を生きるという人間の複数性を非常に重視しましたから、現実は複数の人間の複数の視点・観点から観察されることから生じると考えます。

逆にもし社会が一つの視点・観点からのみ評価されるとするならば、それは現実 (Wirklichkeit) の現実らしさを失わせてしまうことだともアレントは言います。アレントがここで念頭に置いているのは、ユダヤ人である彼女がドイツで身近に経験した全体主義的な社会です。全体主義的な社会、あるいは全体主義的な抑圧傾向を持つ共同体の中では、一つの視点・観点だけが途方もない権力をもち、そこから見える姿だけが客観的である、あるいは現実である、と思われます。しかしそれは私たちが人間らしく生きている中で感じる現実ではありません。アレントは次のように言います。

 

現実は複数の観点の総計から生じている。複数の観点によって、一つの対象が、見る人によって異なるが同一であるものとして立ち現れる。多数の視点をもった多数の人々によって、同じ物が見つめられても物の同一性が失われることなく、物の周りに集まった人々が、同じ物が非常に異なったように立ち現れるということを知る場合にのみ、世界の現実が本当に信頼おける現象となる。(S72)

 

アレントの論からは「鑑賞・実感」について学べます。人間のある側面アレントは直接言及していませんが、知性や創造性などもここに入れていいと思いますについては複数の視点・観点が必要です。ここでこの論での用語を補うと、それらは「鑑賞・実感」されるべきものと言えるでしょう。「鑑賞・実感」には、複数の人々が同じ対象を評価しながらも異なったように語りあうことが許されている自由が必要です。また、たとえ複数の視点・観点から観察されたものであっても、もしそれらを点数化して合算したりして一つの数直線上の得点に換算してしまったら、結局それはもはや正体不明の一つの視点・観点(強いていうなら、「合算による複数の異質な視点・観点の平均化(質の根絶)こそは正しい評価である」といった思想(4)によって現実を画一的に見ることであり、それは私たちが、いきいきと感じている現実の現実らしさを破壊することです。

そのように唯一の視点・観点から人間の営みを判定することを、教育界でも使われる用語を使って「評定」 (rating) と呼ぶことにしましょう。「五段階で成績をつける」といった意味での「評定」です。この「評定」は、本来なら「鑑賞・実感」すべき対象を自然科学的な「測定」のように判定しようとする営みとも理解できますから、「鑑賞・体感」の対概念と考えることができます。

 

 

Ⅳ 評定・測定と鑑賞・実感

以上の論を踏まえると、教育における「評価」(assessment) は、「評定・測定」 (rating / measurement) と「鑑賞・実感」 (appreciation) の二種類に分けることができます。これらは次のように定義できます。

 

「評定・測定」:単一の視点・観点から明確に一元的な評価(判定)をすること。通常の使い分けでは、「評定」は数段階の順序尺度を、「測定」は細かな間隔尺度や比率尺度を用いるものと区別されることが多い。。前者は教育界での用語としても用いられる。

 

「鑑賞・実感」:複数の人々の複数の視点・観点からの語り合いを通じておぼろげながらにも多元的に評価(判断)すること。

 

このまとめを使って八木と徳永と柳瀬が語り合ったことを整理してみましょう。三名の主張は対話の中で相互に補い合いながら出されたものなので、「誰々の主張はここからここまで」とは限定しにくいので三名の主張としています。ですが、創造性の評価に関する考えについては、本来は、八木の建築での経験、そして徳永の音楽での経験から出たもので、柳瀬はそれを聞いて、英語のスピーチ実践にも当てはまることの洞察などを得たに過ぎないことは付記しておきます。

それが美術作品であれ音楽演奏であれ英語のスピーチ発表であれ、創造的な営みの評価に関しては合格か不合格かだけの評価にとどめるべきです。創造性は鑑賞・実感の対象であり、本来は、制度的な評定・測定の対象ではないからです。創造性は評定・測定できないということを評価の前提とするべきです。創造性は、その概念の定義上、人々が思いもかけなかった側面を含むものですから、事前に合意された基準だけでそれを評価することは矛盾です。ましてや、それが教師の独断であれ何らかの「客観的な」指標であれ、創造性に対して一元的な評定・測定を行うべきではありません。それは評価(評定・測定)がもっている制度的な権力でもって、創造性に型をはめ、新しい発想を殺してしまうからです。ただでさえ外部の評価基準に自分を合わせようとしている現代の若者の自律性をますます損なってしまうからです。ただ、どうしても何らかの形で評定を出さざるを得ない学校制度のことを考えますと、創造性に関しては合格か不合格かの二段階でのみ出すべきです。そして「合格」とは、定められた発表の場において発表ができた事実のみで与えられるべきです。

もちろんここには発表の場に連なる人々の誠意が要求されます。ですが、人々の誠実な協力の基に発表の場が成立したならば(アレントの言い方なら「開かれた空間・公共的な空間」が成立したならば)、そこで発表することは、複数の人々の自由で正直な鑑賞・実感に晒されることです。また、それから生じる信義ある語り合いに自分の発表の運命を委ねることでもあります。それを体験する関係性にお互いに入り合うということは、それ自身が民主主義的な体験であり、また鑑賞・実感の共同体・文化の共同体に参画することです。それは勇気と知性・感性を必要とすることでもありますから、それだけで「合格」の評価(評定)を出すに値すると言えるでしょう。

創造性に関するそれ以上の評価については、それぞれの鑑賞・実感に基づく話し合いに任せるべきでしょう。建築デザイン教育の現場では、毎年の判定は合格か不合格かだけで、創造性については制度的な評価の対象とせず、担当教員も数年に一度ぐらい不定期に「この作品はすごい」といった趣旨の付随的評価を残すという学校もあるそうです。音楽においても、作曲あるいは演奏を期日どおりに実現できたら、それはそこまでの自己規律や他人との交渉に成功したわけですし、上述のように人々の鑑賞・実感のことばの可能性に身を晒すわけですから、それだけでもって合格とすることは(学習指導要領に基づく制度ではともかく)創造性に関わる人間の感覚としては正当化されるのではないでしょうか。英語でのある優れたスピーチ実践(柳瀬, 2005)では、発表者一人ひとりの人となりが表れるようなスピーチ発表となったため、評定の対象とはせずに、評価は聞いた生徒がそれぞれの発表者に感想を書く(つまりは鑑賞・実感したことばを贈る)ことにとどめていました。もし学校教育が本気で創造性を育てたいのなら、評定・測定を万能視するのではなくその限界を見極めた上で、創造性は文化共同体における鑑賞・実感の自由に任せるべきでしょう。

それでもどうしても(現代俗語でいうなら「大人の事情で」)五段階などの評定を出さなければならないのなら、それは単一の視点・観点から画一的に評定・測定できるとても技術的な事柄のみにとどめるべきでしょう。さらに重要なことは、学習者にも保護者にも評定の数字は、技術的で部分的なことに過ぎず、創造性とは関係のない数字であることを納得してもらうようにするべきです。そうして発表の場、つまりは創造性が共有される場の方を重視する文化を普及させるべきでしょう。それはその表現文化の実践であると同時に、多様性と言論の自由を尊重する民主主義の実践でもあります。

そうして鑑賞・実感の共同体の実践が積み重なり、それが他の鑑賞・実感の共同体の実践とつながってゆくと、それらの経験が、創造性を育む素地として各人にそれぞれの形で蓄積され、さらに創造性を育む文化が生じるでしょう。

その文化の流れこそは表現の歴史であり、八木も徳永も表現の歴史を暗記事項としてではなく、感覚としてつかんでおくおくことが創造性の発揮にとって重要なことであることを指摘していましたが、そういった歴史的素養の重要性については稿を改めることとして、ここでは、創造性は一元的な評価(評定・測定)の対象としてはならず、共同体における鑑賞・実感の共有にとどめておくべきという本論をここで終えることとします。

 

 

(注1

クリーズのエッセイは以下で公開されている。

http://www.nytimes.com/2011/10/23/opinion/sunday/measurement-and-its-discontents.html

その日本語翻訳は第一著者のブログに掲載している。

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/05/measurement-and-its-discontents.html

(注2) ここでは簡単に述べるだけにしておきますが、John Dewey Democracy and Educationの第18 Educational Values “appreciation” について述べています。彼も appreciationを「感覚を実感する」 (realizing sense) や「しっくりと来る」 (coming home to one) といった意味で使用しています。18章の簡単なまとめは以下のブログページにあります。ただし、そのページでは類似概念である “realization” に「実感」という訳語を充てたので、 “appreciation” は「体感」と訳しています。

http://柳瀬yosuke.blogspot.jp/2014/01/educational-velues-chapter-18-of.html

(注3

アレントについてのまとめは以下をご参照ください。

http://柳瀬yosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post_24.html

(注4

一次元の数直線上の値に本来は異質なものを並べる質の消失についてはマルクスが『資本論』で批判していることですが、複数の数値を平均して一つの値を定めることへの批判はRoseThe End of Averageに詳しいです。なお一次元的客観性については、下の論考もご参照ください。

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html

 

 

引用文献

Arendt, H. (2002). VITA ACTIVA oder von tätigen Leben. Piper.

Creeze, R. (2011). Measurement and its discontents. The New York Times. Oct. 22, 2011.

アレント, H. 著、森一郎訳 (2015). 活動的. みすず書房.

柳瀬陽介. (2015) 「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」. 『中国地区英語教育学会研究紀要』30. 167-176.


"AI is an empowerment tool to actualize the user's potential."

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