私の旧勤務校である広島大学では組織改編のため、私が所属していた教育学研究科はなくなり、新設された人間社会科学研究科の中に統合されました。その改編に伴い、旧教育学研究科のホームページ内容が失われました。
「広島大学 学術情報レポジトリ」でも、文章が掲載されていた研究の概要を伝える報告書しか掲載されていないので、私個人のブログに自分が書いた文章を再掲することにしました。
異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(1) :
教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて
異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究(2) :
異教科が協働する授業づくりへの「広大モデル」提示を目指して
以下は、私がそこに寄稿していた文章の一つです。今後ともさまざまな分野で英語を使っている方のお話を聞きたいと思います。
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数学教育学講座院生・教員との対話から考える
英語による授業のあり方
要約
この論では、英語教育学の教員が数学教育学の院生と教員と行った対話に基づき、数学を英語で教えること、数学を物語で説明すること、高校までの英語教育の三点についての考察を行います。西洋言語を基盤として成立した数学を英語で表記することには確実な利点がありますが、だからといって数学の研究と教育の営みのすべてが英語で行われるべきとはならないかもしれません。また、数学を物語様式で説明することは、初学者が理解の糸口を得るためには有効ですが、その物語化は必ずしも容易ではありませんし、ましてや英語で行うことは困難です。現在の英語科に関しては、数学の体系的な面白さを知った者には知的な面白さを提供できていないようです。
Ⅰ はじめに
現在、学術分野での英語の使用がますます普及するにつれ、日本でも大学教育の多く、あるいはすべての授業を英語で行うべきだという流れが出てきています。その英語については、人工知能研究の新井 (2010) が言うように、単なる英語ではなく数学的論理に基づいた英語こそが世界の共通言語になっているという見解もでています。そうなりますと数学と英語の教育をどのように連携させるるかということが重要な課題になってきます。こういった背景の中で、英語教育学の教員が数学教育学の大学院生三名および数学教育学の教員一名と対談をしました。対談の話題は、数学を英語で学ぶこと、数学を物語様式で語ること、院生が経験した高校までの英語教育についてなどです。対談は少人数で行われましたので、この対談から得られた知見を過剰に一般化することは避けなければなりません。しかし、広島大学大学院教育学研究科という高等教育の文脈の中で行われたこの対談からは、今後の大学教育での英語使用、およびの中高の数学教育と英語教育のあり方について、何らかの参考になる情報を提供できるのではないかと考えます。
ここで参加者について簡単に説明をしておきます。大学院生は三人とも広島大学大学院教育学研究科数学教育学講座(内容学)の修士課程で学ぶ学生です。一人目のAさんは中学・高校時代から大学の学部・大学院時代を通じてずっと数学を得意にしてきました。Bさんも中学高校時代に数学を得意にしてきましたが、大学時代から数学の学習には少し困難を感じるようになったと自己申告していました。Cさんは大学の専攻が数学系の専攻ではなく、大学院に来てから数学教育について学び始めました。そのCさんは、代数学・幾何学・統計学などを学部時代に本格的に学んでいなかったため、大学院時代は少し苦労したと語っていました。数学教育学講座(内容学)教員(以下、数学者D氏)は、「教科教育学研究方法論」の授業で数学の学びの意義をiPad上で可視化したり、大学院の授業で学ぶ数学の意味を語り合わせるなど意欲的な実践を行っている数学者です。筆者である私は英語教育を専門としていますが、現在の学校英語教育が試験制度の中で自閉的になっているのではないかという懸念をもち、他分野の内容と絡めた英語使用を促進しないと英語教育は発展しないのではないかという考えをもっている者です。これらのメンバーが2017年の冬に教育学研究科のある部屋に集まり、できるだけ気楽で自由な雰囲気の中に2時間余りの語り合いをもちました。語り合いの順番などは特に定めず、流れのままに話を進め、その対談は全て書き起こしました。この論文はその書き起こしをもとに論点を再構成したものです。この論文の中にあるすべての誤りは筆者の責任であることをここに明らかにしておきます。
Ⅱ 数学を英語で学ぶことについて
最初の論点は、数学を英語で学ぶことについてです。院生は三人とも、学部四年生あるいは大学院生時代から英語で書かれた数学論文を本格的に読み始めました。数学の学習内容が高度になるにつれ、三人の数学表記は英語に基づくものとなってきましたが、数式や論理表現以外は日本語を使っており、いわば英日のハイブリッド表記(混交的併用)が三人の学習言語となっていました。
三人の中でおそらくもっとも数学の学びに困難を覚えなかったAさんは、学部の頃から「f of x where …」といった英語表記(1)を自ら使っていました。「・・・の場合におけるxの関数f」といった日本語表記では「・・・」の部分が長くなると、もっとも大切な「xの関数」が最後にならないと出てきません。そういった日本語の語順による表記よりも、英語の語順での表記の方がわかりやすいし使いやすいと感じたからです。同じようにAさんは、「∀」(= for all) や「s.t 」(=such
that) の記号を先に書き、その記号の後に具体的な情報を付け加えてゆくやり方を好んでいます。周知のように、句構造において英語は主要部 (head) を句の冒頭にもってくるのに対して(たとえば “The girl sitting under the big tree”)、日本語では主要部が句の末尾にきます(「大きな木の下で座っている女の子」)。英語の語順の方が重要な部分(主要部)を冒頭に述べるので、情報処理がしやすいと考えられているわけです。
Aさんは、学ぶ数学の専門性が高くなってくると、概念はどんどん英語の語順で理解したし使用もしたそうです。Aさんは、大学院時代に英語で論文を一本書きましたが、その内容を日本語で執筆した修士論文に組み込む際には、英語での語順 ―これは、ある意味で「思考の順序」と言ってもいいかもしれません― を日本語の語順に変換する際に困難すら感じたそうです。このようにAさんは、数式や論理演算などに関する表現は英語の方が使いやすいと感じていますが、他の表現に関しての英語での表現力は自分にはそれほどないと述べました。言うまでもなくAさんにとって英語は外国語・第二言語でしかないからです。ですから、数学の中核的な表現に関してAさんは英語の順番(そして表記)で言語を使いますが、その他の部分では日本語を使っています。そのような言語使用は「英日のハイブリッド」と表現できるでしょう。
このように、数学の専門性が高まるにつれ英語での概念理解を行い英語表記を頻用するAさんですが、初等数学や算数ではまったく自分の中から英語は出てこないと述懐していました。もしAさんが例外的存在でないとすれば、もし将来日本の初等・中等教育で、数学教師が数学で英語を教えるとなった時には ―念のため付け加えておきますと、現在、そのような計画は国レベルでは検討されていません― 大きな混乱が生じ、そのつけは学習者が払うことになるだろうと筆者は考えます。
また、Aさんも単純な計算や暗算などをする場合は日本語での数字表現(いち・に・さん・・・・)を使います。これについてはほとんどの日本人数学者もそのようにしているとの数学者D氏も語りました。また、20年以上にわたりアメリカのカーネギーメロン大学で活躍するロボット工学者の金出 (2003) も計算・暗算は日本語で行うと述懐しています。ちなみに日本語は、たとえば20進法に基づく数字表記をもちいるフランス語などとは対照的に、数字表記が規則的で単純であり、「九九」という便利な暗唱体系も有しています。こういった有利な点をもつ日本語を第一言語とする数学者が、計算や暗算において日本語を使い続けるのは当然といえるでしょう。
次に、大学時代から数学の学びが必ずしも順風満帆であるようには感じられなくなったBさんですが、Bさんも、最初に数学で英語を学んだのは大学四年生であり、大学院から英語論文を読むことが増えたと語りました。その経験を振り返り、Bさんは、数学の定型英語表現などは最初に習っておきたかったが、その体系的な導入はなかったと述べました。学部の授業でもせめて用語を学ぶ時には英語を併記してもらえばありがたかったが、必ずしもすべての先生がそうしていたわけではなかったそうです。
Bさんも、英語と日本語では修飾関係の語順が異なることを十分に意識しています。Bさんも、数式や論理記号を使う場合は英語(の語順)の方が楽だと認識していますが、英語論文を読解する際は、やはりまだまだ英語そのものに習熟しきれていないので、修飾関係などを正確に理解するのに少し時間がかかると語っています。やはり長年にわたって思考様式となってきた第一言語(日本語)の影響は強いと私は解釈しました。Bさんは、数学の意味をきちんと理解するのにはやはり日本語の方がよいと考えてもいます。
大学院から数学教育に転向したCさんですが、Cさんの学部教育時代には、すべてを英語で教える数学の授業が一つあったそうです。その授業では、日本人教師がひたすら英語をしゃべっていたが、学生の多くは何を言っているかほとんどわからず、ひたすら板書を英語で書写するだけだったそうです。Cさんは、授業後にそのノートを見て自分で内容を理解しましたが、正直、時間の使い方としては非効率的であったと述懐しました。
まとめますと、数学者D氏も補足説明してくれたように、数学的表現や論理的な説明は西洋言語を基盤にしているものなので、英語だと数式でもそのまま読めるが、日本語だともってまわった読み方になることが多々あります。数学の学びが高度になり、複雑な数学的表現が多用されるようになればなるほど、日本人学習者でも英語的表現・表記を便利に使い始めると私は解釈しています。しかしそういった英語使用は数学的表現の中核にとどまっていました。通常の表現までも英語で行うとなると、日本人学習者は困難を覚え始めるようです。一つの報告に過ぎませんが、大学の英語による数学教育も表面的なものだけにとどまりましたし、数学をもっとも得意とするAさんでさえ、初等数学や算数ではほとんど英語が出てこないと述べていることからしますと、いたずらに「数学も英語で教えろ!」と授業の英語化ことには批判的検討が必要といえるでしょう。数学の意味の理解についてはやはり第一言語(日本語)の方が有利なのではないかと推測されます。
Ⅲ 数学を物語様式で語ることについて
数学の意味を理解させることに第一言語を使うとしても、それは意味をテーマとする物語様式で行うべきでしょうか。ここでいう物語とは、本プロジェクトの別の論考(「それぞれの教科の中の科学と物語」)で示した、ブルーナーによる物語様式 (the narrative mode) と科学規範様式 (the paradigmatic mode) との対比に基づく用語です。物語では、抽象的な命題ではなく、ある具体的な目的をもった登場人物(あるいは擬人化された主題)が、具体的な状況の中で具体的な問題に遭遇し、それを何らかの具体的な手段で解決するといった図式で話が展開されます。ブルーナーは、物語様式では意味の理解が主に促進されると考えています。しかし、そういった物語様式を利用して数学を教えること・学ぶことについては、院生三名で意見が異なりました。
三名の中で、おそらく数学をもっとも得意としているAさんは、学部時代に、線形代数のわかりやすい日本語解説を読んだことがあるものの、回りくどすぎて、かえってわかりにくかったと述べました。レベルの高い数学的内容が語られる場合は、自然言語では正確に語られない細かいところが逆に気になってしまい、物語様式や口語の語彙で語られるとかえって混乱するとAさんは感じたそうです。Aさんが求めているのは「頭にすっと入ってくる式」であり、情報を圧縮してくれるのが数学の良さなのに、かえってエピソードなどを入れられると冗長となり、わかりにくくなると考えています。
そうはいっても、大学の学部の数学系の授業の導入の部分では、教師がストーリー的な説明をしていたことをAさんは記憶しています(その記憶に関する否定的な見解をAさんは特には示しませんでした)。また、大学院では学部時代以上に、数学の意味を学生が討議する授業があったそうですが、Aさんはそこでも積極的に意見を表明したそうです。
またAさんは、教員採用試験対策で文系の生徒向けの模擬授業の練習をした際に、数学の学びを高度化させた自分は、数学が苦手な生徒の気持ちがわかりにくくなっていることに気がついたそうです。自分では理由を説明したつもりでも、そのレベルの説明では苦手な子にはわかってもらえないのではないかということを指摘されたAさんは、「苦手な子には、数学が得意な子なら3行で済むところを10行で語るような授業が必要なのかもしれない」とも述べていました。
Aさんとは対照的に、大学の学部時代に数学を少し難しく感じ始めたBさんは、授業内容を理解するために自主的に物語的な数学の解説本を読み、それを有益に感じたそうです。Bさんは、やはりある程度の理解と共に面白さを感じることが学びの出発点としては重要だろうと述べていました。
数学者D氏の補説によりますと、一見、抽象的な論証だけで構成されているように思われる数学にも、実は擬人的な表現(たとえば “x sits on …” ) などがあるし、数学が好きな人は、数学の処理方法を教えるだけでなく、意味を理解させることが大切だと思っているのではないかとのことです。数学の意味を理解させ、学習者が感じている困難点(たとえば、「マイナスとマイナスをかけるとなぜプラスになるのか」など)に共感を示すためにも、数学の歴史にふれることも大切だと考えているが、実際のカリキュラムでは、教えなければならない分量が定められているからなかなか踏み込めないのではないかと述べていました。
筆者なりにこの論点についてまとめてみますと、自然科学の論証の中で、もっとも抽象的であると思われる数学の学びについても、導入時に具体的な物語を使うことは有用であると考えられます。もちろん数学的表現ではない日常言語を使う物語様式の説明では、厳密にいえば不正確な点もでてきますから、いずれは数学的表現に橋渡しをしなければなりません。この点で、「翻訳者は裏切り者」という翻訳界の格言が思い起こされます。Xという言語をYという言語に翻訳する翻訳者は、「YがXの完全な反映ではないこと、しかしYとでも表現しないとXを直接知らない読者にはXの意味が伝わらないこと」を熟知してます。この葛藤の中で最良の妥協点を見出すのが翻訳者の仕事となるのですが、この翻訳関係は、数学的論証を物語様式で説明することにも当てはまるように思えます。数学的概念を日常言語で説明する数学者は、それが完全な数学的表現ではないことを熟知しています。しかし、それにもかかわらず概念の意味を伝えたいと願う時に、数学者は日常言語での物語的説明に踏み切るわけです。そうなると数学を理解すればするほど、数学を物語様式に翻訳することに抵抗を示すことも十分考えられます(Aさんはそのような段階にあるのでしょうか)。しかしそれを通り越して、数学者と非数学者それぞれの認知様式を理解するにいたると数学を物語様式でも語れるようになるのかもしれません。
しかし、ここで付記しておかねばならないのは、外国語・第二言語で物語を語ること(物語様式)は、外国語・第二言語で専門的な論証を行うこと(科学規範様式)よりもはるかに困難なことです。専門的な論証の表現は比較的限定されていますから、その習得にはそれほど時間がかかりません。しかし物語様式で説明をしようとすると、その登場人物や目的や問題状況として喩える対象など、表現は多岐にわたります。それは「木の枝にとまる小鳥を捕獲しようとするネコ」かもしれませんし、「AKBでトップの座を保っているアイドルが意図的に維持している他のメンバーとの人間関係」かもしれません(ご承知のように比喩は、聞き手にとって身近であったり興味深かったりすればするほど有効に働きます)。ですから、授業を外国語・第二言語で行うと、物語様式での説明、あるいは比喩などがすぐに減ってしまうことは一般によく知られています。通常の外国語話者・第二言語話者には、そこまでの広範囲な言語表現力がないからです。ここでも、いたずらな英語導入が学習効果に直結するといった考え方には警戒が必要であることが示されているのではないでしょうか。
Ⅳ 高校までの英語教育について
これらの院生には、高校までの英語教育についても私は質問をしました。数学という共通基盤をもつ学習者がどのように現在の中高の英語教育をとらえているかという問題意識からです。そこで浮かび上がってきたのは、英語教育の内容の底の浅さでした。
Aさんは、英語については中学校までは、ほぼすべて教科書本文を丸暗記することでテストの高得点をとっていたそうです。ですがそんなAさんも、高校でいわゆる5文型の文法が導入されるとつまずきました。もし英文法が数学のように十分に整合的な体系で、かつ、それが明晰な定義と共に教えられていたならわかったのかもしれないが、5文型は十分に論理的ではなく、その中途半端さにとまどったとAさんは考えているようでした。
Bさんは、中学でも高校でも英語は得意で、高校英語での文法にもそれほど困難は覚えなかったそうです。しかし高校英語の文法は、理解してみると「最終的にそれだけ?」という感覚で、内容の貧困さを感じ、「全体的に面白いのは数学だな」と思い始めたそうです。これには、高校の数学の先生の一人が、大学の数学のこともいろいろ教えてくれたことも手伝っているようでした。
Cさんも中高を通じて英語は得意だったのですが、英語の学びには面白みがなかったと感じていました。Cさんも高校での英文法を理解できましたが、「要は丸暗記したら終わり」ぐらいの内容としか思えず、その体系性に深さを感じることはありませんでした。英語の先生の中には、授業中の脱線の雑談が面白い人もいましたが、授業の本筋に戻ると英語は退屈でしかなかったそうです。勉強も英語は単語を暗記するだけが中心で「飽きた」というのがCさんの正直な述懐です。それに対して「高校数学はストーリー性のある流れがあって面白いと感じた」とのことでした。
これら三名の見解は、英語教育を専門とする私にとって、きわめて的確な指摘であるように思えます。Aさんが指摘しているように、英文法の5文型は、妥協的な学習文法の一つであり、その整合性は不十分です。用語の定義は、数学用語の定義と異なり曖昧ですし、そもそも英語教員は厳密な論証をする訓練を受けていない者がほとんどなので、数学を得意とする学習者にも満足できるような論理的に一貫した説明はあまりなされていないでしょう(筆者は、学部時代に理系科目を専攻した後に英語教師に転じた英語教師を何名か知っていますが、それらの英語教師のほとんどは明快な説明を得意とするという点で他の英語教師からは際立っています)。
ですからBさんやCさんが述べているように、高校で教えられる英文法(2)は、少なくとも数学の体系の面白さを知る者からすれば、非常に中途半端なもので奥行きのないものです。くわえて強調されるのが英単語の丸暗記ばかりでしたら、学習者が「面白くない」「飽きた」と思っても当然のことかもしれません。また私の問いかけに対する答えでは、三名とも、科学には見られない物語の多義性や多元的解釈の面白さを英語の授業では経験したことがないようです。これにはこのプロジェクトの別論考(「教科教育における「リアリティ」―音楽科・社会科・英語科について―」)で述べたように、多肢選択形式の問題への対策ばかり行うようになった英語教育が、物語様式の面白さを殺してしまっていることが絡んでいます。
もし三名が語るように、英語教育は体系的な論証においても、多義的・多元的な物語においても、学習者に知的な面白みを経験させることができずに、ひたすらに英単語を丸暗記させるばかり(加えて、せいぜい一部の学校で定型表現による「英会話」的な活動をやるだけ)でしたら、そこで培われる能力は、知的興味を喚起しないだけでなく、近い将来のうちにAI技術で代替されるものでしかありません。三名の述懐から英語教育関係者はいろいろと学ぶべきと私は考えます。
Ⅴ これからの課題
以上から、(1) 「数学を英語で教えること」、(2) 「数学を物語様式で語ること」、(3) 「高校までの英語教育」の三点についてまとめ、それらについての今後の課題 ( (1)’ - (3)’))を付け加えます。
(1) 数学を英語で教えることについてのまとめ
たしかに数学が西洋言語を基盤にして成立している以上、英語で数学的表現の中核を表記し理解することには確実な有用性があります。ですが、英語が外国語・第二言語でしかない日本人学習者にとって、数学の中核部分以外が英語で教えられることには言語理解上の困難の方が英語使用の利点を上回る可能性が高いようです。また、卒業論文や修士論文執筆を通じて、英語を通じての数学学習を経験した者も、初等数学や算数においては英語表現に慣れていません。日本の数学教育における英語使用は、英語と日本語のハイブリッド使用にとどめておくのが現実的なのかもしれません。
(2) 数学を物語様式で語ることについてのまとめ
物語様式で数学を解説することは、数学的概念理解が乏しい学習者に数学の理解の糸口を与え、面白さを見出させるための手段としては有効であるようです。しかし、数学的理解に長けた者にとっては、物語による数学解説は不正確で曖昧なものであるので、かえって抵抗を覚えるのかもしれません。ですから数学の物語化には数学教師の側で(自己)訓練が必要でしょう。安易な物語化は学習者に誤解を招きかねないからです。
(3) 高校までの英語教育についてのまとめ
少なくとも数学の体系的理解(科学規範様式)の面白さを知る者からすると、英語教育は知的な面白さを与えるものではありません。しかしそれは教育内容の違いからすれば当然なのかもしれません。とはいえ、英語が物語様式における知的な面白さを提供していないということは英語教育関係者が銘記すべきことでしょう。現在の英語教育は、きわめて底の浅い暗記科目であり、その基盤の上に近い将来にAIに代替可能と思われる定型的な技能訓練を行っているだけなのかもしれません。
(1)' 数学を英語で教えることについての今後の課題
HuとLei とLi
(Hu & Lei, 2014, Lei & Hu, 2014, Hu & Lei, 2017) は、中国の大学で、授業科目を英語で教える試みが、授業科目の内容理解だけではなく、英語力の点でも学習者の力を向上させていないことを明らかにしています。しかし、「授業を英語で教えていること」というのは、英語圏の民間会社が作成している大学ランキングの指標に使われているので、非英語圏大学の一部 ―ここには広島大学も含まれています―
が授業を英語で行うことの推進を大学の方針として掲げています。もしその方針が、現場の実情とは無関係に強行されれば、学習者にどのような事態がもたらされるかということについては、すでに国内外に先行事例もあるはずですから、それらの事例から、そして理論的考察から学び、思慮深く大学教育の方針を定める必要があります。
(2)’ 数学を物語様式で語ることについての今後の課題
数学教師が、授業の導入段階で数学を物語化して語るとしても、もしその教師が多義性や多元的解釈などについての物語読解の素養がなければ、その物語は教師が予期せぬ意味や解釈(つまりは誤解)を生み出し、学習者はますます混乱するかもしれません。このことは物語から数式や数学的主張を導き出す物語の数学化においても言えることですから、数学教師の仕事がもし数学的理解に長けた同好の士だけを相手にする仕事ではないのだとしたら、数学教師も科学規範様式(論証)だけでなく物語様式(ストーリー)についての素養を深める必要があるでしょう。いや、これは数学に限った話ではおそらくなく、もし私が別論考(「それぞれの教科の中の科学と物語」)で語ったように、すべての教科に科学と物語の両方の側面があるとすれば、どの教科の教師も、科学規範様式と物語方式の両方への継続的な関心が必要となるでしょう。そしてその二つの異なる様式の間を翻訳できる能力を開発するべきでしょう。いわゆる理系科目の教員がストーリーテリングについても習熟する一方で、いわゆる文系科目の教員は厳密な論証についても学ぶべきではないでしょうか。
(3)’ 高校までの英語教育についての今後の課題
現在の英語教育界の主な話題は、2020年を目処とした民間資格試験の導入であるように思えますが、これらのテストはどれも読解において多肢選択式を採択するものであり、多義的で多元的な物語読解を構造的に排除するものであることの問題性をもっと理解すべきであると私は考えています。もし今回の院生が指摘したように、現在の英語科には知的な面白さが欠如しているのだとしたら、それを面白いと思っている学習者と教師は何に喜びを見出しているのかという点について、社会学的な分析などが必要なのかもしれません。科学規範様式と物語様式への習熟でないとしたら、そこにはどんな知的喜びがあるのでしょうか。私の仮説の一つは、英語力は一種の「象徴的資本」として働き、英語テストの得点が、経済資本・社会関係資本・文化資本の獲得能力を示す社会的な指標として働いているのではないかというものです(柳瀬・小泉, 2015)。もう一つの仮説は、英語テストの得点はすでに諸権力を購入できる貨幣であるとみなされているのではないか(柳瀬・組田・奥住, 2014)というものです(3)。ここ数十年にわたり、英語科は改革の嵐に翻弄され、英語教育関係者が根源的思考力を失ってしまっているのではないかというのが私の懸念です(柳瀬・山本・樫葉, 2015)。これからさらに拡大するかもしれない社会的格差や、これからほぼ確実に進展すると思われれる労働市場へのAIの参入といった事態を受けて、英語教育には根源的な批判が必要だと考えます。
最後に、上では言い残した今後の課題を述べますと、教育界への今後のICT(あるいはAI)技術の導入については、たとえば「学習者のレベルに即した練習問題の提供はICT(AI)で、意味の理解を深めさせることについては人間で」といった方針が必要かもしれません。人間の認知についての理解を深め、教育においても機械がやるべきところと人間がやるべきところの違いについて具体的な方針を検討すべきでしょう。
以上を英語科の人間による数学科の人間との対話の報告およびそれに基づく考察とします。私としては、日頃深く話をすることがない異分野の人と語ることで、普段では考えられなかったことも考えられたのではないかという感想を付記してこの論を終わります。
注
(1) 正確に言うなら、 fと書けば必ず関数を表すわけではないので、「a
function f of x where …」が正しい表現となります。本文で示したのはすばやく筆記しなければならないノートなどでの略記表現です。
(2) 「文法ばかり教えるから英語ができるようにならない」という意見が強くなって以来、高校英語の科目には「英文法」はなくなり、英文法の扱いは学習指導要領では抑制的です。しかし、進学校などでは英文法が積極的に教えられているのは周知のとおりです。その教材は、旧態依然のものが多いように思えます。
(3) もちろんその他にも、第一言語とは語順も文法も発音も異なる外国語の即興的発話ができるようになるということは、まったく新しい運動技能の獲得としてもとらえることができますから、英語を楽しむ多くの学習者は、その技能獲得に快感を得ているのかもしれません。よく「私は英会話が好き」という学習者はいますが、彼・彼女らはこのタイプなのかもしれません。しかしそういった「英会話好き」の学習者も、一通り定型表現をマスターしたら、自分に話をする内容がないことに気づくし、周りも「ただ英語がしゃべれる」だけの人を特に求めてはいないことに気づくことも多々あります。
引用文献
新井紀子 (2010) 『コンピュータが仕事を奪う』日本経済新聞社
金出武雄 (2003) 『素人のように考え、玄人として実行する―問題解決のメタ技術』PHP
研究所
柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂 (2014)『英語教師は楽しい ― 迷い始めたあなたのための
教師の語り』ひつじ書房
柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』岩波書店
柳瀬陽介・山本玲子・樫葉みつ子 (2015) 「英語教育の「危機」と教育現場」『中国地区英
語教育学会研究紀要』45, 31-40.
Hu, G. & Lei, J. (2014). English-medium
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Higher Education. 67,
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Lei, J. & Hu. G. (2014). Is English-medium instruction
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Hu, G. & Li, X. (2017). Asking and answering
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classrooms: What is the cognitive and syntactic complexity level? In J. Zhao & L. Q. Dixon (Eds.), English-medium instruction in Chinese
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York: Routledge.
謝辞
「数学者D氏」と本文で表記しているD先生には、この対談の構想から実施にいたるまで大変お世話になりました。D先生の貢献の大きさから、D先生を共著者にすることも考えましたが、英語教育などに関する主張には私の見解が色濃く出ているので、その主張の責任者としての著者名には私の名前だけをあげることにしました。D先生には論文提出の最終段階で数学的表現などのチェックをしていただきましたが、言うまでもなく、この論文に残るすべての誤りは私(柳瀬)によるものです。また忙しい中、対談に協力してくれた大学院生のAさん、Bさん、Cさんにも心から感謝します。